読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

吹奏楽はゲンダイオンガクの宝庫

 これまで私は、吹奏楽のジャンルの作品は、例えばスーザの行進曲のようなものを除いては、ほとんど聴いたことがなかった。唯一、ひじょうに好きな曲として、ホルストの「吹奏楽のための組曲第1番」が例外的にあっただけだ(対位法が快感!)

 ところが、次男が中学生になって吹奏楽部に入ってから、その発表会(演奏会というべきか)に「親の務め」として何度か「ご臨席」するようになって、これまで聴いたことのないような吹奏楽のためのオリジナル曲を知ることになった。

 考えてみれば、この世界、新しい作品が次々と生まれているジャンルなのだろう。いくつもの団体が出場するコンクールになると、演目にはクラシックの編曲モノに負けないくらいのオリジナル曲が並んでいる。

 私はクラシック音楽の中でも、ゲンダイオンガクが好きな方だから最近作曲されたであろうオリジナル作品にさほど抵抗感はないが、ご子息・ご令嬢が吹奏楽団に所属していて、今日は晴れ舞台ということで「見学」に来た親御さんたちの多くは、ステージ上の我が子とその他大勢のメンバーが吹き出したとたんに、「なんざんすの、この騒音のような音楽は?」なんて思っているに違いない。決して耳に心地よい曲ばかりではないから。

 私も最初は「クラシックの名曲のアレンジものの方が聴衆のウケも良いだろうし、吹くほうも楽しいのではないだろうか」と思ったのだが、やってるほうはそういう軟弱な思いはないらしい。それに審査されるとなると、チャレンジ度も重要な要素になるのだろう。

 もっとも、指導者が自分の好きな作曲家のものばかり取り上げるので、部員たちが閉口しているケースも少なからずあるらしい。

 先日もしょうがないから、札幌地区予選・中学生の部のコンクールをキタラに聴きにいった。

 感心するのはステージの入れ替えの速さ!みんな明日にでも引越し屋のバイトを機敏にこなせそうだ。若者がきびきびと動き回る姿は良いものだ。

 我が子はホルンを吹いているが、ホルンという楽器は音がひっくり返りやすい。そのことは、過去のオーケストラ・コンサートでも十分に私は承知している(昔、札響定期でブルックナーの4番をやったときに、第2楽章でホルンの音が出なくなり静寂に包まれたときは、心からホルニストに同情した)。そういうわけで、冷静さを装いながらも、息子が息の長いソロの旋律を吹いている時には、「なんとかひっくり返らないでくれ。お前は酸欠でひっくり返ってもいいから、音だけはひっくり返さないでくれ!」と祈った。なんて良い父親なのだろう!自分でも感心してしまう。

 幸いソロを含め、ホルン・パートは大きなミスもなく演奏終了。

 帰宅した息子をさりげなく褒めてやろうと思ったら、審査員の講評でホルン・パートがずいぶん褒められたと、すっかり顔が天狗である。まったく、これだからダメだ。いろいろな教育方針があるだろうが、次男に関しては「褒めて伸ばす」というのは適していない。すぐに調子にのる。私には似ていない。

 なお、団体の成績としては金賞を逃した。

 親としては、もうそろそろ高校受験に向けてお勉強をして欲しかったから、正直ほっとした。でも、その後も相変わらず勉強はしていないという事実が確認されている。

 ところで、今回息子のいる中学の吹奏楽部が取り上げた曲名だが……忘れてしまった。曲名の断片は解るが……。確か新しい曲と言っていた。山野楽器でCDが出てないか探してみよう……。

 ついでにいうと、高校生の長男は天狗になりやすい次男とは対照的。しかし、音楽は「いま流行り」の、お父様にはわからないものを好んでいるようだ。


 宮部みゆきの「模倣犯」を読み終えた。最後は終わりに向けて急いでたたみかけすぎじゃないか?


生きざまを顧みる音楽…

 昨夜は、ちょっと思うところがあってシュニトケの「イン・メモリアム」(1972/78)のCDを聴いた(マルキス/マルメso。BIS-CD447)。

 この曲は、シュニトケが急逝した母を追悼する意味を込めて作曲した「ピアノ五重奏曲」を、指揮者のロジェストヴェンスキーに勧められて管弦楽版としたものである。私は、管弦楽作品が好きだという嗜好を別にしても、「ピアノ五重奏曲」よりも「イン・メモリアム」の方が優れた作品であると思うし、同時に「イン・メモリアム」はシュニトケの残した作品の中でも最高傑作の部類に入ると考えている。

 もともとは母の死を悼んで書かれたためか、5つの楽章から成るこの曲の終楽章(モデラート パストラル=田園風)は、オルガンがやさしげで慰めるような旋律を繰り返し繰り返し奏し続ける。その前の4つの楽章は、母の波乱の人生を描いたかのような音楽なのだが(実際に波乱だったかどうかは知りません)、終楽章の繰り返されるメロディーには、前4楽章の旋律の断片が、平安を邪魔するかのように絡みつく。

 これを聴いていると、人がまさに息を引き取ろうというとき(事故などで一瞬にして亡くなる場合は別だろうけど)、このような平安と、それを妨げる「嫌な思い出」が、薄れていく意識の中で交錯するのではないだろうかと思う。

 死ぬときに「走馬灯のようにそれまでの人生が再現される」とはよく言われるが、「イン・メモリアム」を聴いていると、それに通じるものを感じる。

 しかし、これは人間が死ぬときに限ったことではないのではないか、と私は思う。

 日々、嫌なこともあれば、何とかそれを解決しようとする努力もしている。抗しきれずに仕方なく受け入れざるを得ないこともある。もちろん、つかの間の幸福感もある。そして、慰めを求める。慰められて、また新しい日を過ごしていく。

 とすれば、私たちは「小さな一生」を繰り返して、人生としての「一生」を形作っているのではないだろうか?

 と、グダグダと書いたが、私は「イン・メモリアム」を聴きながら、作品の作曲動機は母の追悼ではあるが、聴く者は、意識的か無意識かはそれぞれだろうけど、この音楽の中に自分の「小さな人生」を顧みる、あるいは省みているのではないかと思うのだ。言い換えれば、そういう不思議な力がこの作品にはある(言ってること、解っていただけます?)。

 なお、「走馬灯のように」ということをもっと明確に描いた音楽に、ハラルト・ヴァイスのAirという10分ほどの作品がある(The Rest is Silenceという作品の一つの楽章)。ただし、このAirが、果たして本当にそういう人生最後の回顧を描いたものかどうかは、私には解らない(この曲についての情報がまったくないから)。でも、そう思えてならないのだ。この曲については、また別なときに、あらためて書かせてもらいます。

 と、表面上は難しいことを考えながら、今朝の山手線の女性車掌はかわいかったな、なんて思っている私。いかん、いかん、自分を省みなければ……

     

シュニトケ/真夏の夜の虚夢

 昨日、久しぶりに東京に戻り、一人暮らしの再開となった。

 このように聞くと、親切で良識のある方は「あらぁ、大変ね。寂しいでしょうに」と思うだろうが、それはもちろん当たってはいるのだが、単身赴任5年目ともなると自宅から赴任地に戻るときにも特に寂しいとは感じないし、むしろ一人でほっとするという感覚も起こるのである。自宅に居られずに心残りなのは庭のバラの手入れができないことだが、逆にCDはすべて東京に持ってきているので、久々に音楽を聴けるという喜びもあるのである。

 ということで、昨夜は音を大きめにして何曲か聴いた。

 そういえば、夏にちなんだ曲を全然聴いてないなと思い選んだ曲は、シュニトケの「真夏の夜の夢,ではなくて」(1985)である。

 私はこの曲を1988年頃に初めて聴いたが、とても親しみやすい良い音楽だと思った。これが私がシュニトケを知ることになった作品なのだが、その後彼のいろいろな作品を聴いてみると、驚くほど親しみやすかったり通俗的な旋律が登場するかと思うと、勘弁してくれというような混濁した非旋律的な響きもあり(それが彼の“多様主義”なのだろうが)、私としては親しくなりきれていない作曲家ではある。例えば、交響曲第1番第2楽章の前半4分少々は、むちゃくちゃエキサイティングでノリノリで大好きなのだが(逃げたサーカスの象が行進しているような音楽だ)、そのあとは好きになれないのだ。

 でも、「真夏の夜の夢,ではなくて」は全体を通してやさしく美しい作品(中間部で炸裂しちゃうけど)。この作品を私が聴いたときの放送では(FMで聴いたのだ)、「真夏の夜の虚夢」と呼ばれていた。個人的には、このタイトルの方が病的で好きなのだけど…。なお、昨夜聴いたのはセーゲルスタム指揮のもの。BIS-CD437です。

 次に聴いたのは、早くも夏に関係なく、ベリオの「ボッケリーニの“マドリッドの夜の帰営ラッパ”に基づく管弦楽編曲」。実は、この曲は私がシュニトケの「真夏……」を聴いたときの放送で同じく流された曲。

 原曲のテーマを巨大なオーケストラが精緻に、複雑に、華麗に演奏していく。きっと、聴いてる以上に、楽譜上では複雑なことが起こっているのだと思う。この曲、絶対にお薦め。私の持っているCDはベリオ自身がロンドン響を指揮したもので(たぶん他にCDは出てないだろうけど)、BMGクラシックス09026-68894-2です。ホント、お薦め。

 そのあと、ファリャの「三角帽子」とショスタコーヴィチの交響曲第15番という、驚くほど節操のない組み合わせで鑑賞(何か死語だね)し、聴き終わったあとにはサッポロ・クラシックの空き缶だらけ。まったく近頃の潰瘍患者は丈夫だこと。

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