読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

October 2007

侵略者の暗号メッセージ?

 ときおり思うのだが、新聞の「掲示板」欄というのは、かなりワンダーである。
 素人では思いつかないような、大胆なおねだりがあった りするのである。

 ほぅら、またあった。
 「譲ってください」のコーナー。

 「ウィンドウズ2000以降のパソコンを」って、かなり遠慮を知らない「お申し出」である。
 それでも、ちゃんと応える奇特な御仁がいらっしゃるのだろうか?

 そして、その次。
 「交通事故死の……」って、いったいなんだ?
 いったいなんだ?
 いったいなんだ?
 じゃあ、この掲載されている新聞も購読するなよ!って感じである。

 それよりも、何よりも、この人物(宇宙人の可能性も否定できない)は何を目的としているのだろう?
 よ~く考えると、笑っていられるどころか、ブラックホールのような深い深い不気味さを感じずにはいられない。

 何かの伝達メッセージじゃないだろうか?
 そうに違いない。

 そして私は新聞社に問いたい。
 こういうものの掲載基準ってどういうものなのだろう?
 こんな意味不明のもの、まさかフリーパスで載せているわけじゃないだろうな……

 
 さてと、ご要望にお応えして、私は交通事故死の記事だけ切り抜いた新聞を用意することにしよう。

 

訳者の贈り物

 以前に触れた、光文社古典新訳文庫のO・ヘンリ「1ドルの価値/賢者の贈り物(他21編)」について。

 O・ヘンリの作品については今から20年以上前に新潮文庫の全3冊を読んだが(大久保康雄 訳)、新訳であらためて読んでみた。

 驚いた。昔読んだことがある作品もかなり重複しているのに、すべてが初めて読むかのようであった。ただし、これは訳の違いではなく、単に私のメモリー不足による。

 光文社古典新訳文庫は芹澤恵 訳、収録作品は全部で23編。一方、新潮の方は3冊で46編が収められている。新潮と光文社を比較すると、カフカの「変身」の新訳を読んだときほどの差は感じなかったが(カフカは角川文庫と比較)、それでも日常的に使う日本語という感じで読みやすい。また、新訳では文脈から 読み取れるような言葉も、書かれていたほうがわかりやすいだろうという箇所では、略さずに丁寧に記述されているように思われた(だからといって表現がくどくなっているわけではない)。

 いくつか訳を比較してみると(題名の邦訳は、新潮/光文社)、

■One Thousand Dollars 「千ドル/千ドル」

 ◆新潮文庫
 「こいつは、まったくもって始末のわるい額ですよ」彼は、おだやかに弁護士に向って説明した。「これが一万ドルなら、景気よく大見得切って散財し、大いにぼくの株を上げることができるかもしれませんがね。五十ドルだって、それほど厄介ではないでしょう」。

 ◆光文社
 「はっきり言って、実に始末に悪い額ですね」ジリアン青年は弁護士に向かってにこやかに説明した。「一万ドルなら、ぱっと景気よく散財して、ぼくの株を大いにあげることもできたかもしれない。逆に五十ドルなら、これまたこんなふうに使い途に困ることもなかったでしょう」 

  ※最後の一文は、新潮ではちょっとわかりにくい。新訳ではスッキリ。


■A Sacrifice Hit 「犠牲打/犠牲打」

 ◆新潮
 この編集システムは大成功で、広告料から推測してみると、まさに驚嘆すべきスピードで部数が増加しつつあった。

 ◆光文社
 この編集システムは、これまでのところ、まず大成功を収めているといえるだろう。目下、「ハーンストーン・マガジン」は、広告収入の増大に先導される恰好で、その発行部数をまさに驚異的なスピードで伸ばしているところである。

  ※同じ文とは思えないほど、新訳は丁寧。


■The Lost Blend 「うしなわれた混合酒/幻の混合酒(混合酒には「ブレンド」のルビ)」

 ◆新潮
 彼が廊下にもどってきたとき、キャザリンはちょうど階段をのぼりかけていた。
 「まだ変わったニュースはないんでしょう?ラントリーさん」からかうように笑いながら彼女は言った。
 コンは、さっと彼女を床からかかえあげて抱きしめた。
 「変わったニュースはね」と彼は言った。「ぼくらが結婚するということです」
 「ねえ、おろしてちょうだい」彼女は腹立たしげに叫んだ。「さもないと、あたし――まあ、コン、どこで……ねえ……いったいどこで、そう打ち明けるだけの勇気をつけてきたの?」

 ◆光文社
 廊下に出ると、ちょうどキャサリンが裏階段をのぼっていこうとしているところに行き合わせた。

 「やっぱりお変わりないんでしょう、ラントリーさん?」キャサリンはからかうように笑みを浮かべて言った。
 コン・ラントリーはいきなりキャサリンを、足が床から浮くほど高々と抱きあげ、そのまま抱き締めた。
 「変わったことといえば――」とコンは言った。「ぼくたちが結婚することになったってことぐらいですね」
 「ねえ、降ろしてちょうだい!」キャサリンは怒ったような声で言った。「さもないと、あたしの……ちょっと待って、コン。あなたがそんなことを口にするなんて、いったい全体……そうよ、いったい全体どこで、それだけの度胸をつけてきたの?」

  ※あまり差はないが、流れはやはり新訳の方がよい。


■Transients in Arcadia 「桃源郷の短期滞在客/楽園の短期滞在客」

 ◆新潮
 マダム・ボーモンは、ホテル・ロータスが歓迎したがる客の一人であった。ホテルの従業員たちを即座に奴隷にしてしまうような、優雅なものごしに、その気品ある姿が、さらにしとやかさと美しさとを添えていた。

 ◆光文社
 マダム・ボーモンは、ホテル・ロータスが歓迎する類の客だった。選ばれた人間特有の洗練された優雅な物腰に気品あふれる容貌、そこにしとやかさと心優しさが備わっていたものだから、ホテルの従業員たちはたちまちマダムの奴隷になった。

  ※これも新訳の方がやわらかい。


 という具合である。


 新潮文庫の訳も、O・ヘンリの原文のためなのか、さほど古さを感じさせない(「桃源郷」とはあまり言わないけど)。ただし、日本語の流れとしては「赤と黒」の場合と同様に、新訳の方が自然である。あとは個人的な文体の好みということになるのだろう。


 それにしても「賢者の贈り物」は、いい年になった私でも、いまだにジーンとくる。年齢に関わらず、持って生まれた純な心というのは失われないものだということが、自らを実験台にして証明できた。

 でも、確かに髪の毛は伸びてくるけど、時計の鎖はどうしようもないな……


夜に出歩くと危険だよ……

 ハラルト・ヴァイス(1949- )の「Reise in die Nacht」。aa0fe6b5.jpg 英語名では「Journey into the night」。日本語に直訳すると「夜への旅」というところなのか……

 映画のための音楽で、1999年に作曲され、 2000年にフィルムへの録音が行われたようである。 曲は大きく4つの部分に分かれており、パート1が「最初の旅」を含む4曲、パート2は「第2の旅」と「第3の旅」を含む4曲、パート3は「Katharsis」という題の1曲のみ、パート4は「最後の旅」と「エピローグ」の2曲で、指折り数えてみると全体で11曲ということになる。全曲の演奏時間は約57分。

 全体的に「夜」のイメージどおりの雰囲気の音楽だが(すっかりタイトルでそう感じ切ってしまっている私)、決して「闇、闇」しているだけではない。不安、感傷、慰めといった空気に支配されているが、旋律はとてもなじみやすい。 d956ceee.jpg

 第1曲「プロローグ」でカラスの鳴き声、夕べの鐘が聞こえる。この夕方から始まり、夜へと時間は進む(第2曲の、かつてどこかで聴いたような懐かしくちょっと切ないメロディー!)。

 全曲中、最も聴きどころとなるのが第10曲「Last Journey」。CD解説に楽譜が載っているが、切ない祈りのような「Dona nobis pacem」が女声で歌われる中、自動車のクラクションやらタイヤのきしむ音、飛行機の音、ロケットの発射音など混沌と、パニック的な状況を作り出す(ステレオ効果抜群!)

 映画の内容についてはCD解説にも大意が書ed478bec.jpgかれているので、購入された方はぜひ「自分で」読んでいただきたい(←秘技「逃避」。だって私はうまく訳せませんもの)。

 CD番号はWergoのSM10892(輸入盤)。
 




  編成は声楽のほか、打楽器、Mundharmonika(何だろ?)、ピアノ、キーボード、イングリッシュ・ホルン(1)、トランペット(1)、ホルン(3)、テューバ(1)、弦楽四重奏(このCDではノモス弦楽四重奏団が演奏)。

 

  それにしても、ハラルト・ヴァイス、いい仕事してるなぁ。





凝縮された「一生」という時間

 今日取り上げるのは、ハラルト・ヴァイス(1949- )の(代表的?)作品をピック・アップして収録した「The Rest is Silence」というオムニバス盤。CDのサブ・タイトルは「Ein Portrait」。

 このCDには、すでに本稿で取り上げた「Ade」や「Arche」、「Wintergesange」から、また今後紹介したい「My Wooden Dancing Shoes」からの音楽 が9曲、そのほかに4曲が収録されている。
 ここでぜひとも紹介したいのが、このCDのタイトルにもなっている「The Rest is Silence」からの「Air」という作品である。CDはWergoのWER6201-2(輸入盤)。

 この曲について、私が持っている情報はCD解説の中の短い文章だけである。
 それによると、1990年に作曲され、Raum-Klang-Theaterで初演されたということ。それと、ヴァイスのコメントだけである。そのコメントには、この曲の意味や、どのような舞台を伴うものなのかは触れられていない。したがって「Air」のみならず、全曲についてもどのような全貌なのかは解らない。

 「Air」についての私の勝手な推測。
 これは人の誕生から臨終までを描いたものではないかと思う。

 霧が立ち込めるような雰囲気の低音の中、三味線の伴奏を伴った日本舞踊的な歌(何て言ったらいいのかわからない。芸者さんがお座敷で踊るときのような音楽?いやぁ、芸者遊びしたことがないからわからないなぁ)。そこでは「Mukashii」、つまり「昔ぃ~」と歌われる。これは何度か出てくる。

 光が差してくるような、またどこか懐かしい曲調になり、金属の(というかガラスのような)打撃音。続いて「Hello、Hello」の声。
 私はこれが出生の瞬間を表現しているように感じられる。

 時を刻むようなリズム(後半で再び出てくるときには乱れている)。恐怖を呼ぶような叫び声。かわいらしい子供の声によるセリフ。郷愁を誘う海鳥の鳴き声。

 低音は、「Ade」の第2曲のように、通奏されたまますべての音を支え続 ける。
 最後の輝きを象徴するかのような金属の高い音。
 それに続く、妙鉢(写真)のような音の一打。
 故人を称賛するような合唱(だが、それははかなく遠くから聞こえる)。
 最後まで残る低音の持続音……

 人が亡くなるとき、それまでの人生の出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡るというが、私はこの10分ほどの作品が、その最後のときの走馬灯を描いているように感じられるのである。三味線を伴ったおばさんたちの歌が、「昔ぃ~」と入るのも、それを意味しているのではないだろうか?ヨーロッパでも「走馬灯」の概念があるのかどうかは解らないが……

 最初に聴くとちょっと不可解。しかし、繰り返し聴いているうちに「人生って」とまで考えさせられる曲である(なぁ~んて、実は全然作曲の意図は違ったりして……)。

 どんなものかは解らないが、この曲の全体を聴いてみたいものである。

様々な別れのシーンの万華鏡

 ハラルト・ヴァイス(1949- )の「Ade(アデー)」は1986年から88年にわたって作曲された。初演は88年にハノーバー行われている。
 Adeというドイツ語は「さようなら」という意味で、この曲のタイトルを邦訳するとしたら「別れの曲」といった感じになるだろう。
 そしてこの作品は、いくつかの「別れのシーン」をテーマにした舞台劇のための音楽である。この公演では「言葉は一つの手段に過ぎず、緻密に構成された音楽だけではなく、象徴的なイメージ、会話や歌の響き、動的効果、ジェスチャー、照明や音響効果が、一体となって聴衆の感覚に作用する」のである。

 全曲は40分ほどで、10の曲から構成される。
 1. Heimkehr(帰郷)
 2. Tagtraum im Verborgenen(秘密の白日夢)
 3. Elegie(哀歌)
 4. Spring Tanz(春の舞曲)
 5. Hymme(賛歌)
 6. Tanz der Kobolde(コボルデの踊り)
 7. Arie(アリア)
 8. Die Rufe der Demaokierten(噂の暴露)
 9. Lament(悲歌)
 10. Abgesang(別れの歌)

 右の写真はCD解説書に載っているものだが、例えばこの写真の話 としては「とても背の低い2人の人物。彼らは一般社会の中には受け入れられないグループに属するとされる。というのも、そのグループは世間でいろいろな問題を起こすからだ。この2人はそんな人間ではない。でも、一般に知れ渡っているグループの位置付けのせいで彼らの立場というのは強く拘束されるのである」と大意が述べられている(ただし、どの曲に該当するのかは不明である)。

 作品中、もっとも時間が長く、またストーリー性を感じさせるのが第2曲である。この曲は、いきなりお祭り騒ぎのようになり、その一群が遠ざかって行くように終わるが、それがまた不思議な味わいを残す。
 また、第3曲の女声の重唱は極めて美しく切ないメロディー。これは多重録音で録られていると思うが、何度聴いても何重唱になっているのか私にはわからない。
 第6曲は、私のイメージとしては、ドイツのストリート・オルガン風。あるいは、メリーゴーランド風。コボルデとは家の精、または森、湖の精のことで、人間に慈悲を施すとされているが、侮辱されると陰険な仕返しをするという。曲の最後はリズムだけがむなしく残る。これってどこかで耳にしたことがあるなと感じていたら、ある日通勤途中に解った。JRの電車の先頭に乗っていたのだが、ATC(自動列車制御装置)が働いたときに運転席で成り続ける警告音とそっくりである。

 第7曲「アリア」は、「Witergesange」の第6曲「アリア」の異稿。ただし、「Witergesange」では男声(ヴァイスの声)で歌われていたが、この曲では女声によって歌われる。

 ヴァイスはこの劇について語っている。
 「私はプログラム・ノートを必要としない公演を行いたい。あなたの感性を呼び起こし、劇の世界に入りこみ、2時間後の終演時にどのような気持ちになっているかを、気に留めて欲しい」と。

 楽器編成は声楽陣、打楽器群、クラヴィーア、シンセサイザーのほか、弦楽四重奏が加わる。
 CDはwegoのSM1077-50(輸入盤)。演奏はノモス弦楽四重奏団他。ヴァイスはシンセサイザーとパーカッションで演奏に加わっている。

 個人的な話であるが、このCDを買ってすぐ、家で聴いていたあと、当時4歳だった息子がレゴ遊びをしながら第6曲「コボルデの踊り」の旋律を口ずさんでいてびっくりしたことがある。わが子ながら、たいしたものだと思ったものだ(音楽的才能があるのかどうかはわからないが)。

 あぁ、それにしても私の周りには慈悲精神を失ったKobordeばっかりね……

現代の「箱舟物語」

 ハラルト・ヴァイス(1949- )が1983年から84年にかけて作曲した「Arche」は音楽劇(?)のための作品。84年8月にフランクフルトで初演されている。
 Archeとは「箱舟」のこと。
 「箱舟」といえば、すぐに頭に浮かぶのは「ノアの箱舟」の話である。

 「ノアの箱舟」の話は、アダムとエバの子孫であるノアが、00f61f11.jpg 主に「正しい人」と認められ、洪水が起こるから舟を作って中に入るように、という啓示を受ける話である。この話は旧約聖書の「創世記」の第7章から記述されている。洪水が起こったのはノアが600歳の2月17日、水が引いたのは601歳の1月1日である。舟に乗り込んでいたノアたち(一つがいの様々な動物たち)は水が引いた後に舟から出て、「生めよ、増やせよ」となるわけである。

 私が通った大学はキリスト教系の学校で(入るまでよく知らなかったが)、教養の授業には宗教学(もちろんキリストe973b4bd.jpg教の)というのがあり、聖書を買わされた。
 在学中は聖書を開いたことなどほとんどなかったが、卒業 後にこの大歴史物語を読んでみた。登場人物が多く、また500歳で子供を生んだとかわけのわからない記述もあるが(たぶん「年」の概念が今とは違うのだろう)、とても興味深いものである。

 なお、ご存知だとは思うが、旧約聖書はユダヤ教の聖典であり、キリスト教にとっては旧約、新約の両方が聖典である。ユダヤ教では、人間の形をしたイエスが神の子である0a15191d.jpgということは認めないので、新約聖書は「存在し得ない」ものである(旧約、新約の「約」とは、神との「契約」を意味する)。
 また、学校で週に一度、礼拝の時間というのがあった。牧師様のお言葉を聞き(「神父」というのはカトリック教の司祭のこと)、讃美歌を歌うのである。最初の頃は暇つぶしに(失礼!)出席していたのだが、私の歌う讃美歌は、周囲の者から「天使の歌声」のようだと言われたものだ。ただ、一つだけ惜しいのは、周囲の者の誰一人として、実際に天使の歌声というのを聞いた経験がないことであった。この礼拝の時間はやがて、私の「早飯」の時間に替わった。
 そういえば、礼拝の時間にギャグで数珠を手にした奴がいたが、噂によれば退学処分とな 7cfd39b6.jpgったそうである。こんなことで人生を棒に振るなんて愚かしいことだが、学校側もキリスト教の精神で「汝、左手に数珠を持つならば、右手にも数珠を与えるべし」なんて気の利いた配慮をしてほしかったと思う。

 さて、ドイツ語で「ノアの箱舟」は「die Arche Noahs」であり、「Arche」だけならば単に「箱舟」である。

 「Arche」と題されたヴァイスのこの劇は(写真はCDの解説書に掲載されてるもので、実際の公演場面であると思われる)、おそらくは直接聖書の物語を取り扱ったものではなく、箱舟物語を現代に当てはめたものであると推測される。ただし、CD解説書を読んでも(眺めても)よく解らない(私の語学力では)。なお、副題として 「EIN STUCK MIT PROLOG ABER OHNE FINALE」(英訳ではA PIECE WITH PROLOGUE BUT NO FINALE)と書かれている。
 作品は全体で約60分。2つのパートに分かれ、ほぼ全曲を2分する。
 楽器編成は、org1,pf2,keyboard2,ob2,fg1,sax(cl)1,hrn2,,trb2,perc3,Electric-vn1,va2,vc2である。また声楽陣は合唱のほかに、役をあたられた独唱群が配置される(そのなかにはノアの役もいる)。
 効果音も交えた作品だが、現れるどの旋律もたいへん親しみやすく、ときにドラマティック。そして、余韻を残したまま「終わりがないように」終わる。
 
 CDはwergoのSM1060-50(輸入盤)。ライヴ録音のため、ときおり音が濁るがさほど気にはならない。ダイナミックレンジは広い。


H.ヴァイスの「冬の歌」

 ドイツの“ミュージシャン”、ハラルト・ヴァイス(1949- )の作品。3f320e26.jpg
 この人の作品は「テキトーにつかみで」冒険精神をもって購入 したCDで知ったのだが、それがこの「Wintergesange」(ウムラウトは省略。ドイツ語表記については以下同じ)であった。

 彼は作曲、ヴァイオリンを学んだが、のちにポップスに転向、その後、ドイツの劇場専属作曲家となったほか、打楽器の教授を務めた。1973年以降は作曲、音楽劇企画、映画などの分野で活躍している。

 彼の音楽はミニマル・ミュージックの流れを汲んでいるが、そのパターン・テクニックを舞台芸術に反映させている。また、ジャズやロックを演奏していたときの経験や、1960年代半ばに出会ったインド音楽への関心が盛り込まれている。

 この「Witergesange」にしても、メロディーラインははっきりしていて親しみやすく、民俗的でもある。その素材はどこかマーラーを思い起こさせる。全体を通じて思うのは、ヴァイスの音楽は、ただ甘美なだけではない“ヒーリング・ミュージック”のようである、ということだ。目の前には不思議な音響空間が広がり、聴くものはその中に浸らされる。

 「Wintergesange」はすべてヴァイスによって演奏されている。器楽も声も。すなわち、これは多重録音によって作られた作品である。

 録音はひじょうに良い。音質も左右の分離も。故・長岡鉄男氏がどこかの音楽雑誌に「優秀録音」としてこのCDを取り上げていたほどである。

 「Wintergesange」が書かれたのは1984年から86年にかけてで、1986年12月に放送初演されている。曲は7つから成っており、各曲のタイトルは、

 1. WiegenLied (子守唄)
 2. Kasper tanzt nicht mehr (道化師はもう踊らない)

 3.  Versteigerung eines Traumes (夢の競売)
 4.  Thema fur Carolin (キャロリンのテーマ)
 5. Umkehr (帰還)
 6. Arie (アリア)
 7. Epilog (エピローグ)
である。

 終曲以外には「言葉のない歌」が入るが、曲を解釈す る手助けとしてこれらのタイトルが付けられている。それは、ドビュッシーが自作を理解する助けとしb7d8e73f.jpg て標題を付けたのと同じ考えだという。
 全曲の演奏時間は45分ほど。

 CDはWergoのSM1066-50。彼のほかの作品もそうであるが、聴いた後、不思議な感覚が残る。

 ♪

 今朝のニュース映像の話。
 民主党の菅氏が厚労省に「押しかけていった」映像が流れていた。
 「これより中へは入れません」と止める厚労省職員。
 ところが菅氏は「国会議員だぞ」とか「元厚生大臣だぞ」と、無理やり入ろうとしていた。
 いくらなんでも、あまりにも非ジェントルマン的である。「国会議員」や「元大臣」でない私が同じことをやったなら、すぐに警備員に捕らえられるだろうし、それ以前に取材のためのマスコミなんか待機していてくれない。

 でも菅氏の振る舞いは、主義主張を直談判するために役所のトップの部屋に押し入ろうとする「実力行使する変人」の突入と大差ない。(「実力行使する恋人」だったら……やっぱり怖い)。

 疑惑を問いただすにしても、もっと「議員」らしく、あるいは「元大臣」らしくしてほしいものだ。パフォーマンスの要素もたぶんにあるのが見えみえだが、そうだとしたらなおさらマイナスイメージの無礼な振る舞いだった。

行こう、行こう、火の山へ♪

 「フニクリ・フニクラ」は、その有名さと親しみやすさからイタリア民謡と思われることが多い。
 私なんかは、この旋律を耳にすると、なぜか幼少期のことを思い出してしまう。
 記憶から欠落しているが、その昔、イタリアに行ったことがあるのだろうか?

 いや、おそらくは、「おかあさんといっしょ」か何かのなかで、歌のお姉さんが歌っていたのを繰り返し耳にしてと刷り込まれたというのが関の山だろう。「アイアイ」を聞くと、お猿さんにフレンドリーな気持ちになるのと同じように……

 リヒャルト・シュトラウス(1864-1949・ドイツ)は「フニクリ・フニクラ」を民謡と勘違いした。

 彼が交響的幻想曲「イタリアより」Op.16(1886)を書いたとき、旅行先のイタリアで耳にした「フニクリ・フニクラ」を民謡だと思い、終楽章の「ナポリ人の生活」でその旋律を用いたのであった。

 しかしながら、「フニクリ・フニクラ」はイタリアの作曲家ルイジ・デンツァ(1846-1922)が1880年に書いたCM曲である。ヴェスヴィオ火山にフニコラーレ(登山電車)が作られた際に、その宣伝のために、建設したアメリカの会社から依頼されて作曲したのがこの曲というわけである。
 ということは、勝手に旋律を使ってしまったR.シュトラウスは、著作権違反かなんかで訴えられなかったのだろうか?

 ところでデンツァという人は、実のところ多くの歌曲を書き残しているという。彼は1879年にロンドンに移り、歌唱の教師として知られたというし、作曲家としてはイタリア民謡風の歌曲を600曲ほど残しているという。イタリア民謡風ってことは、まぁ「フニクリ・フニクラ」にしても民謡と間違えられても仕方ないということか。逆を返せば、それだけ民謡風の作曲テクに長けていたということになるのだろう。
 
 さて、R.シュトラウスの交響的幻想曲「イタリアより」――彼にとっては初期の管弦楽作品となる――が1887年に初演されたときには終楽章が聴衆に大きな興奮を呼んだそうだが、それは賛否両方の声であった。「フニクリ・フニクラ」の旋律を使っているという問題ではなく、その大胆な管弦楽法のありかたが問題になったようだ。
 曲は、「カンパーニャにて」「ローマの廃墟にて」「ソレントの海岸に82670f51.jpgて」「ナポリ人の生活」と題された4つの楽章から成っている。

 CDの数は多くないが、ジンマンがチューリヒ・トーンハレ 管弦楽団の演奏を、私は聴いている(めったに聴く曲じゃないけど)。
 2000年の録音。アルテノヴァ74321 77067 2(輸入盤)。カップリング曲は交響詩「マクベス」Op.23。

 さて、同じく「フニクリ・フニクラ」を扱った作品に、イタリアの作曲家アルフレード・カセッラ(1883-1947)の、その名もずばり、狂詩曲「イタリア」(1909)がある。
 この曲はシチリアとナポリの民謡を土台としているというが、そのなかに「フニクリ・フニクラ」も含まれている。やっぱり「フニクリ・フニクラ」は民謡化してしまっているということか?この曲では、後半に「フニクリ・フニクラ」が、R.シュトラウスの用い方より原型をとどめた姿で現れる。
c8d7914f.jpg  こちらの曲で私が聴いているのは、フロンタリーニ指揮モルダヴィアン国立交響楽団(どこにあるのでしょうね)のCD。輸入盤でARTSの47211-2。1995年録音。カップリング曲はレスピーギの「風変わりな店」。実は、「風変わりの店」が聴きたくて買ったCDに、カセッラの曲も入っていたというわけ。
 
 どちらの曲も「フニクリ・フニクラ」の旋律が出てくると、何と言うか、体の力が抜けてどうでもいいやって気分になる。
 というのも、自動的に「行こう、行こう、火の山へ!」が頭の中で沸騰するから。 
 う~ん、イタリアの人ってやっぱり陽気なのね、という感じだ。
 恐るべし、デンツァ!

 テナー歌手が真剣な笑顔でこの歌を歌っている場面を、いつぞやかTVで観た。「千の風になって」の歌手である。
 すまないが、なんか恥かしい気持ちになった。

買えない腹いせの合理化

 再びかつてのNHK-FM放送の話。

 13:00からの「ホームコンサート」が15:00で終了。
 そのあとのクラシック番組は17:30から「夕べのリサイタル」。35343b38.jpg この番組は国内の奏者(これがクラシック以外ならアーティストなんていうんだろうな)の演奏を流すもので、独奏曲や室内楽曲が主体。この番組で私が知った作品の1つにC.P.E.バッハのトリオ・ソナタWq.162がある。
 20:00からは「海外の音楽」。海外の演奏会のライブ録音を流すという貴重な音源の宝庫であった。なお、金曜日は20:05からは「ステレオ・コンサート」(のちに「FMコンサート」)という番組で、確かLPを流すものだった。
 23:05からは「夜の調べ」。テーマ曲はボロディンの弦楽四重奏曲第2番の30c0fa81.jpg 「夜想曲」で、一日のけだるさを感じさせる見事な選曲であった。
 ボロディンの弦楽四重奏曲第2番ニ長調(1881)の第3楽章「夜想曲」は、まさに夜を想うといった風情の有名曲。CDをお持ちでない方は一家に一枚備えあれ!特にお薦めの演奏は指定しませんけど……

 ところで、あの「家庭音楽鑑賞」は1977年の番組改編で「音楽の部屋」に名称が変わり、晴れてステレオ放送になった。また、同じく「ホームコンサート」は「音楽のすべて」に変わった。
 この頃になると、私も高校生活で疲れ気味で(学校が遠かったのだ)、また音楽よりずっと好きな女の子ができて(前に「幻想交響曲」の日記で触れたけど)、あまりFMを聴かなくなった。だから、それぞれのテーマ曲が全然記憶にない。私ったら、浮き足立っていたのね……

 話は少し戻るが1975年頃にヤマハがオーディオに992e2e65.jpg 進出してきた。
 そのプリメインアンプは実に洗練されたデザインで、透明なファンクションキーはバックライトでイエローやグリーンで光り、それはそれは美しいものだった(「黄色や緑」と書かないところが、筆者のミーハーさを表わしている)。
 確かこのオーディオのCMに出ていたのが、デビューしたてのかたせ梨乃だった。美少女だった。こんな大女優になるなんて思わなかったけど。

 こんなアンプを見ると(音がどうかは私は知らなかったが、評判は良かったと記憶している)、マッキントッシュのアンプがダサく思えた(高くて買えるわけないが)。札幌のヤマギワ・シ6e8a34b9.jpg ョールーム(今はゴルフ・ショップになってしまった)に展示してあったマッキントッシュのアンプを見たときには、マッキントッシュ・ブルーといわれるブルーのイルミネーションにうっとりしたものだ。でも、マッキントッシュのアンプはボタン類が田舎臭い。写真をみてもお解かりのように、現在の製品も頑なに田舎臭いボタンである。田舎者の私が言うのだから、けっこう間違いない。この正当な偏見で、私はマッキントッシュに憧れるのを止めた。
 でもなぁ、現代人はマッキントッシュと言えばコンピュータ、マックと言えばコンピュータかハンバーガーしか思い浮かべないんだろうなぁ。

 というわけで、買えもしないものにあれこれ想いを寄せていた私は、なんとロマンティックな青年だったのだろう!(いまや成年)。ときには自分がイソップ寓話の「すっぱいぶどう」の狐のように思えたけど。
 あの頃はいい時代だったなぁ。

 先日、「懐かしのテレビラジオ録音コレクション」というページ81da29eb.jpg を発見。懐かしいカセットテープの写真が載っていた。私が愛用していたものを転載させていただきます。

 FM放送の話はこれで終わりかって?Non,non,non!
 土日の番組の話が残っていますのよ!

今宵「赤と黒」で……

 スタンダールの「赤と黒」(上巻)を読み終えた。
 お気に入りの“光文社古典新訳文庫”のものである(野崎歓 訳)。
 私にとっては初めて読む小説で、若者と貴婦人との許されざる愛の物語かと思っていたら、単なる恋愛小説ではないことがわかった。
 舞台はナポレオン失脚後のフランス。ブザンゾンという地名が出てきたりして、「ああ、小澤征爾はブザンゾンのコンクールで優勝したんだっけ」とか、久しぶりにベートーヴェンの「英雄」を聴いてみようかなどと、余計なことを考えてしまう(私の個人的な勝手な思考です)。

 この光文社古典新訳文庫は、前にも書いたが訳がすばらしい(この「赤と黒」の訳も、流れるような日本語でとても読みやすい)。それは“新訳”の狙いで当然といえば当然なのだろうが、さらにすばらしいのは、どの本でも翻訳者による解説やあとがきが実に丁寧でひじょうに有効なガイドとなっている点である(「カラマーゾフの兄弟」の解説はまさに論文である)。
 
 ところで、この小説の舞台となった時代といえば、ちょうどベルリオーズがやんちゃをしていた頃だ。ところが、フランスの作曲家であるベルリオーズがナポレオンをテーマにした作品はあるのだろうか?私は知らない。その頃には、ナポレオンを扱うこと自体がタブーになっていたのかも知れない。ベートーヴェンには第3交響曲「英雄」にまつわる逸話(当初は「ボナパルト交響曲」となる予定だった)があるのとは対照的である(もっとも、「英雄」が書かれている時にベルリオーズが生まれたという時代の差がある)。
 ベルリオーズの作品でナポレオン時代に関連するものとして「葬送と勝利の大交響曲」がある(Op.15。1840年作曲)。この曲は七月革命10周年に、革命戦士を追悼するために政府から依頼されて書かれたものである。私はドンディーヌ指揮パリ警視庁音楽隊の演奏を聴いている(ときどきだけど。1976年録音。カリオペCAL6859(輸入盤))。

 「赤と黒」の下巻は12月刊行予定ということで、今は同文庫のO・ヘンリ「1ドルの価値/賢 75e3440b.jpg 者の贈り物」(芹澤恵 訳)を読みはじめた。
 O・ヘンリは大学時代に新潮文庫のものを読んだが(全3巻)、この機会にもう一度読むことにしたのだ。
 なぜ大学時代に読んだかというと、英語の授業のテキストに「警官と讃美歌」があって、その訳文を求めるために買ったのだ。ところが面白くて、結局全3巻読んでしまった。新しい訳についての感想はまた後日。

 そういえば、私が子供の頃に住んでいた街にバー「赤と黒」というのがあった。
 昼間、その前を通ると、みすぼらしい小さな平屋の一軒家だった。
 いま小説を読むと、レナール邸とのギャップに悲しくなり、私とは関係ないながらも思い出し泣きしてしまいそうである。
 それでも、当時のお客さんはあの店の中で楽しいひとときを過ごしていたんだろうなぁ。

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