読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

December 2007

♪ポッ、ポッ、ポォーッ、

 ポッポォーッ、猫が恐いか、そら逃げろぉ~……02a715c1.jpg
 ということで、本日はポーの「黒猫/モルグ街の殺人」(小川高義 訳。光文社古典新訳文庫)を取り上げる。
 年末の、しかも大晦日の気分に実にふさわしい話題ではないか!

 本題に入る前にご報告。この私のブログがTREviewのブログ・コンテストの「本・ゲーム・ホビー」部門で二等賞に選ばれた。これもひとえに、私の血の引くような努力の賜物である。応募したのは私自身だから……
 これで、もし読者の皆様の応援が手抜きせずに行われていたならば、一等賞も夢ではなかったはずなのだが、まったく人様なんて頼りにできないものである。あぁ、日本人の人情ってやつはどこへ行ってしまったのかしら……。
 それにしても、私のページでは「音楽」に関するレビューの方がずっと多いのに、「本」のカテゴリで選ばれるなんて不思議(ゲーム、ホビーに関わる投稿はしていない)。いったい、どの「本」についてレビューした文が選ばれたのだろう?(応募した内容を記憶していない、メモリ不足の私)。

 さて、序よりも内容に乏しい本題に入る。
 私の実家の本棚には30巻ほどに及ぶ世界文学全集が並んでいた(ほら、内容の乏しさを予感させるでしょ?)。私は学生時代も自宅に住み続け、そこから学校に通っていたから、20数年間実家で暮らしていたわけだが、父親も母親も、そのなかのどれか一巻でも読んでいる、ということはおろか、手で触れている姿も見たことがない。いったい何のために置いてあったのか謎のままである。“シミ”の餌として置いてあったのだろうか?

 

 中学生のときのある日、友人が遊びに来た。
 彼はクラスでもトップクラスの成績の持ち主であったが、その彼が家族に見放されている文学全集の中の一巻を見て言った。
 「このポーのオウゴンチュウはなかなか面白いよ」
 驚いた。彼は若くしてすでにこんな本を読んでいるのだ。しかも「黄金虫」をコガネムシではなく、オウゴンチュウと読んだのだ。成績がいい奴でも、案外と隙があるものなんだな、と思った(ただしこの作品を「オウゴンチュウ」と読むことは、必ずしも間違いではないらしい)。

 そのあと私はポーの作品集(モルグ街の殺人事件他)の文庫を買って読んでみた。ストーリーはものすごく面白いとは思わなかったが(もっとスリリングな世界を期待したのだ)、不思議な世界ではあるな、と思った。江戸川乱歩がエドガー・アラン・ポーの名をもじって自分の名をつけたことは周知のことであるが、そこまですごい作家とは思えなかった。また、その文章(訳)はとても読みにくかった(なぜ、あの全集を読まずにわざわざ文庫本を買ったのかというと、私の腕には全集の本は重すぎたからだ。それに何十年もの家の臭いをいいだけ吸っていた)。

 再びポーの作品を読んだのは大学生のときで、英語のテキストに彼の「告げ口心臓」が載っていたからだった(このテキストにはO・ヘンリの「警官3bd5617c.jpgと讃美歌」も載っていた。こういうことがきっかけで、本を読みたくなるということもあるのだ。教師は良いテキストを選ぶという義務も負っていると言えよう。ところで、光文社古典新訳文庫のO・ヘンリの本についてはすでに本稿で紹介したが、私はその本文のレイアウトが好きである。→写真)。

 ということで、古典新訳文庫でポーのが出たので買ってみた。これには「告げ口心臓」も載っている。
 相変わらずこの文庫の訳は読みやすい(相変わらず、っていうと誉めていないみたいだけど、誉めています。感心もしています)。
 ただし、ポーの書くもともとの文体のせいであろう。すらすらとただひたすら前へ進める、といったものではない。逆に言えばオリジナルの雰囲気をできるだけ残すように努めた結果、こういった訳文になったのだと思う。ポーの「おどろおどろしい」雰囲気が十分に伝わってくる。

 ポーは推理小説の祖とも言われているが、早くに両親を亡くし妻にも先立たれ、といった精神の不安定さ、寂しさが(彼は酒にも溺れた)、こういった不気味な世界の創造へと駆り立てたのだろう。

 精神の不安定さだけなら、私にも自信があるのだが……

 ということで、明るい未来が展望できるような、以上の文章で今年最後の投稿を終える。
 今年のお盆過ぎから始めたこのブログ。5ヶ月弱でしたが今年一年ご愛読もしくはご毒読ありがとうございました。来年も続けるつもりですので、引き続きよろしくお願いいたします!

 皆様、良いお年を!(また明日ね!)

メシアンの「『超人的な愛』の賛歌」

 もうすぐ2008年である。

 早いなぁ。2000年になったとき、今年からが21世紀だ、8b48c40e.jpg と勘違いしていた人が小バカにされていたのが、つい最近のことだったように思われる(勘違いしていたのは私ではない)。2000年問題とかで大騒ぎもしたなぁ。結局マスコミが大げさに煽りたてた感じで終わったけど。

 ところで、2008年に生誕100年を迎える作曲家にメシアンがいる。没後100年を迎えるのはサラサーテやリムスキー=コルサコフである。もっといろいろいるんだろうけど、深追いはしないことにする。

 記念の年とはいっても、2006年に生誕250年を迎えたモーツァルトのときには、少し世間も盛り上がったが(それも音楽作品そのものとはちょっと違った次元で)、今年(2007年)のエルガーの生誕150年に関しては、ちーっとも盛り上がらなかった。エルガーといえば、むしろその数年前にアニメ・ソングやらCM音楽、着メロなど、あちこちで統一規格条例でも施行されたのかと思うくらい「威風堂々第1番」が使われていた。あれってどういうことから起きる現象なのだろう?不思議である。余談だが、この記念すべき年に札幌交響楽団がエルガーの未完の交響曲第3番をレコーディングした。ただし、他のオケもレコーディングしたそうで、そちらの方が先に発売する権利があるらしい。札響のCDはそのあとになるという(指揮は尾高忠明)。

 生誕100年を迎えるオリヴィエ・メシアン(1908-1992)の代表作の一つに「トゥランガリーラ交響曲」(1946-48年作曲)がある。この曲はボストン交響楽団からの委嘱によるもので、「トゥランガリーラ」とはインド語で「愛の歌」の意味である。

 この作品はピアノとオンド・マルトノと大編成のオーケストラによる10の楽章からなる作品であるが、2008年中には在京のいくつかのオーケストラも演奏会で取り上げる予定になっている。

 メシアンのオーケストラ作品は不思議な音空間を放つ。色彩的といえばそれまでなのだが、ほかのどの作曲家にもあてはまらない色彩感である。オーケストレーションの名手と言われたラヴェルやリムスキー=コルサコフとも違う。鋭くないとか爆発しないとかいうのではないが、ふんわりとした色を放つ。

 矢野暢氏はメシアンの特徴についてこう述べている(「20世紀の音楽―意味空間の政治学」。音楽之友社)。

 《メシアンを特徴づけているのは、一種独特なフェティシズムである。たとえば、時空のわくを超えて、ありとあらゆるリズムの類型を求めたいという〈リズム・フェティズム〉は、メシアンの音楽の根幹をなしている。〉 〈もうひとつ、の鳴き声にたいするフェティズム趣味がある。かれは、鳥の鳴き声に、神の摂理を読み取っているのである。〉

 メシアン自身は、「トゥランガリーラ交響曲」について、以下のように語っている(POCG7111のCD解説から転用。このCDには作曲者自身による詳細な作品解説がついている)。

 《……「トゥランガリーラ交響曲」は愛の歌である。「トゥランガリーラ交響曲」は愛の賛歌である。17世紀紳士の一般市民的平穏無事な喜びではなく、不幸の真最中にしかそれを垣間見ない者によって理解されるような喜びである。言い換えれば超人間的な、溢れるばかりの、盲目的な、そして際限のない喜びである。愛はその同じ様相を呈して、現在ここにある。それは宿命的な、抗し難い、全てを超越し、それ以外の全てを削除する愛、「トリスタンとイゾルデ」の媚薬によって象徴されるような愛である。……》

 それにしても、一種独特の音楽である。オンド・マルトノという特殊な楽器が放つ音も実に印象的だ。この音響空間、色彩感は実際に聴いてみないとわからない。

 私は第5楽章「星々の血の喜び」が特に好きで、聴くたびに気持ちの高ぶりを抑えることができなくなる(別に犯罪に走ったりするという意味ではありません)。

 推薦するCDはダントツでチョン・ミュンフン指揮パリ・バスティーユ管弦楽団、イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)、ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)の演奏(1990年録音)。CD番号はグラモフォンのPOCG7111。このCDは廃盤になっているようだが、新星堂ではまだ在庫が残っている様子(右のバナーから入り、クラシック検索で作曲者名にメシアンと入力すればヒットする)。

 宿命的な愛かぁ……

フルートが奏でる優美なメロディー

 いまテレビで流れているどこかの化粧品会社のCFでドビュッシーの「小組曲」が使われている。管弦楽版のものであるが、私はこの管弦楽版「小組曲」が 大好きである。

 この曲はもともと4手ピアノ(つまり連弾)のために1886年から89年にかけて作曲された。それをアンリ・ビュッセルが管弦楽に編曲したのだが、ピアノ版よりも管弦楽版の方がはるかにすばらしい。

 アンリ・ビュッセル(1872-1973)はパリ音楽院の作曲家教授を務めた人物で、この「小組曲」のオーケストレーションでその名が知られる。また印象主義的な教育用作品を多数残している。「小組曲」のオーケストラ編曲がなされたのは1907年頃とされており、ドビュッシー(1862-1918)も当然この編曲版を認めているはずであるし、また交響組曲「春」(1887)は1912年になってビュッセルとドビュッシー自身の2人によって管弦楽版が完成されている。編曲年からみても、ビュッセルが「牧神の午後への前奏曲」や「海」といったドビュッシー自身による管弦楽法を、このオーケストレーションに取り入れたと思われる。 そして「小組曲」がもし管弦楽編曲されていなかったら、ここまで聴かれることはなかったのではないかと思う。

 この曲が書かれたときには、まだドビュッシーは印象主義の手法に入る前のことで(ドビュッシーは1894年初演の「牧神の午後への前奏曲」で印象主義を確立したとされる)、同じ頃には「2つのアラベスク」や「ベルガマスク組曲」が書かれている。f384bbfd.jpgこれらの曲とも共通する甘美な雰囲気と美しい旋律が「小組曲」にも現れている。

 曲は4つからなり、第1曲「小舟にて」、第2曲「行列」、第3曲「メヌエット」、第4曲「バレエ」となっている。

 化粧品会社(社名を覚えていなくてすいません)のCFで使われているのは「小舟にて」であるが、このハープのアルペッジョに乗ってフルートが優しく美しい旋律を奏でる第1曲が全曲中でもいちばんの聴きものである。私はこの曲を聴くたびに、フルートの音色ってなんて素敵なんだろうと思ってしまう。

 CDは、マルティノンがフランス国立管弦楽団を振った演奏が、録音されたのが1973年~74年ではあるが、いまだに美しい輝きを放っている。EMIのTOCE13579(国内盤。2枚組。右のタワーレコードのバナーから購入できる。2,300円)で、このCDでドビュッシーの管弦楽作品はだいたい網羅できる。なお、掲載した写真は輸入盤のもので、国内盤とは異なる。

 それにしても、この音楽は私の心を描いたかのように明澄である。

 

テューバをソロとする協奏曲

 私は常々、イギリスの作曲家が書いた音楽は日本人の感性に合っているように思っている。その理由はわからないが、同じようにロシアの音楽は日本人に共感を覚えさすが(だからこそ日本人はロシア民謡が少なからず好きなのだ)、それとは違った意味、「しっとり感」という点で、イギリス音楽は日本人の何かに通じるものがあると思うのである。

 その点で、ディーリアス(彼はドイツ生れだが)の音楽は日本音楽とのある種の近さを感じさせるし、エルガーもそうである。

 ヴォーン=ウィリアムズ(1872-1958。おっ、年が明けたら没後50年だ)は、グスタフ・ストレーゼマンの「人類に最大の寄与を行なう人物とは、自国に深く根ざし、その精神的、道徳的才能を最大限に発揮した結果、国境線を越えて全人類になにがしかを与え得る者のことである」という言葉を好んで引用した、イギリス国民主義を代表する作曲家である。

 ただし、他のイギリスの作曲家同様、少なくとも日本では、一部の熱狂的ファンがいる一方で、一般にはあまり聴かれることのない作曲家だろう。「『グリーンスリーヴズ』による幻想曲」は突出して有名だが(「グリーンスリーヴズ」というのは、緑の袖の着物を着た浮気な女を歌った16世紀末の民謡である)。

 そんな彼の作品にテューバを独奏とした珍しい協奏曲がある。

 バス・テューバ協奏曲へ短調(1954)。ロンドン交響楽団のc397cf31.jpg 創立50周年記念のために書かれた12分ほどの曲である。

 この曲の第1楽章なんかは日本の祭り音楽を連想させるし、きわめて美しい(本当に美しい!)第2楽章は「まさに日本的感傷」を感じさせる。第3楽章は「西洋的」だが……。

 かなり前の話だが、いまでも放送されているNHKの「中学生日記」という番組で、吹奏楽に熱中している中学生がいつかこの曲を吹くことを夢見ている、というストーリーがあった。テューバをソロにしているコンチェルトは私の知る範囲では他にはないし、きっとテューバ吹きにとってはソリストを務めてみたい曲なんだろうな、と思う。

 私が持っているCDはフレッチャーのソロ、プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の演奏でBMGの60586RG(輸入盤)。カップリングは同じくヴォーン=ウィリアムズの交響曲第5番と「エリザベス朝のイングランド」から3つのポートレート。1971年の録音。

 まったく同じ物が国内盤でも出ており、右にバナーがあるタワーレコードで購入できる。RCAのBVCC38481で1,260円である(写真は輸入盤のもので、国内盤はデザインが異なる)。

 ところで、バス・テューバが出てきたので、ついでにトロン26b1d829.jpg ボーンの曲を一つ。

 チェンバースの「たくさんのトロンボーンのためのミサ」という、とってもどうにかしてほしい曲名の作品がある。現代音楽である。チェンバースは女性の作曲家だが詳しいことはわからない。で、たくさんのトロンボーンってどのくらいかというと82本である(パートは77)。

 曲はトロンボーンのイメージとは違い、声をひそめた悲愴なもの。

 でも、良い曲かどうかはわかりませんが(紹介しないほうが良かったかな。私は2回しかCDをかけたことがない)。

 CDはCENTAURのCRC2263(1994録音。輸入盤)。

15世紀の赤裸々な愛の告白の歌

 先日テレビで放映された映画「大奥」を観た(全部ではないが)。

 別に「大奥」のストーリーに興味があるわけではない。最近、なんとなく仲間由紀恵が好きなのだ。顔立ちからすると、私は永作博美とか小西真奈美、古くは市毛良枝なんかが好きなのだが、仲間由紀恵の雰囲気が好きになったのである(結局、芸能人なら誰でもいいということか……。それにしても仲間由紀恵が悪いわけではないが、草野仁と出ているどっかの車のCFは腹立たしいほどくだらない)。

 その映画の中に何度か出てくる濡れ場(ベッドシーンと書きたいところだが、江戸時代にはベッドなんてないから、床(とこ)場面と書こうと思ったが、何のことやらさっぱりわからなくなるので、へんてこなトラックバックが食いついてきそうながらも「濡れ場」と書いた)を観ていて、私は思った。1つは、なんてリアル感のない愛の場面の演技だろうということ。幼稚園児のままごと抱擁じゃないんだから……。

 もう1つは、「この時代の人って、歯なんて磨いていたのだろうか?こうやって接吻したときに口がひどく臭いということは十分考えられる。それにそのあとに事が及ぶなんて、風呂にも入らないでそれでいいのか?体が汚れていて恥かしくないのか?」と。

 そんなことが一度頭に浮かんでしまうと、テレビ番組や映画なんて楽しめたもんじゃないが、そう考えてしまうのだからしかたない。まったく、おバカな私である。

 だから村上春樹に関するある本の中で、彼に対して「春樹さんの小説に出てくる男女は、あのときに避妊しているのですか?そのような記述は見当たりませんが、妊娠したらどうするのですか?」と質問を寄せた人の気持ちがわからないでもない。

 こういうことは現代に生きているから思いついてしまう疑問であって、当時としては何の問題もないことだったのかも知れない。それに及ぶときにシャワーを浴びてから、なんてことは当時は絶対にありえないのだから、何の問題もない当たり前のことだったのだろう。

 それにしても昔の人は現代人よりも恋というか、男女の秘め事に関してはかえって開放的、奔放ではなかったかと思う。

 西欧にいたってはもっとすごかったのだろう。小説なんかでも読み取れるし、歌にも歌われている。

 「美徳と悪徳 ドイツ・ルネサンスの世俗曲集」というCDが手dccd66a4.jpg 元にある。CD番号はナクソスの8.553352(右のタワーレコードのバナーから購入できる。1,190円)。

 このCDには、イザーク(1450頃-1517)、ゼンフル(1486頃-1543)、フィンク(1444/45-1527)といった15~16世紀の音楽家の歌曲が38曲収録されている。

 そのタイトルだけでもけっこうワクワクである。「この世での私の唯一の楽しみは」とか「婚約しなければ」、「昔、外出したがる妻がいた」「ある朝、私は人知れぬ所にたたずみ」etc,etc...

 実際の歌詞はCDを購入してごらん下さい。ただし、輸入盤のためドイツ語歌詞と、英語の対訳となっておりますが……

 私が38曲中いちばん好きなのはゼンフルの「山に登れ」という歌。

 歌詞は「山に登れ、そこには背の高い家がある。毎朝、3人の女性が家から出てくる。1人目は私の妹。2人目は私の友人。3人目は名も知らぬ女だが、彼女は私のものになるに違いない」ってもの。歌詞が好きなのではなく、飾り気のない力強い、生命力溢れるっていうか、本能的な音楽そのものが好きなんだけど……。

  昔の人ってこういうことにしか興味を持たざるを得なかったのかなぁ。他に何も楽しみがなかっただろうからな。これって、「貧乏子沢山」に通じるんだろうな。

 

名曲喫茶で不安を煽る猛女の話

 レナード・バーンスタイン(1918-1990)の交響曲第2番「不安の時代」(1949初演)を初めて知ったのは、高校の卒業を、というか受験を目の前に控えたときであった。ちょうど今ごろの時期だったかも知れない。

 たまたまNHK-TVでやっていたものを観たのだが、全曲ではなく第5楽章「仮面舞踏会」という、たぶん全曲中最も聴き応えのある楽章だけが放送された。この曲では独奏ピアノが必要とされるが、このときソリストを務めていたルーカス・フォスの弾くピアノがひどく格好よかった。たぶんテクニック的にはラフマニノフなんかのピアノ曲の方が難易度は高いのかも知れないが、「仮面舞踏会」のジャズ的な要素が私にとって新鮮なせいもあって、すごいもんだなぁと感心したものだ。

 たまたまこの曲を聴いてしまったために、その後私は「不安の時代」を迎えることになる。つまり受験に失敗し、浪人生活に入ったのだ。それを音楽のせいにするなんて、合理化にもならない合理化だけど……。というのも、ここで聴いた曲が「不安の時代」ではなく、例えば「大いなる喜びへの賛歌」(*1)だったとしても、結果は間違いなく同じだったのだ。

♪ 

 私の知る限り、当時の札幌には名曲喫茶(クラシック喫茶)が3軒あった。

 1つは北海道大学の近くにあった“クレモナ”。この店には高校の頃からけっこう通った。ちょっと回り道にはなったが、学校からの帰宅途中にあったのだ。店内は明るく広々としていてオタクの集会場という感じがせず、「健康的」でとても落ち着けた。私はこの店が3店のなかでいちばん好きであった。

 

 もう1つは、狸小路のビル(といっても二階建ての木造の古い建物で、悪意ある者が火を放ったら、瞬時に燃え尽きるようなものだった。たぶん札幌市消防局からは危険建造物に指定されていたに違いない)の二階にあった“シャンボール”。ここはあまり名曲喫茶らしくなかった。

 再生装置がどんなものだったかはともかくとして、スピーカーは壁の上部に埋め込まれていて、とても豊かな響きを求めようとしていないようだったし、名曲喫茶としては情けないくらいLPが少なかった。こちらが何かをリクエストしても、たいていの場合「お応えできません」だった。流れている音量も、普通の喫茶店のBGMよりもやや大きめといった程度であった。

 この店で唯一良かったのはフード・メニューが複数あることだった。名曲喫茶というのはフード・メニューがほとんどない。食べるときの音が他のお客の鑑賞の妨げになるからである。しかし“シャンボール”には、カレーライスやピザ・トーストがあった。というのも、この店の一階は同じ経営のふつうの喫茶店であり、そこから食事を運んでこれたのだ。味の方は天下一品級にまずかったが……。

 この店ではなぜかよくドヴォルザークの交響曲第7番がかかっていた。また、どのレコードも傷が結構あって、ザッ、ザッという雑音が当たり前のようにしばしば破壊的に入っていたが、店の人はそれが宿命であるかのように無関心であった。ドヴォルザークの第7番という、名曲ではあるものの愛好者が多いとはいえない作品がよくかかっていたのは、そのLPが店でいちばん状態がよかったためなのかも知れない。

 3つ目の店は今でもやっている“ウィーン”。3軒のなかでは最も名曲喫茶らしい雰囲気である。何ヶ月前かに行ってみたが、椅子も照明器具も昔のままだった。椅子は起毛が人の背中の形で磨り減っており、また照明器具は前時代的で(あのシャンデリア風のものにはいったい何kgの埃が付着しているのだろう)、おまけにところどころ球が切れている。狸小路のはずれのビル(もどき)の地下にあるが、店内が暗く、どことなく空気が冷え冷えとしているのは、地下にあるというだけではないようだ。

 音は悪くないし、ここに来る客のほとんどが音楽を鑑賞する目的のために来ているようだが、それにしても致命的に前時代的だ。ここでコーヒーをすすっていると、秘密結社の隠れ家で悪いことをしているような気がしてくるし、見たこともないような暗黒愛好昆虫類なんかが潜んでいるようでちょっと恐い。クラシックにこだわっているせいではないのだろうが、トイレ(というか便所)は未だに汲み取り式である。きっとふつうの喫茶店だと思って入って来た客がいたら、すぐにでも黒魔術の儀式が始まり、迷い込んだ自分がいけにえにされるのではないかという錯覚に襲われるだろう。

 昔ここで、この店唯一のフード・メニューであったトーストを食べたことがあるが、余計な音を立ててはならないと思ったとたんに異常に緊張してしまい、不必要なくらい床にパンくずを散らかしてしまった経験がある(少なからず好意を寄せていた女の子と一緒だったのに……。しくしく)。あの時、店内に放し飼いの鶏がいたなら、相当喜んでもらえたと思う。

 高校3年の私が受験(共通一次試験である)の前日、会場である北海道大学に下見に行ったのだが、帰りに“クレモナ”に立ち寄った。一緒に下見に行った友人2人も一緒だった。

 こんな日は、緊張感を持って早く家に帰って明日に備えるというのが一般的感覚なのだろうが、私はここに立ち寄っただけでなく、マーラーの交響曲第3番をリクエストするということまでした。マスターが「音楽史上最も長い交響曲だよ。時間、大丈夫?」と聞いてきたが、私は「大丈夫です」と答えた。友人2人(彼らはコーヒーを飲みたかっただけで、そもそも音楽に興味はなかった)の顔は大丈夫そうではなかったが、私の持論は「前日に慌てて何かしたところで無意味」だというものであった。

 リクエスト曲が終わった100分後。店を出たあとの友人たちの地下鉄駅に向かう足取りは明らかに速かった。やっと解放された。遅くなった。明日は受験だというのにママに叱られちゃう、って感じだった。悪いことをした。彼らは国公立の受験に失敗したが、私大に入った。国立一本の受験だった私は、いさぎよく浪人生活に入った。

 私は予備校に通わずに自宅で浪人することにした。そんなことでは絶対効果が上がらないと言われたが、私は街中の予備校に通うようになったら、そのうち大半を喫茶店で過ごすようになる自信があったのだ。

 そんなあるとき、高3のクラスメイトだった1人の女の子から電話が来た。彼女も私と同じ国立大だけを受験し、浪人生活に入っていたのだった。ただ、私とは違い、常識的な浪人生らしく予備校に通っていた。

 「ちょっとぉ~。元気ぃ?勉強はかどってる?家にこもってばっかりじゃ息がつまるでしょっ?たまに出てきて会わない?」っていうものだった。いまこうやって書いてみて気づいたが、彼女の話し方は「ノルウェイの森」の「みどり」っぽかった。

 在校中に特に彼女と親しかったわけではなかったが(私には親しい女性はいなかった。音楽が恋人だったのだ←よく言うよ!)、気にかけてくれているようだし、欲しいレコードもあったので街に出かけた。彼女は顔立ちもスタイルもよかったが性格が男っぽく、クラスの男子からは「猛女」と陰で言われていた。たぶん男性ホルモンに関して言えば、私よりも分泌量が豊富だったのではないかと思う。

 彼女に会う前に、当時の札幌ではクラシックレコードの品揃えが57c5d13c.jpg いちばんだった「玉光堂・すすきの店」に寄った。あのとき耳にした「不安の時代」をもう一度聴きたくなっていたのだ。幸いなことにLPは店頭に並んでいた。私はそのLPを買った。

 そのあと猛女様に会った。他に喫茶店も知らなかったので“シャンボール”に行った。

 名曲喫茶というものは、スピーカーに向かう形で2人並びで椅子が配置されている。4人が座れるボックス席もあるが、それは少ない。また、2人が向かい合って座るような席はまずない。

 この日の“シャンボール”は4人がけ席が埋まっていて、2人で並んで座る席しかなかった。

 店に入るなり彼女は言った。

 「ちょっとぉ~、何、この店。あなたと並んで座れっていうの?嫌よ!」

 「ごめん。広い席が空いてないみたいなんだ」

 「もしかして、私と並んで座るために最初っからこんな店を選んだんじゃないでしょうね」

 「違う。それは違うよ」

 「なるべく離れて座ってよ」

 「わかってるよ」

 明らかに私を疑った目つきだったが、それでも仕方なく2人並びの席に座った。でも、そんな意図はなかった。だいたい私は、彼女に女性を感じたことなどなかったのだ。2人並ぶなんて勘弁だというのは、こちらだって同じだ。

 「ねぇ、家で勉強しててはかどっている?化学はどう?」

 「はかどってない。この世に存在する元素の数が10種類ぐらいだったらどんなに楽だろうと思ってる」

 「生物は」

 「カモノハシが有袋類だってこと、昨日初めて知った」

 その後も彼女の興味本位な質問は続いたが、話が進むにつれ明らかに私よりも優位な立場になっていったことに満足していた。私は数学も、英語も、漢文も、世界史もはかどっていないと答えたからだ。それは事実でもあった。隠していたが、古文も現国も日本史もはかどっていなかった。

 「じゃあ、どういう風に毎日やってるの?」

 「朝から昼まで勉強して、昼ご飯を食べて、午後はNHK第一ラジオの“午後のロータリー”を聞いて……、あっ、この番組の聴取者からの健康相談コーナーは笑えるよ。杉並のカタオカって人が常連で、いろんな健康上の相談を毎回電話して来るんだ」

 「ながら勉強してんの?」

 「で、3時になったらクラシック音楽を大音量で聴く。夕飯を食べて、夜は勉強する。でも、Hなシーンがありそうな映画があるときはそれを観る。そんな感じかな」

 「バッカみたい。そんなんで大丈夫なの?」

 「大丈夫でないような気がする」

 「ねぇ、私に何か聞きたいことない?予備校の様子とか?」

 「昼は弁当を持って行っているの?」

 「そんなことどうでもいいでしょ、まったく……。ところで、何のレコードを買ってきたの?」

 「あっ、これバーンスタインの、いや、バーンスタインという人の交響曲第2番。「不安の時代」ってタイトルがついている。ジャズ的な要素もあって僕には新鮮な感じに思った。前にテレビでやっていたのを観て、LPも欲しくなったんだ」

 「ふ~ん。別にそれ以上説明しなくてもいいわ。でも、そんなんじゃ来年も落ちるわよ。志望校は変えないんでしょ?だったら、もっと真剣に勉強しなきゃ」

 「やっぱりそうかな?」

 「絶対そうよ」

 さすが猛女だけある。人を呼び出しておいて、自分の勉強の進捗状況が私より遅れていないか確認し、さらには自分の日頃の不安やストレスを私に浴びせる(聞いてもらうのではなく)ために呼んだようなものだ。だいたいにして母親でもないのに「勉強しろ」なんていう権限がどこにあるというのか!それにレコードのことに触れてきたのなら、せめて「どんな曲なの?」ぐらい聞いてくるのが礼儀ってもんだろう。

 でも、彼女の言うとおり私は翌年も落ちて2浪に突入した。彼女は志望校に合格した(当時は大学ごとの合格者はすべて新聞に載っていた)。彼女の言うように、私は禁欲的に音楽を聴くのをやめ勉強に打ち込むべきだったのだ、なんて、全然思わなかったし、いまも思っていない。

 このとき買ったLPはバーンスタイン指揮イスラエル・フィル、8706a149.jpg フォスのピアノによる演奏であった。この演奏はCD化されており、前に本稿でバーンスタインの「セレナード」を取り上げたときに紹介したものがそうである(ドイツ・グラモフォン445-245-2。2枚組。写真)。これには交響曲第1~3番と「セレナード」が収録されている。

 これと同じ演奏のものが国内盤でも出ており、右のタワーレコードのバナーから購入できる。ただし、交響曲3曲の演奏は同一だが(1977年録音)、この国内盤では「セレナード」のかわりに「ファンシー・フリー」が収録されている。CDの番号はグラモフォンのUCCG4103で価格は今なら1,919円となっている(2枚組)。

 でも、彼女はさばさばしていてなかなか面白い女の子だった。さっきはあのように書いたが、決して自分だけが受かればいいという考えの子ではなかった。もし優越感に浸りたいなら、私が落ちたときにも「激励の電話」をよこしたはずだろうから。

 今ごろ彼女はどこかで薬剤師をしているはずだ(薬学部に行ったから、常識的にはそうだろう)。きっと白衣が似合う恐い感じがする薬剤師でいるに違いない。

 *)「大いなる喜びへの賛歌」はつい最近までつけられていたマーラーの第4交響曲のタイトルである。

「『ひとりごちる』が気になる」と、独りごちる私

 10月20日の本稿で(「今宵『赤と黒』で……」)、光文社古典新 訳文庫から刊行されたスタンダールの「赤と黒」(上巻)について紹介した。訳は野崎歓氏である。こういう書き方をすると、まるで私が野崎氏のことを良く知っているような感じであるが、全然知らない。私の知り合いに野崎さんという人物が一人いることは事実だが、その人は厄とは縁がありそうだが訳とは無縁と思われる。

 

 12月に入り下巻が刊行され、「上巻を読んだのに下巻を読まずして、それでお前の人生は正しいのか?上巻だけならお前は一生“赤”だ」とわけのわからないことを自問し、その結果として購入した。買った場所は旭屋書店・札幌ステラプレイス店。そんなのはどうでもいいか……。


 上巻について紹介したときに、私はこの訳を「流れるような日本語」と書いた。そして続きだから当たり前なのだろうが、下巻の文章も優雅なリズムで流れていく。とても読みやすい。こういう形で古典作品を紹介してもらえることをありがたく思う。


 ただし、ひとつだけ気になることがある。

 これは単に私の知識不足、ボキャブラリー不足なのかも知れないが(謙虚に書いているが、本心では自分のせいではないと思っている)、この訳では「ひとりごちた」という表現(訳)が何箇所かで出てくる。

 下巻から一箇所ピックアップすると、202pに

 “〈結局のところ、ぼくは連中に一杯食わされずにすんだのだ〉ジュリヤンは出発の準備をしながらひとりごちた”とある。


 この「ひとりごちた」は、ベストセラーとなっている同じ光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」でもでてきた(訳は亀山郁夫)。また、記憶がはっきりしないのだが、このシリーズのほかの本でも出てきたはずだ(クラークの「幼年期の終わり」だったような気もするが、別なものだったかも知れない)。

 でも、いま「ひとりごちた」って言葉を使うのだろうか?威張って言うわけではないが、私はこの言葉を日常会話で使ったことは一度もない(非日常会話でもない)。だいたいにして「ひとりごちた」という言葉を知らなかったのだもん。皆さんはどうだろうか?

 カラマーゾフを読んでいたときに、国語辞典で「ひとりごちた」と調べてみたが載っていない。「ごちる」でも載っていない。当然「ごちた」でも載っていない。「まあ、いいや。たぶん一人でご馳走を食べたぐらいの意味だろう」と思いながら、小説を読み進んだがたいして悪影響はなかった(冗談ですって)。

 今朝、「ひとりごちる」夢をみて(意味が解らないから、どうやってよいかわからずに困っている夢だ)、もう一度国語辞典を調べて見た。

 あった。「ひとりごつ」で載っていた。

 漢字で書けば「独ごつ」、ローマ字で書けば「hitorigotsu」である。

 “古語。「ひとりごと」の動詞化。ひとりごとを言う。”とある。

 なぁ~んだ、よく電車で見かける怪しい人のことだ。朝からひとりごちてる人っていますよね?中にはひとり歌ってる人もいますし(現代文そのままだ……)。

 でも、私にとってはエレベーター・ガールを「エレちゃん」と言うのと同じような感度である(言わないって!)。


 でも不思議である。

 このシリーズのコンセプトは「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」である。なのに、なぜ「ひとりごちた」という、私が思うにすでに窒息している言葉を用いるのだろうか?しかも、複数の訳者の翻訳にわたってである。光文社の編集部の中にひとりごちるのが好きな校正担当者がいるのだろうか?“ジュリヤンは出発の準備をしながら独りごとを言った”とか“ジュリヤンは出発の準備をしながら独りつぶやいた”とかでもいいような(日本語の流れを邪魔しないような)気がするのだが……

 あるいは、私が使っている国語辞典が昭和51年のものだから、その後何らかの奇跡的な事態が起こって、この言葉は現代用語として復権を果たしたのかも知れないが(←しかし、嫌なものの言い方だね)。

 いえいえ、「ひとりごちた」でもいいんだけど、個人的には不思議に思っているということだけです(←さんざん書いといて否定するいやらしさ!)。

 本書に話を戻すと、このシリーズの特長である懇切丁寧な解説と作者の詳しい年譜ももちろん載っている(急にフォローに転じる)。


 この小説の主人公はジュリヤンだけど、昔、マダム・ヤンってありましたよね?即席めん(これも古語)の名前でしたが……

 ということで下巻を読んで“黒”も制覇。上巻の“赤”だけで終わらずによかった(まったくの冗談です。絶対に砂粒ほども納得しないこと)。

旋律と旋律の妖しい絡み合い

 ホルストの「吹奏楽のための組曲」第1番変ホ長調Op.28(1909)って、とてもよい曲だと思う。
 私は吹奏楽作品についてほとんど知らないといっていいくらいだが、この曲はけっこう昔から知っていたし、気に入っていた。ところが、いざレコードを探すとなると見つからなくて天を仰いで苦悩したものだ。
 やっとフェネル指揮イーストマン・ウィンド・アンサンブルのLP40b0b3b6.jpg を見つけて聴いていたのだが、これが悪名高き「擬似ステレオ」盤。つまり、モノラル録音のものを電気的にステレオに処理したものなのだが、音の広がり方がひどく不自然で精神衛生上極めてよろしくなかった。演奏はすばらしいという定評があったのだけれど……。でも、他にないから我慢していた。
 もしかすると吹奏楽に力を入れ、学校の吹奏楽部指定という栄誉を与えられている楽器店なんかに行けば、誰が演奏しているかは別として、もっとレコードがあったのかもしれない(実際、現在を見るとおびただしい数のCDが出ている)。
 その後、探し求めて私が手に入れた「まともなCD」はウィック指揮ロンドン・ウィンドオーケストラのもの。ASVのCD-QS6021である(1978録音。輸入盤)。このCDの演奏はなかなか良い。ただ入手するにはCD番号を伝えて取り寄せしなくてはならないかも知れない。

 なお、タワーレコードで検索すると、現在ではこの曲のCDが何種類か出ているようだ。

 
 その「吹奏楽のための組曲」第1番は3つの楽章から成る。
 第1楽章は「シャコンヌ」。「シャコンヌ」という過去の遺産的形式を用いているところがオタクっぽい。シャコンヌはバロック時代の変奏曲の形式の一種で、パッサカリアと同じようなものである。細かい違いは自分で音楽辞典で調べなさい!
 第2楽章は「間奏曲」だが、「シャコンヌ」の旋律(Aとする)から派生したと思われる軽快な旋律Bで始まるが、さらに同じくAから派生したと思われるCの旋律が現れ、最後にはBとCが濃厚に絡み合う。う~ん、複数の旋律が絡み合う“音楽の濡れ場”である。
 第3楽章「行進曲」は新たな旋律Dで始まるが、これもAの血を引いている気がする。中間部では、これまたAから派生したEが登場し、最後はDとAがこれでもかというように同時進行して行く“音楽の修羅場”となる。
 結局は、すべてが最初の旋律Aが元になって発展し繰り広げられる“同族の世界”であるが、この対位法(細かく言えば複旋律対位法ということになるんだろう)が実に見事。そして、タネとなっているAの旋律が親しみやすい性格を備えていることも魅力を高めている。
 こう言っては全国数万人とも数十万とも数百万とも言われる吹奏楽愛好家に失礼に当たるが、クラシック・ファンの中にはブラス作品を敬遠する向きが少なからずあるように思う。大作曲家が書いたものであっても、それは「教育向け」に書いた作品のように見なされがちであるし、だいたいにして「ブラバンなんて粗野だ」というイメージがある。良い演奏になかなかあたらないという背景もあるだろう。
 私にも「吹奏楽かぁ」と思う傾向がある。でも、この曲はすばらしい。
 旋律の絡み合いが見通しよく解る作品として、例えばボロディンの「中央アジアの草原にて」があるが、ホルストの組曲はそれに勝るとも劣らないと思う。

 昨日、大手町から東京駅に通じる地下通路を歩いていて気がついたことがある。それは、携帯電話の着信音を大きく設定している人ほど、自分の電話が鳴っていることに気づくのが遅い、ということである。
 足音だけがこだまする地下通路で、歩行中の誰かの携帯が鳴る。それがずっと続く。うるさいな、誰だろうと思う。そうすると、一人がカバンやらポケットやらをごそごそし始める(かばんの奥底に突っ込むくらいなら、マナーモードにするか電源を切れよなぁ)。そして悲鳴をあげている携帯が外気にさらされ、その音はイライラするほど高らかに響き渡るのである。そういう人は、その時点で周囲のことを考えずに突然立ち止まって「もしもし……」とやりはじめるし、その声も概してでかい。
 こういうことは(立ち止まることはもちろん除いて)電車内などでも見受けられる。そして十中八九、中年の男性である。
 この観察結果から解ることは、中年男に電話をかけているほうも、多くの場合気が長いということだ。延々と呼び出し音を聞き続けるわけだから。
 また、この観察結果から推測されるのは、
 ①中年男の多くは、着信音量の設定変更のしかたを知らない可能性が高い。
 ②中年男の多くは、着信から「電話に出られない」というメッセージが流れるまでの時間の設定のしかたを知らない。
 ③中年男の多くは、留守番電話サービスを利用していない。
 ④中年男の多くは、耳が遠い。
 ⑤中年男の多くは、歩きながら電話で話すことが苦手である。
ということである。
 イヤフォンとマイクでハンズフリーで歩きながら携帯で話をしている中年男も時折見かけるが、あれってみっとも良い光景ではない。下手すりゃ、一人で背後霊と話をしながら歩いている「危ない人」に見られてしまう。そんなふうに電話で話そうって思い立つこと自体がすでに「危ない&怪しい人」なんだけど。ポケットに両手を突っ込んでそんなことするなよな。手が空いているんなら携帯を持って話をしろよなぁ。それとも、実は独り芝居で、忙しいポーズを見せている空しい行為だったりして(誰に見せたいのか不明だけど)。

 昨夜は新橋駅近くで会食。
 けっこう銀座~新橋界隈は人が出ていた。まだ忘年会シーズンは続いているようだ。
 道でオーバー中年男(つまり初老)が若い女性とがっちりと肩を組んでいたが、よくみるとスケベ行為ではなく、自力で立てないほど酔っているようだった。ああいうみっともない姿になるまで酔うのはどうかと思う。その若い女性が逞しい体型でよかったなぁ、とどうでもよい感心をしてしまった。
 って、私は昔、すすきののビルの1Fで開脚前転してしまったことがあるけど……。ただそれは、酔っていたせいではなく、雪解け水で滑っただけである。不幸にも私の周りにはあの若い女性のような献身的な人間はおらず、笑いの渦に囲まれただけであった。
 

 そういう性善説的視点に立てば、もしかするとあの初老の男性も酔っ払っていたのではなく、自力で立てないのは痛風発作でも起きたせい、っていうわけはないか。

ちょっと変わったクリスマス音楽

 リムスキー=コルサコフ(1844-1908)の組曲「クリスマス・イヴ」は、1903年に作曲者による同名の歌劇から編曲したもので、歌劇そのものは1895年に初演されている。
 この歌劇はチャイコフスキーの歌劇「チェレヴィツキ(小さい靴)」(1885初演)と同じ物語で、台本のもとになっているのはゴーゴリの「ディカーニカ近郷物語」というものである。物語の筋は「オクサーナから女王様と同じ靴を持ってきたら結婚すると言われたヴァクーラが、悪魔の助けを借りて大公の宮殿で靴をもらう」というもの(この書きっぷりから、私がそのチャイコフスキーの曲やリムスキー=コルサコフの歌劇そのものをまったく知らないことが白日の下にさらされる)。
 それがどのようにクリスマス・イヴと結びつくのか私は知らないが(曲を知らないのだから当たり前←秘技「開き直り」)、とにかくあと6日でクリスマス・イヴである(←妙技「すり替え」)。
 リムスキー=コルサコフのこの歌劇も、そして組曲の方もマイナーな存在であるが、この組曲、魅力あふれる旋律に満ちている。さらにそれは、R=コルサコフの色彩豊かな管弦楽法によってじゅうぶんに楽しめる作品となっている。ただし「シェエラザード」のような重厚さはない。そのあたりが「名曲」と成りえないところなのだろうが、躍動感あふれる音楽からしっとりとした音楽まで、絵巻物を見るかのように音楽場面が繰り広げられていく(私は実際のところ本物の絵巻物というのを見たことはないが……)。終わりの曲ではロシア国歌が題材となって出てくる(チャイコフスキーの序曲「1812年」で冒頭に登場する旋律である)。

 作曲者自身が組曲化したわけだが、私がこれまで聴いた3種の演奏は、どうしたことかいずれも曲の数が違う。参考までに記しておくとその3種とは、①アンセルメ/スイス・ロマンド管弦楽団、②Maga/Bochum交響楽団、③ゴロフスチン/モスクワ交響楽団である。おそらくは指揮者によって割愛などがなされるのだろう。
 私がこの曲を最初に知った演奏は①のアンセルメ盤だったが、現在は廃盤となっている。②のCDはVOXBOXのもので音が良くないし、たぶんこれももう売っていない。
 ということで、お薦めは消去法により③のゴロフスチン指揮6a94a02a.jpg モスクワ響のCD。ナクソスの8.553789(1996年録音)。この「クリスマス・イヴ」では9曲が収められている。右のタワーレコードのオンラインショップで購入でき、価格は1,190円。
 このCDには他に「ムラダ」から「トリグラフ山の一夜」(この曲も魅力あふれる作品。この曲と「クリスマス・イヴ」ではオーケストレーションにおけるフルートの活躍が目立つ)などが収められている。
 タワーレコードのページを観ていると、この作品のCDでは他に、ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナルo(シャンドスCHN10369)やバケルス/マレーシアpo(BIS 1577)なんかもでている。輸入盤ではそこそこの品揃えになっているということか。それと、マレーシアのクリスマスってどんな感じなのだろう?

 イヴちゃん……(←まったく本文と関係のない独り言)

§

 ところで食品偽装事件が相次いでいるせいか、今年のクリスマス・ケーキは例年のような作りだめの動きがないらしい。以前なら、大手菓子メーカーはスポンジ台を大量に作っておいて冷凍保管し、クリスマス直前や当日にデコレーションしていたのは周知のこと(小さなケーキ屋さんは違うけど)。それが、いまや何か起きたら大変とばかり(あるいはそんな悪いイメージを払拭したくて)そういうことはしていないらしい(相変わらずやっているところもあるんだろうけど)。
 ということは、当日にたたき売りしているケーキなんかも見かけなくなるかも知れない。
 夕方あたりに店先で大量生産のケーキを山積みして売りさばいていた光景の方が異常だったんだろうけどね。

「マーラー/7番」は名曲だ!

 12月14日、都響第654回定期演奏会。出し物はマーラーの交響曲第7番。
 この演奏を聴き、私はあらためてこの作品がマーラーの他の交響曲に決して劣るのものではないことを確認できた。

 指揮はエリアフ・インバル。
 インバルといえば、今から30年ほど前(1979年9月)にNHK-FMの「クラシック・アワー」で放送されたフランクフルト放送響とのマーラーの6番の演奏がすごく印象に残っている。
 そのライブ録音を私はテープに録って何度も聴いたが、すごい「マーラー指揮者」が現れたと思ったものだ(その後インバルは次々とマーラーの交響曲をレコーディングした)。当時はまだ若手だったインバルの演奏をその30年後に生で聴けるとは、ずっと札幌に住んでいる私には想像もできないことだったが、そういう点では東京への単身赴任というのも悪くないものだ(お金があればもっと充実するのに……)。
 30年前の話をついでにもう一つに言うと、同じくFMクラシック・アワーで1980年9月に放送されたギーレン指揮オーストリア放送響のマーラー/第7も良い演奏だった。

 マーラーの交響曲第7番は、第2楽章と第4楽章に“Nachtmusik”と名づけられていることから交響曲全体に「夜の歌」というタイトルが与えられている5f9c38cd.jpg が(なぜ「夜の曲(夜曲)」ではなく「夜の歌」なのだろう?)、この作品でいちばん「夜」というものを描写していると私が思うのは、第1楽章の255小節目からの、トランペットが軍隊ラッパ調のファンファーレを吹くところからである(楽譜上。音楽之友社のスコアから掲載)。後述するインバル/フランクフルト放送響のCDでいえば9'35"からの部分である。

 ファンファーレのあとヴァイオリンのソロが入る部分は夜の帳が下りていくようだ。

 再びファンファーレが奏されたあとの、ハープが印象的である全奏部分(317小節目、インバル盤で12'34"から)はまさに「美しき夜の情景」ではないだろうか?動物たちの鳴き声を思わせる木管群とホルンを中心としたパッセージ(これは第3交響曲の第3楽章に通じるものがある)は、清澄な夜の空気のなかで月明かりに照らされる地上の万物を描いているように思えてならない。私は全曲中この部分が最も美しいと感じる(だから?)。

 この日の演奏会で新たに気づいたことの一つに、第2楽612973b1.jpg 章のアンサンブルが実に難しそうだ、ということがある。もちろん全曲を通してまったく気が抜けない難曲なのだろうけど、下の譜の部分(これは第2楽章の終わり近くだが)のホルンとクラリネットの絡みなんかは相当難しいんじゃないかと思った。CDではすんなり聴いてしまうところだが、生で聴いて初めてこの曲の「難しそうさ」「複雑さ」「精緻さ」が想像以上だったということが解った。

 それにしても都響は力演であった。マーラー特有の大音響の部分でもけっしてバカ騒ぎにならず、また室内楽的な部分はとてもデリケートに鳴り響いた。さすがに終楽章になると、疲れからかあちこちから変な音が出たりもしたが、それは全曲を通した演奏を傷つけるものではなかった。
 よく「映画音楽のようだ」と非難され(でもそう言うなら、3d949e2d.jpg映画音楽というよりはむしろ遊園地音楽だ)、この交響曲全体が失敗作であるという評価の的になっているその終楽章にしても、決して全曲の中で浮いたり、あるいはそれまでの4つの楽章をぶち壊すものではないということが、この演奏でははっきり示された。

 もともと私はこの曲が好きでだったが、生で聴く機会はこ れまでなかった。
 それがインバルという名指揮者のタクトによるすばらしいオーケストラのすばらしい演奏を聴き終えたあと、いまこの会場にいる2,000人の中の一人として自分も時間を共有できたことに大きな幸せを感じた。
 もし、この演奏を録音してあらためて聴いたとしたらけっこう粗い演奏だったのかも知れないが、活き活きとした、そして見通しの良い演奏だった。a0966fef.jpg

 私が好きな演奏のCDはショルティ指揮シカゴ響のもの(Decca425 041-2、1971年録音、輸入盤、写真上。国内盤もでているはず)で、今でもいちばんに位置づけているが、さすがに録音が古くなってきたし、マーラーの音楽に対するアプローチの仕方も「今風」でなくなっているのかもしれない。
 そこでもう一枚と言えば、別にインバルを生で聴いたからというわけではなく、インバル指揮フランクフルト放送響のものをお薦めしたい。1986年の録音。Denon-COCO70402(写真下)。右のタワーレコードのオンラインショップでで¥945。ショルティがマーラーの「柄」を強調しているとしたら、インバルの解釈は「織り」を大切にしているように思う。もちろん、衣類に例えたならの話です。書いている私もよく解りませんが……

 

 インバル/都響は明後日19日にマーラーの6番を演奏する。

 すっごく行きたいけど、行けないのが残念だ……(券も持ってないけど)

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