村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)の第2部 23pには、以下のような文がある。
「僕は鍋に水を入れてガスの火をつけ、それが沸騰するまでにFM放送を聴きながらトマトのソースをつくった。FM放送はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタを放送していた。非常に上手な演奏だったが、そこには何かしら人を苛立たせるものがあった。その原因が演奏者の側にあるのか、あるいはそれを聴いている今の自分の精神状態にあるのか、どちらかはわからなかったけれど、とにかく僕はラジオのスイッチを切り、黙って料理をつづけた」
バッハの「6つの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」は1720年に作曲されたとされる作品で、ソナタ第1番ト短調、パルティータ第1番ロ短調、ソナタ第2番イ短調、パルティータ第2番ニ短調、ソナタ第3番ハ長調、パルティータ第3番ホ長調の6曲から成る。BWV.番号は1001から1006。
ソナタ第1番の第2楽章はオルガン作品のBWV.539とリュート作品BWV.1000に、ソナタ第2番はクラヴィア・ソナタBWV.964に、ソナタ第3番の第1楽章はクラヴィア曲BWV.968に編曲されている。
また、パルティータ第3番の前奏曲(なんと生き生きとした音楽であることか!)はカンタータBWV.29のシンフォニアに転用されている。
今から10年以上前、私は東京に出張したときに、たまたま石丸電気で「つかみ」でこの曲のCDを買った。Eugene Druckerという人が弾いた全曲盤である。正直言って、この曲の他のCDは未だに持っていない。つまり他の全曲演奏を聴いたことがない。そして、この曲は私にとって、魅惑的な部分と、苛立つとは言わないまでも退屈でしょうがない部分がある。
この小説の“僕”こと岡田亨は、「演奏者の側にあるのか、今の自分の精神状態にあるのか、どちらかはわからないけど」苛立っている。
私に置き換えてみれば、退屈なのは演奏者のせいなのか、楽曲のせいなのか、普遍的な(だっていつも感じているのだから、一時的なものではない)自分の精神状態にあるのか、今のところ検証されていない。別な演奏を聴いてみたら明らかになるのかもしれないが、「精神状態にある」と判明するのが嫌だから聴かないでいる。
ちなみにこのCDはNOVELLO RECORDSのNVLCD106。1988年の録音。このヴァイオリニスト、有名な人ですかね?
話は変わるが「ねじまき鳥」には加納マルタという少々変わった女性が登場する(その妹である加納クレタというのも登場するが……)。マルタ島に住んでいたことがあるということからこのような「職業上の名前」をつけたのだが、マルタ島に行ったことがあるかと彼女に聞かれて、行ったことのない“僕”はこう考える。
「僕がマルタ島について知っているのは、ハーブ・アルバートの演奏した『マルタ島の砂』だけだったが、これは掛け値なしにひどい曲だった」(77p)
「マルタ島の砂」……
私が中学に入ったとき、親にラジカセ(ステレオ・ラジカセではない。そんなハイカラなものはまだ製品開発されていなかった)を買ってもらった。「ラジカセでNHK基礎英語を録音して、英語の勉強をするように」ということであったが、私はその目的のために、短波も入る3バンドラジオつき、2ウェイスピーカー(あんなウーファーがどれほど意味があったのかわからない)、高出力の、当時としてはとびきり重装備の、AIWAの製品を買ってもらった(あのころはaiwaではなくAIWAであった。説明書をとっておいたはずなのに、見当たらない。残念だ)。
そのラジカセにおまけでついていたのが「マルタ島の砂」が入ったデモ・テープであった。
私はいい曲だと思ったのだが……
こんなところで、この曲名に出逢うなんて、感慨無量であった(嘘である)。
みなさんには興味はないだろうが、一応申し上げておくならば、その直後から私はクラシック音楽にはまっていくことになるのである。