読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

May 2008

カッコウの声の魅力

 私はカッコウの鳴き声がとても好きだ。
 あの声を聞くと、「ああ、やっと本格的な夏になるんだなぁ」という気持ちになれる。その夏というのも、くそ暑い体力を消耗するような夏ではなく、初夏の訪れである。
 本州ではどうなのかは知らないが、北海道ではカッコウの鳴き声は、初夏の到来を告げる喜びの合図である。

 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」(講談社文庫)には、メイ11d55e8a.jpg という名の高級コールガールが出てくる(メイという名の女性は「ねじまき鳥クロニクル」にも登場する。「ダンス・ダンス・ダンス」のメイとは、まったくキャラクターとしては別人である。村上春樹は5月に何か特別な思い入れがあるのだろうか?)。
 主人公の“僕”がメイと一夜を過ごした翌朝、

 《……食卓についてコーヒーを飲んだ。パンも焼いて食べた。バターやらマーマレードやらを回した。FMの「バロック音楽をあなたに」がかかっていた。ヘンリー・パーセル。キャンプの朝みたいだった。
 「キャンプの朝みたいだ」と僕は言った。
 「かっこう」とメイが言った。》(上巻317p)

 この部分、何とも言えず好きだ。一夜を共に過ごした女性と一緒に、マーマレードを塗ったパンを食べたいとか、朝はパーセルの音楽に浸りたい、というのではない。このメイのさりげないユーモアが好きなのだ。

 今朝、外に出て、庭のバラたちの様子を一株ずつ見ていたら、遠くからカッコウの鳴き声が聞こえた。このところとても風が強い。気温も上がらない。今日もかなり風が強く、まだまだ夏の気配は感じられない。けど、私にとっては今朝のこの、春(というのか夏というのか)最初のカッコウの声は、何かウキウキさせるものがあった。

 カッコウの鳴き声は、古くから多くの作曲家を魅了してきたようだ。
 曲名は解らないが、中学生のときにそれこそ朝のFM番組で聴いた(番組名は「バロック音楽をあなたに」ではなく「バロック音楽のたのしみ」であるが)、確かスカルラッティのオルガン曲には、露骨にカッコウの鳴き声が取り入れられていた(ドメニコかアレッサンドロか、どちらのスカルラッティか解らないし、当然、曲名も解らないままだ)。
 ヨナーソン(1886-1956)の「かっこうワルツ」はそのま826ec673.jpg まのタイトルだし(この曲は、私に子供のころ住んでいた街の、ゴミ収集車を思い起こさせる。この曲を流しながらゴミ集めに来ていた)、L.モーツァルトの「おもちゃの交響曲」では「かっこう笛」が楽しい。
 大きな曲で有名なのは、マーラーの交響曲第1番だ。マーラーらしくカッコウの鳴き声の音度をそのまま用いてはいないが、繰り返しカッコウが鳴く。掲載したように当時のカリカチュアには、その譜と鳥の絵まで描かれている。
 ほかにもいろいろな音楽作品でカッコウの鳴き声は現われる。作曲者が意識したものもあれば、無意識に旋律に用いたものもあるのだろう。それだけカッコウの鳴き声は音楽的ということだろうか?

 しかし、カッコウでまっさきに私の頭に浮かぶ音楽作品は、ディーリアス(1862-1934)の「春初めてのカッコウを聞いて」(1911)である。
 この曲は「小管弦楽のための2つの作品」の第1曲で、もう1つの作品は「川辺の夏の夜」(1912)である。

 ディーリアスの両親はドイツ人であるが、彼の生まれはイギリスである。若いころはアメリカのフロリダ州で商業に従事した。ハロルド・ショーンバーグの「大作曲家の生涯」(共同通信社)から引用してみよう。

 《ある意味でディーリアスは、フォーレに似た作曲家409ccd03.jpg だった――すこぶる個性的で、時に繊細、優雅、かつ伝統的だがアカデミックではない、という点で。作品の数は少なく、大作曲家として認められるまでに多くの歳月を要した。……
 1924年には麻痺と失明に見舞われた。イギリス人の忠実な弟子エリック・フェンビーがディーリアスに付き添い、口授による作曲法を案出した。……
 ディーリアスの作品について説明することは困難である。イギリス的印象主義と評した人々もいるが、必ずしもぴったりではない。多くの影響が重なり合って、フレデリック・ディーリアスなる複雑な人物を作り上げたのである。……
 基本的には彼は音響を素材とする画家で、熱狂的な即興により自己を表現した》

 まさに、絵画のような音楽である。
 「春初めてのカッコーを聞いて」は、彼のほかの作品の傾向と同様に、モノトーンのea6f2420.jpg 水彩画を見るかのような音楽である。
 春を告げる(北海道では初夏だが)カッコウの声。すべてが生き生きとしてくる春の到来。しかし、ディーリアスは喜びの感情を噛みしめるかのように、穏やかな音楽でそれを表現している。なお、楽譜では、クラリネットがカッコウの鳴き声を奏する部分に「Cuckoo」と注記がある(掲載した楽譜は日本楽譜出版社のもの)。

 CDだが、ここではノーマン・デル・マーが指揮した、ボーンマス・シンフォニエッタのものを挙げておく。とてもしっとりとした演奏(曲そのものが本来そうなのだが)。薄い“もや”がかかった朝の林を歩いていると、どこかからカッコウの鳴き声が聞こえ、同時に“もや”が引いていく。今日は暖かくなりそうだ。そんな印象を与える演奏である。
 シャンドスのCHAN8372(輸入盤)。現在入手できるかどうかは解らない。

 なお、イギリスではトーマス・ビーチャムがディーリアスの音楽に関心を寄せ、彼の音楽の紹介に努めた。ビーチャムの演奏によるディーリアスのCDも出ている。
 

室内楽的な響きと室内楽の響きの違い

 ショスタコーヴィチの交響曲第15番イ長調Op.141(1971)、の室内楽編曲版。

 私はこういったオリジナルの編曲版はあまり聴くことが104066de.jpg ない。好きでないからである。せっかく作曲者が編成を考えて作った音楽を、大きな必要がないのに編曲することに抵抗があるのだ。もっとも「大きな必要」っていう尺度は私もよく解らないが……

 たとえば、戦時中などで、オリジナルではとてもメンバーを集めて演奏できないとか、作曲家が認めてピアノ作品をオーケストレーションするとか、そういったものは別だが、オリジナルがすばらしければ、あまり編曲する意味がないように思えるのだ(編曲したものの方が優れているというケースも、もちろんある)。

 さて、このショスタコーヴィチの第15番の編曲版は、今から10年ほど前に、クレマラータ・ムジカの演奏によってCDがリリースされたものだ。編曲者はデレヴィアンコとペータルスキーという人たち。何となく価格が安くてトレヴィアンだったので(←笑うところ)、買ってみた。ちなみに、ミグ21(29だったか?)で函館に降り立ったのはデレンコ中尉であった。

 この編曲版がどういう経緯から生まれたのかは知らないが、聴いてみると、意外と抵抗を感じなかった。おそらく、オリジナルの響きが室内楽的なせいがあるのだろう。
 でも、やっぱりオリジナルにはとうていかなわない。しかし、闇に葬るほどひどくもない。興味があったら一度は聴いてみたら、と消極的にお勧めしたい感じである。

 CDはグラモフォンのUCCG3919。ショスタコーヴィチの室内交響曲なども収録されており、2枚組2,900円。タワーレコードのネット通販で在庫あり。
 なお、写真のCDは初出の輸入盤のもの。現在のデザインは異なる。


ちょっぴりマニアックな主婦の談話

 札幌市営地下鉄東西線。
 その初代車両の6000系が、引退するという。
 私も通学でずいぶんと乗った車両だ。角ばったデザインがなかなかかっこよかった。
 そのことを書いた、今朝の新聞記事に以下のような記述があった。

 《引退を惜しむ市民の声も多く、西区の主婦○○○○さん(41)は「いつも利用して、思い出が詰まっています。一編成でもいいから残しておいてほしいけど」と話す》

 なんだか、決まりきったような記事の書き方だ。
 それにしても、主婦が地下鉄の車両に「思い出が詰まっています」とか「一編成」とか、果たして言うだろうか?
 どうもウソくさい(記事では主婦の名は実名)。

 同じく今朝の新聞に載っていた広告。
 道遊技関連不正防止対策機構などが出した広告で、洞爺湖サミットに関するもの。

 コピー
 《パチンコ・パチスロ業界が話し合って決めました。サミット前後47日間は遊技台の入れ替えを自粛します》

 ふぅん……

 そのあとには、少し小さな文字で長々と書かれているが、その内容は、洞爺湖サミット(7/7~9)の前後47日間は、サミットの協力支援及び環境への配慮、エコ活動を通しての社会貢献の観点から、遊技台の廃棄による二酸化炭素排出を抑制するのを目的に、遊技台の入れ替えを自粛する、というもの。

 何でサミットと関係あるのか不思議。
 言っていることはわかるけど、何でサミットに合わせ、その前後47日間、こうしなければならないのか、あまり意味が感じられない。
 サミット主催者側から、広告協賛依頼でもあったのかなと、勘ぐってしまう。

 サミットは大きなイベントだろうけど、周りを巻き込みすぎ。
 お金がないなら、誘致しなきゃよかったのに……

不思議な、けど笑える狂気の世界

 チェスタトン(1874-1936)の「木曜日だった男 ―― 0b672ba9.jpg 一つの悪夢 ――」。光文社の古典新訳文庫で、訳は南條竹則。

 《19世紀ロンドンの一画サフラン・パークに、一人の詩人が姿を現した。それは、幾重にも張りめぐらされた陰謀、壮大な冒険活劇の始まりだった。曜日の名前を冠したメンバーが巣くう秘密結社とは……。探偵小説にして黙示録!幻想ピクニック譚が胸躍る新訳でついに登場》という謳い文句。

 とにかく、シチュエーションもストーリーも馬鹿げた狂気に満ちている。いやぁ、おもしろい。いろいろな比喩、言い回しも笑える。このいささか狂った世界で、登場人物たちは真剣なのが、またニヤリとさせられる。
 こういう物語を訳すのは、その語り口がとても難しいだろうが、そのどこか狂った感じがきちんと表現されている。訳者の真剣な遊び心が伝わってくる感じだ。

 《サイムは穏やかに言った。「誠実とか不誠実とかいうことにも色々と種類があります。塩を取ってもらって『ありがとう』という時、あなたは本気でそう言っていますか?ちがうでしょう。『地球は丸い』とおっしゃる時、本気で言っていますか?ちがいますね。それはたしかに本当だが、本気ではないでしょう。ところで、あなたのお兄さんのような方は、時々自分の言いたいことを本当に見つけるんです。それは真実の半分か、四分の一か、十分の一であるかもしれません。でも、その時、彼は言わんとする以上のことを言うんです――言いたいというひたすらな思いから」》

 《「サイム君、君は今夜、中々たいしたことをやってのけた。僕に対して、女の腹から生まれた男がいまだなし遂げたことのないことをした」》

 《『君はこの原理を理解しておらんようだが』とやつは言った。『進化は否定に過ぎぬ。なんとなれば、そこには空隙の発生が内在し、それが差異化の本質なのだから』私は軽蔑をこめてこたえた。『そんなことは全部、ピンクウェルツの論文に書いてある。混乱が優生学的に機能するという概念は、とうの昔にグルンペが指摘しておる』言うまでもないが、ピンクウェルツだのグルンペだのという人間は存在しない。しかし、その場にいた連中は(驚いたことに)かれらをよく知っているらしかった》

 てな感じである。
 ねっ、おもしろそうでしょ?ばかばかしい(本人たちの)真剣さ!

 これを読んでいて、何となく思い出したのがニコルソン・ベイカーの「中二階」(岸本佐和子訳。白水uブックス)。内容はもちろん全然違うが、語り口に似たものがある。ただし「中二階」は、私は読書中断中(もうかなりになる)。

 ちょっと異質な「古典小説」。けっこうお薦めである。


長湯のスウェーデン人の思い出

 昨日に引き続きラフマニノフ。
 今回は交響曲第2番ホ短調Op.27(1935-36/38改訂)。

 昨日の文で、私はショーンバーグの「ラフマニノフはチャイコフスキーの足元でロシアの涙を流すだけの……」という言葉を取り上げたが、そのチャイコフスキーは、ラフマニノフの卒業作品であるオペラ「アレコ」に感心したという。そして、2人は実際に会ってもいる。
 ショーンバーグは、「両作曲家の間には多くの共通点があり、チャイコフスキーはラフマニノフを、自己の後継者とみなしていたのかもしれない。2人はともに、ドイツの形式によってロシアの憂愁(メランコリー)を表現した。全生涯を通じてラフマニノフは、完全に伝統的な枠組の中で活動することに満足した」と書いている。そう、ラフマニノフの音楽は、チャイコフスキーほどではないかも知れないが、ヨーロッパ的なのである。ラフマニノフの方が、ちょっと洗練されていなくて、ロシアっぽい。

 交響曲第2番は、私にとってスウェーデン人と過ごした数日間の思い出につながっている。
 といっても、色気のある話ではない。今から10数年前、わが社にスウェーデン人の研修生が2名視察にやってきたことがある。そのときに、たまたまそういった関連のある部署にいた私は、彼らの(つまり野郎2人というわけだ)の世話を担当した。社内でいろいろな説明をするときには英会話学校の講師に依頼して通訳をしてもらったから問題はなかったが、1泊2日で帯広に彼らを連れて行かなければならなくなった。
 いつもの通訳は都合がつかず、私だけが、この英語が話せない非言語伝達(ジェスチャー)も不得意な私だけが、同行することになった。現地では支社の中で、何とか英語が話せる人間が通訳してくれることになっていた。

 さて、とっても不安な旅が始まった。特急列車に乗って向かったが、車中で彼らに話しかけられることを極力避けようと、ずっとCDウォークマンを聴いていた。そのとき、特に繰り返し聴いていた曲がラフマニノフの交響曲第2番だったのだ。
 旅の話の続きをすると、降車する駅に近づいたとき、私は「次で降りるよ」というのを、何て伝えればいいか解らなかった。そこで「Next.OK?」と言った。彼らは満面の笑みで「OK!」と答えた。
 ところが、アナウンスで車掌が「まもなく到着」と言っている段になっても、そして私がこれ見よがしにカバンを網棚から下ろしているのにも関わらず、彼らは身支度をする気配がまったくない。とにかく、そこで私が思いついた言葉は一つ。“Ready!”だけだった(“Go”をつけるべきかどうか一瞬悩んだが、つけなかった)。でも、それで私のイライラと不安と目的が通じたから不思議なものだ。

 支社に行くと、支社長が挨拶をした。
 「本日は、遠いところからようこそおいで下さいました」
 通訳を担当したのは、英語を話せるという、そこの課長だった。
 しかし、支社長の最初のこの言葉で、うわ言のように「ウェ、ウェ」つぶやきながらフリーズしているではないか!(ウェルカムと言いたかったらしい)
 だめだ、ということで、もう1人英語が話せるという若手も呼んで、通訳を2人態勢にした。絶望的な状況はたいして変わらなかったけど、何とか最低限の説明はできた。

 夜は地元の温泉に泊まった。
 少なくとも食事のときまでは同席していてくれと、あのペテン師のような通訳係2人を呼んだが、相当自信がなかったのだろう。ちょっと飲み食いして、さっさと帰ってしまった。金払っていけ、と言いたくなった。
 残されたのは私とスウェーデン人2人。でも、こうなると意外と私の断片英語でも通じることがわかった。きっと彼らも飲んだために、真剣にあれこれ聞くという気力が失せ、適当さが増したのだろう。

 温泉旅館にいるのだから、当然浴場へ案内しなくてはならない。
 連れて行った。
 大浴場に入ると、彼らは「ホォォォォ~ッ!」と、奇声のような歓喜と驚愕の声を上げた。そして、勢いよく浴槽に入り、さらに潜ったりした。こうなると、私には止めようがない。どのように注意しろというのだ!?
 私にできることは、彼らとは関係のない人間だ、というふりをすることしかないではないか!事実、ひじょうに迷惑そうな顔をしているおじいさん達が何人もいる。当たり前だ。けど、彼らだって、注意のしようがないのだ。金髪の外人が2人、浴槽で潜りっこをしているのだ。シロクマよりもタチが悪い。
 で、私はこっそり彼らに“I go out”と、どう考えてもいい加減な言葉を言って、先に出ようとした。すると、そのうちの1人が“Camera!”という。裸の姿を記念に撮ってくれという意味かと思ったが、そうではなかった。脱衣所にカメラを持ってきて置いてあるから、見張っていてくれという意味らしい。意外とずうずうしい感性の持ち主だ。
 まあいい。私はアテンド要員にふさわしい笑顔で“OK”と答え、浴衣を着て待っていた。
 ところがである。私は40分もそこに待たされた。温泉をすっかり気に入った彼らは、十分すぎるほど入浴を楽しみ続けたのだ。やれやれ。
 その翌朝、別なおもしろい事件があったのだが、長くなるからやめておく。やれやれ。

 さて、ラフマニノフの交響曲第2番だが、ちょうどこの頃に人気が出始めた。私は全然知らなかったのだが、高校野球のダイジェスト・ニュース番組(確か「熱闘甲子園」といったはず)で、この曲の第3楽章が使われていたらしく、その影響もあったという。 確かにこの楽章は、感動を呼ぶ甲子園球児に対して、観る者の感動をさらに煽るにふさわしい音楽である。私なんかは、終楽章の、大太鼓が加わって「ズンチャッ、ズンチャッ」って鳴るところが楽しくて好きだけど。
 また、最近(でもないけど)の話では、許光俊編著の「絶対!クラシックのキモ」(青弓社。2004年刊)によると、キムタク主演のドラマでこの交響曲が使われ、女性たちにバカ売れしたそうだ。

 キムタクはともかく、私のお薦めCDはゲルギエフ指揮サンクト・ペテルブルク・マリンスキー(キーロフ)劇場管弦楽団の演奏。1993年録音。

 あのスウェーデンの人たち、あれだけ長湯してよく鼻血を出さなかったものだ。

ラフマニノフ in ダンス・ダンス・ダンス

 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」(講談社文庫)。

 「僕らはハレクラニのバーに行った。プールサイド・バーじゃ47962200.jpgない方の室内バーだった。僕はマティーニを飲み、ユキはレモン・ソーダを飲んだ。セルゲイ・ラフマニノフみたいな深刻な顔をした髪の薄い中年のピアニストが、グランド・ピアノに向かって黙々とスタンダード・ナンバーを弾いていた。客はまだ僕ら二人だけだった。彼は『スターダスト』を弾き、『バット・ノット・フォー・ミー』を弾き、『ヴァーモントの月』を弾いた。技術的にはもうしぶんなかったが、あまり面白い演奏ではなかった。彼はそのステージの最後にショパンのプレリュードをきちんと弾いた。これはなかなか素晴らしい演奏だった。ユキが拍手をすると、彼は二ミリくらい微笑み、それからどこかに消えた」(下巻157p。写真は上巻で、すまぬ。下巻のカバーは色使いが異なる)

 何か解るなぁ。バーでこんな顔して弾いてるピアニストはけっこういそうだ。その姿が想像がつく。

 セルゲイ・ラフマニノフ。1873年4月1日にロシアに生まれ、1943年3月28日にアメリカのビヴァリー・ヒルズで亡くなった作曲家。そして、恐るべきピアニストだった。

 ちなみにどんな顔をしていたかというと、こんな顔であ12a3b7af.jpg る(ショーンバーグ著「大作曲家の生涯」(共同通信社)より)。村上春樹の例え方って巧いなぁと思ってしまう。

 そのショーンバーグによれば、
 「ラフマニノフは1901年に『ピアノ協奏曲ハ短調』(第2番)を書き、この類型(パターン)から生涯外れることなく、本質的には同種類の音楽を作り続けた。大衆は彼の作品を愛したが、全世界の多くのプロ音楽家にとって、彼はチャイコフスキーの足元でロシアの涙を流すだけの、創造面では無に等しい存在だった。1920年代のロシア音楽が話題にされるとき、全世界が想起するのは、セルゲイ・プロコフィエフ――東方の流星にして、鋼鉄時代の作曲家、音楽界の立体派(キュービスト)――である。そして彼のあとには、正当なる後継者ドミートリー・ショスタコーヴィチが控えている。とすれば、ラフマニノフは、一体どういうことになるのだろうか?」

 ということだ。
 ちょっと言いすぎって感じはしなくないが、私の記憶でも、確かにこの本が書かれた頃(邦訳本は1978年の出版)、ラフマニノフ=ピアノ協奏曲第2番、という感じが強かった。あれから30年。状況は間違いなく変わったと思う。

 ただし、誤解がないように付け加えておくならば、ショーンバーグはラフマニノフを否定しているのではない(だからこそ「大作曲家」として取りあげているのだ)。

 「事実が示すところによれば、ラフマニノフは今も変わらぬ人気を保っている。彼の音楽は、自らの道を逸脱することをかたくなに拒んでいる。彼の音楽に好意を抱かぬどころか、すべての若手ピアニストが『ハ短調』『ニ短調』の両協奏曲をレパートリーに加えている。『ハ短調』は(本書執筆の時点で)すでに70年、『ニ短調』も60年の歴史を有するのに、いずれも人気低下の兆候はない。協奏曲に加え『交響曲ホ短調』(第2番)も人気を保っている。ラフマニノフの多数のピアノ協奏曲が、全世界の演奏会場で、引き続きひんぱんに取り上げられている」

 と、彼は書いている(『ニ短調』の協奏曲とは第3番のことである)。

 ラフマニノフは写真のイメージどおり、生真面目で、寡黙で、そして陰気な人物だったという。17歳(1891年)のときにピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調Op.1を作曲した(1917年に改訂)。
 1892年にモスクワ音楽院を卒業した彼は、モスクワに残り、ピアニストとしてよりは作曲家兼指揮者として有名になった。
 1895年、彼は交響曲第1番ニ短調Op.13を作曲し、翌々年に初演されたが、その評価はさんざんなものだった。彼はそのショックで、その後3年近く何も書けなくなった。最後は精神科で催眠療法の治療を受け、その治療の効果があって、彼のいちばんの人気作であるピアノ協奏曲第2番が1901年に書き上げられた。

 さて、ここではピアノ協奏曲第1番を取り上げる。
 先に書いたように、ショーンバーグによれば、ピアノ協奏曲第2番を書き上げたラフマニノフはこのパターンから生涯外れることがなかった、と書いているが、いやいやどうして、この作品1の番号をもつピアノ協奏曲からして、どっぷりとそのパターンである。
 学生時代に書かれた最初の作品であり、そののちに書かれた第2番のコンチェルトがあまりにも有名なため、この第1番はさほど頻繁に取り上げられる作品ではないのかも知れないが、十分すぎるほど甘美でセンチメンタルで、第2番以上にむせぶような激しい叫びがある。金管のファンファーレから始まるところが、第2番や第3番とは大きく違うパターンでもある。
 初演時のものと改訂版とに、どの位の違いがあるのかは知らないが(かなり徹底的に直したらしい)、改訂時期が第2番や第3番の作曲後であるから、逆に最初に書かれた1番が、2番以降のパターンにはまり込んでいったのかも知れない。c1600fdf.jpg また、終楽章には交響曲第3番の終楽章と似た感じの箇所もある。もっとコンサートで取り上げられて、そして聴かれてよい作品だと思う。

 CDとしてはアシュケナージのピアノ、プレヴィン指揮ロンドン響のものを私は聴いている(ピアノ協奏曲全集盤。1971年録音。ただし「パガニーニ・ラプソディー」は入っていない)。輸入盤でデッカの444 839-2。そのCDジャケットを見ると、やっぱり深刻な顔をしたラフマニノフの絵が描かれている。何か笑える……
 同じ演奏の国内盤はロンドン・レーベルから出ておりPOCL3840。タワーレコードのネット通販に、まだ在庫あり(確かロンドン・レーベル自体がもうなくなったはずだ)。2,957円である。なお、こちらのCDジャケットデザインは、輸入盤と異なり、「深刻なピアニスト」ではない。

 来月の札響定期では、彼のピアノ協奏曲第3番が演奏される。地味に楽しみにしている私である。


 

RAPSODIA CONCERTANTE

 伊福部昭の「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」。

 この曲はもともと、「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏ff2175c9.jpg曲」として、1948年に作曲された。作曲者34歳のときである。初演は江藤俊哉のvn、上田仁指揮東宝交響楽団(現:東京交響楽団)によって、同年6月に行なわれた。
 3楽章から成る40分ほどの作品であったが、伊福部はこの作品に不満を感じ、1951年に改訂した。その内容は両端の楽章を手直しし、アンダンテの中間楽章を破棄し、2楽章から成るものにしたのだった。改訂された作品は「ヴァイオリンと管弦楽のための狂詩曲」と改名され、ジェノア国際作曲コンクールに入選した。
 その後、伊福部はこの改訂版である「ヴァイオリンと管弦楽のための狂詩曲」のオーケストラ部分に2度にわたって手を加えた。
 最初は1959年のことで、改訂された作品は「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」と名づけられ、11月に小林武史のvn、森正指揮ABC交響楽団によって初演されている。
 2度目の手直し(つまり、改訂第3版となる)は1971年。タイトルは「ヴァイオリンと管弦楽(正確には“管絃楽”)のための協奏風狂詩曲」である。
 なお、その後の1979年にもう1曲のヴァイオリン協奏作品を伊福部は作曲した。そのため、1979年のものは「ヴァイオリン協奏曲第2番」と名づけられ、1948年にオリジナルが書かれ1971年に3度目の改訂がなされた作品は「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)」と表記される。

 伊福部昭はこの作品について、次のように書いている。

 《長い歴史をもつヴァイオリン音楽には、それぞれ優れた様式や流派が確立されていますが、この作品ではそれ等から少し離れたいわばジプシィ・ヴァイオリンに近い様式がとられています。
 それは、余りにも洗練され、ヨーロッパ化した様式と、又、4cf7971f.jpg 近代の虚脱から逃れてみたいと考えたからに他なりません。――この楽器の祖先は本来アジアなのですから。
 第一楽章では主として旋律的な要素に、又、第二楽章では律動的な面に主眼がおかれています》

 伊福部の文の中に「ジプシィ」という言葉が出てくるが、たまたま先日にご紹介した、岩城宏之の「音の影」(文春文庫)の、ブラームスの章のなかで、著者はこう書いている。

 《16世紀から現在まで、ヨーロッパ中でジプシー音楽は大変な人気があった。たくさんの作曲家がジプシー音楽で名曲を書いてきた。
 最近、メディアなどでは、「ジプシー」は差別用語だから使ってはいけない、「ロマ民族」と言うべしと通達されているらしいが、音楽におけるジプシー音楽の層の厚い浸透と人気を思うと、言い替えでは、文化的状況を言い表せなくなる、と思う》

 なぜ、ここでこの部分を引用したかというと、1つは伊福部は禁止用語使っているが、音楽においては決して差別的な意味合いはないということと、伊福部昭もまったく差別的な言葉と思っていないということ(しかも昔書いた文だ)。もう1つは、ジプシー音楽は西欧音楽にひじょうに大きな影響を与え、多くの作曲家に魅惑的に受け取られていた、ということを一応押さえておきたかったのだ。

 さて、「ヴァイオリンと管弦楽のためのeb60d07d.jpg 協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)」の第1楽章は、おごそかに始まるものの、とても活発でヴァイオリンが飛び跳ねるに動く音楽である。
 そして、この楽章には、のちに作曲される「ゴジラ」の旋律の断片がすでに顔を出している(掲載した楽譜を参照。この楽譜は全音楽譜出版社のピアノ・リダクション版スコアである。)。映画「ゴジラ」が作られたのは、この曲のオリジナル版が完成した6年後の1954年のことである。
 また、第2楽章はどこか懐かしいような親しみやすい旋律が、執拗に繰り返されながら進んでいく。この音楽には引き込まれずにはいられない!

 CDは私がお薦めなのは、小林武史のvn、井上道義指揮東京交響楽団のライヴ盤(写真)。フォンテックから出ていたものだが、残念ながら現在廃盤。へんに洗練されていないところが、伊福部昭の作品がもつエネルギーや土っぽさが逆に表れていて良い。
 いま手に入るCDは、「伊福部昭の芸術5 楽」(キング―ファイアバードKICC179)。徳永二男のvn、広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団の演奏。こちらは優等生的な演奏で、ちょっと物足りない感じがしないでもない。

伊福部昭の音楽は、どうしてこんなに私の痴、いや、血を騒がせるのだろう?


札響第509回定期演奏会 評

 札幌交響楽団の第509回定期演奏会が昨日あっa6087afa.jpg た(本日の15時からもある)。
 プログラムはモーツァルトの交響曲第40番とマーラーの交響曲第4番。指揮は尾高忠明、独唱は天羽(あもう)明恵。

 モーツァルトの演奏は、甘ったるさを排除した淡々とした演奏。とはいっても、ピリオド演奏とはもちろんかなり違う。しかし、モダン演奏の、大ホールで演奏する場合には、ピリオド的にするのはこのあたりまでが限界なのかも知れない。いずれにしろ、とても好感がもてる演奏だった。

 マーラーの4番は、肝心なところでオーケストラのミスというか、肝心なところの奏者のミスが目立った。曲が始まってすぐに、オーボエの音が一瞬つまって出なかった。これに誘発されるように、そのあとはクラリネットやホルンもミス。終楽章では歌の背後でトランペットまで、という有様。
 全体的にはマーラーらしい、時には荒れたような良い響きだったのに、こういったところどころのミスが惜しまれる。一回こういうのが起こると、聴いてる側も、またやっちゃうんじゃないかと、心配で落ち着かなくなる。こう言っては申し訳ないが、30年ぐらい前の札響はこんなだったなぁ、と思い出にふけってしまった。

 ソプラノ独唱の天羽は、写真ではかわいらしくて、きっと細身なんだろうなと勝手に思い込んで行ったら、ちゃんと歌手の体型をしていた。だからどうだ、というわけではないが……
 彼女の独唱はなかなか素晴らしいもの。ただし、弱音の部分では声が通りずらい感じがした。
 尾高の指揮は、いつもの彼のマーラー演奏と同じく、過度にオーケストラに叫ばすことがないもの。第1楽章なんかは、個人的にはもう少し騒いでほしいのだが……。それでも、全体を通して見通しの良い演奏で、マーラーの仕掛けた楽器同士の複雑な掛け合いもきちんと聴こえたし、第3楽章の平安なのかとち狂ったのか解らないような楽章も、その分裂症的な雰囲気がよく表れていた。
 終演後、尾高は独唱の天羽、そして第2楽章でソロを務めたコンサート・マスターとは何度も手をとりあって聴衆の拍手に応えていたが、いつも恒例のようになっている「よくやったね、偉いね」みたいに、オーケストラの特定のパートや楽員を立たせて聴衆に披露することは、ついぞなかった。
 きっと、ミスが連鎖的に起こっていたことに、かなり頭にきていたのではないかと思う。

 ただ、各奏者のミスであるから、それがなければ俄然良い演奏になるだろう。今日の午後公演は期待できるかもしれない。
 ちなみに、この演奏でいちばん安定していて音も通って940af244.jpg いたのはフルート。ホルンも一つの音の反転ミスがなければ、とてもよかった。

 マーラーの第4交響曲では、以前ケーゲル盤を紹介したが、今回はインバル盤を紹介しておきたい。
 1985年の録音で、オーケストラはフランクフルト放送響。独唱はヘレン・ドナート。デンオンのCOCO70404。タワーレコードのネット通販に在庫あり。1,050円。


 インバルの演奏も、決してマーラーと一緒になってバカ騒ぎをするわけではなく、どこか一線を引いているが決して冷めた演奏ではない。そのおかげで、オーケストラの音が混濁せずに、マーラーが書いた楽器同士の細かな絡み合いを私たちに伝えてくれる。

 それにしても、昨日の札響、客の入りは今ひとつだったなぁ。


はねられた少女。祈りの音楽。

 札幌の隣町の一つである喜茂別町。
 この札幌と喜茂別町の境界にあるのが“中山峠”である。札幌の南側の定山渓温泉を抜け、サミットが開かれる洞爺湖方面に向かう国道の途中である。

 私が中学2年生の夏休みに、家族で洞爺湖温泉に泊まったことがある。
 我が家が家族でどこかに宿泊しに行くなんて、異例中の異例であった。父親が、あるいは母親がどうしてそんなことを思いついたのか不思議である。

 我が家にはマイカーなどなかったから、行きは列車、帰りはバスを利用した。

 帰りに乗った、洞爺湖から札幌へ向かうバスが“中山峠”についたのは昼ごろだった。ここでトイレ休憩のため、10分ほど停車するのである。

 私が自動販売機でコーラを買おうとしていたら、背中の後ろの方、つまり国道で、すさまじい急ブレーキの音がした。
 振り返ると、女の子が宙高く放物線を描いていた。
 道路を横切ろうと急に飛び出して、乗用車にはねられたのだった。

 こういうとき、辺りは異常に静かになる。
 自家用車から降り、はねた少女を抱きかかえるドライバーの男性。その後部座席から赤ちゃんを抱いて降りてきた、奥さんらしき女性。その少女の親がどこにいるかわからないのだ。
 どれくらい時間が経ったか解らない。でも、2~3分だったのだろう。道の向こう側の方から「○○ちゃ~ん?」と呼びながら、道の方にやってくる、母親らしき女性の姿があった。
 私たちが乗っていたバスは、しかしながらそんなことにはあまり関係なく、少し出発が遅れただけで、札幌へと発車した。

 家に着き、聴いたのがフランクのコラール第3番イ短調(1890)であった。
 あの事故にあった少女に祈りを捧げるためではない。たまたま偶然にテープをかけたのだったが、何か恐ろしい感覚に襲われた。

 フランク(1822-1890)はベルギーの作曲家だが、1835年に家族とともにパリに移ったため、フランス音楽の作曲家として位置づけられている。1858年からは終生、パリのサント・クロティルド教会のオルガニストを務めた。

 「コラール」は3曲から成るオルガン曲集で、フランク最後の作品。
 おそらく彼は、自身の死を予感して、神を讃えるコラールを書いたと思われる。
 しかし、プロテスタント信仰のために書かれたバッハのコラールとは異なり、カトリックのフランクのコラールは自由な形式になっている。
 第3番は幻想曲として書かれており、トッカータ風の作品。アダージョの中間部が実に美しく、「信仰的」である。
  この「3つのコラール」は確かにフランクの傑作であるb2ccaa11.jpg が、必ずしも聴かれる頻度は高くない。なのに、なぜクラシックを聴き始めて1年ほどの私がこの曲を知ったのか?
 それは、1973年に完成したNHKホールのおかげである。
 このホールには国内で初めて本格的なオルガンが備えられた。
 そのために、イージ・ラインベルガーというオルガニストが来て、コラール第3番を含む、いろいろなオルガン作品を演奏、それがFMで紹介されたのだ。

 お薦めするCDはマリー・クレール・アランが1995年に録音したもの。
 エラートの0630 12706-2(輸入盤)。現在は廃盤かも知れない。

 あの日、コラール第3番を聴き終え、ラジオに切り替えると、はねられた少女は亡くなったとニュースが報じていた。



武満徹 in 音の影

 岩城宏之の「音の影」(文春文庫)は、各章が有名な作4bfe54d0.jpg 曲家に関する記述になっており、名前のイニシャル順、つまりAから順に配置されている。

 岩城宏之の書く文章は、いつもそうだが、実に平易である。
 ちょっと読むと、文章が下手なように見える。しかし、それは大間違いで、読みやすいように配慮されているのであって、このように易しく解りやすく書くことは、かなり文章上手でなければできないことだろうと思う。
 なお、この本は「名曲解説」とは違う。しかし、岩城宏之がそれぞれの作曲家にどういう気持ちを抱いていたかがよく解る。

 Bで始まる作曲家は、バッハ、ボッケリーニ、ベルリオーズ、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスが取り上げられている。

 バッハの章では、武満徹の話が出てくる。
 武満が死ぬ前に最後に聴いた音楽は、FM放送で流れた「マタイ受難曲」であった、という話である。バッハに関してというよりも、岩城はここで武満のことを多く書いている。

 岩城は1976年12月の札響定期で、全武満作品のプログラムを組んで、話題となった(私はこの演奏会には行かなかった)。その後も、札響は武満作品をよく取り上げ、武満も札響の演奏を気に入っていた。映画「乱」の音楽を武満が書いたとき、武満は演奏に札響を指定したほどだ。

 武満徹は(1930-1996)ほとんど独学で作曲を学び、日本の生んだ最も優れた作曲家として位置付けられている(事実、彼の死後1年間に世界中で彼の作品が1000回以上も演奏されたそうだ)。
 しかし、正直なところ私は武満の音楽が苦手である。傑作とされる「ノヴェンバー・ステップス」にしても、良いと感じたことがない。
 ただ、彼がTVドラマ「波の盆」のために書いた音楽は好きである。同時に、忘れてはならない作品でもある。
 
 もう5年以上前の話だが、当時私が勤務していた部署に、心に病をもったおじさんがいた。入社したときは成績優秀。しかし、あるときにプッツンし、その後は閑職。一日中、机の前でボーッとしていて、楽しみは昼の弁当だけ、という状態だった。
 私がいたときは暴れるなどの極端な症状はおさまっていたが、それでもしばしば不必要にハイになった。不思議なことに、かなり年は離れていたのに、彼は(言葉は悪いが)私をとても慕っていた。

 彼はTV好きで、私が札響がシャンドスから出したCD64575968.jpg を買ってきて、武満徹(という人)の話をしてあげると、ピンッと反応した。私が言った「波の盆」という言葉にだ。
 彼はそのドラマを観たことがあり、とてもよいドラマだったと私に話した(その話はしばしば筋が通らない箇所があったが)。そこで私は、彼に「波の盆」をカセット・テープに録音し、プレゼントした。
 クラシック音楽にはまったく無縁と断言できる人だったが、その音楽を彼は気に入り、いつも家でテープを聴いていたらしい(彼にとってはドラマの音楽なのだ。クラシックと位置づける方がおかしいのかも知れない)。

 「波の盆」(1983)は、日系ハワイ人を主人公とした、太平洋戦争の間の一世と二世の世代間の対立を描いているという。このCDで指揮をした尾高忠明は「こんな感動的な曲があるだろうか。レコーディング中、私は涙がでた。第一ヴァイオリン奏者の瞳にも涙が浮かんでいた。私の願いは、武満によって創り出されたこの特有なロマンティクさと感動的な主題を多くの人に知ってもらうことだ」と寄せている。

 そのおじさんは、その2年ほどあと、突然亡くなった。もう一つの持病であった肝臓の病状が進んでいたらしく、ある晩に血を吐いてあっけなく亡くなってしまった。
 定年まであと4年という、現役での死だった。

 葬儀のあと、奥さんが私のところに挨拶に来て言った。
 「主人はあのテープをよく聴いていました。もらったことを子供のように喜んでいました。今日、テープもお棺に入れさせていただきました」
 私にとって「波の盆」は、彼の追悼音楽となった。
  
 曲は6つからなっており、それぞれのタイトルは「波の盆」「ミサの主題」「失われた手紙」「夜の影」「ミサとコウサク」「フィナーレ」である(私が持っているのは輸入盤のため、固有名詞の漢字表記が解らない)。

 CDはシャンドスのMCHAN9876(国内盤)。タワーレコードのネット通販に在庫あり。2,730円。あらためて書いておくと、指揮は尾高忠明、オケは札幌交響楽団。他に、武満の「乱」、尾高惇忠の「オルガンとオーケストラのためのファンタジー」、細川俊夫の「記憶の海へ~ヒロシマ・シンフォニー」が収録されている。録音は2000年。

 人が姿を消すときは、あまりにもあっけない……

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