June 2008
ということで、まだ都内に潜伏中、いや、滞在中の私である。
何の恨みか、今日は用務が夕方からである。
10時。ホテルのチェック・アウト・タイムになってしまったので、しぶしぶと部屋を出て、雨がしとしと降る中、駅に向かった。夕方からの用務は、その駅から電車に乗らなければならない場所、ちょっとしたはずれの街で遂行されるのだ。
しかし、先に書いたように用務は夕方から。時間がありすぎる。
まずは駅前のタワーレコードに寄る。
そこで、CDを2枚(2組)購入してしまう。
特に珍しいCDではない。1つは国内盤(C.P.E.バッハのミサ曲)だし、もう1つは輸入盤ではあるけど、これだってさして珍しくない(シューベルトのピアノ・ソナタ選集)。ただ、シューベルトの方は、“sale”と書かれていたので買ってしまった。
それにしても、別に札幌でだって買えるのに、なぜわざわざ荷物を増やしてしまうのだろう。
昨日は昨日で、文庫本を2冊買ってしまった。まだ読みかけの文庫本を持ってきているのに、である。
CDと文庫本で、私のカバンは間違いなく来たときよりも重量を増してしまった[E:bearing]。
タワーレコードで時間をつぶすつもりが、あっさりと買い物を済ませて(あるいは、済んで)しまったので、しょうがないから電車に乗った。目的地の駅周辺の方が人が混みあっていないのが確実だからである。
わざわざ特急電車を見送り、各駅停車に乗る。
時間を非効率的に費やすためにはこのような努力と作戦が必要なのだ。
でも20分ほどで着いてしまった。
そして私は今、慣れない場である、ネット・カフェでこの文を打っているというわけである。
ほとんどこういう店のシステムを知らない私は、受付のおねえちゃんに、初めて飛行機に乗る老人のように、とんちんかんな質問をし(飲み物はただですか?飲み放題ですか?パソコンの使用料は別にかかるのですか?持ち物検査はないのですか?貧乏ゆすりをしてもいいですか?私のような美しすぎる人間が利用しても罪にはならないでしょうか?)、迷える子羊のように指定されたブースを探し求め、飲み物を取りに行くにもオドオドし、周囲からは浮き浮きのスーツ姿で、いま私はこのような駄文を書いているのである。
実はネット・カフェを利用するのは初めてではない。
前に1度だけ札幌で使ったことがある。そのときは個室だった。だから戸を閉めたら落ち着くことができた。その気になればすっ裸になって打鍵することだって可能だったほどだ。
だが、ここは違う。
選挙の投票用紙記入場所みたいなブースが並んでいる。選挙と違うのは目の前に「候補人名簿」が貼っていないのと、椅子があるのと、パソコンがあるのと、3区画向こうの青年がドンベエを食べながらパソコンに向かっている点である。
それにしても割安な3時間コースを選択しなくてよかった。
今の私には時間こそたっぷりあるが、この空気に3時間も晒されたら「さん~っ!」と、世界のナベアツように叫んでしまいそうだ。
ここでの滞在はほどほどにして、近くにあったヨーカドーに行き、ファミールで生活に疲れた家族連れたちに囲まれながら、食べられるのに疲れ果てたようなスパゲティでも食べよう。ファミールがあることを願う。
ところで、用務が終わったら羽田に向かい夜の千歳便に乗る。
打って変わって羽田まで行くには時間の余裕があまりない。
う~ん、メリハリがありすぎる……
掲載した写真は、数日前に撮ったパット・オースティン[ER]である。
いつもよりちょっと毒々しい姿である。
彼女、咲くにあたって何かいやなことがあったのだろうか?
昨日書いた、「私の恋人」なる傑作な名前の菓子は、どうやら北見のヴァンノールという会社の商品らしい。
本当はじっくりパッケージを見たかったのだけど、エプロンをしたワイシャツ姿の売り子のおじさん(催事ではひどく典型的な格好である)が暇そうにして立っていたので、付きまとわれないよう、「垣間見た」に過ぎない。でも、ワンダーなオーラは十分に伝わってきた(おじさんに、ではなく、商品に)。
私が知っているだけでも、「白い恋人」のパクリ、あるいは便乗ものは少なからずあるが、「白い恋人」に類似品がかなわないのは、なんといってもチョコレートの味が違うかららしい。らしい、というのは、あくまで複数筋から聞いた話だからだ。まあ、工場を「チョコレート・ファクトリー」と名付けているくらいだから、チョコレートにかなりこだわりがあるのは間違いないだろう。
これとは逆に、後発組の方の人気が高まったのが、生キャラメルである。花畑牧場の生キャラメルはすごい人気だという。田中義剛はますます偉そうに語っている。
でも最初に始めたのは北見の方にある、ノースプレインファームというところなんだそうだ。再び複数筋から聞いたところによると、味も元祖の方が美味しいらしい。ところが、テレビ効果で花畑牧場のものに火がついてしまった。さすが、商売人義剛である(ところで、彼はよくわかっていないことも、マスメディアにわが知り顔で語ったり書いたりする。そこがいただけないし、底の浅さを感じる)。
昨日、千歳から羽田にフライトしたのだが、千歳の空港売店には、ノースプレインファームのの生キャラメルはまだ残っていた。こういうのを見ると、何とも気の毒に思う。別に応援する義理はないんだけど。
ところで羽田に着いたら、コンコースに「BYORI」と書かれた電飾看板が目についた(電飾看板なんて日ごろ使う言葉じゃないけど、ほかに何て言えばいいのだろう?)。
いったい何のことかと思ったら、「〇〇鋲螺株式会社」と書いてあった。
世の中、いろんな会社があるもんである。
昨日、札幌駅近くを歩いていたら、ESTAを出たところの通路で小さな催し物をやっていた。
そこに出されていた商品を見て、私は自分の目を疑い、その次に笑った。
「私の恋人」
パッケージも「白い恋人」にそっくり。そして、間違いなく中身もそっくりなのだろう。どこのメーカーで作っているのだろう。露骨な勇気ある行動に出たこの会社、今日確認しに行ってみよう。
それにしても、私の恋人って、のろけてないで勝手にしろって感じだ。
ローカルネタで恐縮だが、昨日からコープさっぽろ(生協が)、材料のすべてが道産(国産だったかも知れない)品の冷凍ギョーザを発売した。
価格は500円以上。入っている個数は知らないが、とにかく中国産の冷凍ギョーザよりも2倍以上の価格になるという。
まあ、そうだろう。
このギョーザ、開発しているときの様子をニュースで見たが、組合員からは「高くて家族で食べるのはたいへん」「ウチは4人家族だから、すっごく高くつく。こんなギョーザなら買えない」といった声がけっこう上がっていた。そして、生協担当者が悩める顔を浮かべていた。
それを見て感じた素朴な疑問。
「だったら挽き肉や野菜、ギョーザの皮を買ってきて、自分で手造りすればいいのに……」
安心・安全なものを要求しながら、価格が高いと文句をつける(その価格にもよるけど)。しかも、冷凍ギョーザという「簡便性」も求めている。
そもそも冷凍食品というものは、簡便性を求めるためのもの。安全でないのは困るが、質を追求するなら「手造り」すればいいのだ。
特に「組合員」という立場、しかも開発モニターに呼ばれているくらいの人なら、価格以外の視点から見る、という意識も持たなきゃならないんじゃないか、と思う。
生協の事務局というか執行部もたいへんだろうなぁ。
自分の組織の構成員である「組合員」様の声だから、邪険にもできないんだろうし。
でも、今回の試み。偉いと思う。よく発売にこぎつけた。
きっとこれからの食の志向は、「安けりゃ多少のことでは質に目をつぶる」という層と、「高くても質を追求する」という層に二極化するんだろうな。
高価格冷凍ギョーザは後者の層をターゲットにすればいい。
そんなことを考えてしまった。
私は冷凍ギョーザを買うことはないんだけど……
♪
今朝、イングリッシュ・ローズのヘリテージが咲いた。
このバラ、とっても美しいけど、1日で散ってしまう。
そこがまた、良いのかもしれない。
数日前からブルトンの「狂気の愛」を読み始めた。光文社の 古典新訳文庫で、訳は海老沢武。
本書のセールス・トークは、
《「愛のどんな敵も、愛がみずからを讃える炉で溶解する」 難解で誌的な表現をとりながら、美とエロス、美的感動と愛の感動とを結びつけ、徹底的に考え抜く。 その思考実験の果てに、あまりにも美しい、娘と妻への究極の愛の手紙が置かれる。 シュールレアリスムの中心的存在、ブルトンの代表作。 充実した詳しい訳注と、的確な解説とともに…… シュールがついに読めるようになった!》
というもの。
素敵じゃありませんか!そそるじゃありませんか!
そして「訳者まえがき」には、《難解ではあるがユニークな美しさに輝くこの「狂気の愛」が、どうか多くの読者の、『藪に覆われた欲望』をあらわにし、生の錯乱と狂気に力を与えんことを。そして、若い読者も、そう若くない読者も、今後の人生において『狂おしいほどに』愛されんことを》とある。これまた、素晴らしいじゃありませんか!そう若くない読者の一員である私は、すっかり舞い上がったね。
そして本文を読み始めた。
読み始めて3日目。まだ16p目である。「訳者まえがき」を除けば、実質6pしか読んでない。
だって、本当に難しいんですもの。セールス・トークに嘘はなかった。
藪に覆われた私の欲望は、藪に覆われた読解力をなかなか超えないのである。
訳が小難しいのではない。実際、訳者は《今回の翻訳では、その難解さを多少なりともやわらげるため、多くの箇所で長い文章を切断し、改行をほどこした》と書いている。
ありがとうございます。
でも、もともとの表現が私には難しすぎるようだ。
「多少なりとも」が私には不足だったのかも知れない。
いったん中断。
冷却して、出直すことにする。
飛騨牛の社長。
あの社長の最初の態度はひどかったね。
攻撃的で堂々とした態度は、ミートホープの社長以上に「ふつうじゃない」ものを感じさせる。
それにしても、映像で流れる「飛騨牛」。私はあんなにサシの入った肉は食べられません。高い安いではなく、一口で胸焼けしちゃいます。安上がりにできていてよかった。
霜降り信仰っていうのは昔からあったが、それにしても日本の皆様はいつからあんなに脂好きになったのだろう?これじゃ成人病患者が増えるのも無理はない(人のことは言えないけど。脂身が嫌いな私は「予備軍」に所属中)。
ミンチ肉となると、あれはいろんな部位を混ぜているわけだから、もうわけがわかんないでしょう。ミンチ肉を買うときはブランドなんて信じない方が利口です。たぶん。
♪
昨年秋に購入したフリュイテ(写真)。
思った以上に鮮やかな色だ(写真は悪いけど)。
ちょっぴり我が家の庭のカラーリングには合わない気もするが、でもどんなバラでも開花は嬉しい!
土曜日にデジタル・オーディオ・プレーヤーなるものを買った。
以前、こちらに住んでいるときにはCDウォークマンを使っていたのだが、さすがに今や、そんなものを使っている人は見かけない。あの頃は、CDウォークマンを腰のベルトに装着してヴイヴイ歩くのがトレンディーだったのに……
で、買ってみた。2GBで店頭でいちばん安かった商品。
Creativeの“ZEN STONE”というもの。Made in China。
価格は4,980円。
いやぁ、小さい、軽い。これで音楽が再生されるのかと思うと、ちょっぴり「こんなママさんマート」のパーツみたいなんで大丈夫なの?と思ってしまう(ママさんマートって、ままごと玩具です)。こんな大きさなら子供が誤飲してしまうかも知れない(象の子供)。 昨日、CDから音楽を移行した。
マーラーの交響曲第1&4番、モーツァルトの交響曲第25、31、32番、伊福部昭の「リトミカ・オスティナータ」と「シンフォニア・タプカーラ」、「ラウダ・コンチェルータ」に「サロメ」、ヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番にストラヴィンスキーの「春の祭典」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、モーツァルト・パパの「おもちゃの交響曲」、C.P.E.バッハのシンフォニア3曲、ディーリアスの小品3曲、ドビュッシーの「小組曲」、カリンニコフの交響曲第1、2番、ハラルト・ヴァイスの「もう一つの楽園」と「Das Gespenst」。
トータル・タイムで8時間以上になるはずだが、これだけ入れても、空き容量は半分以上残っている。むしろ私のほうが何をコピーしたか忘れかけている。
移行(コピー)にかかった時間は、なんだかんだで2時間ほど。でも、これだけの曲が2時間でコピーできるのだから、速いと言える。
早速聴いてみる。左右の広がりがやや乏しく、全体に窮屈な感じの音。CDウォークマンと比較しても(といっても記憶に基づく)音の広がりや奥行きが不足している。小さいホールでオーケストラを聴くときの印象に近い。まっ、あんな小さい中に押し込められるのだから無理もない、と妙に納得してる私ではある。
おそらく、高価格帯の商品ならば音質も良くなるのだろう。デジタルだから価格は音質には関係ないような気もするが、絶対差は出てくるはずだ。そう思うと、次はもう少し高い製品を買ってみようと疼いてくる。
また、私は今回、標準コピーを実行したのだが、より容量を食う高品質モードでコピーすると、こういった問題は改善されるのかも知れない。
でも、通勤や出張で聴く分には支障ない。本格的に聴きたいときには、重量級の再生装置とにらめっこしながら聴けばいいのだから(なんだか狭い家に置いておくのが罪のような気になってきている)。
それにしてもすごいなぁ。そのうちCDはなくなるのかなぁ。カードの形で音源販売。いや、ネットで全部済んでしまうようになるのだろう。年老いたときにそれについていけるか不安。まっ、その頃は耳も遠くなって、音楽を聴くどころじゃなくなっているんだろうけど……
こんな小さなサイズ(5cm×3.5cm、厚さ1cm程度)に、これだけの音楽が詰まっているなんて、何だかウルトラセブンの“カプセル怪獣”の存在も決して突飛な話ではない気がしてくる。
同じような発想で、傘を持ち歩かないで済むような方法が発明されないだろうか?
って、何言ってんだか……
昨日行なわれた札幌交響楽団の定期演奏会。
予告どおり、私は金曜に引き続き聴きに行ってきた。
“Many Happy Returns”の祈願効果であろうか?2曲とも前夜の演奏を上回るものと、私は感じた(写真の花は昨日掲載のものと同じだが、撮影時間が昨日のものの2時間ほどあと。すっかり開いておしべやめしべまであらわにしちゃって、この子ったら……)
まず、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。
ピアノのリフシッツのアプローチは前夜同様だが、オー ケストラとのアンサンブルがより充実し、前夜の“独奏に対しオーケストラがしっかりサポート”が、“独奏とオーケストラの共生”に変化した。クマノミとイソギンチャクみたいなものだ。
安直に想像するに、金曜のステージのあと、高関氏とリフシッツ氏の2人はジンギスカンをつつきながら、「ねぇ、僕たちもう少し分かり合えると思う。そうしたら、素敵になると思うな」なんて、打ち合わせをしたのだろう。Plan-Do-Seeサイクルの見事な機能が発揮された(と思っておこう)。
金曜公演では音がずれていた、第1楽章の最後の2つの音(譜例上。楽譜はDover社のもの)も、ピアノと弦がしっかりと合っていた。
また第1楽章カデンツァも、前夜のようなミスはなかった。スパイスをちょっと期待していたのに(ウソ)。
第3楽章の、シンバルと大太鼓の連打のあとのピアノとオーケストラのとの呼び掛けあい部分は、前夜の演奏ではピアノが焦って進みオケが慌てて追いかけた感じであったが、昨日 は「鳴ってグー、叩いてグー!グー、グー、グー」であった(譜例・中。同)。
私は正直、曲の終わり近くでは目頭が熱くなってしまった。同時にかつてのCF、ピアノの前に座る中村紘子を取り囲む、カレー好きの音楽家たちの奇妙な情景を思い出してしまったわい。
ラフマニノフ
感動したよ
リフシッツ
であった。
アンコールはショパンのエチュードOp.25-7。
ところで第1楽章の途中で、客席最上階近くから2回にわたって鳴り響いたアラーム音。「ピピー、ピピー」と2回ともけっ こう長かったが、いったいあれは何なんだ?
会場で音楽を聴いている全員分の、精神的苦痛に対する賠償の覚悟を持つぐらいの罪深さがある。
さて、「春の祭典」。
こちらは金曜とは同じメンバーと思えないほど、よりよりより一層すばらしい演奏。
「黒インク一色刷りの教科書」は「オールカラー、チャート式参考書」となった。ストラヴィンスキーの生命感に満ちた“踊り”が展開された。「まいったね、やれやれ」(←良い意味)。
なお、昨日の冒頭のファゴットも、金曜同様、かすれたように吹き始められたが、これで「あっ、これって坂口さんが意図的にやっているんだな」と思った。
「へたっぴかも知れない」なんて言って悪かった。でも、あれは愛情の裏返しで言ってしまったのだ(でも、練習番号12からのところでは、案外スパッと吹いていたけど……)。
ただ、前日の演奏が(冒頭に限らないのかも知れないが)坂口さんにとって決して満足のいくものではなかったのは確かだろう。演奏後、指揮者に真っ先にスタンディングを促された彼は、楽器を掲げ誇らしげに挨拶したが、前夜はそうではなく、バツがあるそうにはにかんでいたから。
そうそう、迷惑な爺さんがいなかったせいで、おかげさまでアンティーク・シンバルをきちんと見ることもできました。
今回の定期演奏会、私は土曜日の演奏に軍配を上げます。迷わず。
2日連続で聴くってことは今後もそうそうないとは思うけど、どちらか1日だけ行く場合、選ばなかった方が良かったらかなり悔しいことになりますわ、これは。もっとも、行かないほうの演奏は知る由もないけど。
ところで、「春の祭典」ではティンパニが2組使われるが、金子建志編の「オーケストラこだわりの聴き方」(立風書房)では、次のように書かれている。
《「どうしてここをわざわざ2人で分担しなきゃいけ ないの?」という疑問を感じさせてしまう「超有名曲」がある。それは、かの有名なストラヴィンスキーの「春の祭典」である。
その第1部「大地礼賛」、第5曲「敵対する都の人々の戯れ」の練習番号57の部分。(中略)一言で言えばこの2小節間、2人のティンパニ奏者は「表拍」と「裏拍」の「掛け合い」を異なった音程でやらされている……と言うだけのことなのだが、これがじつはあまり効果的であるとは言えず、うまく行けば行くほど録音ではひとりの奏者が演奏しているようにしか聴こえない。がしかし、スコアをみるとテューバの2人の奏者もこのティンパニが担当しているのとまったく同じ音程の音符を分担して奏するように書かれている。このことからしても、作曲者のストラヴィンスキーは、何らかの明確な意図があって、このようにわざわざ分担させて書いたのであろう。が、我々演奏者の現場ではひとりで演奏してしまうことが、いまや日常化されてしまっている》
この項を書いているのは新日本フィルの打楽器首席の近藤氏である。
その箇所というのは、譜例下の部分(楽譜はBOOSEY & HAWKES社のもの)。
たぶん、今回の札響の演奏でも、この箇所は1人でやっていたと思う。視覚的記憶がすでに定かではないけど……。このあたり、昨日も一昨日も、まだ第2ティンパニ走者は、ステージ最上段で、育ちのよいおぼっちゃまのように、じっとティンパニの前でたたずんでいたように思うのだ。
話はリターンして、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番のCDだが、私がよく聴くのはアシュケナージがプレヴィンと共演したものである。このCDは1ヶ月ほど前に、彼のピアノ協奏曲第1番について書いた投稿で触れている(ラフマニノフ in ダンス・ダンス・ダンス)。写真は輸入盤の全集物だが、現在国内盤では分売の形で販売されている(デッカUCCD3874)。
なんか、しばらく私の心はラフマニノフの影響下に置かれそうな感じがする。
あぁ、コルホーズ、ソフコーズ……
札幌交響楽団第510回定期演奏会。
A日程は昨日6月20日、B日程は、同じプログラムで 本日21日15時開演。
で、昨日の感想。
まず、そのプログラムだが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番とストラヴィンスキーの「春の祭典」という、“ロシア魂”もの。
指揮は高関健、ソリストは“1976年ロシア生まれの天才的ピアニスト”コンスタンチン・リフシッツ。ちょっと迫害を受けそうになったが何とか回避できたイエス・キリストのような風貌である。
そういえば、昔大やけどをして札幌医大に運ばれて来た子も、コンスタンチン君という名だった。お母様がお綺麗でした。
オーケストラは第1、第2ヴァイオリンが左右に分かれる両翼配置。コントラバスはステージに向かって左奥に配置。この配置は昨年1月で、彼の指揮する都響の定期演奏会でもそうであった(ような記憶がしている感じがする)。
まずはラフマニノフ。
結論から言えば好演。最初はずいぶんと抑制的な演奏(ピアノが)と思ったが、そんなことはなかった。
ソリストのコースチャー(って呼んでも許してくれるかしら)は、弱音から強音での音の強弱の表現領域がひじょうに広い!ラフマニノフってこんなに声を潜めるところがあるのか、と感づかせてくれる内向的な表現から、破壊的な爆発音までのレンジの広さ!
まるで子供が食卓テーブルに近づこうと、座ったまま椅子をずらすかのように、お尻で椅子をこまめに左右にずらしながら(ケツが滑って椅子から落ちたらどうしようか、きっと大笑いだな、と心配して見ていた私)、ラフマニノフの囁きから叫びまでをホール内に響かせた。
第1楽章のカデンツァでは、強奏箇所でミスタッチによる“汚い音”が出る場面もあったが、不思議なことに、こうなるとそれもある種のスパイスのように響いた。こんな具合で、すっかりコースチャーに魅了されてしまった。Amen!
サポートする札響の演奏も見事。ピアノが暴走気味になった部分では追っていくのが大変そうだったが、すばらしい協奏であった(特に終楽章は背筋がゾクゾクものだった)。
なお、アンコールでショパンの「エチュードOp.25-6」が演奏された。
リフシッツ、今後の活躍が期待できそうだ。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、札響のもつパワーが炸裂。
しかし、高関のスタイルなのかどうかは解らないのだが、どこか優等生的で、この曲がバレエ音楽であるという雰囲気が今ひとつ希薄。何か、黒インクだけで書かれた、詳細だがとっつきにくい教科書を読んでいるかのよう。
だから、オケのパワーが炸裂したといっても、聴いていてもどこか私の心が発狂しない。演奏としては良い出来なのだろうけど……。
それは聴衆の拍手にも表れていたと思う。楽員のスタンディングでは各人のテクニックに拍手が高まっていたが、最初の、曲が終わったときの拍手には冷静な響きがあった。
「春の祭典」は言うまでもなく、ファゴットの 高音で始まるが(譜例。楽譜はBOOSEY & HAWKESのもの)、昨夜は空気が抜けるようなかすれた音で始まってしまった(ここでの緊張は、でも凄いだろうな)。それは、もう一度吹かれるところ(Tempo Ⅰ。練習番号12の部分)でも同じ。やっぱりスパンッとは出なかった。腰を悪くした人が、椅子から立ち上がるときのような感じだった。
ファゴットの坂口さんにしてはとても珍しい出来事。リードの調子がよほど悪かったのか?
もっとも、作曲者が求めたという「演奏者が苦労して出す必死な音」という点では、まさしく意図されたとおりなのかも知れない。坂口さん、実はそのツボを狙っていた?いまは、どの演奏でも楽々吹きすぎなのかもな。
あと、もう一箇所、音がパーンッとうまく出てこなくて「うぇっ!」と思った箇所があったのだが、あまりにも「うぇっ!」と思いすぎたせいか、それがどこだったか、木管だったか金管だったかも忘れてしまった。こんな自分に「うぇっ!」である。
ただ、演奏全体は高レベルのもの。逆に言えば、この難曲をずいぶんとさらりとやってのけてくれたわい、ということにもなる。
ところで昨夜は、“アンティーク・シンバル”の“姿”を確認することができなかった。
私の斜め前の初老男性が、椅子から身を乗り出してステージに見入っていたからだ。
身を乗り出すのは後ろの客にひじょうに迷惑である。キタラの場合は前後の客席の段差がけっこうあるのだが、それでも視界が遮られてしまう。身を乗り出したくなる気持ちもわかるが迷惑行為として気をつけていただきたいものだ。
「春の祭典」では、私はほとんどの場合、ショルティ/シ カゴ響のCDを聴くことが多いのだが、今朝はメータ/ニューヨーク・フィル盤を聴いた(早朝ハルサイ……)。メータの「ハルサイ」では、ロス・フィルを振った盤が古典的名盤とされているが、この演奏もなかなかである。けっこう、昨日の演奏に近いものがあるかも。残念ながら今は廃盤のようだが……(私が持っているのは輸入盤でCBSのMBK42616)。
最初に書いたように、今日の15時からB日程の演奏会がある。
私はこれも聴こうと思っている。
だって「ハルサイ」、好きなんですもの。我慢できないんです、アタシ……
今日は、コースチャもカデンツァでしくじらないと思うし(昨日のようにスパイスを効かせて欲しいという気持ちもあるが)、第1楽章の最後の音でピアノとオケがずれることもないだろう。
Plan→Do→Seeが実行されていれば……
「ハルサイ」でも坂口さんのリードは絶好調に復調すると思う(今日も同じようになったら、へたっぴと言いたくなる。あぁ、残酷で無責任な聴衆……)。あの乗り出し爺さんがいないから(と思う)、アンティーク・シンバルの姿も確認できるだろう。
それを前祝するかのように、今朝、庭で「Many Happy Returns」が咲いた。上の写真である。
んっ?もともとHappyなんて私にはなかったから、ましてやManyなHappyなんて私には縁のない語句だから、Returnもありえないか……
補足)開演前に流れるアナウンス。
「会場内は携帯電話が使えませんので(確かに圏外になる)、マナー・モードに設定の上、電源をお切りください」って、何かおかしくなぁい?
① 圏外になるのだから電源は切らなくても関係ない。でも、万が一のことを考え、電源オフはすべき。アラームなんかもあるし。
② でも、なぜマナーモードにしてから電源を切らなきゃならないの?率直に「電源を切りなさい」でいいような気もするのだが……
万が一、電源をオフにするのを忘れても、音が出ないようにするための担保?
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