今日の朝刊(北海道新聞)に、村上春樹の「ノルウェイの森」が初映画化されるという囲み記事が載っていた。
ほほぅ~って気分である。
監督はベトナム出身のフランス人トラン・アン・ユン氏。この人は「夏至」「青いパパイヤの香り」などで知られるそうだが、私には知られていない。村上氏も映画化を承諾した。
脚本も監督が担当。同監督は「原作は力強く繊細で、激しさと優雅さが混沌とし、官能的かつ詩情にあふれている。この作品を映画化したいと直感した」とコメントしている、という。
村上春樹の作品をどのように映像にしていくのか、とても興味深い。と同時に、果たして原作のもつ“空気”を、原作を破壊することなく、あるいは原作を貶めることがないように映画化できるのか、ちょっと心配。性描写を強調するような方向に走ってほしくないのだけど。
まあ、私が心配する関係にはないのだけど。
キャストは日本人俳優になる予定だというが、キャスティングがどうなるのかもなかなか興味深い。
公開予定は2010年。撮影開始は2009年2月の予定だそうです。
July 2008
豊川悦司が主演した映画「男たちのかいた絵」(1996)。先日あらためてこの映画を観て、ふと、くだらないことを思った。
それは、自分のこと(主として振る舞いにおいて)を「私、二重人格だから」と、不都合を正当化しようとする人は少なくない、ってことである。
言われたほうも、「そっか、病気ならしょうがないな。やれやれ。大目にみるか」という風に捉える。でも実際のところは本気では受けとめてないだろう。慈悲深い表情を浮かべながらも、「なぁに言ってんだか……。単にわがままなだけだろうが。そう意味じゃ、オレだって負けないぞ」と思ってるってわけだ。
今まで見せていた表向きの“顔”が崩れ、本来の姿、つまり“地”を見せてしまったときの、「背負わされた運命」的言い訳である。そのままメッキがぼろぼろに剥がれ落ち、挙げ句の果てに開き直る人もいるくらいだ。「私、性格悪いから……」ってなると、もう賛同の声しきり。かえって正直でたいへんよろしい。
友人関係や恋愛関係で亀裂が入るのは、長く一緒にいる機会が増えることで、まさに“表向きの良い顔”を演じ続けるエネルギーを維持できなくなり、相手の“地”を垣間見、さらにむしろ良い顔の方を垣間見ることが定番化することで生じるのだ。恋愛関係においては、性格などのメッキが剥がれる以前に、化粧が剥がれた真の姿を見せつけられるという洗礼を受けることもある(よっぽど化粧が濃い女性に限るけど)。女性からの場合だと、彼氏が実はシークレット・シューズだったとかね。あら外で抱きしめられたときは、私の顔は彼の胸に埋まったのに、お座敷だと彼の顔が私の胸に埋まるわ、なんてね。お座敷……(靴を脱いだ状態という意味です)。
とにかく、二重人格と人が言う場合は、たいていは自分のわがままや虚構の装飾をもっともらしく言っているだけ。こういう人は私の周りにもたくさんいる(残念ながら私も含む)。
その“本当の意味での二重人格”(というのが的を得た表現かどうかは解らないが)を描いた映画「男たちのかいた絵」だが、原作は筒井康隆。主人公である男は、気弱な杉夫と凶暴な松夫が自分の意思に関わりなく切り替わってしまうというもの。
これを観て、不思議なもんだなあと感じたのは、切り替わると性格だけじゃなく筋力も変るってこと。松夫になると喧嘩は強いし、セックスだって強い。肉体まで変るものなのだろうか?とすれば、精神力によって体力も変化するということなのか?タバコもお酒も飲むようになる。肺や肝臓まで切り替わるのか?
松夫にサディスティックに犯される役の夏生ユウナ(杉夫の元彼女で、杉夫をふった高慢ちきな女)。昔この場面を観たときは、なかなか興奮するシーンだと思ったのだが、あらためて観ると、そんなに興奮するようなものでもなかった。
前回観たときと今回とで私の人格が切り替わったわけではないと思うが……あっ、単に加齢によって枯れただけか。
でも、その暴力的セックスに快感を覚えた彼女が、再び抱いてほしいと彼に会ったとき、そこに現れたのは杉夫。「こないだのように、ぶって」と言っても、杉夫にできるわけがない。そのときのやるせない物悲しさを演じる夏生ユウナは、なかなか上手だった。
ラストは、やっぱこういう風になるのかってもの。
この終わり方が、作品全体の質をちょっぴり落としているような気がする。
あっ、これジャンルとしてはヤクザ映画です。
あいかわらず、新しいTREviewにはよく解らないことがある。
レビューとブログの新着表示の時間差とか、レビュー記事がリストに出てこないとか(ポイントがゼロでも載ってくるのが当たり前と思うのに。でなきゃ、闇に埋もれた記事は埋もれっぱなしになる)。あるいは、新着レビュー記事に掲載されているのに、新着ブログ記事の方には掲載されていないとか(それなのに、時間が経てばブログランキングには載ってくる。つまり、レビュー記事はブログ記事と見なされていないわけではないみたいだ)。
カテゴリー用バナーは「トップ」用と、たとえば「クラシック」用とで、クリックされた場合の反映がどのような違いでなされるのかもわからない。「クラシック」用なら「クラシック」にしか反映しないが、「トップ」用ならオールマイティーで総合ポイントになるのだろうか?えぇい、2つ載っけちゃえ!っとなると、無意味に飾り立てた、大屋政子の顔のような記事になってしまう(たまには、本文よりバナーの占める面積の方が大きくなったりしてね……)。
他にもいろいろ。
内容が一新されたのに、使い方やランキングのからくりについての説明が追いついていないっていうのも、不親切さを感じさせる。
詳しい人には簡単なことなんだろうけど、私にはよく解らないままだ。
何が不満だか、何が私を納得させないのかさえ、解らなくなってきてしまった。私は誰?私はどこ?私は良い人?じゃあ、私のこと愛してる?
まっ、いいけどさっ、とも思うけど、なんだかすっきりしない。
ハルンケアを飲みたい気分だ。
旧TREviewと新TREviewとが連動していないという理由からではないが、今回は昨年の9月に取り上げた作品を再度取り上げる。闇に埋もれたままにするにはもったいない作品だからだ。それ以前に、この記事が闇に埋もれたままになる可能性も低くないが……
それは、G.ペレーツィスの「ピアノと室内管弦楽のための『コンチェルティーノ・ビアンコ」ハ長調(1984)。
再度取り上げるのは、当時はまだCDの写真を掲載するなどのビジュアル・テクを、私が習得していなかったせいでもある(テクねぇ……)。
ペレーツィスは1947年ラトヴィア生まれ。古楽に傾倒しており、シンプルな作風が特長らしい。
「コンチェルティーノ・ビアンコ」とはイタリア語で「白の小協奏曲」の意味。
つまりピアノは白鍵しか使わない。
曲は3つの楽章からなるが、ほとんどムード・ミュージック 。でも、耳に心地よい。いつも聴いていると廃人になってしまいそうな、酸素カプセルの中にいるような快感だけど。
私がこの曲を知ったのはNHK-FMの昼の番組で流れたのを聴いたから。
平日の昼間に、なぜFM放送を聴く機会があったのかを説明すると、ひじょうに長ったらしくなるので書かないが、別にさぼっていたわけではないことだけは、ここで強調しておきたい!
番組で解説をしていたのは吉松隆さんだった(はずだ)。
CDはエラートのWPCS4926。他の収録曲は、ウストヴォルスカヤの「ピアノ、弦楽とティンパニのための協奏曲」、グバイドゥーリナの「ピアノと室内管弦楽のための協奏曲『イントロトゥス』」、グレツキの「ピアノと弦楽のための協奏曲Op.40」。ペレーツィスとウストヴォルスカヤの曲が、世界初録音。
この4曲に共通していることは何か?
いずれもピアノを独奏としている、なんてことは答えとして認めませんよ、お嬢さん!
どれも、旧共産圏の作曲家の作品である。東側の音楽である。
耳に心地よいのは、極論を言えば、西側の現代音楽よりも時代遅れだからである。あるいは、西側の音楽は変な方向に突き進んでいってしまったからである。
でも、だからといって、CDのタイトルがなぜ「モザイク」なんていうエッチくさいものなのかは不明だ。
演奏はアレクセイ・リュビモフのピアノ、ハインリヒ・シフ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー。録音は1995年。
そういえば、あるとき何人かでイタリア料理店に行ったとき、私は「次の飲み物はワインにしよう。え~と、ジョヴァンニ・カルロ・オットリーノ・リッカルド・ビアンコ・ロッシーニはあるかな?」と、その中の1人に言ったら、「ワインにそんなに詳しいなんて、すっごぉぉぉ~い」と、ひどく賞賛された。
まったくのウソの名前です(すぐばらしたけど)。イタリアの音楽家の名前をグニャグニャに並べただけである。
でも、この中で1つだけ正しいことがある。白ワインの“白”は“ビアンコ”である。
話をTREviewに戻すが、レビュー記事の分類もよく解らない。
クラシックの小項目としてあるのは「クラシック」「オペラ」「現代音楽」「その他」である。なんか、変な分類である。私は、今回のような現代音楽作品の場合でも、基本的には、小分類でも「クラシック」を用い、「現代音楽」にはしないことにする。解りにくいから。
“クリスチーヌの性愛記”という映画がある。1970年のアメ リカ映画。主演はジャクリーン・ビセットである。DVDには「“70年代最高の美女”ジャクリーン・ビセット本格初主演作」と書かれている。
ストーリーは、《カナダの田舎町に住む女子大生のクリスチーヌは大都会の生活にあこがれ、恋人のいるロスへと押しかけた。しかし、田舎と変わらぬ地味で退屈な生活に飽きてしまった彼女は、恋人を捨てラスベガスでショーガールとして生活するようになる。そんなある日、元フットボール選手で支配人のトミーと出会い、その優しさと誠実さに打たれ電撃結婚。幸せな日々は永遠に続くものだと思っていたクリスチーヌだったが、美しい彼女を手に入れようと画策する業界の大物デッカーに呼び出されてしまう……》というもの。
《“70年代最高の美女”と謳われる彼女が、激しいラブ・シーンの数々に挑戦した幻の本格初主演作》とも書かれている。
私は映画にはまったく詳しくないが、ジャクリーン・ビセットは綺麗だと思っていた。大学生のときに、たまたまテレビの深夜放送でこの映画が流れていて、それこそ「激しいラブ・シーン」に鼻血警報がでたものだ。あの頃、私はJ.ビセットやジェーン・フォンダの顔が好きだった。日本人では市毛良枝や新藤恵美や大空真弓が好きだった。今思えば、一般的な若者の道を外していたような気がする。
そんな思い出の映画のDVDがタワーレコードのネット通販にあったので買ってみた。
観てみた。
なんということでしょう!全然激しくない。
実際、せいぜいキス・シーンがあるくらいだ。
バス・ルームの曇りガラスごしに映ってるキス・シーンはちょっと色っぽいが、でもちょっとである。私はなんであんなにときめいてしまったのだろう。
その後の映画「シークレット」で、彼女の激しい濡れ場を見てしまったからだろうか?
それに、ジャクリーン・ビセットはひどく田舎臭い。
こういうのって、がっかり。
青春を取り戻そうとしたのに……
小学校や中学のときのあこがれの女の子が、えらいオバサンになってしまったときの衝撃って、こんなものなのだろう(同窓会に出たことがないので、実際のところは解らない)。
しかも、ストーリーがひっどくつまらない。大いなる二流!
あぁ、欲望への高い代償……
男ってむなしい……(または、私ってむなしい)
ところで、村上春樹が「村上朝日堂 はいほー!」(新潮文庫)の中で、映画の邦題について書いている。
《たとえば“It Happend in Brooklyn”が『下町天国』になったり、“Reckless”が『無軌道行進曲』になったり、“Royal Wedding”が『恋愛準決勝戦』になったりで、こういうのはとても楽しい》
ってな風に書いている。
この「クリスチーヌの性愛記」の原題は“The Grasshopper”である。これはイナゴとかキリギリスとかのことだ(写真にあるようにDVDには「蝶のように舞う女」ってキャッチが書いているけど)。
となると、この邦題、「男を渡り歩くクリスチーヌという女」という点では、あまりにストレートすぎるかも知れない。「イナゴになった女」なんてどうだろう?はい、却下!
若い頃にそのラブ・シーンでときめいた映画はほかにもある。この「クリスチーヌの性愛記」を含め、最近何枚か購入したが、いずれも「ときめき」という面では、すべて「ちぇっ!」ってぐあいである。
その「私のはかない擬似性愛記」については、またの機会に触れることにする。
こんなふうに、もう物足りなくなった私は、すっかり「すれて」しまったのでしょうか?いや、成熟ととらえることにしよう。
昨日、妻が実家に帰った。
私は予定していたPMFオーケストラの演奏会に行くのをやめ、家でおとなしくしていた。
というのは事実であるが、おそらく皆さんが想定した、「摩擦や軋轢」による、見世物としては面白いストーリーとはまったく違う。
毎年だいたいお盆前後には妻の実家を訪問するのだが(なぜ恒例のようになったのかは定かではない)、今年は行けない。
行けない理由は、
① 子どもたちも大学生、高校生になり、それぞれのスケジュールで忙しいし、幼少時と違ってちやほやされない。加えて、好き嫌いをするななど、食生活においても苦痛を味わう。
② 私もお盆の真っ只中に出張が入っている。
③ 妻の両親も、お盆時期は墓参りの親戚の応対と、パークゴルフに忙しい。
④ 大学生と高校生になった孫はもはやなつかないから、妻の両親としても来てもらっても小遣いをせびられるだけで、本音を言えばちょっと迷惑である。
というような土台の上に、いくつもの損得勘定が働いているのである。
それでも妻は、「一度は顔を出しておかないと」と、たまたま2日間ほど予定(バイト)がない今回、昨日のバイトが終わった後に自分だけで実家に帰ったわけである。
帰った理由は、
① たまには顔を出さないと、まったく冷たいやつだと非難される。
② 距離を置くと、実家の近くに住んでいる兄嫁と比較される。
③ 一度帰っておくと、しばらくは長電話がかかってくることから解放される。
というものであろう。
なぜ、私が行くことから解放されたかというと、昨夜はPMFオーケストラのキタラでの今年最後の演奏会があり、それに行く予定だったこと。それと、仮にコンサートに行かないにしても、1泊2日で今日帰ってくるのはあまりにバタバタするという理由からである(私は28日の月曜日は休みをとれない)。
ということで、タイトルにあるような「お暇をとらせていただきます」といった、フネが波平に言うようなセリフはなく、妻は実家に行ったのである
このような結果、私は夕方まで鼻歌交じりで雑草抜きをし(もちろん庭でである。誰が河川敷の雑草取りなどするものか!)、さて、シャワーを浴びてコンサートに行こうかと思ったとたん、急速に行くのが面倒になってしまった。
今回行けば、3週連続で土曜の夜をキタラで過ごすことになる。これはけっこう疲れる。
しかも19時開演である。これが15時とか、あるいはせめてあと30分早ければ、帰りのことを考えればだいぶ楽なのだが、帰宅が遅くなると思うとちょっと億劫になってしまったのである。遅くなるということは、すなわち、オヤジ狩りに遭う危険性も高まるし……
余談だが、先週(19日)のコンサートでは、4曲目の演目のバーンスタインのセレナードで独奏を務めたアン・アキコ・マイヤースへの拍手が、数回のカーテンコールで終わってしまった。本人はアンコールも用意していたはずだ(同一プログラムの、翌日の芸術の森における屋外コンサートでは、アンコールを演奏したという)。
でも、これは彼女の演奏が悪かったせいではない。この時点で21:00をとっくに回っていた。会場の中の人々は、次の最終演目が早く始まらないかなと思っていたはずだ。あるいは、コンサートが終わるのは何時になるのだろう、と。その潜在的な意識があのような拍手になったのだと思う。
昨夜のプログラムはR.シュトラウスの「ドン・キホーテ」と、ベルリオーズの「幻想交響曲」である。この2曲ならば21:00頃に終演するだろうし、「幻想」は私にとってとても好きな曲でもある。
でもなぁ、やっぱり面倒だな、ということで、行くのをやめにしてしまった。
行かなかったものの、20:00を過ぎて、おそらくは「幻想交響曲」の演奏が始まった頃に合わせるかのように、私はこの作品のDVDを観た。あぁ、なんてあきらめの悪い女々しい男だろう!
そのDVDはエリオット・ガーディナー指揮のオルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティークによるもの。
以前にも紹介したことがあるこのDVD、演奏自体、私が聴いた中ではもっともすばらしいものだと思っている(私がクラシック音楽の中でいちばんいろんな演奏を聴いているのは、おそらく「幻想交響曲」である。「ファンタスティックおたく」である)。
このオーケストラはピリオド楽器のもの。とはいえ、当時から新しい楽器を積極的に用いたベルリオーズだから、単純に古楽演奏とはなっていない。
「ですから新旧の楽器の摩擦や軋轢がとても興味深いのです。そうしたものを新結成のオーケストラで実現したのです。モダンのシンフォニー・オーケストラでは、すべての音と響きが油を注入した機械やオイル・マッサージのように滑らかになってしまい、楽器同士の軋み合いがなくなってしまうのです」と、ガーディナーは書いている。
そのとおり、この演奏ではベルリオーズの狂気の音の世界が刺激的に展開される。
画像なので、オフィクレイドやセルパンといった珍しい楽器も観られるし、筋肉豊かな美人のコントラバス奏者(絶対カメラマンの好みだ。随分と写される)や、終楽章でなぜか笑いをこらえて演奏している、ちょっぴり危なげな弦のお姉さんの姿などが楽しめる。
ところで、オイル・マッサージかぁ……ふふふっ。
昨日の昼は、どうしてもラーメンが食べたくて、食べたく て、職場のみんなの輪を乱しそうが、私1人だけだろうが、どんなにクソ暑い思いをする羽目になろうが、虫歯にしみようが、ラーメンを食べに行こうと密かに決意していた。11:54頃の出来事である。
昼のチャイムが鳴っても、私は行動に移らなかった。
というのも、すぐにラーメン屋に行っても混んでいるだろうから、時差を設けようとい う壮大なプランが出来上がっていたからだ。
すると、課の中のおじさん(私よりも10歳以上年長だから、「おじさん」と言ってもバチは当たらないだろう。「青年」と呼んだ方が嫌味ってもんだろう。いずれにしろ、本人に直接言うことはないけど)が、「昼はどうするんですか?」と私に尋ねてきた。
「どうしてもラーメンを食べたいと思っているのです」と、私は飢えに苦しむ、ラーメン好きなダチョウのように答えた。
「1人でですか?」
「えぇ、今のところ賛同者はいませんから」
「それはいい考えです。私も行きます」
ということで、桃太郎に家来ができた。
私が目指したのは、JR札幌駅地下のAPIAにある「寶龍(ほうりゅう)」である。
この店は札幌ラーメンの老舗である。
私はラーメンといえば、たいていの場合、「醤油」を頼むことにしている。
ラーメンは醤油味に限ると、私は信じ込んでいる。
また、「醤油」の場合、たとえ「はずした」としても、「塩味」や「味噌味」ほどまずいという苦痛度は小さいと思えるのだ。
「寶龍」の前に行き、店に入ろうとすると、おじさんは行った。
「そこの“よし乃”って入ったことありますか?私は好きなんですよ、ここのラーメンが」
うぐっ!緊急事態だ。彼は私が「寶龍」に入るのを妨げようとしているのだ。
「いえ、入ったことはないです」
「じゃあ、“よし乃”にしましょう」
まるで客引きに強引に引っ張られるかのように、私は“よし乃”に引っ張り込まれた。
しかも、ちょうどカウンターに2席が空いていた。
メニューの先頭には「味噌ラーメン」と書かれている。
味噌ラーメンが売り物の店のようだ。しかも、旭川ラーメンである。
「味噌2つ!」
おじさんは、私の意向も生年月日も血液型も聞かないで、勝手に注文した。
そして、「ここの味噌は美味しいんだよねぁ」と、オイルショックの頃を回想するかのように、独り言をつぶやいている。
彼の幸福感に水をさしてはいけない。
しょうがない、今日は数年ぶりに味噌ラーメンを食べることにしよう。
出てきたラーメンは、モヤシたっぷりでボリュームがあるもの。
食べてみた。
美味い!
本当に美味い!
おかしな言い方だが、きちんと“味噌”の味がする。
味噌のコクがある。
何味だか不明の「味噌ラーメン」ではない。
これこそ「味噌ラーメン」の味だ。
適度に効いた唐辛子もバランスが良い(季節によって唐辛子の利かせかたやコクの濃淡を調節しているらしい)。
これは昔どこかで食べて、「美味しいなぁ」と思った「味噌ラーメン」の味に共通するものがる。
だから、どこか懐かしい感じもする。「オギャーァ!」って泣き出してしまうところだった。
この味なら「味噌」でも大歓迎!
久々に満足する味のラーメンを食べた。しかも「味噌」で私は「やられて」しまった。
「よし乃」は、札幌にはこのAPIAと、すすきののラーメン横丁の2店。旭川には何店舗かあるようだ(私が知らなかっただけで、有名店のようだ)。
ぜったいお薦め!
先に書いたように、ボリュームもある。ふだんは「ラーメン+小ライス」じゃなきゃ不足感に襲われる私だが、昨日は「けっこうボリュームがありますよ」というおじさんの忠告と、小ライスがなかったので(ふつうのライスしかない)やむなくラーメン単品にしたが、これで十分であった。
帰りに、隣の「寶龍」をちらっと覗くと、店内はガラガラだった。こんなに空いているなんて、珍しいこともあるものだ。
「醤油ラーメン」を食べたくなったときは、ちゃんと「寶龍」に行くからね!
「よし乃」の味噌ラーメンは750円。
ラーメンという食べ物としてはすっかり高くなってしまったが、この価格が札幌駅周辺の相場。ボリュームもあるから、良しとしよう。
そうそう、私を連れ込んだおじさんに感謝しなきゃ。
ヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏フルート・ソ ナタ(パルティータ)イ短調BWV.1013。
その名のとおり、フルート1本だけで演奏する曲である。
作曲されたのは1720年代の初めと推定されている。
昔は小学校の音楽の授業のときに、「バッハは『音楽の父』、そしてヘンデルは『音楽の母』です」と先生に教わった。今でもそうかも知れない。父と母がそう簡単に変わるわけがないどろうから……
けど、素朴な疑問だが、誰が決めたんだろう?
それに、ヘンデルはともかく、バッハという音楽家はこの世に1人しかいないような失礼な言い方だ。『音楽の父」を父に持つ、バッハという息子たちもいるではないか!
まあいい。言ってみたかっただけです。
でも、この「父」と「母」いう言い方を借りるなら、この仮想音楽家族は、厳格で神経質なお父さんと、明るくて太っ腹のお母さんで構成されていたということになる。なぜって、バッハは倹約家で、ヘンデルはお金の使い方も豪快だったから。
なんだか、私の誕生した家庭に似ているような気もする(注~親の性格に限っての話)。
まあ、それにしても、バッハの音楽は暗いときには真剣に暗い。ヘンデルが短調の曲を書いても深刻さってあまりないのだが、バッハが書くと今にも地割れが起こって皆が飲み込まれてしまいそうである。
そして、この無伴奏フルート・ソナタも、かなり暗い。
暗いけどだんだんクセになる。「明るいのはイヤっ!電気を消して」ってなってくる。
私が初めてこの曲を聴いたのは、1979年5月28日のこと。
記念すべき浪人生活に入った年。しかも、その生活に入って2ヵ月後ということになる。
多くの友人が大学生という新しい道へ進み、気の毒なことにその中には“五月病”という、うどん粉病にも匹敵するような難病にかかっていたときに、私はそんな病気には無縁の環境下にいたことになる。なんて幸せだったんだろう!
でもである、未来に夢を持った浪人生活に不気味な影を持ち込んだのが、この曲だった。
たまたま、エア・チェックしたのだが、「かなり落ち込ませる曲」だと思った。
何か恐ろしささえ感じる。「神の裁きは下されるのだろうか?」とか「実は私は心臓疾患にかかっているのではないだろうか?」、「親は私の扶養を切っていないだろうか?」といった、得体の知れない、じりじりと迫ってくるような恐ろしさである。
「フルートって、もっと心地よい響きを与えてくれる楽器じゃなかったの?」。
私は仏壇の前で、問いかけてみた。遺影のじいちゃんは笑ったままだった(ままでなかったら、私の人生は変わっていただろう。性転換して恐山に入ったかもしれない)。
フルート1本でこのような音楽が繰り広げられることには驚いたものの、とにかく「今すぐ、ひざまずいて懺悔なさい」という感じだ。
情景としては、「夜、城のずっとずっと奥まったところの一室で、蝋燭の光のなか、フルートを吹いている男がいる。こちらからは後ろ向きに、何者かにとりつかれたかのように一心不乱にフルートを吹いている。吹き終わって振り返ると……。ひぇぇぇぇ~っ、耳がとんがった、口が耳元まで裂けた悪魔だぁぁぁ~(そんな口じゃ、フルート吹けねえよ)」ってイメージである。
もっと解りやすく言うと、肝試しの驚かせ役を任命され、嬉々として待ち伏せしたが、誰も肝試しに来ず、おまけに他の驚かせ役も姿を消してしまっていて、暗闇に1人取り残された感じである。あぁ、ぞっとする……
そんな曲だから、そうそう耳にしたいとは思わなかったのだが、なぜか忘れられないのである。きっと悪魔の呪縛だ。
いつもとは言わないが、ふとしたときに聴きたくなるのである(悪魔と対話したくなったときなど)。要するに「恐いもの見たさ」に共通するものがある(ない、ない!)。
この曲は「無伴奏フルート・ソナタ」ではあるが、パルティータと呼ばれることもある。パルティータというのは「組曲」といった意味であるが、この曲の4つの楽章が、アルマンド、クーラント、サラバンド、ブーレ・アングレーズとすべて舞曲となっているため、パルティータ(組曲)と言われることもあるのである。
えっ、これらが舞曲?
そうかぁ、落ち込むとかそういう低次元の話ではなく、優雅な舞曲であったのね。あんまり納得いかないけど、そう思って聴くと舞曲にも思えてきた(結構、流されやすかったりして…)。
いいや、悪魔の踊りだ、きっと……
ヴァイオリンと違ってフルートは和音を鳴らすことができな い。にもかかわらず、すごい密度。しかもバッハの時代のフルートは今のものとは違う。キーなんてなかった。やっぱり悪魔じゃなきゃ吹けなかったはずだ。
こういう曲ってどんな楽譜になっているんだろうと、好奇心で買った譜面を参考までに掲載しておく(ベーレンライター社出版のもの)。
私がこの曲を初めて聴いたときの放送は、ライヴ録音のもの。なかなかいい演奏だった。
今はラリューのフルートによる演奏を聴いている(フィリップスPHCP9091-92。バッハのフルート・ソナタ全集。2枚組。けど現在廃盤)。ただ、この曲の演奏に関してはスマートすぎて「おどろおどろしさ」にはちょっと欠けるきらいがある。
まあ、最初に聴いた演奏の呪縛による、勝手な言い分ではあるが……
ベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調Op.55「英雄」(1803-04)。
ナポレオンに献呈する予定で作曲され、手稿の表紙には「ボナパルト交響曲」と書かれていた。ところが、ナポレオンが皇帝の座に就いたという知らせを聞いたベートーヴェンは、あいつも他の権力者と変わらなかった、と頭にきて、出版の際には単に「英雄交響曲」と名づけたのだった。このあたりの話は、良い子の名曲辞典なんかを読むと、たいそう劇的に記述されているはずだから、詳しいことを知りたい方はそっち方面でどうぞ。
こういうことの影響から、日本でもこの年に生まれた男の子には「英雄(ひでお)」という名が多い、というのはまったくのウソである。その頃の日本では、ブームの名前は、まだ権兵衛とか留吉、あるいは上様とかご老公(そりゃ、名前じゃない)の時代。って、私は何で単独でウソの提起をし、勝手に回答しているのだろう?
この年、フランスではベルリオーズが生まれている。
ベートーヴェンはこの3曲目の交響曲は、交響曲という音楽形式を、構想においても規模の面においても、一挙に拡大した。
曲の長さは50分ほどであり(第2交響曲は35分ほど)、逆に言えば、コンサートなどにおいても、この曲にどうしても興味を示すことができない人は、地獄の長さに耐えなければならなくなる。眠ってしまって、いまだに第2楽章の葬送行進曲を聴いた覚えがないという人もいるに違いない(わけないか……)。
ベートーヴェンの男臭さが顕著になってきている作品であり、演奏もどっしり、がっしり、エンヤコラサというものが多い。実際、私もこの曲は低音がどしっとした演奏が好きである。第3楽章のホルンのトリオは、音がひっくり返らない演奏が好きである。
ホルンついでに言うと、この交響曲、ホルンがこれまでにない画期的な使われかたをしているという。特に、第3楽章のトリオ(というスケルツォ楽章の中間部のこと)を、ホルンのトリオ(三重奏)でやらせる部分は、ベートーヴェンが放ったはかないジョークながらも音楽は素敵!
ところが、今から10年前に発売されたデヴィット・ジンマンがチューリヒ・トーンハレ・管弦楽団を指揮した演奏(1998年録音)を聴いたときは、ちょいとびっくりした。
この演奏は、モダン楽器使用によるベーレンライターの新版の世界初録音ということだが(交響曲全9曲がそうである)、この「えいゆう」を聴くと、「えっ?これって“ひでお”じゃん」と感じてしまう。いえいえ、私は全国の「英雄」と書いて「ひでお」と読む人に何の恨みもありません。
とにかく、威厳がない。どっしりしていない。落ち着きない。女好きっぽい……
いえいえ、ですから“ひでお”さんに恨みはないですって!
でも、おそらくはこれが当時のベートーヴェンの演奏だったのだろう。私たちは重厚で威厳がある演奏に慣らされすぎてしまったのだ。ドイツの陰謀だ。
私は、モーツァルトに関しては重厚なものよりも、ピリオド演奏が好きだ。でも、ベートーヴェンに関してはブラックホールみたいな異常重力の感覚が好きだ。だから、ジンマンの演奏は良い演奏だとは思いつつも、最後は選ばない。女性に 対する好みと同じである(相手も私を選ばないだろう)。ただし、4番なんかは実にハツラツとしていて、ジンマンの演奏は実に良い。
ところで、この演奏で「うほぅ」ってところを1つ!
第1楽章655小節目から、トランペットが高らかに主題を吹き鳴らすところ。ひっどく高揚する場面だ。
ふつうは上の譜例のように吹かれる(655小節目から写っている)。
ところが(知っている人は知っている話だけれど)、このトランペットの音は最初に吹かれるだけで、あとは旋律を吹くという仕事を放棄し、8分音符をパパパパパパと吹くだけなのである(楽譜下。657小節目 から掲載。657小節目の3つ目の音から以降が、上の楽譜と違うことが解る)。
実は上の譜例は、著名な指揮者だったワインガルトナーが書いた「ある指揮者の提言 ―ベートーヴェン交響曲の解釈―」(糸賀英憲訳。音楽之友社)に書かれている、「音を補強した」楽譜である。写真に写っている文字にもあるように、このようなトランペットの補強はハンス・フォン・ ビューローが行なったものだが、ワインガルトナーも「そうだそうだ!」と書いているのだ。
「この修正なしではこの主題は、はっきりと浮かび上がってこないので、これはまったく正しいように思われる」だってさ。
ジンマンの演奏では、この補筆がない。つまり下の楽譜のとおり(掲載した楽譜は全音楽譜出版社のもの)。なかなか奇妙に聴こえる。ねっ、英雄君?
ジンマンの演奏、ほかにもいろいろと新しい変化があっておもしろい(リリースされてからだいぶ経ってしまったんで、今さらそう言うこと自体陳腐ですけどぉ)。
ふつうはビューロー補筆版で演奏されている。この「提言」は、音楽家にとって、実にありがたい教科書だったわけである。最近の新録音は知らないが、CDもだいたいこれに倣っている。
その昔、「あっ、このスコア間違えてる」なんて大騒ぎしなくてよかった。
さっき書いたように、でも私は昔ながらの演奏 スタイルの「英雄」が好きである。
愛聴しているのはアンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィル(1958年録音)。なになに、クリュイタンスってドイツ人じゃなくって、ベルギー→フランスの指揮者じゃないかって?
いいじゃあないの、お客さん!過度に重くなくってよいことよ。CDは東芝のセラフィム・レーベルのTOCE1561。でも廃盤。関係ないけど、LP時代にレコード・ショップでセラフィムのことをセラフィルムと言って大恥をかいたことがある私……
ちなみに、2000年発行の「リーダーズ・チョイス」(音楽之友社)における、「英雄交響曲」の1位はフルトヴェングラー/ウィーン・フィルの1952年もの。
さてさて、ベーレンライターの新しい楽譜によるベートーヴェンは主流になっていくの(なってしまっているの)か?
ピエール・モントゥーがウィーン・フィルを指揮したベートーヴェンの交響曲第6番ヘ長調Op.68「田園」(1807-08)。録音は1958年。
「田園」という作品についてはいまさらあれこれ書く必要なんてないだろうが、そうは言いつつも書くと(私はあっさりしていない性格なのだ)、この交響曲は18世紀末にいくつか書かれた自然描写を織り込んだ交響曲と同じ系列のもの(ということ)である。ただしベートーヴェンの場合は単なる描写ではなく、田園の印象による感情の表現というものを追求している(らしい)。そのために、のちのベルリオーズをはじめとするロマン派の標題音楽の先駆的作品と位置づけられている(というのは事実)。
5つの楽章からなるが、それぞれは「田舎に着いたときの愉快な気分」「小川のほとり」「田舎の人々の楽しい集い」「雷と嵐」「牧歌。嵐の後の喜びと感謝」というタイトルがついている。
こういった“田園の印象”の音楽化の試みであるが、のちに登場する印象主義の第一人者ドビュッシーは、この曲を傑作なんかじゃないと批判している。印象仲間がそんなこと言うなんて、何とも不可思議な話である。
ドビュッシーが1903年2月16日付けの日刊紙「ジル・ブラ」に掲載した演奏会評(ワインガルトナー指揮ラムルー響。「田園」が演奏された)の中には、こんなことが書かれてる。
《――この交響曲のベートーヴェンは、書物を通じてしか自然を見ない一時期についての、責任がある……これは、まさしくこの交響曲の一部分である「嵐」のなかに、はっきりした証拠がある。そこでは、生きものや事物のいだく恐怖が、あまり本気らしくない雷の鳴りひびくあいだ、ロマンティックな外套(マント)のひだにくるまる。
私がベートーヴェンに無礼なまねをしたがっていると考えた ら、それは莫迦げた話だ。ただ、彼のような天才音楽家は、ほかのひとよりもいっそう盲目的に間違いをしでかすことが、できた……ひとりの人間が、傑作しか書かないなんてことは、あるものじゃない。そしてもし『田園交響曲』をこんなに傑作あつかいしてしまうと、ほかの場合にこのことばの有難味がなくなってしまう》(「ドビュッシー音楽論集」:平島正郎訳。岩波文庫。142p)
まあ、なんて手厳しい。日本語も難しい……
でもさぁ、「3つの交響的スケッチ『海』」なんて曲を書いたの、誰でしたっけねぇ~。しかも、作曲は1903年から1905年にかけて……。しかも×2、それは葛飾北斎の版画「富獄三十六景」からインスピレーションを受けて……。何々?ベートーヴェンは書物を通じてしか自然を見ない?
あっ、もしかしてこの文って、「私もそうなんです。だから傑作でないかも知れないけど大目に見てね。いやいや、皆さんがそれでも『田園』は傑作っておっしゃるなら、私のも傑作ってことで……」ってことなのかしら?
さて、「田園」ほどの作品になると、まぁまぁ、あるわあるわ、CDが。豊穣だわい。
ちょいと古い本だが、音楽之友社が2000年に発行した「リーダーズ・チョイス ―私の愛聴盤― 読者が選ぶ名曲名盤100」というのがある(長い書名で申し訳ござません。出版社になり代わって私が陳謝いたします)。どういう内容の本かというと、書名のとおりの内容の本である。
そのなかの「田園交響曲」を見ると、読者が選んだ名盤は、1位がワルター/コロンビア響〈58年録音〉、2位がベーム/ウィーン・フィル〈87〉、3位がアバド/ウィーン・フィル〈86〉とある。私がいままさに紹介しようと決意しているモントゥー盤は25位までにも入っていない。世間って冷たいものである。
でもね、モントゥーの「田園」って、さわやかで愛らしいの(←いきなり甘えちゃったりする)。
ウィーン・フィルはフルトヴェングラーが亡くなったあと、多くの客演指揮者を迎えたわけだが、モントゥーもその1人だった。
ピエール・モントゥー(1875-1964)はパリ生まれ。ストラヴィンスキーの「春の祭典」の大スキャンダル初演の指揮者だったことでも知られる(彼がバレリーナにHなことをしたとか、そういう意味でのスキャンダルではない)。
その彼が振った「田園」は、いわゆる重心が低いドイツ・ドイツしたものではなく、明るく軽やか。かといって、低音が不足しているわけでは決してない。むしろ豊かに鳴りひびいているのだが、重苦しくはない。演奏の雰囲気は、たとえば終楽章なんかは「牧歌。嵐の後の喜びと感謝」というよりは、「嵐が去ったぜ、やれやれほっとしたぜ、畑もそんなにやられなかったし、雷にも打たれなかったし、今夜はご馳走にしてよ、ねっ、母さん?」って鼻歌を歌っている、農家の後継ぎ息子の幸福みたいな感じである(別に、私の気持ちを理解して欲しい、なんて思ってないから……)。
1958年という今から半世紀前の録音だが、音の古さも感じさせない(さすがデッカ!)。
私が持っている、そのCDはLondonレーベルのKICC8547(交響曲第8番とカップリング。8番の演奏も良い)。ただしこのCDは廃盤。
同じ演奏はモントゥーのベートーヴェン交響曲全集(5枚組。デッカUCCD9275。タワーレコードのネットに通販に在庫あり。6,000円)に収められている。
う~ん、この演奏、ドビュッシーが聴いたらどう思うかな。
私は、印象主義音楽のように演奏しているように感じるけど……(どういうところが?と聞かれても答えられませんが)。
ねっ、母さん!?
先日札幌市内のCDショップに立ち寄ったら、なんとファリャ のバレエ「三角帽子」全曲のスコア(総譜)が売られていた。日本楽譜出版社のもの。
けっこう驚いた。国内譜でこの曲が発売されているとは!
ということで、今日はスコアについてちょっぴりお話しさせて下さい。お願いします。と、謙虚なふり……
国内でオーケストラ作品のスコアを出版しているのは、音楽之友社、全音楽譜出版社、そして私とっては、なんとなく謎めいていると感じられる、日本楽譜出版社である。この3社でほとんどを占めると思われる。
音楽之友社のミニチュア・スコアは、昔出版されていたものは印刷が不鮮明で見づらかった。今でもそれの重版のスコアは同じだが、新しいものはとても鮮明で見やすい。また、ベーレンライター版やフィルハーモニア版といった、海外のスコアを国内で出版しているものもひじょうに美しい“譜面(ふづら)”をしている。私は楽器を演奏しない人間だが(かといって、歌を歌っているわけでもない)、これらの楽譜を眺めているだけですっかり満足してしまう。あぁ、美よ!この会社、特にモーツァルトの作品とマーラーの交響曲のスコアが充実している。
全音楽譜出版社のZEN-ON SCOREは、見づらくはないが、やはり重版を重ねている昔 のものは印刷が「大味」な印象。
この会社のスコアでは、ショスタコーヴィチの作品のラインナップが充実している。他にもプロコフィエフやハチャトゥリアンのソヴィエト物が出ているし、芥川也寸志も出ている。このあたり、なかなかマニアック。
ただ、最近のものはともかく、少し前までのものは、スコアに記された特別な指示や注意事項の和訳が載っていなかった。
また、オイレンブルク社のスコアを国内譜として出版し始めているが、そのおかげで安価でオイレンブルク社のスコアと同じものが手に入れられるようになった。もうちょっと早く言ってくれたら、シューマンのピアノ協奏曲や、エルガーの交響曲第1番のオイレンブルクの輸入譜をわざわざ高い金を払って買う必要がなかったのに、とちょっぴり恨みがある。
ただ、オイレンブルクのスコア自体がちょっと不鮮明なところがあり、それを複写出版している全音による国内譜もまったく同じである。
全音と音楽之友社のスコアを比べる と、写真のようになる。
曲はJ.S.バッハの管弦楽組曲第3番の第2曲「アリア」。
全音の方は1番から4番までの全集のスコアで900円(2002年の時点)。一方、音楽之友社の方は、第3番だけのスコアで800円(2004年の時点)。
圧倒的に全音の方が“お徳”である。主婦も大喜びって感じだ。
ただ、美しいのは音友の方。もっとも、これは音楽之友社とはいえ、もとはベーレンライター版のスコアである。だから美しいというのはある。
このAir、全音は2ページにわたって掲載されているが、音友の方は1ページに収まっている。年寄りに優しい配慮の全音である。
ただ、ここで注意したいのは、ビミョーに違う箇所があるということ。6小節目、全音は最初と繰り返し後も同じであるが、音友の方は違う(1.と2.というように異なっている)。あるいは、8小節目の第1 ヴァイオリンの前打音の有無。
奏法について、私はよくわかんないけど、こんな風な違いがある。だから一概に値段がどうとも言えなのだろう。どちらが正しいとか、そういう問題でもないのだろう。
ちなみに音友の方には最初に「ゲッティンゲン・バッハ研究所とライプツィヒ・バッハ資料館刊行の《新バッハ全集》第Ⅶ編,《管弦楽作品》第1巻,ハンス・グリュース校訂協力/ハインリヒ・ベッセラー校訂《4つの序曲(管弦楽組曲)》(BA5030)による原典版。ベーレンライター社(カッセル,バーゼル,トゥール,ロンドン)の好意による許可版」という、小姑の小言のようなことが書かれている。とにかく、権威がありそうである。だから値段も高いのだろう。
さて、日本楽譜出版社。
少なくともこの出版社、私にはよく実態がわからない会社だ。昔からあるが、最近は積極的に新しいものを出版している。最初に書いたファリャなんかがそう。
昔はオレンジ色の表紙の、なんというか、変なの、って感じであった。
写真の「おもちゃの交響曲」のスコアがそうである(この会社のスコアには発行日や重版日が記されていない)。しかも、「交響曲“おもちゃ”」でっせ~!もう少し緊張感を持ってくれよ、って感じ。
編集発行者は溝部国光という人。有名な人なのかどうか知らないが、この「おもちゃ」のスコアの後ろのページには、彼の著書「念佛のリズム」と「正しい音階」という本のPRが載っている。このスコアの解説も溝部氏である。
ここのスコア、昔のもの(先に書いたように発行日がないので、 オレンジ表紙のものを昔のものと位置づけるが)は、その楽譜もいかにも手で書きました、っていうのがあった。写真はリャードフの「8つのロシア民謡」のスコアの中のページだが(こんなマニアックな曲のスコアも出しているのだ)、ねっ、手書きでしょ?
しかし、最近のものはきれい。表紙もオレンジから黄土色に変わった。
写真のムソルグスキーの「展覧会の絵」なんて、とても美しい(最近のものには最後のページに楽譜浄書者の名前が記されている)。原曲のピア ノ譜も載っているし……
そして、ファリャに限らず、この出版社、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」やラヴェルのピアノ協奏曲(ト長調とニ長調)、ホルストの「惑星」や、エルガーの交響曲第1番など、けっこう国内譜では出ないだろうなと思っているようなものを出してくる(惑星やエルガーは、他の出版社からも出ている)。
侮れない出版社だ。
どんな会社なんだろう?
溝部さんなる人が、部屋にどぉ~んと座っているのだろうか?
なお、最近の出版リストを見ると、「交響曲“おもちゃ”」は「玩具の交響曲」に変わっていた。玩具の交響曲ねぇ……
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