ベルリオーズの「宗教裁判官」序曲Op.3(1827)。
巷では裁判員制度がどうのこうのって言っているけど、果たして本当にこれで審理のスピードアップが図れるのかどうかは、私には疑問である。
それにどうしても人間は感情に左右されるから、公正な裁定がなされるのかどうかもよく分からない、私には。この制度に反対している人は、だいたいこういうことで反対しているんだろうけど。
昔の映画だけど「十二人の怒れる男」という映画があった。
私は観たことがないのだが、殺人を犯した明らかに有罪だと思われる少年が、陪審員たちの話し合いが重ねられるうちに意外な判決になるという話である。意外な結果というくらいだから、きっと無罪になったんだろう。
なぜこの映画のことを私が知っているかというと、あるビジネス研修でこの原理(?)を用いたグループ・ディスカッションをしたことがあるからだ。
私たちはまったく知らない、あるテーマについてのアンケート結果を渡される。A項目に「はい」と答えた人は40%、Bは35%……といった具合で、回答結果は与えられるが、それが何の項目か分からないのである。
例えば「いまの中学生が社会に望むこと」といったテーマで、8つほどの回答結果のグラフが渡される。それが何の答えに対応しているかは分からない。別に「食料安定確保」「生涯教育の充実」「物価の安定」「年金制度の抜本的改革」などの回答項目が渡される。受講者たちは、どの項目がどの項目(つまり何位)なのかを、グループ・ディスカッションで決めていくわけである。
こんなことしたって意味がないと思ったのだが、不思議なことに討議を重ねていってグループとしての結論が出ると、意外と正解に近くなるのである。これは各グループの討議が発熱すればするほど、正答に近くなる。実に不思議である。
これは集団において討議し意見を集約していくことがいかに重要なことかを知るための研修である。集団の中のリーダー的な者一人が討議を引っ張ってもだめ(機関車的討議)。仮に答えを知っている人間がいた場合は、それは権威者に頼った集団となる。
われわれが最上と思っているコンセンサスも不十分。完全な話し合いはコンコーダンスというらしい。コンセンサスにおいては、集団において無言でいることは「Yes」とみなされるが、コンコーダンスにおいては「No」と判断される。そのかわりコンコーダンスはひじょうに時間がかかる。「十二人の怒れる男」でも、コンコーダンスによって結論が導かれたのだろう、というわけだ。
それにしても、あの研修、不思議であった。なぜ知らないことが討議を重ねることで「誰も知らない正解」に近づくのか?ある意味では気持ち悪い。私がこの手の研修を初めて受けたのは、某コンサルタント会社(というよりは教育関連会社)のちょっと宗教がかった公開セミナーにおいてであったが、別な場面でもその研修手法について書いた本を見たことがあるので、それなりに理論づけはされているのだろう。
それはさておき、裁判関連でベルリオーズの「宗教裁判官」序曲である。
あまり聴かれる機会の多くない作品だが、なかなか渋くて力強い作品である。
もともとはH.フェランによる歌劇の序曲として作曲されたが、歌劇は未完成に終わり序曲だけが出版された。未完のオペラの序曲以外の部分の多くは「幻想交響曲」などに流用されたという。この序曲は、ベルリオーズにとって、大規模な編成のオーケストラを用いた最初の作品でもある。
宗教裁判官って、いったいどんな役職の人なのだろう?魔女狩りでもするのだろうか?
私は高校1年のときに札幌交響楽団の定期演奏会 でこの曲を知った。
そして、この演奏会のときに、当時発足し、その後無残に消滅した「札響ファンクラブ」というのに加入した。加入したといっても、メンバーは声かけした女性を含め7名くらいだった。この秘密結社的集団(札響そのものはまったく関係していない)に入った時期と、「宗教裁判官」というのが妙にぴったりな気がした。
私が聴いているのは「ローマの謝肉祭」のときにも紹介した、C.デイヴィス指揮ロンドン交響楽団のCD。フィリップスの416 430-2(1965録音。輸入盤)。これは現在発売されていない。
でも、私は聴いたことはないが、「炎のコバケン」のCDなんかも出ている↓。「炎のコバケン」vs「宗教裁判官」なんて素敵!
何で対決するのか分からないけど。
August 2008
F.グローフェ(1892-1972)の組曲「大峡谷」(1931)。
本州はひどい天気だったようだが、おはようございます。こちらも降ってます。
私の住んでいるところには、近くに比較的大きな川が流れていて(鮭も溯上してくるらしい。釣っている人もいる。もちろん「いけない行為」)、大雨になると、多少は心配になる。
何が心配になるかというと、河川敷に生息するアリの安否ではなく、氾濫がである。
実際、いまから30年近く前にはこの川が決壊して、あらあら辺りは水浸し、となったそうである。
私の妻は「いざというときのためにゴムボートを用意しておくべきだ」と、雨が降るたび言う。河川が氾濫したらそれで逃げるんだそうだ。
これが他人の妻が言ったとしたら、「奥さん、それは危ないですよ」と優しくアドバイスする(その人妻がかわいい場合)、もしくは、鼻で笑ってやる(その人妻が嫌いなタイプの場合)のだが、自分の妻の場合は「どこまでも命根性の汚い奴だ」と、思いっきり罵ってやる(無言かつポーカーフェイスで)。
それにしても、アホか!
そのときにいったい誰が息を吹き込んでボートを膨らませるというのだ?言っておくが、私の肺活量はあてにしないで欲しい。
第2に、辺りの住民が屋根の上で救助を待っているときに、わが家だけボートで避難するなんて行動が果たしてとれるだろうか?
第3に、これが最も重要だが、そんなときにボートをコントロールできると思っているのだうか?インディー・ジョーンズも真っ青。濁流で制御不能になって、どんどん石狩湾に流され、転覆し、シャコのエサになるのだ、私は。
ということで、誰が妻に自分の浅はかさを教えてやって欲しい。浅はかだから、教えたところで気付かないだろう。
洪水のときはリスクが大きいボートではなく、浮き輪がいいと思う。私は。
ところで、クラシック音楽で洪水を扱った作品がどれくらいあるのだろうか?
ざっと調べてみると、
・ストラヴィンスキー/「ノアの大洪水」(1962)
・サン=サーンス/オラトリオ「ノアの洪水」Op.45(1876)
・ブリテン/歌劇「ノアの洪水」Op.59(1958)
・ブルクハルト/カンタータ「ノアの洪水」Op.97(1955)
っていうのがある。やっぱりノアに関しての曲ばかりだ(それでしか調べていないから)。
「箱舟」でみると、マリピエーロの弦楽四重奏曲第6番「ノアの箱舟」(1947)とか、前にご紹介したハラルト・ヴァイス(この人、私好き)の「箱舟」っていうのがある。
そこで今日紹介するのは、この前振りを見事に裏切って、冒頭に予告したとおりグローフェの組曲「大峡谷」である。
グローフェは1920年にP.ホワイトマン・バンドにピアニスト兼アレンジャーとして入ったが、ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」の編曲によって一躍有名になった。
作曲家としてはセミ・クラシックの作品を残しているが、「ミシシッピ組曲」「ハリウッド組曲」「デス・ヴァレー組曲」「ハドソン川組曲」「サンフランシスコ組曲」「ナイヤガラの滝組曲」といった、観光名所案内のような名の作品を書いた。
組曲「大峡谷」は彼の代表作であり、大峡谷とはグランド・キャニオンのことである。だから、この曲は組曲「グランド・キャニオン」とも訳される(こっちのほうがむしろ直訳でよろしい)。
5つの曲から成っており、各楽章は「日の出」「赤い砂漠」「山道をゆく」「日没」、そして終曲が「豪雨」である。だから、ここで取り上げたってわけさ……
こういう曲は、フィードラーとかオーマンディの演奏が、なんも考えなくてよくて良いと思う。
だから今日はオーマンディ。オーケストラはフィラデルフィア管弦楽団。
いやあ、このソニークラシカルのジャケットデザインも、いくら廉価盤とはいえ、購買意欲をそそらないなあ。仕方ないから買ったけどさ。
しかもオーマンディ。この人の演奏って、どうして魂を感じないのかなぁ。でも、だからこそ、こういう絵巻物的音楽をやるには向いてる気がする。
北京の雷雨もすごかったなぁ。
マーラーの交響曲第2番ハ短調「復活」。
この曲については、以前、ブロムシュテット盤を紹介したが、今回は私の好きなショルティの旧盤。
タワーレコードの札幌Pivot店にふらりと立ち寄ったら(ふらりと言っても、エスカレーターを何回も乗り継いで何階も上るのだが)、ワゴンセールをやっていて、かつて名盤と言われたショルティ指揮ロンドン交響楽団、同合唱団のCDが、な、な、なんと890円で売られていた。DECCAのCDが890円である。どうして驚かないでいられるというのだろう!話は前後するが、独唱はハーパー(S)とワッツ(A)である。
そりゃ買いました。この演奏は私にとって「復活」の標準となる演奏である。今までCDを持っていなかったのだけど……
LP時代、「復活」で私が最もよく聴いていたのは、バーンスタイン盤であった(ロンドン交響楽団、エジンバラ音楽祭合唱団、アームストロング(S)、ベイカー(Ms)。米コロムビア盤)。このLPは「キズあり」ということで通信販売で安く買ったのだが、その傷っていうのが、終楽章の合唱が入る直前、すなわち舞台裏の金管と舞台上のオーケストラがしんみりと掛け合うところで「ガサッ、ガサッ、……、ジャリッ、ジャリッ、……、カサッ、カサッ、カッ、カッ、ポッ」って具合で、そりゃまあ刺激的だったどすえ。
ショルティの旧盤(1966年録音)は、不安がってなかなか私にLPを貸そうとしなかった友人(以下だが)から強引に借りて、テープに落としたものを聴いていたが、やっぱり私にはバーンスタインよりもショルティの方が肌に合った。これはコロムビアとデッカの音造りの違いのせいもあるに違いない。
ショルティの「復活」といえば、シカゴ交響楽団を振った演奏もあるが(1980年録音)、890円なんだから、一家に一枚、家内安全っていうのもよろしんじゃありませんか、なんてみなさんを気遣ったりする。
「でも、タワーレコードの店舗まで行かなきゃならないんじゃない?」と、面倒くさがる人もいるだろうが、ちゃんとネット通販でも890円である。
ん?
くそぉぉぉ、これは秘宝発見と大喜びし、店内で小躍りした自分が悔やまれる。
規格番号はDECCAの475 8501である。ただし、この文を書いている時期だけのセール価格の可能性あり。
話は変わるが、私は数年前から首に発生しているイボが気になってならない。
いくらあらゆる面で美しい私とはいえ、小さな汚点を見逃すわけにはいかない。
もちろん皮膚科に行ったこともある。
「あっ、これね、老化現象だから」
一点の曇りもない明快な診断を下された私であったが、首の皮膚に触れるとどうもイボの予備軍がたくさん待機しているのがわかる。このままではマタンゴに変身してしまうかもしれない。
このイボ、正式には「老人性ゆうぜい」というらしいが、率直に言うと「老人性イボ」である。気が弱い人には「脂漏性角化症」という病名を告げるらしい。
長い人生の間の、紫外線や刺激などによってできるらしく、良性だからいいものの、やっぱり爺さんくさい(実際、もう爺さん化してはいるが)。治療法としては、根元からはさみで切ったり(ヒェェェェ~)、キノコ形でないものは液体窒素で瞬間凍結して除去するらしい。
そんなことやってられない。
私は内服でなんとかできないかと考えている。
そこで薬局で紹介されたのがヨクイニンという、ハトムギから作ったものだ。ハトムギの皮を取り除いたタネから作った生薬である。
これを飲んだからといって、ハト胸になるといった副作用はないらしい。製品名はKracieの「クラシエヨクイニンタブレット」である。
これで絶対に老人性イボの襲来から脱出してみせてやる!
また折をみて、改善状況レポートを記載することにしよう。
ふふふ、驚くなよ……無変化に……
ハトポッポ
イボが欲しいか
そらやるぞ
R=コルサコフ(1844-1908)の「熊蜂の飛行」。
この有名な小曲は、歌劇「皇帝サルタンの物語」(1900初演)のなかの1曲。
第2幕第1場で、海を越えて飛来してきた熊蜂の群れが、白鳥のまわりを飛び回る場面で演奏されるが、このとき熊蜂から白鳥を救った王子は3つの奇蹟を与えられ……って話になる。
先日の夜、飛び込みであるそば屋に入った。
そば屋というよりは、そば居酒屋って感じの店である。
場所は地下鉄の「大通」駅よりも西側にある、某駅の出口近く。店の名前はD。
さて、その店であるが、できてからそれほど経っているようには思えず、少なくとも「小汚く」はない。
メニューには「かしわぬき」やら「天ぬき」といった、北海道のそば屋ではなかなか見かけないものもある。酒を飲むためのそば屋として、良い心がけである。ちなみに「かしわぬき」とは、かしわそばのそばが入っていないものである。かしわそばのかしわが入っていないのではない(それは「かけそば」という)。
しかしである。
まず、店員の愛想が極めて乏しい。言い方を変えるなら、どことは言えないが、なんとなく態度が悪い。最初にオーダーを取りに来た女性は、一応は「店長」と名札に書いてあったが、客に来て欲しくないのか?って感じであった。そばアレルギーで具合でも悪いのか?
「かしわぬき」……あまり上手くない。面倒だから、ゆでた鶏肉をそのまま薄めのそばつゆに放り込んだって言われても納得できる代物である。
「まぐろのズケ」。全然漬かっていない。
そんなことよりも、「少女奪え」である。「shoujoubae」と入力するとこのようにワクワクした変換がなされたが、現実は「ショウジョウバエ」である。
店に入ってビールを飲み始めたとき、1匹のショウジョウバエがジョッキの周りを飛び回っていた。「おやっ」とは思ったが、虫の1匹や2匹飛んでいても仕方がない。これが、足元にサソリがいたというのなら、1匹でも十分すぎるほどパニックになるが、相手はショウジョウバエである。
ところがである。
そいつらはどんどん数を増し、店中がショウジョウバエだらけである。
これを店員たちが気づかないはずがないのだが、まったく気づいていない、あるいは気づいていても知らん顔をしている、あるいは店員たちの友達である、のいずれかで、当たり前のようにしているのだ。
飲みかけのビールのジョッキを放置しておいたら、短時間のうちにグラスの中は溺死体がいくつも浮遊するしまつだ。
野外でキャンプしてるんじゃないんだぞ!
ということは、いったい厨房のなかはどんなことになっているのだろう?
ショウジョウバエというのは野菜や果物などから発生する。それも少々腐りかけたものから。ということは、厨房に置いてある食材はショウジョウバエだらけに違いない。そんなものを材料にして私たちに出しているのだ。しかも、万が一、食材はクリーンだとしても、こんな状況ならば、調理したものに混入することは間違いない。
これは保健所に言ったら相当おもしろいことになる。
いや、そんなことよりもこんな店からは一刻も早く退散するべきだ。
でも、一応はそば屋に来たのだから、そばだけは食べてみようと決心した。
「板盛りそば」というのがある。1人前300円で、2人前から、とある。
要は、2人前以上を大きなせいろに盛ってくるだけであるが、見た目的には面白いといえば面白い。それにしても1人前300円は安い。でもこんなに食欲が失せているのだ。食べきれなかったら困る。
店員の女の子に尋ねる(店長ではない)。
「板盛りそばって、けっこうボリュームありますか?」
「2人前です!」
「……」
おまえは中央区役所の窓口の姉ちゃんか?(Dからは中央区役所も近い)
なんだその答えは!答えになってないだろうが!
実は昼は区役所のカウンターで威張りくさってんじゃないのか?
それでも、文句を言わず注文した。
食べた。
まずかった。残した。
昨日、たまたま仕事で会った人にその話をしたら、彼はDのことを知っていた。
「えっ?まだつぶれないでやってたんですか、あの店。だって食い物はまずいし、店員の態度はひどかったでしょ?」
はいはい、そのとおりです。
その上私は、彼も知らない、ショウジョウバエの歓待 も受けましたです。
ということで、店でショウジョウバエを苦渋の表情で見ながら、私は「熊蜂の飛行」を頭で歌っていた。あぁ、あの曲のイライラ感って実は優れものなんだな、って。
ここではアシュケナージがフィルハーモニア管弦楽団を振ったCDを紹介しておく。
1986年の録音。ロンドンのPOCL9832。これはその後デッカのUCCD9255として再発売されたが、現在は廃盤。
まあ、いいや、なんだって。とにかくイライラできりゃあ。
それにしても、あれだけショウジョウバエが飛んでいても何ともしようとしない女ども(店長と2人前女)の神経が理解できない。
ああいやだ
二度と行くまい
あんな店
B.バルトーク(1881-1945)の「2つの肖像」Op.5,Sz.37(1907-09)。
肖像っていうぐらいだから「似姿」を描いたものである。少なくとも荷姿ではない。
その、2つの似姿っていうのが何かというと、1曲目は「理想的なもの」であり、2曲目は「醜いもの」である。
なお、バルトークには「2つの映像」という作品もあるが(Op.10。1910作曲)、まったくの別物である。名前が似ているだけ。
第1曲は、2つの楽章から成るヴァイオリン協奏曲第1番(1907-08。1958発見)の第1楽章を転用したもの。また第2曲は、「14のピアノ小品」Op.6(1908)の第14曲「ワルツ『踊る恋人』」から編曲されたものである。
1907年にブタペスト音楽院のピアノ科教授となったバルトークは、シュテフィ・ゲイエルという7歳年下の女性ヴァイオリニストに恋をした。1907~08年が親密さのピーク。その彼女のために作曲し、贈ったのがヴァイオリン協奏曲第1番である。
しかしながら、彼女は別な男性と結婚。彼女がバルトークから贈られた協奏曲を公表することもなかった。
ヴァイオリン協奏曲第1番が1908年に完成していながら、その後50年の間、存在が知られなかったのはそのためで、彼女の死後に遺品の中から発見されたのであった。
あぁ、かわいそうなバルトーク!
ただ、2人の恋が実らなかったのは、バルトークの無神論にゲイエルがついていけなかった、あるいは納得しなかったという、けっこう「やれやれ的」な理由だったという話もある。
「2つの肖像」はヴァイオリン協奏曲第1番と同時期に書かれたわけだが、バルトークはコンチェルトで書いた「彼女のテーマ」を、第1曲の「理想的なもの」としても残したということになる。なんだか胸を打つ話じゃありませんこと?そこのマダーム!
なお、手元に1974年に発行された「最新レコード名鑑 管弦楽編」というのがあるが(“レコード芸術”誌の付録だった)、そこには「肖像」について《この第1楽章には独奏ヴァイオリンが用いられており、戦後発見されたバルトーク若き日の作になる『ヴァイオリン協奏曲第1番』の第1楽章がほとんどそのまま転用されているが、この2つの曲の関係はつまびらかではない》とある。そっか、この頃はまだ「つまびらかではなかった」わけか。う~ん、時代を感じる……
私はこの「理想的なもの」を中学1年生のときに初めて耳にした。FMで流れていたのをたまたま録音したのだ。
いやぁ、はっきり言って、何が「理想的」なのか解らなかった。実は「理想的なもの」っていうのは私の聞き間違いで、これは「醜いもの」なんじゃないかと思ったくらいだ。
「理想的なもの」というのがたぶん女性を表していることは本能的に感づいたが、当時の私にとって理想的な女の子は、郁子ちゃんだったり敦子ちゃんだったりしたわけである。確かにいま聴けば「うっとりとする、艶かしい音楽」ではあるが、あの頃の私にはこの音楽を聴いても、イメージ的にはトミ子だったりテイだったり、つまりは旬がとうに終わった「美」という文字とは対極にあるおばあさん的なものだったのである。よく解らんかったなぁ。
逆に言えば、「理想的なもの」として彼女をこのように描いているということは、もうこの段階で「実らない恋」が無意識的か意識的かは知らないが、表現されているとも言えそうである。
贈られた方も、「これは汝のことを描いたものだ」と言われたなら、「ちょっとぉ~っ!これのどこが私だって言うのよ!」って、プンプンされそうである。
身から出た錆……って、こういうときには使いません?
じゃあ「醜いもの」の方はというと、醜いっていうよりはヒステリックな音楽と言った方がしっくりする感じだ。激しいがイライラする感じ。
原曲となった作品が「踊る恋人」なのに、「醜いもの」と化してしまうなんて、ベルリオーズが自分をふった女性を魔女に仕立てるのよりも陰険と言えば陰険。でも、私としてはこの陰険さが好き。結構敵に回すと怖いぞ、バルトークは。
まあ、緩徐楽章と急速楽章によって、彼女がもつ相反する2つの性格を描いているらしいけど……
私が聴いているCDはハンス=マルティン・シュナイト指揮南西ドイツ放送響(1989録音)。ヴァイオリンの独奏を務めた奏者の名前は明記されていない。
アルテノヴァのBVCC6101。ただし規格番号が現在は変わっている↓。
このCDには、ミヒャエル・ギーレンの指揮、ラッセル・シャーマンのピアノによるピアノ協奏曲第3番と、ゾルタン・ペスコ指揮による「弦チェレ」も収録されている。
投げやりな言い方ですまないけど、この手の曲は「これはいい演奏だ」とか「これしかない」というように、いろいろな演奏を比較して好みの演奏を探していくって感じにはならない曲のような気がする。なぜかは解らないけど。
紹介したCDは廉価盤ながら、録音も美しくけっこういけるとは思う。
余談だが、私はバルトークのヴァイオリン協奏曲第1番はけっこう好きである。特に第2楽章が……
喉痛し
気温の変化で
朕は風邪
ベルリオーズの歌曲集「夏の夜」Op.7(1840-41/43,56管弦楽編曲)。
6曲から成り、それぞれが「愛」のさまざまな局面を描いている。
詩はベルリオーズの友人、T.ゴーティエが1838年に出版した詩集「死の喜劇」から採られた6篇である。各曲のタイトルは、「ヴィラネル」「ばらの精」「入江のほとり」「君なくて」「墓地にて」「未知の島」。
なお、独唱にはメゾ・ソプラノもしくはテノールまたはコントラルトが指定されている。
ベルリオーズは私の好きな作曲家であるが、この曲はまともに聴いたことがなかった。しかし、一昨年、都響の演奏会でこれを聴く機会があったために、コンサートに臨むにあたってちょっぴり繰り返し聴いてみた。
第1曲目は明るく親しみやすい曲。春の到来と祝福される恋人の喜びを歌い上げる。なかなか「お気に」になった。
ところが第2~5曲はというと、これは悲しい愛の歌となる。死や別れ……。まあ歌詞のもととなったのが「死の喜劇」ってくらいだからな……。しかも私にはちょっぴり退屈。ベルリオーズって、すっごくいい曲を書いているときと、恐ろしく退屈な音楽を書くときがある。この第2~5曲までが恐ろしく退屈とは言わないが……(抒情的な傑作という声もあるようです)。
しかし、終曲はその重い気分を吹き飛ばしてくれるような晴れやかな音楽。いい音楽である。
その第6曲「未知の島」は、
《言っておくれ、若く美しい人よ、
どこにあなたは行きたいのか。
帆はその翼を広げ、
そよ風が吹きはじめている……》
と始まり、
《言っておくれ、若く美しい人よ、
どこに行きたいのか。
「連れていって」、美しい人は言う、
「誠実の国の岸辺まで、
人が永遠に愛するところへ!」
その岸は、いとしい人よ、
だれもまったく知らぬ所、
愛の国については。
どこにあなたは行きたいのか?
そよ風が吹きはじめている。》
と終わる。
未知の国!
永遠に愛が続く、未知の愛の国!
そんな国がどこかにあるのか知らん?
でも恋するものの高揚した心をみごとに謳いあげているなぁ。
いいねぇ。おっさんは泣けるよ!
誠実でない私はそこへは行けないの?(←「誠実でない」は自己評価ではない)
私が持っているCDは、ミントン(Ms)とバロウズ(T)の独唱、ブーレーズ指揮BBC響(1976年録音)による演奏。ソニー・クラシカルのSRCR9784~6で、他にも幻想交響曲や「レリオ」などが収録されている3枚組のCDだが、現在廃盤。この曲に関して言えば、ブーレーズの演奏が果たしていいのかどうか私には解らないが、何となく別な演奏の方が良いような気もする。
ところでその都響の演奏会(メインは幻想交響曲)は、私にとってはある意味合いをを持っていた。その理由は内緒であるが(どうせ知りたくもないだろうし)、「夏の歌」という作品も私にとっては感慨深い作品の一つに加わったのである。
う~ん。たまにシリアスな話。志村けんがコントの中で真面目なことをするくらい違和感があるなぁ。
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949・オーストリア)のホルン協奏曲第2番変ホ長調(1942)。
この作品は、私がクラシックを聴き始めての比較的初期に知った作品で、そのころ=中学時代の「思い出の雰囲気」と結びついているものである。
R.シュトラウスの父親はフランツ・シュトラウス(1822-1905)というホルンの名手であった。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「パルジファル」の初演ではホルンの独奏パートを担当した。
フランツは作曲もしたが、「ワーグナーは破壊的であり、メンデルスゾーンとシューマン以後、真の音楽は一作も書かれていない、と信じていた」(H.ショーンバーグ「大作曲家の生涯)のであった。
R.シュトラウスは2曲のホルン協奏曲を残している。
第2次大戦中に書かれた第2番は、小編成のオーケストラのために書かれたせいもあって、温かで田園的な雰囲気に満ちている。父親に献呈されたこの曲が父親の追悼式典で演奏されることをリヒャルトは望んでいたが、1943年に初演されている。
私にとっても、とても懐かしい想いにかられる作品である。
こうやって人は昔を懐かしむのね……
私の推薦するCDは、ヘルマン・バウマンのホルン、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のもの。1983年録音。フィリップスのPHCP9025。でも、今は廃盤。ごめんね、いつもいつも……
中国の水は飲んではいけないとさんざん脅かされていた。
生野菜も、洗った水のために、気をつけたほうがいいと言われた。
何でもガイドブックによると、中国の水は硬水だから飲むと腹を壊すらしい。
でも煮沸すれば大丈夫だという。
煮沸すれば硬水が軟水に変化するのだろうか?
まさかなぁ。
結局、衛生的じゃないってことだろう。あらためて言うことではないが。
ホテルの洗面台の前にも、毎日1本、ミネラルウォーターが置いてあった。私はこれで歯をみがいたわけである。
部屋には当然のことながら冷蔵庫があったが、これがまたただ電気を熱に変化させているだけの代物で、肝心の中身はまったく冷えない。文字通りまったく冷えない。
だから、外で買い込んできたミネラルウォーターはすっかりぬるいものになってしまう。
ミネラルウォーターも中国製のものは安い。エビアンなんかは高い。これは日本でも同じことだが。
渡航前には、中国ではただ水道水を詰めただけのニセのミネラルウォーターがあるから気をつけるようにと言われもしたが、幸いそのようなものには遭遇しなかった。
で、部屋でぬるくなった水を、悔しいから眺めてみた。
漢字でなんちゃら書いてある。商品名である。「カエル、グワグワ」ってイメージである。
なぜか横面にはタレントらしい顔写真である。
そして裏面には英語で商品名が書かれている。「WAHAHA」……
やれやれ、なんとも力の抜ける名前である。
まあ、昔、根室で「ママクリーム」という、やれやれな名前のの不気味な飲み物を見かけたこともあるが……。カツゲン(活源)だって、よく考えりゃへんだよなぁ。
3日目の午前中は繁華街(?)に行ってみる。おお、マックも ありゃKFCもある。
ちょっと路地裏に入ると、肉やイカなんかを長い串に刺して焼いて売っている店がある。その焼く前の串の保存状態といったら、直射日光がバンバン当たりっぱなし。
あとでガイドが言っていたが「あれ、中国のヒト、ダイジョーブ。でも日本のヒト、きっとおなかこわすよ」だと。私は全面的に同意する。
昼食は「平安府」という店。ここはホテルで、その1階のレストラン で食べたのだが、これまたあっさり系で美味しかった。
午後は市内を何箇所か見て歩き、夜は「恭王府四川飯店」という店へ。辛いのが苦手な私だが、辛くても美味いものは美味い。満足。
ということで、以下の行程は省略。
8月16日、朝の8:00発千歳行きの中国国際航空169便で帰ってきた。
北京空港の中国国際航空の千歳便のカウンターの姉ちゃんは、洗練されていないもののちょっと知的な雰囲気があったが、いかにも冷淡って感じであった。現地ガイド曰く、中国の空港のお姉ちゃんはみんなこんな感じだって(悪い意味です)。
機内には空席があったので、私は最後方のトイレ前の席へ移動。ゆったりと過ごすことが出来た。
この便にも日本のキャビンアテンダントが1名乗務していた。
千歳に着いて降りる際に、少し話をしたが、午後の折り返し便ですぐに北京に戻るという。たいへんだなぁ。彼女、千歳に来ても、いまだに空港より外に出たことがないそうだ。
「もし、北海道で時間が出来たときには、ぜひ私にご連絡を」
なんて言える人間ではないので、あくまで立ち話で終了。
やっぱり、日本、北海道はいいなぁ。
今日の音楽は、前回のアヒルを偲んで、しかもレスピーギついでに、彼の組曲「鳥」(1927)。
これも「リュートのための古風な舞曲とアリア」同様、過去の音楽作品を管弦楽化したもの。5つの楽章からなり、それぞれは「前奏曲」「鳩」「雌鳥」「ナイチンゲール」「かっこう」。B.パスクィーニ(1637-1710・イタリア)、J.de ガロ(1670-?)、J-P.ラモー(1683-1764・フランス)、その他作者不明のクラヴサン曲から編曲したものである。
私が聴いているCDは、「ローマの松」でも紹介したロンドン・レーベルのKICC9383~84。演奏はイシュトヴァン・ケルテス指揮のロンドン響。同一ソースのCDがデッカのUCCD3546として出ている。録音は1969年。
ということで、強引に中国と「鳥」を結び付けてしまった。
いいじゃないの、私の無事がなにより……
ベルリオーズ(1803-1869)の序曲「ローマの謝肉祭」Op.9(1843)。
前回までのあらすじは、中国のホテルのルームサービス・メニューに記載されていた「イタリア肉の味噌ラーメン」。これが実は「スパゲティ・ボロネーゼ」だったことから、かつてパスタのCFに使われていたレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」に話は広がり、さらに同じレスピーギの「ローマの松」に話が展開された、という悲劇であった。
ええい、ローマついでだと、今回は「ローマの謝肉祭」を取り上げる、この見事なまでの強引さ。
「あなたって強引ね」
「強引な男は嫌いかい?」
「ううん……」
「ふふっ、じゃあ次は『ローマの祭』にしようか?」
「えぇ……」
あぁ、ばからし。
北京での2日目の夕食は、全聚徳(ぜんしゅうとく)という北京ダック店の方荘店というところでとった。全聚徳は有名な北京ダック店のようだが、方荘店は直営店舗ではないようだ。
ところで夕食前に近くのイトーヨカードーに立ち寄ってみた。
北京市内には2社のヨーカドーがある。
1つは華糖洋華堂商業有限公司(日本語名は華糖ヨーカ堂有限会社)で、店舗数は7。もう1つは北京王府井洋華堂商業有限公司(日本語名は王府井ヨーカ堂有限会社)で、店舗数は2である。
私たちが立ち寄ったのは王府井洋華堂の方の頸松(じんそん)店。こちらの会社はマークの色が赤と緑である。日本のヨークベニマルと同じだ。
売り場にはインスタント麺やレトルト食品が豊富で驚いた。
あと、ビールが安い。現地生産のアサヒ・スーパードライの350ml缶が4.5元(約77円)でる。日本から輸入したエビスビールもあったが、こちらは13.5元(約230円)だから日本とほぼ同じである。
私はまるで観光客のように(観光客だけど)、現地のポッキーを喜び勇んで買った。
会計のとき、レジのお姉ちゃんが「▼#@■&○ニョエェェ」と何度も私に言う。どう控えめに考えても「素敵な方ですね。サイン下さい」とは言っていないようだ。
私は「What?」と聞き返したが、その姉ちゃんは相変わらず「▼#@■&○ニョエェェ」と繰り返すだけだ(2回目は▼#@■&○ニョイィィ」だったかも知れない)。
そうこうしていると、後ろに並んでいたいかにも意地悪そうなおばさんが、レジ嬢に何か言い、私は「もう行け!」とばかりに解放された。
あとから聞いたところによると、「レジ袋はいるか?」ということだったようだ。オリンピックが始まる少し前に、レジ袋の有料化がなされたらしい(1枚いくらかは知らない)。それにしても、中国の人たちは英単語すら発しようとしない。知らないのかも知れないし、自国語に頑ななのかも知れない。
ヨーカードーの惣菜売場では、おにぎりやいなり寿司まで売っていた。ちょっと興味深かったが、アヒルのために我慢した。
全聚徳方荘店の料理は美味しかった。店員の教育も行 き届いている感じがした。日本語が上手なやり手っぽいおばさんもいた(チーフらしい)。
店内は3フロアで、各階もかなり広い。毎晩何百羽のダックがここで人間様の胃袋に収まるのね……ガァーガァー。
コースのメニューは、アヒルホルモンの醤油煮物、魚の豆ソース和え物、野菜の和え物、豆腐の醤油煮込み、アヒル胸肉の炒め、アヒル心臓とピーマン炒め、豌豆とアヒル肉の角切り炒め、甘栗と白菜の炒め、豚肉とニンジン、木耳の千切り炒め、油麦菜の炒め、北京ダック(葱、ソース、荷葉餅)、玉子チャーハン、アヒルのスープ、フルーツ
いやはや、アヒルだらけ。まさにアヒルのカーニバル。
日本で北京ダックといえば、今回のメニューのアンダーラインを引いたものを指すし、しかも 皮だけを巻いて食べる。ところが、こちらは皮に肉もついたいるものを巻く。これが逆に脂っこくなくて良い。日本のはちょっとくどいもん、私みたいに……
そして、メニューにあるように、ほかの肉もきちんといろんな料理に使っている。
私は内臓系料理は不得意とするが、ホルモンの煮物なんてどれがホルモンか注意をしないまま食べちゃった。心臓はパスしたが……。
どれだかはっきりしないが、カレー味の一品があった。これなんか、チャーハンと一緒に食べると、ダックのスゥプカリーって感じで美味しかった。
いわゆる「北京ダック」も、皮だけではなく肉がついている。
アヒルの謝肉祭ですっかり満足(って、ホテルに戻ってからラウンジで「イタリア肉の味噌ラーメンを食べちゃったけど)。よいお店でした。
さて、肝心の(←どこが?)「ローマの謝肉祭」のことであるが、この序曲はもともと、歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」Op.23(1838初演)の第2幕の序曲として書かれた作品である。その後管弦楽作品として独立し、「ローマの謝肉祭」(Le Carnaval Romain)と呼ばれるようになった。
この曲、ストレス発散にはもってこいだ。私には。
曲にあわせてタンバリンを叩くのだ。
強く叩きすごて、手から血が出ていたこともあったし、 タンバリンの皮が破れたこともある。
その場を盗み見た人は、私が狂乱宗教に入信したと思ったに違いない。
でも、お試しあれ、病み付きになるから。
有名曲だから名演盤も多いが、ここではベルリオーズ指揮者として私が敬愛する、コリン・デイヴィス盤を紹介しておく。オーケストラはロンドン交響楽団。
しつこいようだが、一家に一個、タンバリンの備えがあると安心である。トライアングルもあると鬼に金棒である。
今日は、中国の“協奏曲”。
中国2日目の午前中はちょっぴり観光。
万里の長城(八達嶺)へ行く。
長城に入るにもセキュリティ・チェック。それにしても混んでる。朝のラッシュアワー並みである。外国人も多いが、中国の人も多い。
中国人のおっさんにふつうに話しかけられた私は中国人に見えるのだろうか?
昼食は長城から少し北京よりに戻ったところにある「金殿」という店。飲茶料理であるがどれも美味しかった。
この店は長城観光の際の昼食拠点になっているようで、次々と観光バスが来る。
食事をする場所は2階で、1階はまさに広大なおみやげ店である。あぁ、大陸的ぃ~。
食事を終え、次の場所へ向おうとすると激しい雨に雷。
落雷があったらしく店内は停電。ほんとにすごい雨であった。
この時間に長城を歩いている人は瞬間的にずぶ濡れになるに間違いない。気の毒に。
バスは「明の十三陵」へ向ったが、途中途中で落雷によって街路樹が折れている。
雨で視界は極めて悪い。
「十三陵」の駐車場に着いたが、地面が床下浸水状態。排水が悪いのか、かなりの水の量である。
何とか行程を消化しようとする義務感の強いガイドさんを説得してそのまま北京市内に戻ることにする。
ガイドさんに言わせると、このような雨は決して珍しくないらしい。この時期の北京は、日本でいう梅雨の時期なのだそうだ。
ということで、今日は得体の知れないCDを御紹介(数年前に日本で買ったもので、中国で買ったのではない)。
Zhonghu(中胡)とErhu(二胡)の協奏曲を集めたもの。
MARCOPOLOの“CHINESE MUSIC SERIES”の1枚である。ただ、このシリーズが何枚から成っているのかは皆目不明。
このCDに収録されているのは、
“Su Zu”Zhonghu Concerto
The Shepherd Girl
Ballad of Yubei
Song of Yang Guan
Dance of the Snake
Singing the Night among Fishing Boats
の6曲。
CDに書かれている原題(いや英語名)をそのまま記したのは、皆さんへの親切心ではなく、私自身への親切心である。訳せないもん。蛇の踊り……
詳しいことは解らないが、民謡が素材になっているらしく、なんとも気分はチャイニーズ、って感じになれる。まさに「これぞ中国」っていうイメージどおりの音楽が耳にできる。
中胡というのは二胡よりも一回り大きな楽器。二胡の音域がD-Aなのに対し(らしい)、中胡はG-Dである(んだとさ)。
CDはMARCOPOLO(このナクソスと同系統のレーベルはけっこう面白いものを出してくれる)の8.223926。
演奏は、独奏(二胡、中胡)がWon On Yuen、指揮はYip Wing Sie、オケは ホンコン・フィル。
あぁS&Bのホンコンやきそばが食べたくなってきた……
水加減
侮れないぞ
ホンコンやきそば
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