読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

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October 2008

「私が育んだ石」 第1部の3

 「私が育んだ石」 第1部「トロカツオ純情編」 その3

 診察室の中から私を呼ぶ声――それが女性の声だったか男性の声だったかは覚えていない――は、私の耳に全知全能の神の救いの言葉のように聞こえた。
 実際、待合室で座っているんだか、寝転びかかってんだか、タコなんだか分からないような格好で痛みと格闘していた私は、呼ばれても立ち上がることができない陣痛のピークに達していた。かつて妻が出産のときに実践しようと練習していた(本番のときにそれができたのかどうかは知らない)呼吸法を真似て、ヒーヒーフゥーッと呼吸していたのに、全然痛みなど軽減しなかった。

 妻と看護婦さんに両側から支えられ、私はなんとか診察室に入ることができた。このときはっきり覚えているのは、妻の支え方の方がぞんざいだったことである。何も知らない子どもは自販機のジュースを買ってくれと騒いでいた。

 You are welcome!
 そんな雰囲気で私を迎えてくれた医者は、比較的若かった。希望としてはもう少しベテランぽい医者に診てほしかったが、つい先ほどベテランの偽善的微笑医師に何の救いも与えてもらえなかったし、ここで「もっと年寄りを」と叫んだところで、私の頭がヘンになったと思われるだから、この若先生にすがるしかなかった。

 しかし、簡単には痛みを解消してくれない。
 尋問があるのだ。
 私は、あのときと同じように涙目で「トロカツオ一切れと……」と、昨夜の食事内容を説明しなくてはならなかった。
 ところが、このとき私は「ハッ!」と気づいたことがあった。
 最初の時には頭から抜けていたが、食事内容で忘れていたことがあった。
 「あっ、そういえば……、そういえば、焼酎のお湯わりには梅干を入れました」

 この、医者にとっては新たな事実は、しかしながらまったく彼の関心を誘わなかった。彼の関心は「朝起きたときに背中が痛かった。それあとに腹が痛くなった」ということであった。あの老医師がまったく無視した部分である。
 さらにこの医者は、とりあえずは痛みを抑えなきゃ、というエンジェル思考で、私に痛み止めの注射を打ってくれた。
 諸君!このときの私の喜びを分かってもらえるだろうか?
 肩に差された注射針の痛みなんか、蚊に刺されるよりも感じないと思ったほどだ。
 注射器の中の薬液が次第に減ってゆき、私の体内に入っていくのを見ていると、これからはすっごく幸福な人生が待っているような気持ちになったものだ。

 それでもすぐには効かない。
 私の頭の中は時を刻む時計の秒針の音が鳴り響いていた。カチカチカチカチ。このカチが何回か繰り返されたときに、痛みは夢のように消え去るのだ!無期限なんかじゃないんだ!
 そう思うと、私は食あたりの原因となった、特定されていない食べ物を、もう一度眺めることぐらいはできるかも、という勇気がわいてきた。

 これからの幸福をうっとりとした表情で、しかし頭の先から脂汗だらけの、いわば気持ち悪い様相の私に医者は言った。
 「尿を調べてみましょう。尿を取ってきて下さい」
 ウィ、ウィ!
 どうして断ることができようか!
 尿を飲んでくださいとは言っていないのだ。あなたのためなら、尿の100ccや150ccc、いや紙コップに並々と、私の尿を注いであげようではないか!

 私は看護婦さんに脇を支えられ(妻の手助けは拒否した)、近くのトイレへと向った。お腹の痛みは相変わらずひどかった。
 そして、排尿行為に入った。

 出てきたのは……真っ赤なオシッコであった。
 「やあ、久しぶり!赤いオシッコなんて大学卒業前のあの時以来だね?」
 私は心の中でそう語りかけ、次の瞬間、すべてが氷解した。
 「そうか!この痛みは尿路結石なんだ!前にすごく痛いと聞いたことがある。間違いない!」
 尿を取り終え、誰かがストロベリー・ジュースと間違えて飲んでしまわないよう、きちんと検尿入れの棚の奥に置き、私はトイレを出た。
 不思議なことに、腹の痛みは財布の中の金がなくなるかのように、消えうせてしまった。

 私は大発見をした子どものように急ぎ足で医師の元へ戻った。
 「せ、先生、血尿です!血尿だったんです!」
 血尿が出たことをあたかも喜んでいるように受け取られたら困るのだが、医者よりも先に診断を下せた自分が愛おしくてたまらなかった。
 「そうですか。やっぱり。最初に背中が痛いと聞いたときに、結石じゃないかと疑ったんですよ」
 本当だろうか?負け惜しみを言ってるんじゃないのか?
 「それでまずは痛み止めを打って、尿検査もお願いしたんですよ。ちょうどいいタイミングで血尿が出ました。これで結石に間違いないと分かりました」
 う~ん、どうやら負け惜しみのデマカセではなかったらしい。悔しい……

 痛み止めを打ったことと、おそらくは石が落ちて尿管の流れが戻ったためか、痛みは急速になくなっていった。
 「先生、ではこれで帰らせていただきます」
 「いいえ、入院してください。まだ石は体の中に残っていますし、これだけの血尿が出ているわけですから感染症の危険もあります。今日は土曜日なので詳しい検査はできませんが、月曜日にはできます。幸いベッドはたっぷり空きがあります」
 ということで、私は生まれて初めて入院することとなった(ちょっぴり楽しみではあった)。

 ロビーで入院病棟のベッドの準備が終わるのを待っていたら(もうこのときにはお腹の痛みは完全になくなっていた。昼食を食べそびれたことが残念でならなかったくらいだ)、私の両親が駆けつけてきた。まあ、駆けつけたというには遅すぎるが……

 母親が妻を見るなり言った。
 「すごいお腹が痛くて立てないって、ガンか何か?」
 どうしてこの女はこうなんだろう、やれやれ……

 私は病室に行く前に上司の自宅に電話した。
 上司の奥さんが電話に出たので「尿路結石で入院することになりました。少なくとも月曜日は休むことになりますので、そうよろしくお伝えいただけますか?病院は札幌○○病院です。いえ、お見舞いを持ってきてほしいという意味ではありません。では」

 私が入院する――ああ、初入院!――病室は6人部屋であった。が、誰一人入院患者はいなかった。
 えっ?この広い部屋に私1人?気兼ねなくていいけど、夜も1人?
 お化けは出ない?
 夜の回診にきた看護婦さんと間違いは起きない?
 あぁ、不安と期待……

 子どもが小さいこと、そして痛みがなくなったためにすっかり健常者になったため、妻は夕方に帰宅した。夕食を食べられるように、箸だけは買って置いて行ってくれた。
 また、看護婦からは10センチ角ほどの金網を渡された。SMごっこの道具かと思ったが、やっぱり違った。オシッコをするときに、この金網ごしにしなさい、というのである。石が出たときに引っかかって分かるようにするためだ。それから水分をたくさん取りなさいという。私は病院の自販機で缶入りのミルクティーを山ほど買い込んで病室の冷蔵庫に入れた。なぜミルクティーかというと、他の品物がことごとく売り切れだったからである。
 がんがん飲んだ。尿崩症のようにオシッコが出た。
 金網越しに便器に放尿した。
 砂金探しをしているような気分になったが、私が産みの苦しみを味わった砂金ちゃんは姿を現さなかった。

 私にとっての入院食第1号はカレーライスだった。
 カレーライスを箸で食べたのも生まれて初めてだった。
 けっこう食べるのが難しいことが分かった。

 夕食後、一度医者が診に来てくれた。
 外来のときとは違う医者だ。あとで知ったのだが、ここの副院長らしい。
 「いやぁ、あれはすっごく痛いからねぇ~」と、他人事のように言って去って行った。実際、他人事だけど……
 そして、消灯の時間となった。

やれやれ、ヘルペスかよぉ

 疲れているのか(たぶんこれは皆が否定するだろうが)、気持ちがたるんでいるのか(間違いなくこれは皆が賛同するだろう)、そのどちらかは分からない、ようでほぼ判明しているが、不調である。世界経済のことではなく、わたしの体調が。

 そして、どういうわけか唇に痛い痛ぁ〜いできものがプチッって出来てしまった。
 最初は単に唇荒れかと思ったのだが、こんなに痛いのは記憶にない。
 そこで自己診断の結果、私はこれを口唇ヘルペスであると結論づけた。
 口唇ヘルペスになったのは初めてである。
 数年前に首に痛い痛ぁ〜いできものができたことがあるが(「できものができた」っていうのはとても読みにくいし、きっと日本語としても間違っているのだろう)、そのときは皮膚科できっぱりとヘルペスと言われた。
 その経験から、きっと今回のは口唇ヘルペスなんだろうと思ったわけである。
 ヘルペスって、でも性病みたいな感じでちょっと嫌な感じだ。しかしながら、口唇ヘルペスっていうのは、調べてみるとけっこう多くの人が罹ったりもっていたりするようで、10人に1人の割合だそうだ。原因はウイルス。
 で、その感染経路から「愛のウイルス」って呼ばれるらしい。
 まぁ、素敵な名前のウイルスだこと。
 といっても、このところ私が愛のウイルスをうつされるような経験をしたなんて話はまったくないから、ずっと以前にうつっていたものの発症しなかっただけなんだろう。首にでたヘルペスと口唇ヘルペスが同じ型のウイルスで引き起こされるのかどうかは知らないが、もしそうだとしたら、明らかに私は口唇ヘルペスを発症してもおかしくない人間だということになる。
 疲れたときに発症するという口唇ヘルペス。
 でも、私の場合は飲みすぎによる疲労が原因なんだろうな。

「私が育んだ石」 第1部の2

  「私が育んだ石」 第1部「トロカツオ純情編」 その2

 偽善的な優しさに満ちた医者の呼びかけを受け、私はお腹の痛みのために体をタコのようにくねらせながら診察室へと入った。
 そこにいた医者はそこそこ年をとった、よく言えば経験深そうな、疑って言えば個人病院で可もなく不可もなく日々を過ごしてきたような医者で、そのかすかな笑みと心配そうな瞳は、やっぱり偽善的であった。こういった印象は、患者が老人だったらウケるのかも知れない。

 「どうしたんですか?お腹が痛いんですって?」
 もう知っているなら「どうしたんですか」なんて聞くな。先生こそ「いったいどうしたんですか?」である。
 でも、今や私の命のともし火が消えるかどうかはこの医者にかかっているのである。直感的に頼りにならないと思ったが、彼しかいないのだ、私には。
 「はい。ものすごく痛いんです」
 「昨日、何か食べた?」
 食べたに決まってるじゃないか!
 「はい、何かは食べました」
 「どんな何かを食べたの?」
 いや、実際にはこのように和気あいあいとは進まなかった。
 正確には私の答えは「別に変わったものは……」であり、それに呼応する医者の言葉は「どんなもの食べたの?」であった。
 「居酒屋に行きまして、そこでトロカツオの刺身一切れと、ビールたっぷりと、焼酎のお湯わりを2杯です」
 「トロカツオ?食べ物はそれだけ?」
 私は痛みと話の進展が遅いことにいらだちを覚え、苦しい呼吸を繰り返しながらも答えた。
 「飲むときはあまり食べないのです。刺身は嫌いですが、今日のトロカツオは美味いですよ、とお店の人が言っていたので、一緒に行った人が頼んだのを一切れ食べました」
 「美味しかった?」
 「いえ、初めて食べてみましたが、好きな味ではなかったです」
 「じゃあ、そこのベッドに寝てみて」
 せっかく話が盛り上がってきたのに、医者はそれを断ち切った。やはり偽善的な男なのだ。
 私はシャツを捲り上げて仰向けに寝た。
 医者はポンポンとお腹を軽く叩いたり、聴診器を当てたりして、自信に満ちた表情で言った。
 「食当たりだね」
 あぁ、あのときの勝ち誇ったような顔!あぁ、私は禁断のトロカツオのせいで、腹の中がトロトロになってしまったのだ!
 「こういうのは出しちゃったほうがいいから。痛み止めは出すけど、水分をたっぷりとって早く出すんだよ」
 「は、はい」

 ということで、私はただ腹をポンポンされただけで帰宅を命じられた。
 それにしても、私はつくづく素直な子だと思う。
 というのも、なるべく早く出す、脱水症状に気をつける、というあの仮面的笑顔老医師の助言を実行するため、腹に手を当てながらも、帰り道にコンビニに寄り、ポカリスウェットやアクエリアス、なぜかカツゲンまで買って家に帰ったのだ。

 さて、家に着いたはいいが、とても普通ではいられない。とても独りトランプ占いなんてやろうという気が起きない。それどころか痛みはどんどん増すばかりである。かといって、トイレに行きたい気がして駆け込んでも、一向に出ない。ひどくヒトを馬鹿にした、ブッという空砲が鳴るだけである。

 やがて汗も出始め、トイレに立つこともできないくらいになってきた。
 妻は私に言った。
 「あそこの先生、あんまり評判よくないわよ」

 あぁぁぁぁ、あぁっ、そうですか!それはどうも御親切に教えてくれてありがとうございます。

 最初に言え!このバカ者!
 でも、私には喧嘩を売る気力も体力ももはやなかった。私はこんなに敏感だったのかと思うくらい、ビンビンとなっているではないか。いや、腹の痛みのことである。

 妻は言う。
 「食当たりなんかじゃ悪い病気なんじゃないの?別なとこに行ってみたら?」
 やれやれ、奴隷が王女様にありがたき助言を授かっているかのようだ。

 電話をかけ、まだ診てもらえることを確認し、車で15分ほどのところにある総合病院に行くことにする。
 もはや私は運転などできる状態ではない。
 妻に運転させる。
 赤信号で停まるたびに、私は拷問を繰りかえされるような苦痛を味わう。
 もう信号無視してくれ、と懇願したくらいだ。ふだんよっぽどのことがない限りは、彼女にそんなことを頼まない。つまり、そのときはよっぽどのときだったのだ。もちろん彼女は私の悲痛な叫びを無視した。「なんで?捕まったら私が傷つく」。わかりやすい理由である。

 病院に着く。
 私は妻に、とにかく事情を話して早く診てもらうようにして欲しい。このままなら私は破裂する、と懇願した。彼女はしかたないわねぇ、って感じで近くの看護婦に言いに行った。
 その間私は、初診であるこの病院にかかるにあたっての、書類記入という難題を課せられていた。でも、痛みで字も書けないのだ。いやぁ、人間、痛みで悶絶状態にあると字が書けなくなるという、すっごい定理を発見した。

 超宇宙的時間のような待機のあと、私は夢にまでみた診察室へと誘われた。 [続く]

 

「私が育んだ石」 第1部の1 

 「私が育んだ石」 第1部「トロカツオ純情編」 その1

 いまから15年ほど前、9月最初の土曜日の朝のことであった。

 私は背中から腰にかけて、それまでに経験したことのないような鈍い痛み、というか、だるさを覚えた。
 二本足で歩き始め、歩くことが本人にとっては結構なレジャーとなっていた長男を私は呼んだ。なんとなく、背中をマッサージすれば効くような気がしたのだ。とはいっても、2歳児にマッサージなんてできるわけがない。あいつはまだ、缶ジュースのリングプルだって自分で開けられない未熟者なのだ。
 つまりだ。背中を踏んでもらう、もっと簡単に言えば背中の上を歩いてもらおうと思ったのだ。

 当時の彼は実に献身的であった。今の私の相手をしてくれない長男と同一人物であることがまったく信じられない。
 私の要望に対し、いやな顔ひとつせず、むしろ嬉々として私の背中の上を歩いた。

 しかし、痛みというか違和感は消失しなかった。
 変だ。

 そんなこんなしているうちに、こんどは腹が痛くなってきた。
 専門用語でいうところの腹痛である。
 その痛みはものすごい勢いで強くなっていった。
 下痢のような感じがしたのでトイレに行くが、何も出ない。いっそのこと、ドバ、ビギュゥゥゥ~と出てくれたなら痛みは和らぐと思うのだが、いっこうに出る気配がない。それにだいいち、こんなにひどい腹痛を起こすほど、昨夜の私は罪深くなかったはずだ。

 まだ8時。
 病院に行っても開いていない。せいぜい途中にあるセブン・イレブンぐらいしか、土曜の朝は活動していないのだ、そのあたりは。

 そのうち吐き気までしてきた。実際吐いた。というか、オエェェェェェ~ッとしたが、透明な汁しか出てこなかった。私の嫌いな三平汁の汁のような汁だった。
 吐き気と下痢。この同時襲来はかなりきつい。同時に出すことができないのだ。このあたり、TOTOやINAは何をもたもたしているのだろう?腹が冷えて下痢をしている二日酔いで今にも吐きそうな男にとっても、実に便利なものだと思うのだが、こういう両機能を備えた便器は研究していないのだろうか?

 時間はおそろしくゆっくり進んだが、何とか病院が開く時間になった。
 私は近所の○井内科に歩いていった。

 私はいま思う。
 なぜ歩いて行ったのだろう。あんなに痛いのになぜ歩いて行ったのだろう?
 妻はどうして、せめて物置から自転車を出して用意してくれなかったのだろう?←出してくれても、痛くてまたげないって!

 私のよくない癖のひとつなのだが、病院なる建築物にたどり着くと、それまでの病気の症状が一時的に軽減してしまうというものがある。この日もそうであった。
 別に私が申し訳なさそうな気分になる必要はないのだが、受付の看護婦さんに「今日はどうされましたか?」と聞かれ、申し訳なさそうに「いや、ちょっとばかりおなかが痛いもんで」と実に謙虚に答えたのだ。たまたまこの日は混んでいなかったが、もし混んでいたら私の診察優先順位は最下位になったに違いない。
 それにしても、なぜ病院では「今日はどうしましたか?」と決まり文句のように言うのだろう?病院に行ってそう聞かれたからといって、「別にぃ」と答える人がいるとでもいうのだろうか?「どうもしません」と開き直る老婆がいるというのだろうか?「イクラちゃんでしゅ」とタラちゃんは答えるのだろうか?
 こういうのを、風俗店の受付なんかで言うと面白いんじゃないかと思う。特に内気そうな客に対して。
 こそこそとやってきた客に、威勢のいい受付の兄ちゃんが言うのだ。
 「お客さん、今日はどうしましたか?」

 ねえねえ、なんとなく面白そうに思いません?

 そんなとき、医者の偽善的に優しい声が、選ばれた民を祝福するかのように私の名を呼んだ。

  [続く]

これは果たしてエルガー的か?

 E.エルガー(1857-1934)の未完に終わった交響曲第3番。

 エルガーは、H.パーセル以来200年間にわたって大作曲家を生み出すことができなかったイギリスに現れた作曲家兼オルガニストである。とはいえ、その作風はロマン派にとどまっており、特に国民主義の傾向もみられないのに、祖国イギリスではとても愛好されている。
 その最たる例が行進曲「威風堂々第1番」であるが、日本でも数年前からこの曲がCFや携帯電話の着メロに広く使われるようになったところをみると、日本人も「全般的にイギリス人の音楽としての平均化されたムード」(*1)みたいなものが好きなのかも知れない。なんせアレンジされたものが、アニメ「あたしんち」のエンディング・ソングにも使われてたくらいだから……。それよりも、2005年に著作権が切れたという理由が大きいんだろうな、たぶん。

 エルガーは交響曲を2曲残している。とても魅力的な第1番(変イ長調Op.55)は1907年から翌08年にかけて作曲されている。第1番に比べると退屈な(あくまで私の好みの問題だが)第2番(変ホ長調Op.63)は1910年から11年にかけての作曲である。
 1911年といえば、マーラーが調性が崩れかかった第10交響曲を完成させずに亡くなった年だが、それに照らし合わせると、やっぱりエルガーはロマン派どっぷりなんだなと納得してしまう。

 1920年、エルガーは妻のアリスに先立たれる。
 あの有名な「愛の挨拶」は、アリス(キャロライン・アリス・ロバーツ)と婚約したときに、エルガーが彼女に贈った作品だ。そのとっても作品の対象を失ったのである。
 このときから彼の創作意欲はひどく衰えてしまう。

 それから10年余り。
 エルガーの友人でも会った批評家のジョージ・バーナード・ショウが新たに交響曲を書くことを勧めた。最初は乗り気でなかったエルガーだったが、1932年にショウの働きかけを受けたBBCが正式にエルガーにシンフォニーを委嘱、作曲が始まった。

 ところが1933年にエルガーは病に倒れ、さらに34年には帰らぬ人となってしまった。残されたのは大量のスケッチで、エルガーは未完に終わった場合はそれを焼却するように言ったともいわれるが、燃やされずに大英図書館に保存された。

 この未完の交響曲を補筆完成させようという動きがはじまったのは1993年のこと
 BBCがアンソニー・ペインにそれを依頼したのである。
 ペインについて私は詳しい情報を知らないが、1936年生まれだという。彼は1972年ごろからこの未完成交響曲の研究を個人的に進めていたという。

 残された資料が比較的多かったスケルツォ楽章はすぐに完成したが、ペイン自身補筆ができるのはここまでと考えていたらしく、またエルガーの遺族もそれ以上の補筆は望まなかったため、作業はこれで終わった。
 ところが1995年にあらためてスケッチを見ていたペインは、おおっ!っという閃きで第1楽章を完成。勢いづいたペインは全曲完成を目指し、遺族も反対するのをやめ、1998年に全曲が完成。あぁ、めでたしめでたし、ということになった。

 初演はアンドリュー・デイヴィス指揮BBC交響楽団によって行なわれた。

 このペイン補筆完成版の交響曲第3番が11月14日と15日に行なわれる札幌交響楽団の定期演奏会で演奏される。指揮は尾高忠明。イギリス音楽に造詣が深い尾高がどのような演奏をするのか、期待できる(他の出し物はV=ウィリアムズの「タリスの主題に基づく幻想曲」、ディーリアスの「楽園への道」)。
 また同じプログラムで、毎年恒例の東京公演も行なわれる。11月18日19時から、会場は新宿のオペラシティ・コンサートホール。東京の人、聴きに行ってあげてね!
 さらに、素敵な情報が!(?)
 尾高/札響によるこの曲のCDもリリースされた。signumレーベルのSIGCD118。タワーレコードのネット通販でも扱われている。2,720円。このCD、お得なことに(!)、同じくペインが補筆完成した「威風堂々第6番」もカップリングされている(検索するときは“尾高忠明”をキーワードにするとよい)。

 確かこの第3番、6月の都響の定期でも取り上げられたと思う。プチ・ブーム?

 私が聴いているCD(といってもこの間買ったばかり)は、db489c6e.jpg コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団のライヴ盤。

 えっ?なんでお前は札響のCDを買わないのかって?
 未知の曲だったから、まずはお値段の……

 で、聴いてみた感想だが、イギリスっぽいけどエルガーっぽいと言えるかどうか……という感じの曲である。

 エルガーって、けっこう大音響を鳴らす作曲家だったのだが、そういう点では薬味不足の音楽って印象。肥満体の新聞配達みたいにボワァァァァ~ン、ドッコイショ、エイコラショって始まって、それなりに幸福な日々を過ごすっていうものだ。きっと言ってる意味は理解してもらえないだろうけど。

 気になる方は札響の演奏会に足を運んでいただくか、CDを買ってみてください(もちろん札響の)。


*1) 井上和男 編著「クラシック音楽作品名辞典」 三省堂

エコバックは単なるセコの代償?

 スーパーのレジ袋に思う……

 どこのスーパーも、猫も杓子も、やれエコだ、二酸化炭素削減だといって、レジ袋の有料化に踏み切ってしばらく経った。どうも慣れない、この現象。どこか違和感をぬぐいきれない。本当にレジ袋を有料に、つまり配布を中止したからといって、本当に効果があるのだろうか?エコという美しき掛け声の背後にあるのは、単なる企業の経費節減じゃないかと思うのだ。

 ポリのレジ袋が急速に普及したのは今から30年ほど前だろうか?
 その前は紙袋だった。
 さらにその前は“買い物かご”持参だった。
 今の世の中、“買い物かご”時代に戻ったということだ。

 でも、スーパーがレジ袋を用意するようになったのって、消費者からの強い要望があったからなのだろうか?私はそのあたりの経緯は知らないが、どうもスーパー側がサービスの一環として始めたように思うのだ。買い物した客がその袋を提げていれば、袋のロゴやらマークによって、それはスーパーの宣伝にもなったわけだ。
 それが「レジ袋を廃止することによって二酸化炭素がこれだけ減るんです」って、あたかももらっていた消費者に反省を促すようなやりかたに、私はすごく抵抗感を感じるのだ。
 何でも便利なのがいいと言い切るつもりはないけど、この運動、どこか変だ。あまりにも横並びすぎるし、経営を圧迫する1つの要因を美名の下に上手く排除したように思えるのだ。

 家庭ではレジ袋がなくなったせいで、ゴミを入れるのにわざわざ同じようなポリ袋を買い始めた人も多い。それは100均なんかで売っている。
 それを買ってゴミに使う。
 総二酸化炭素量としたら、スーパーのレジ袋がそちらにスライドしただけだから、別にエコ効果なんかにつながらない。エコという点からすれば、これならあまり廃止の効果はないと言えないのだろうか?

 スーパーサイドがそこまでエコのことを考えるのならば、魚や肉のトレーについて何か改善をしていくべきじゃないのだろうか?

 レジ袋の話は、消費者をうまく騙しているとしか思えないのは私だけだろうか?

 いやぁ、たまにまじめなことを書いちゃったなぁ……って、私はレジ袋が欲しいだけなんです。
 とっても欲しいんです。
 あぁ、レジぶくろ……

「第9」……交響曲の運命的番号

 D.ショスタコーヴィチ(1906-75)の交響曲第9番変ホ長調Op.70(1945)。
 ついにショスタコーヴィチの交響曲も「第九」である。
 交響曲において「第九」というのは、なんだかとても大きな意味を持つ。

 ベートーヴェンは第9番の交響曲で初めて声楽を導入した。
 ブルックナーは第9番を完成させずに神のもとへ行ってしまった。
 マーラーは実際の第9番目の作品を「大地の歌」という番号なしの交響曲にしたが、やはりそのあとに書いた第9番が完成した最後の交響曲となった。
 ドヴォルザークも交響曲は9曲……って、ドヴォルザークはあんまり関係なさそうだけど。

 9番という数字は交響曲作家にとって、大きな運命的存在であるのだ。
 しかも、ショスタコーヴィチの第9番は、大戦が終わりソヴィエトの「勝利の交響曲」となるはずのものだった。いったい、どのような大きな交響曲になるのだろう?
 そりゃあ、みんな期待するわなぁ。

 それにショスタコーヴィチ自身が、作曲にあたって1945年3月13日のイズベスチャ紙に以下のように述べているのだ。

 《古典となるべき作品、永遠の意義をもった作品、人類の最も重要な財産となるべき作品の創造の時がやって来た。最高の世界的な芸術は、いつも人民の戦いや勝利の成果と結びついてきた。ベートーベンの第9交響曲は1789年の事件(フランス革命)によって生まれたのではないか?第1次祖国戦争での勝利者としての民族的な誇りや感情こそが、グリンカの偉大な才能に「イワン・スサーニン」のテーマに向かわせたのではないだろうか?》(*1)

 こういう発言を目にすると、ショスタコーヴィチが戦争の勝利を描いた特別な意味をもつ交響曲を生み出すに違いないと、良識ある一般人なら誰でも思うだろう。

 ところが11月3日の初演で響き渡った第9交響曲は、演奏時間が25分ほどの、室内管弦楽的な交響曲だった。
 風俗店でかわいい女の子を選んだつもりが、来たのはおじさんみたいなおばさんだった、みたいな感じだろうか?(週刊誌情報による)

 ほぅら、お仕置きが待ってるぞぉ~。

 ショスタコーヴィチはこう述べている。

 《そこで4管編成のオーケストラと合唱と独唱による指導者への讃歌を書くことがショスタコーヴィチに要求された。ましてや、第9番の交響曲の第9という数字はスターリンにふさわしいものに思われていた。
 スターリンはいつでも、専門家やその筋の権威の話に注意深く耳を傾けていた。専門家は、自分の専門分野のことはよく知っていると主張していたので、スターリンは、自分に敬意を表して作られる交響曲が傑作になるにちがいないと考えていた。これこそ、わが祖国の第9交響曲になるにちがいない。
 白状すると、「指導者にして教師」に夢を与えたのはわたしだった。わたしは讃歌を書いていると公表していたのだ。このことについては明言を避けたいと思っているのだが、そうはゆかなかった。わたしの第9番が演奏されたとき、スターリンはひどく腹を立てた。彼は自分の最良の気分を傷つけられたのだが、それは合唱もなければ独唱もなく、讃歌もなかったからだ。しかも、自分にたいするわずかばかりの言及さえもなかった。スターリンにはよく理解できない音楽と、疑わしげな内容があるばかりだった》(*2:207p)

 この交響曲は5つの楽章からなるが、それでも全曲の演奏時間は25分もかからない。編成は2管。全体に遊びの雰囲気、そして彼特有の皮肉の味わいに溢れ、戦争勝利を賛美する曲にはまったく聴こえない。ただ、スターリンは「よく理解できなかった」かも知れないが、純音楽として聴いた場合、じつに親しみやすい音楽である。
 私にとってこの曲は、ショスタコーヴィチの作品としては第5番に次いで耳にした曲である。NHK-FMの「青少年コンサート」という番組で(どういう目的を背負った番組名なんだろう?)、福村芳一指揮の京都市響のライヴだったが、そういえば福村芳一ってずっと名前を耳にしてないな……確か真理アンヌの旦那だったと思うが。真理アンヌが誰だか、多くの人は知らないだろうし……

 この交響曲は当たり前のことのように、共産党の批判の対象になった。1948年のことである。
 この年、V.I.ムラデリ(1908-70)のオペラ「偉大な友情」に対する党上層部の不評をきっかけとして、党中央委員会が招集したソヴィエト音楽家会議において、ショスタコーヴィチやプロコフィエフをはじめとするソヴィエトの作曲家たちが文化相のジダーノフから「西欧追随の形式主義者」と断ぜられ、社会主義リアリズムへの復帰を要請されたのである。これを「第2回ソヴィエト作曲家批判事件」というが、第1回はショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に対する「音楽のかわりに荒唐無稽」とバレエ「明るい小川」に対する「バレエの偽善」であった。
 第2回批判で第9交響曲(それに第8交響曲、ピアノ・ソナタ第2番)をやり玉にあげられたショスタコーヴィチは、「決議に盛られた批判の一切に対し……274d2678.jpg 私は深く感謝している……私は英雄的なソビエト人民の影像を音楽で描くため、さらに決意を固めて努力するつもりだ」(*3)と“自己批判”を発表したが、う~ん、心の中ではベロを出してるな、って感じだ。
 なお、この批判に応える作品として、彼はオラトリオ「森の歌」Op.81(1949)を作曲したのだが、この作品こそスターリン讃歌である。

 さてCDだが、以前第5番のときにも取り上げたハイティンク盤を紹介しておく。
 LONDON(もうこのレーベルはないけど)のPOCL9830。
 オーケストラはロンドン・フィル。録音は1979年。↓のとおり、再発売されている。

 ショスタコーヴィチはこうも言ってる。
 《スターリンを神格化する曲を私は書けなかった、まったくできなかったのだ。第9交響曲を書いていたとき、自分が何に向かって歩いているかを知っていた。しかし、それでもわたしは音楽で、つぎの第10交響曲のなかでスターリンを描いた》(*2)

 第10交響曲は9番から8年をあけた1953年に作曲されることになる。



 *1) 寺原伸夫解説 全音スコア「ショスタコービッチ/交響曲9」 全音楽譜出版社
 *2) S.ヴォルコフ/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」 中央公論社
 *3) ハロルド・C・ショーンバーグ/亀井旭、玉木裕訳「大作曲家の生涯」 共同通信社 

僕が頻尿気味になったワケは……

 前回までのあらすじ

 《男なのに生理が来たと思った私は、それが血尿であることに気づいたが、病院をたらいまわしにされ、行き着いた泌尿器科では下半身生まれたままの姿をさらす羽目になり、さらに大股開きで治療台の上で足を固定されてしまった》

 「おなかを診させてください」
 それが医者の言葉だったが、私にはそれを拒否する理由はなかった。たぶん、おなかに聴診器を当てたりするくらいだろうから。

 「こちらにどうぞ」
 若くていかにもエロっぽい看護婦が私をカーテンで仕切られた隣の間へといざなった。
 彼女は真紅の口紅をつけ、髪はパーマでくりくりで、まさにエロ漫画で浣腸を持っている看護婦として登場してきそうなキャラだった。顔も悪くなく、どちらかといえば誘惑されたくなるようなタイプであった。
 カーテンの向こうは、婦人科で膣や子宮を検査する時に患者が寝る台のようなベッドのようなものが置かれていた。両側からは骸骨の腕のようにアームが帯びており、そこに足首をのせて固定するようになっていた。ご丁寧に、上半身と下半身の境目あたりにはカーテンがかけられるよう用意されていた。
 看護婦は私にズボンをおろせという。
 えっ???
 看護婦は私にパンツもおろせという。
 おっ???

 ムーミンのようにもじもじしている私に気も使わず、背を向けた彼女は(白衣はブラジャーのホックの突起によって盛り上がり、エロエロしいアクセントとなっていた)、いきなり注射の用意をしている。
 もし、これがエロ漫画だったら、「ねぇ、私にあなたのを注射してぇぇん」「えっ、こんなところで?」「大丈夫よぉ。先生が来る前に、私が治療をしてあ・げ・る!」と展開するはずだが、彼女は本気で私に注射を打つつもりらしい。
 私はパンツを脱ぐ決意をした。
 しかし、臭わないだろうか、という心配があらゆる概念をのりこえて私の脳内を支配した。
 風呂に入ったのは昨晩だ。その後何度もオシッコをし、さらには血まで流している。くさいに違いない。

 そんな私の悩みなど知ったこっちゃない、という具合に彼女は振り返り、私に近寄って来た。
 「麻酔を打ちます」
 「……」
 「すぐに効きますから。注射が終わったらその台の上にそのまま仰向けで横になってください。膀胱鏡検査をしますから」
 やられた!おなかを診ましょうというのは、内部から観察しましょうという意味だったのか!あの医者が、どうりで遠慮がちに言っていたわけだ。

 しかし、そんな感慨にふけっている間もなく、彼女は私のおちんちんの先をつまみ、上に持ち上げ気味にし、裏側を酒精綿で拭き、間髪入れずおちんちんの裏側の付け根付近の麻酔の注射を打った。
 私は恥ずかしさのあまり、彼女にこう言った。
 「上手ですね」
 「そうですか?」
 実に事務的で愛想のかけらもなかった。どうしてこんな余計なことを口走ってしまったのだろう。いまでも悔やまれる。
 それにしても、好みは別として、若くてけっこう色っぽい看護婦におちんちんを触られているというのに、まったく勃起しなかった。できたての蛾のさなぎみたいなままだった。
 私は、恐怖には性欲もかなわない、ということを若くして知った。

 台に寝かされた。足はがっちりと固定された。柔道の受け身をした直後にそのまま体勢を固定されて、標本にされたような感じだ。
 この恥ずかしさ、どうすればいいのだ?
 もし、部屋を間違ってうら若き女性患者が迷い込んで来たら、そこには大股ですべてをさらけ出している私の淫靡な姿があるのだ。ここが病院でなかったら、間違いなく私は変態である。

 シャーッ!
 カーテンが引かれる。
 これで私は、自分の腹から下を見守り擁護する権利をはく奪された。
 もう、オチンチンは僕のものではない。看護婦さんのものでもない。あの医者にいじくりまわされるだけだ。

 その悪魔医者がカーテンの向こうから言う。
 「これからスコープ入れますからね。痛かったら言ってくださいね」
 「あの、私のは小さいので入れにくいんじゃないでしょうか?」
 「大丈夫です」
 また、余計なことを言ってしまった。それにしても「そんな、小さくないですよ」くらい言って欲しかった。

 麻酔が効いているので、痛みは全くない。カーテンの向こうでどんな儀式が行われているのか、さっぱりわからない。
 膀胱にガンでもあるのだろうか?
 あぁ、短い人生だった、などと思いっきり悲観的に考えを巡らせた。
 だって、そうでもしないと、この恥ずかしさからは解放されないからだ。

 検査は10分ほどで終わった。
 結果は、異常は見つからなかった、というもの。もっと率直に言えば、わからなかった、ということだ。
 会計まで30分ほど待つ。
 あの看護婦は、私のおちんちんをくさいと思ったのだろうか?小さいと思ったのだろうか?それともお気に召してくれたとまではいかないまでも、お気に召さなくはなかっただろうか?どうでもいいけど……。と考えていると、会計に呼ばれた。

 立ち上がろうとすると、うっっっ!なんだ、この腹から股間への痛みは!
 麻酔が切れたのだ!
 ものすごい痛みである。
 お金を払い、外へ出る。歩くのがやっとだ。
 腹を押さえながらゆっくりと家へと向かう。
 まるで破水してどうしてよいか分からずさまよい歩く妊婦のような格好だ。
 横断歩道を渡ったとき、信号待ちのドライバーたちは私をどのように見ていたのだろうか?
 家まで1時間かかった。痛みでそれほど歩くのに時間を要したのだ。

 家に着くと、母親が「遅かったねぇ。で、どうだったの?」とまったく心配していないようなことを言う。私は痛みもあって「異常なし」とだけ答えた。

 悲劇はまだ続く。
 よほど中が傷だらけになったのだろう。
 オシッコをするときにものすごい激痛が走るのだ。
 それもスムーズにオシッコが出ない。
 ポタポタポタと1滴ずつしぼり出てくるような感じ。
 その1滴がオチンチンの付け根あたりを通る時に、ひっくり返りそうになるような激痛が全身を走るのである。
 それが3日続いた。

 それからである。
 どうもオシッコが近くなったような気がするのは。
 でも、夜間寝ている間はトイレに起きたりしないので、多分に精神的なものがあるのは分かっている。
 でも、したくなったときに、あまり我慢がきかなくなったのはこの検査以降だ。
 だから、なるべくこまめに、行ける時にはトイレに行くようにしている。
 それが頻尿ならぬ、私の頻尿気味の真相である。



 こうやってみんなに話していても、誰一人同情してくれなかった。
 話すんじゃなかった。

僕が頻尿気味になったきっかけは……

 先日のことだが、酒を飲んでいて、オシッコの話題になった。

 私はいつもの通り、ビール・オンリーで貫き通していて、当然のことながら、何度もトイレに行き来したのだが、そのうち最近はトイレが近くなったという話題になった(自分とトイレの物理的距離が縮まったというのではなく、オシッコに行く頻度が高まったという意味である。)

 ビールを飲んでいなくても、私はトイレが近い。
 でも、それは20歳過ぎからで、ということは一般的にいう老化現象ではない(20歳から老化現象がはじまったという可能性は捨てきれないけど)。
 そのきっかけは、間違いなく膀胱カテーテルの挿入にある。
 新しき快楽を求めての危ない悪戯で自分のチンチンにカテーテルを入れてみたわけではない。
 以下はその悲しいストーリーである。



 大学の卒業間近。
 ある日学校のトイレに行って、オシッコをすると白い便器にぶつかったものは真っ赤な液体であった。
 私は自分が生理になったのではないかと思った。一瞬それほどわけがわからなくなり、その直後は全身から力が抜けていくような気がした。私は女だったの……?

 でも、それは血尿であった。

 どこかに痛みがあるわけではない。何か異常な感覚が体にあるわけでもない。
 ただ、いつもの日常と決定的に違うのは、オシッコが真っ赤だということだ。

 学校を早退し、家の近くの内科に行った。

 受付で症状を話す。
 そのときの私は、世界中の誰よりも不幸な顔つきをしていたに違いない。
 これで就職もパーになるかも知れない。いや、このまま出血多量で死ぬかも知れない。
 オシッコをするたびに命を削っていくわけだ。
 血尿による失血死だなんて葬式で披露されたくない。

 受付のお姉さんは紙コップを渡し、尿をとってくださいという。
 あぁ、また命が削られる……

 診察室に呼ばれる。
 医者がとても心配そうな、でもいくぶん演技がかった感は否めない表情で、「どうしたんですか!?血尿が出ていますよ!」という。
 そんなん、わかってるって!だからこうして来たんやんけぇ。
 「これはたいへん。すぐに紹介状を書くから泌尿器専門のI病院に行ってください。場所は……」ということで、その足で私はI病院に向かった。内科から歩いて15分ほどのところにある専門病院だ。結局私は、1,500円払って内科医にお手紙を書いてもらっただけであった。

 I病院に着く。
 また尿検査である。あぁ、命がまた削られる。
 心なしか貧血による立ちくらみの症状が現れ始めたような気もする。
 待合室で呼ばれるのを待っている老人たちが、静的な幸福感に満たされているように見える。

 診察室に呼ばれる。
 「血尿が出ていますね。かなりの。最近おなかを強くぶつけたりしたことはなかったですか?」
 この医者、小学校の時のいじめっ子によく似ている。
 「いえ、ありません」
 「激しいセックスをしませんでしたか?」
 「いえ。こう見えても、私はセックスに関しては老人に勝るとも劣らないほど動きが鈍いです」とふだんなら返すところだが、そのときの私は血が欠乏しつつあった。「いえ。そんな……乙女に向かって何言うの」と答えるのが精いっぱいであった。
 「う~ん。わかりました。おなかを診てみましょうか?どうです、おなかを診させてもらっていいですか?」
 おなかを診てもらって、私に何の害があるのだろう?ずいぶんと遠慮がちな医者だな、と思ったが、彼の言う「おなかを診る」というのは、シャツをぬいでおなかを触ってみるというようなたぐいのものではなかった。

 10分後、私は婦人科にあるような台の上に仰向けに寝かされ、足は台の両側から飛び出したアームにのせられた挙句、しっかりとマジックテープで固定され、とても人には見せられない大股開きの恥ずかしい恰好で、先生とのSMプレイを、いや、診察を待つはめになったのである。……続く。

この曲を一言で言えば『人生は楽し』?

 D.ショスタコーヴィチの交響曲第8番ハ短調Op.65(1943。作曲者37歳)。
 交響曲第7番に続き、戦争の苦しみを乗り越えて勝利へと進むソヴィエトを描いたとされているが、いやいや、いかにもソヴィエト共産党がお気に召さなそうな曲である。

 この交響曲について、ショスタコーヴィチは「標題的な要素はない。この交響曲は、私の思索と体験を反映している。第8交響曲はたくさんの内面的、悲劇的でドラマティックな葛藤をもっている。しかし、全体として楽天的で人生肯定的な作品である。第1楽章は大きなアダージョである。そのクライマックスでは極めてドラマチックな緊張を形作る。第2楽章はスケルツォの要素をもった行進曲、第3楽章は極めて活動的でダイナミックな行進曲である。第4楽章は行進曲的な要素を考慮に入れなければ、悲しげな性格をもっている。フィナーレの第5楽章は、明るく田園的な特質をもった喜びに溢れる音楽である。そこにはさまざまな種類のダンス風な要素、民族的な性格のメロディーがある」と語っている。(*1)

 ここでショスタコーヴィチは5楽章構成の交響曲を書いた。5楽章ものは初である。

 いやいや、それにしても第1楽章の出だしからして、お・も・い……。あたかも煮えたぎるカレーの鍋に指を突っ込んでしまったような悲愴感がある。

 彼はこうも言っている。
 《この第8交響曲の気分は、私の第5交響曲やピアノ五重奏曲に近いといえる。また、私の以前の仕事に含まれている何らかの思考や理念を、この第8交響曲の中で一層発展できたと思う。私の新しい作品のイデーを一言でいえば、『生きることは素晴らしい』という言葉につきる。暗黒で重苦しいものはすべて去り、美しいものが勝利する》(*1)

 『生きることは素晴らしい』……別な訳では『人生は楽し」。
 確かにショスタコーヴィチが「生」というものを大事にしていたとは感じるのだが、それにしてもしらじらしい文章だと思うのは私だけだろうか?暗黒で重苦しいものはすべて去り、なんて本気で思っているならば、もっと明るい曲を書けたはずではないか?
 プロコフィエフのようにソヴィエトから亡命せず、生涯祖国から離れようとしなかったショスタコーヴィチだが、それが祖国での人生が楽し、だったとは言えないだろう。まったく、なに考えていたんだろう、この人……

 鈴木淳史は第8番についてこう書いている。

 《この交響曲を聴いて戸惑うのは、冗談なのかマジなのか、よくわからないところだ。独ソ戦で母国が優位に立ったことにちなんで、作曲家がそのテーマに真剣に取り組んだモニュメントなのか、その事実を皮肉めいたスタイルで表わしたのか、音楽からははっきりしないのである。―(中略)―しかし、もっともショスタコーヴィチらしい交響曲といえる要素はある。ヘンタイじみたスケルツォ楽章を2つも持ち、暗くて、騒々しくて。西欧的なシンフォニーを逸脱するようなスタイルであり、そしていい具合に韜晦(とうかい)が入ってて……。その完成度はともかく》(*2)

 鈴木も書いているが、ソヴィエトが優位になっていたといba7cb1ca.jpgう時期になぜこのような音楽なのか、という点でこの交響曲は批判された。

 《第8交響曲が演奏されたとき、それは反革命的で反ソヴィエト的である、と公然と宣告された。ショスタコーヴィチは戦争の初期には楽天的な交響曲を書いていたのに、いま、悲劇的なものを書いているのはなぜか。開戦当初、われわれは退却しつつあったが、いまや攻勢に転じ、ファシストを壊滅しつつある。ショスタコーヴィチがいま悲劇的なものをかきはじめているのは、彼がファシストの味方であることを意味する、と言われた》(*3:206p)。《第7番と第8番の成功について知らせを受けるたびに、わたしは気分が悪くなった。新たな成功はとりも直さず、わたしの柩のための新しい釘となったからである》(*3:205p)。
 またショスタコーヴィチは、《第7番と第8番の交響曲はわたしの「鎮魂歌」である》(*3:201p)とも述べている。

 さて、その曲だが、第1楽章は重いアダージョで、中間部に速度の速い部分がある。うめき……。いきなりこれじゃあ、反感を買うのも分かる。この楽章は全曲の半分近くを占める長い楽章である。

 第2楽章は、第7交響曲の迫りくる敵を描いたものと同じような、どこか小馬鹿にした響きである。鈴木氏に言わせれば「ヘンタイじみている」が、それが親しみやすくておもしろい。

 第3楽章は、まるで私の行動様式のように落ち着かない(楽譜*1)。ダイナミックな37e7f6dc.jpg行進曲って言ったって、これでは行進できない。間違いなく活動的な曲だけど。整然とした行進というよりは、蜘蛛の子を散らすような雰囲気。中間に出てくるトランペットのファンファーレもどこか“戦争ごっこ”ぽいが、こういう音楽はショスタコーヴィチでなければ書けないだろうな、とも思う。

 第4楽章は第3楽章から切れ目なく入るが、パッサカリアである。これは、うん、レクイエム的。

 終楽章は田園的であり、また、やけくそ気味でもある。これまた、ショスタコーヴィチらしい音楽だが、私には「明るく田園風な特質をもった喜び溢れる音楽」には聴こえないなぁ。

 私が聴いているCDはアシュケナージが指揮したロイヤル・フィルの演奏。でも、どこかいま一つフィットしない。私とは相性が良くないようだ。ヴァルシャイ盤に切り替えるかな……

 ちなみに鈴木氏はインバル盤を推している。

 さて、次はまたまたお騒がせした作品、交響曲第9番の登場を待つことになる。



 *1) 寺原伸夫解説 「全音スコア ショスタコーヴィチ/交響曲8」 全音楽譜出版社
 *2) 鈴木淳史 「わたしの嫌いなクラシック」 洋泉社新書
 *3) S.ヴォルコフ/水野忠夫訳 「ショスタコーヴィチの証言」 中央公論社

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