読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事内にアフィリエイト広告が含まれている場合があります) コメント欄は撤去しました。

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

2008/10

レニングラードを破壊したのは誰だ?

 D.ショスタコーヴィチの交響曲第7番ハ長調Op.60「レニングラード」(1941)。
 作曲者が「わたしが復活したのは第7交響曲のあとだった」(*1:201p)と語っている作品である。

 第6番でソヴィエト音楽界に肩透かしを食らわせたショスタコーヴィチだったが、この交響曲が作曲されている最中(1939)に第2次世界大戦が勃発した。
 第7交響曲はドイツ軍に包囲されたレニングラードで作曲されており、「進撃してくるドイツ軍を描き、これと戦うソヴィエト国民の英雄的な姿、最後の勝利への確信が表現されている」(*2)が……、これは表向きの話。第5交響曲の場合と同じように、作曲者の言葉をうのみにはできない。
 あの第1楽章の主題が迫りくるドイツ軍だって?「チチンプイプイ」と替え歌になって、栄養ドリンクのCFに使われていたあの主題がぁ?
 ……まあ、よくできた替え歌だったよなぁ。

 その作曲者のオフィシャルな回想。

 《交響曲第7番「レニングラード」をわたしはすばやく書き上げた。私は書かずにはいられなかった。私は国民とともにいて、戦っているわが国の姿を音楽に刻みつけたいと願った。戦争の初日から、ピアノの前に座って仕事を始めた。集中して仕事をした。私は勝利するために力と命を惜しまないわれわれの時代、現代についての作品を書きたいと願った。
 仕事の合い間に、私は通りにでて、痛みと誇りを胸に愛する街をみた。街は火事の炎で丸坊主になり、戦争の苦しみに耐えていた。レニングラードは戦っていた。それは勇敢な闘いであった。
 1941年の末、私はこのシンフォニーを一息で書き上げた……》(*3)

 一息で書き上げたというのは大げさな表現ではなく、各楽章のスケッチ完成は、第1楽章1941年7月末、第2楽章7月17日、第3楽章7月29日、第4楽章12月27日である。

 ところが、この音楽で描かれたものは、「ショスタコーヴィチの証言」によれば違う意味をもったものになってしまう。

 《第7番がレニングラード交響曲と呼ばれるのにわたしは反対はしないが、それは包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしていたのである》(*1:226p)
 《第7交響曲は戦争のはじまる前に構想されていたので、したがって、ヒトラーの攻撃にたいする反応として見るのはまったく不可能である。「侵略の主題」は実際の侵略とはまったく関係がない。この主題を作曲したとき、私は人間性にたいする別の敵のことを考えていた》(*1:226p)

 はてさて、何が真相なのか。この話はS.ヴォルコフの創作なのか?
 ただ、同書の訳者あとがきに書かれてある文を読むと、作曲者自身の意図が見えてくるような気がする。
 それは、《レハールの「メリー・ウィドウ」でダニロという男が歌う「それで私はマキシムに行く、そこはとても気楽なのさ」の旋律が、あのボレロ風の旋律に(戦争の主題)に化けている。オペレッタではそれに続いて「彼女たちは親愛なる祖国を忘れさせてくれるのさ!」と歌われる》というもので、作曲家の柴田南雄が指摘したものだという。

 初演は1942年3月5日にクイビシェフで行われ、国内と海外に中継放送された。
 翌日のプラウダ紙では絶賛され、さらに29日のモスクワ初演の翌日もプラウダ紙が賛美の記事を書いたが、これは戦時において国内の士気を高めるためと、国外に対する国のPRが目的だったと思われる。

 事実、ソヴィエト音楽界においては決して賞賛されたわけではないようだ。

 《最初の部分だけが印象に残るそうで、批評家たちの意見によると、それは敵を描いた部分だった。ほかの部分ではソヴィエト軍の兵力と威力を示すべきであったのに、ショスタコーヴィチの場合、その課題を表現するための調子が見いだせなかったというのである》(*1:206p)

 ショスタコーヴィチは最初、この交響曲の各楽章に標題をつけた。第1楽章「戦争」、第2楽章「回想」、第3楽章「祖国の広野」、第4楽章「勝利」。
 しかし、現在はこの標題が持ち出されることはほとんどない。

 第1楽章は印象的な力強い主題で始まる。ここからして、し4c64a172.jpgかし戦争の恐怖感は感じられない。ラヴェルのボレロと同じ構想の「戦争の主題」(楽譜上*3。チチンプイプイである)は、どんどん力を増してゆくが、やはりそこには恐ろしい切迫感が感じられない。祖国を離れるのさ……なのか?
 ショスタコーヴィチはこう語っている「第1楽章は私たちの美しい平和な生活に、恐ろしい力―戦争―が突入してきたかを物語る。私は戦争の印象についての自然主義的描写(飛行機のうなり、戦車の轟音、大砲の一斉射撃)を課題とはしなかった。私は一般に名づけられている戦争(描写)音楽を作曲したのではない。私は峻厳な事件の内容を伝えたいと願った」(*3)。

 第2楽章は「極めて叙情的なスケルツォである。……すべてこの憂愁と夢想は、うす靄で覆われている」(*3)と作曲者が述べている楽章。どこかおどけた、ショスタコーヴィチらしい音楽である。

 「感動的なアダージョである。生命の歓喜と自然への感嘆d3ddaa96.jpg ―これが第3楽章の構想である」(*3)という第3楽章は、第5交響曲の第3楽章に通じるものがあるが、第5では悲愴感が漂う美しさだったのに対し、第7ではそれを越えて「祈り」の音楽になっていると私は思う。特に弦が力強く奏でるメロディーの独特の響きが宗教的である(楽譜下*3)。ショスタコーヴィチが書いた緩徐楽章のなかでも、とりわけ美しいものと思う。

 終楽章についてショスタコーヴィチは「4楽章は1楽章とともに、この作品の基本的な楽章である。1楽章は戦いで、4楽章は来るべき勝利である。この第4楽章は短い導入部から始まって、その後で大変勢いのある興奮した第1テーマが描かれる。その次に、厳粛な性格の第2テーマが続く。この第2テーマは、作品全体の輝かしい帰結である。この輝かしい終結部は、おだやかで確信bc78efd6.jpg に満ちた展開を示し、最後には堂々とした大音響に増大する」(*3)と述べている。
 「戦争交響曲」としてとらえるならば、もっともそれらしい楽章ではある。
 最後には舞台外のバンダ(3トランペット、4ホルン、3トロンボーン)が加わり、熱狂的に終わる。

 CDだが、ここでは録音は古いが、みなぎるパワーのスヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団の演奏を紹介しておく(1968年録音)。
 メロディアのSC025(輸入盤)。それにしても、この音源が現在廃盤らしいというのはもったいない。

 なお、「スターリンが破壊したレニングラード」を描いたというこの交響曲は、スターリン賞の1等賞を授与された。

 何よりもの皮肉……


 *1)S.ヴォルコフ/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」 中央公論社
 *2)井上和男編/クラシック音楽作品名辞典 三省堂
 *3)寺原伸夫 解説/全音スコア「ショスタコーヴィチ交響曲7」 全音楽譜出版社

J.S.バッハ in 「羊をめぐる冒険」

 村上春樹の「羊をめぐる冒険」(上下二分冊。講談社文庫)。
 村上春樹の小説には随所に「音楽」が出てくるが、「羊をめぐる冒険」ではあまり音楽にスポットが当てられていない(「海辺のカフカ」などに比べての相対的な比較だけど)。

 その「羊をめぐる冒険」の上巻117p。

 《「何か音楽でもおかけしましょうか?」と運転手が言った。
 「なるべく眠そうなのがいいな」と僕は言った。
 「かしこまりました」
 運転手は座席の下から手さぐりでカセット・テープを選び出し、ダッシュボードのスイッチを押した。どこかに巧妙に隠されたスピーカーから無伴奏チェロ・ソナタが静かに流れ出した。申しぶんのない曲で、申しぶんのない音だった》

53a6905a.jpg  ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)の「6つの無伴奏チェロ組曲」BWV.1007~1012〔1.ト長調/2.ニ短調/3.ハ長調/4.変ホ長調/5.ハ短調/6.ニ長調〕は、チェロとヴィオラ・ダ・ガンバの奏者フェルディナント・アーベルのために作曲された。
 第5曲は特殊な調弦であり、また、第6曲は5弦のチェロまたはヴィオラ・ポンポーザという楽器のための作品である。

 この作品集は自筆譜が消失していて、バッハの2度目の妻であるアンナ・マグダレーナの写譜によって伝えられた。その表紙には作曲年が記されておらず、かつては1733~34年の作曲とされていたが、その後の研究で1720年頃の作品とされている。
 彼の「無伴奏ヴァイオリン・ソナタBWV.1001~1006」(3曲のソナタと3曲のパルティータから成る)と同じように、このチェロ組曲でもダブル・ストッピングや疑似ポリフォニー効果を駆使しており、チェロにとって最も難しい作品となっている(ということだ。私はチェロに触ったこともないから分からないけど)。

 先に書いた第5曲と第6曲についてだが、第5曲は最高弦を一音下げて調弦する指示があるが、近頃の優秀なチェリストたちはそのようなことはせず、通常の調弦で弾きこなす。
 第6曲のヴィオラ・ポンポーザという楽器だが、この楽器の存在は立証されていないらしい。幻の楽器ということか……この作品も現在では4弦で弾かれる。

 私のこの曲に対する印象というのは、ズバリ!ウィスキーのCFである。
 私が小学生~中学生のころ流れていたウィスキーのCFで、この第1曲の冒頭が流れていたのだ。それが何というウイスキーだったか思い出せない。マッカラン?いや違う。でも、「舶来ウイスキー」のCFだった。あのころは輸入ウイスキーは高かったのだ。
 「サザエさん」のなかで、カツオが部屋でバットの素振りをしていて、波平の「大切な」ジョニ黒のボトルを割ってしまい、恐れおののくというのがあった(4コマ漫画のことである。ジョニ黒はジョニーウォーカーの黒。そういえば、村上春樹の「海辺のカフカ」にはジョニーウォーカーなる男が出てくる)。いまじゃ、ジョニ黒なんて高くないし、ジョニ赤なんてすごく安い。
 でも、あのころは高級だった。
 私の父は、家での晩酌では「サントリー・レッド」を飲んでいた。
 “レッド”だぜぇ。
 あぁ、庶民んんん~っ

 そのCFで流れていたチェロの調べは映像にマッチしていて、近藤マッチでぇぇ~す。と意味もないおやじギャグ。意味なしついでに、バッハみたいなオバサンって、時折いますよね?

 ただ、「羊をめぐる冒険」の主人公が言っているように、全体を通じては「眠そうな」曲である。ここまで言うのが罪ならば、「胸がワクワクするような音楽ではない」。もっと、神に近い位置にあるような曲なのだ。
 運転手がカセット・テープを単に「取り出した」のではなく、「選び出した」というところは、この運転手の音楽に対する知識の豊富さをにおわせている。ついでに言うと、あとで分かるのだが、この運転手、神様と電話で話ができるそうだ。

 文春新書の「クラシックCDの名盤」によると、この作品(この項の執筆者は中野雄)は《作曲後200年、この曲は単なる練習曲と見做され、芸術作品としての地位を与えられなかった。古書店で色褪せた楽譜の束を発見した13歳のカザルスが霊感にうたれたようにその虜になり、13年の研鑽期間を経て蘇演を果たしたというエピソードは、愛好家なら誰知らぬもののない逸話である》のだそうだ。ワシ、知らんかった。私は「誰」に含有されていないらしい。
 中野氏は《繰り返し聴くのはシュタルケルのフィリップス盤とフルニエのグラモフォン盤である。一気に骨太の墨絵を描くようなアプローチと、卓越した技巧がシュタルケル壮年期の売り物であったが、その凄絶なばかりの魅力に眼をつ078e0589.jpg むって、ここではあえてフルニエ(60年録音)の気品を選ばせていただいた。この人の死(1986年)を境に、「高貴」という言葉が音楽の世界で急速に死語になりつつあるような気がしてならない》と書いている。
 ふむふむ。「ここではあえて……」っていうのが、音楽批評っぽい言い回しでなかなかよいと思ったりするが、私はそのことに「眼をつむって」おこう。

 今まさに壮年期の私はフルニエ盤を持っている。逆にいえばフルニエの演奏しか知らない。
 CDはグラモフォンの4776724(輸入盤)。タワー・レコードのネット通販に在庫があるが僅少とのこと。なお、掲載した写真は旧盤のもので、現在は異なるデザイン。

 あぁ、それにしてもあのCFのウイスキー、なんて名前だったかなぁ。
 すっごい気になる。

 

「レニングラード」交響曲の前に

 流れからいえば、今日のお題はショスタコーヴィチの交響曲第7番ということになるが、ちょっと小休止。
 こう見えても、そして確かに私はいい加減な人間かも知れないが(こう自分で語るときは、きまってそうは思っていない)、登校する時には「おはようございます!」と元気にあいさつ、ではなくて、投稿する時にはその作品をきちんと聴き直している、という誠実さをも兼ね備えている。

 ショスタコーヴィチの交響曲第1番から第6番を、今回のように集中して聴くと、「疲れなんて全然感じませんよ、旦那!」みたいに江戸時代の飛脚のようなことは、そりゃあ言えないが、楽しい経験でもある。意地になって聴き直しているうちに、さらに作品のもつ新たな魅力が分かったと言うと、うん、大げさで美化しすぎているけどさ。

 しかし、時代の要請(能動的か受動的かはともかく)に従って書いてきた彼の交響曲が、こうやって聴くと、何かしら計画性をもって順に書かれてきたようにも感じられる。えっ?私だけの気のせい?
 1番は確かにセンセーショナルだったかも知れないが、ちょっと軽い。第2と第3は、あらあらって感じだが、それでも随所に魅力的なメロディーがある。ウルトラ対位法っていうのが、実はよく分かんないけど。
 でも、本格的に彼のキャラが出てきたのは第4番だ。第5は生きるための演技。第6は第5で我慢した分の発散。てなものか。

 話はコペルニクス的転回となるが、胃の内視鏡検査の結果が土曜日に郵送で届いた。
 異常なしだった。

 よかった……


ショスタコのうそつき!……

 D.ショスタコーヴィチの交響曲第6番ロ短調Op.54(1939。作曲者33歳)。
 この曲について書くのは、今年8月6日に次いで2回目。

 1937年の第5交響曲で何とか名誉回復を果たしたショスタコーヴィチであったが、実際、第5交響曲は熱狂的に迎えられ、38年1月にはモスクワで再演もされた。また、作曲家同盟では第5交響曲についての討議が行われた。
 って、こういうのって怖いよなぁ。ショスタコーヴィチが書いた曲をテーマにして、他の人間が討論するっていうのは……まるで裁判だ。ましてや、ショスタコーヴィチほどは才能のない人たちの集団だろうし……。それが「ここは形式としてなっとらん」とか「ここは形式主義のかけらが残っている」なんて話し合ったんだろう。やだやだ。

 秋にはモスクワで再び演奏されたほか、ボリショイ劇場でも演奏された。
 この1938年という年は、ショスタコーヴィチが室内楽のジャンルでも曲を書き始めた年でもあり、弦楽四重奏曲第1番ハ長調Op.49はこの年に作曲、初演されている。
 弦楽四重奏曲は交響曲とならんでショスタコーヴィチの作品群の柱となるもので、交響曲と同じく15曲を書き残すことになる。

 この時期にショスタコーヴィチは余計なことを言っている(きっと、気持の半分はぬか喜びさせるためにワザと)。

 《私は交響曲を、合唱とソロ歌手が参加したオーケストラの演奏する作品にしようと思っている。私はウラジーミル・レーニンに捧げられた詩と文学作品を熱心に勉強している……》

 こう言われると、レーニンだって「いやぁ、かわいいやつ。本気で気持ちを入れ替えてくれたようだ。何々?ワシの詩?それで大交響曲を書いてくれるのか。そりゃあ楽しみだ」って気持ちになるのは当然だろう。レーニンの頭にはベートーヴェンの「歓喜の歌」がリピート・モードで鳴り響いたに違いない。もし生きていれば、だけど……(レーニンは1924年没)

 さらに、この第6交響曲が初演される1939年にも次のように話している。

 《ずっと以前からの私の熱烈な夢は、レーニンにささげる交響曲を作曲することである……。この交響曲は合唱、独唱、そして朗読者の参加する4楽章の作品として企てている。第1楽章はレーニンの青年時代、第2楽章は10月革命の先頭にたつレーニン、第3楽章はレーニンの死、第4楽章はレーニンの道をレーニンなしで……》

 う~ん、かなり構想が具体的になっている。朗読まで加わるってんだから交響曲としてはかなり異例。第4楽章の「レーニンの道をレーニンなしで」っていうのも、トゲがあるように思えるが、考えすぎか……
 いずれにしろ、「レーニン交響曲」は最初は第6交響曲として構想され、次にそれが第7番に変更され、最終的には第12番が「レーニン交響曲」となった。
 とはいえ、こういう流れがあったのだから、第6番がまったくレーニンと関係がないとは言い切れない可能性は高い。回りくどい言い回し、失礼!

 交響曲第6番は4カ月ほどで書き上げられ、39年の10月中旬にはだいたい仕上がっていたという。
 11月5日に初演されたが、当然のこととして、かなりの当惑をもって迎えられた。
 だって、レーニンに捧げる4楽章構成の声楽付き交響曲がお披露目されると思っていたのに、管弦楽だけの3楽章構成の作品、それもちょっと小規模の作品だったからだ。
 髭男爵だったら「おっと、事情が変わった」というに違いないやないけ~。

 第5交響曲で4楽章の“正統的・王道的”交響曲を書いたのに、3楽章?って感じだろう(もっとも、3楽章構成だった第4交響曲はオクラ入りになっていたので、4番へ逆戻りとは思われなかっただろうが)。
 「レーニン交響曲」を書いていると言っていた、あの作曲者の言葉はウソだったのか?と思われても仕方がない(同じようなことが第9番でも起こっている。相手はスターリンだが)。

 ただ、勝手に第6交響曲を彼の言葉どおりに照らし合わせていくと、面白くはある。
 つまり、重苦しく陰鬱でさびしげで不気味な第1楽章は「レーニンの青年時代」なのだ。おどけていて、なんとなく投げやりで「よっこいしょ」的な第2楽章は「革命の先頭にたつレーニン」ってことになる。ブンチャカ、ブンチャカと小馬鹿にしたような喜びの踊りである第3楽章は「レーニンの死」だ。
 そして、この曲には第4楽章はないが、それは「レーニンの道をレーニンなしで」なんて考えることはありえない、のではなく「レーニンの道なんて最初っから“無”なんだよ」って考えることもできる。
 終楽章の軽やかさ(軽薄さと言ってもよい)は、うん、レーニンの死をパロってる。そう思えてきた。私は自説に酔う!

 なお、ウクライナのリャトシンスキーなる作曲家は(以下に引用したスコアの解説では「優れた作曲家」とされているが、我知らず)、第6交響曲についてこう批評している。

 《この作品は、ゆっくりとした瞑想的な第1楽章のあとに、ユーモアにみちたスケルツォ風な性格の第2、第3楽章が続くということだけから言っても、きわめて独自性をもっている。ポルカのようなダンスのリズムで交響曲のフィナーレを書く勇気をもっている作曲家は、巨匠であっても、そうざらにはいない。実際には、第3楽章はこのリズムで書かれている。するどく勇敢なリズム、新鮮な和音、そして洗練されたオーケストレーションは、このフィナーレの消しがたい美質となっている。そして、交響曲全体に見られる上昇線が、楽天性とオプティミズムで息づいている》(全音スコア「ショスタコーヴィチ/交響曲第6番」。解説:寺原伸夫)

 すごい。まさにその通りだ!(って本気では思ってないけど)

 この曲は形式としては、ソナタ形式である冒頭楽章を欠いた形になっている。先の勝手推論を見直せというならば、第3楽章が「レーニン交響曲」の終楽章に相当するとも言える。「レーニンの道をレーニンなしで」楽しくポルカを踊ろうぜ、ってことだ。

 前回はハイティンクのCDを取り上げたので、今回は安い96f88e2d.jpg にもかかわらずに演奏も録音も優れていると言われているバルシャイ指揮WDR響(ケルン放送響)の演奏を紹介しておく。

 第6交響曲の作曲中、つまり1939年の8月には独ソ不可侵条約が締結され、翌9月にはドイツ軍がポーランド侵攻を開始、第2次世界大戦が始まった。
 
 ショスタコーヴィチの次の交響曲は「戦争交響曲」となる。

ソヴィエトって、春風も重いの?

 D.ショスタコーヴィチの交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)。
 この曲について書くのは今年2月13日の投稿に次いで2回目。

 1936年に2度にわたってプラウダ紙上で公式非難を浴びせられたショスタコーヴィチであったが(「音楽のかわりの荒唐無稽」「バレエの偽善」)、1937年の1月にはレニングラード音楽院の講師に就任している。それでも彼に「人民の敵」というレッテルが貼られていたのに変わりはなかった。
 しかも、4番の初演中止後(そして、第5交響曲の作曲を進めている最中に)“トゥハチェフスキー事件」が起こった。ショスタコーヴィチは《そのニュースを新聞で読んだとき、わたしの目の前がまっ暗になった。いま自分は殺されつつあるとまで思えた》(*1)のであった。

 ミハイル・トゥハチェフスキーは1893年生まれのソヴィエト陸軍元帥である。
 第1次世界大戦でドイツ軍の捕虜となったが脱走し、帰国後赤軍に参加した。
 1920年のソ連軍ポーランド侵攻に加わったのち、32年には“機械化軍団”を編成、ソ連軍の近代化に貢献した。
 1935年に元帥に昇進したものの、スターリンの赤軍大粛清で37年に逮捕。秘密軍法会議で死刑を宣告され、即刻銃殺された。容疑はナチス・ドイツのスパイということであったが、スターリンが自分の地位を脅かされていることと嫉妬から死刑にされたと言われている。
 19歳のショスタコーヴィチがトゥハチェフスキーと知り合ったとき、彼はすでに30歳を越えていたが、二人の親交は続いた。

 このような状況の中で、ショスタコーヴィチができたこと。それは新しい作品で名誉回復を図ることしかなかった。

 第5交響曲は3か月余りという極めて短期間で書き上げられた。
 4つの楽章という交響曲の基本的な楽章構成であり、内容が苦悩→克服→歓喜へという流れであること(この部分は単純には判断できないが)、第5番という番号を持っていること、「革命」という標題で呼ばれたことから、この曲はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と比較されることも多かった。しかし、他の作品同様、ショスタコーヴィチの作品がもつ意図は謎の部分が多く、ましてや作曲者がベートーヴェンの「運命」と同じ理念で書いたとは考えにくい。
 各楽章が持つ標題的意図は、作曲家別名曲解説ライブラリー⑮「ショスタコーヴィチ」(音楽之友社)によると、《ソ連の評論家によれば、第1楽章は「自問……または幼時の思い出」であり、第2楽章は「再びかえりこぬ過去への皮肉な微笑」、第3楽章は「涙の苦しみにあふれ」、そうして第4楽章は作曲家自身の言葉によれば「これまで諸楽章で課せられたあらゆる疑問に対する解答」であるという》
 その解答とは何なのか……?

 初演は1937年11月21日にレニングラードにおいて、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルによって行われた。
 初演は大成功で、「社会主義リアリズムの偉大な成果」と称賛された。
 この曲は作家であるアレクセイ・トルストイ(「クロイツェル・ソナタ」や「アンナ・カレーニナ」などを書いたのは、同じトルストイでもレフ・ニコラエヴィチ・トルストイである)の「苦難の行路」における“人間性の回復”をモットーにした作品とも言われている。
 そのA.トルストイは、初演後にイズベスチャ紙に次のように寄せている。

 《各楽章はそれぞれ一つの心理的気分を完全に形づくっている…その感情はオーケストラのなかから泡立ちあふれ、春風のようにホールをよぎった…ショスタコーヴィチの明るい人生観は、ソビエトの聴衆に理解され受け入れられたのである》

 春風のように?
 明るい人生観?

 作曲者の真意は分からないが、このA.トルストイの描写は的を得ていない。表向きにこう表現している可能性もなくはないが。

 H.ショーンバーグは「大作曲家の生涯」(共同通信社)のなかで、《ショスタコーヴィチは1937年、『交響曲第5番』を発表して復権に成功した。そかし、どの点から見ても、彼の作曲家としての経歴は破滅した。以後再び、彼が『交響曲第1番』や『鼻』『マクベス夫人』『ピアノ協奏曲』などでみせたような奔放さ、閃き、現代らしさが、彼の作品に現れることはなかった。彼は無難な音楽しか書かなくなり、古い公式を繰り返し、プロコフィエフの癖をまねるようになった》と書いているが、これは正しくはないだろう。
 奔放さや閃きは影を潜めたかも知れないが、簡単には素顔を見せない深みに入っていったと見るのが正しくはないだろうか?

 第5交響曲にしても、単なる体制迎合音楽ではなく、彼の真髄が分かりやすく表現されていることに他ならない。まるで子供に語りかけるように。それが必ずしも作曲者の望む手法ではなかったにせよ、彼にはそういう選択肢しかなかったわけである。
 しかし、おとぎ話には深い意味が込められているように、この音楽にもブラックホールのような深みがあるに違いない。

 余計なことかもしれないが、ここで(偽書とされているもののまったくの創作とも思えない)S.ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」(中央公論社)から、次の言葉を引用しておこう。

 《あるとき、わたしの音楽の最大の解釈者を自負していた指揮者ムラヴィンスキイがわたしの音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第5番と第7番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってもみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのも分からないのだ。いったい、あそこにどんな歓喜があるというのか。第5交響曲で扱われている主題は誰にも明白である、とわたしは思う。あれは『ボリス・ゴドゥノフ』の場面と同様、強制された歓喜なのだ。それは、鞭打たれ、「さあ、喜べ、喜べ、それがおまえたちの仕事だ」と命令されるのと同じだ。そして鞭打たれた者は立ちあがり、ふらつく足で行進をはじめ、「さあ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それがおれたちの仕事だ」という。
 これがいったいどんな礼賛だというのか。それが聞きとれないなんて、耳なしも同然だ。ところが、ソ連作家同盟の指導者で、スターリン批判後に自殺した作家アレクサンドル・ファジェーエフ(1901-56)にはそれが聞こえた。それで彼は、まったく自分だけの個人的な日記に、第5番の終楽章は果てしない悲劇だ、と書きこんだのだ。きっと、ロシアのアルコール中毒患者に固有な魂で感じとったに違いない》(265p)

 そしてまた、同書の中には《多くの人々は、第5交響曲のあとにわたしが復活したと考えているようである。そうではなく、わたしが復活したのは第73b5b8ba0.jpg 交響曲のあとだった》(201p)とも書かれている。

 前回はハイティンク指揮のCDを取り上げたが、今回はエリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団の演奏。
 インバルは過度にエキサイティングせず、彼らしい見通しのよい演奏をしている。かつて“レコード芸術”誌の特選盤に選ばれたこともある演奏である。1988年録音。デンオンのCOCO70407で、タワーレコードのネット・ショップにも在庫がある。1,050円↓。
 気になる、というか、これが特徴なのだが、デンオンのPCM録音はどこか音が薄っぺらいところがある。よくいえば、清澄と言えるのかもしれないけど。
 いずれにしろ、久々に現役盤を紹介できてよかった……

25年間寝かし続けた交響曲

 D.ショスタコーヴィチの交響曲第4番ハ短調Op.43(1935-36)。
 作曲から初演まで25年間(細かく言えば25年半)封印された作品である。

 曲の封印とは無関係だが、私がこの曲を知ったのは1995年ころ。彼の交響曲中、最後に知った作品である。しかも最初は、確か明治乳業だったと思うが、そのCFで。印象的な音楽だと思っていたら、それが交響曲第4番の出だし部分だとあとから知ったのである。
 それにしても、この曲の冒頭を食品のCFに使うとは、なかなか英断である。

 この曲は1936年の革命記念日に初演することを目標にオーケストラは練習に入ったが、この年の共産党批判に応え得ないと作曲者が判断し、初演が中止された。
 作曲は1935年の9月に始められ完成は翌年5月と、ショスタコーヴィチとしては珍しく長い期間がかかっているが、実際、演奏時間は60分、オーケストラは総勢134名を要する巨大な作品である。
 このころショスタコーヴィチはマーラーの作品分析(第3交響曲と第7交響曲)に熱中していたと言われ、この作品にはマーラーの影響が現れている。また、この第4番は3楽章構成であるものの、デビュー作の第1交響曲(協奏曲的な性格が強いと言われる)や政治色の強い第2、第3交響曲に比べ、初の本格的な交響曲とも言える。
 しかし、それにしても「分かりにくい」、言い方を変えれば「親しみにくい」作品である。
 音が幾層にも複雑に重なり入り組み、つかみどころがなく、不協和で破壊的に響くからである。だが、何回か耳にしているうちに、その混沌は考え深いものであり(それがどのような意味かは分からないが)、音の魔術に引き込まれるようになる。もちろん万人が、ではないが。
 ざっと見たぶんにはただの大きな地層。でも、掘ると化石や宝石が埋もれているという感じだろうか?

 ところでなぜ突如初演は中止されたのか?
 ここで彼を取り巻いていた当時の状況を整理してみよう。

 1930年 : 歌劇「鼻」、バレエ「黄金時代」、交響曲第3番初演。
        「鼻」については賛否両論があったが、否定的な評価に落ち着く。
        「黄金時代」の初演は失敗。曲中の「ポルカ」は一時、大評判に。
 1931年 : バレエ「ボルト」初演。失敗。
 1934年 : 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」初演。
        道徳性、音楽手法が指導部に問題視される。
 1935年 : バレエ「明るい小川」初演。批判対象に。
 1936年1月 : プラウダ紙上に「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の批判文が載る。
 1936年2月 : 同じくプラウダ紙上に「明るい小川」の批判文が載る。

 《(ソヴィエトの作曲家で)最初に打撃を受けたのはショスタコーヴィチで、その相手はスターリン自身だった。スターリンの怒りを招いたのは、1936年に、モスクワで行われた『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の公演であった。スターリンは「堕落した」音楽を聴いて、怒りのあまり顔面士気色になり、第1幕のあと劇場から荒々しく退場した、といわれる。彼は直ちに、ソビエト・オペラが遵守すべき3つの基準を発表した。それは①題材は社会主義的テーマを持っていなければならない②音楽用語は「写実的」でなければならない。つまり、不協和音を含めてはならず、ロシア民謡に基づいていなければならない③オペラの筋は「前向き」、すなわち国家を讃えるハッピー・エンドでなければならない――という内容であった。
 この指令と同時に、ショスタコーヴィチに対する攻撃が「プラウダ」紙上に発表された。これは由々しき事柄だった。公式非難を受けたソビエトの作曲家は、職を失い、作品発表や演奏の機会が閉ざされることがある。また、住居を失い、自動車やダーチャのような特権も、剥奪される可能性がある。スターリン時代なら投獄されることまであった》(*1)

 ショスタコーヴィチはこう語っている。
 《1936年1月28日、わたしたちは「プラウダ」を買いに駅に行った。新聞を開き、ページをめくっていると、『音楽のかわりの荒唐無稽』と題する論文が目に入った。この一日を、私は永久に記憶に刻みこんだ。これはおそらく、わたしの生涯でもっとも忘れられない一日となるにちがいない。
 「プラウダ」の第3面に掲載されたこの論文は、わたしの全存c02d5741.jpg在を変えてしまった。それは社説のように無署名で発表されていた。つまり、それは党の意見を表現したものだった。しかし、実際は、スターリンの意見を表明したもので、それがはるかに重要なことであった。
 ―(中略)―「荒唐無稽」をよく検討するために集会が組織されはじめた。誰もがわたしを避けるようになった。この論文には、こういったすべてのことは、「ひじょうに悪い結果となろう」という表現があった。それで、その悪い結果がいつやってくるかをすべての人々が待ち受けていた》(*2)

 《わたしが音楽を担当したバレ ー「明るい小川」をスターリンが見にきた。―(中略)―「指導者にして教師」のバレー見物の結果はよく知られている。「プラウダ」の最初の論文から10日も経たぬうちに、つぎの論文が発表された。今度の論文は前より文法に適った文章で書かれ、きびしい内容は前より少なかった。しかし、そのためにわたe3fdc525.jpg しがいくらか楽になったわけでもない。
 わずか10日たらずのあいだに「プラウダ」に2つの攻撃的な社説が現れたのは、一人の人間にしてみれば、じゅうぶんすぎるくらいではないか。いまや誰もが、わたしの破滅を正確に知るにいたった》(*2)

 交響曲第4番はこの年の4月に初演が予定されていた。しかし、何度かリハーサルをしたあとに、ショスタコーヴィチはレニングラード・フィルの指揮台から総譜を引き上げ、発表を中止したのである。
 以後25年間封印されたままになっていたが、1961年12月にコンドラシン指揮のモスクワpoによって初演された。
 1~2月のプラウダ紙上における批判から初演が予定されていた4月までのあいだ、おそらくショスタコーヴィチはこの交響曲を発表すべきか否か悩んでいたのだろう。その結果が発表87db769a.jpg 中止であったが、おそらくこの曲が予定通り初演されていたら、彼のキャリアはここで完全に止まったことだろう。

 第1楽章は、ショスタコーヴィチの交響曲では珍しく、鋭角的に開始される。続いて、金管による行進曲風の旋律が現れる。この主題は楽章全体を支配する。長大な楽章で、彼がそれまで書いていた交響曲の各曲に匹敵する30分近い長さである。マーラーが第1交響曲に書いたのと同じく、4度によるカッコー動機も現れる。
 第2楽章では、後年、チェロ協奏曲第2番や第15交響曲に登場する打楽器による不思議なリズムが登場する(楽譜・上)。
 第3楽章も長大なもの。愛らしい囁きやコミカルな旋律も現れる。終り近くになると2組のティンパニの強烈なパワーにのって、金管がコラールを吹く(楽譜・中)が、この爆発は前触れもなく意表を突くものである。このメロディーはサン=サーンスの「戴冠式行進曲」(Op.117(1902))の中間部を思い起こさせる。
 曲の最後はチェレスタによって、透明感あふれる静けさに溢れec05d18c.jpg るが、それは交響曲第15番の終りと同じ性格のものである(楽譜・下)。

 ここで紹介するCDはヤルヴィ指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団のもの。シャンドスのCHAN8640(輸入盤)。1989年の録音。現在廃盤。

 交響曲第4番をオクラ入りし、復権をかけてショスタコーヴィチは“傑作”となる交響曲第5番を発表することになる。1937年11月のことである。
 その作曲中には、彼が世話になったトゥハチェフスキー元帥が死刑に処せられるという事件も起きている。

 *1) H.ショーンバーグ/亀井旭,玉木裕訳「大作曲家の生涯」(共同通信社)
 *2) S.ヴォルコフ/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中央公論者)
     ※「証言」の偽書問題については、Wikipediaに詳しく述べられている。
 *3) 楽譜~Belwin Mills

 

朝の会話 20081010

 朝、彼女がTVのニュース、紅葉についての映像を観て言った。
 「まあ、きれい。ねぇ、きれいだと思わない?」
 「別に。私は紅葉が嫌いなんだ」
 「なんで?きれいじゃない」
 「紅葉を見ると寂しくなる」
 「けっ!そんなこと感じることあるんだ。ガラにもない」
 「何がガラにもないだ。紅葉の原理を知らないから、そんなこと言ってられるんだ。それに私はおまえの数千倍も繊細な人間なのだ」
 「原理が何だかは知らないけど、寒くなるから紅くなるのよ。紅葉に感動する私の方が繊細だわ」
 「いいか、紅葉っていうのは、植物にとっては悲しい現象なんだ。葉の葉緑体の中、つまりだ、グラナの中にあるクロロフィルが消失することによって起こるんだ。これが悲しくないとどうして言える!」
 「クロロフィルがかわいそうだと思うなら、グリーンガムを食べるのやめたらいいじゃない」 「食ってない!私の今のブームはロッテの“翠峰”だ。それに私はひと言も『クロロフィルがかわいそう』だなんて言っていない。問題のすり替えだ!クロロホルムの中に突き落としてやるぞ」
 「水疱?まさか水疱瘡になったわけじゃないでしょうね?」
 「水疱瘡は小学校2年生のときに経験済みだ。水疱瘡で休んでいた成田君というのがいて、そいつが治って学校にでてきたときに、できものの痕を触らせてもらった。みごとにうつった」
 「ばっかじゃないの」
 「とにかくグリーンガムはもうやめた。スイホウというのはブドウだ。おまえのせいで話が横道にそれた。いい機会だから植物の生理機能について3分間だけ討論しようではないか。
  いいか、紅葉というのは低温によって葉の中のクロロフィルが分解され、かわりに糖類やアミノ酸によってアントシアンやキサントフィルなどの色素が作られるために起こる現象だ。つまりデオキシリボ核酸がゴルジ体によってどうにかなって、ミトコンドリアがアデノシン3リン酸と不思議な出会いをし、コエンザイムQ10は老化現象の防止に効果があるってなわけだ。ついにαリポ酸も余分な脂肪を燃やすらしい。どうだ、悲しいだろう?」

 私は高校の生物の授業で聞いたことのある単語を並べ立てた。その後も私は理系の生物系に進学したのだが、世の中不思議なことはあるもので、そのからくりについてはそっくり忘れている。だから、私が彼女にまくしたてているのは、当然のことながらまったくのデマカセである(つまり、最初から信じてないとは思うが、読者もよそでこの話をしたら大恥をかくはめになる)。
 しかし、私は今さら引くことはできないのだ。
 詭弁でもいい。論争の勝利者になりたい。
 言ったあとに後悔したのだが、リゾチーム、リボゾーム、原形質、アデニン、タンニン、浸透圧、ポリ・カーボネート、ミジンコといった単語も、話のなかに宝石のように散りばめれば、より説得力があったかも知れない。

 「それで……だから何だっていうわけ?なに意地になってるんだか……私は『紅葉がきれい』と言っただけなのよ?きれいなものはきれい、それでいいじゃない」
 ゴルジ体やミトコンドリアを恐れようとしない、なんと罪深い女なのだろう!
 私は全身の原形質を細胞液で満たし、続けた。
 「だいたい、紅葉がきれいだなんて、ばばくさい」
 「あら、私は若い頃から紅葉を見るのが好きだったわ。あなたこそ、枯れ枝みたいじゃない」
 「んんっ?いったい、私のどこが枯れ枝なんだ」
 「あら、考えすぎじゃないの?どことは言ってないわ。まあ、イメージね。そういえば、えっちゃんは昔カリーナEDに乗っていたわ」
 「何がEDだ。腹立たしい。私はEDなんかじゃないぞ。おまえが知らないだけだ。だいたいえっちゃんて誰だ?」
 「ふん、どーだか」
 「おまえと話していると地軸がずれていく気がする。ひとついいことを教えてやろう。紅葉の効用だ。グフグフ……」
 「よくもまあ、朝から面白くないシャレを言えるわね」
 「紅葉が鮮やかな木ほどアブラムシの寄生が少ないという研究結果がある」
 「だからなんだって言うのよ。それならあなたが育てているバラも春から真っ赤な葉ならいいのにね。ホホホ」
 「どうしてそんなふうに朽ち果てた切り株のような根性の持ち主なんだ?」
 「枯れ枝よりは存在感があるわ。何か文句ある?ねえ『売り言葉に買い言葉』って覚えておきなさい」

 私はじっとしていられなくなり、足早に台所に向かい、自分が使ったご飯茶碗と小皿を洗った。
 怒りのあまり手が震え、スポンジをうまく握れなかったくらいだ。
 朝から不毛な論議をしたあげく、よく分からないうちに敗北してしまった。
 枯れ葉になった気分になった。

がんばれ!今が踏ん張りどき!

 先週から中華づいている。木曜、金曜、土曜、火曜と中華を食べたが、その全日程に共通して食べたのは麻婆豆腐であった。
 木曜の夜は取引先と中華料理店に行ったが、相手が激辛の「陳麻婆豆腐」というのを頼んだせいで、私は彼の前でただただ涙をながすだけであった。
 金曜の夜ふつうの麻婆豆腐。辛さに弱い私は幸いお湿り程度でおさまった。
 土曜はたまたまでかけたついでに、昼を江別駅横に建った「えべつみらいビル」(ひどい名だ。これだけで未来がなさそうだ)の中に入っている「松の実」という小さな中華屋に入って、麻婆豆腐丼を食べた。独特の風味が斬新。おいしかったが腹がはじけそうになるくらいボリュームがあった。 そして火曜の夜も麻婆豆腐。もう、私の肌は絹ごしのようだわ。

 麻婆豆腐は、陳建民(陳健一のお父さん)によると、「正式には陳麻婆豆腐といい、私が昭和27年に来日して以来、全国津々浦々に広まった料理です。“麻”はあばたという意味で、150年ほど前に陳さんというあばたのあるお婆さんが、牛挽き肉、豆腐、トウバンジャンを炒めて作ったのが始めとされ」るものである。(「暮らしの設計167:中央公論社)

 それが最近では激辛の麻婆豆腐のことを「陳麻婆豆腐」と称している店も少なくない。本格的な麻婆豆腐という意味だろうか?
 なお、激辛といっても、この場合は山椒の辛さが強いことが多い。  ところで「松の実」が入っているビルの飲食店街は「味来横丁」と名が付いていて、確かに小さな店が何店舗か入るようになっている。
 ただ今は「松の実」一軒だけ。まあ、ビルにまだテナントがほとんど入ってなくて、入っているのも医院と塾だから、中華料理は食べにこないわなぁ。
 でもここの味、とくに「広東麺」は美味い!麺も太めでコシがある。地元江別の小麦を使ってるのかな?店は体格のいいお兄ちゃんが一人でやっていて、客に迎合しない適度な態度が好ましい。藤波辰巳と一緒に写った写真を飾ってあったけど、レスラー経験があるのかな?
 いまは人影が、文字どおりゼロのビルだが、もうすぐテナントとしてコールセンターが入る予定だ。
 そう、みらいビルには未来があるのだ、たぶん。
 だから、兄さんよ、今はじっと耐える時だ!
 必ずや、客をさばくのに大変な日々がやってくるはずだ!


タイトルが曲の価値を貶めている?

 D.ショスタコーヴィチ(1906-1975)の交響曲第3番変ホ長調Op.20「メーデー」(1929。初演は1930)。

 1926年初演の交響曲第1番で名声を博したショスタコーヴィチではあったが、ソヴィエト楽壇からは冷ややかな目で見られた。そこで楽壇の保守派に対しても、また革新派に対しても認められようと考えて書かれたのが、単一楽章の交響曲第2番「十月革命に捧げる」(1927)であった。

 さらにその2年後に書き上げた第3番の交響曲は、やはり単一楽章で合唱が加わる、「メーデー」という標題をもった作品である。
 単一楽章であること、合唱を伴うこと、扱っているテーマから(そしてともに存在感が薄いから)、第2番と第3番は双子のようにも見えるが、曲の中身は随分と違う(また、第2番は委嘱作品だが第3番はショスタコーヴィチの意思によって書かれた)。

 作曲者自身、1929年に次のように書いている。

 《私は大学院の修士作品として、『メーデー交響曲』を思い描いている。この作品は第2交響曲『十月革命に捧げる』とは、全く異なった性格をもっている。第2交響曲が闘いにおいて役割を果たしているとすると、『メーデー交響曲』は平和な建設の祝祭的な気分を表していると表現することが出来るだろう。聴衆への影響を強めるために、終曲部分に詩人キルサーノフの詩による合唱を導入している》

 ところで「メーデー」だが、これを日本語には直訳すれば「5月の日」。
 こう書くと変である。
 それはともかく、毎年5月1日に世界各地で行なわれる、労働者の権利要求を行なう日である。私も会社に就職した新人のころには大通公園で行なわれる集会にかり出されて、さらにはいやいやながらデモ行進にも参加させられた。やれやれ……
 でも、今やなんだか前時代的な感じがする。
 毎年5月1日の夜のニュースで、メーデーで気勢をあげている映像をみても、昭和の時代のような感じがする。だいたい「労働者の祭典」って言うけど、どんなお祭り(村祭りなんかでも)だって、たいていは労働者が中心じゃないのかな。
 メーデーの式典(っていうのも変な感じ)は、1890年にヨーロッパやアメリカで第1回国際メーデーが行なわれたのが最初らしいが、それ以前、1886年にシカゴを中心に「8時間労働制要求」のストライキを行なったのがルーツらしい。
 別にどうでもいいんだけど……

 交響曲第3番は、第2番の混沌とした重苦しさ(そして、最後は軽いノリのレーニン賛歌)とは異なり、お祭り的で、メロディー・ラインも明瞭だし、各楽器もけっこう難しそうなパフォーマンスっぽいフレーズを吹きまくる。親しみやすい旋律が随所に散りばめられていて、聴いていて意外と楽しかったりする。こりゃ、第1交響曲よりもずっと“モダーン”で、ショスタコらしい音楽かも……(実際、第1交響曲は伝統的だという)。そして、何より若々しさにあふれている。多少やんちゃでもいいじゃない、お客さんはまだ若いんだから、って感じ。

 もちろん作曲者は「メーデー」という標題性をもって作曲したわけで、歌詞以外にも音楽そのものに標題性がある(らしい)のは百も承知だけど、そして合唱はモロに労働者のメーデー万歳的賛歌を歌うわけだけど、もしこれに交響曲第3番「新緑の歓び」なんていうタイトルをつけられたら、それはそれで、そのまま通用しそうである(合唱be17bce0.jpg がどんな内容の歌を歌っているかは、聴いていたってどうせ分からないし……)。
 逆に言えば「十月革命に捧げる」とか「メーデー」という政治背景が強いことで敬遠されているのであって、特にこの「メーデー」は純音楽として聴いた場合には、けっこう傑作だと思うのだ。
 この交響曲の前後には、映画音楽「新バビロン」Op.18(1928-29)やバレエ「黄金時代」Op.22(1929-30)が書かれている。第3交響曲もそれと同じ味わいをもつと言えるだろう。

 紹介するCDは第1交響曲と同じハイティンク指揮のロンドン・フィル、同合唱団の演奏のもの。デッカの425 063-2(1981年録音。輸入盤。現在廃盤)。
 なお、このハイティンクによる演奏は、西側で最初のショスタコーヴィチの交響曲全集の録音となったものであった。

 交響曲第3番、もっと聴かれる値のある作品です。

おぉっ、火事かな?休憩の合図かな?

 D.ショスタコーヴィチ(1906-1975)の交響曲第2番ロ長調Op.14「十月革命に捧げる」(1927)。
 革命10周年を記念して書かれた合唱が加わる単一楽章の作品で、詞はA.I.ベズィメンスキーによる。

 1926年の交響曲第1番の初演で一躍国際的に知られるようになったショスタコーヴィチが、次に放った交響曲は一風変わった、いや、かなり変わったものであった。
 そこには当時の文化活動における複雑な社会背景がある。

 音楽活動においては、プロレタリア文化の啓蒙組織としてRAMP(プロレタリア・ロシア音楽家協会)と、前衛役な活動をするASM(現代音楽家協会)である。ショスタコーヴィチの交響曲第1番は、実のところ、この両者からは冷淡に迎えられていた。
 ショスタコーヴィチはASMの批判に応えるべく、第2交響曲では27の声部が同時に鳴り響く“ウルトラ対位法”を試みた(“ウルトラ体位”だと読み間違えた人は、助平なり)。一方、「芸術は人民全体のもの」という考えがあるRAMPの批判に応えるために、十月革命の記念行事のために、オーケストラにサイレンの音まで持ち込んで、賛歌を書いたわけである。
 この曲は国立出版所の音楽局宣伝部が、記念行事のためにショスタコーヴィチに委嘱したのだが、彼は最初この曲を「交響曲」とは名づけなかった。しかしながら、最終的には不思議な形の「交響曲」となったのだった。

 そういう時代背景は理解できるが、今の時代にこの音楽を聴くと、交響曲第1番で輝きを見せた同じ作曲家なのか、という印象はぬぐい去れない。のちの批判後のショスタコーヴィチは二面性を持っていると言われるが、もうすでに若くしてそのような表裏を使い分けていたようである。

 歌詞の内容は、苦しい生活を余儀なくされ抑圧もされていたが、レーニンのおかげで変えることができたというようなもの。
 魅惑的な旋律もあるのだが、牛肉の入っていないカレーのような味わいで音楽が進む。
 最初のサイレンが鳴って、合唱が加わる。
 サイレンはファ♯に指定されており、全部で3回鳴る。72953ac8.jpg 最初はffで(掲載楽譜。このスコアは全音楽譜出版社のもの)、2回目はfで、3回目はppからffへのクレッシェンドでである。
 サイレンを用いることは宣伝部の人からの忠告に従ったとショスタコーヴィチは手紙に書いている。
 《あなたの着想がこの上なく、私の気に入ってます。そして今、私はサイレンの音域がどんなものか、先頃特別に工場に出掛けてみました。サイレンの響きは、極めて低いものでした。私にとってサイレンは、ファ♯であってほしかった。そしてpppからfffまでクレッシェンド出来ることが、絶対の条件でした…》

 なお、作曲者はサイレンが用意できない場合は、その部分をホルン、トロンボーン、テューバで吹くように指示している。

 このサイレンは労働者が働く工場のサイレンなわけだが、私には空襲のサイレンのように聞こえる(リアル体験はもちろんないけど)。不吉なことが起こるようで、この曲ででもドキッとしてしまう。

 合唱も、賛歌というには脱力感が漂うものである。このあたりは、ショスタコーヴィチの作戦、真面目に書いてられっかよ、という抵抗かも知れない。
 そういう観点からみると、この曲はあまり真剣真剣した、05baaa04.jpg 熱血な演奏でない方が面白いのかも知れない。
 私は、年に数回しか聴かないが、聴くときはアシュケナージ指揮ロイヤル・フィルのCDを選んでいる。確信犯ではないのだろうが、けっこうインポテンツ気味のフニャらけた演奏である(カップリング収録されている「森の歌」が、これまた空虚な演奏である)。でも、確信犯じゃないのに、こんな演奏なら問題か……

 寺原伸夫は全音スコアの解説で、「ショスタコーヴィチの第2交響曲は、不十分さを持ちながらも、この時代のソヴィエト芸術の主要な方向を指し示していたと言える」と結んでいるが、そーかも知れないけど、一音楽愛好家にすぎない、そしてショスタコ・ファンでもある私としては「主要な方向を指し示していた」のかどうかはともかく、かなりビミョーな曲ではある。

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 クラシック音楽、バラ、そして60歳代の平凡ながらもちょっぴり刺激的な日々について、「読後充実度 84ppm のお話」と「新・読後充実度 84ppm のお話」の2つのサイトで北海道江別市から発信している日記的ブログ。どの記事も内容の薄さと乏しさという点ではひそかに自信あり。

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