読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

November 2008

寄り合いでの会話

 すっかり冬景色になってしまった。昨夜から降った雪は、今日の日中も融けず、あらあらいやな季節だわ、という言葉に集約されている状態だ。  今日の午前中、ある寄り合いがあったのだが(まるで町内会の集まりみたいな言い方だが)、そこでの挨拶も判を押したように「すっかり冬ですな」と、極めて町内会的であった。よもやこの集まりが、実は会議であって、しかも横文字言葉が飛びかうような内容だとは、思いもよらないだろう。台湾からの観光客には……
 その席で、私のブログのファンの方に会ったのだが(別に私のファンの集いではない)、結石の話の続きはまだか、と催促されてしまった。無料で読めるだけでも幸せだ、という奥ゆかしさを忘れてしまった、ふとどき者である。猛省を促したい。  けど彼は友人五人に、このブログを紹介したと言っていた。ありがたいことだ。だが、その五人がパソコンを所有しているのかどうかは、聞きそびれてしまった。

どっちにしろ喪失は喪失だけど

 きのうから、東京に来ている。そのきのう、札響の東京公演が新宿のオペラシティで行なわれ、私も聴きに行ってきた。

 演奏については、明日以降にパソコンが使える環境になったら書きたいと思っているが、なかなかの好演だった。

 さて、それはそれでよいとして、ホテルは新宿。新宿に泊まることなんてまったくなく、20年ぶりだったが、なんとも雑多な街だ。渋谷ほど混沌とはしていないけど。

 今朝は新宿から山手線に乗って品川まで出たのだが、9時を過ぎているというのに、なんだこりゃ、と思うような混みよう。東京の人ってたいへんね。
 とは言いつつも、私だって東京に住んでたのだけれど、ちょうど混まない区間にいたため、ラッシュにあたることはなかった。ラッキーだったと、いまになって思う。

 そんなこんなで、いま羽田空港にいるけど、崎陽軒のシウマイ弁当を食べながら、シウマイ弁当にまつわる思い出に浸っている。
 けど、人間って年を重ねるにしたがって、思い出っていうのはどんどん物悲しいものが増える気がする。たかがシウマイ弁当でも、胸かしめつけられるような思い出が私にはあるのだ。きっとユキ(村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」に出てくる少女なら)、「バッカみたい」って言うんだろうな。
 哀しげな思い出が増えるってことは、どんどん喪失感が増しているってことなんだろう。まさに春樹的感覚だ。

 そしてずっと手元に置いてあったもの、私の場合は特に書籍だが、そういうものも処分していく時期になった気がする。オークションで売ろう。本体価格なんてゼロでいい。送料分くらい賄える価格でいい。そんな気持ちになっている。受動的喪失よりも能動的喪失の方が、まだましな感じがしてならない今日この頃である。

老人性イボ対策第2作戦開始!

c6b8face.jpg  私が老人性イボを絶滅させるために勇敢に立ち向かうことを決めたのは、8月の末のことであった。そのきっかけとなったのは、ちょっぴり胡散臭い健康雑誌だった。このあたりについては8月29日の本稿に書いてある。

 その本のどこが胡散臭いかというと、どのコーナーでも同じモデルさんの写真が載っているからである。同じモデルに色々な体験をさせることは別に構わないが、実に違和感を感じたのである。
 ご苦労なことに彼女は、笑顔で青汁を飲んでいたり、さわやかな表情で手造り化粧水を塗っていたり、はつらつとした格好で腰振り運動をしていたり、パワフルなポーズで太もも上げ歩行のポーズをしていたり、少しも疑問を抱かない真剣な顔つきで何かの貝殻の粉末を飲もうとしていた。
 こういうのって、すごいと思う。負の意味合いで。
 もはや、彼女は不老不死になっているに違いない。

 その健康雑誌では、老人性イボに効くものとして“杏仁(きょうにん)オイル”を、文字通り「大絶賛」していた。しかも、その号の読者プレゼントは“杏仁オイル化粧水”であった。私は応募ハガキに、アンケートの回答をまじめにかつ詳細に書いて(体のどこどこが悪い、元気になりたい、この本はたいへんためになって読後充実度は84%だったetc……)当選通知を待っていたのだが、いまだに届かないところをみると、常識的に考えて落選したのだろう。
 この雑誌の読者層としては若いと思われる私に当てておけば、これから先、けっこう長期間にわたって継続購読する動機付けになったと思うのに、出版社は大きな過ちを犯したと言える。
 その号には、付録として小さなアルミパックに入った杏仁オイルも付いていたが、もったいないからそのまま大切にとってある。私としては、これを開封するときは来ていないのだ。

 そこで、プレゼントを待つというおめでたい前提もあったため、8月末からはじめた作戦は“ヨクイニン内服作戦”、私の心の中での暗号化呼称“すみれの行進”作戦であった。

 クラシエのヨクイニン・タブレットは1日3回6錠ずつが規定量である。
 しかし私は朝と夜に6錠ずつ服用し、昼は飲まないことにした。なぜかというと、もったいないからである。
 すでに2ヶ月半以上にわたって飲み続けている。
 その効果は、いまのところまったくない。観察できない。フィーリングも伝わってこない。だが、こういうのはいつから飲んでいるか数えることもできないくらい飲み続けているうちに、ある日突然劇的な現象が現れることが多い(と信じている)。もはや、あとには引けない。イボが消失するか、私がこの世から消滅するか、そのがっぷり四つの勝負に入ったといえる。

 そんなに言うなら“杏仁オイル”を買えばいいじゃないか、と思われるかも知れない。ごもっともである。いつでも他人は好き勝手なことを考えるものだから。
 しかし、杏仁オイルは通販でしか手に入らないようだ。その購入者の評価もまちまちである。「イボが赤く腫れあがったと思ったら、翌朝起きたら無くなっていた」という声もあれば(きっとシーツのどこかにイボが転がっているのだ。実に心地よくない話である)、「全然効果が無い。杏仁(あんにん)豆腐を食べ続けた方がまし。おいしいし」という声もある。そこで私は躊躇しているわけだ。
 ドラッグ・ストアで売っているのなら、少しは安心だし、もし塗ったところからアーモンドの芽が出てきたら、店にクレームをつければいい。ところが通販だと、クレームもそう簡単にはいかないだろう。

 そんなことを憂いながら、昨日大きなドラッグ・ストアを丁寧に見ていた。暇だったのだ。
 すると、小さなビンながらも、私に「ねぇ、手に取って」と訴えかけてくるような化粧水があった。
 その名は「ヴェルク100 イポロン」。どこまでが本名で、どこからがニックネームか分からないネーミングである。しかも、透明なペラペラのプラスティックの箱に入っていて、「せめてこの程度は」って感じでシールが貼っているだけである。このシールが無ければ、バラの黒点病殺菌剤と間違えてしまいそうなボトルである。
 シールには「顔や首、胸元など『ポツポツ』を集中ケア」とある。

 ポツポツって、イボイボのことなんじゃないか?
 私のイボに塗られるために、こいつは置かれているのではないか?しかも1本しか置かれていない。

 私は近くにいた化粧品担当の店員に尋ねてみた。
 「これって、こういう(首のイボを示して)のにも効きますか?」
 「ええ、効くという話です」
 明らかに知識を持っていない。でも、しつこく聞く。
 「杏仁オイルがいちばんいいとも聞きますが……」
 「これ、効きますよ。親イボさえなくなれば全部スーッと消えます」
 明らかに杏仁オイルのことを知らないらしい。それに親イボだって?私のイボのうち、どれが親なんだろう?でも、それを聞くのはやめた。ロクな答えは返ってこないだろう。
 でも、私は買うことにした。劣勢を強いられている“すみれの行進”作戦には、さらに第2の作戦の展開が必要なのだ。“ヴェルク100 イポロン塗布作戦”は、別名“太陽のコスモス”作戦である。

 この“ヴェルク100”であるが(何が100なのだろう)、写真にあるように説明書や効能書きがまったく付いていない。老眼少年をいたぶるように細かな字のラベルがビンに貼られているだけである。色気も何もない。購入者にいらぬ期待を抱かせないということなのかも知れないが、ここまで人を突き放す態度は立派である。
 その細かい字を読むと、成分にはハマメリス水(何ですか、これ?)、バチルス発酵物(汚泥のようなイメージ)、ヨクイニンエキス(おぉ、ヨクイニン!)、ウワウルシ葉エキス(かぶれないのかな?)、ヒアルロン酸ナトリウム(おっ、何か良さそう)、リン酸アスコルビルマグネシウム(はぁ?)、紅藻エキス、褐藻エキス、緑藻エキス(人魚か?)といったものが書かれている。
 で、化粧水の原液だから、お肌の弱い人は化粧水で薄めて使えといったことも書いてある。お肌の強い人って、そもそもイボなんかできない気もするけど……

 発売元は福岡のプレーンコスモス、製造販売元は大阪のサンブルームコスメ。発売元と販売元の違いがよく分からないけど、とにかく30mlで3,129円。
 ビンのふたはスポイトになっており、いよいよ厳粛的医療のような雰囲気を醸し出す。
 私は男らしく、化粧水なんかで薄めずに、原液を塗りこむこととした。

 “太陽のコスモス”作戦と“すみれの行進”作戦で、はたして私のイボは親子ともども消失するのだろうか?

 私の場合、股にも1個あるのだが、これは“子”なのだろうか?(←隠語的比喩ではないので深読みしないこと)

 まだ使い始めたばかりだが、イポロンに期待を込めてレビューだ!

 

聴き終わった後……ドボン、だな

9f3a52f2.jpg  D.ショスタコーヴィチ(1906-75)の交響曲第14番ト短調Op.135「死者の歌」(1969)。

 11の楽章からなる「変わった交響曲」。歌曲集のようである。
 マーラーの「大地の歌」も、果たしてこれは交響曲なのか連作歌曲なのか、という議論があるが(このあたりは諸井誠「音楽の聴きどころ『交響曲』」(1982年、音楽之友社)に詳しい)、それ以上に位置づけが難しい作品である。ただし、「大地の歌」と違うところは、作曲者が明らかにこの作品を「交響曲」と呼んでいること、そしてショスタコーヴィチの作品の方はタイトル、つまり「死者の歌」という名前は最初のソヴィエトにおけるスコアには書かれていない。

 指揮者の井上道義は1994年5月の時点で、ショスタコーヴィチの14番を振ったことがないことを「14番はかなりマニアックな彼の世界に入るには私の脳ミソがたりないのを感じて何故か不愉快で近寄っていない」と書いている(「ショスタコーヴィチ大研究:春秋社)。

 この作品の作曲動機だが、1969年にショスタコーヴィチは以下のように語っている。

 《この主題について最初に考えついたのは、1962年のことである。当時私はムソルグスキーの歌曲集「死の歌と踊り」の管弦楽編曲をしていた。これは偉大な作品で、私はいつもただただ敬服しているのだが、若干の欠陥があるとすれば、それは簡潔すぎるところにあるのではないかと思いついたのだ。歌曲集といっても全部で4曲しかないのだから……。恐らく皆さんは、なぜ私が死という厳粛で恐ろしい現象に、急にこれほど大きな関心を寄せるようになったかということに興味を抱かれることであろう。それは私が年をとったからでもなく、私の周囲に、いわゆる砲兵の用語を使うと、砲弾が落ちて友人や近親者を何人も失ったからという訳でもない。……私は作品の中で死のテーマを扱った過去の大作曲家たちといくらか論争してみたいのである》(*1)

 この交響曲は11の楽章から成り、また用いられている詩はスペイン、フランス、ロシア、ドイツの4詩人による(歌詞はすべてロシア語に訳されたもの)。ショスタコーヴィチは《詩の選択についてはやや意外に思われる面もあるかもしれないが、音楽は交響的4楽章に統一してある》(*1)と述べている。
 また、オーケストラの編成には管楽器は含まれず、歌はソプラノとバスの独唱によって歌われる。

 この作品は「交響的4楽章」になっていると作曲者は言っているが、第1部にあたるのは第1楽章から第4楽章までである(この分け方は寺原伸夫による)。
 ● 第1楽章「深きところから」(詩:フェデリコ・ガルーシア・ロルカ、訳:I.トゥイニャーノワ)
 バス独唱とチェロを除く弦楽群。曲の頭のモティーフは第10楽章で回想される。
 ● 第2楽章「マラゲーニャ」(詩:ロルカ、訳:A.ゲルスクール)
 独唱はソプラノ。第1楽章に比べ明るい。カスタネットも加わる。
 ● 第3楽章「ローレライ」(詩:ギョーム・アポリネール、訳:M.クディーノフ)
 ムチの2打ではじまる。ライン河の魔女ローレライの歌。バスとソプラノの交互唱。
 ● 第4楽章「自殺」(詩:アポリネール、訳:クディーノフ)
 「3本のゆり、3本のゆり、十字架のない私の墓の上の3本のゆり」という歌詞のソプラノ独唱で始まる。前楽章のローレライが河に身を投じたことを受けている。

 第2部にあたるのは、第5、6楽章。
 ● 第5楽章「用心して」(詩:アポリネール、訳:クディーノフ)
 印象的なシロフォンの旋律で始まる。この8小節の旋律は128cbe1cfe.jpg 音列を素材として作られている(掲載譜。*1)。ソプラノ独唱が兵士の死を歌う。
 ● 第6楽章「マダム、ごらんなさい!」(詩:アポリネール、訳:クディーノフ)
 バスとソプラノの交互唱。愛する人を失った婦人の空しい笑いの歌。

 第3部は第7、8楽章。
 ● 第7楽章「ラ・サンテ監獄にて」(詩:アポリネール、訳:クディーノフ)
 バス独唱。オーケストラの間奏曲が位置づけとしての重みをもっている。
 ● 第8楽章「コンスタンチノーブルのサルタンへのザポロージュ・コサックの返事」(詩:アポリネール、訳:クディーノフ)
 バス独唱。コーダでは10のヴァイオリンが10パートに分かれる。

 第4部は第9~11楽章。
 ● 第9楽章「おお、デルビーク、デルビーク!」(詩:ウィリゲリム・キュヘルベケル)
 この楽章だけがロシアの詩人の詩による。デルビークは作者のキュヘルベケルと共に、プーシキンの親友で、反専制の思想をもつデカブリストの反乱(1825)に参加し、シベリアの流刑地で死んだ。
 ● 第10楽章「詩人の死」(詩:ライナー・マリア・リルケ、訳:T.シリマン)
 ソプラノ独唱。冒頭楽章の回想。
 ● 第11楽章「むすび」(詩:ライナー・マリア・リルケ、訳:T.シリマン)
 二重唱。ここではじめて交互唱ではなく二重唱となる。「死は全能 歓喜の時にも それは見守っている 最高の人生の瞬間 私たちのなかにもだえ 私たちを待ちこがれ 私たちのなかで涙している」と歌われる。

 ショスタコーヴィチは初演の半年ほど前のプラウダ紙に「この交響曲の演奏が終わった後、生きることはすばらしいと思いながら、聴衆の皆さんが帰ってくれればよいと思っています」と書いているが、う~ん、もう私帰りたくない……

 CDはハイティンク盤を紹介しておきます。Deccaの425 074-2です。
 あぁ、死よ……



 *1) 寺原伸夫解説 全音スコア「ショスタコーヴィチ/交響曲14」 全音楽譜出版社

江別市の奥深き味わいの担々麺

feb2412b.jpg  担々麺というのは、日本語では「胡麻辛子スープそば」と言われているが、名前の由来は、四川省では夜鳴きそば屋がこれを担いで売り歩いたことによる。

 今ではすっかり日本でもポピュラーなメニューになったが、その味は店によってさまざまだ。練りゴマ(芝麻醤=ズマジャン)が強いところもあれば、醤油とラー油が強いところもある。なかには、そしてそういう傾向が強まっているが、ひどく辛くて味がよくわからないものもある。

 まあ、担いで売り来る麺を担々麺というのなら、いろんな味のバリエーションや違いがあってもいいのだろう。
 でも、私の担々麺の味の基準は、札幌四川飯店(ESTA10階)のそれである。
 ここの店の担々麺はゴマがくどすぎることもなく、醤油の味と辛みのバランスも絶妙。さらに、縮れていないあっさりとした麺(太さもベスト)がスープに実にマッチしている。
 この店は数年前には破壊的に味が落ちてしまったが、料理人も代わり、いまはかつての味に戻りつつある。担々麺以外のメニュの味も高水準だ。
 なお、札幌エスタの四川飯店は、赤坂四川飯店(陳健民が創業。いまは陳健一が経営)にいた料理人が札幌で開業したために同じ屋号を使っているが、今は赤坂四川飯店と直接的なつながりはないという。ただ、担々麺の味は赤坂四川飯店のものに似ているし、麺のピッタリ度からすれば、赤坂よりも美味しいようにさえ思える。
 ついでにいうと、札幌にはもう一軒「四川飯店」がある。
 道庁に近い札幌ガーデンパレスというホテルの1階にあるもので、こちらは赤坂四川飯店と経営的なつながりがあるらしい。
 
 ところで、陳建民の著書に載っている担々麺の作り方は次のとおりである。

 ◆材料
  中華そば 2玉、豚ひき肉50g、A(甜面醤 小さじ1、酒 大さじ1、塩 少々、化学調味料 少々)、ザーサイ 適宜、長ネギ 適宜、B(醤油 大さじ3、芝麻醤 大さじ2、酢 小さじ1、ラー油 大さじ1、ゴマ油 大さじ1 化学調味料 少々)、ガラスープ 400cc、青梗菜 適宜、油

 ◆作り方
 (1) 熱した中華鍋に油少々を入れ、豚ひき肉をAの調味料で味付けしながら炒める。
 (2) ザーサイと長ネギはみじん切りにする。
 (3) 器の中に(2)とBの調味料を入れ、沸騰したスープを注いでおく。
 (4) 鍋にたっぷりの湯を沸かし、そばを茹で、適宜に切った青梗菜も一緒に茹でる。
 (5) そばの水気を切って、(3)の器に入れ、その上に(1)と青梗菜を盛りつける。

 ということだ。でも、これって2人前なのかなぁ?
 ここでのポイントは、食べる直前までスープが熱々だといけないということ。辛いは熱すぎるは、ではいけないのだ。それから、麺はラーメンではくどくなる。これは自分が作ってみた経験によるが、ラーメンを使うなら冷やし中華用の細麺か、細めのウドンがくどくならなくていい。なお、四川飯店の担々麺にザーサイが入っていたという経験も私にはない。

 10月9日の本稿で、江別市の「松の実」という中華料理店のことを書いた。
 昨日も行ってみた。
 で、「『松の実』といえば、坦々麺」とメニューに書いてあったので頼んでみた(タンの字が“担”ではなくて“坦”なのは、そこにそう書いてあったから)。

 とても美味しかった。何というか、スープの味に深みがある。これは巷であたかも王道のように振舞っている「激辛担々麺」の対極に位置する味である。
 麺も太い。ふつうのラーメンより太いくらいだ。この麺は地元江別の小麦で作っているらしい。
 さきほど担々麺のスープにはラーメンの麺だとくどくなって合わないと書いたが、この麺は太くてコシがあるのに、ここのスープと実に相性が良い。もたれ感がまったくない。
 スープの上には青梗菜と刻みネギ、ひき肉のほかに、細かく砕いたカシューナッツがのっている。私はラーメンでもそばでも、そして担々麺でもスープを飲むことはほとんどない。塩分を控えようという心掛けもあるが、スープだけを飲んでもあまり満足感が得られないからだ。ところが、昨日は丼の残ったスープの半分くらいを飲んでし7e689b3e.jpg まった。それだけで完成された深い味わいがあるのだ。

 さすが店主(といってもまだ若い。体格が良くて、店内には藤波辰巳と一緒に写った写真が飾ってある)お薦めの一品だけある。
 
 あらためて書くと、「松の実」は江別駅横の「江別みらいビル」1階「味来横丁」内。
 昼は11:00~15:00(ラスト・オーダー14:30)、夜は17:00~23:00(ラスト・オーダー22:00)、日曜定休。電話011-381-0161である。

 辛いだけの担々麺、刺激だけの担々麺の味がいかに表面的なものかがよくわかるはずだ。

モーツァルト in ダンス・ダンス・ダンス

531c2ba9.jpg  何かの本で読んだのか、それともFMの音楽番組で解説者が無機的に言っていたのか忘れたが、「モーツァルトの『フィガロの結婚』序曲は、音楽史上で最も短い名曲です」という、むかし聞いた(あるいは目にした)言葉がいまだに記憶に残っている。
 「ほほう、そうなのか」と感心したとかそういうのではなくて、確かに名曲、そして傑作なんだろうけどいちばん短いわけなのね、という無感動な納得と、ほんとにこれが「もっとも短い名曲」なのかなぁ、という猜疑心からである。

 実際、この曲が「最も短い名曲」かどうかは分からない。
 名曲の定義も曖昧だ。名曲喫茶(死語だ)でかけられている音楽はすべて名曲である、と定義することだってできる。
 なんにせよ、だからもっと短い名曲があっても不思議ではない。
 きっと私は、むかしから、こういう決めつけられた言い方が好きじゃないんだろうと思う。
 あまのじゃくなのだ。反権威主義者なのだ。自分が権威主義者になりたいから。

 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」には、こんな記述がある(講談社文庫。上巻82~16eba9a9.jpg 83p)。

 《窓の外には暗い色の雲が低くたれこめていた。今にも雪が降りだしそうなさむざむしい空だった。そんな空を見ていると、何をする気も起きなかった。時計の針は七時五分を指していた。僕はリモコンでTVをつけ、しばらくベッドに入ったまま朝のニュースを見ていた。アナウンサーが来るべき選挙について話していた。それを十五分ほど見てから、あきらめてベッドを出て、浴室に行って顔を洗い髭を剃った。元気を出すために「フィガロの結婚」序曲をハミングまでした。でもそのうちに、それが「魔笛」序曲であるような気がしてきた。考えれば考えるほど、その違いがわからなくなってきた。どっちがどっちだったんだろう?何をやっても上手くいきそうにない日だった。髭を剃っていて顎を切り、シャツを着ようとすると袖のボタンが取れた》

 「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公はロッシーニの「泥棒かささぎ」序曲を聴きながらパスタを茹でていた。
 彼の小説の主人公は、自分のプライベートな時間、空間では、オペラの序曲づいている感じさえする。実際、ストーリーもその場の状況を「序曲」として、本編(事件)に発展していくのだが……

 W.A.モーツァルト(1756-91)の歌劇「フィガロの結婚」cacd7b3f.jpg K.492は1786年に初演された4幕からなる作品である。有名なオペラだけあって、名曲も数多く含まれるが、なんといっても軽快な序曲が素晴らしい。「これから楽しい舞台が始まりますよ」って感じだ。
 私はこの序曲の半ばのホルンの響きがなぜか異常に好きだ。小節数で言うと、161小節目ということになる。別にメロディーを吹いているわけじゃないんだけど、しかもpなのに、好きだ。好きだから、そこの部分のスコアを載せておいた(掲載譜は音楽之友社のもの)。
 一方、「魔笛」K.620は1791年、つまりモーツァルトの死の年に書かれた2幕のオペラ。このオペラの上演の様子は、映画「アマデウス」にもあった。また、この序曲はモーツァルトが夜中に家で酒を飲みながら作曲中、酔っ払ってしまい部屋の中を踊り歩くときにも使われていた。こちらの序曲は「フィガロの結婚」の序曲とは違って、ストーリー性があるような感じである。

 CDは以前にも紹介したと思うが(はて?何のときに?)、アーノンクール盤をあげておく。このCDはモーツァルトの歌劇序曲集であるが、アーノンクールのモーツァルトのオペラ全曲集から序曲だけを編集したものである。
 テルデックのWPCS21029。オーケストラはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団他。
 全部でモーツァルトの13のオペラの序曲が収められている。ちょっぴり買い揃えておいていいかも、って感じのCDである。
 

「私が育んだ石」 第2部の5

 「私が育んだ石」 第2部「エッグサンド望郷編」 その5

 E泌尿器科医院。
 楽しい楽しいキャンプ場での、苦しい苦しい腸閉塞もどきの激痛から1ヵ月。私は検査のために再びこの病院を訪れた。

 ところで昔から疑問に思っていることがある。それは、なぜ泌尿器科医院には皮膚科と性病科を併設しているところが多いのだろうということだ。

 性病にかかってしまったかも知れないとき、病院に入る際にあたかも「僕は皮膚科にかかるんだもん」というカモフラージュができるようにするためだろうか?それなら実によく分かるし、親切でさえある。日本皮膚科学会の配慮に感謝する人はたくさんいるだろう(女性の場合は婦人科に行けば診てもらえるのだろうか?)。
 でも、逆の場合もある。蕁麻疹で皮膚科にかかろうと思っているのに、道行く人から「あら、あの病院に入っていった人、きっと性病よ」と噂される恐れもある。それなら不条理極まりない。

 高校の生物学の授業で、生物の器官発生のプロセスの際に、その由来は内胚葉、中胚葉、外胚葉のどれかであると習った気がする。さらにはその個体発生のプロセスが種の分化・発生のプロセスと同じことから「個体発生は系統発生を繰り返す」という、ヘッケルの反復説という理論も覚えさせられた。音楽好きの私としてはヘッケルをケッヘルを書き間違えないよう、余計な気を遣ったものだ。入試には出なかったけど。

 となると、泌尿器科に皮膚科や性病科が併設されていることが多いのは、泌尿器も性器も皮膚も、同じ発生プロセス、つまり由来が同じなのかも知れない。もともとはすべて外胚葉だ、とかいうように。

 そんなことはまあいい。
 とにかく、私は「泌尿器科」に行ったのである。
 そして、こんなふうにタラタラ書く必要は実はなくて、そこは泌尿器科専門であった。蕁麻疹でそこに行っても「おととい来やがれ」って言われるのだ。胸を張って病院に行けるのだ。

 泌尿器科に行った場合は例外なく、決められたセレモニーがある。
 最初に尿検査をするという儀式である。
 おごそかに尿を採る。
 センセに呼ばれる。
 まだ、わずかに尿潜血があるという。潜血っていうくらいだから、わずかに決まっているが……
 そこで、予定されていたとおりCT検査を行なうことになる。
 造影剤を注射される。
 CT検査の技師は若い女性で、決して明るい印象ではなくて、いかにも毎日窓のない部屋で仕事をしているって感じで、加えて田舎臭いのだが、なんとなく好感を持てるタイプである。ETみたいじゃなくてよかった。
 こういう感じの女性って、CT検査装置にこっそりと「大鵬」とか愛称をつけているんじゃないかって気がする。

 ところで、CT検査をエコー検査と混同している人が多い。CTも体を輪切りにして撮影するのだが、輪切りにするのはMRIだけと思っているようだ。でも、CTだって輪切り検査だ。エコーは体にゼリーみたいのを塗って、バーコードリーダーみたいなものでなぞって撮影する。人間ドックでも行なわれる。
 CTはComputed Tomographyの略で、X線によって体を輪切りにして撮影する。リングが体を通過していき、検査時間は10分前後である。息を止めたり、造影剤を用いたりもする。
 MRIは磁気によって撮影する。狭い穴の中に入って撮影するので、閉所恐怖症の人なんかはできないこともある。あらゆる方向から体を撮影でき、造影剤を使わなくても血管などの撮影が可能である。時間も20~30分かかる。

 ということで、私は「大鵬」で検査を受けた。
 ただ、CTは1cm単位で写していくらしく、もし石が小さければ写らない場合もある。それと「トロカツオ純情編」のときに入院した病院でも言われたが、尿酸由来の石の場合はX線写真には写りにくいらしい。

 結果だが、「大鵬」での検査では石は確認できなかった。どこにも。
 腎臓も腫れている様子はなかった。

 検査後、医者曰く。
 「石は確認できませんでした。腎臓も両側とも正常に働いているようです。腫れは認められません」
 「では、石はどこへ行っちゃったのでせうか?」
 「知らないうちに出ちゃったか、あるいは写らなかったけど、尿管のどこかに引っかかっていることも考えられます。でも、腎臓機能には異常がないようなので、尿管が石で完全に塞がれて、尿がせき止められているということはないようです。あと、すでに石は膀胱に落ちていることも考えられます」
 「ということは、石がまだ尿管に引っかかっているとしたら、動き出したときまたひどい痛みが来ることになりますね?」
 「そうです。すっごく痛くなります。でも(不気味な笑顔で)、ガマン、ガマン。何時間かの辛抱です」
 「でも、一応痛み止めの座薬はいただけないでしょうか?」
 「ガマンすればいいことなんだけどなぁ。しょうがない、座薬を何本か出しましょう」
 「ありがとうございます。あなたに神の祝福があられますように」

 そうやって、私は貴重な座薬を手にして病院をあとにした。

 ところが、その2ヵ月後、早くも座薬が役に立つことになろうとは!
 あの、検査技師の女性とも再会することになった。歓迎する表情は見せてくれなかったけど。
 つまり、私の結石はX線に見つけられることなく尿管に引っかかっていたのだった。

 次回からは第3部「クリスマス前の奇跡編」となる。

「私が育んだ石」 第2部の4

 「私が育んだ石」 第2部「エッグサンド望郷編」 その4

 朝、早めに診療所に来ていただけるようにお願いしていたので(妻に対して)、彼女は子どもたちも乗せて8時すぎに診療所にやって来た。おまけにテントやらコンロやら寝袋やら、無計画に積み込んでいて、車の中は戦時中の旅客列車みたいだった。つまり、いくら痛みが消失したとはいえ、病気上がりの人間とはこれ以上キャンプなんてできないということで、引き上げてきたわけだ。

 Y家は昼過ぎまでキャンプ場で過ごすという。
 ウチは「私のせいで」早々に札幌帰るのだ。「せっかくのキャンプが台無しだわ」という無言の抗議が車内に充満していた。

 車は私が運転した。
 荷物でぎゅうぎゅうの車内では、運転席がいちばんゆったりしていたからだ。

 下腹部に痛みの「残渣」みたいなものがあったが、もう大丈夫だった。
 つくずく旭川に送られなくてよかったと思う。

 「そういえば昨日、イカ売りの人が来てたでしょ?」
 「ああ、あれ?近くのテントにいた人が酔っ払って叫んでたの」
 チクショウ!酔っ払いのたわごとか!
 イカで往復ビンタしてやりたい気分だ。

 そんなことより、私はとにかくシャワーを浴びて、着替えをしたかった。

 自宅に戻る。
 シャワーを浴び、着替える。
 やっといつもの素敵な私に戻った。
 日曜日である。無理だろうとは思ったが、電話帳で急患応需という広告を載せている泌尿器科何軒かに電話をかける。いずれも「当院に今までかかったことがあるのでしたら診れますけれど、初診の方は……。いま痛みが治まっているようでしたら、明日いらして下さい」というものだった。世の中には応需してもらえる初診の急患はいないことがわかった。
 最後に、近所でも悪評高き救急病院に電話をかけた。ウェルカム・モードで診てくれるという。そこでCTを撮った。
 確かに石が写っていた。
 だが、それだけだった。
 だからどうしろという診断はなかった。
 結局、無駄に検査料と休日診療代を支払っただけに終わった。

 翌日、泌尿器科に行く。
 尿検査では、少しだけ血液が混じっているという。
 でもその医者は、こう言った。
 「石はね、痛いでしょ、すっごく。でも、ガマン、ガマン。何時間かすると痛みが消えるから。そして、流れちゃうから。石で尿管が詰まるとその手前の腎臓がたまった尿で腫れてすっごく痛むの。でも、人間の体ってうまくできたもんで、やがてもう1つの腎臓ですべてをやろうとして、詰まった側の腎臓の尿も吸収されて腫れが引くわけ。そうすると痛みはすぅーっと消える。あなたの今の状態がそうだね。だからまだ石が尿管を塞いでいるとしても、もう腎臓が腫れることはない。石が自然に膀胱まで下りて、さらに外に出るのを待つだけ。ただ、ずっと尿管が詰まったままだと、その腎臓の機能が低下してしまって腎不全になる。昨日、検査したっていうから今日はしないけど、1ヶ月後くらいにもう一度来て。そこでまだ詰まっていたら、治療するから」

 果たして、石はまだ尿管にとどまっているのだろうか?
 としたら、私は片側一方の腎臓だけで尿を生産していることになる。
 子どものころ、腎臓は1つだけでも十分、と聞いたことがある。
 それで、たとえば自分の子が重度の腎臓病のときは、親が子どもに自分の腎臓を一個移植してあげても大丈夫だと。腎臓を売るということも、貧しい国では行なわれていると聞いたことがある。
 でも、こういう目に遭うと、自分の腎臓が2つあって良かったとつくずく思う。

 1ヵ月後。
 私は、再びE泌尿器科医院を訪れた。

「私が育んだ石」 第2部の3

 「私が育んだ石」 第2部「エッグサンド望郷編」 その3

 痛みは一向に収まる気配がない。
 意識は朦朧としている。
 この痛みはいったいいつまで続くのだろう?
 とても不安になる。
 原始時代の人は、病気になったときたいへんだったろうな、と心から同情してしまう。

 テントの外で、大きな声で「イカ、いかがっすかぁ~」という男の声が聞こえる。
 キャンプ場にイカ売りが来ているようだ。こんなところに行商人……
 しつこく何度も叫んでいる。
 妻やY子さんは、とはいっても、こんなところでイカを買ったりはしないだろう。キャンプに来たからには、お金だって費やしたくないはずだ。

 しばらくたって妻がテントに様子を見に来た。焼肉をほおばりながら……。この無神経さは、まるで行儀の悪いエゾリスのようだ。
 「まだ痛みが収まんないの?」
 「うーっ」
 そして彼女は立ち去っていった。

 ほどなくして救急車のサイレンが聞こえた。
 それはすぐ近く、方向からしてキャンプ場の駐車場で止まった。
 私と同じように病かあるいはケガで苦しんでいる人が呼んだのだろう。
 キャンプ場から救急車で病院に運ばれるなんて、とっても気の毒だし、ひどく恥ずかしいことだ。でも、その救急車を呼んだ人がここでキャンセルしてくれたなら、私は代わりに乗ってもいい、という気持ちになっていた。

 やがて救急車のサイレンが再び鳴り、遠くに消えていった。

 その少しあとだった。妻がまたテントにやって来た。
 「村の診療所がやってるって。そこに行って診てもらったら」
 私は彼女に感謝した。と同時に、もっと早くにそのような発想をしてしてほしかった、と思った。

 老婆のような姿勢で車まで行き、妻の運転で診療所に行くことにした。
 こんなときでも自分はしっかりしてるなと思ったのは、妻に「車を出したら、ここに椅子か何かを置いておけ。でないと、すぐに別な車に停められるから」と実に適切な指示を出したことだった。駐車場は満杯である。そうしなければ、戻ってきたときにウチの車を停めるスペースはなくなっていることは間違いないのだ。

 診療所はキャンプ場から8分くらいのところにあった。
 トンネルを抜け、ちょっとした集落にそれはあった。
 途中一ヵ所だけ、信号があった。
 そして、私がこんなひどい状況であるにもかかわらず、なぜか赤信号でひっかかってしまった。交差する車なんてまったくない。鹿だって渡っていない。アリは渡っていたかも知れないが、そんなの見えない。
 「行け!行ってくれ!」
 「赤信号でしょ!行かない!だいたい、男のくせに黙ってられないの!」
 ふだんは、ウチは夫婦の会話が少ない、と文句を言っているくせに、黙れという。むちゃくちゃだ。とにかく、痛みで脂汗を流し悶絶している私は、交通ルールに負けた。

 診療所は、典型的な「村の国保診療所」的建造物であった。
 夏休み期間中は海水浴やキャンプに来た、特に児童がケガなどをしたときのために、土日も診療しているらしい。何とすばらしいシステムであろうか!
 でも、「できれば来てくれるな」とばかり、待合室は薄暗く、そこに待機しているのも若い応援医師と年配の看護婦の2人だけであった。
 私が着いたとき、誰かが診察を受けていた。
 あとで知ったが、海の岩場で足を切った男の子が運ばれたらしい。あの救急車がそうだったのだ。引率者らしい若い男性が付き添っていたが、たいしたことがなくてほっとしたようだった。
 実際、私の様子に比べれば、その男児はぴちぴちした稚魚のようであった。
 私のTシャツは絞れるほど汗でビチョビチョになっていたし、息は嘔吐物の臭いがしていた。

 体格のいい初老の看護婦が言った。
 「お腹痛いの?」
 優しいが、やっかいな奴がやって来たというような口ぶりだった。まるで「ううん、もう治った」という答えを期待しているかのように。

 そのとき妻が大発見をしたかのように、笑みをたたえながら看護婦に言った。
 「そういえば、主人は前に尿管結石をやったことがあるんです。そのときの症状にそっくりです」
 看護婦はすぐに医者に伝えに行った。といっても、医者は隣の部屋にいたのだが。診療所はそんなに広くはない。
 私もこのとき初めて、これは石かも知れない、と思った。
 そういえば、ずっとオシッコもしていない。
 トイレに行ってみた。
 ちょっとだけオシッコが出たが、赤くはなかった。赤かったのかも知れないが、汗をあれだけかいたせいだろう、濃いな、と感じただけだった。

 看護婦は受付の奥に行き、書棚から本を取り出し何かを調べだした。
 その本の箱が見えた。
 「家庭の医学」……
 おいおい……

 医者はレントゲンを撮ってみるという。
 私はとにかくその前に痛み止めの注射を打ってほしい、と懇願した。
 その願いは叶えられたが、そのころには自歩行が困難なほどになっていた。

 トイレに行きたくなった。大の方である。
 看護婦は「家庭の医学」で知識を得たのであろう。
 「お腹が痛いと、出したいような感じがするのね?」
 と、慰めだか皮肉だか分からないことを言った。

 レントゲンを撮る。
 医者が「ほーっ」と言う。
 いったい、何だ?
 「珍しいですね。脊椎の数がふつうより一段多いですよ。これまでそう言われたことありませんか?」
 「ないでふ……」
 それが喜ばしいことなのか、悲しむべきことか判断がつかないが、その話題に深入りする余裕はなかった。
 「石らしきものは写っていませんねぇ。もしかすると、腸ねん転とか腸閉塞ということも考えられます。このまま救急車で大きな病院に行くという方法もあります」
 「近くと言うと?」
 「旭川です」
 冗談じゃない。札幌なら検討の余地はあるが、何が悲しくて旭川に行かなくてはならないのだ?
 「いや、失礼ながら、間違いなく結石です。腸はなんともないと思います。だって、さっきオナラも出ました」
 私はわけの分からないことを言ったが、必死の訴えが伝わったのか医者は納得してくれた。

 「しばらく横になってみましょう」
 医者の言葉にしたがって、私は誰一人いない2階の入院部屋に寝かされた。

 1時間ほど経ったとき、痛みはウソのように消えた。
 痛み止めが効いたのかも知れないが、私は「危機は去った」と直感した。自分の体のことだ。何となく病そのものが収まったことがわかった。石の痛みの消失というのはこのように劇的である。

 1階に降り、妻と医者に「痛みが消えた」と伝えた。
 医者は「どうしますか?帰りますか?」と尋ねた。
 「ええ、もう大丈夫です」と私は答えた。
 そこに横槍を入れたのは妻であった。
 「何言ってるの?あんなに痛がってたんだから、今晩はここに泊めてもらいなさい」
 医者は「こちらは構わないですよ」と言う。
 看護婦は「でも、明日、朝ごはんは出ないですよ」と言う。
 結局、私はキャンプに来たのに、その村の診療所に一晩入院することになった。

 妻は帰った。
 私は汚い格好のまま、ベッドに寝転がった。
 医者はほどなく帰った。
 入院室の横が看護婦の控え室だった。

 医者が帰ったのを見計らったかのように、電話のベルが鳴った。
 看護婦が世間話をしている。
 知り合いからのようだ。そりゃそうだ。こんなところに一人でいたって退屈だろう。長電話もしたくなる。
 電話が終わると、今度はテレビの音だ。NHKの「阿修羅のごとく」のテーマ音楽が聞こえる。「トルコの軍楽」という曲だ。その音楽を聞いていると、自分の不幸さが一層身にしみる。

 そんなとき、ザーと雨の音がした。
 ふふふ、キャンプ組は雨に当たってるな。こっちは屋根付きだ。って、そんなことで優越感を得るくらいしかなかった。


「私が育んだ石」 第2部の2

 「私が育んだ石」 第2部「エッグサンド望郷編」 その2

 キャンプ場でのぜんぜんつまらない義務的な昼食を終え、かといって雨上がりで海水浴場は赤旗。それですることもなくボーッとしていたのだが、Y夫さんが「釣りでもしましょう」と言った。

 私は魚を触るのが嫌いである。ましてや、こんな場所では満足に手も洗えないではないか!?
 でも、まっ、いいか。どうせ釣れないだろうし。だいいち、釣りざおは1本しかないのだ。Y夫さんが釣るのを見ていればいいだけだ。
 海に突き出ている岸壁の先の方まで行く。
 けっこう釣りをしている人がいる。
 何が釣れているのかわからない。そこをのぞきこむほど私は勇気を持ち合わせた人間ではない。

 Y夫さんが携帯用のような釣竿を出した。
 私はある程度予想したが、その予想は的中した。
 つまり糸は生命の神秘さに相当するぐらい神秘的な複雑さで絡み合い、おまけに「浮き」は忘れていて、致命的なことにエサがなかった。
 私はそんなこともあろうかと、ひそかにポケットに魚肉ソーセージを持ってきたのだが、それは最悪の事態のためであった。そして、最悪の事態はいとも簡単に現実となった。

 Y夫さんは糸を垂らすが、まったくと魚なんて食いついてこない。
 私は13分で飽きてしまった。

 用事を思い出したかのように、さりげなくその場を去り、テントに戻った。
 ミセス2人は、テント前に椅子を置いて、近所の人間関係について語り合っていた。こんな話をするなら、家でお茶しながらのほうがずっといいと思うのだが、変なやつらだ。大自然の中で、といっても周りはテントだらけだが、開放的になっているのだろうか?悪口もはずむってか?

 海水浴場の赤旗は別な色に変えられる気配はないし、することもないし、なんて思っていると、なんだか便意を感じてきた。
 やれやれ、こんなところで……
 しかも下痢っぽい雰囲気だ。

 私は近くの簡易トイレが5基並んでいるところは避け(そのすぐ隣りにもテントを張っている家族があった。臭いだろうが!それに、音がまる聞こえだ)、ちょっと離れた正規のトイレに行った。といっても、不衛生であることに変わりはない。
 溜息をつこうと思ったが、ここで呼吸するだけでも悪い病気に感染しそうだ。

 出ない。

 テントに戻る。

 そのうちおなかの痛みがどんどん強くなってきて、とても座ってはいられない状態になってきた。
 Y家に心配をかけてはいけないと思い、あまりたいしたことではないふりをしてテントに入って横になった。午後3時過ぎのことだ。

 胃薬とビオフェルミンを飲んだ。
 しかし腹痛は強くなる一方だ。
 こんな場所で、こんな激痛に見舞われるなんて……

 やがて吐いた。
 これは食あたりかも知れない。
 あのエッグサンドが相当怪しい。

 痛みは和らぐことはなかった。
 やがて焼肉の匂いがあたりに充満してきた。
 テント村の人たちは待ち切れずに早めの夕食に入ったのだ。
 みんなすることがないのだ。
 だから、どこか一か所で焼肉を始めると、みな一斉に始めるのだ。
 私が死んだイモムシのように横たわっているテントは焼肉臭の煙に包まれた。
 また吐いた。

 そのうち痛みで、臭いや周囲のざわめきが夢なのか幻覚なのか現実なのかわからなくなってきた。

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