札幌交響楽団の第514回定期演奏会の評が、金曜日(19日)の北海道新聞夕刊に載っていた(こういう記事が載るから、私には朝刊だけ購読というふうにはできない)。今回の執筆者は北海道教育大学の中村隆夫教授。
ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」を弾いた舘野泉について、「……元来が作品の内面と向き合うタイプの舘野は、この曲のもつ幽玄な世界に焦点をあて、味わい深い表現で全曲を弾き通した。長年彼の演奏を聴いてきた私は、演奏後の拍手を受けるそのものに感動を禁じえなかった」と書いている。
札響の514回定期については、私も6日に聴いたBプロのことをこのブログに書いたが(12月7日)、私は中村氏とは逆に、彼が最初にステージに姿を現したときに「ググッ」とこみ上げるものがあった。もちろん終演後も、ホールのほかの聴衆と同じようにその演奏に拍手をおくったが、舘野の独奏にミスが少なくなかったために、ちょっと醒めてしまってもいた。
中村氏はピアノ独奏そのものについて詳しくは書いていないが、氏が聴いたAプロ(5日夜)のときにはミスがあまりなかったのだろうか?
それとも、最近は小姑のようにミスタッチが〇回あっただの、オケの何がどこで間違っただの、音がひっくり返っただのと指摘するのは流行らなくなっているのだろうか?
まあ、そういう指摘ってのは確かにあまりみっともいいもんじゃないからね。
でも、これってフジ子・ヘミングがもてはやされたときのことを思い出させる。
「感動的だ!」「あんなに間違ってばかりでどこが感動的なんだ?」っていう論争(というのはウソに近い大げさな表現だけど)だ。
フジ子・ヘミングはこう語っている。
「私の演奏を聴いてミスタッチが多いとかあれこれいう人がいるけど、そんなことは気にしないわ。だってピアノは人間が弾くものでしょ。少しくらいまちがったっていいじゃない。私は機械じゃないんだから。自分の弾きたいように弾くわ。昔からそうしてきたもの」
「昔からそうしてきたもの」っていう言い方は好きではないが、彼女の言ってることにも説得力はある。でも、要はバランスじゃないだろうか。表現力があっても技術がダメならいただけないし、その逆もそう。両方すばらしいのが理想なんだろうけど、理想は理想だ。
あの定期で私がちょっとがっかりしたのは、舘野のすばらしい表現力に対して、タッチのミスが気にならない程度でおさまらなかったことだ。まっ、どうせ私は意地悪ジジイですよ、ってことで手を打ってもいいけど。
断わっておくが、私は舘野泉が好きである。フジ子・ヘミングは変に流行的に騒がれたこともあって(それは彼女のせいではないけど)特に聴きたいとは思わない。
♪ インバルがウィーン交響楽団を振ったショスタコーヴィチの交響曲第15番のCDを買ってみた。
いやぁ、いいわぁ!
これまで個人的には最高だと思っていたザンデルリンク/クリーヴランド管の演奏より好きかも知れない。
インバルの演奏の特徴であるが、このショスタコでもとても見通しがよい。この交響曲の精緻な音の絡み合いがよく聴こえる。遅めのテンポで進む終楽章のパッサカリアのピークでは、他の演奏では経験できない顕微鏡的な視野が広がる(細かいところまでよく聴こえるという意味です)。そして、感情的にならない客観的なスタンスもこの作品に合っている。第1楽章の大太鼓の音も素敵!(私は大太鼓の音が好きなのだ)。
実用的かどうかはわからないが、このCDは細かくインデックス分けされているのも便利(言ってることが矛盾しているか?)。たとえば第1楽章は「主要動機とその展開」「第2主題」「ロッシーニ引用:第1回目」「主要動機展開、無窮動、第2主題」……といったぐあいに、18にインデックス分けされている。
DENONのCOCO70709。1992年の録音で、カップリングは交響曲第1番。こちらの演奏もとても見通しがいい。
December 2008
昨日の朝、風呂場の方から「ぐりゅにゅうーるげりょ~ん」という実に妙な音が聞こえてきた。
首吊り自殺を図ったものの、ロープのかけかたが不十分で死に切れずに中途半端な状態で苦しんでいるワニのうめき声のような音だ。
妻は私の方を見て、「どうせまた飲みすぎでオェッとしているんだろう」といった、非難を含む視線を浴びせたような気がした。
しかし、私は無実だ。それにどんなことをしたって、あのような音を発することは、繊細なのどの持ち主の私にはできない。
それは洗濯機であった。
自殺未遂ではない。病気のようだ。
やつは洗濯槽を回そうと懸命に努力しているのに、洗濯槽が全く回らないようだ。
そのむなしいあえぎ声が、あの「げりょげりゅきゅーんきょろろ~ん」という音で、モーターが危篤状態なのだ。
思えばもう11年にわたって、汚い衣類の入った洗濯槽を回し続けてきたのだ。もう辞めたくなったのだろう。なんて悲しい一生であろうか!
それからが大変である。
モノがモノだけに、なるべく早く代わりの洗濯機を買わなくてはならない。
せめて、少し前からもう長くは持たないということをほのめかしてくれていたなら、残された家族も心の準備ができた。しかし、突然死だ。悲しみに浸っている場合じゃない。
私はたとえどんな事情があるにせよ、カビが生えかかった下着や、犬が失神するような臭気を発する靴下を履きたくない。だから、彼の死は衝撃的であった。
まさに出勤しようとしていたときにこの事故が起こった。
だから、あれこれ悠長に次期の待望機種を吟味している暇などないのだ。
私は「今日、ビックカメラで見て買っておく」と親切に言ったのだが、妻は「あなたにまかせたらまた好みでないものを買ってくるんじゃない?前のオーブン電子レンジのときも、妙に仰々しいのを選んできたでしょ?だから私がベスト電器に行くわ」と、完璧に拒否された。
そのオーブンレンジ。
私に買い物を任せたところ、彼女の好みにあわなかったのだ。
私がそのとき選んだのは、別に4ドア式冷蔵庫のように巨大でどういう機能を使うときにどこのドアに何を入れたら良いかわからないようなレンジだったわけではない(そんなもん、あるものか!)。ごくふつうのオーブン電子レンジだったのだが、でも見た目があまりにごっつかったのだ。
それから20分後。妻から携帯にメールが入った。
「ビックの売れ筋。東芝××××、ナショナル△△△△、シャープ◇◇◇◇。予算は諸費用込みで3万5,000円以下(この価格でわかるように、ウチで必要なのはごくごくふつうの全自動洗濯機である)。1回の洗濯量は6.0kg。色はグレーが希望。今日か明日中に届くこと」
つまり、事態急変。おつかいを命じられたのだ。
彼女は、今朝の新聞に入っていたベスト電器のチラシとビックカメラのインターネット・ショッピングのページを見て、ベストが高いと判断したわけだ。
へい、がってんだ!
それにしても、そんなに早く配送してくれるものなのだろうか?
仕事を抜け出し、10時ちょうどにビックカメラに行く。
開店と同時に切羽詰った表情で洗濯機を買い求めに行く人間がこの世にいるとは、これまで思ってもみなかった。まして、その当事者に自分がなるなんて……
エスカレーター横に張ってある「即日、翌日配送実施中(当店在庫品に限る)」というPOPに、安堵するとともに心がはやる。
購入が遅くなったら即日配送は無理かもしれない。「今日の配送分の受付は、10時10分で締め切らせていただきました」ってことも想定しておかなくてはならないのだ。
洗濯機売場に行く。
妻が書いてよこした機種は3つとも展示されていた。
ナショナルのはちょっと高さがあって威圧感がある。東芝のは3つのうちでいちばん価格は安いが消費電力が大きい。シャープのがいちばん価格は高いが(けど予算内)、消費電力も少なく節水タイプでもあり、色もグレー系で、私も叱られずに済みそうだ。サイズもいちばんコンパクトである。しかも洗濯槽に穴がなく(詳しいカラクリはわからないが)、カビが生えにくい。さすが技術のシャープである。
あたりには店員が徘徊していないので(客もいない。かつての「食の祭典」会場のようだ)、レジカウンターにいたお姉さんに尋ねる。
「あのシャープの洗濯機ですが、今日か明日中に届けてもらえますか?」
お姉さんは端末機で調べ、答える。
「30日になりますね」
実に明快に人の期待を裏切る言葉だ。そこには顧客に残念がる隙を与えない客観性が満ちあふれている。なぜ30日になるのか、その背景を言い訳がましく言わないところが、店員という身分を放棄している。
私はすっかり“シャープ・モード”になっていたが、一応ナショナルの場合の配送日も聞いてみた(でも、こうなってしまっらシャープ以外の製品を買う意欲はまったくなくなっている)。
お姉さんは、また端末をカチャカチャやって「25日ですね」と、区役所窓口の住民票係みたいに言う(いまなら区役所の窓口係の方が、まだ愛想がいいかもしれない)。「シャープより5日も早いのよ。それで何が不満なの?」っていう目力。
キャイン、キャイン。そんなに突き放さなくてもいいのに……
「そうですか……。では、けっこうです」
そう私が答えると、お姉さんは「またよろしくお願いします」と、はじめて接客業らしい笑顔になった。私は招かざる客だったのだろうか?それとも、彼氏と昨日別れて、洗濯機どころじゃなく、自分の心の洗濯中だったのだろうか?私は善意で「あなたの心に全自動!」と慰めるべきだったのだろうか?
それはそうとして、私は焦ってきた。
今日明日中に洗濯機が届くようにしなければ。
飛行機に乗り遅れそうで空港内を急ぎ足で歩いているサラリーマンのように、そのままヨドバシに向う。
シャープの同じ機種があった。
「い、いつ、と、届きますでしょうか?」
店員さんが調べる。さらにどこかに電話をかけている。
「22日の月曜日になります。店に在庫はないのですが、メーカーに3台だけ在庫があります。3台では足りませんか?」
「2台ほどお釣りが出るくらい足ります。ちょっと待ってください」
私は妻に電話をかける。
「明後日になるけどいいだろうか?シャープの製品だけど」
「シャープのだったら今朝のベストのチラシに載っていたからベストに行けばすぐ届けてくれるんじゃないの?5.5kg洗いだけど」
うぉ、新たな条件提示だ。でも、6.0kgという指定だったのでは?
「で、いくら?」
私は価格を教える。
「あら、ベストの5.5kg洗いの方が高い。じゃ、それでいいわ」
なんとなく安堵する私。
私は気を取り直し、店員さんに「これを1台下さい」とお願いした。ついでに、「ビックではここよりも1,200円安かったんですが……」と試しに言ったところ、ちょっぴり悩んだ末に、その価格まで下げてくれた。
これで私は無事ミッションを終えた。“初めてのおつかい”なみのハードさであった。
それにしても、ビックとヨドバシでこれほど納品日に差が出るとは意外だった。
どちらかというとヨドバシよりもビックを利用することが多い私としては、ビックで買いたかったのだが……(あくまで、ポイント上の話)
その原因として考えられるのはビックのお姉さんの……、いや、よそう。
宮下誠著「
カラヤンがクラシックを殺した」(光文社新書)。
ご存知のように(ご存知なければ、ご存知だったことにしておいてくれたら、話が進めやすい、と思う)、私はアンチ・カラヤンの立場にある。
地位を得るためにナチに入党したとか、自分だけ莫大な金を手にしていたとか、そんなことを知る以前から、カラヤンが嫌いだった。
多くのレコード評がカラヤンをたたえようと、どうも彼の指揮する演奏はしっくりこなかった。感覚的、本能的、欲情的に。
だから多くの人は、私がこの本を読んでひじょうに納得し、痛快に思っているに違いない、と思っているだろう(だから、ご存知だったという前提ですってば)。
でも、読後感は爽快ではなかった。何かが引っかかった。口元に釣り針が貫通している釣られたての小魚の姿を思い出した。
著者の本を読むのは2冊目。1冊目は「20世紀音楽 ―クラシックの運命―」(光文社新書)であったが、こちらのほうは感心しきりで読み終えた記憶がある。
しかし今回は、確かになるほどと思う箇所は多々あったが、何か違和感が残ったのであった。
本書で著者は、カラヤンの良い面にももちろん触れているが、基本的には彼の演奏スタイルを否定している。それはアンチ・カラヤン派の私としても十分納得できるところがある(でも、本当のところは感覚的な拒絶感であり、あまり私には理屈はない)。 しかし、彼の演奏スタイルがクラシック音楽のあり方そのものを崩壊に導いたかのような話の展開は、カラヤンには酷だと思う(たとえ、カラヤンはその現象の象徴に過ぎない、と書かれていても)。
《音楽的聴衆の価値観や、ものの考え方、或いは、音楽を聴く余裕のある人たち(その割合は、私たちが思っているより遥かに少ない)の、資本主義、拝金主義、現状肯定主義、クラシックを高等とする、あまりに単純で軽薄な価値観の創造に進んで荷担し、音楽の聴き手の痴呆化を後戻りできないところまで推し進めたカラヤンの負の遺産は未だに消えていない。カラヤンが彼以後の人心に刻み込んだ歪んだ価値観の一元化は根の深いものだ。
そのようなものの考え方、世界の捉え方は、社会的、政治的勝者・強者と共同し、純正な文化環境を破壊し、誠実な知性を圧殺しようとする》と書いているが、多くの聴衆がカラヤンの存在を望んだことも事実。仮に聴衆がバカだったとして、あるいはカラヤンにバカにされてしまったとしても、カラヤンは、例えば「振り込め詐欺の犯人」ではない。
著者の目的は巻頭言で以下のように書かれている。
《20世紀のある時点で、クラシック音楽は見紛うことなく、一つの「死」を経験した。その「死」は、人類という種の、今日における絶望的状況の一断面を鮮やかに浮き彫りにする。
このような事態を象徴的に体現したもののひとりが、ほかならぬ、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、その人である。彼、或いは彼を取り巻く状況は、時代の病理を理想的に反映す鏡である。私たちは、そこに己の姿を映し、見つめ、考えなければならない》
そして「おわりに」では、
《私たちが生きている社会は、目を覆いたくなるほどに悲惨で救いがない。そのような時代にあって、カラヤンが創造し、その後塵を拝するように発展してきたクラシック音楽の価値観、いや、音楽全般の価値観が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」はもはや悪い冗談としか言いようがない。この悪い冗談に無自覚に感動し、音楽とは良いものだ、と安閑として日々を送っているのが今日の音楽鑑賞のあり方だとすれば、それは根本的に間違っている。そして、その責任の一端はカラヤンの音楽にあり、それを許し、それを助長し、それを喜んで迎えた私たちの感受性にも大きな問題がある》と書いている。
時代の病理はともかく、音楽の演奏ということに限って言えば、確かにカラヤンは大人気だったが、皆が皆、カラヤンの音楽こそが絶対だと思っていたわけではない。聴衆は果たしてそんなにバカ化したのだろうか?
カラヤンほどでないにしても、大物指揮者、あるいは人気指揮者とされる人はいたのだから、誰もがカラヤンこそすべてと思っていたわけじゃない。
そういう意味で、著者の言いたいことは分かるが、ちょいと言いすぎじゃないのかな、と思ってしまう。こういう言い方って、クラシック=教養主義的な香りも感じるし……
本書では、カラヤンと対比して(「時に対極的にすらなってカラヤンの音楽を鋭く断罪する音楽家」である)クレンペラーとケーゲルについて書かれている。
クレンペラーには個人的にはあまり興味がないが、取り上げられている彼のマーラーの第7交響曲は聴いてみたいと思った。
それからケーゲル。「気味が悪い」と著者が書いている、彼が振ったショスタコーヴィチの第15番はぜひとも聴いてみなくては……
詳しくは本書を読んでいただくとしても、「どうしたわけか全く気の抜けた演奏でケーゲルの 指揮とも思えない。何がケーゲルにあったのだろう?やたらと斜に構え、オーケストラのやりたいようにやらせ、結果、音楽は極めてだらしなくなり、死臭を漂わせさえする」ベートーヴェンの交響曲(オケはドレスデン・フィル)、特に第9をあらためて聴いてみた。緊張感はあるが、うつろで力のない演奏。何かに戦おうという意志が感じられない。「できれば第4楽章は振りたくない」というのが十分伝わってくる終楽章の腑抜けた声楽。よくもまあ、この演奏をリリースしたものだ。レコード会社の英断(?)はたいしたものだ。
これはぜひとも聴くことをお薦めします。
Capriccioの49314(1982-87年の録音)。8枚組で、ベートーヴェンの交響曲全曲のほかに三重協奏曲、聴いていて居心地の悪さを感じる「合唱幻想曲」、ブラームスのドイツ・レクイエム(こちらのオケはライプツィヒ放送響)、そして管弦楽の小品集となっている。
小品集のCDには、著者の宮下誠の妻が、体調が悪いときに耳にして「自殺したくなるからやめて」と言ったというアルビノーニのアダージョも収められている。
このCD、タワーレコードで取り扱っているが、在庫僅少とのことだ(3,990円)。
それにしても、ケーゲルの顔、怖い……
もちろん、タイトルの人物とは他ならぬ私のことである。
なぜ、いまそのことを痛切に感じているのかというと、今日の昼はカツカレーが食べたいという、抑えがたい欲求に駆られているからである。そのことが感受性といかような関連があるのかというと、それがメビウスの帯のようにおおありなのだ。
昨日私が昼ご飯を終えて(ちなみにメニューは親子丼にハーフサイズのもりそばのセットであった)、会社のエレベーターに乗ったとき、たまたま一緒になった人が、私が尋ねてもいないのに「あぁ、腹が苦しい。カツカレーはボリュームがありすぎたかな」と言ってきて、それからずっと私の頭の中はカツカレーのことでいっぱいなのだ。
これが感受性の高さと関係ないと、いったい誰が言えようか!
サクサクとした見た目のカツ。けど、意外と油ぎとぎとのカツ。口に入れようとしたら、意地悪するかのように衣だけが剥がれてくるカツ。他になんの具もない没個性的なカレー・ルー。ケチってやれという店側の意図が露骨にわかる、少量の福神漬け。それを大切に計画的に食べないと、飽きてしまうカレーそのものの味。自分の皿だけ他より盛り方がぞんざいに思われるご飯。
いまの私にはすべてが魅力的だ。
あと15分でこの夢が叶うかもしれない。いや、夢は自らの手でつかみとらなければならない。
あぁ、カツカレー!
松本建工が倒産した。「FPの家」のハウス・メーカーである。
昨日発売された月刊誌「財界さっぽろ」の新年特大号。例年恒例の北海道企業のトップたちのインタビュー記事が何十ページにもわたって掲載されている。そのタイトルは「混迷に動ぜず先駆ける者(リーダー)たち」。
これに松本建工の社長も登場している。「北方型寒地建築技術を提供しサハリンに展開」。
やれやれ。夢半ばにして倒産……。社長の笑顔がむなしい。
取材はタイミング的に10月あたりに行なわれたんだろうが、そのときには社長も「ウチの会社、やばいかも」って分かっていたに違いない。
けど、取材を断るわけにはいかなかったんだろう。何か憶測されたら困るだろうし、かといって「ちょっと経営が厳しいから威勢のいいことは話せません」と正直に言えるわけもない。
それにしても、倒産直後が雑誌の発売日っていうのは、あまりに気の毒な気がする。
先日、札幌のビックカメラに空気清浄機の交換フィルターを買いに行った。
「むやみに人を頼りにしてはいけない」という厳格で、排他的かつ懐疑的な教育を受けて育った私は(家訓は「人を見たら泥棒と思え」である。「人」には家族も含まれるため「他人」とは表記しない)、安易に店員に尋ねることなく、自分で棚にある商品群から目的の商品を探してみた。
ところが、通路を3往復もしたのに目的のフィルターは見つからない。もしかしたら店側の勘違いで加湿器の売場に紛れ込んでいるかも知れないと思い、そちらの方も探索してみたが「世界ふしぎ発見!」とはならなかった。
そこで団長の思い出、いや、断腸の思いで店員さんに尋ねてみた。
若いお兄さんである店員さんは、私の言ったメーカーと型番を、口をモグモグ動かしながら白目がちになって2度暗唱していたが、そのアイドリングが終わるや否や(=as soon as)、加湿器のフィルターが並んでいる棚へ駆け出していった。まるで、遠くに放り投げられた骨を捜しに行く名犬ラッシーのようであった。
だが、その積極果敢な行為は無駄に終わった。
彼は、最後の1本の骨が見つけられないために恐竜の骨格模型の完成一歩手前で行き場を見失っている考古学者のような落胆した表情で、私の元に帰ってきた。
でも、私は彼の根本的な作戦ミスに気づいていた。いや、作戦ミスではなく、無謀さ、あるいは若気の至り、と言って良いだろう。
つまりである。私が求めているのは空気清浄機のフィルターであって、加湿器のフィルターではないということなのだ。「行き先をオタシカメください!」
彼はちょっとばかりゼイゼイ言いながら、私に尋ねた。
「お待たせ(ゼイ)いたしました、お客(ゼイ)様。恐れ入りますが(ゼイゼイ)、もう一度型番を教えていただけますでしょうか?(ゴクリ←ツバを飲み込む音)」
完璧な接客トークだ。
「ええと、日立のK**−*70*という、空気清浄機のフィルターです」
彼の瞳に一筋の希望の光がともった。
私が「空気清浄機の」と、半音一つ分、声の高さを上げたことで「気づき」があったようだ。
「もう少々、お待ち下さいませ」
そう言うか言わないかのうちに、彼はノネズミを発見したキタキツネのように疾走していった。
悪くない接客態度だ。
でも、私には分かっていた。彼にはノネズミを捕まえられないことを。
なぜなら、私は3往復、つまり具体的な数値で示すならば、6回にわたってその棚をくまなく調べていたからだ。少なくともここの店頭には在庫がないのだ。
様子をうかがいにさりげなくその棚のほうに行ってみると(もしかすると失意のあまり石になってしまっているかもしれない)、彼は立ち上がったり、中腰になったり、しゃがみこんだりして、棚の商品を調べていた。まるでタイル張りの風呂場で、タイルの浮きがないか1枚1枚点検している誠実な職人のようだった。
誠実な接客態度だ。
私はもと居た場所にすりすりと音を立てずに戻り、彼が不猟のまま戻ってくるのを待っていた。彼を後ろから監視しているように思われるのは本意ではなかったのだ。
彼は富士山登山を終えた小学生のような疲れ果てた足取りで戻ってきた。
「申し訳ありません。あいにく店頭には無いようなので、在庫を確認します」
まるで、後生ですからもうちょっと私に時間を下さいと、命乞いをしているような 口ぶりだった。そんなに怯えなくても、私は怒ったりはしない。空気清浄機の交換用フィルター1つのことで、店員とトラブルを起こすなんてばかばかしい。ただでさえ毎日妻とトラブルを起こし、私も疲れているのだ。
彼はレジカウンター横の端末に向って型番を打つ。取扱い商品リストが画面に表示される。
すると、彼の全身から絶望というイオンが放散された。
「お、お客様。いま、調べたのですが、K**−*60*という商品とK**−*80*という商品は登録されているのですが、K**−*70*というものがリストにないようです。その清浄機はいつごろお買いになられたのでしょうか?」
あまり好感が持てない店員だったなら「うーんと、26年前!」と冗談でも言うところだが、彼の一生懸命さに胸打たれていた私は「5年前です」と、インディアンのようにウソを言わずに答えた(でも、本当にインディアンってウソはつかなかったのだろうか?)。
「そうですか……。それはどちらでお買い上げになられましたでしょうか?それから、本体の型番はお分かりになりますでしょうか?」
「ビックカメラ!ここ!本体の型番はF**-***です」
彼の顔がさらに引き締まった。水戸黄門の印籠を見せられた町人のようだった。「ウチで売ったものだったのかぁ……。もう逃れられないな……」という、妖星ゴラスが地球に衝突してしまうかのような諦めが感じられた。
「お、お客様、ちょっとお待ちを!」
「苦しゅうない。好きにするがよい」
彼は電話で応援を呼んだ。
ほどなくして、彼よりもちょっと格上らしい店員が登場した。お兄さんから経緯の説明を受けた新しいお兄さんは、私に説明した。
お客さま。おそらくこの商品は一般販売品のリストには見当たりませんが、交換部品としてメーカーが扱っているものだと思います」
なんとなく、話は前進した。
「では、私が直接メーカーに問い合わせしないといけないのでしょうか?」
「滅相もございません、お客様。私どもがお取り寄せの手配をいたします。今日はもうメーカーに確認できませんが(もう19時になっていたのだ)、確認の上、ご連絡申し上げます。それでよろしいでしょうか?」
「よかろう」
「それでは失礼ですが、お客様のご連絡先をお教えいただけますでしょうか?」
私は、彼に携帯電話の番号を伝えた。
新しい方の彼は、メモ紙にその番号を控えた。酔っ払った右利きの、日本に来てまだ1年も経っていないドイツ人が左手で書いたような数字だったので、果たしてこれであとから分かるのだろうか、と不安に思ったものの、なかなか立派な接客姿勢だ。
彼は「お取り寄せでこちらに商品が届くまで1週間くらいかかると思います。お待たせして申し訳ありませんが、よろしでしょうか?」と、不安そうに私に尋ねた。
「全然大丈夫です。だって、これまでの5年間1度も交換したことがないのです。あと1週間待つことなんて瞬間的なことです」
こうして私たちは、水戸黄門のエンディングのように笑顔で別れた。エスカレーターで下りる私の周りを“うっかり八兵衛”がうろついていないのが不思議だったほどだ。
そして、ちょうど1週間後に電話が来た。あの象形文字で書かれたようなメモも、きちんと管理されていたのだ。
それは女性からであった。
かいつまんでいうと「ご注文いただいた商品、K**−*70*が入荷いたしました。お渡しは○階の『お取り寄せカウンター』になりますので、よろしくお願いいたします。ガシャリッ」というものだった。
さっそく取りにいった。ところが、あんなに店員のお兄さんが苦労して調べ、取り寄せてくれ、こちらも感謝の気持ちでいっぱいだったのに、すっかりと水を差された。
そのフィルターを受け取るまでに30分も待たされたのだ。ヤブらしいとちょっと噂が立ちかけている眼科並みだ(評判がよければもっと待たされる)。
その原因は、ここの受付・引渡しシステムにある。
修理承りと、修理品お引き渡し、そして、お取り寄せ品お引渡しが、ここですべて行なわれているのだ。
修理を持ち込んだ人は、やれどこが悪いだの、金額はどれくらいかかるだのと、ひどく時間がかかる。修理が終わったものを受け取りに来た人も、これは保証範囲内で済んだだの済まなかっただの、結局はすっかりは直らなかっただのと、やはり時間がかかる。
こっちは、頼んだものを取りに来ただけ。「これですね?」「これです」「○○円です」「はい」で取引終了のはずなのに、修理がらみのお客さんが混じっているために延々と待たされる。カレーショップが、「手打ちそばと茹であげスパゲッティ始めました」と誤った道に進むようなものだ。
だいたい、銀行のように「順番カード」を取って待たなければならないのが、この場には異様に映る。こっちは仕事を抜け出してきたのに、やれやれである。
カウンターの店員も大変だ。ここは店内のどこよりも忙しい部署に違いない。
おまけに、待たされて頭に血が上ったオヤジが文句をつけ始める始末。そこで、また流れが滞る。
このシステムは最悪だ。
修理受付と修理品引渡しは一緒でも、まあ許す。しかし、取り寄せ品は、各売場で渡すべきではないだろうか。
まあ、どっちでもいい。とにかく、純粋に取り寄せてもらった品物はすぐに購入できるような改善を早急にしてほしい(それとも、もう改善されただろうか?私が待っているときにいたオヤジはかなり強くクレームをつけていたから……)。
やれやれ、昨日はいきなり(というのは本当は正しくはないんだけど)、携帯に出会い系サイトからのメールが殺到してたいへんだった。
なかなか言葉巧みに「会ってみたい」だの「即、メアド交換しましょ」なんて書いてくるが、こっちは返信するための有料ポイントを買う気はない。
すると「××さんからポイントがプレゼントされました」なんてメールが管理者から届いたりする(けど、プレゼントされたポイントを受け取るには、まずは一度は自分で5000円分でもいいから購入する必要があるという)。
けど、今朝起きて夜中の間に散弾銃の弾のようにに届いていたメールを読んで爆笑。
「先ほど送ったメールよんでいただけましたか?そこに書いたように、私はいまビックカメラであなたを待っています。あと30分待ちます」という恋い焦がれるメッセージ。でも、送信時刻は午前2時30分。
おいおい、いつからビックは24時間営業になったんだよ。
やれやれ、良くできた自動発信マシンがあるものだ。けど、時間感覚があるとは言えないマシンだ。
これから出張しま〜す。
村上春樹の「
意味がなければスイングはない」(文春文庫)を買った。
発売日が12月10日。買いに行ったのも12月10日。私ってとっても良い読者だ。いや、本当のファンだったら文庫化される前に買うのだろう(単行本は2005年11月に刊行されている)。
文庫の帯には「音楽についてそろそろ真剣に、腰を据えて語るべきではないか」と書かれているが、そのとおり、内容は料理に関するものでも朝日堂の続編でもなく、音楽エッセイである。「ステレオサウンド」誌(季刊誌)に連載されたものだ。
全部で10章からなるが、このうちクラシックに関するものは3つ。
・シューベルト「ピアノソナタ第17番二長調」D850
ソフトな混沌の今日性
・ゼルキンとルービンシュタイン
二人のピアニスト
・日曜日の朝のフランシス・プーランク
である。
とりあえずは、この3つの章を先に読んでみた。
シューベルトのピアノ・ソナタ第17番は、このブログでも何回か触れているように、氏の長編小説「海辺のカフカ」の中でけっこう詳しく語られている作品である。また、喜多尾道冬氏がこの曲に関して村上春樹論を展開した「レコード芸術」誌の内容についても、このブログで紹介した。喜多尾氏が題材にしたのも、この文庫本に収録されているものと同じ記事である。
ゼルキンとルービンシュタインという両極に位置するような偉大なピアニストの話は楽しく読めた(「ゼルキンタマ」には笑った)。
そして、プーランク。
村上春樹の小説「スプートニクの恋人」にも、プーランクの名前が出てくる。
氏はプーランクが好きだという。
へぇ~。ちょっと意外。なぜ意外に思うかと問われると、私は貝になりたいが、感覚的に意外だ。
しかし、読んでいくと納得。
危険ながらも簡単に言うならば、彼がプーランクに魅力を感じるのは彼の音楽の“二面性”のようだ。彼の小説と通じるものがある。
私は村上春樹氏と違って、プーランクの作品はいくつかの管弦楽作品(協奏作品)と宗教曲しかしらないが、その作品群だけみても“躁鬱的二面性”が十分に感じとれる。
「そう、フランシス・プーランクはいろいろな意味合いで、どこまでも二律背反的な音楽家なのだ。右側と左側とで、違った相貌を見せる音楽家なのである」
ここに書かれてあることは、まるで村上春樹の小説の、こっちの世界とあちら側の世界と一緒ではないだろうか?
プーランク……ちょいと聴き直してみようか……
私のブログはOCNの「ブログ人」を利用して書いている。
「そんなこと今さら書く必要はない」、あるいは「だから何だって言うんだよっ!」と、絶対に思いになられているだろうが(もちろんあなたが)、物事の書きはじめにはきっかけというものが必要なのだ。それを省略したら世の中、もっと殺伐となるかもしれない。
誰かと会ったときに同意してくれるのが当たり前、かといって反対のことを言われたら人間関係に終末的なひびが入るというリスクを負いながらも、「いやぁ、寒いですね」と意味のない言葉を最初に発するのと同じである。意味はないが必要なことって、世の中あるのだ。
「そうですね。本当に寒いですね」という言葉が返ってきたら、私たちはそれが当然のこととして意識することはないが、実は感謝すべきことなのだ。たぶん。
ところが、「別に……」とか、「いつの話?」なんて返されたとしたら、あなたならどう考えるだろうか?
私は、わが身の体温調節中枢がいかれたのではないか=すなわち「あたち、お病気」と不安に陥るだろう。
はいはい、分かりました。本題に入りますっ!
「ブログ人」には新規に投稿すると、その更新情報をいくつかの検索サイトに伝えてくれるサービスがある。
これは「ブログ人」に限ったことではなく、どんなブログ・サービスにもあるものだろう。
もちろん、その公開設定は任意であるが、友達が少ない私は「公開する」にしている。
その公開先の一つに「Technorati」というサイトがあるのだが、なぜか1ヵ月ほど前から更新の情報が反映されなくなってしまった。
ここでの私のサイト情報は、最新記事が「私が育んだ石 第1部『トロカツオ純情編』その6」となっている。ご存知のように(と期待したい)、「私が育んだ石」は、自宅で朝起きたときに猛烈な腹痛に襲われ(トロカツオ純情編)、その数年後にはキャンプ中に激烈な腹痛に襲われ(エッグサンド望郷編)、さらにそののちには強烈な腹痛に襲われたものの手術の当日に奇跡が起こった(醤油ラーメン舌鼓編)という、全3部にわたるウソのような実話がすでに完結している。
それなのに、最新記事の情報が「第1部『トロカツオ純情編 その6」となっているなんて、知らない人が見たら「こいつは1ヵ月ほど前にこの文を投稿した後、何かのバチが当たって闘病生活に入ったに違いない。いや、もう死んでいるのかもしれない。あるいは、日本尿路結石愛好振興財団にリークされ刑務所に入っているのかもしれない」と思うに違いない。
そこで遅ればせながら、「ブログ人」のサポートセンターにメールで問い合わせてみた。
翌日、返答がきた。実に迅速かつ丁寧で、Technoratiにシカトされたのではないかと被害妄想的な精神状態に追い込まれていた私には、「あぁ、私もこの世の中の1人なんだ。1人じゃないんだ。あぁ、人生ってすばらしい」と感激してしまった。
彼女は(返答者が女性だという証拠は何一つないが、その文体からして女性に間違いないと断定した。私がそう思う根拠として、自分のことを「オレ」とか「オイラ」といった言葉で表現していない。私のことを「おまえ」呼ばわりしていない。「グダグダ文句をたれるな!」と私を責めていない、などが挙げられる)、私が送った「反英されません」という誤字については一切皮肉を書くこともなく(気づかなかった可能性も若干はある)、「このたびはご心労をおかけして申し訳ありません」とまで書いてくれていた。
「ううん、大丈夫……。これぐらいへっちゃらさっ……」と、私は涙でかすむ画面を見ながら独り言をつぶやいてしまった。
一応再設定してみては?という聖母のようなお言葉に従って再設定してみた。しかし、反映はされずじまい。ということは、続けて書かれていた彼女の説明によるとTechnorati側に問題があって反映に時間がかかっているとしか考えられない。でも、1ヵ月だからなぁ。
私は彼女に返信した。もちろん、「このウソつき女め!」といった内容ではなく、「ありがとうございます」という感謝の返事である。
「このたびは迅速かつ丁寧かつアダルトチックな対応ありがとうございました。いえいえ、アダルトチックというのは大人びたという意味なんです。ボクはそこいらへんの変な男とは違いますから……ヒヒヒッ。でもね、お姉さま、やっぱりだめでした。結局、ボクなんて何をやってもダメな人間なんです。でも、あなたの温かい言葉、特に『ご心労』という言葉だけすっかり満足です。あなたの新郎になりたいくらいです。ですから、もうあきらめます。そもそもここに反映されたからといって、誰も気にはとめていないのです」といったイメージであった。
ということで、今後はどうなるのか分からないが(OCNサイドではどうにもできないえらしい)、きっとずーぅっとずーぅっと、「第1部その6」が最新記事のままで、私はご存命なのかどうかも分からないまま忘れられるんだろうと思う。
そのころもまだカツオは獲れているのだろうか?
- 今日:
- 昨日:
- 累計:
- 12音音楽
- J.S.バッハ
- JR・鉄道
- お出かけ・旅行
- オルガン曲
- オーディオ
- ガーデニング
- コンビニ弁当・実用系弁当
- サボテン・多肉植物・観葉植物
- シュニトケ
- ショスタコーヴィチ
- スパムメール
- セミ・クラシック
- タウンウォッチ
- チェンバロ曲
- チャイコフスキー
- ノスタルジー
- バラ
- バルトーク
- バレエ音楽・劇付随音楽・舞台音楽
- バロック
- パソコン・インターネット
- ピアノ協奏作品
- ピアノ曲
- ブラームス
- プロコフィエフ
- ベルリオーズ
- マスコミ・メディア
- マーラー
- モーツァルト
- ラーメン
- ルネサンス音楽
- ロマン派・ロマン主義
- ヴァイオリン作品
- ヴァイオリン協奏作品
- 三浦綾子
- 世の中の出来事
- 交友関係
- 交響詩
- 伊福部昭
- 健康・医療・病気
- 公共交通
- 出張・旅行・お出かけ
- 北海道
- 北海道新聞
- 印象主義
- 原始主義
- 古典派・古典主義
- 合唱曲
- 吉松隆
- 名古屋・東海・中部
- 吹奏楽
- 国民楽派・民族主義
- 声楽曲
- 変奏曲
- 多様式主義
- 大阪・関西
- 宗教音楽
- 宣伝・広告
- 室内楽曲
- 害虫・害獣
- 家電製品
- 広告・宣伝
- 弦楽合奏曲
- 手料理
- 料理・飲食・食材・惣菜
- 映画音楽
- 暮しの情景(日常)
- 本・雑誌
- 札幌
- 札幌交響楽団
- 村上春樹
- 歌劇・楽劇
- 歌曲
- 民謡・伝承曲
- 江別
- 浅田次郎
- 演奏会用序曲
- 特撮映画音楽
- 現代音楽・前衛音楽
- 空虚記事(実質休載)
- 組曲
- 編曲作品
- 美しくない日本
- 舞踏音楽(ワルツ他)
- 行進曲
- 西欧派・折衷派
- 邦人作品
- 音楽作品整理番号
- 音楽史
- 駅弁・空弁
© 2007 「読後充実度 84ppm のお話」