沖縄での2日目。
眠れぬ夜を過ごし、その割には食欲は旺盛で朝食はたっぷりとり、せっかく来たのだからせめてビーチぐらいは歩こうと、すぐそばのビーチに行ってみたが靴が砂だらけになっただけに終わってしまった。
ホテルの前に、何やら見覚えのある実をつけた木があったので、名前のプレートを見ると「タコノキ」と書いてある。タコノキは写真で知っていたが、こんな実をつけるのかぁ。
これに似た実は、昨年奄美大島に行ったときにずいぶん見かけた。まるで奄美の象徴のように、いろいろなものにこれが絵とか看板などに描かれてもいた。でも、「タコノキ」とは呼んでなかった。なんて呼んでいたか忘れたけど。この「タコノキ」が、奄美大島でみたものと同じ種類のものなのか別なものなのかわからないが(タコノキには600種ぐらいの品種があるらしい)、何といってもトロピカルな雰囲気の植物である。
ホテルの中庭には「トックリヤシ」とプレートがつけられた木が何本も植えられていたが、それも実をつけていた。小さな実をたくさん。
へぇ、トックリヤシってこんな実をつけるんだ。
いまではバラ栽培にほぼ特化している私であるが、昔は観葉植物や多肉植物が好きで、鉢植えで栽培していたことがある。
タコノキは育てたことはないが、トックリヤシは育てたことがある。北海道では遅々として成長しない。それが、こんなふうに当たり前のように育ち、当たり前のように実をつけてるのが、なんとも不思議。
昨年末にパパイヤ(矮性種)の苗を注文し、夏前には届く予定だが、それも、昨年奄美に行 った時に、当たり前のように民家の庭先で実をつけていたのを見て刺激を受けたからである。パパイヤが実をつけている姿って、けっこうワンダーでおもしろいと思ったのだ。北海道でうまく育てられるかどうかわからないが……
今回、沖縄でもパパイヤを何箇所かで見かけたが、奄美に行ったときほどの頻度ではなかった。
視察しなければならないところがあって、国頭村をあとにし、南下して屋我地島(やがじじま)に行く。さらに長い橋を通って、その先の古宇利島(こうりじま)へ。
はい。島でした……
昼過ぎに名護市に着けばよいスケジュールだったので、ちょっと観光。
まずは「やんばる亜熱帯園」へ。
北海道なら、亜熱帯植物を見るなら温室施設でなきゃならないが、ここでは当然、ただの森。
そこにアンスリウムだの、ランだのが当たり前のように咲いている。ヘゴの枝元にランが根を張ったり垂らしている様子を見て、「これが本来のランの生態なのね」と納得。でも、一緒に行った同僚はつまらなかったみたい。私も「こんなもんか」と思ったけど。
昨年奄美の帰りに乗り継ぎで寄った那覇空港で、私はミニパインの苗を買ったが、その苗は今でもほんの成長した程度の状態で家に置かれている。ところが、ここでは写真のような状態でお元気お元気。まるでミドリガメが草の先で休んでいるかのような光景だ。
昼食は「亜熱帯園」の近くにある「そばの“よしこ”」というところで食べる(というよりも、観光マップで「よしこ」を知り、その目的でこのあたりに来て、時間つぶしに「亜熱帯園」に寄ったというのが正しい)。ソーキそばと「じゅーしぃー」という沖縄の炊き込みごはんを注文。ソーキそばは「小」を頼んだが(600円)、食べた感じでは「小」が普通盛りのようだ。店名にちょっと「ひく」感じがあるし、店もまったくこじゃれていないが、味はとても良かった。芸能人の色紙も何枚か店内に貼られていて、観光地名物料理店風の雰囲気は完備されていた。
そのあとは今帰仁城跡へ。場末のスナックのような「亜熱帯園」のあとここへ来ると、「あぁ、ここに来て良かった」という高い満足感が得られた(亜熱帯園さん、すいません)。さすが世界遺産だけある。
そうだよな。北海道で言えば、〇〇クマ牧場と知床を比較するようなもんだかなぁ。そういう比較をしちゃだめだよね。ねっ、よしこ?
途中「ハブ&マングース ショー」という看板を見て、「本当にハブとマングースが戦うのかねぇ」「動物虐待だって、騒がれたことあるよなぁ」「そういえば、戦うなんて一言も書いてないなぁ」「実物がいるかどうかもわからないよなぁ」と、会話しながら、結局パス。
そんなこんなで名護に向かった。
名護ではこの日、日本ハムファイターズが千葉ロッテマリーンズと試合をして、負けた。私が名護に足を踏み入れたために勝てなかったような気がして申し訳なく思ってしまった(自意識過剰)。
名護のホテルのフロントで聞いた、創食家「縁」という店で夕食を食べる(沖縄料理店ではない)。
17:30から飲み始めたが、まだひどく明るい。札幌ならもう暗くなっている時間なのに。
それはそうとして、頼んだ料理のどれもが実においしかった。特に、鶏肉のトマトソースのソテーはもう一度食べたいと思うくらい。地元の方が集まる洋食系居酒屋みたいな感じで、この店、すごくお薦め!
そして、クソ暑かった沖縄の2日目も終わったのであった。
February 2009
さて、すでにご案内のとおり、私は一昨日から南の島に来ている。
私の人間性を正しく把握している人ならば、すでにお気づきだと思うが、その島というのは沖縄本島である。本当である。
何しに来たかというと、繰り返して書くが「仕事」である。
水曜日に、その前の出張先である甲府――あぁ、冷たい雨が降る甲府――から、特急「かいじ」で東京に戻り、羽田から那覇空港へ飛んだ。
それにしても、特急「かいじ」って変な名前だ。音的に。でも意味は「甲斐路」なんだから、そう考えるとおかしくない。でも、カイジって、特急列車の名前にしては語呂が悪い。まだ、気象衛星 「ひまわり」の方が、口にしやすかった。どうしようもなく強引な観点からの比較だが……
その「かいじ」だが、行きの「スーパーあずさ」の所要時間が約90分だったのに対し、20分ほど余計に時間がかかる。停車駅が多いせいなのはわかるが、ずいぶんと差があるものだ。
近くの席で、乗るのに飽きた子供が、「おかあさん、まだ着かないのぉ~?」とぐずっていた が、その気持ちはわかる。私も、「お、お、奥さん、まだ着かないのぉ~?もう、ボク、座ってられな~い。抱っこ!」と声をかけたくなったくらいだ。
羽田空港では乗り継ぎの時間があまりなかったので、ANA-FESTAで初めて見かけた「豚しょうが焼き弁当」なる空弁を食べた。
う~ん、ご飯はおいしいし、肝心のしょうが焼きの味も悪くないが、これって“焼き”なのかねぇ。底に脂もたんまりたまっている。780円もするし……。崎陽軒のシウマイ弁当にすりゃあよかった(売り切れてたけど)。
那覇空港に着いたあと、最初の用務のため国頭村(くにがみそん)へ。
レンタカーで約2時間の距離。
いやいや、沖縄は「わ」ナンバーの車が実に多い。つまりレンタカーだ。それだけ観光客が多いということだ。
それから、沖縄のドライバーはなぜか総じてウィンカーを出すのが遅い。まあ、沖縄以外から来たと思われるレンタカー運転者も同じような傾向にあるが……
国頭村では、リーズナブルな「宿」が満室だったため 、「JALプライベートリゾート・オクマ」に泊まる。
あぁ、リゾート!
イタリアのおかゆはリゾット!……すまん。
コッテージに泊まる。
あぁ、立派!素敵!
ビジネスの出張で泊まるには悲しすぎる(ビジネスでない出張っていうのは、たぶんないのだろうが)。1人でここに滞在すると(同僚も一緒だが、もちろん彼とは別な部屋)、まるでそこのリゾート的時空の流れに完全に取り残された人間になったような気がする。
広い部屋に1人たたずんでいると、「こんなことなら、寂しさを紛らわす相手として、空気で膨らませる人形を持ってくればよかった」と思ってしまう(冗談ですってばぁ)。
リゾート地としては、すばらしい。
スタッフの感じも良い。
でも、仕事で利用するには酷だ。
先日書いたように、この慣れない雰囲気の中、結局私はほとんど寝つけないまま朝を迎えた。
2日目も「やれやれ」的な暑さになったが、その話は明日にでも……
※ 写真上:泊まったコッテージ
写真中:こういう部屋をシングルユースで1人ぽっちで泊まるなんて……
写真下:そして眠れぬ夜が明けてゆく
「南の島」に、昨日の午後、着いた。
私の想定範囲を超えた暑さだ。
あぁ、ニューカレドニア!
で、暑くて汗ばんで全然寝つけない。冷房を入れたら、今度は涼しすぎるし、身体にも悪いだろう。こりゃ、朝まで寝られないな。おまけに、いつの間にか腕を虫に刺された痕跡もある。北国育ちの私には、南国は無理のようだ。
それにしても日本は広い。おとといの朝、家を出るときにつけた耳あてが、いまもカバンに入っているが、気ちがいじみるくらい、この場にはアンマッチだ。
えっ?「日本は広いってなんだ?ニューカレドニアにいるんだろ?」って?
いいえ、私は先ほど不必要に「あぁ、ニューカレドニア」と、恋する乙女のようにつぶやいただけです。ニューカレドニアに着いたなんて言ってません。
あぁ、暑い。病人のように汗ばんでいる私である。
「♪あしたぁ〜、わたぁしはぁ、旅に出ますぅ…………8時ちょうどのぉ」という、「狩人」のヒット曲があった。私も今朝、甲府から東京に向けて旅にでる。でも列車名は特急「かいじ」。「あずさ」と思い込んじゃいけません。
あの歌は「あずさ2号」だから、つまり上り列車だ。列車でも飛行機の便名でも、上りは偶数、下りは奇数だ。でも、最近は上り下りってあまり聞かなくなった。わかりにくいもんなぁ。
さて、東京に着いたら、今度は南の島に向かう飛行機に乗ります。
今日から今週いっぱい出張である。
まず本日は、東京に行き、そのまま電車に乗り継いで甲府まで行って来る。
夜にワインを飲み過ぎて、アルチューハイマー・中川のようにならないよう、気をつけますです。……
話は変わるが、昨日私は、タクシーに乗る機会があった(そりゃそうだ。タクシーにまたがる機会があった、なんていう人の話はほとんど耳にしたことがない)。
その運転手さんが、無口なようでいて、一度しゃべりだすと止まらないタイプで、たいていは私もこの手のドライバーにはうんざりするのだが、昨日は刺激的で退屈しなかった。時折話の中に散りばめられている独特の言葉づかいが魅力的だったのだ。はっきり言えば、単に間違ってるだけなんだけど……
話は、最近タクシーの利用客が減っているという内容になった。
彼は話す。
「だってね、お客さん。この先わかんないから、みんなお金を使わないんですよ。悪いムードが日本じゅうにはこびっているんですよ」
ふむふむ。
私は経済学者のご高説を拝聴しているかのごとく真剣に頷きながら、そっと手帳を出し、揺れる車内にもかかわらずメモをとった。
「はこびってる」……
話はさらに発展し、彼は運転しながら熱く語り続けた(そりゃ、運転をやめて車を停めて話し込まれては困る)。内容は、札幌にMKハイヤーが進出してくるのは、まかりならない、という怒りであった。
さらに彼は続ける。
「運転手も給料が安いから、若い人なんていないんですよ。働いているのは私のようなダンコンの世代ばっかりですよ」
男コンの世代?
もしそれが事実なら、女性一人でタクシーに乗ることは極めて危険な行為と言わざるをえない。でもダン根の世代ばっかりというなら、むしろ二十歳代あたりの目が血走ったドライバーが多くいてもいいように思うが……
「まあ、とにかく政治が変わらないと、このヘンペイソクはなくならないですよね、お客さん?」
んっ?それは「閉塞感」のことか?
ここまで違うと、実はこのダンコン・ドライバー、わざとやってるんでは?との疑念が湧いてきた。
でも、そんなに器用そうには見えない。たぶん、真剣に間違えてるのだ。
仕事中はずっとラジオ(それもNHK第2が望ましい)を聞いて、日本語を学ぶことを期待したい。
♪
さて、実はいま、甲府に向かっている最中である。「スーパーあずさ」である。冒頭の文を書いて、中断してから、早くも9時間以上経ったのだ。
昼前に羽田に着き、突如思い立って、品川方向ではなく、いったん東京駅まで行き、かつて私が絶賛した、丸の内オアゾの蕎麦屋「小松庵」に寄った。う〜ん、やっぱり美味!
そのあと新宿まで向かったわけだ(「あずさ」は新宿発)。
というわけで、移動しながらの投稿のため、表示されるこのブログに不備があっても(「改行位置がおかしい」「不自然なスペースが空いている」「内容がつまらない」など)、劣悪なネット環境のせいと思っていただきたい。
明日はまた朝のうちに羽田に移動する。
補足:ホテルについて、ロビーのパソコンから体裁の修正をしましたです。
土曜日に入院中の父のところへ行ってみた。
この日はひどい天気で(結果的にはJRの運休が275本、新千歳空港発着の飛行機が157便が欠航したとの新聞報道である)、家にずっとおこもりしていようと思ったのだが、昼に突然陽が出て晴れ上がったので、買い物ついでに見舞いに行くことにしたのだ。
そろそろ一度病院に顔を出さねばと思っており、天気が回復するであろう日曜日にしようかと思ったのであるが、やっぱり面倒なことは土曜のうちに済ましてしまえとばかり、お天道様の顔を見るや否や、出かける決意をしたのであった。
ところがどっこい、家を出るとすぐにまた猛吹雪。
道路はガタガタ、グワグワで、ノロノロ運転。病院に着くまでに1時間以上かかってしまった。
父親は前回(1ヶ月ほど前)に見た時よりも、多少顔色が良くなっていた。
もともと口数は少なく、動きもイライラするほどのんびりしたタイプなのだが、病床の彼は、雄弁になるわけもなく、しかも薬でぼーっとしているのか病気のせいなのか、中川昭一ほどでないしても、言動の一つ一つを紡ぎだすのに時間がかかり、かかった末に口から出てくる内容も、さして興味をひくものでもなかった(例えば、「今だから話すが、巨額の財産を隠している」などだったら、ずっと話を聞いてあげるところだ)。
そんなこととで、特に積もった話もないので、滞在20分でおいとま。
帰りも悪天候、悪路を走行し、途中、中途半端な規模のショッピング施設に寄り、半額になっていたネクタイを3本買い、ちょっぴり儲けた気分になったのもつかの間、そのあと、別なコーナーで「フレッシュマン・フェア」と銘打って、1本500円のネクタイが売られているのに気づいた。失敗したような、「いや、あんな派手っちいネクタイは所詮買わない」、「一回締めたらほどけ散るに違いない」などと酸っぱいぶどうのキツネのような気持ちになってしまった。しくしく……
買い物の後、さらに悪路、悪天候の中、家に向かい(途中、横転しているワゴン車を見かけた。いかにも塗装業者や水道工事業者が愛用しそうな白のワゴン車であった。きっと雪にハンドルをとられた挙句、疲労感を呼び起こされた車は寝ころびたい衝動にかられたのだろう)、晩酌をして、夜9時にはウトウトして、這うように洗面所に行き(トイレのことではありません)、あっというまに寝入ってしまった。
って、まるでできの悪い中学生か、出来の良い幼稚園児の日記みたいだ。
先日、許光俊の「クラシックを聴け!完全版」なる文庫本を購入した(ポプラ社)。許光俊とか鈴木淳史とか、なかなかおもしろい文章をかいてくれる人がクラシック音楽の出版界に登場して久しいが、いまだその輝きを失っていないのは頼もしい。
この本は、今から10年ほど前にもともと青弓社から出版されていたもの。つまり、この手のクラシック本のはしりとも言える。それが文庫化された。2009年2月5日第1刷だから、できたてのほやほや。
青弓社時代のものを読んではいないので、私にとってはこの本は初読み。
う~ん、まだ許氏にもちょっぴり気負いが感じられる。
それでも、音楽の魅力について、あるいは、クラシック音楽に関する誤った常識などについて、わかりやすく取り上げてくれている。ちょっと強引なところもあるけれど。
そのなかで取り上げられている、シューベルト(1797-1828)の交響曲第7番(旧第8番)ロ短調「未完成」D.759(1822)について、私のちょっとした思いを。
この曲の「凄さ」については、許氏がたっぷりと本書のなかで書いてあるので、私がどうこう書くようなことはない。けど、ちょっとだけ、いいかしら?
シューベルトの「未完成」といえば、LPレコード時代には、ベートーヴェンの第5番「運命」と、A面B面の表裏に仲良くカップリングされているのが、ほぼ定番であった。汗臭い男の愛って感じだ。
とはいっても、私はそういうLPを持っていなかった。実は、私は「運命」のLPを、ついぞ買わずに終わってしまったのだ。あるいは「未完成」のLPを。そうこしているうちに、気がつけばCDの世に。
それはそうとして、何で「運命」+「未完成」なんだろう?たぶん、いや十中八九、収録時間がLPのそれにぴったりだったのと、特に「運命」は人気曲だったから、その裏に入れるのは、なんとなくタイトル的にもストーリー性がありそうな「未完成」にするのが「規格」として成立したんじゃないかと思う。それにクラシック音楽といえば、(入門も含めて)ドイツ系の音楽以外ないという、いろいろな筋の陰謀もあったに違いない。
実際、こういうLPで「未完成」を知ったという人は、とても多いらしい。
でも、私は違った。
エアチェックで録音して知った。
「それにしてもどこが名曲何だろうな」というのが、若かりし頃の私の正直な感想。
当時は、未完成に終わった作品ということがことさら強調されており(完成させずに無念にもシューベルトは世を去った、など)、そういうお涙ちょうだい的な物語があることも、この曲を有名にしたのだろう(「未完成交響楽」という映画のせいもあるようだ)。
しかし、歳を重ねるうちに、この曲が「いいなぁ~」と感じるようになった。
「無念にも世を去った」などという、ほぼ間違いなく嘘っぱちな背景など関係なく(単純に作曲年を見ても、死の6年前なのだ。たぶん、「2楽章まで書いたら、もうそれで完璧だぜ。あとはヤーメタ!」ってシューベルトを考えたのだろう)、この曲はいい。
許氏はこの曲を「恐ろしい」というが、確かに異様な恐ろしさを持っている(特に第1楽章に私はそう感じる)。
続く第2楽章の美しさ!単に第2楽章を「美しい」で済ましてはいけないんだけど、細かな話は許氏の本を読んでいただくとして、とにかくこの対比がすばらしい。
坂本良隆さんなるお方は、全音スコアの解説で「未完成交響曲」のことを、「音の中の美しさのすべてが表現されている不思議な作品である、そして旋律の祝福に満たされているが、シューベルト自身の他の作品や歌曲からの影響すらも認められない特異性をも持っている」と書いているが、許氏ならば、「そんな簡単なもんじゃないっ!」って言いそうだ。
そんなわけで(どんなわけ?)、この曲は私にとって、「悪の大王」が出てきそうな第1楽章でさえ、ときおり懐かしくて無性に聴きたくなる音楽となってしまった。う~ん、大人になった証拠かしら?
この曲の演奏では、最近私は、ジュリーニがシカゴ響を指揮したCDを聴くことが多い。ジュリーニって可もなく不可もなくって感じの人だが、変にアクがないところが好感をもてる。アクがないと言っても、面白くないというのとは違う。安定感のある巨匠の演奏だ。
グラモフォンの463 609-2(2枚組。輸入盤)。マーラーの第9交響曲とのカップリング(「運命」じゃないもんね……)。現在は廃盤のよう。
どうでもいいことだけど、ジュリーニのような帽子をかぶって通勤している人が、ウチの会社にもいるが、全然変だからやめた方がいいと思う。面と向かっては言えないけど。
いま思い出したが、小学校の卒業文集で「将来なりたいもの」というページがあった。
同じクラスのある男の子が「電気機関車」と書いていた。なれるもんなら、なりゃあいいじやん。
別なクラスのある男の子は「少しでも完全な人間になりたい」と書いてあった。
それを目にしたとき、私は「すっごいなぁ。こんなこと考えたこともなかった」と感心したものだったが、今思えば「バッカじゃないか」と思ってしまう。こういう奴に限って、いつまでも未完成のままのような気がする(そして「人生、死ぬまで成長ですから」なんて言って歩いていそうだ)。
金曜日に交霊の、いやいや、恒例の血液検査を行なった。2ヶ月に1度の検査である。
前日は21時までにすべての飲食物摂取を終え、朝ごはんは当然のごとく抜き(といっても、絶食しなければならないことを忘れて、何度か食べてしまいそうになった。まるでボケ老人のようだ)、朝一番で血を抜いてもらった。こういう書き方をすると、まるで悪いことをしているかのようでもある。
体重はさらに減っていた。ついに、自分で勝手にベストと設定していた63kgを切り、62kg台になった。これはふだんはワイシャツの胸ポケットに入れている携帯電話と、ズボンのポケットに入れている小銭入れを、今回はカバンに移しておいた効果が大と思われる。
血圧は132/83。高血圧症の疑いありということで投薬治療を受けている身としては、十分に賞賛に値するものと思われる。
採血を終え、会社に行き(そのときはまだ8:40だった)、病院に行く前に買っておいたおにぎり2個を食べた。朝、会社の机の席でおにぎりをほおばるなんて、まるでかわいいエゾリスか、あるいは妻に逃げられたうだつの上がらない会社員のようだ。
駅のホームのキオスクで買ったので、そのおにぎりは雪玉みたいに冷たかった。しかも、買ったのが「粗挽きソーセージおにぎり」。つまり、おにぎりの片面にぺったりとハム(実際はソーセージだが)の薄切りが貼りついているものだ。
究極に冷えた「粗挽きソーセージおにぎり」ほど、“生食”にふさわしくないものはないと、このとき悟った。ついでに、朝からこんなくどいアイテムをよく選択したものだ、と我ながら食生活の問題に気づいた。
さて、午後になって結果が出た。
いちばん問題の中性脂肪の値は2か月前とほぼ同じ。300超の数値でまだまだ異常値ではあるが、よく維持している。一時は600を超えていたのだ。たいしたもんだ、ヘルシア緑茶!
しかし、ヘルシア緑茶の劇的効果も頭打ちになったのだろうか?
がんばれヘルシア、がんばれカテキン!
なお、数値が前回並みと書いたが、厳密には10ほど上がっていた。医者は誤差の範囲というから敢えて彼に対し挑戦的な異議を唱えはしなかったが、私にはわかる。前日、ちょっといつもよりビールを多く飲んだのだ。そのあと、寝る直前にヘルシア緑茶を飲んだが、それではカテキン成分がビール由来の中性脂肪と戦い抜けなかったのだ。
ところで、血圧についても指摘された。
昨日も書いたが、高血圧の定義の数値が厳しくなったらしい。
真剣に医師の説明を聞いたつもりだったが、すでによく覚えていない。でも、125/75以下になったと言っていたように思う。
このようにどんどん人を追い詰めて、高血圧学会(か何かは知らないけど)はそんなに愉快なのだろうか?
音楽療法という、私はいまひとつ眉にツバものかもと思っている治療法で、高血圧に効くとされる楽曲のなかに、F.リスト(1811-1886)の「愛の夢第3番変イ長調」(1850頃)がある。音楽療法にもいろいろな派閥があるのかも知れないが、私が見ているのは渡辺茂夫という人がセレクトした曲のリスト(こっちは「一覧」の意味のリスト)である。
高血圧に効くかどうかはともかく、「愛の夢第3番」はとても有名だし、甘美でよい曲だ。男の場合は股間がうずき、女性の場合はやはりどこかがうずきそうだ。そんな甘美で怪しい曲だ。考えすぎだけど……
「愛の夢」には3曲あり(第3番がダントツに有名)、いずれも自身の歌曲からの編曲で、その原曲は、第1番変イ長調が歌曲「高貴なる愛」(1849頃)、第2番ホ長調は「私は死んだ」(1849頃)、そして第3番は「おお、愛しうるかぎり愛せ」(1845頃)である。「高貴なる愛」と「私は死んだ」の詞はL.ウーラントの、「おお、愛しうるかぎり愛せ」の詞はF.フライリヒラートである。
それにしても、「私は死んだ」って、そのままじゃんか……
「愛の夢」(「3つの夜想曲」と副題が添えられている)の原題は、Liebestraum。この、リーベ・ストラウムという語の響きがまたなんともいい。
一時期、私は携帯のメール着信音に、この「愛の夢第3番」のオルゴール・ヴァージョンを設 定していたが(うずきたかったわけではない)、主旋律がちゃんと聴こえてこず、さらに鳴動時間を4秒にしていたため、何の曲だかちっともわからないことになってしまった。ちなみに、主旋律は掲載譜(楽譜は全音ピアノピース)で直線で結ばれているもの(1小節目の4分音符→2小節目の付点2分音符→etc.etc.)。それが、オルゴール版着信音では譜面の上段の8分音符の方がキンキンキラキラと目立っていたわけ。
ただそれだけで、オチはありませんが……
NHKの「純情きらり」でも、この曲はずいぶんと流れていた。「タ・ツ・ヒ・コ・さ・んっ!」。
これについても、特にそれ以上の話の展開はありませんが……
私はJ.ボレットのピアノによる演奏を好んで聴いている。じゃなくって、これしかCDを持っていない。でも、良い演奏でお薦めできる。リストのピアノ曲を概括できるような選曲にもなっている。
DECCAの444 851-2(2枚組。輸入盤)。リストの作品集で、録音年は1978年から1985年まで幅がある。ちなみに「愛の夢第3番」(このアルバムには「愛の夢」は第3番のみが収められている)の録音年は1982年。有名な「ラ・カンパネッラ」も入っております。
話を蒸し返すと、「愛の夢第3番」が高血圧に効くなら、私は高血圧にならなかったはずなのだが……。それとも、耳にしていなかったらもっとひどい高血圧症になっていたのだろうか?あるいは、音楽療法っていうのは、音楽を耳にしている間だけ有効なのだろうか?私の勝手な思いだが、“うずく”ような音楽は、やはり血圧には悪いんじゃないだろうか?
そもそも、一時期ブームだった音楽療法って、まだ科学的に生きている説なのだろうか?
よくわからないなぁ。
今朝はゆっくり寝ようと思っていた。
長男は出かける予定もなく、次男は部活が休みなので共に寝坊ができ、妻は次男の弁当作りをしなくてもよいために寝坊する計画だからだ。
死人の家のような静寂の中、私もゆっくり眠れると思ったのだった。
ところが、未明から風の音がヒューヒュー、ゴーゴー、GO!GO!、郷!郷!、とうるさく、かつ、早朝には除雪車がガーガー、ピーピー(バックする時の音)と騒がしく、結局は6時に目が覚めてしまった。こんな私は、愚鈍な犬よりも早起きだし、勤勉なニワトリよりはお寝坊さんだ。
つい数日前には町内の一斉排雪が行われた。
しかし、今年は雪が少なく、というか、もしかするとそれなりに降っていたのかもしれないが、暖かな日も多かったため、積雪量は少なかった。排雪の必要性があまり感じられないくらいだった。排雪日の数日前には家の前は上の写真のような状態。まるで、消防士が憂さ晴らしに放水したあとのスケートリンクのようだ。アスファルトまで見えてきている。こんなところで転んだら、とーっても痛いうえに、背中からお尻までビチョビチョになってしまう。
ところが、今朝起きてみると写真下のような状態。雪の量そのものは天気予報で大警告さ れていたほど多くはなかったが、それでも玄関ポーチはこんな状態。孤独的に刻印された足跡が新聞配達員の苦労を忍ばせる。あぁ、春はまだまだ遠いのね。
考えてみれば、排雪が終わった後に限って、再び多めの降雪に見舞われる。少なくとも私の住んでいるあたりはそう思われる。でも、全然別なところに住んでいる人も同じようなことを嘆いていたから、雪雲は排雪後のエリアを捜しまわっているのかも知れない。
そういえば、昔、職場にオジサンが2人いて、こんな会話をしていたことがあった。
「昨日、排雪したさ」
「へぇ~、どっちのさ?」
「そりゃ、雪の方に決まってる。じゃなきゃ、わざわざ言わない」
「そっか!ひぇっひぇっひぇっ!」
やれやれ……
昨夜はイタ飯店で飲んだが、スパゲティをツマミがわりに食べた。ミートソースである。私はミートソースが好きなのだ。でも、イタリア料理店って名乗っているくらいの店だから、アツアツの鉄板にのったようなものは出てこない。ミートソースだけど、それだけで終わらないネーミングで、ジョヴァンニ風だかフィレンツェ風だかアントニオ風みたいな名前がついていた。ちょっと出しゃばりのような気もする。
それを食べた時に2つ思ったことがあった。
1つは、美味しいがしょっぱいということ(注:「しょっぱい」とは「塩辛い」ということである)。んっ?ということは、「美味しい」とは言えないということに帰結するのだろうか?一時的に血圧が10ほど上昇したかも知れない。
2つめは、ペルゴレージの曲である。ふと、「アーメン!」という歌が浮かんだ。そっか!麺を食っていたからかぁ!はいはい、減点5、ですね。
G.B.ペルゴレージ(1710-1736)の「スターバト・マーテル」(1736)。
ペルゴレージは26歳の若さで夭逝した、ナポリ楽派の前古典派時代の代表的なイタリアの作曲家だ。最初はオラトリオ作家を目指したが、のちにオペラの作曲家として大きな成功を収めた。
26歳という若さで亡くなったため、この有名作曲家の多くの偽作が死後に出回ったという。ペルゴレージの未出版の曲だと言って、儲けた奴がたくさんいたわけだ。
ところでクラシック音楽では、本当にその作曲家の作品であるかどうか不明な場合、つまり偽物かどうかわからない場合は「疑作」と表記することがある。「にせもの」とは断定できないけど「にせものである疑いがある」という意味だ。でも、「疑作」って一般的な日本語の言葉ではないと思う。「排雪」といっしょだ。
スターバト・マーテル(Stabat Mater[羅])は、セクエンツァ(続唱)の一つで、「悲しみの聖母はたたずむ」という意味。「公教会祈祷書」では、「悲しめる聖母に対する祈り」となっている。トレント公会議で典礼音楽から除かれたが、1727年にこれが解除となり、以後多くの作曲家が作品を書いた。歌詞はヤコポーネ・ダ・トーディの作と言われる。この名前もイタリア料理の名前に潜んでいそうな響きである。
おそらくペルゴレージは、迫りくる自分の死期に無念さを感じながらこの曲を書いたのだろう。この曲を脱稿後、まもなくして彼は息を引きとったという。まさに「白鳥の歌」。
しかし、曲は悲しみにどっぷりと浸り切るようなものではない。
とても透明で、美しく、優しく、すーっと流れていく。
全体は12曲から成る。
映画「アマデウス」のなかで、幼少時のサリエリが食事中、目の前での父親が倒れて亡くなる場面がある。そのときに流れるのが、この曲の最後の「Amen!」と繰り返し歌われる部分である。
私がふだん聴いているのはARTENOVA盤(輸入盤)で、G.クーンの指揮&チェンバロ、P.アントヌッチのソプラノ、マンカレッラのメゾソプラノ、そしてなんだかちょっぴり長い名前のオケ(写真を見てね)による演奏(ライヴ)。規格番号74321 65420 2。ペルゴレージの代表作である、歌劇「奥様になった女中」がカップリング収録されている。790円とお安いこと。
最近は高血圧の定義がいっそう厳しくなったらしい。
しょっぱいものには気をつけなきゃ……
W.A.モーツァルト(1756-1791)の4管楽器のための協奏交響曲変ホ長調。
この作品については現在2つの版がある。とどのつまり、ちょっと事情が複雑なのだ。
この作品とは「オーボエ、クラリネット、ホルンとファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」なのだが、とても流麗な名曲で、「あっ、どこかで聴いたことがある」と、世間一般の猫でも知っているくらい有名であるものの、これが果たしてモーツァルトの真作なのか、いまだにはっきりしないのである。
モーツァルトは1778年4月にパリを訪れた。
このときパリには4人の名管楽器奏者が居合わせた。
フルートのヴェンドリング、オーボエのラム、ファゴットのリヒター、ホルンのシュティヒである。
この4人をソリストとした協奏交響曲(1つまたは2つ以上の独奏楽器を伴う交響曲で、バロック時代のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)に密接な関係があるといわれるが、形式としてはマンハイム楽派のもの)をモーツァルトは作曲し、コンセール・スピリチュエルで演奏するために、その総監督であるジャン・ル・グロに売り渡した。ここまでは事実として確認されている。
しかし、演奏会でのパート譜を作っている段階で自筆譜が紛失されてしまった。
結局、この協奏交響曲は演奏されずに終わったが、この紛失事件には、モーツァルトの名声が高まるのを阻止するために、パリの作曲家の誰かが陰謀を企てたという可能性がある。
この、フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットを独奏楽器とする協奏作品は失われたままであったが、20世紀の初めにモーツァルト研究家のO.ヤーンの遺品のなかに、4つの管楽器を独奏楽器とする協奏交響曲の筆写譜があることがわかった。
実はモーツァルトは、「紛失した作品は鮮明に記憶に残っているのでもう一度書きおろすつもりだ」、と1778年10月の手紙に書いている。
ヤーンの「モーツァルト伝」の校訂者だったダイタースは、この筆写譜がモーツァルトが帰郷したあとに書きおろした、手紙に書かれている「紛失作品の編曲譜」であると唱え、この説は広く支持された。
この結果、この筆写譜の作品はケッヘル作品目録の第2版で「協奏交響曲変ホ長調K.app.9」(appは「追加」の意)とされ、さらに同第3版ではK.297bという番号が与えられた。
独奏楽器は、幻の作品と異なり、フルートの替わりにクラリネットが用いられている。
しかし、その後の研究によって、この筆写譜は偽作の可能性が高いと判断され、ケッヘル作品目録の第6版ではこの曲を真作の項からはずし、「偽作または疑義ある作品」という意味でAnh.C14.01という番号が与えられることになった。
同時に紛失しいまだ発見されていない真作の方にはK.297Bの番号が与えられた。
ヤーンのところで発見された筆写譜は「失われた協奏交響曲の編曲ではない」と見なされたわけだが、これを真作とする説を支持する研究者も多い。さらに、ロバート・レヴィンが復元を試みるなど(独奏はフルート、オーボエ、ホルン、ファゴット)、いまだ議論は尽きない状況にある。
なお、偽作とされた根拠はいろいろとあるが、フルートの替わりにクラリネットが用いられている点も大きな根拠の一つである。というのは、このころクラリネットはまだ新しい楽器であったにもかかわらず、この新興楽器の魅力を十分に生かしているからである。できたての楽器をここまで駆使するのはおかしい、というわけだ。
ただ、この音楽がモーツァルトのものではないとしたら、その方が信じがたいことだと私は思ってしまう。
ケッヘル作品目録第6版で偽作とされた「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲変ホ長調K.297b(Anh.C14.01)」であるが、どこをとっても「モーツァルト的」。これが偽作だとしたら、真似た人間もある意味天才である。
なお、この曲では第2楽章が第1楽章と同じ調性(変ホ長調)で書かれており、「その理由は音楽的には説明不可能で、この作品の謎の1つとなっている」のだそうだ。
ここでは、K.297bとK.297Bの2種類のCDを紹介しておこう。
まず、偽作とされているK.297bでは、マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団の演奏を。独奏はブラック(ob)、ブライマー(cl)、シヴィル(hrn)、チャップマン(fg)。フィリップスのPHCP10363。1972年録音。カップリングは協奏交響曲K.364。
一方、紛失したままのK.297Bだが、こちらはロバート・レヴィンの再構築版の演奏を。
同じく、マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団(正式に言うと、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、というイライラするような名称)。独奏はニコレ(fl)、ホリガー(ob)、バウマン(hrn)、トゥーネマン(fg)。フィリップスのPHCP10364。1983年録音。カップリングはオーボエ協奏曲(2曲)。
私は、フルートが入っているK.297B(レヴィン復元版)の方が、曲としては好きである。
先日のことである。
何が?かというと、私は誕生日を迎えてしまった。
こう見えても(読者からは見えないのは百も承知)、私は魅力あふれる水瓶座なのだ。
いや、水瓶座の人がみな魅力にあふれているという意味ではない。
この私が、魅力にあふれている、ということである。
しかし、もはや誕生日が来たってちっともおめでたくなんかない。自分でも薄々そう感じているのに、周囲はもっと露骨である。「誕生日ぃっ?だから何?まさかうれしいわけじゃないでしょっ?」的な無言の拒否感を私に放っているのがよくわかる。
はいはい、うれしくなんかないですよ。
祝ってくれなんて、まったく頼んじゃいませんですよ。
その誕生日だった朝、家の給湯ボイラーが故障した。
ボイラーの方がずっと正直だ。「誰かの誕生日だろうがなんだろうが関係ねぇ」と、自分の都合を変えずに故障するのだから。
どんな故障かというと、コントロール・パネルに「661」というエラーコードが表示された。
取扱説明書で確認すると、このエラーは「混合弁の異常」とある。
賢い。
自分でどこの調子が悪いのか、きちんと説明できるのだ。具合が悪いと不機嫌になって、そのくせどこがおかしいかえをちっとも説明できないペットのハムスターよりも優秀だ。あるいは、医者の前で自分の症状を伝えられない、1歳児よりも賢い。
しかし、ここまで自己診断できるのなら、現代の技術を駆使して自己修復もできるようになってほしいものだと、つくづく願ってしまう。
それにしても「混合弁の異常」とは何だろう?
「のり弁の異常」とかなら、賞味期限が切れたといった原因や危険性が推測できるが、さすがに混合弁というものに私は馴染みがない。
説明書にはそれ以上の細かな記述がない。あるのは「★」マークだけだ。
このマークは「素人は余計な手を出すな」ということを意味する。
私はそのままにして会社に行ったのだが、そのあと妻がメーカーの代理店に電話。
その1時間後、9時には家に修理に来てくれたという。
すばらしい。ブラボーである。「お届けは早くても1週間後ですね」と、洗濯機を買おうとしたときににべもなく言った、某「ビック写真機」の店員とはえらい違いだ。そりゃ洗濯機がなくても死にはしないが、1週間も洗濯できないとなったら、生活の質がガタ落ちするだろう。サルマタケが生えてきたらどうするんだ?桃太郎のばあさんなら、ほかにすることがために1週間のうちにボケてしまうかもしれない。
で、混合弁を交換したのだが、この混合弁というのはよくわからないが(妻の説明だからいっそうわからないのだ)、お湯の温度の調整を司っている重要なものらしい。そのままにしておくと、急に熱湯が出たりするそうだ。
そういえば、エラー表示に気づく前にシャワーを浴びたが、いつもよりお湯の温度が高いような気がしたのは確かである。よかった、大切なお肌にヤケドしないで済んで……
昨年末から家のなかでは世代交代が否応なしに進んでいる。
洗濯機が突然死し、掃除機が異臭を放ちつつ壮絶死し、温水洗浄機付き便座が腰砕けし、今度は給湯ボイラーが移植手術を受けたわけだ。家族内では「ビデオの調子も悪い」という噂がたっているらしいし、私のことも「調子も性格も悪い」と結論付けているようだ。
家を建てて12年目を迎える。
まだまだ、波乱は続きそうだ。
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