札幌交響楽団の第519回定期(5月30日15:00~。Kitara)。
曲目はモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」とR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」。指揮は尾高忠明。
「ドン・キホーテ」のソリストは、ともに札響の首席奏者である石川祐支(vc)と廣狩亮(va)。
まず、私は今回、初めてKitaraの3階席(のセンター)に座って聴いたのだが、席のせいなのか、2曲ともオーケストラの音が薄く聴こえた。左右のバランスは良いのだが、密度の低い音であった。その点は差っぴいて感想を書く。
モーツァルトの「ジュピター」はとても優等生的な演奏で、細かなところでは多少の乱れがあったものの、全体的には好感のもてる演奏。スタイルは1970年代ころの典型的スタイルほどはロマン、ロマンしていないが、かといってピリオド的なシャープさもない。良い演奏なのだが、どこか心に迫ってくるものが希薄[E:heart03]。
尾高のモーツァルトでは、昨年の定期で第40番を聴いたが、そちらの方が切れ味がよかった。尾高のアプローチが微妙に変わったのか、それとも座席の影響もあるのか?
ただ、最後の感動的なフーガはいたずらに大仰にならず、それがかえって締まった印象を与えてくれた。
「ジュピター」の聴き比べについては、今年の3月に書いたので、よろしければ読め!
いただけなかったのは、「ジュピター」が終わったあとの最初のカーテンコールで、尾高がマイク[E:karaoke]を持って、来る6月3日にKitaraで行なわれる「現代日本オーケストラ名曲の夕べ」の、簡単にいえば宣伝スピーチをしたこと。話の内容は、チラシに書いてあるメッセージにやや肉付けしたもの。
言ってしまえばさほど感動的な「ジュピター」ではなかったものの、それでもすぐに拍手を中断しトークを、それも演奏会の宣伝をするのは、演奏の余韻を自ら壊すようなもの。演奏会の性格上チケットの売れ行きが悪いのだろうということは想像に難しくないけど、もっと別なやり方があったのではないか?
後半のR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の交響詩「ドン・キホーテ(Don Quixote)」Op.35(1896-97)は、札幌では昨年のPMFで取り上げられた作品。札響のプログラムには前年にPMFで演奏された曲のどれかが定期で取り上げられるという話を聞いたことがあるが、今回もそう。何か特別な理由でもあるのだろうか?
去年のPMFのこの演奏会、結局私は行かなかったんだけど、その理由は「こちら」に書いてある。
「騎士的な性格の1つの主題による幻想的変奏曲」(Fantastische Variationen uber ein Thema ritterlichen Charakters)という副題がついたこの巨大な変奏曲は、一歩間違えるとダラダラとした演奏に陥る危険性があるが(ただし、「ドン・キホーテ」は、R.シュトラウスのほかの交響詩に比べても、筋がわかりやすいと思う)、札響の演奏は(そして尾高は)、この「騎士道の本に感化された“いかれた老人”が、騎士の格好をして放浪する」という物語を、シャキッとした演奏で聴かせてくれた。各パートの技術も、そしてもちろんソリスト2人も高い水準だと感じた。
この作品、CDではわかりにくいが、生で聴くと独奏のチェロやヴィオラの音がオーケストラに埋もれてしまわないように配慮して書かれているようだ。
この曲に関しては、私は珍しくカラヤン盤(1975年録音)を好んで聴いてきたのだが、こうやって実演を耳にすると、カラヤンの演奏は表面的な流れを美しく聴かせることに重きを置いていて香辛料が効いていないと思った。これでは各楽器がどのように参加し鳴っているのかという見通しや面白さがわからない。実際、この演奏会では新たな響きの発見があった。
ということで、今日からはジンマン盤を聴いている。
それにしても、この曲の、特に「ドン・キホーテの騎士の本質的な騎士の性格を示す明るく気まぐれな雰囲気」の第1主題(掲載した楽譜の部分。掲載したスコアは全音楽譜出版社のEulenburg版)を聴くと、私は高校1年生の春を思い出す。
高校に進学したとき、私の生活は大きな変化を強いられた。
それまで自宅から徒歩2分で学校に行けた中学生生活から、朝6時に起きなければならない過酷な通学環境となったのだ。
そのときに、目覚まし時計がわりに音楽で起きることにしたのだが、よく使っていたのが「ドン・キホーテ」やベルリオーズの「イタリアのハロルド」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」であった。
どれも朝の目覚めのために推奨できるような作品ではないが……そんなの私の自由だ。
もっと寝ていたいようぉ~、というそんな日々のなか、毎朝のように聴いている作品に良いイメージを抱くわけがない。つまり、「ドン・キホーテ」は私にとって心の闇の音楽となった。音楽作品には罪はないのに……
ところが今から10年ほど前のある日あるとき、無性にこの作品を聴きたくなった。
聴きたくなったらもう我慢できない。メスに飢えた狼(オスの)のように、私はCDを求めに出かけた。そのとき店頭にあったのはカラヤンが指揮している盤だけであった。カラヤンが演奏するCDは 極力買うのを避けてきたのであるが、このときはしょうがなかった。すぐに欲求を満たす必要があったのだ。性犯罪に走らないために。こうして、私はカラヤン盤を買ったのだった。
ジンマン盤はあまり聴いてこなかったが、今日になって視点(耳点?)を変えて聴いてみると、むしろ音量バランスなんかもこちらの方が「真っ当」のように思えてきた。
録音のせいもあるのかもしれないが、細かな音まで良く聴こえてくるし……
うん、間違いないっ!
録音は2003年2月。オーケストラはチューリヒ・トーンハレ管弦楽団。ソロはトーマス・グロッセンバッハー(vc)とミシェル・ルイリー(va)。レーベルはアルテノヴァ・クラシック。カップリングとして、「ロマンツェ ヘ長調AV.75」と「13管楽器のためのセレナード変ホ長調Op.7」が収められている。お値段もお安くなっております。
とかなんとか言って、「ドン・キホーテ」のことを、学生のころは「ドンキ・ホーテ」と区切って言っていた私。はずかし、しくしく……
5月の札幌はライラック祭りがあった。
遅ればせながら、わが庭のライラックも満開、というより盛りを過ぎた。
明日から6月。
昨日からはカッコウの声も聞こえる。
カッコウが鳴くと、種まきの季節だという人(たいていは老人)もいる。
カッコウって素敵だ!
May 2009
そういえば、月曜日の朝(といっても10時ころだが)に新千歳空港のJAL搭乗口付近をフラついていたら、売店のショーケースにけっこう花畑牧場の生キャラメルが積まれたままになっていた。
私に予告なく、急激に下火になったのだろうか[E:down]?
それとも私が見かけたのは“花畑牧湯”とか何とかのまがいものだったのであろうか[E:spa]?
ちなみに私が搭乗するのはいつもANAだが、こうやってJALの方へも散歩に行くのだ。特に、この時間帯は、ANAの搭乗口(9番)の向こう側のJALの搭乗待合スペースがけっこう空いていて、だから喫煙室も空いていて、タバコ吸うにはもってこいなのだ。
でも、変かい?
でも、変でしょ?
はっきり告げて!
さて、今日はまずはバラやコニファーやプルーンに薬を散布しなければならない。前回散布から10日ほど経つので2回目散布にはちょうど良いタイミングだ。
前回に難を逃れた残党どもをやっつけるわけだ。
ああ、ご覧!
あのプクプクしたバラの蕾を!
でも、残念なこともある。
雪どけ時には新芽が出かかっていたにもかかわらず、2株がダメになりそうだ。“ジュリア”と“桜貝”である。これは病気というよりは雪による損傷が原因だと思われる。
それから、前に「復活か?」と書いたクレマチスの“ドクター・ラッペル”。ツルが伸びるにつれ、どんどんクレマチスらしくなくなってきた。どう考えても“ドクター・ラッペル”ではないようだ。私は間違いを認める段階にきたようだ。
ごめん
でも、じゃあこれは何者だろう?ガガイモか?
と書いてきたが、起きて外の様子を見ていても、空は鉛色の雲に覆われ雨が落ちてきそうだし、風が強い[E:typhoon]。
ということで、農薬散布は延期にする。
さほど遠くないところで6時に花火が鳴った。
小学校の運動会だ。
この天気じゃ寒いしかわいそうだなぁ。
昨日の帰りに紀伊国屋書店に寄ったら、村上春樹の新刊「1Q84」(いちきゅーはちよん)が平積みされていた。
おや?
発売前から増刷を決定!と聞いてたわりにはけっこう簡単に手に入るじゃん。
私は文庫派なので買うのを躊躇したのだが、結局上下巻とも買ってしまった。
なぜ、ハードカバーは嫌いなのか?
その理由は、
① 持ち歩きに不便。
② 重いので読むときに腕が過労状態となる。
③ ハードカバーの本は時が経つと、文庫本と違い妙に古臭く感じるようになる。
④ 何しろ高い。
というものだが、今回購入に踏み切ったのは、村上春樹のファンとして早く読みたいというのはもちろんだが、それに加えて、
① 弱ってきた私の眼には、文庫本より文字が大きいので、優しい。
② たまには流行に加わりたい。
ためである。
ただ、前作の「アフターダーク」が私にとってはイマイチだったことに、その後気づいた。
新作にイチモツの不安、いや一抹の不安が残る。
これから読み始めるので内容は知らないが(だから、今日のレビューは小説の内容ではなく、ハードカバーの良い点・悪い点についてということになってしまった)、問題は読みかけの「アンナ・カレーニナ」(光文社古典新訳文庫)の中断。ロシア物は中断すると、その後再び読み始めてもなかなか登場人物を把握できなくなる。
まっ、いいか……
今日の夕方は札響の定期演奏会に行く。
昨夜の公演を聴いた息子は「粗かった」と言っていたが……
聴いていて、自分がその演奏に股間に、いや眉間にしわを寄せるはめになりたくはないが……
今週の月曜から水曜まで東京に出張したという動かしがたい事実については既に書いたとおりである。
私の予想に反して、驚くほどマスクを着用していた人が少なかったという偽らざる事実についても既に書いたとおりである。
さて、月曜日の夜は永田町の「黒澤」で食事。
昼過ぎにお店に席の予約の電話を入れたのだが、相変わらずここの予約受付係の対応(Kさん)は完璧。
社用かどうか、接待だとしたら主賓の方のお名前は?送迎の車のナンバーは、など実に細かなところまで聞き配慮してくれる。ぜひともお会いしてみたいが、予約係の人はお店には顔を出さないらしい。残念である。
今回はコースではなくアラカルトで注文。私も珍しくビールから白ワインに切り替えて料理を楽しんだ。仕上げはもちろんおそば。美味い……
それはそうとして、今回泊まったのは「グレイスリー田町」。新しいホテルである。少なくとも私が1年半ほど前まで東京に住んでいたときには、このあたりは芝浦工大が解体され、更地になり、何か別なものの基礎を作っているところだった。
それがその後1年ちょっとですっかり変貌してしまった。「グレイスリー田町」はその一角の、モノレールのレール沿いに建っている。昔はこのあたりで、よく野良猫が日向ぼっこをしていた。
ホテルは実に快適。フロントの応対も良く、セキュリティーも万全。部屋の備品も完璧。ひとクラス上のホテルのよう。
部屋で使えるレンタル・パソコンはなかったが、2Fに24時間使えるラウンジがあり、ここで3台のノートパソコンが使えるようになっている。私がラウンジでパソコンを利用したときには他に誰もいなかったので快適だったが、それは火曜日の早朝、というか、日の出前の話。宿泊客が多いとき、あるいは時間帯によっては利用しにくいかもしれない。
このホテルで唯一の不満は、部屋の冷蔵庫が全然冷えないこと。去年泊まった北京のホテルの冷蔵庫とどっこどっこいである。新品の冷蔵庫なのに冷えないのが不思議。“最強”にしているのに……。もしかすると、収められている場所のせいで放熱がうまくいかないのかもしれない。
あと、感心したのはトイレットペーパー。
上と下と両方に手をつけないで、ということ。これは良いアイディアだと思う。
とにかく、このホテル、私はすっかり気に入ってしまった。ちなみに、ワシントン系である。
さて、水曜日は羽田発7時の飛行機に乗るため、朝の4時に張り切って起きた。ちょうど2週間前の午前4時に父の呼吸が止まった。
そう考えると、この午前4時が特別な午前4時に感じられた、と書きたいところだが、別に何の感慨もなかった。「あれから2週間経ったのか……」ぐらいの感じである。
シャワーを浴び、身支度をし、他にすることもないのでチェックアウトし、田町駅に歩いていくと、4時54分発の電車に乗れてしまい、浜松町5時ちょうど発のモノレールの始発便に乗れてしまった。
モノレールの始発便はもちろんすいていて、車内には大いなるけだるさと、わずかな新たな1日が始まるという喜びの混合物のような空気に満ちていた。これだったら、運転士が“人工生命M1号”(知ってる人、偉い!)だったとしても不思議ではない感じもしたし、お猿さんが運転手だとしても誰も気づかないんじゃないかと思った。
空港には5時半前に到着し、チェックインが開始されるまでボーッと待っていた。そりゃそうだ。空港で働く人たちの中には、いま私が乗ってきたモノレールで出勤する人もいるんだろうから。
新千歳空港から快速エアポートで札幌に着き、そのホームで朝食。立ち食いのかけそば。自分が自分でないような気分。まだ9時半前なのだ。これまた、父が亡くなった2週間前の「今日」と同じような時間感覚であった。
ということで、何が言いたいのかまとめると、「グレイスリー田町」はお薦めのホテルであり、その近くの「am/pm」のインド人系のおじさん店員は相変わらず元気で、立ち食いそばの汁は意外と熱いからやけどに気をつけなければならない、ということである。
話は大変化して、現在札幌の駅前通りは地下コンコースの工事中である。だから道路も歩道もがたがたである。
その歩道を歩いていると、スピーカーからテープに収めた女性の声が聞こえてくる。
「段差ガあります。ゴ注意くだサイ」
おそろしく平坦で感情のこもっていない声である。
いくらなんでもひどすぎる、やる気のないアナウンスである。
これなら朝置きたての妻の話し方の方がまだマシである(ほんのわずかの差だが)。
こういうテープは耳障りなだけだから流さない方がいい。
だいたい、こんな無感情で、およそ「ご注意」を促しているようには聞こえない、しかも聞き取りにくい音声なら、本来の目的を果たしていないのだから……
それにしても、「黒澤」の予約係の行き届いた対応と、ただ流せばいいっていう感じのアナウンス。相手に配慮する姿勢の満点例と失格例のようである……
村上春樹の新作、まだ書店に入ってなかった……
なかなかジーンとくるタイトルの曲である。
「わが青春はすでに過ぎ去り」(Mein junges Leben hat ein End)。
ネーデルラント(オランダ)のオルガニスト兼作曲家であったスヴェーリンク(Jan Pieterszoon Sweelinck 1562-1621。ただし本姓はSwybbertszoon)のオルガン曲である。
スヴェーリンク(スウェーリンクと表記することも多い)はネーデルラントからイタリアに留学しヴェネツィア楽派の手法を習得、変奏曲形式の発展に貢献した。アムステルダムの教会オルガニストとして名声を博し、「ドイツ・オルガン奏者製造者」と呼ばれ(なんか変な呼ばれ方だけど)、シャイト(Samuel Scheidt 1587-1654)など、北ドイツ・オルガン楽派を輩出したという。
「わが青春はすでに過ぎ去り」は昔、今から30年以上前、毎週日曜日の朝にNHK-FMで放送されていた「オルガンとコーラス」(という番組名だったと思う)のエンディング曲に使われていた。あるいはそれは私の記憶違いで、そのあとの「名演奏家の時間」のエンディングだったかも知れない。
いずれにしろ、毎週毎週、断片だけ耳にして「この曲は誰の何という曲なのだろう」と欲求不満的に感じていたのだが、あるとき、“FM fan”誌で、各番組のテーマ曲一覧みたいな特集があって、それで初めてスヴェーリンクの名と曲名を知ったのであった。
「わが青春はすでに過ぎ去り」はスヴェーリンクの作品の中では最も知られたものであるが、それにしても、こういった曲を探し出してくる番組制作担当者っていうのはたいしたものだと思う。
あらら、“上から目線”的言いざまでしたわ。
曲はわびしい。まさにタイトルどおりである。
除草剤をばらまかれた竹林を、絵心のない人間が水墨画に描いたような、枯れた感がある。わかりにくいか?
実はこの曲は、同名のドイツ民謡を変奏曲にしたもの。ただし、スヴェーリンク自身はドイツに行ったことはなかったそうで、弟子がこの民謡を教えたらしい。
私が持っているCDはナクソス盤で、オルガン演奏はジェイムス・デヴィット・クリスティ。
このCDはスヴェーリンクのオルガン作品集で、以下の曲が収録されている。
トッカータ ハ調 Toccata
大公のバレー Balletto del Granduca
リチェルカーレ Ricercar brevis
おかしなシモン Malle Sijmen
わが青春はすでに過ぎ去り
エコー・ファンタジア イ長調 Fantasia No.12 in A majir "Echo"
緑の菩提樹の下で Unter der Linden grune
トッカータ イ短調 Toccata
我を憐れみたまえ、おお、主なる神よ Erbarm dich mein,o Herre Gott
ポーランド舞曲 Poolsche Dans
録音は1993年。規格番号は8.550904である。
エロ坊主だの、なまくら和尚といった言葉があるが、現代はともかく、昔は坊主というのはけっこうロクなもんじゃなかったらしい。
間宮芳生(Mamiya Michio 1929- )の「合唱のためのコンポジション第5番『鳥獣戯画』」(1966)の第3楽章には、僧侶をからかう歌が歌われる。
この作品について、作曲者は楽譜にこう書いている。
《ここでの鳥獣戯画とは、いうまでもなく、日本の中世がわれわれに残してくれたすばらしい美術作品である絵巻『鳥獣戯画巻』第一巻のことである。
合唱作品〔鳥獣戯画〕は、最初、7人の記録映画作家の同人グループ“映像社”が1966年春に製作した映画「鳥獣戯画」のための音楽として作曲された。約25分の映画で、もちろん絵巻『鳥獣戯画巻』第一巻を素材としている。演出は松川八洲雄である。この映画は、その年イタリアのベルガモ映画祭に出品、金賞を獲得した。イタリアの新聞はこの映画を「日本の古い絵巻を素材とした“オペラ映画”」と呼んで紹介した。
映画完成後ただちに、演奏会用作品への改作に着手、同じ1966年の8月に完成、9月に東京放送合唱団の演奏でNHKより放送初演、10月には、東京混声合唱団の演奏で、ステージ初演された。
絵巻『鳥獣戯画』から、ぼくは、そこに描かれているものたち(動物たちの姿をした、しかし実は、作者が見ていた、日本の中世に生きていた日本人たちに違いない)のさまざまな声をきく思いがする。それがどんな声に聞こえるかは、見る人によっていろいろであり得るだろう。
合唱のためのコンポジション〔鳥獣戯画〕の中の各部分に、ぼくはぼくの視覚的イメージを持っているが、それは絵巻の各部分と必ずしも対応しない。曲を書き進むうちに、それは、絵巻『鳥獣戯画』そのものから、少しずつ離れていったようである。そして、うたい、または聞く人が、この曲の中からなにか視覚的イメージをよび起こされるとして、それがどんなものであろうと、これまた人ひとの自由なのである》
そっか、じゃあ歌詞の内容はよくわからないけど、第3楽章はエロ和尚をからかっていると考えても、それは自由ってことなのね。
作曲者はCDの解説に次のようにも書いている。
《曲の中に基本的に重要なエレメントとして民俗音楽または仏教音楽からの引用がいくつかある。第1楽章には、華厳宗の声明(しょうみょう)、つまり東大寺二月堂のお水取りの法要のうた、第2楽章に愛媛の田の草取り唄、そして第4楽章に新潟の綾子舞のうた》
あらら、第3楽章には触れてくれないのね。
その第3楽章の歌詞は次のようなもの。
チョ、チョ、ヨカノカイナ、ヤーハリソーリョ……
よくわかんない。でもエロ坊主って歌ってはいないようだ。掲載した楽譜の写真に写っている歌詞も見ていただければ、と思う(楽譜は全音楽譜出版社より出版されている)。
編成は混声合唱とコントラバスと打楽器各種(奏者2名)というもの。
まあ、この曲、好きか嫌いかけっこう分かれるところかもしれない。
CDはフォンテックから「間宮芳生作品集」として出ている(FOCD2519)。「鳥獣戯画」の演奏は、作曲者自身の指揮、東京混声合唱団、小島光と加藤訓子のパーカッション、吉田秀のコントラバス。1995年10月に静岡音楽館AOIで行われた演奏会のライヴである。
ちなみに、私は間宮の「合唱のためのコンポジション」シリーズの中では、やはり何といっても以前紹介した第4番「子供の領分」がいちばん好きである。とぉ~っても!
すでにご存知だと思うが、私はバラの栽培が好きである。
バラは決して育てるのが難しくはなく、少なからずの人はそこを誤解している。
バラ栽培は難しいと思っているのである。
しかし、一部の品種を別とすれば、バラはとっても強健で生育旺盛な“木”なのである。
写真は玄関ポーチ横に植えているアンジェラというツルバラであるが(昨年の様子)、こんなにも旺盛なのである。このあと、花柄摘みがいかに大変か、ご理解いただけるだろうか?
ただ、病害虫には気をつけなくてはならない。
実は私が大学時代に卒論研究のテーマとしていたのが、植物同士の相互作用についてであった。アレロパシー(他感作用)というのだが、植物が何らかの物質を放出し、病害虫から身を守ったり、周囲の植物の成長を促したり、逆に抑制したりすることである。
森林浴というのも、植物が放出する物質(フィトンチッド)を人間様が浴びさせてもらい健康になる、あるいは爽やかな気分になる効果があるが、これはアレロパシーとは言えないものの、その恩恵に預かっているということになる。
また、アレロパシーは作物の連作障害の原因になっているとも言われている。
こういった植物の他感作用を利用したものが「コンパニオンプランツ」の活用である。
私だってバラを育てるにあたり、すべてを殺虫剤、殺菌剤に頼っているわけではないのだ。一応は、コンパニオンプランツも活用している。
たとえば、バラの株もとには上の写真のようにハーブの“チャイブ”を植えるようにしている。
チャイブに限らず、ネギやニラ、ニンニクなどの仲間は、黒点病やうどん粉病に効果があるとされている。
また、ナスタチウムはアブラムシに対して忌避効果があるとされている。ただ、ナスタチウム自体の葉にエカキムシ(葉の中に小さな虫がもぐり移動しながら葉肉を食害する)の跡が見えると興ざめなので、私はここ数年植えていない。なお、ナスタチウムにはトラップ植物としての役割もあるという。トラップ植物というのは、その植物を好む害虫などが寄ってくることで、他の植物に害を与えないようにするものを言うが、ナスタチウムはナメクジやカタツムリを引き寄せ、そのおかげで近くのバラの被害が少なくなるという。
ここ数年、私が庭のあちこちに植えているのがパセリである。
パセリはコガネムシに対する忌避効果があると言われている。
ただし、バラとパセリでは樹高、草丈が全然違うので、そのあたりが問題である。
ただ、本当にパセリに効果があるとすれば、土中への産卵や幼虫に対する予防になるだろうから無駄にはならない。何より、収穫した葉は乾燥パセリとしてひと冬のあいだ利用できる。
一般的な縮れ葉のパセリよりもイタリアンパセリ(写真)の方が、繁茂も旺盛で、また香りも強い。
たまたま手にした雑誌「やさい畑」(家の光協会)の初夏号。それに「コンパニオンプランツ講座」という連載記事が載っていた。この雑誌、農家向けなのかもしれない。けっこう書いてある内容は本格的である(なんせ特集記事が「懐かしのマクワウリ34種」ときた)。
それによると、トマトをはじめとするナス科野菜とニラ(あるいはネギなどのユリ科ネギ属植物)の組み合わせは抜群に良いそうだ。
ニラやネギの根には土壌病原菌に対する拮抗菌が住んでおり、トマトの連作障害の一因である土壌病原菌に対し抗菌物質を出すという。他にも、いろいろな病害菌に対して効果が認められているといい、私もこれを読んで、トマトとピーマンの苗を植え付けた後、別なスペースに植えてあったニラを移植した。
その効果はいかに?楽しみである。
ただし、コンパニオンプランツの効果はまだまだ科学的にはっきりしない面も多い。
過度の期待は禁物。
そして必要なときには農薬を散布する。少なくとも私は。
ところで、東京はいつもとまったく変わらない。
インフルエンザってなぁに?って感じである。
空港も、モノレールも、電車も、飲食店も、駅も、街中も、マスクをしている人は花粉症の季節のピーク時と比べると、比較にならないくらい少ない。
みんなマスコミの言うことを信じていないのが素敵である。
何年ぶりだろう?
この曲をきちんとまともに聴いたのは……
ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven )の交響曲第5番ハ短調Op.67(1808)、俗に言う「運命」である。
クラシックを聴き始めた頃、狂ったようにこの曲を聴き、崇め、賞賛していたのに、いつの間にかすっかり積極的に聴こうとは思わなくなってしまった。
押し付けがましいというか、鬱陶しいというか、口やかましいというか、とにかく汗臭いから近くに来ないで、って位置づけになってしまったのだ。
それなのに、突然聴きたくなったなんて不思議だ。
あぁ、夏。汗の季節だからかしら……
「運命はこのように戸を叩くのだ」とベートーヴェンが言ったとか言わなかったとかで、この交響曲は「運命」と呼ばれるようになったのだが、よく考えれば「運命はこのように戸を叩くのだ」、「あっそっ!それで?」って感じでもある。
つまり、それほどベートーヴェンはたいそうなことを言ってはいないんじゃないか、ってこと。4回ノックって、一般的じゃないような気もするし。
そもそも「運命はこのように戸を叩くのだ」とベートーヴェンが語ったと伝えたのは、弟子のシントラーである。シントラーはベートーヴェンの信徒みたいなもので、美しい話にするために嘘はつくし、ねつ造もしたのだ。眉に唾ものでとらえなくてはならない。
三省堂の「クラシック音楽作品名辞典」(井上和男編著。近くいよいよ第3版が発売されるようだ)には、この曲について《第1楽章第1主題の動機について作曲者自身が「運命はこのように戸をたたく」と語ったと伝えられることから「運命交響曲」の通称で呼ばれ、運命との闘いとそれを克服した勝利を表しているという解釈が生じた。この通称は、かつては日本だけのものと思われていたが、現在ではドイツでも用いる。ただし「運命の動機」は「熱情ソナタ」をはじめ他の曲にもあり、弟子のチェルニーによれば、それはキアオジ(鳥)の鳴き声にヒントを得て作られたものであるという》と書かれている。
もちろん、この曲が名作であることに反論するつもりも、ケチをつける気も勇気もないし、むしろ「おっしゃるとおり」と認める私だが、第1楽章は劇的ではあるものの、やっぱり押しが強すぎるなぁ。だからこそ逆に、そのあとの楽章が素敵に響くんだろうけど。
なお、ベートーヴェンの重圧のためになかなか最初の交響曲を書き上げられなかったブラームスが、その第1交響曲(1855-62,68,74-76)の中で「運命の動機」のリズムをたくさん折り込んでいるのは有名な話。
ベートーヴェン自身も、先の辞典で触れられている「熱情ソナタ」(ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調Op.57「熱情(Appassionata)」(1804-05))のほか、たとえばヴァイオリン協奏曲(ニ長調Op.61(1806))の冒頭でこのリズムを使っている。ベートーヴェンにとってはこのころ、このリズムがちょっとした「マイブーム」だったのかも知れない。
CDはたぁ~くさん出ているから、紹介しなくてもいいくらいだが、私は暗いバー、あっ、あの店ね、じゃなくてクライバー/ウィーン・フィル(1974年録音)の演奏が最高だと思っている。カップリングの第7番もすばらしい演奏。
汗臭いといえば、高校の時に同じクラスだったN君を思い出す(良くない意味で)。
夏場の体育の柔道で彼にあたると、窒息しそうになった……
N君元気かなぁ。相変わらず漂わせているのかなぁ。
今日から東京に出張である。
先週の金曜までは、新型インフルエンザの関係でわが社は「発生地への出張は禁止」というお達しが出ていたが、午後になって国のスタンスが変わったことを受け、禁止解除となった。でも。気をつけなさい、って。
マスコミは、政府は、ちょっとインフルエンザについて大げさに騒ぎすぎだ。
とはいえ、実際に自分が出張するとなると、ちょっぴり心配な気持ちになってしまうのが私が小心者である証。
じゃあ、行ってくるぜい!
キリスト教というのはいろいろな面で神秘的で時に不気味である。
絵画でも文学でも音楽でも、西欧の芸術とキリスト教は切り離すことができない。
最近ではあまり見かけなくなった(なりを潜めている?)が、むかし街頭で配られていたマンガ形式の布教パンフなんて、実に不気味だった(どこの宗派か知らないが「アホバの証人」とか「マルモン教会」とかが描かれていた)。
日本にだって「アーメン、ラーメン、チャーシューメン」という言葉が児童の間に浸透しているように(少なくとも私が子供だったころは)、さりげなく暮らしに忍び込んでいるのである。
また、行事としてのクリスマスはその最たる例だろう。
なお、私はクリスマスは好きです!
そのキリスト教を「邪教だ」と言い切った西欧人がいる。
ドイツのニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900)である。その著書「アンチクリスト―キリスト教批判の試み―(Der Antichrist.Versuch einer Kritik des Christentums)」(1895出版)においてである。
こんな本を出版して、よく身の危険を感じなかったものだ(感じたのかもしれないけど)。
その現代語訳として適菜収氏訳によるものが講談社+α新書より出ている。その名もズバリ「キリスト教は邪教です!」。まぁ、しっげき的ぃ~。
これがまた、訳がひじょうに読みやすい文章で、内容もとても面白かった。
私がこの本を購入したのは4年ほど前だが、最近もう一度読み直してみた。
やっぱり読みやすくて面白かった。
まず、そのふるっている訳であるが、たとえばこんな感じである。
《キリスト教の神学者は、「イスラエルの神」から「キリスト教への神」へ、「民族の神」から「善それ自体」に神が変化していったことを進歩であると考えています。まったくおめでたい連中ですね。とても、つきあいきれない》(40p)
いいなあ、この言い回し。おめでたい私は喜んじゃう。
ニーチェはキリスト教と仏教を比較して、こう結論づける。
《……重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。 仏教では、心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そして大切なことは、そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるということです。 そもそも仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありません。ふだんの状態が、宗教的にも完全なのです。 ところがキリスト教の場合は、負けた者や押さえつけられてきた者たちの不満がその土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。 キリスト教では、毎日お祈りをして、自分の罪についてしゃべったり、自分を批判したりしている。それでもキリスト教では、最高の目標に達することは絶対にできない仕組みになっているのです》(51p)
まあ、ニーチェの説を支持するかどうかはともかく、読み物としては痛快。
ところで、ニーチェといえば「ツァラトゥストラはかく語りき」が有名。まあ、実際に読んだことがある人は少ないとは思うけど(もちろん私も読んだことはない)。
で、これに基づいて書かれた音楽が、R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」Op.30(“Also sprach Zarathustra” Tondichtung frei nach Friedrich Nietzche 1895-96)である。
前に小説「幼年期の終わり」について書いた記事でこの曲についても触れたが、 ツァラトゥストラというのは、ゾロアスター教の教祖といわれる人物の名である。
曲は8つの部分から成るが、なにしろ冒頭部分が突出して有名。
正直言って私も、この曲については冒頭部分以外あまりなじみがない。
CDは、ショルティ/シカゴ響の演奏、というよりも録音が最高!
床が震える重低音、金管の美しくも力強い響き、ティンパニの歯切れの良さ、どれをとっても最高である。
それにしてもこの曲、映画「2001年宇宙への旅」で冒頭部分が使われてしまったがゆえに、逆に全曲はメジャーになり切れないでいるかもしれない。
もう2009年だし、評価は変わるのか?
父が棺おけに納められたのは先週の木曜日のことであった。
日にちが経つのは早いものである。
何となく自分の疲れが取れきれていないのは、この速度に体がついていっていないせいだと思う。人間、年を重ねるごとに時の経つのが速く感じるようになるのに、体の方はニブニブちゃんになっていくのだ。そのくせ、私の場合、落ち着きがないのは小学校以来変化していないのが、これまた不思議である。
それにしても、このたび父の亡骸を死装束に着替えさせてくれた納棺師の、その着せ替え技術は見ていて感動ものであった。
湯灌の間はリンを一定間隔で鳴らし続けなければならない。
私はその任務を次男に課した。
彼は高校で、パーカッションではないものの、吹奏楽部に属しており、私の家族の中では、音楽的にはいちばんセンスがあると思ったからだ。
ところがである。
「チーン…チーン…コンッ…チーン」と、けっこうはずすではないか!
スカ打ちが混じるのだ。この下手くそめ!
遺体の顔を拭いてあげる儀式で次男の番のときに、私は彼に代わって打楽器奏者を務めたのだが、おやっ?おやおやっ?
いざ叩いてみると、結構難しい。私はコン、コンとスカ打ち連打をしてしまったほどだ。
悔しい。
もう一度チャンスを与えてほしいくらいだ。
次男に言わせると、失敗したのは、納棺師の着せ替えのあまりの見事さに見とれてしまいリンの方がおろそかになったということだが(とってつけたような言い訳にも聞こえる)、私の場合は真剣にリン打ちに取り組んだにも関わらずスカってしまったのだ。
やれやれ……
それにしても、本当に見事な着せ替え技術であった。
他の納棺師の作業をもう何十年も見ていないので比較はできないが、この比較的若い(わたしよりはるかに若い)女性納棺師は、遺体の肌を一切晒すことなく、完璧に着替えさせた。
もし、対象が父の遺体ではなく、生きている私だったなら、私は能官、いや、官能の波に飲み込まれたに違いない。
これに感動した次男は、「納棺師になってみたいなぁ」と、将来歩むべき選択肢を広げていたくらいだ。実に短絡的ではあるが……(私は後日、それよりも火葬場に勤めてはどうかと勧めておいた。私ならそっちを選ぶ)
さて、このリンが鳴り続けているときに私が思い起こしていたのは、間宮芳生(Mamiya Michio 1929- )の「オーケストラのための『タブロー'85』」(Tableau pour Orchestre '85)である。
この作品については以前にも触れたことがあるが、曲のなかで鳴り続ける金属打楽器が、私には仏教的な儀式のイメージを連想させる。
その打楽器のリズムは、今回の湯灌のときのようにゆったりとしたものではないが、鳴り響くリンの音にはたとえスカが混じっていたとしても、「タブロー'85」を想起させた。
「タブロー'85」の打楽器部分の楽譜を一部サンプルで載せておく(楽譜は全音楽譜出版社から出ている)。
仏教的な儀式と書いたが、それは私にとってお盆の雰囲気や、墓参りの雰囲気にも通じる。恐ろしくはないが、できれば避けたい雰囲気、行事だ。
間宮は生まれは旭川だが、青森で育っている。
私の母は青森出身で、幼少のころ、祖父の葬儀に連れて行かれたことがある。この楽曲に「青森的」なものがあるかどうかはわからないが、青森の葬儀での潜在的な記憶が、私を刺激するのかもしれない(ちなみに、そのときはまだ土葬であった)。
それを別としても、この曲は実に色彩的である。“タブロー”、すなわち“絵”と名づけられているのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、その色彩感は幻想的でもある。打楽器群が重なった響きは夢の世界のようだ。
ところで、あなたの夢はカラー?モノクロ?
また、この曲にはストラヴィンスキーを思わせるようなところもある(私には「兵士の物語」に似ていると思われるところがある)。
間宮芳生には「タブロー」と名がついた作品が3曲ある。
「朳(えんぶり)―オーケストラのための2つのタブロー」(1957)、「オーケストラのための2つのタブロー'65」(1965)、そして「オーケストラのタブロー'85」(1985)である(その後、4曲目となる「オーケストラのためのタブロー2005」が書かれている)。
作曲者によると、「3曲の間に何か共通の性格があるかと問われると、あまり明確な答えはない。あるとも言えそうだし、特にないとも言える」という。
「タブロー'85」は交響楽振興財団の委嘱で作曲された。
この曲の後半部について、間宮は「木管とトランペットの合奏による、ヘテロフォニックな、たゆたう多声旋律のルーツは南太平洋の島々のパン・フルートの合奏の音楽で、その特徴はたえざる失速傾向と、失速しながら濃度が増してゆく気分」と述べている。
CDは井上道義指揮、東京都響によるライヴ盤がフォンテックから出ていたが(FOCD3306)、現在は廃盤である。再発売を期待したい。
といっても、ドクター・ラッペルのことをご存知な方は多くないかもしれない。
Dr.Ruppel。
ラッペル博士というのは、人類を破滅に陥れるような秘密の研究を地下で行なっている人物のことでは全然ない。
だから死んだと思っていたのに実は生存していたからといって恐怖に陥る必要はない。
ドクター・ラッペルというのはクレマチスのパテンス系の品種である。
紫色の、私とは正反対の派手な花を咲かせるのである。
それが去年の春は新芽を一つも出さずに終わった。どう考えても枯死である。
私は夏になって「ご臨終です」と本人に告げ、地上部を切って捨てたのであった。
ところが今朝になって気づいたのだが、どうやら「ラッペル博士」らしき芽が地上から伸びてきているではないか!
昨年はまったく姿を現さなかったのに不思議である。ゆえに、これが実はツル性の単なる雑草である可能性も高い。しかし、クレマチスに似ている。
経過観察が必要である。
クレマチスというと、昨日「サカタのタネ」からお手紙が届いた。
「おやっ?代金未払いのものがあっただろうか?」と緊張した面持ちで封筒を開けると、中には先日送られてきたクレマチスの「ピクトンズバラエティ」(モンタナ系)についての恐るべき秘密が書かれてあった。
要は、お届けした苗は「ピクトンズバラエティ」ではなく、間違って「ベラ」を送ってしまった、という極めて珍しい(と思われる)お知らせであった。
全然気づかなかった。
だから、このブログでも「ピクトンズバラエティが咲きました」と、喜び勇んで写真も載せた。
ところが違ったのである。
あらためてカタログを見ると、本当だ、ピクトンズ・バラエティはわが庭で咲き誇っている(といってもまだ一輪だけど)花よりもピンク色が濃い。どうやらサカタさんが言ってるのは本当のようだ。カタログで隣に載っている「ベラ」の方が正しい気がしてきた。
気の毒なことに、「今回間違って送ったベラはそのままお育てください。代金は返金もしくは次回注文のためにお預かりします」ということだ。なんだか申し訳ない。
これがバラだったら「注文と違う」とちょっぴり憂鬱になるところだが、クレマチスだから憂鬱にならない。まったくハラなんか立たない。かえってタダで苗をもらっちゃったことになって申し訳ない気持ちでいっぱいである。
それにしても、ドクターだのベラだのと、妖怪人間製造の世界の話のようだ。
カタログでは、ベラは限定150株、ピクトンズバラエティは限定140株の販売。私のところに来たお手紙には、すでにピクトンズバラエティは品切れとも書かれてあった(だからタダにしてくれたのかもしれない)。じゃあ150しかなかったのに、私のところにベラが送られてきて、本来ベラを注文した人には行きわたったのだろうか、なんて余計な心配までしてしまうけど、考えると頭が混乱してくるからやーめた。
急にブルックナーの8番が聴きたくなった。
私はブルックナー(Anton Bruckner 1824-96)の交響曲のなかでは、6番と8番(ハ短調WAB.108(1884-87、改訂1889-90))が特に好きである。
8番の演奏ではショルティ/ウィーン・フィル(デッカ。1966年録音)のものが好きである。
「また、ショルティかい!」なんて言わんでおくれ。だって好きなんだもん。ヴァントなんかより好きなんだもん。
許光俊は「生きていくためのクラシック」(光文社新書)のなかで、ショルティの録音された演奏は、デッカという鮮明音質レーベルに録音したために流れが悪くなっている、と書いている。つまり、マイクを林立させミキシング技術によって音質優先にすることで、ショルティが作る音楽の流れが殺されてしまっていた、というのである。
ふ~ん。
あんまり気づかなかった。
ただ、許氏はそれで(生演奏を聴くまで)ショルティをあまり評価していなかったのに対し、私はそれに気づかずすっかりはまってしまった、ってわけ。
じんせい、いろいろ。かちかん、さまざま。
ということで、ドクター・ラッペルははたして本当によみがえったのだろうか?
補足)妻はこの芽を見て「雑草だ!」と断定した。私も、そんな気がしてきた。
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