全国的にお盆休みが終わったはずなのだが、昨日の朝の通勤電車はすいていた。まだお休みの人がけっこういるようだ。こんなことなら私も便乗すればよかった。
昨日は都合のいいことに妻はパートの仕事があったし、次男は高校が始まった。長男はどうせ昼まで起きてこない。こんな素敵な日に、暦どおり仕事に来た私は勤勉すぎる。
ところで、私がクラシック音楽を聴くのが好きだと初めて知った人の10人中12人が、「えっ、じゃあ何か楽器をやるのですか?」と聞き返してくる。世界が私に対して陰謀を企てているのではないかと思うほど画一的である。
「いいえ、やりません」と私は答えるが、どうしてそう答えるかというと、それが真実だからである。
でも、どうしてこんな変な質問をしてくるのだろう。
なぜ私が、誰かに楽器をくれてやらねばならないのか?私は、カスタネットやタンバリンを恵まれない人たちに配って歩くヘンテコおじさんではない。だいたい恵まれない人がタンバリンをもらって喜ぶだろうか?
さらに図に乗って、冬の焚き木にするからとピアノを要求されたらどうしろというのだ!音楽を聴くことが好きなのと、楽器をプレゼントするのとは別問題であることを、きちんと区別して欲しいものだ。
次に必ずといっていいほど寄せられる質問は「誰が好きなのですか?」である。誰が、と問われてもこれに答えるのは簡単なことではない。
「新千歳空港全日空14番カウンターのお姉さんです」と答えればいいのか、それとも将来のことを考え、「もちろん部長です」と答えればいいのか、あまりにも選択肢が広範囲にわたる質問だからだ。
「いえいえ、おばかですね。作曲家のことです。誰が好きですか?」という質問に答えるのにも躊躇する。
この質問の背景には、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンやブラームスといった答えを期待しているのが明白である。しかし、私が愛好する作曲家はドイツどっぷりではない。「ショスコフィエノフリャードヴィッチスキーです」と、どうして答えることができようか!だいたいそんな作曲家は私の知り合いにはいない。
正直に「マーラーとショスタコーヴィチです」と答えたとしても、クラシック音楽に全く興味のない人なら「それは美味しいですか?」と気のない返事をし(「余計なことを聞いてしまったぜ」という後悔の念が瞳に表れている場合が多い)、答えの内容が不正だということで会話を強制終了されてしまう。
もっとタチが悪いのは、中途半端な知識を持っている相手の場合である。「ああ、あの暗めの音楽ですか……」と言うのだ。
ウルトラにタチが悪いのは私に対して悪意を抱いている場合だ(たいていはそうだ)。「マニアックでついていけない」と言う。ついて来て欲しいなんて私は一言も言っていない。こんな質問者は、まるで通り魔のようだ。
超ウルトラに最悪なのは、「おお、私もマーラーとショスタコーヴィチが好きです」という相手だったときだ。マーラーとショスタコーヴィチが好きな人間にまともな奴がいるケースはレアなのだ。そんな人とは付き合いたくない。
以前、心理学系の公開セミナーに参加したことがあるが、自己紹介のときに「音楽を聴くのが好きだ」と答えたら、講師が「作曲家は誰が好きなんですか?」と、余計な食いつきをしてきた。
「マーラーです」と答えた。研修3日目になって、参加者個々にコメントが出されたとき、私は「マーラーが好きだというところからしても、生い立ちに問題がある」と言われた。
確かにマーラー自身がそううつ病であったことは確かだが、その音楽を好きだからといって、なぜ私の生い立ちに問題があるというのだろう。そもそも私の生い立ちに潜む問題とは何なのだろう?可愛すぎたとか優秀すぎたということだろうか?謎は深まるばかりである。
この理屈で行けば、チャイコフスキーが好きな人はホモの可能性があるし、モーツァルトが好きならば社会常識に欠けるし、ワーグナーが好きなら女癖が悪いことになるし、ショパンが好きなら結核の可能性がある。
この研修はうさん臭いものではなかったが、ちょっと洗脳がけるようなところはあった。おかげで純粋な私は研修終了時に感極まって、万歳をしてしまったほどだ(他に誰も「ご唱和」してくれなかったのが、いまでも心残りだ)。
話が横にそれてしまった。というよりは本題が何かわからないまま進んでいる。とりあえずはこの話題はやめよう。
さきほど「誰が好きか」という話になったが、デビューしたての頃の竹下景子はかわいかった。かわいい中にも色気があった。
彼女が出ていた映画に「祭りの準備」というのがある。ほんのわずかだが、彼女のヌード・シーンもある(ただし、乳首のアップは別撮りだと思う)。
この映画は、江藤潤が演じる田舎町の信金職員が、その街の閉鎖性が嫌で飛び出すというもの。映画の中のクソ暑い季節もアンニュイさをいっそう醸し出している。
また、都会から来たというオルグ青年。竹下景子は彼が開く勉強会でその思想に感化されるのだが、その活動で“うたごえ”が利用されていたことも(歌を手段にした青年共産同盟組織拡大活動)この映画からよくわかる。
独特の閉塞感が漂う映画である。
August 2009
スクリャービン(Aleksandar Scriabin 1872-1915)が、「神秘主義」へ突っ走り、はっきり言えば“おかしく”なりつつあったことは先日書いた。
で、今日はそのあとの作品である、交響曲第4番「法悦の詩(Le Poeme de l'extase)」Op.54(1904-07/08)と交響曲第5番「プロメテウス―火の詩(Promethee - Le poeme du feu)」Op.60(1908-10)。
この2曲の「交響曲」というのは通称であって、もはやそういう形式ではなく、スクリャービン独自の“詩曲”の概念で作曲されている。その概念の意味がよくわかんない気がしないでもないけど、どちらも単一楽章の曲である。
「法悦」なんて言葉はわれわれはふだん使わない。少なくとも私は使わない。けど、原題を見ておわかりのように、エクスタシーのことである。
あぁ、法悦!
また、「火の詩」では、合唱とピアノ、そして投光(色彩)オルガンなるものが使われることになっている。色彩と音楽の融合である。
交響曲第4番「法悦の詩」は、おそらくスクリャービンの作品の中では最も知られているもの。良いか悪いか、気持ちいいか気持ち良くないかは別として、スクリャービンの個性というものがこの曲で完全に発揮できた(とされる)。
スクリャービンは、聴衆を従来の音楽の枠組みから解放し、エクスタシーを通じて至高の世界に導こうとしたのである。
「神秘の和音」がたっぷりと使われているという。私には「あっ、ここだ。おっ、こんなとこにも」とわかりはしないのだが、独特の響きは「神秘の和音」のせいなのだろう。同じモティーフがこれでもかこれでもかと、しつこく繰り返される。
何度もいっちゃった……って感じか?
「法悦の詩」からさらにエスカレートしたのが交響曲第5番「プロメテウス―火の詩」だが、この曲についてH.C.ショーンバーグは「大作曲家の生涯」(共同通信社)で以下のように書いている。 《この作品には、世界の始まりと宇宙における原子の踊りで終わる、精巧な標題が付されている。「プロメテウス」では、フル・オーケストラのほかに、ピアノ、合唱、投光オルガンが用いられた。それは音楽と色彩の合成を目指すスクリャービンの、最初の試みであった。
彼が「プロメテウス」のために作成した設計図は、下記の通りだった(注:掲載した表)》
ただし、この曲が初演されたときには、投光オルガンは使用不能として用いられなかった。
交響曲第5番と並行して、スクリャービンは「神秘(ミステリウム)」の構想を練っていた(「プロメテウス」の初演を指揮したクーセヴィツキーは「神秘」の完成に必要な向こう5年間、スクリャービンに毎年5,000ルーブルを支払うことに同意していた)。
しかし、作曲はまったく進まなかった。音楽以外の仕掛けのことばかり考えていたのだ。
なんでも、「神秘」のクライマックスでは、宇宙の壁が崩壊するというのだ。スクリャービンは、「神秘」の成功のあとは法悦の境地で息がつけなくなるだけだ、と言っている。
しかし、計画はスクリャービンの頭の中にとどまったまま終わりとなった。唇にできた悪性腫瘍に起因する敗血症のために、死んでしまったのだった。
ところで、「神秘主義」に傾倒しだしたあたりから、スクリャービンにはおかしな兆候がでていた。
《幾つかの奇癖が生じた。ひんぱんに手を洗うようになったし、金銭に触れるときには必ず手袋をはめた。化粧室で女優並みの時間を過ごし、シワがふえていないか、禿げが進行していないかを気にした。極度の心気症(ヒポコンドリア)を患い、不道徳ぶりはワーグナーの域に達した。そしてワーグナー同様、自己の行動の合理化、正当化が容易であることに気づいた。―「したいことすべてをする方が、したいことをしないよりもはるかに困難なのだから、好きなことを行なう方がより高尚である」》(同書)
こうして、教え子を誘惑し、モスクワで大スキャンダルとなった。
その教え子というのが、「神聖な詩」の各楽章の標題を考えたタチャーナ・シュレーザーである。
それにしても、「したいことすべてをする方が、したいことをしないよりもはるかに困難なのだから、好きなことを行なう方がより高尚である」って、使えそうである。周囲が自分をまともに見てくれなくなる危険性を大いにはらんでいるが…… さてCDだが、私はLP時代からマゼールの演奏を聴いている(と言っても、「神聖な詩」のときに書いたように、「神秘主義」時代のスクリャービンを「あぁっ、気持ちいいっ!」って聴けるようになったのはここ1年ほどの話である)。
オーケストラは、「法悦の詩」がクリーヴランド管弦楽団(1978年録音)、「プロメテウス」がロンドン・フィル。「プロメテウス」のピアノはアシュケナージ、合唱はアンブロジアン合唱団である(1971年録音)。
このCDには、美しいピアノ協奏曲嬰ヘ短調Op.20(1896)も収められているが、「法悦の詩」「プロメテウス」のあとにこのコンチェルトを聴くと、なんてノーマルなのだろう、と改めて「神秘主義」音楽のぶっとび度を認識させられる。
なお、現在販売されているCDは掲載したデザインではなく、LPのときと同じジャケット・デザインとなっている(こっちの方が断然良い)。
おととい、きのう(14日、15日)と、やっと晴れた。
ずっとずっと、ずぅ~とバラたちに殺虫剤+殺菌剤を散布できずにいて、イライラが募っていた私だが、ようやっと出動の機会がやってきたのだ。
とはいえ、晴れたと言っても朝はなんとなく湿っぽい。
だから、近隣住民が起きる前の早朝に散布したいものの、それができない。
困った。
ところがである。
14日の日中、暑いからきっとどこの家も窓を開けているんだろうなと思い見渡すと、両隣とも完全密封住宅状態である。
なるほどぉ。お盆でどこかに(想像するに墓か親戚の家)出かけたのだろう。
しめしめ。
空き巣なら狂喜乱舞するだろう。
私も噴霧器の準備にとりかかった。おもわず鼻歌がでてくる。
ということで、農薬散布を決行した。ちなみに、無防備なわが家は窓を開けたままにしており、おそらくはわずかに農薬が入り込んだに違いない。
それにしても、適正に農薬を散布することに、毎回毎回ここまで罪悪感を感じる必要があるのだろうか?
なんだか村上ファンドの「お金儲けって悪いことですか?」という言葉が脳裏をよぎった。
目についたアブラムシには、これまでも局所的に殺虫スプレーで攻勢をかけていたが、事実上はずっと放っておいたので、いるわいるわ、アブラムシやら何やらが。
かつてのカダンのCFの撮影現場にでもなりそうな様相を呈している(あのCMソングは傑作である)。
それでも、バラたちの一部はそんなことにめげずに再び花をつけ始めた。 私が現在栽培しているバラの中で、トゲがいちばん密で鋭いコンラッド・フェルディナント・マイヤーが花を咲かせた。春には1~2輪しか咲かなかったのに、今回は張り切っている。
このバラ、かなりワイルドな性質で、アーチのてっぺんまで蛇女の髪の毛(つまりヘビ)のように枝を伸ばし、花を咲かせている。香りはけっこう強い。
また、一季咲きのはずのピエール・ドゥ・ロンサールが再び咲き始めた。
季節を間違えたのか、麻薬でノリピったのか知らないが、この美しいバラが年に一度しか咲かないということがもったいない話なのだ。狂ってで も、勘違いでも、特別サービスでも何でもいいから、こうやって毎年返り咲いてほしいものだ。トレビアァァ~ン。
けっこう地味にずっと咲き続けているのがカレイドスコープである。
カレイドスコープとは「万華鏡」の意味である。
花の色が徐々に変化するのでこの名がある。
[E:note] ところで、13日、雨の中、墓参りに行ってきた。
実家には立ち寄らずに帰って来た。
帰り道、われわれ墓参団の一行(つまり家族である)は、ジャスコの桑園店に立ち寄った。
常設なのかどうか知らないが(この店に来たのは2年ぶり2度目である。それくらい来ない店なので良く知らない)、1階にCDやDVDを半額で売っている店があった。中古ではなく新品である。
バーンスタインがフランス放送響を振った、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」のCDがあったので買った。定価が1,300円。その半額だから650円である。私にとって、こういう売り方をしている店は初めてである。
この曲、この演奏については、'08年1月3日に書いてあるが、バーンスタインはこの曲をニューヨーク・フィルとも録音している。その演奏は、最後にタンバリンがステージを右から左に走りまわっているような異様な音場であった。
フランス放送響の演奏は、そんなことはない。
これはなかなかな名演である(私はこの演奏をエア・チェックしたものでしか聞いたことがなかったが、CDで聴くとけっこうな力強さがリアルに伝わってくる)。
1976年録音。ヴィオラ独奏はドナルド・ダック、じゃあなくて、ドナルド・マッキネスである。
とはいえ、半額で処分してるんだから、廃盤である。
自分だけ650円で良い思いしてごめん……
作曲家たちがおくった人生を伝記などで読むと(伝記って言葉自体すっごく懐かしい響きがする)、それぞれけっこう波乱に満ちている。
やばっちい性格の人もいる(たいていがそのようだ)。
梅毒で死んだり、毒キノコを食べて死んだり、人の妻を奪ったり、ある未亡人が好きでたまらなかったのにプラトニックで終わったり、ホモだったり、誤射されて死んだり、恐妻家だったり、精神に異常をきたして死んだり、人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ咲き乱れるの、である。
そんななかでもなかなか怖い部類に入るのがスクリャービンである。
なんせ神秘主義に溺れたのである。
神秘主義って書くと神秘的だが、はっきり言って狂気である。
スクリャービンの作曲スタイルは1898年を境として変わると、H.C.ショーンバーグは「大作曲家の生涯」(共同通信社)のなかで書いているが、まず重要なことは、ショーンバーグはスクリャービンを“大作曲家”として位置づけていることである。ショーンバーグ様が言うのだからそうなのだろう。 1897年から98年にかけて作曲されたピアノ・ソナタ第3番嬰ヘ短調Op.23は、《音構成よりも色彩の点描に重点を置く傾向を示している。輪郭はあいまいで、内容も秘密めいた響きを持ち始める》(「大作曲家の生涯」。以下《 》の引用は同書からによる。スクリャービンの写真も同書から)作品となっている。
《スクリャービンはこの作品を Etats d'Ame (霊魂の状態)と呼んだ。これは彼の音楽における、と言うよりも、あらゆる音楽における決定的断絶であった》のである。
彼が神秘主義にたどり着いたのは、ニーチェを読み始めてからであった。さらに、ヘレナ・ブラヴァツキーの神智学的著作にも影響を受けた。
《音と恍惚、神秘的儀式としての音楽、といったものを彼は考え始める。パルジファルが東洋にやって来たような感じだった。神智学の術語がスクリャービンの会話に目立ち始めた。―「これらの古代の秘儀のなかに、真の変容、真の秘密、聖なる感情が存した」》
いやぁ~ん、怖いぃぃぃっ!
その後、交響曲第3番ハ長調Op.43「神聖な詩(Le divin poeme)」(1902-04)において(そして、ピアノ・ソナタ第4番において)、スクリャービンは作曲上の決まりを無視しだした。「神秘の和音」なるものを創り出し、これをもとにその後の作曲が行なわれた。「神秘の和音」というのは、ハ、嬰へ、変ロ、ホ、イ、ニからなる和音である。
交響曲第3番は、《「人の姿をした神」、官能の喜び、神々の遊び、霊魂、聖霊、創造的意志、などを表現している》。
3つから成るこの交響曲の各楽章には、愛人タチャーナが与えたという題がついている。
第1楽章 闘争(Lutte)
第2楽章 快楽(Volupte)
第3楽章 神聖な遊び(Jeu divin)
やれやれなカップルである。
まっ、だいぶノリピっているが、神との闘争、人間の欲望、神と合一した人間の浄化された快楽、を表すのだそうだ。神聖な遊びって、合一し浄化したものなのか……
《スクリャービンは「神聖な詩」を自己の作曲活動における転機と考えた。―「この曲によって初めて私は音楽のなかに光明を見出し、陶酔と高揚、息がつまるような幸福感とを味わった」。総譜には「輝かしく、徐々にきらめきを増すように」よいった指示が随所にちりばめられた。スクリャービンは、音が直接色彩に翻訳されるという稀有な遺伝的体質「共感覚」の持ち主だったのかもしれない。共感覚の持ち主は、音楽を聴くと必ず眼前に色彩を見るのである》
音楽は力強い低い金管による“叫び”で開始される。
そのあとは、まさに音の饗宴。神秘的としか形容のしようがないオーケストラの響きが左右の耳を通じて脳天までを支配する。
私はスクリャービンが「おかしくなる前」の第1番、第2番の交響曲がとても好きで、実は3番以降の交響曲は長い間敬遠していた。しかし、あるとき第3番の魔力を知ってしまった。
来ました、来ました、神秘様が来ましたって感じである。
心配は不要。間違っても怪しげなスピリチュアルのセミナーなんか受けないから。
「スクリャービンに対するときのポーズ」というブログ・タイトルで、私が第1、第2交響曲を取り上げたのは、昨年'08年3月20日のことだ。
その記事の中で私は、「正直なところ、私もこの「神秘時代」に突入した彼の作品は、あまり恋心を抱けない」と書いている。
ところがそれから1年半弱経った今、私は「神秘主義」傾向のスクリャービンの作品に淡い
恋心を抱いてしまっている。
何があったんだ、MUUSAN?
そのあと、いろいろあったのよ。
いや、心配は要らない。うさんくさいスピリチュアルの世界に入り込んだりはしないから。
この記事のときに、村上春樹が「羊をめぐる冒険」の中で、以下のように書いてある部分を紹介している[E:aries]。
《列車は二両編成で、全部で十五人ばかりの乗客が乗っていた。そしてその全員が無関心と倦怠という太い絆でしっかりと結びつけられていた。(中略)太った中年の女はスクリャービンのピアノ・ソナタに聴き入っている音楽評論家のような顔つきでじっと空間の一点を睨んでいた。僕はそっと彼女の視線を追ってみたが空間には何もなかった》(講談社文庫・下巻100ページ) そうなのだ。スクリャービンってそんな感じを思わせる音楽を書いたのだ。
ただ、あまり構えないで聴くと、そこには甘美で官能的で性欲を満たしてくれるような世界が広がる。もっとも、スクリャービンを聴いていて思わず勃起してしまっていた、なんて話は聞いたことがないから過度の心配はしなくてよろしい。
交響曲第2番の緩徐楽章では、鳥[E:chick]のさえずりのようなフルートの音が美しかったが、第3番においても第1楽章からさえずりが聴こえてくる。これがまた、自然の偉大さを訴えかけてくるかのよう。吉松隆の第1交響曲は「神聖な詩」の影響を受けているんじゃないかな、とも思ったりもする。
私が現在持っているCDはインバル/フランクフルト放送響の全集ものだが(フィリップス)、現在は廃盤。きれいな音響で、とろとろした官能美とは違うが、きらきらした美の空間が広がる[E:shine]。
この曲を私が知ったのはスヴェトラーノフがおそらく1960年代に録音した演奏だった。そのLP(メロディアの廉価盤)を持っていたのだが、う~ん、冒頭の金管の音しか記憶にない。肝心のエロス的世界はどうだったんだろう?その後耳にする機会がないが、今度買ってみよう。記憶違いで、案外、ウッフン、アッハンですごかったりするかもしれない。
私は大学浪人時代、浪人の身分でありながら大胆にも家庭教師をしていたことがある。
人の世話をしようとしているから、自分が落ちるのに……
近所の中3の女の子で、週に1度、私の家に来て勉強をしていた。
ある日、それはその女子中学生が来る日だったのだが、その日は再放送の「トムとジェリー」で「へんてこなオペラ」が流れる日だった。
「トムとジェリー」好きの私だが、特に「へんてこなオペラ」は最高傑作と思っている。
その放送時間のときは、女の子に自習を課し、テレビを観た私であった。
家庭教師の時間中に自習とは、しかも漫画を観るためにとは、実にふとどき?
いやいや、女子中学生に手を出してしまうことと比べたら、実に健康的な話ではないか!
ちなみに原曲はロッシーニ(Gioacchino Rossini 1792-1868)の歌劇「セヴィリアの理髪師(または無益な用心)(Il barbiere di Siviglia,ossia L'inutile precauzione)(原題「アルマヴィーヴァ」(Almaviva))」(1816初演)のなかの、「私は町の何でも屋(Largo al factotum cita)」である。
この曲は理髪師のフィガロ(歌手はバリトン)が歌うもの。
アニメでは見事に「何でも屋」ということも踏まえている。すばらしい!
お薦めCD?
そんなのない。これがいちばんだっ!(ってことはないけど……)
ちなみに、「セヴィリアの理髪師」の続編にあたる物語が「フィガロの結婚」である。
おとといのブログでこの5月の父の死と初盆について書いたが、その投稿時刻は4:44であった。まるで霊柩車のナンバーのようだ。でも、私はそれを狙ったわけではない。単なる偶然である。
なんでそんなに朝早くに起きているんだ?という疑問を持たれるかもしれない。朝刊配達のバイトをしていると誤解している人もいるかもしれない。早起きして朝ごはんのおかず、山菜やきのこなどを探しに行っていると涙してくれる人がいないとも限らない。
でも違う。そうではない。昨日の朝は出勤前に仕事上のことで早くに立ち寄らなければならない場所があったのだ。それだけの話。
そして、稀なことに、また私はハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809)の曲を聴いた。乗客たちの無気力感が充満した早朝の電車のなかで。そんななかでも、必ず1両に1人か2人、意味もなく終始ニヤニヤとしている男性が生息しているのは不思議である(女性はまずいない)。 「十字架上のキリストの7つの言葉(Die sieben letzten Worte unseres Erlosers am Kreuze) 」(1785)。序奏と7つのソナタ、そして終曲「地震(Il terremoto)」からなる管弦楽作品である。
ハイドンは、四旬節にスペインのカディス大聖堂で演奏するために注文を受けてこの曲を作曲した。本来はバリトンのレチタティーヴォで歌詞が歌われたそうだが、その部分は紛失してしまっている。
この典礼では、キリストの7つの言葉が語られ、それぞれが読まれたのちに瞑想の時間が持たれる。その瞑想のときに演奏されるために書かれた音楽である。
また、ハイドンはこの曲をその後、同名の弦楽四重奏曲とオラトリオに編曲している。弦楽四重奏曲のほうは第50番から第56番の7曲からなるもので、1787年刊。作品番号は51である。この曲については以前、「ハイドン in ねじまき鳥」のタイトルで記事を書いた('08年5月2日付け)。
オラトリオの方は1794年作曲で、台本はJ.フリーベルト。'96年に歌詞のみを作曲者とG.ヴァン=スヴィーテンが改訂している。
このようにもとのオーケストラ作品を2回転用している。
よほど気に入っていたのか、使い回ししやすかったのか……(前者です、ほぼきっと)
曲(管弦楽版)は、次の曲から成っている。
1. 序奏 二短調
2. 第1ソナタ変ロ長調
「父よ、彼らをお赦し下さい」(ルカ 23章34節)
3. 第2ソナタ ハ短調
「あなたは今日、私と共に楽園にいる」(ルカ 23章43節)
4. 第3ソナタ ホ長調
「女性よ、これがあなたの息子です」(ヨハネ 19章26節)
5. 第4ソナタ ヘ短調
「わが神よ!なぜ私を見捨てたのですか」)(マルコ 15章34節)
6. 第5ソナタ イ長調
「わたしは渇く」(ヨハネ 19章28節)
7. 第6ソナタ ト短調
「すべてが終わった」(ヨハネ 19章30節)
8. 第7ソナタ変ホ長調
「父よ!あなたの手に私の霊をゆだねます」(ルカ 23章46節)
9. 終曲「地震」ハ短調
深刻な序奏で始まるが、全体を通じて「温かく見守る」ような優しい音楽。十字架上でのイエスの最後の言葉に関わる音楽なのだから、重い雰囲気に支配されていそうなものだが、そういうところはない。
《彼の作品ほど、ノイローゼ的要素のない音楽を考えるのはむずかしい(おそらく、この点で匹敵する唯一の音楽作品は、ドヴォルザークの音楽であろう)。ハイドンの音楽は常に正気で健康である》(H.C.ショーンバーグ「大作曲家の生涯」:共同通信社)ということが、この作品にも当てはまる。
すべてが緩徐楽章であるが、案外と「退屈」はしない。
ハイドン自身もこの音楽には満足していたようだ(だから転用したのだろう)。 この「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」を題材にして、ルジツカ(Peter Ruzicka 1948- )は「ヨーゼフ・ハイドンの音響領域による変容(Metamorphosen uber ein Klangfeld von Joseph Haydn)」(1990)を書いている。この作品については'07年10月19日のブログで取り上げているが、ひじょうに緊迫感のある曲である(私はとても好きだ)。
私が聴いているCDは、ムーティ指揮ベルリン・フィルの演奏による1991年録音のもの。フィリップスの434 994-2(輸入盤。現在は国内盤が出ている)。
この輸入盤のCDジャケットを見ても、すっげえ恨みの言葉をイエスは最後に叫んだように思えちゃうのだが……。でも、この曲を聴く限りは平安である。もっとも、激しい曲だったなら瞑想はできなくなっちゃうだろうけど。
ちなみに、マタイによる福音書第27章の46節には次のように書かれている。
《そして3時ころに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である》
生前ハイドンは、「神は私に朗らかな心を与えてくれたから、神に朗らかに奉仕しても神は私を許されるであろう」と書いたことがあるそうだが、その精神はこの作品にも表れているように思える。
三省堂の「クラシック音楽作品名辞典」(井上和男編)の第3版を購入した(発行は2009年6月15日)。
新版が出たことは知っていた。
先日室蘭に行ったときに立ち寄ったTSUTAYAに置いてあったので(失礼ながら、こんなところで仕入れているとは驚きであった)、そこで買おうかととも思ったが、箱が歪んでいたので思いとどまった。箱なんてどうでもいいのだが……。
いや、わざわざ室蘭で買うこともないだろうという意識が働いたのかもしれない。すでに室蘭では「毒まんじゅう」代を払っているのだ。
ところが札幌で買おうとしたら、意外と置いていない。
札幌駅のステラプレイスに入っている三省堂書店に行くと、前のもの、つまり第2版(11刷)は置いてあったが、肝心の第3版はない。Loftの紀伊国屋書店には全然ない。ここの音楽書の品ぞろえは室蘭のTSUTAYA以下であった。ついでにLoftの山野楽器に行ってみた。
ない。
この店は閉店に備え新刊を入荷させる気はないのだろう。美人ながら退廃的な雰囲気を醸し出している女性店員は、売りつくし処分のポスターをうつろな目で眺めていた。
以上がおとといの話である。
昨日。
昼休みに紀伊国屋書店の札幌本店に行ってみる。
ここは音楽書も豊富に陳列されている。
おっ!伊福部昭の「管絃楽法」が完本として復刻出版されているではないか!
欲しい 欲しい 欲しいぃぃぃ~っ
価格は……24,000円(税別。以下同じ)。
キャイン キャイン キャイィィィ~ンっ
今日のところはあきらめることとする。生きているうちにぜひ手にしたいものだ。
ところで、目的の「作品名辞典」はというと、ないのである。
これだけたくさんの本があるというのに、意図的ではないかと思えるほど、その姿がないのである。
無駄足。
帰りにESTAの地下で昼食用の弁当を買ってきただけ。
仕事が終わって、夕方になってキクヤ楽器に行ってみた。ちょうど10年前に改訂版(第2版)をここで買ったのだ。
どうもここの店は居心地が悪い。
そして、なかった……
途方に暮れるMUUSAN。
いっそのこと、自分がブログ読者に紹介しているように、ネットで買っちゃおうかとも思った。少なくとも紀伊国屋のネット通販ではすぐ買える。でも、いますぐあの重みを実感したい。
そうだ!ジュンク堂に行ってみよう。
歩道でビラを配っているメイドさんにも目をくれず、私はジュンク堂に行った。
あった!
買った!
ついでに言うと、この書店は居心地がいい!
第3版で特に変わったのは、《現代の作曲家を中心に新たに40名を追加し、作曲家1,243名、約45,200曲を収録》という点である。
ちなみに改訂版の帯には、《作曲家1,240名、43,900曲を収録》と書いてあった。
第3版で40名を追加したにも関わらず、1,280名になっていないということは、誰かがはずされたのだ。その数、37名。犠牲となったのは誰だ
まずい。じゃあ、改訂版も手元に置いておいたほうがいい(改訂版が出た時もそう思い、初版もいまだに手放せないでいる)。
価格は4,800円。
はっきり言って、この辞典はクラシック音楽ファン必携の書である。
さっ、自分の知ってる曲に蛍光色鉛筆で線を引きましょ、っと。
ルンルン……
もうすぐお盆である。「あぼ~ん」ではない。
父が5月に亡くなったので、初盆である。
しかし、実家にお参りに行く気は私にはない。
何度か書いたが、もう母親に会うのは嫌である。
彼女と顔を会わせると必ず嫌な思いをするはめになる。
こういう人間は世の中にけっこういる。しかし、実の母親がこういう人間であることは悲しいことである。
40歳を過ぎてもいまだに母親の過保護のもとで無職無収入の暮らしをしている弟は、父が亡くなって重石がとれたという態度が明らかに見て取れた。そして、一緒に暮らしてくれると弟を擁護する母親。
私から言わせれば狂っている。いや、ちょっとでも事情をわかっている人ならそれを理解しているだろう。
父の病気の末期に、母親からきた電話に私は「どうしていつもそういう話になるの?」と言った。何でもかんでも面倒なことを私に押し付けようとし、できないと答えると、電話の向こうでがなりたて始めたからだ。
「わたしはずっとこういう生き方をしてきた。だから悪いところなんてない」と母は平然と言ってのけた。
このとき、私は父の葬儀までは仕切るが、そのあとは隔絶しようと決意した。
葬儀のあとの、諸々の手続きも私は手を貸さなかった。同居している時間があり余っている弟もいるではないか!
49日法要のときに、弟の方がずっと頼りになる。あの“子”がいて助かる、と何度も言っていた。
まったく変態親子である。子離れできない母に、母親離れできない子。
気持ち悪い……
私は父を決して好きではなかった。
しかし、そんな父があの家の秩序(というには大げさだが)を保つ役割をしていたのは意外といえば意外である。同時に父がきちんとしなかったのも悪い(あの母が相手では何もできなかったのだろうけど)。
私の子供たちも、「ばあちゃんのところには行きたくない」という。
家族で墓参りだけ、そっと行ってこようと思う。
その前に何事もなかったかのように、あるいは恫喝のように電話がくるかも知れないが、もう温かい気持ちを彼女には持てない。
[E:note] この忌まわしいことに思いをめぐらせていると、なぜかブラームス(Johannes Brahms 1833-1897)のワルツ第15番が頭の中に流れる。
正確に言うと、ワルツ集(Walzer)Op.39(1865)の第15曲目、変イ長調の曲で、16曲から成るこのワルツ集で最も有名なもの。最近ではアフラックのCFでも使われていた。
このワルツ集は4手のために書かれたたが、当時は家庭における音楽への需要が高まっていて予想以上に人気がでたため、1867年にはピアノ独奏用の編曲版の楽譜が出版されている。
第15番は素朴でとてもやさしげな音楽。
短い曲ながら聴く者の心に慰めを与えてくれる。
献呈されたハンスリックは、「あのくそまじめでむっつりしたブラームスがワルツを作曲した」と驚いたというが、“プラトニック・ラブ男”のブラームスだからできた[E:sign02]
私が持っているCDは、ミシェル・ベロフとジャン=フィリップ・コラールによる演奏。1979年録音。
2枚組で、ほかにブラームスのハンガリー舞曲集、ワルツ集「愛のリート」、ドヴォルザークのスラヴ舞曲集(Op.46&Op.72)が収録されている。
EMIの50999 2 64305 2 2である(輸入盤)。
別になんてことはないのだが、このCDジャケット写真、私は好きである。
室蘭に行ってきた。
それは知ってますよね?
昨日、書いたから。
トド・ショーのお姉さんが、トドの口に向ってご褒美のホッケを何度も投げていたが、見事なコントロールであった。
そんなことはどうでもいいか……
帰宅すると、キッチンのあたりに大量のアリが徘徊していた。デラウェア色の小さなアリだ。もしデラウェアにたかっていたら発見できないと思う。
たった1日家を空けただけなのに、なんと目ざとい奴らであろう!
目標物は“のど飴”であった。密封されていないキャラメルのような包装の“のどあめ”を数個、妻は放置していたのだ。暑さでそれがちょっと融けて、包装紙からにじみ出ていたようだ。その甘さにつられて集まってきたに違いない。どう考慮しても、女王バチ様の咽頭痛が治まらないため、のど飴を探していたとは思えない。
きっとふだんなら、先発隊のアリがそれを発見しても他のメンバーに伝達する前に退治されてしまい、このような酒盛り状態には至らなかったのだろう。しかし、今回は十分に情報伝達する時間があったというわけだ。この組織だった動きには、わが社も学ぶべきところがある。
大学生の息子は「大変だ!大変なことになっている!」と騒いでるだけで、殺戮の共犯者になろうとはしない。その理由は「都会育ちだから嫌だ」と、カッペタンの頬のくせにのたまっている。
田舎育ちの妻はというと、惨状の原因が自分の飴の不始末にあり、それを非難されることを警戒し、いきなり洗濯を始めている。
次男はというと、「たいしたことではない」と言い、TPOをわきまえずに爪を切り始めた。明らかに面倒なことに関わりたくないというのが伝わってくる。
結局、私を嘲るように逃げ惑う小さなアリどもと真っ向勝負したのは、目が弱りかけていてk黒ゴマとアリの区別も困難になっている私であった。ガムテープでペタペタと取る。なかには粘着剤に抵抗し、再び逃げ出す奴もいる。
一通り退治したあと(残党がちょこちょこと現われ、けっこうたいへんだった)、外周りを調べる。
しかし家の基礎にはアリの歩兵部隊は見られない。
床下も懐中電灯で照らしながら調べる。しかし、そこには無生物空間が広がっていた。
いったいどこから入ってきたのだろう?
そこが不気味である。
[E:note] 金曜日に、レヴァインが指揮するオルフ(Carl Orff 1895-1982)の「カルミナ・ブラーナ(Carmina Burana)」(1935-36)のCDを買った。
札響定期の「カルミナ・ブラーナ」から、早2ヶ月経つ。
あのときの迫力をもう一度味わいたい。
前に書いたが、ウチにあるCDはブロムシュテット盤、ムーティ盤、ヨッフム盤である。ヨッフム盤はこの曲の決定打的評価を与えられているが、その痩せた響きは私の好みではない(奔放さという感じが強い点で評価が高いのだと思う)。3つの中ではムーティ盤のムチムチした迫力が私は好きである。
なんで急にレヴァインのものを買おうと思ったかというと、久しぶりに彼が指揮したホルストの「惑星」を最近になって聴き返してみて、「そっかぁ~、こういうノリでカルミナもやってくれているかも。だったらすげぇだろうな」と思った次第。
CDショップに行ってみたら、あらまあ、今や1,000円。
予想を裏切らない破綻なき迫力。不満なのは第1曲と終曲での大太鼓の音が、もっと湿ったものだったらよかったのに、ということ(ヨッフム盤と同じような音)。この演奏、人によっては俗っぽさに欠けると感じるかもしれないけど……
オーケストラはシカゴ響。独唱はJ.アンダーソン(S)、P.クリーチ(T)、B.ヴァイクル(Br)。合唱はシカゴ交響合唱団とグレン・エリン児童合唱団。1984年の録音。グラモフォンのUCCG5150。
このCDのライナー・ノーツに書かれている、演奏者の紹介(筆者は長谷川勝英)。
《フィリップ・クリーチ(テノール)については資料がなく詳細は不明》
とっても正直で素敵である。
土日と室蘭方面に行ってきた。
最初に室蘭水族館に立ち寄った。
経営難で大変だとニュースで聞いたことはあったが、トドのショーのお姉さんはかわいらしかった。関係ないか……。小心者の私はお姉さんの写真を撮る勇気がなかった。
あの人の入りなら経営は大変だろう。それより何より、入場券を買ってもそのあとの「切符切り」係がいない。人件費節約の極み。でも、逆にタダで入場できるというスキだらけの状態。「食い逃げされてもバイトは雇うな」と同じ考え方なのかもしれない。
「ここから出してくれぇ」と訴えているようなオットセイだかアザラシだかに同情しつつ、建物の中へ。とってもこじんまりした水族館なので、このように閑散としてではなく、山手線なみに混んでいたら何にも見られないだろう。ということは、混み具合としては規模にちょうど見合っているということにもなる。
ミズクラゲを見て、直感的に「いいなぁ」と思ってしまう。
なぁ~んも考えてないんだろうなぁ。水の流れに身をまかせて毎日を過ごしてるんだろうなぁ。いいなぁ、って。
水族館の敷地の奥には「つぶやき」の看板。
有無を言わさないそのままの訴え。
でも、私は「呟き」を連想してしまう。
水族館のあと、地球岬へ。
チキウ岬というのが本当なのかどうか、2通りの表記がある。
この日は年に一度の灯台公開だという。
でも、入れなかった。15時までの公開。私たちが着いたのは15:02。
別にいいわい。霧がかかっていたから、どうせ何にも見えないもんね。
岬の反対側は谷のようになっていて、けっこうな深さ。中国の水墨画にでてきそうだ。
岬名物だという「毒まんじゅう」を記念に買ってみる。
まだ食べていないので味のほどは不明だが、おもしろいお土産である。
ということで、さっき帰宅した。
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