読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

September 2009

娘たちはほんのちょっと出かけているだけなのだ……

21e8ed86.jpg  昨日の朝、消極的に会社に行くために出がけに靴を履こうとしたら、ボキッと靴べらが折れた。真っ二つだ。一歩間違えたら靴べらではなく、私の体内のどこかを骨折したかもしれない。
 人によっては「これは実に良くないことが起こる予兆だ。仕事なんて行くべきではない」と、一日中ベッドの中でおびえながら過ごすかも知れない。

 でも、私はあまり験(げん)を担ぐことはない。
 ただ、それでも子供たち(もちろん自分の、である)が小さいときには聴くのが憚(はば)れた曲がいくつかある。
 その最高位にあったのが、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の歌曲「亡き子をしのぶ歌(Kindertotenlieder)」(1901-04)である。
 歌詞はリュッケルト(Johann Michael Friedrich Ruckert 1788-1866)の同名の詩集による。
 リュッケルトは2人の娘を相次いで亡くしたのだったが、1833年から翌年にかけて、その不幸と悲しみを425の詩に綴った。マーラーはこのうちの5編を選んで連作歌曲とした。

 この作品は以下の5曲から成る。
 1. いま太陽は輝き昇る
   Nun will die Sonn' so hell aufgeh'n!
 2. なぜそんなに暗い眼差しか,今にしてよくわかる
   Nun seh' ich wohl,warum so dunkle Flammen
 3. お前のお母さんが戸口から入ってくるとき
   Wenn dein Mutterlein tritt zur Tur herein
 4. ふと私は思う,あの子たちはちょっと出かけただけなのだと
   Oft denk' ich,sie sind nur ausgegangen!
 5. こんな嵐に
   In diesem Wetter!

 なお、マーラーはこの曲のスコアに「これら5つの歌曲は切り離し得ないひとつのものとして意図されているので、演奏の際には、5つの歌曲のうちのどの曲が終わった時でも、拍手やいかなる種類の妨げにも中断されることなく演奏されねばならない」と、わがままな注意を書き記している。自分は3年もかけて作曲したくせに……

 マーラーは1902年にアルマ・シントラーと結婚。同年のうちに長女マリア・アンナが誕生している(やるぅ~っ!)。
 そのマリア・アンナは1907年に猩紅熱とジフテリアの合併症で5歳で亡くなった。
 つまり歌曲「亡き子をしのぶ歌」は、マーラーが独身のうちから書き始められており(3曲は結婚前に書かれた)、不幸にも長女のマリア・アンナが亡くなる2年前には、この5曲から成る歌曲が初演されている。
 これを予言的とみるのはある意味劇的な話だし、マーラーは「自分の子供が死んだと想定して書いた」と手紙に書いているそうだが、それはあくまで創造活動における気持ちの持ち方であって、神秘的にとらえるべきではないだろう。

 ただ、たとえそうであっても、この曲が持つ“父親が内にためこんだ”切なさは聴く者の心を打つ。
 私の子供はすでに小児科に出入り禁止となるまで大きくなった。それでも、私にはこの曲をめったに聴かない習慣がついてしまった。

 フィルハーモニア版スコア(音楽之友社。現在入手困難)の前書きに、リヒャルト・シュペヒトは次のように書いている。

 《「亡き子をしのぶ歌」にいたってひとつの展開がみられる。すなわちそれまでの客観的な手法による表現から主観的な手法による表現への展開である。いいかえれば兵士の歌や「子供の不思議な角笛」の明るいあるいは物悲しい伝説などから、リュッケルトの歌の感動的な告白を越えて、いいあらわしようのないほど魂をゆさぶり、痛痛しくも深い感動を与える「亡き子をしのぶ歌」への展開である》

 一般的日本語とは言い難い訳ではあるが、痛々しい感動をもたらしてくれることには違いない。

 第1楽章は、昨夜の不幸な出来事など何もなかったかのように昇る太陽を見ているやるせなさ歌う。
 第2楽章は子供の瞳にこの世を去ることを告げていた光に気づかなかったことを、第3楽章は母親が戸口から入ってくるときには後ろからくっついて入ってきていた娘の姿がないことを嘆く。
 第4楽章は、子供たちの姿がないのはちょっと散歩に出かけているだけだと思う気持ち(村上春樹の「1973年のピンボール」のなかの双子の場面を読んだとき、私はこの曲を思い出してしまった)。
 第5楽章は、こんな嵐の日に子供たちを外出させたら病気になって死んでしまうかも知れないという心配が、いまでは必要なくなったむなしさを歌う。この楽章の後半の美しさ!

 CDは小松英典(Br)が歌ったナクソス盤を紹介しておく(1995年録音)。
 その声は、子供を失った若い父親の、感情を抑制した叫びのようである。

旭川で食べた限りなくプレーン的なチャーハン

 日曜日に旭川に行ってきた。
 ふと思い立った。
 私には「じっくり思い立つ」という概念はないのである。
 
 行きは高速道路を利用した。わが家の車はNon-ETC装着仕様であるので、いまどき奇特にもフル料金を支払う。けど、滅多に高速は利用しないから、イニシャル・コストのことを考えるとなかなかETCをつける気になれない。“高速無料化”っていう夢のような公約もあるようだし……。もしそれが実現したら、ゴールデン・ウィーク前にETCを着けるために殺到していた人たちは暴徒化するだろうな……

 昼過ぎに旭川に着く。
 旭川鷹栖インターから下りてすぐに目の前に現われる巨艦・イオンは、なんとも異様な感じがする。ここに限らず、あちこちで巨艦が忽然と現われるのを目にするたびにそう思う。
 
 とりあえず旭川駅前のエスタの駐車場に車を入れる。

 まずは昼ご飯。
 何を食べようか?
 旭川って何が名物なんだろう?
 ラーメンは確かに有名。
 でも、もう少し別な方向性でいきたい気分。

 何の下調べもして来なかった。
 エスタの中には四川飯店がある。でも、ここまで来て四川飯店に寄ることもないよな。

 そこで当てもないまま買物公園に行く。でも、どうも気の利いた飲食店らしきものは見当たらない。行き当たりばったりではわかるわけもない。

 おっ、シャッターが下りたままの丸井今井が……
 テレビのニュースでは観たけど、実際に目にすると寂しい感じである。

 西武に入る。
 いいや、面倒くさい。
 ここの上で食べよう。
 最上階まで行く。
 中華料理屋とカレー屋と釜飯屋、しかない。
 本当は“とり釜飯”を食べたい感じもしたが、釜飯って時間がかかりそう。
 そこで、上海という名の中華料理屋に入る。
 中華を食べるんならエスタの四川飯店にすればよかった、とも言える。

 私は五目チャーハンと醤油ラーメンのセット(それぞれハーフサイズ)。妻は塩ラーメンである。やれやれ、これならエスタの上のラーメン屋に行けばよかった。
 私が頼んだセットのチャーハンは、しかしながら、私がこれまで口にしたチャーハンのなかでも5本の指に入るほどのものだった。まずいという点で。
 これのどこがチャーハンなんだ。白飯に具をちょこちょこと入れ、ちょいと炒めましたってもの。味もコクも何もない。いや、味はある。塩っ気。
 「私はラーメンとただのライスを頼んだのだ」と自分に言い聞かせ、ラーメンをおかず替わりにしてなんとか食べた(セットといっても、本当に半ラーメンと半チャーハンだけなのだ。チャーハンの横に本当におまけ程度にぞんざいに置かれている紅しょうがが唯一の口直しであった)。

 単品のチャーハンもこれと同じなのだろうか?だとしたら、私は絶対に完食できない。おかずになるものがなければ食べられない代物だ。でもおかずがあるなら、私は白飯を選ぶ。間違いなく。
 ここのコックは何か人に言えないような理由から、塩分を憎んでいるのだろうか?それから、旨味というものに対しても……

 斜め向かいのテーブルで、私と同じセットを食べていたおじさんによっぽど感想を聞いてみたかったが、そのおじさんもロシア語で書かれた「水晶島の水産資源」のレポートを読んでいるかのような表情をしていたので、やめておいた。

 一方、ラーメンはそこそこの味であった。ただ(といってもここが重要なのだが)、スープはぬるめで、麺は伸びかかっていた。シナチクとネギだけが一定水準を満たしていた。
 このような絶妙の衰退状態で供するのは、それはそれで難易度が高い作業だろう。
 それは妻が頼んだ塩ラーメンにしても同じ。
 コックが猫舌なのだろう。

 セットである私のラーメンはハーフサイズだが、妻は単品の塩ラーメンを頼んだ。しかし、ボリュームは私のと大差がなかった。へんなの……

 本格的な中華メニューを食べていないので断定するのは危険だが、この店、私としてはお薦めしない。
 それとも、このときだけ何かが狂っていたのだろうか?店のホームページを読む限りでは薔薇色的に「美味そう!」だから。

 西武はすいていた。
 もう1つの百貨店である丸井が閉店したというのに、店内は日曜日にも関わらず人口密度が低すぎる。霊柩車が火葬場に出発したあとのセレモニー・ホールのような状況だ。
 西武旭川はけっこういい百貨店だと私は思うんだけど……

 それにしても、なぜ買物公園にはあんなにたくさんの数の自転車が駐輪されているのだろう?あそこに自転車を置いて、みんなどこにお出かけしたのだろう?
 もしかして、イオンか?

 そのあと大雪アリーナへ行く。
 駐車場はけっこういっぱいだった。
 しかも、滅茶苦茶な停め方をしている車が多い。これまた不思議だ。白線はデザインとして地面に描かれているわけではないのに……。
 ただ、旭川圏の人の名誉のために言っておくと、斜め停め、飛び出し停めの車は必ずしも旭川ナンバーとは限らなかった。旭川ナンバーが多かったのは間違いないが……

 ここでやっている「北海道マーチングコンテスト」(高校の部)をちらっと観た(聴いた)。
 観ていてそこそこ面白かったものの、ドリルってもう少し派手なパフォーマンスがあるのかと思っていた。
 ドリルを観るのは私にとって初めて。
 私が変に過激なものを連想していただけかもしれない。
 それにしても、入場料1,500円は高い……

 だから帰りは一般道を通って帰ってくることにした。
 道もすいていたし、たまに意味もなくドライブするのもいい(帰宅するという重要な意味はあるが……)。

 帰宅したのは19時近く。
 でも、お腹はすいていなかった。
 実は腹持ちでは魔力ある“半チャーハン”である。

590円で買ったマーラー/4番のCDに感動

 (村上春樹が翻訳したアメリカ小説風に)

 あのドイツ料理店に行く前、僕はタワーレコードの札幌Pivot店に寄ってみたんだ。
 何か掘り出し物はないかな、ってさ。

 そしたら、あった。
 買ったのか、って?
 当り前さ。こう見えても、僕は買い物する時には無計画な方なんだ。
 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の交響曲第4番ト長調(1892,'99-1901/改訂1901-10)のCDを2枚買った。
 同じ曲のCDを2枚買うなんて変だと思うかい?
 クラシックを聴いてる人間にとっては、そんな珍しいことじゃない。そう言うと、そもそもクラシックを聴いている人種が変だと誤解されちゃうかもしれないな。でも、変な人ばっかりじゃないよ。たぶんだけどね。

976cd563.jpg  ひとつはダニエル・ガッティ指揮ロイヤル・フィルのもの(RCA。1999年録音)。もうひとつはフリッツ・ライナー指揮シカゴ響のもの(RCA。1958年録音)。

 ガッティのCDが590円!ライナーのCDは990円!

 「どうしたもんでしょっ」って、ベティみたいに心の中で叫んじゃったよ。
 あぁ、その時の僕のheavenly joy な気持ち、わかってもらえるかな?
 まっ、その「大いなる喜び」はそのあとに行ったドイツ料理店のすさんだ空気によってしぼんでしまったわけだけど……

 ガッティの演奏は正直、ゾクゾクした。
 こういう言い方は好きじゃないんだけど、まるでスコアが見えるような演奏なんだ。もっとも、スコアを見たところで、僕にはそこから音楽を読みとることなんかできないんだけど。音楽を聴きながら追うのがせいぜい。それでも、それはそれでけっこう楽しいもんさ。
 これまではインバルの演奏が、すっごく見通しがよくて僕の中では一番の視界良好だったんだけど、ガッティのはその上をいくんだよ。あぁ、聴いてみてほしいくらいだ。
 どの楽器もきちんと鳴ってる。存在感をアピールしている。ちゃんと聴こえる。
 鈴の音もちょっと他の録音とは違う。ソフトじゃないんだ。ホルンもあまり柔らかには吹いていない。妖気が漂ってくる。そういうところが、この曲には実は表の顔と違って、不気味なパロディーの要素があるってことを教えてくれるんだ。いやぁ、まいったよ、まったく。
 それに、いろいろなモティーフが関係しあっていたり、絡み合って発展しくのが聴いていてわかるんだ。こんな演奏あるんだなぁ、って膝を打ったね!
b691777b.jpg  いや、それは物の例えさ。だって、そのとき僕は歩きながらWALKMANで聴いてたんだもの。

 この粒だった響きを聴くと、それまで粒あんのおはぎのようだったインバルの演奏が、ちょっとこしあんに思えてくる。インバルももちろん素敵だよ、そりゃ。
 でも、ガッティにはすっかり参ったな。前にガッティが振ったレスピーギのローマ三部作のCDを買ったんだ。「レコード芸術」誌で特選だか推薦だかだったやつだ。でも、僕にはピンとこなかった。でも、今回は早い話、ピンときすぎちゃった。
 独唱のRuth Ziesakの声も、チャーミングでniceさ。
 そして、これが590円だよ!世の中捨てたもんじゃない。

 もうひとつのライナーだけど、これはオーソドックスな演奏と僕は思う。でも、オーソドックスの特上、松って感じかな。けっして悪くない。音だって良い。さすが、LIVING STEREOのSUPER AUDIO CDだ。看板に偽りなし、ってやつさ。
 もし、一緒に買ったのがガッティのもんじゃなかったら、ライナーの演奏にも十分満足したと思うな。それに、実際のところ、ライナーの演奏を、これはこれで僕は気に入った。これもお薦めできる。
 独唱のLisa Della Casa は大人の声って感じ。好みが分かれるところだけど、僕はZiesakの方が好きかな。
 ジャケットの、空中に投げだされたような天使人形の写真も面白いだろ?手に持っているのは何かなぁ。僕は最初、レッドペッパーかと思っちゃったよ。でも、まさかだよね。
 このCDの990円もお買い得だったと思うな。

 会計の時に、レジにバーコードを通したら、元の値段が表示されるんだ。二千四百何円だかって……。それをプライス・シールの値段で打ち直すんだけど、これがまた、「儲けた」っていう僕の心をくすぐったね。

 でも、悲しいお知らせをしなきゃならない。
 タワーレコードのネット通販を調べたら、ガッティのはもう取り扱っていないっていうし、ライナーのは元値のままだ。
 スペシャル・プライスで買うには、やっぱり店頭在庫を見つけなきゃならないみたいだね。

 [解説 by MUUSAN]
 つまりは、ガッティの4番の演奏はたいそう私を満足させた、ということである。

居心地の悪いドイツ料理店

889c7432.jpg  数日前のこと。私と同期入社で別なセクションの課長をしているPと、Pの上司で私も親しくさせてもらっているQ部長との3人で酒を飲んだ。PとQというのは単にテキトーにつけただけであって、われわれがマヨネーズ会社に勤務しているとか、製薬業界に身を置いているという暗示では全然ない。
 今回2人が私を誘ってくれた大きな理由の1つが、先月末に私がドイツに出張した、その安着祝いである。ほかのいくつかの理由は忘れた。

 店の予約もしてくれたが、それは狸小路にあるドイツ料理店であった。
 やれやれ……
 気を遣ってくれているのか、ちょっといじめが入っているのか……

bef4980a.jpg  実はその店、私は以前にも行ったことがあり、あまり良い印象を持っていなかった。
 だから、「頼む!店を替えてくれ。私は出張の3日間でドイツ料理は一生分食べたのだ。つぼ八か白木屋にしてくれ」とお願いしたかったが、あれから4年もたったのだから店の様子も変わっただろうと期待するように自分を偽り、その条件を飲むことにした。

 店に入る。
 Q&Pはすでに来ていた。
 店の内部は以前とあまり変わっていない。
 どことなく何かが致命的に欠落しているような雰囲気である。それが店主の理想とする雰囲気なのだろうが、どこか落ち着けないダサさがある。家庭的な空気を作り出そうとしているようにも思えるが、それよりは一昔前のペンションの共同夕食会場みたいな感じだ。

 そして出てきた。
 女主人。
 前に来たときに、この女主人の態度、振る舞いに怒りに似た不快感を覚えたのだった。
 頭の中に「ツィゴイネル・ワイゼン」の冒頭が鳴り渡ったね……ったく。

e3dba812.jpg  まずはビールを頼むことにする。
 Q 「MUUSAN、ドイツでおいしい銘柄あった?」
 私 「ベルリナーというピルスナーが口に合いました」
 P 「ベルリナーってあります?」
 女 「あります」
 私 「それってピルスナーですよね?」
 女 「ピルスナーのベルリナーはありませんっ」
 というナタの一振りで、私たちはピルスナーの何とかいう生ビールを頼んだ(ピルスナーの生ビールはそれしかなかった)。

 2人はあらかじめ料理を頼んでいてくれたようだ。私の意向も聞かずに……

 やがて女主人の手によってアイス・バインが運ばれて来た。彼女はまるでハゲタカの餌付け用の肉片を運ぶかのように無表情かつ無感動に、でも心の中にある自信(客は感動するに違いない)は隠せない足取りで、我々のテーブルにやって来た。
 Pが取り分ける。
1982c6b1.jpg  私は一口食べて、急激に食欲を失った。質の悪い岩塩のように鋭くしょっぱいのだ。
 ほかの2人は特に異変を感じさせることなく食べている。日中、過酷な肉体労働でもして来たのだろうか?
 2人の皿が空いた。
 そのときPが呟いた。
 「部長、アイスバインってこういうもんでしたか?すごくしょっぱく感じたんですけど……」
 「いや、こんなにしょぱくはないはずだ。前にここで食べたときはこんなにしょっぱくなかった。MUUSAN、ドイツではどうだった?」
 「全然。塩の壺でも鍋にひっくり返したんじゃないですか……」
 残念なことに、PとQは私の高尚なユーモアを解せなかったようだ。

9449deea.jpg  そのとき女主人がやって来た。まるで焼香台が空く順番を待っていたかのように。
 「お皿、お下げしま……。あらっ?骨と骨の間のいちばん美味しいところが残ってる……。ここが美味しいのに。どうぞ、どなたか取って」
 これを話し方のニュアンスを含めて書くならば、「骨と骨の間がいちばん美味しいってことも知らないの?愚かねぇ。ここを誰の店だと思ってんのよ。このまま返す気?」となる。

 私は血圧が上がって具合が悪いような態度をし、無言の拒否をした。
 結局Pが骨から、そのいちばん美味しいという部分をこそぎ取り、自分の皿に取った。
 その間、女主人はそこにずっと立って、調理師学校の教師が学生を指導するかのように見ていた。

 だが彼女はそこですぐには帰らなかった。
 ポテトはなくなっているが、ザワークラウトが残っているというのだ。
 「ポテトとザワークラウトを同じように一緒に食べないから、こういう風に一つの方だけが残るのよ」
 もうほっといてくれ!である。
 さすがにPが切れかかって、「そうやって教えてくれたら、最初からそうしたのに」と言った。
 女主人は「それはすいませんでした」と、骨とザワークラウトが少々のったままの大皿を持ち帰った。奇妙な静けさが残った。

 ビールの追加注文。
 避けたいところだが、やむを得ず女主人を呼ぶ。他に店の人がいないのだから選択肢はジョーカーしかないのだ。
 私とPは同じもの。従って小言を言われずに済んだ。
 しかしQ部長は、こんなところで危ない好奇心なんて抱かなきゃいいのに、「濁ったビール」を注文しようと、またよせばいいのに、女主人に何が美味しいか尋ねた。
 「それぞれいろんな個性がありますからねぇ……」
 ほぅら、はじまった。だから言わんこっちゃない。
 Pが「部長、これにしましょ。これ、いけますよ」と、実は全然知らないくせに、テキトーにメニューを指差した。

 瓶ビールとグラスが運ばれてきた。グラスには自分で注ぐ。
 実は私が以前この店に来たときにいちばん不快に感じたのが、これであった。
 グラスには瓶ビールの中身がちょうど1本分入るようになっているのだが、そのためには泡が減るのを見ながら少しずつ注いでいかなくてはならない。私は我慢できず、瓶の2/3ほどを注いで飲み始めた。日本のビールならごく当たり前のことだ。
 そこに、どこで監視していたのか女主人が飛んできて、全部注がなきゃだめだ、と私に説教したのだ。

 今回、Q部長も同じことをしようとした。
 私にあの悪夢がよみがえった。
 「部長、待って。叱られるから全部注ぎましょう」
 そうしてわれわれは危険をやりすごすことができた、と思っていたのが甘かった。

 空いた瓶を下げに来た女主人。空き瓶の中を覗き込んで「あらっ、振りませんでしたね……」と、あなたはとんでもない失敗をした、というように重い口調で言う。
 「底に酵母が残ってる。これじゃだめ。グラスに注いで、最後の方で瓶の底にほんの少しビールが残っているときに振るの。そうすると底にたまった酵母がきれいに取れてグラスに注げるの」
 やれやれ、中和滴定の化学実験かよ~。
 Q部長、「すいません。教えてくれなかったもんですから」。
 女主人は悪い結果を告げたあとのタロット占い師のように無言で去っていった。
 それにしても、すぐに瓶の中をチェックするところをみると、しょっちゅう客に指摘しているに違いないし、それを楽しんでいるふしもある。

 そんな重い雰囲気の中、数名の団体客が入って来た。予約客のようだ。
 幹事らしい男性が女主人に申し訳なさそうに言う。
 「1人急に来れなくなって、できたらでいいんですが1名分減らしていただけますか?」
 「あらっ、もう人数分準備してますし、そんなんだったら電話をいただければよかったのに……」
 広くない、仕切りもない共同夕食会場なのだ。自然と耳に入って来る。
 「すいません。ほんとに急だったものですから」
 「困りましたね……」
 男性は、困惑した表情で決意した。
 「いや、じゃあそのままの人数で進めてくださっていいですから」
 「それじゃ、料理が多すぎますでしょ」
 と言いつつ女主人はいったん厨房の方へ戻って行った。
 この一件がその後どう収拾したかはわからない。
 というのも、さらに4人ほどの客が入って来たからだ。
 女主人が出てくる。
 「席は空いてますけど、予約じゃない方は料理を出すのに時間がかかります」
 親切なんだか、回りくどく帰れと言っているのか、さっぱりわからない。
 その客、それでも良いと言って席に着いた。席に着いたって楽しいことなんて待ってはいないのに。

 共同夕食の間のような空間は家庭的な雰囲気を狙っているのかもしれないが、これじゃホームパーティーにお呼ばれしたけど、直前に夫婦喧嘩をして不機嫌の絶頂にある夫人に応対されているような感じだ。

 数年前に私がこの店に来た時と基本的には何ら変化がないのに、それでも潰れないでやっているのが不思議だ。こんなの料理が美味いまずい以前の問題だ(アイス・バイン以外、この日食べたのはソーセージ少々だったので、私は料理の味について言える立場にはない。アイス・バインにしても、それが私には塩気が強いと思えても、それがその店の味付けならば別にそれは構わない)。
 ドイツ友好の会札幌支部みたいな特殊団体の御用達にでもなっているのだろうか?(あの女主人は、一度親しくなると、友好モードに豹変するタイプの人物だとは思える)。
 マゾっ気がある人は、もしかしたら楽しいかもしれないけど……

 そうそう、関係ない話だが、帰るときにお礼と単なる社交辞令から、Pに「明日、岡山に出張するけど、何かお土産買ってこようか?」と言ってみた。
 Pは社交辞令にも関わらず「マスカットのお菓子」と、遠慮なく申し立てた。
 彼を驚かすために、私は岡山で「マスコットのコケシ」を探したが、残念ながらそういうものは見つからなかった。残念だ。

 一応、気を遣って、店の名は明記しないことにした。

 ※写真と本文とは関係がありません。って、あったりまえだ。
  秋のマイ・ローズ・シリーズ第2弾。上から、アブラハム・ダービー、エバーゴールド、ニュー・アヴェ・マリア、アルフォンス・ドーデ、ピエール・ドゥ・ロンサール。

 

薔薇づくりなんてしてなきゃ、とちょっぴり思う憂鬱な季節

ec4c317a.jpg  もう間もなく10月である。
 冬将軍さんがやって来るのである。

 まだ10月にもなっていないから、関東以西の人ならば、もう冬将軍の気配がするなんて暴れん坊将軍の気配がする以上に信じ難いことだろう。あるいは、私のことを「このうそつき野郎」と思うかも知れない。
 でも、である。私は言いたい。「ホントなんだもん」と。
 10月には霜が降りるだろうし、場合によっては10月末あたりに小雪が舞い落ちることだってあるのだ。
 小雪というのはSnowのことであって、和風スナックのママさんの名前ではない。
 またSnowというのは雪印乳業のことではなく、雨が空中の寒波によって固体化するものの、氷の塊のように固くはならない白い物体のことを指す。
 あぁ、まどろっこしい。
 
a13dfbd1.jpg  どうでもいいが、雪印乳業のカマンベール・チーズのCFに出ているお母さん役のお姉さんが好きである。顔が長く映るわけではないが、こういうごくフツーながら、どことなく清潔感がある(かなりの思い込みだが)の女性が好きである。しかも「私、私、アタシっ!」って感じで画面を占領せず、さりげなく脇役に徹し、主役のチーズを盛り立てているところに好感が持てる。
 同じように、洗濯洗剤のCFでさりげなく洗いあがった衣類の香りをかぐような、そういう場面に出ている女性も好きである。

 ローカルな話だが、“産直生鮮市場”という札幌圏のディスカウント・スーパーのCFに出ている女の人たちも好きである。「安い、安い、お肉が安~いetc.etc.……」と歌いながら、店内を走り回るくだらないCFだが、その2番目と3番目のお姉さん(主婦役)が好きである。撮影のために無理にエプロンをつけさせられ、ちょっとこわばった71a9641a.jpg笑顔でなんとか「安さの満足感」を伝えようとしている姿が心を打つ。最後に3人揃って、体を左に右に動かしてリズムをとっている場面は、ある種の痛々しさを感じずにはいられない。
 特に3番目のお姉さんはあらゆる点でとても好きである。
 でも、実際に店に行くと、店内はCFのお姉さんのようとは程遠い客層で混雑している。また、通路が狭いため、安くて小躍りしながら店内を駆け回るなんて行為は危険極まりない。

 冬が近づいているという話が、いったいどうしてお姉さんの話になったのだろう。一体誰のせいだ。
 まだバラたちは花や蕾をつけ続けているが、そろそろ剪定して休ませてあげないといけない。本人たちに聞いたわけではないが、長い冬のために体に栄養を蓄えたいと思っているはずだ。
 今年はこれまで雨模様の天気が多く(幸い北海道ではオタマジャクシが降ってきたという話は聞かなかったが)、そのせいかバラの花も9月に入ってからのものの方がちゃんとしていた。ちゃんとしていた、というのは礼儀正しいとかそういうんではなく、充実していたという意味である。

a224801e.jpg  ぐずついた天気のせいで、今年は芝刈りもあまりできなかった。
 芝はできる限り頻繁に刈った方が良い。
 というのも、間隔を開けると生育が旺盛な個体、つまり競争力が強い遺伝子を持った個体が株を充実させ、一方でそうでない株は大きくなれない。つまり、芝刈りの間隔を開けるということは個体間の競争を激化させることになる。
 だからずっと放っておくと、大きな株が点在し、均一化した芝とは程遠い状態になってしまうのである。
 ウチの芝はそこまでにはならなかったが、やはり個体間の格差は生じているし、さらに刈り取りの合間が長いことをいいことにタンポポを親玉とした雑草連合軍が侵入してきている。これはたいへんである。なんとか手を打たねば……
 やはり定期的な芝刈り、そして年2回はエアレーションと目土がけをしなくてはだめだ。
b5eb1e66.jpg  誰かボランティアでその作業をしに来てくれたら、この問題はそこそこの解決をみると思うのだが…

 また、プルーンの落果がひどい。
 人に言わせると(いや、私がお願いして言わせているのではなく、向こうが勝手に言ってくるのだ)、落下するのは虫に食われているせいだという。
 ある農家の方が教えてくれたのだが、プルーンやプラムなどは花が咲いてすぐに殺虫剤をかけた方が良いらしい。というのも、開花時にハエだかハチの仲間が卵を産みつける。そのため、実って来た時にはすでに卵が実の中に入り込んでいて、果実が大きくなるのとともに幼虫(いわゆるウジだ)が内部を食うらしい。
f6e29fb6.jpg  確かに実の表面には侵入したらしい穴がないのに、実を割ってみるとウジがいるということがある。
 ただ落果した実をみると、小さな穴が開いているものもある。これはウジの侵入穴なのか、それとも内部にいたウジが脱出したあとなのかわからない。もっとも、ウジがどこからか這って来て、実に侵入しようとしている場面は見たことはない。実にやってきた成虫が産卵したあとかもしれない。
 どっちにしろあまりに落果が多く、また木に実っているものも、どの程度被害に遭っているか不明である。どうやら多くの収穫は望めそうにない。
 ブルーベリーの木もあるが、こちらは順調に実っている。ただ、まだ収穫には早すぎる感じである。

 バラたちの冬囲いもけっこうな作業だが、その前に強剪定し、さらに病害虫を張春に持ち越さないために葉を全部取り除くのは一大作業。しかもゴミは有料……
 冬に向かうこれから1カ月ほどは、「あぁあ、バラを育てるのやめちゃおうかな」とちょっぴり思ってしまう時期である。

 写真は上から、メニー・ハッピー・リターンズ、ティージング・ジョージア、マチルダ、グラハム・トーマス、ニコル、プルーン(シュガー・プルーン)。

ハイドンだかモーツァルト in 「眠り」、と「英標」の影響。

1e8008f9.jpg  《彼はハイドンだかモーツァルトだかのテープをカー・ステレオに差し込み、ふんふんとメロディーを口ずさみながらエンジンをスタートさせる》

 《そしてハイドンだかモーツァルトだかを聴く。私も音楽を聴くのは嫌いではない。でもいつまでたっても私にはハイドンとモーツァルトの違いを識別することができない。私の耳にはどちらもほとんど同じように聞こえる。私がそう言うと、違いなんかわからなくたっていいさと夫は言う。美しいものは美しい、それでいいじゃないか、夫はそういう》

 村上春樹の「眠り」。初出は1989年11月号の“文學界”で、現在は「TVピープル」(文春文庫)に収められている。
 
 確かにハイドンとモーツァルトの区別はなかなか難しいものがある。
 前に「私にもバッハとヘンデルの区別がつけられる日が来るのでしょうか?」と、まるで自分の名前が国民年金の名簿から漏れていたかのように、深刻そうに私に言った人がいたが、バッハとヘンデルよりも、ハイドンとモーツァルトの区別の方が難しいような気がする(モーツァルトとヨハン・クリスティアン・バッハだったらもっと混乱しそうだ)。
 とかいって、バッハvsヘンデルでブラインド・テストされたら、私も区別できないかもしれないけど……。そういうときは、テレマンとかコレッリだとか言って、ごまかすしかない。

 アンダーラインを引いて示したが、「眠り」のなかの“私”にとって、だからこそハイドンとモーツァルトの音楽は「聴く」ではなく「聞こえる」なのだ。

a85b436b.jpg  私が持っているCDに、マリナー指揮アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズ(簡単に言えばアカデミー室内管弦楽団だ)の演奏による、次のような選曲のものがある(EMIクラシックス。輸入盤)。

 ・モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク
 ・ハイドン チェロ協奏曲第2番
 ・モーツァルト 交響曲第40番

 これを通しで聴いても、まったく違和感がない。まるで1枚のCDのようだ(だからそうなんだって!)。
 このサンドイッチの具がハイドンではなく、例えばエルガーのコンチェルトだったら違和感があるだろう。うん、たぶん。強引な意見だけど……
 ついでに、このCDは廃盤になってるみたい。

 さて、このCDにも入っている有名すぎるほど有名なモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91)のセレナード第13番ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク(Eine kleine Nachtmusik)」K.525(1787)だが、その作曲経緯については、何かの機会のために作曲されたのだろうということ以外わかっていない。また、現在残されているものは4つの楽章から成るが、モーツァルトの自作品目録では5つの楽章であることが記されており、記述にある本来は第2楽章となるべきメヌエット楽章が失われてしまっている。その消失が偶然によるものか、第3者による故意による省略なのかは謎のままである。

 映画「アマデウス」で、サリエリの接見に来た神父が、サリエリの弾く「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の冒頭旋律を耳にし、「あぁ、知ってます。これはあなたの作品ですか?」と言ってメロディーを口ずさむシーンがある。
 でも、この時代、こんなことが果たしてあるだろうか?
 音楽会は貴族でなければ出かけられないし、1つの楽曲が何度も演奏で取り上げられる機会がそうあるわけでもない。
 と、ふと批判的疑問を抱いた私。

 私にとってこの曲(の冒頭)は、転校してきた札幌の小学校の“お昼の放送”のオープニングで使われていた、という思い出がある。
 その前に通っていた浦河町の学校の給食は美味しかった。それに引き換え、こちらのはおかずはともかく、パンは固いし、食器はボコボコだし、ということで、優雅にランチを楽しむという気分にはまったくなれなかった。
 この曲は、そういう私の暗部に渦巻いているのである。もっとも私の場合は暗部だらけであるが……
 私のこの悲しみは形を変えて表面化し、牛乳を飲んでいる女子を笑わせて吹き出させるという危険な遊戯へと発展した。でも、あの子も笑わせられるのを多少待っていたような気もする。

 「眠り」に話を戻すと、この小説の主人公である主婦の“私”は、大学の卒論でマンスフィールドについて書いたという。
 Katherine Mansfield(1888-1923)。
89e41c5c.jpg  高校時代、そして浪人時代、私は旺文社の“英文標準問題精講”(原仙作著)を受験の参考書に使っていた。
 あの当時、“英標”は受験生にとっては英語の教材としてはバイブル的存在であった。今もそうなのだろうか?
 この本にはいろんな作家たちの、いわゆる“生きた文”が載っていて読み物としても面白く(訳文を読むと)、左の写真のようにマンスフィールドの文も載っていた。
 何々?受験勉強で使ったわりに、まったく使い込んだ様子がうかがえないって?ごもっとも。でも、それは不当な中傷である。実は、社会人になってから、なぜか買い直したのだ。
 買い直したものの、読んでないからきれいなままなのだ。

 それからである。私は海外文学の、特に短編小説を読むようになったのである。もちろん日本語訳のもの3e60e34b.jpg を。「マンスフィールド短編集」(新潮文庫)をはじめ、フォークナーやサキやマラマッドや……ってことで、英語のお勉強は停滞。せっかく訳されたものがあるんですもの。それに手を出さないのは、回転寿司屋で自虐的にかんぴょう巻きばかりを食べるに等しい行為……

 ところで、村上春樹はなぜここでマンスフィールドの名を出したのだろうか?
 “私”という人間の、内的状況をマンスフィールドという作家の特徴から何らかの示唆をしようとしたのか?
 また、“私”はトルストイの「アンナ・カレーニナ」をずっと読んでいる。
 これまた、“私”がアンナ・カレーニナの生き方に潜在的に憧れているということを暗示しているのだろうか。
 なお、マンスフィールドはチェーホフの作品がきっかけとなって小説家となったという。

69511495.jpg  「眠り」では「アンナ・カレーニナ」だが、村上春樹の「ねじまき鳥」なんかでは「カラマーゾフの兄弟」がちらっと出てくるし、「1Q84」ではチェーホフだ。
 ロシア物って歪んだ世相が背景にあったせいか、独特のストーリー展開があって(やや狂気的、非日常的)、しかも登場人物の名前が覚えにくい。
 でも、私はけっこう好きだ。

 と言いながら、去年の夏に買った「アンナ・カレーニナ」の第1巻をまだ半分ぐらいのところで中断している。“私”を見習わなきゃ。
 でも、再読を含め、いろいろ他のを読みたくなるですもの。
 浮気性なのかしら……

 そうそう、文庫「TVピープル」には、「我らの時代のフォークロア ―高度資本主義前史」という作品も収められている(初出は“SWITCH”1989年10月号)。
 この話、“僕”と五反田君(ダンス・ダンス・ダンス)と直子(ノルウェイの森)の、「ついに実現“夢の共演”」のような話である。“夢”ってことはないか……

 さて、今日は出張である。
 飛行機[E:airplane]に乗って関西方面へお出かけである。
 行ってまいる、マイル…… ← あっ、ぁっ、ごめんなさい、堪忍してぇ~っ!

陶酔したクレーメルの危ない顔が忘れられない……

 辛口批評家H.C.ショーンバーグに言わせると(「大作曲家の生涯」:共同通信社)、《結局のところ、彼は最上の作品では個性的な表現を打ち出し、二流作曲家の間に名誉ある地位を占めるに値するわけだ》、というシベリウス(Jean Sibelius 1865-1957)。

 そのシベリウスが書いた唯一の協奏曲(ただし、協奏的作品はほかにある)、ヴァイオリン協奏曲ニ短調Op.47(1903/'05改訂)。

4c6aff87.jpg  シベリウスは若い頃にヴァイオリニストを目指したことがある。だからヴァイオリンの曲は得意だったかも……と思いきや、ショーンバーグ曰く、《彼のヴァイオリン曲は『協奏曲ニ短調』を除いては、つまらないサロン作品》なんだそうだ。
 でも、書いてあるようにこの協奏曲のことは認めている。一応。それにしても辛口だ。毎晩、酷評された作曲家たちの亡霊に悩まされてなきゃいいが……

 この曲、いまでこそヴァイオリン協奏曲のなかでも名曲に数えられるが、初演された時はどちらかといえば不評であった。
 美しいけど冗長だというのだ。美人だけど鼻の下が長いっていうイメージだろうか?そんなの最初っから美人とは言わないか……
 そこでシベリウスは大幅に改訂、1905年の改訂版初演は成功を収め、その後も評価が高まっていったのでありましたとさ。めでらし、めでたし……
 
 私がこの曲をコンサートで聴いた経験は2回。しかも意外なことに、札響では聴いたことがない。

 1回目は1987年11月のこと。
 北海道厚生年金会館で行なわれたスイス・ロマンド管弦楽団のコンサート(指揮はアルミン・ジョルダン)においてで、独奏はギドン・クレーメルであった。
 すごい演奏だった。
 座席がステージに近かったせいもあるが、クレーメルの音楽への没入具合、気迫がガンガン、ビンビン伝わって来た。
 口を半開きにして、いかりや長介を上回る下唇ブルブル、かつ首を大きく振りながら奏であげる姿は、ある種の狂気すら感じた。そのうち顎からヴァイオリンをはずし、口に突っ込むじゃないかと思ったほどだ(特に終楽章の中間部が圧巻。幽体離脱一歩手前!)。
 そのうち口元からよだれが楽器に垂れるんじゃないか、それがこっちに飛んで来なけりゃいいが、と心配かつ興味本位で見入ってしまった。
 これがクレーメルという名ヴァイオリニストで、すばらしい音楽が目の前で繰り広げられているから感動的だが、見知らぬおじさんが、いやたとえ多少知っていたおじさんだとしても、同じような表情で目の前に立っていたら、間違いなく変態、あるいは危険な人だ。間違いなく多くの人は恐怖を感じて逃げ出すだろうし、犬だって最初のうちはバウバウと吠えかかるものの、すぐにキャンキャン態度を一変し逃げ去るだろう。

 もっともこれがクレーメルの持ち味(?)らしい。
 鈴木淳史の「クラシック 悪魔の辞典」(洋泉社新書。現在入手不可とのこと)では、クレーメルの項に次のように書かれている。

 《今にもヨダレを垂れ流しそうな、だらしない陶酔モードの面持ちで、多彩で理性的な演奏を引き出すギャップがたまらなく、狂気じみてて感心させられるヴァイオリニスト》

 まさにあの夜、私が目にした姿とまったく同じである。
 どこででもやってるわけね……彼ったら、もぅ……
 でも、本当にすばらしい演奏だった。

 そして、昨日私が「クレーメルがフランクのソナタを弾いたなら……」って、怖いもの見たさ的に思っている意味をご理解いただけるでしょうか?

 2回目は1990年6月、PMFの最初の年のロンドン響の演奏会(札幌市民会館)。指揮はM.T.トーマスで独奏は五嶋みどり。
 これまた良い演奏だったが、どうも人間味にいま一歩欠けるような感じで私は感情移入できなかった。私がサイボーグだったら感動した可能性はある。
 演奏が終わり休憩になってロビーに出ると、外人の女性が「She is great!」と友人らしきこれまた外人に話していたが、確かにああいう完璧に近い技術はGreatだが、どうもTVを観ているような、空気を共にしているような実感がなく、あまり楽しめなかった。

56dece80.jpg  そんな私がたまに聴くのがチョン・キョンファの独奏、プレヴィン指揮ロンドン響のCD(たまに聴くというのは、この曲自体をそうしょっちゅうは聴かないという意味)。1970年録音(Decca)。
 すっごい心にしみるって演奏ではないんだけど……。なお、掲載したのは輸入盤の写真。国内盤は↓のようなジャケット・デザイン。

 この曲の第3楽章は、ダッダダ、ダッダダ、というリズムで始まる。
 しかし、ある雑誌に「知ってた?」的に書いてあるのを読んでスコアを見てみると、同時にダダダッ、ダダダッというリズムも刻まれている(掲載した楽譜はオイレンブルク社のもの)。

 これが実際にどういう効果をあげているのかはわからないが、凝っていることは確かである。

 

堅そうな人が書いたエロティック・クラシック!

 法悦だとかエクスタシーだとか、あえて断らなくても十分に官能的な曲がある。
 とにかく聴いていてHっぽい。何が?と言われると答えられないが、でも色っぽい世界が繰り広げられる[E:heart02]。

 それは、フランク(Cesar Franck 1822-90)のヴァイオリン・ソナタ イ長調(1886)である。
 厳格っぽい「交響曲 ニ短調」を書いたのと同じ人とは思えない。実はフランク、むっつりタイプだったのか……

33493627.jpg  この作品、19世紀に書かれた数々のヴァイオリン・ソナタの中でも最高の位置にあるとされている。この曲には旋律美+官能美が溢れかえっている。
 
 許光俊は「絶対!クラシックのキモ」(青弓社)のなかで、この曲について「クラシック史上稀に見るエロ音楽」という見出しで次のように書いている。

 《これがあの粘着質のじっとりした交響曲を書いたフランクなんて信じられない。いや、やはりじっとりはしているのだが、少なくともここでのフランクは、自分のネバネバ具合を楽しんでいる。そのネバネバがヴァイオリン独奏という演奏形態と見事に合っているのだ。粘りつくヴァイオリンと情欲に満ち満ちたピアノが妖しく絡み合い、のたうち回る。このやりとりは宇能鴻一郎センセイあたりの小説みたいだ。「うふ」改行、のあの世界である。クラシック名曲数多しといえども、これほどまでにエロティックな音楽も少ないだろう。この曲を聴くと、さしものモーツァルトもベートーヴェンもヴァイオリン・ソナタの可能性を十分に知ってはいなかったのだと思う。いや、みんながみんなこういう音楽を書いても困りますがね》

  このソナタは、フランクと同じベルギーが祖国のイザイ(Eugene Ysaye 1858-1931)の結婚祝いとして書かれ(結婚祝いかぁ……。だからかな……)、フランクお得意の循環形式を用いた4楽章から成っている(フランクは1835年に家族とともにベルギーからパリに移り、パリを中心に活躍したため、音楽史上ではフランス音楽として位置づけられている)。
 イザイはヴァイオリンの名手で、技巧的なヴァイオリン作品の作曲もしている人である。

 音楽評論家の大木正興氏はかつて、「ことに第3楽章の幻想性とカノンの手法による清澄な終楽章とはそれぞれ卓越しているだけでなく、絶妙な対照をもって結び合っている」と書いていた。
 私は断トツで第4楽章が好きである。
 
 宇能鴻一郎的というのもわかるが、村上春樹の小説のようにすぐに女性と寝たがる“僕”と、なぜかすぐに“僕”の前では簡単にパンティーを脱ぐ女の子の絡み合いにも通じる。
 どっちがヴァイオリンでどっちがピアノだかわからないけど……
 それにしても、宇能鴻一郎の名前を持ち出すところなんかは、許センセイもマニアック、というか、けっこう前時代的だ。
 試しに紀伊国屋のウェブで調べてみたら、このセンセイの本は現在ほとんど入手不可能という、米軍による爆撃後のバグダッドのような壊滅的状態であった。いやぁ~ん。
 もはや、宇能的ワールドは進化した現代の性の解放にはマッチしないのか……?
 
 …マッチ……たのきん、全力投球! ←意味皆無。

 それはともかく、私は第4楽章で溺れてしまう……実際、私は泳げないし……

 許氏はこの曲のCDとして、同書の中でパールマンのヴァイオリン、アルゲリッチのピアノによるものを紹介している。ただし、そのコメントは「アルゲリッチのピアノが強弱、休符の生かし方、実にエロくていい。パールマンは単なるバカ」、だけど……

 単なるバカかどうかは別として、私は同じパールマンがアシュケナージのピアノと組んだ演奏を聴いている。録音は1968年と古いが、聴いていてけっこうエッチな気分になる(ウソです)。
 ただこの演奏、どこか平板な印象がある。それは録音の古さだけが原因ではないだろう。パールマンとアシュケナージの絡みかたが徹底していないのかもしれない。やっぱりパールマンとアシュケナージがパーシュケナーマンになるくらいじゃなきゃ、薫り高きエロスとはならないのだ。薫り高きエロスって何だ?

 上に載せた写真は私が持っているCD(輸入盤)のジャケットだが、この絵の美しい女性のうつろな瞳がすばらしい。なぁに考えてるんだか……ふふふっ……

 これが、明日の記事で取り上げるクレーメルなんかだったら、倒錯の世界、変態の館へようこそモードになっちゃうのかも知れない(CDはないみたいだけど。←なぜかほっとする私)。

村上春樹の「1Q84」のBook.3が、2010年夏

31da232c.jpg に出版されるという。
 そんな大事な話を、なぜ私に内緒にしておいたのだろう、世間は。
 こんな大きなニュースは、いつどこで明らかになったのだろう。


 昨日、新札幌に用があって出かけたのだが、DUOに入っている丸善にそういう貼り紙がしてあった。早くも「予約受付中」だって。そんなに煽るなって感じがするが……

 ついこの間まで、「Book.3が出るのだろうか」、「これで完結すべきだ」、「いや上・下巻と設定していないということは続きのBook.3が出るはずだ」、といろいろな憶測が飛び交っていたというのに、あれは何だったんだろう。
 村上春樹も「もうBook.3を書いてます」くらいことを、迷える子羊たちに少しは言ってくれてもいいようなもんなのに……
 「好き勝手に無駄な予想しているな。ほうほう……」って思ってたんだろうな、きっと。
 だって、そう思わない方が人間として不自然だもん。それとも、そういう話題で盛り上がっていること自体、知らなかったのだろうか……?まっ、いいけど。

8d8debea.jpg  貼り紙を見て、そこの平台に「1Q84」と並んで置かれていた村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」を買おうと思ったものの、「いや、その前に……」と、同じく村上春樹訳のサリンジャーの「The Catcher in the Rye キャッチャー・イン・ザ・ライ)」(白水社)を買った。
 ただ、申し訳ないが、買った店は紀伊国屋。だって丸善になかったんだもん。なんだか新札幌界隈を無駄に動き回った私。
 紀伊国屋には別訳の本が隣に並んでいたが、そちらは「ライ麦畑でつかまえて」のタイトル。昔から感じてたが、このタイトルを見る限りでは、すっごくおもしろくなさそうである。
 さて、本当はどんな小説か、ちゃんと読んでみることにする。

 その新札幌にはサンピアザ水族館というのがある。
 村上春樹の小説(「羊をめぐる冒険」)にあったような、鯨のペニスの標本は、残念ながら展示されていない(と思う)。
 そこにイベントのポスターが貼ってあった。そのイベントのタイトルはズバリ、「すしネタの生き物たち!」。
 すっごいイベントだ。
 ポスターには、まるでとんでん鮨のカラーメニューのように、ウニやら何やらの新鮮な魚貝の写真が並んでいる。ウニの写真なんか、ご丁寧にカラを割られて、美味しそうなオレンジ色の身が写っている。
 そしてタイトル文字の下には「生きているすしネタにさわってみよう!」

 私は笑った。表には出さなかったが、右心室あたりは爆笑していた。
 趣味は悪いが、よくこんなこと考えたものだ。立派!
 生魚を私はあまり好まないが、これを目にしたせいで、昼食のためにサンピアザ地下の回転寿司屋に行ってしまったではないか(おそらく、あのポスターを見て、「わっ、すごぉ~い!水族館に行ってみよっ!」という人よりは、「なんか寿司を食いたくなったなぁ」と思う人の方が多いだろうし、そういう発想の方が自然だと思う)。

 実際、サンピアザ水族館のホームページを見ると、寿司屋とのコラボ企画で「 水族館をごらんになった後は、アークシティー内のお寿司屋さんへGO!」とある(アークシティーというのは新札幌にあるホテル)。
 でも、生きた寿司ネタをさわって寿司屋に行こうなんて、水族館の飼育係たちは魚介類に愛情を感じているのだろうかと思ってしまうし、客の方の神経もそこそこずぶとくなきゃできないことだろう。
 羊ヶ丘展望台で草を食む羊[E:aries]を見ながらジンギスカンを食べている人たちよりは、ずっとマシだと思うけど(羊ついでに、「羊をめぐる冒険」の舞台というかモデルになった場所・十二滝村は士別市であると、どこかで耳にしたことがある。確かに士別市は羊(サフォーク)を売りにしているの街である。しかし、美深町がモデルだという説もある。確かに鉄道でその村に行く描写に照らし合わせると、かつてあった美幸線の先の美深町仁宇布の方がぴったりする。村上春樹自身はこのことについて、どこかで言及してくれているのだろうか?)。

 その回転寿司屋だが、全国チェーンの「平禄寿司」。
 残念ながらアークシティー内の寿司屋ではなく、サンピアザの地下にある店である。
 ここの寿司では牛タン、そしてカキ燻製のタルタルソースの軍艦巻きが美味。ガスバーナーで牛タンをゴォォォォ~ッと火炎噴射焼きし、客の間で不公平感が出ないよう、均一な大きさになるよう配慮された機械握りのシャリにそれをのせて供される牛タン軍艦巻きは、特に美味い。
 主流派でなくてすいません。

979b3a5b.jpg  そういえば、今日どこかで「秋のオータム・フェア」っていう文字を見かけた。
 そりゃ秋はオータムだわな……
 あっ、新札幌でではありません。誤解なきよう……

 そのオータムだが、わが家の庭ではまだバラがけっこう咲いている。
 秋のオータム・ガーデン・フェアって感じである、る、る、る。
 上に載せた写真はミミエデンというバラ。地植えで育てていると、どうしても花が傷み色も悪くなるのだが、今回はなかなか良い色で咲いてくれた。
 また、ハーブたちも聞きわけのない保育園児のように元気。ミントの花も良く見りゃ可憐(下の写真)

 そして、連休4日目の今日の天気は雨模様。
 ついでに、またニワトリのごとく早く目が覚めてしまった。
 4:30……

 独り、こっそりと「おはよう!」って呟いてみた……

タンゴは死の象徴……シュニトケのCG第1番

361102fc.jpg  シュニトケ(Alfred Schnittke 1934-98)の「コンチェルト・グロッソ(Concerto grosso(合奏協奏曲))第1番」(1976-77)。2台のヴァイオリン、ハープシコード(チェンバロ)、プリペアードピアノ、弦楽器(21)のための作品である。

 プレリュード、トッカータ、レチタティーヴォ、カデンツァ、ロンド、ポストルーディオの6つの楽章から成るが、レチタティーヴィとカデンツァ、ロンドとポストルーディオは続けて演奏される。

 シュニトケによれば、この曲の冒頭は全部作曲した後にくっつけたという。
 つまり、プリペアード・ピアノ(細工したピアノのことを言うが、この作品ではピアノ線にコインをはさんでいる)による冒頭の俗っぽい、しかしとても印象に残る冒頭のメロディーは最初はなかったのだという(A.イヴァシキン著「シュニトケとの対話」秋元里予訳:春秋社)。

 第2楽章は全体にヒステリックだが、ふと切ないメロディーが挿入される。第3楽章は祈りのような音楽。第4楽章は独奏のヴァイオリンが力強く掛け合う。
 第5楽章はバロック的スタイルの、実に魅力あふれる楽章。シュニトケならではの蚊の大群のは音のような響きと絡み合いながら進む。突然現れるワルツとタンゴのパロディー(このタンゴは死と結びついていると、シュニトケは語っている)。そして、冒頭の旋律が再び鳴り響き、音楽はクライマックスを築く(上述のように、この冒頭旋律はこちらが先に書かれ、あとで冒頭にも加えられた)。この楽章は曲中でもっとも感動的である。
 終楽章は「何かを伝えたいが、うまく言葉が見つからない」といった感じで、途切れ途切れになるように終わる。

 シュニトケの音楽は現代作品とは思えないほど耳に心地よく響くメロディーがあるかと思えば、前衛バリバリの顔も持っている。むしろ、バリバリの表情の方が多い。
 しかしながら、そのとっつきにくい表情も、何度か繰り返し聴くと、今度は忘れられないものとなる。

 ここでは、オレグ・クリサとリアナ・イサカーゼのヴァイオリン、シュニトケのピアノ、サウリュス・ソンデツキス指揮グルジア室内管弦楽団の演奏によるCDをご紹介。1983年録音。トリトーンのDMCC26025。ただし現在は廃盤のよう。シュニトケ自身が演奏に加わった、貴重な演奏なんだろうけどね……

 シュニトケについてはこれまで、交響曲第1番第5番(これは合奏協奏曲第4番でもある)、「イン・メモリアム」、「真夏の夜の夢、ではなくて」、ピアノ五重奏曲などを取り上げてきたが、最近の私にとって集中的に聴きたくなっている作曲家である。
 また、あらためて取り上げてみたいと思っている。

 連休3日目の朝を迎えたわけだが、今日もまた誰からも要求されていないのに、まったく不必要なほど早くに目が覚めてしまった。起きてからややしばらく時が経過したというのに、いまやっと6:00である。あぁ、oclock……
 ずっと疲れ気味で、連休中はせめて1日でも朝寝坊してやろうと夢に胸を膨らませていたのに、ハト胸のハトの胸板が内藤の胸板になってしまったかのような感じだ(理解できない人は細かなことを考えなくてよい)。どうしてこんな体質になってしまったのだろう。単に加齢とは言えないような気がする。無呼吸症候群もしくは更年期障害も疑ってみなくてはならない。

 おまけに、起きて来るとリビングが臭い。
 実は昨日の夜、ジンギスカンを食べたのだが、その臭いが残っている。
 勘弁してくれ……ここはサッポロビール園かっ!
 そういう臭いが漂っている。鼻だけじゃなく、体全体を脂っこくするような……
 シャブ、いや、ファブリーズしなきゃ。
 それにしても、昔はジンギスカンといえばごちそうだったのに(しかも昨日は、高級品の“カネヒロのロース・ジンギスカンであった)、いま食べるとあんまりおいしく感じない。いや、口に入れたときに広がる羊肉独特のクセが、むしろ苦手になってしまった。村上春樹の“羊物”の読みすぎのせで、羊を食することに抵抗を感じるようになったのだろうか?
 更年期障害も疑ってみる必要があるかもしれないけど……

 メェ~

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