2月27日、15:00~、Kitara。
指揮・高関健、フルート独奏・工藤重典。
前日と同様に好演。いや、安定感という点ではこの日の方が勝っていたのではないか?
1曲目のモーツァルトのフルート協奏曲第1番。
工藤のフルートはとてものびやかで、ときに小鳥のかわいいさえずりのように愛らしい。また、聴いていて安心していられる確かなテクニックがある。
しかし、昨日も書いたが、どこか音がこちらに通りきらないところがある。
それは音量とも違う。
なにか透明なカーテンがステージと私との間にかかっているかのような、ある種のもどかしさがある。
これは“生”のせいなのだろうか?
再生装置での音に慣れすぎてしまっているせいなのだろうか?
モーツァルトが始まってすぐ。右側後方から高いびきの音が聞こえ、それは何度か続いた。
あのさぁ、眠ることはまったく構わないし、好きにしてくれていいんだけど、いびきの音で妨害する権利はあなたにはない。勘弁してくれよ……
2曲目のショスタコーヴィチ。
第1楽章開始後の弦のpp部分もこの日は安定していた。
全体的にみれば、昨日よりもまとまっていた。
しかし、私はほんの少しだが、粗削りだった前日の演奏の方が良かったような気がする。
何というか、2日目になって指揮者とオーケストラの関係がより調和したせいで、緊張感が微妙に、本当に微かに薄れてしまい、それがこの曲がもつピリピリとしたものを平安化しまった気がする。それは、どこが、ということではなく、本当に微妙なニュアンスなんだけど……
ただ、誤解なきよう言っておくが、この日の演奏もすばらしい出来栄え。
人によってはこの日の演奏の方が良いという人もいるだろう。
2日目になって私自身の緊張感が薄れたのではと指摘する方もいるだろう。私もそうかなと考えてみた。しかし、昨日は隣の席に妻が座っていたのだ。金曜日とは比べものにならないくらい、私は緊張していたはずだ。緊張のベクトルが違いすぎるけど……
金曜日の演奏について、聴きに行っていた私の息子が思ったのは、「ピッチが合っていなかった」「トランペットがだめだった」ということだそうだ。
私は楽器をやっていないのでピッチのことはよくわからないし、あの日ピッチがそんなに合ってないとは感じなかった。ショスタコーヴィチの音楽にある特有の“和音”やオーケストレーションによる音色のせいで、息子はそう感じたのかもしれない。
トランペットについては、2日とも私も気になったのは、第1楽章の終わり近くの3本によるファンファーレの部分だ。
私が「悲嘆のファンファーレ」と勝手に呼んでいるこの箇所(楽譜参照。掲載譜は全音楽譜出版社のスコア)、奏者にとってはいきなり高い音で吹かなければならないのですごく難しいと思うのだが、重要な聴かせどころでもある。しかし、今回の演奏では両日とも決してうまくはいったとは言えなかった(特に初日)。
金曜日の演奏について、第2楽章の後半で高関がオーケストラをせきたてるようにテンポ・アップさせたと書いたが、昨日の演奏ではそのようなことはなかった。
考え直したのか、金曜日はたまたま勢い余ったのか、あるいは金曜日にそう感じたのは私の思い違いだったのか……(第3案ではないかと、急速に自信がなくなってきている)。
第4楽章のフルートのトレモロ(フラッター・タンギング)の箇所は、昨日も実に魅惑的幻想的に響き渡った。ここは、もはや私にとって快感スポットとなってしまった。
曲が終ってすぐ、確かに最後の音も消え去ってはいたのでフライングではないが、拍手をした人がいたが(でも、バツが悪いと思ったのか、すぐにその拍手は自信なげに5拍ほどで消失した)、あと2~3秒は待ってほしかった。静寂がほしかった。
曲が終ってすぐの拍手には2種類ある。
1つは感動、熱狂のあまり我慢できなくて駆り立てられるようにする拍手。
もう1つは、極端に言えば「オレ、この曲知ってんだもんね。これで終わり。ちょっと通ぶって最初に叩こうか」ってもの。
前者は強奏で終る曲の場合が多く、だいたいは会場全体でウワーッって感じで巻き起こる拍手だ。
後者は、曲の終りがわかりにくいものや、珍しい曲のときに多い。
ただ、静かに終わる曲の場合、そのあとに残る静けさも音楽の一部だと思えば、空気をぶち壊さないよう少し待ってほしいと私は願う(金曜日は十分な無音の余韻があった)。
もう1つ、曲が終わる直前、ステージ上手の方(ステージ上なのか客席なのかはわからない)で大きな雑音が発生した。これも残念だった。
金曜日に比べ――これは2日連続で行ったときにいつも土曜日の公演で思うのだが――観客音、つまり客席での雑音が多く感じた。これも残念なことだ。
この日もステージにはマイクロフォンが何本も立てられていた。
CD化のための録音だろう。
けど、会場雑音がけっこう録音の妨げになるんじゃないかなと思った。
それから、演奏とは直接関係ないことの、文句でも意見でもなく、単なる感想を。
開場したときに、入口の内側に札響の専務と事務局の方が、たいていは2人並んで立って、お客さんに会釈している。出迎えの姿勢としてはすばらしいことだ。昔の役所的な姿勢に比べると、大きな前進。なんせお客様あっての演奏会なのだから。
せっかくそうしているのだから、事務局の方、そんなに悲しげな表情でたたずんでないでください。まるで弔問客を出迎えるかのよう。
大丈夫、悲しいことなんかないんだから……
終演後もそう。
楽員の方々が何人も、疲れているんだろうけど、笑顔で「ありがとうございました」と客を見送っている。聴いていた客の方も温かな気持ちになる。
でも、あの事務局の方。
やはり、暗い……
そういう顔だからしょうがないと言うのかもしれないが、顔の問題ではなく、表情のこと。
誰も愛想をふってくれなんて言ってない。
弔問客を見送るんじゃないんだから……ねっ?
余計なお世話だろうが、そういう場に立つのがどうしても苦手なら、無理に並ぶ必要もないと思うし……
いずれにしろ、ストレスためないでね。応援してますから。
February 2010
昨日、2月26日、19:00~。
札幌コンサートホールKitara。
指揮は札響正指揮者で、ここ数年すばらしい演奏をしてくれている高関健。ホント、最近ほとんどハズレがない。
独奏は札幌出身のフルーティスト工藤重典。
曲目はモーツァルトのフルート協奏曲第1番とショスタコーヴィチの交響曲第8番。
私が工藤重典の演奏を生で聴くのは実に30年ぶり。
1979年11月の札響第198回定期以来である。
このときの指揮者はジャン・バティストゥ・マリ。
工藤はイベールのフルート協奏曲を好演。演奏が終わった後、マリが「どうだ、こいつ、故郷ですごい演奏を披露しただろ」とばかり、満足げに工藤の手を引っ張って何度もカーテンコール“させた”光景が印象に残っている。
ところで、このコンチェルトの前、コンサートの1曲目に演奏されたのがドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。1発目でこの曲。オケのフルート奏者はさぞかしやりにくかったんじゃないだろうかと思う。
さて、昨夜の1曲目、モーツァルトのフルート協奏曲第1番。
このコンチェルトは第2番に比べると華やかさが若干乏しく地味目だが、既に完成していたオーボエ協奏曲を編曲した第2番と異なり、初めからフルートを独奏楽器として作曲されたため当時のフルートの音域をフルに使っている。そのためフルーティストにとっては、実は難曲らしい。
工藤のフルートはとても澄んだ音色で伸びやか。
さすが、という感じだ。
そして実際に生で聴くと、この曲が高音から低音までいやらしいくらい行き来するのがあらためてわかる。
工藤はそれを楽しんでいるかのように吹く。
ただ、音色も美しく音量もあるのに、いま一つ“通り”が良くない気がしたのは私だけだろうか?
高関の演奏は、ピリオド風ではなく、ややロマン的な解釈。オーケストラの演奏はきっちりとソロに付き添い、みごとな“協奏”を行なった。
2曲目のショスタコーヴィチの交響曲第8番。
第7番「レニングラード」とともにショスタコーヴィチの“戦争交響曲”とされる作品。
しかし、第8番は《表題的な要素はなく、私の思索と体験を反映している。たくさんの内面的、悲劇的で、ドラマチックな葛藤を持っている》(《 》部分は、全音楽譜出版社のスコアの寺原伸夫氏の解説による。以下同様)。
ショスタコーヴィチはこの交響曲で、《耳をつんざくような戦争の巨大なハンマーの音と、そこに生きる人間の精神生活の情景を描写したかったのだ。その不安、その苦悩、その勇気、その歓喜について語りたかった》のである。
とはいえ、ショスタコーヴィチの音楽に潜む“素顔”は必ずしも本人の言葉通りではない。そのあたり、先日取り上げた鈴木淳史氏の指摘が説得力をもっている。
このシンフォニーの最終楽章(第5楽章)を聴くと、私は、ショスタコーヴィチがマーラーの交響曲第9番の第3楽章「ロンド・ブルレスケ」を意識したのではないかと思えてならない。
マーラーの「ロンド・ブルレスケ」(ブルレスケとは道化のこと)。この楽章には「きわめて反抗的に」という指示がある。
マーラーの方の冒頭部分は上の写真(掲載譜は音楽之友社のスコア)、ショスタコの冒頭方の部分は2枚目の写真(掲載譜は全音楽譜出版社のスコア)である。
ショスタコーヴィチの第5楽章は、作曲者が「明るく田園風な特質をもった喜びあふれる音楽」と語ってはいるものの、どこか空虚で、ヴァイオリンのソロが弾く箇所(下の写真。全音スコア)なんかは骸骨がおどけて踊っているかのようだ。
また、マーラーの「ロンド・ブルレスケ」には、レハール(Franz Lehar 1870-1948 オーストリア)のオペレッタ(バケラッタじゃないよ)「メリー・ウィドウ(Die lustige Witwe)」(1905初演)からの引用があるというが、ショスタコーヴィチの前作、つまりもう1つの“戦争交響曲”である交響曲第7番「レニングラード」の第1楽章の「戦争のテーマ」も、「メリー・ウィドウ」から引用されている。
そう考えると、ショスタコの第8番終楽章は、マーラーの第9の第3楽章に何らかのつながりを持たせていると 考えたほうが自然なように思える。
この日の札響の演奏は、第1楽章の開始直後、弦がppで歌うところがやや安定せずはらはらしたが、すぐに回復。対位法的な絡みを叙情的に織り上げていく。
この楽章の絶頂の息苦しさ!まさにこれは戦争の悲劇。爆発の後のイングリッシュ・ホルンの歌は胸を締めつける。生でないと、このあたりの微妙なニュアンスの感動は伝わりにくい。
第2楽章のスケルツォ。第8の演奏全体を通して感じたが、この日はピッコロ、フルートが実にすばらしかった。
高関は終り近くになってアクセルを踏み、テンポをあげる。オーケストラがついて行ききれず破綻するのではと心配したが、みごとに応える。
第3楽章。この不思議な行進曲。各パートのソロが見事。特にトランペット、聴かせてくれた!
そのまま破壊的な迫力で第4楽章へ。この楽章はショスタコーヴィチが他の作品でも象徴的に使っているパッサカリアという形式。途中の、4本のフルートのトレモロ奏法による幻想的な響きはCDではなかなか十分には聴きとれないもの(掲載譜参照)。
第5楽章。この楽章でのオーケストラの炸裂は、「あぁ、第1楽章の苦悩は何にも解決していないんだ」ということが、生だといっそう印象付けられる。
そして、諦観の静けさ……
戦争はまだまだ終わらない。
しみたぁ~。
高関は弱音から最強音まで札響の音を引き出し、くショスタコーヴィチという二重人格者の多重人格的作品を、みごとに演奏しきった。
ただ、会場のお客さんの入りはいま一つ。拍手もそれほど盛大とは言えなかった。
ショスタコーヴィチはなんだかんだ言っても、札幌の聴衆にはまだまだメジャーではないのか?
今朝、同じく会場に足を運んでいた(ということも今朝になって知った)私の高校生の息子に、「昨日の演奏良かったな」と言うと、「えっ?そうかなぁ」という答えが返って来た。仲が悪いので、それ以上突っ込んだ会話は続かなかったが……
熱くなってたのは私だけなのか?(実際、第1楽章の爆発のあと、イングリッシュ・ホルンが鳴り出したとき、私は目頭が熱くなった。歳をとると涙腺も弱くなるらしい)。
でもでも、今日27日15時からのB日程も楽しみだ。
昨日から会場では、昨年6月の定期で演奏された「カルミナ・ブラーナ」のライヴCDが先行発売された。
私も早速購入。
聴くのが楽しみだ。
あの感動をもう一度!
また、昨日の演奏でも、ステージには何本もマイクが立っていた。
このショスタコの8番の演奏がCD化されるとしたら、なんと素敵なことだろう!
私は札幌の生まれである。
なんとなくスクスクと育ち、5歳になったとき、行きたくもないのにママハハの差し金で札幌の幼稚園に入園させられた。ママハハとは私の実母の当時のあだ名である。
この幼稚園で、私は人生で初めて女性を好きになった。
いや、それまでは男性が好きだった、という意味ではない。
同じクラス(ゲンゴロウ組だったかアメンボ組だったかは記憶が定かでない)の女の子を好きになったのだ。とは言っても、名前も覚えていないし、ほとんど話もしなかった。一度園バスの中で、席が隣になったことがあるだけである。だいいち、顔をまったく覚えていない。きっと年に一度の発情に襲われただけだったのだろう。
この幼稚園に半年ほど通っただけで、私は浦河に引っ越した。
いや、私1人が引っ越したのではない。ありがちな話で恐縮だが、父の仕事の関係である。
しかし、これが私にとって人生の転機となった。
なぜなら、私は幼稚園に通うのがイヤでイヤでたまらなかったからだ。
ままごとはバカバカしいし、お遊戯は恥ずかしいし、折り紙を折れなかったのだ。
しかも担任の先生は、オバタリアンのような風貌で(そのころはオバタリアンというキャラは生まれていなかったが)、すごく厳しくて、だからいい年して結婚できないんだよ、って陰口をたたきたくなるような人だった。
幼稚園をやめることは苦どころか自由の空へ飛び立つ機会であった。羽があれば……
もはや、顔も思い出せない発情相手の子のことに未練を持ち続けている場合じゃない。
このまま幼稚園に通い続けていたら、私は真のオチこぼれ幼稚園児になってしまう!
そういう不安から解消されるのだ。
それに実はその女の子は、私より前に引っ越して幼稚園をやめていたのだ。
浦河に引越し、小学校に入るまでのしばらくの間、私は心に休養を与えた。
幼児にだって保養は必要なのだ。
このあと私は浦河の小学校に入学した。
入学から数ヶ月経ったある日の学校帰り。
私は佐藤君(話の流れから、彼は同じクラスの友人と理解してもらって構わない)と一緒に歩いていた。
すると後から、やはり同じクラスの沼沢えり子ちゃんがやってきた。彼女は私に向かって唐突に言った。
「わたし、あんたのこと好き」
あまりにも唐突だったので、私は佐藤君が彼女を利用して腹話術をやっているのかと思った。だが、佐藤君は「ひょぇ~」と叫んだから、腹話術ではなく、本当に彼女が発した言葉だとわかった。
沼沢えり子ちゃんは、チョット見ではとても小学1年生には見えなかった。背丈こそ1年生だが、顔には疲れきったアラフォーのOLのように(人によるが)目尻にしわがたくさん刻まれていたからだ。それに、男の子を「あんた」と呼ぶ非洗練さも兼ね備えていたのだ。
しかし、その話はそこで終わる。
佐藤君が冷やかすからさすがのえり子ちゃんも私に近づかなくなったのだ。
時は流れる。
小学5年生のときに札幌の学校に転校。
このクラスにはあの優秀な高山君がいた。
神童と呼ばれていた子もいた。本名が新藤だったからだ。
札幌オリンピックがあり、浅間山荘事件が起こった。
時は流れる。
中学2年。
美少年だった私は美青年になりつつあった。
現在では微高年になってしまっていることが不思議であり、月の満ち欠けに怒りすら覚える。
ところで、中2のときに1学年下の子に交際を申し込まれたことがある。
学校の必修クラブで、理科クラブというどーでもいいようなものを選んだ私だったが、その1年生の女の子――瓦(かわら)という珍しくはないが言いにくい姓だった――も退廃的な理科クラブを選んで入ってきたのだった。
ある日の部活(といっても、時間割の6時限目)で、これまたどーでもいい実験をやらされた(あまりにどーでもいいので内容は忘れた)のだが、そのとき瓦さんは私にハートがドキューンしたらしい。私自身はまったく記憶がなかったが、彼女が使った試験管を「それも僕が洗っておくからいいよ」と何気なく言って、洗い物を引き受けてあげたのだ。
そのすぐあと、「付きあって下さい」というお手紙が、朝の靴箱の中、臭気に満ちた私の上靴と重なるように入っていた。
私は断った。
このような女性とお付き合いし、万が一結婚でもするハメになったら、私は一生洗い物をさせられるに違いない。
でも、彼女は簡単には食い下がらなかった。
別な筋からの情報では、彼女の家はラーメン屋を営んでいるという。
なら、なおさら私は洗い物地獄に陥ってしまう。
何度か丁重にお断りしていたが(見た目はそこそこかわいらしかったのだが、なぜか私は彼女とお付きあいする気にならなかったのだ)、しつこかったので結構強い口調で断った。
そうしたら、事態は一変した。
彼女の友人の女たち4~5人が、私と学校で顔を会わせるたびに「バ~カ」だの「クズ」だの言うようになった。瓦が鬼瓦に変貌し手下どもに指示を出したのか、それとも彼女たちの瓦さんへの純粋な友情から自発的に仕返ししてやろうと思い立ったのかは知らないが、どうして私がそんな目に遭わなければならないのか?
王家のお姫様に見初められ、それを受け入れるか死を選ぶか、って感じじゃないか、これなら。
同じ頃、私の友人は、やはり1学年下の女の子にしつこく付きまとわれ、「うるせーぞ、このブス!今度寄ってきたらツバひっかけるぞ」とひどい断り方をしたにもかかわらず(破ったノートの切れ端に赤ボールペンで殴り書きしたものだった)、何の復讐もされていない。
こんな仕打ちに比べ、私は「もう、僕のことはあきらめてください」と言っただけなのに……。メソメソ。
なんで、1年生の女の子たちにこんなに悪く言われなきゃならないわけ?
バーバー(Samuel Barber 1910-81 アメリカ)の序曲「悪口学校(The school for Scandal)」Op.5(1931)。
「弦楽のためのアダージョ」で有名なバーバーは、保守的な作風ながらその中にアメリカ的な感覚を盛り込んだ作品を書いた。
序曲「悪口学校」はバーバーの最初の管弦楽曲で、アイルランドの劇作家シェリダン(Richard Brinsley Sheridan 1751-1816)の喜劇「悪口学校」の持つ精神を音楽化したという演奏会用序曲。
この曲によってアメリカ国内においてバーバーの名声が確立した。
私が持っているCDは、最近有名になってきた女性指揮者のマリン・オールソップの指揮、ロイヤル・スコッティシュ管弦楽団の演奏のもの。ナクソス。1998年録音。カップリングはバーバーの交響曲第1番、第2番他。
バーバーは「悪口学校」で有名になったが、私は中2の一時期、悪口を学校で言われ、「バーカ」と罵られていたのだ。
ふん、性格ブス軍団め!
その軍団の中に、チョイ悪系の美人がいたのが、またまた悔しい……
おやおやである。
異例の本日2本目の投稿。
札幌交響楽団が音楽監督・尾高忠明の承認を得ずに、CD発売のために1月の定期演奏会を録音。
尾高氏はお怒りプンプン。
専務理事と事務局長が譴責処分、事業部長は事業部次長に降格。
北海道新聞に記事が載っていた。
録音することを音楽監督に伝えるのを失念していたっていうが、あまりにもお粗末。
それにCD化されていないのに、私にはけっこう重い処分だと感じる。
1月の定期演奏会は、ジョセフ・ウォルフの指揮。メインはシベリウスの交響曲第2番。
イギリスの若手指揮者ジョセフ・ウォルフは、あのコリン・ディヴィスの息子。
う~ん、尾高氏とはキャリアの差はかなりあるけれど、“イギリス”ということでかぶるのは間違いない。
だから、すっごくお怒りになったような気がする。
楽員の動揺とか怒りとかやれやれが、明日の定期演奏会に影響が出なきゃいいな……
ショスタコーヴィチの交響曲第8番、気が狂いそうなくらい楽しみにしてるんだから……
昨日、会社で立て続けに2人に「どうした、そんな生気(せいき)のない疲れた顔して?」と言われた。
村上春樹の小説に出てくる女性が、しばしば主人公の“僕”に対して「あなた、ひどい顔してるわよ」と言うのを思い出してしまった(私に言ってきたのは2人ともおじさんだったけど)。
このように続けて2人に言われると、本当に私は生気がないんだ、疲れてるんだ、と思わざるを得ない。
先日食べたハンバーグは生だったのに、私自身は焼けすぎのカサカサ、パサパサのようだ。
どこかで読んだ話だが、すっごく顔の色艶が良い人でも、周りのものが結託してわざと「顔色が悪いよ」と言うことにすると、3人目に言われたときには実際にその人の顔色が悪くなるらしい。病は気からである。
私だって、ダメ押しでこの時もう1人同じことを言う人がいたら、「もう自分は死んでいる」と認めるしかない心境になったろう。
でも、2人目が私に言ったのは、「昔、別なセクションにいたときにはすごく若々しかったのに」だった。
そりゃそうだ。昔は生物学的にも実際若かった。
そして、今のところ私はアンチ・エイジング対策はしていないのだ。
老人に対して「生まれたときには若かったのに……」と言うのと同じだ。そんなことは、私に言わないで欲しい。私にぴちぴちを求めてどーするの?
ただ、慢性的な寝不足が私に疲労オーラを放出させていることは認めよう。
だって、年とともに朝早く目が覚めるんだもの。
眠いけど、起きちゃうんだもの。
これじゃあ、早起きは三文の得、じゃなくて三途の川行きだな……
なんとかしなきゃ。
§
レストランでの生焼けハンバーグ事件については、世の中けっこう生焼け料理に遭遇するハメになった方がいるようで、多くの方に共感するコメントをいただいた。2人だけど……
そこで、本日は生焼けではなく、私が遭遇した、火を通しすぎた“絶妙なダシのそば”事件。
あれは私が就職した年かその2年後か3年後か、とにかく覚えていないが、その頃の私がまだぴちぴちだった、初夏のある日のことだった。
隣の課の課長が前日に競馬で勝ったということで、昼にそばをごちそうしてくれることになった(勝ったというわりに、そばかよ……)。
会社からやや離れた古い一軒家のそば屋に行った。そこのそばは味がなかなか良かったしボリュームもあったので、ときどき使っていた。この日もわざわざそこへ出向いた。隣の課長とその課の係長、そしてなぜか私の3人である。
みんなで“だましそば”を注文した。
“だまし”というのは、おそらくあまり一般的ではないと思うが、揚げ玉が入ったものである。ふつうはたぬきそばと言うのだろう。天麩羅かと思いきや、実は揚げ玉。だから“だまし”だ。
そば1杯を持ってくるのも重労働のようなおばあさんが、ぷるぷる腕を震わせながら“だましそば”3つがのったお盆を持ってきた。
おばあさんがそれぞれの前にそばを置く。
ここで運命は決まったわけだ。
私の前に出されたそばは、揚げ玉(天かす)の下にしいたけの切れ端が入っているではないか!
おやっ?
五目そばに入れるしいたけをサービスしてくれたのかな?
そのしいたけを箸でつまみあげると……ぎょへぇ~っ、それは十分に煮込まれすっかりダシが溶け出し、ぺったんこ状態になったカマドウマであった。ご丁寧に、触覚の1本はまだその外皮だけになった虫体に残ったままだ。
うわぁぁぁぁ~っである。
私はそれでも悩んだ。
せっかく隣の課の課長が御馳走してくれるのだ。
へんに騒ぎ立てると心象を悪くする。
いつか直属の上司になるかもしれない(実際、偶然にもその数年後に私の課長となった)。
こっそりよけて、我慢して残りを満足した演技をしながら食べようか。
でも、汁はすすることは絶対できない。
何しろカマドウマは、ただでさえ虫嫌いの私にとっても、とりわけ嫌悪すべきグループに入っているからだ。
そのときである。隣の課の係長がボソッと無感動に言った。
「ねぇ、それ、ベンジョコオロギじゃない?」
カマドウマの別名はベンジョコオロギである。
汲取り式便所の時代、暗くて湿った場所、つまり便槽の周辺などに多く生息していたことからそう呼ばれたらしい。
カマドウマだけでも十分すぎるダメージなのに(カマドウマというのは竈にいる馬という意味だ)、耳からもダメージを与えられたのだ。ベンジョコオロギという言葉で私は湿疹寸前。“だましそば”の“だまし”はしいたけのだましかぁ?
さすがに私の号泣寸前を理解した課長が店のおばあさんを呼び、虫が入っていたことを告げてくれた。
「あっ、あらら、すぐに取り替えますね」
私は「そばはもういいですから、おにぎりを1個だけ下さい」と、蚊取りマットの効果試験に参加して息絶え絶えの蚊のような声でお願いした。
だって、あれはかなりの時間じっくりとそばつゆの鍋で煮込まれたに違いないのだ。いま、この店内で温かいそばを食べているすべての人のつゆに、カマドウマのエキスが入っているのだ。どうして、再度そばなど注文できようか!
そして、その課長。
ほぼ自分のそばを食べ終えようとしたときに気づいた。
「ということは、オレのそばのつゆにもベンジョコオロギのダシが入ってるってことかぁ~?」
そのとおり。
気づくの遅いって……
あの店、調理場の床がいつも湿っていて薄暗くて、いかにもカマドウマがピョンピョンしていそうだもんな。その店、いまはもうなく、跡には近代的なホテルが建った。私はそれを“カマドウマホテル”と呼んでいる(ウソ)。
なぜ私がカマドウマをこれほどまでに憎むのか。
簡単に言えば、見た目が気持ち悪い上、ピョンピョン跳ねて恐ろしいから(ヤツには羽はない)。
浦河に住んでいたとき、学校の裏手の山道を進むと使っていない小さなサイロが道端に建っていた。
小学校の2年か3年のとき、友だちとそこを歩いていて、サイロの中を覗いたことがある。
ちょうど顔の位置ぐらいに開口部があり、そこから中を覗いたのだ。
サイロの中は、地面から1メートルくらい下まで掘られていた。
そして、私がそのとき目にしたのは、開口部の周りの壁に何匹も張り付いていたカマドウマであった。それぞれがヘニョヘニョと触覚を動かしている。
ぎょえぇぇぇぇぇ~っ、であった。
これがトラウマの第1楽章。
第2楽章は札幌に引っ越してから。
中学生のとき。
夏のある日、リビングでTVを観ていたら、視野の端、自分のひざのあたりで動くものがある。
それはカマドウマであった。
やはり触覚をヘリャヘリャ動かしながら、私の上半身に向かって歩いてくるではないか[E:sign01]いったいどこからやってきたのだ[E:sign02]
ドヴァァァァァ~っ、と叫びながら高電圧電気刺激を受けたかのようにパピンと立ち上がったが、その衝撃でカマドウマはとりあえずは私の神聖な肉体からは離れた。
背筋に寒気が走る。
冷蔵庫なら***マークだ。
許せない。
私はキンチョールを取り出し(もしかするとフマキラーだったかもしれない)、そいつに噴霧した。
するとである。
あいつは恐ろしいほど高く跳びはねたのだ。
しかも何度も、方向性もばらばらの無指向性で。
苦しさの余り狂い跳びしたのだ。
こっちにも跳びはねてきそうだ。
あれは怖かった。
すっごく怖かった。
あいつ、すごい脚力だ。
死に絶えるまでじっとしていなかった。
あいつが人間ならオリンピックの跳馬で金メダルが取れただろう。
ということで、この話は第2楽章で終わる。ボロディンの交響曲第3番のように。あるいは、シューベルトの未完成交響曲のように。
第2楽章までで十分だ。
ついでにいうと、だから私はふつうのコオロギも嫌いだ。
スズムシも嫌いだ。
鳴き声が美しいからといって、家で飼育することなど私には考えられない。
これは、歌声が美しいからといって、スーザン・ボイルのブロマイドを収集する気にはならないのと、基本的には同じ精神である。
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の「クルイロフによる2つの寓話(2 Fables after Ivan Krylov)」Op.4(1922)。
2曲から成るこの声楽曲は、第1曲が「こおろぎとあり(The Dragonfly and the Ant)」、第2曲が「ろばとナイチンゲール(The Ass and the Nightingale)」。詞はクルイロフ。
クルイロフ(Ivan Andreevich Krylov 1769-1844)はロシアの劇作家・文学者である。
CDはボリサヴァのソプラノ、モスクワ・コルサヴァトリー室内合唱団他によるメンバーでロジェストヴェンスキーが指揮したものが出ていたが、現在は廃盤(BMG-メロディア。1979年録音。ショスタコーヴィチのスケルツォOp.1のときに紹介したのと同じディスク)。
また、「完訳 クルイロフ寓話集」は岩波文庫で読むことができる。
注文した料理に虫……
経験談をお待ちしております。
ここ数日やや暖かだ。
風は少し強いが、その風もどこか春の香りがする(←おお、まるで吟遊詩人のようだ!)。
もう2月の下旬。
だから、春が近づいて来ないと困ると言えば困るのだ。
でも、雪どけが進むと、冬の間、札幌の街の中を行き交っていた馬そりの姿が見られなくなる。あの、シャンシャンという鈴の音がまたしばらくの間、聞こえなくなるのはとても寂しい。
そう。
北海道はそりの季節が終り、新聞や郵便配達に従事する以外の人々も自転車やバイクに乗れる季節になるのだ(なお、ヤクルトおばさんはシーズンを問わず、三輪原付でシロタ株のように元気に配達している)。
それにしても鈴の音というのはなんとも味がある。
が、小学校の音楽室の引き出しに無造作に突っ込まれているような安っぽい鈴の音は聞けたもんじゃない。赤ちゃんをあやす玩具の鈴もそうだ。
鈴はちゃんとしたものでなければだめだ。
同じ“鈴”と呼ばれているものでも、質、価格でまったく音色が違うのだ。
鈴子さんと鈴恵さんぐらい……言ってることがよくわかんないけど。
赤ちゃんが泣きやまないとき、オーケストラで使うような鈴――マーラーの交響曲第4番で使うような鈴――の音を聞かせてあげたなら、間違いなく泣きやむどころか笑顔になるに違いない(という可能性もゼロではない)。
鈴が効果的に使われている作品としては、いま触れたマーラーの交響曲第4番ト長調が有名だが、モーツァルトの「3つのドイツ舞曲(3 Deutsche Tanze)」K.605の第3曲「そり滑り(Die Schlittenfahrt)」はもっと有名(だと思う)。
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)は「ドイツ舞曲」なる作品を数多く残している。
「6つのドイツ舞曲」という作品は、K.509(1787)、K.536(1788)、K.567(1788)、K.571(1789)、K.600(1791)の5曲がある。
他に、「12のドイツ舞曲」K.586(1789)、「4つのドイツ舞曲」K.602(1791)、「3つのドイツ舞曲」K.605(1791)、「ドイツ舞曲」K.611(1791)がある。
「ドイツ舞曲」がモーツァルトの晩年になってから死の年まで集中的に書かれているのは、生活が苦しくなっていたために、おそらくこういった実用音楽を売ることによって当座の金を工面するためだったと思われる。
「3つのドイツ舞曲」は、第1曲が二長調、第2曲がト長調、「そり滑り」と題されたポストホルンと鈴が加わる第3曲がハ長調である(ちなみに、モーツァルトの作品でポストホルンが用いられているセレナード第9番については先日書いている)。
CDはヴィルトナー指揮カペラ・イストロポリターナによる「ドイツ舞曲集」(ナクソス)を。厚くない響きがこの曲に合っている。1989年録音。
しかし、このCD、現在廃盤のよう。たびたび申し訳ありませんです。
ところで、まさか信じた方はいらっしゃらないと思うが、先に書いた冬に札幌市内を馬そりが行き交うという話は、もちろん他愛もない冗談である。
とにかくだ、やっと長い冬が終わる(←怒ってません)。
といっても、例年4月の上旬までは庭に雪が残っている。
去年はじっとしていられなくて、雪が融けるか融けないかのうちに(といっても、4月にはなっていた)庭を掘り返していたら、冬眠中のカエルを掘り返してしまった。
ごめんね、ケロリーヌ。
そして、わが庭にこの春デビューするバラが決定した。
フレグラントヒル(HT)と凛(FL)である。
先日、サカタのタネに注文。
4月下旬までに届く。
4月下旬ならもう、すぐに地植えできる気候だ。
そんなことを考えていると、薔薇のとげで傷ついたときの痛みの感触が思い出される。
きっと、ボク、ヘンタイあるよ……
おとといの日曜日。
昼過ぎに近くのショッピングセンターに行った。
そこに入っている富士メガネから届いていたDMをフェイス・タオルと交換するためだ。これ、誕生日プレゼントなのである。
ふつうならわざわざ行かないんだけど、メガネの調整もしたかったので行ってきたのであった。
その余計な思いつき、余計な欲が、私に不幸をもたらした。
富士メガネに寄る前に、ショッピング・センター内の洋食屋に入った。
なぜかというと、腹ペコ・ブッチ状態だったからだ。
自分でも驚いたことに、この洋食屋に入るのは初めてだ。
どうして今まで避けていたのか自分でも不思議だ。
そこでグリル・プレートなるメニューを頼む。
デミグラスソースのオムライスとミートソース・スパゲティとエビフライ1本とミニハンバーグが1枚の皿に盛られている。
子供だったら大喜びだ。
私も大喜びだ。
こういうメニューがたいていそうであるように、味は中庸。
でも、満足感は小さくない。
が、悲しい出来事が。
ハンバーグを食べ進んでいくと、中心部が生。
そこだけ残して席を立った私。
黙って会計して店をあとにしようとしたが、どうしても気になったのでレジの生気のないおばさんに聞いてみた。
「あの、ハンバーグの中が生だったんですけど、ビーフ100%でしょうか?」
私は決してクレームをつけようと思ったのではない。
幸い気づいて、生の部分はだいたい残してあるので、たぶん危険はないと思うが、もし豚肉だったら危ない。食中毒というよりも寄生虫が怖い。
私が小学2年のときのクラスメートのおじいさんの話で、実際に事件が起こったのは、それよりもずっと前の話だが、そのおじいさん、原因が謎のまま発狂して死んだという。
死因を調べるために解剖したら、脳に寄生虫がいたんだとさ。
にょろにょろって……
で、どうして脳に寄生虫がいたかというと、その昔、高級なんだ、美味いんだと言って、豚肉を生で、刺身で食べたんだってさ。
くわばら、くわばら……
その話を聞いてからというもの、私は豚肉や鶏肉は完全に火が通っていないと心配なのだ。
生気のないレジのおばさんは「あらっ!」と言って、厨房の方へ入っていった(「あらっ」はないだろうと思うけど)。
待つこと1分。
若い女性が出てきて(この人は調理担当なのだろう)、「うちのは合い挽きです」という。「全部食べてしまったでしょうか?」
「いえ。いちばん赤い部分は残してあります。オムライスも一口残していますが、それは単におなかがいっぱいになったからです」
「申し訳ございません。もし体調不良になりましたらすぐに病院に行って、そのあと当店にご連絡ください」
「はあ。大丈夫だと思います」
このあたりから、私は自分が、ここのハンバーグはビーフ100%か合い挽きかを知ることこそが本来の目的だったような錯覚に陥っていた。もう、生焼けだったことは大きな問題ではないように思えてきた。
だいたい、この会話でわかるように、お店の女性は明らかに食中毒を想定しているのに対し、私は豚肉に潜むかも知れない寄生虫のことを考えている。実際、そのあと、私は腹痛にも吐き気にも見舞われなかった。
「この分のお代は結構ですから」
「えっ?それじゃあかえって申し訳ないです」
急に自分が悪い人のように思えてきた。
店にけちをつける悪い人。
町のダニ。
店の寄生虫。
「いえ、お代は結構ですから」
こうして、私のグリル・プレートはただになった。
それを知った心ない人は(例えば妻)、私のことをクレーマーだという。
そんなつもりはない。
でも、もし私がこの先(寄生虫が頭にまで上がり、さらに巨大化するには時間がかかるのだ)狂い死にし、脳から寄生虫が見つかったとしても、私はその代償をグリル・プレート代1,200円で手を打ったことになる。
そう考えれば、私はなんて欲のない良い人なのだろうとさえ思えるではないか。
なんだか、村上春樹の「蟹」を思い出しちゃった。
それにしても、このところ生焼け事件に遭遇する頻度が高い。
前に昼に食堂で食べた鶏の照り焼きが、相当の生だった(このところ、じゃなくて、もう1年近く前の話だけど)。
ちょいと食味と食感に違和感を覚えたが、かなり食べ進むまで気がつかなかった私も私だ。
2週間前に那覇のガストで食べたチキン・ソテーも中心部が赤いままだった。
これは残した。
この話はずっと心にしまっておいた。
そして今度は豚だ。
でも、不思議と店に怒りはない。
考えてみれば“豚”にまつわるクラシック音楽作品って思い浮かばない。
きわものニックネームをいくつも付けられてしまっているハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809 オーストリア)の交響曲だって、第83番に「雌鶏」っていうのがあるものの、「雌豚」っていうのは、残念ながら、ない。
だから、今日はこのまま終わる……
ドヴォルザークの「スラヴ舞曲第1集」に続いて取り上げるのは、当然のこととして「スラヴ舞曲第2集」ってことになるのが自然だが、この作品、私はけっこう思い入れがあるのでまだ出し惜しみ。
IND氏によるトンボの死骸のような疲労が残っているときに、甘美で切なく、といはいえどこか幸福感のある「スラヴ舞曲第2集」について、書きたい気分にならない。
ところで、IND氏との会食は札幌ESTA10階の四川飯店で行なったが、ここの麻婆豆腐とタンタン麺は本当に美味しい(写真はイメージ。札幌ESTAの四川飯店のものではありません)。タンタン麺はここと江別駅横の“えべつみらいビル”にある「松の実」のものが最高だ(最高に私の口に合う。ただし、この両者の味は対極的とは言わないが、別なベクトルである)。
ひとつだけ気がかりなのは、“みらいビル”というこの建物、あまり明るい未来を感じさせない点だ。
麻婆豆腐については、ESTAの四川飯店のものが、私にはこれまで食べたあらゆるものよりも、ここのが好きである。
で、土曜日の朝、クモの巣に絡まったトンボのような気分で目覚めると、台所に“エバラ担々ごま鍋の素”が置いてあった。
やれやれ、今日の夜はタンタンか……
昨日美味しいタンタン麺を食べたのに……
やれやれ……
ちなみに陳建民(陳建一の父)によると、タンタン麺というのは、四川省で夜鳴きそば屋がこれをかついで売り歩いたもので、担ぐ、つまり担々麺の表記が正しい。よくある坦々麺という字は誤り。
エバラの素も、ちゃんと“担々”と書かれている。
夜鳴きそばと言えば、みなさんすぐにこなきじじいを思い起こすだろうが、クラシック音楽にそのような曲はないので、「スラヴ舞曲第1集」のときにとても良い人として登場したブラームスの、これまた「スラヴ舞曲」つながりで「ハンガリー舞曲集(Ungarische Tanze)」を。
ブラームス(Johannes Brahms 1833-97 ドイツ)は、ワーグナー(Richard Wagner 1813-83 ドイツ)と同時代の大作曲家だが、この2人は正反対に位置する存在だった。
ワーグナーが革新的だったのに対し、ブラームスは古典派であり、抽象的な形式の作品を書いた。オペラも標題音楽も書かなかった。
ブラームスは音楽の発展にはほとんど寄与することがなく、存命中も進歩的な人たちは彼を軽視した。ワーグナー派のウォルフ(Hugo Wolf 1860-0903 オーストリア)は、ブラームスの新曲が発表されるたびに躍り上がってこれに食らいつき、笑いのめしたという。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)は、ブラームスを「いささか狭量のマネキン人形」と読んだ(以上、H.C.ショーンバーグ「大作曲家の生涯」(共同通信社)による)。
それが、今や“ドイツの3大B”の1人なんだから、歴史はわからないものだ。
そのブラームスがまだ20歳の時の話。
彼はハンガリーのヴァイオリニストのエドゥアルト・レメニーのピアノ伴奏者として約1年ほどの間、演奏旅行で各地を訪れた。
この間、ブラームスはレメニーから多くのハンガリー・ジプシー音楽を教わった。
それから16年後(ブラームスは何でも時間がかかるのだ)、1869年にそのときの資料をもとにしてピアノ連弾用の「ハンガリー舞曲集」をジムロック社から出版した。
10曲から成るこの曲集は大ヒット。
それから11年後(とにかく時間がかかるのだ)の1880年、11曲から成る第2集をジムロックから出版し、全21曲から成る「ハンガリー舞曲集」が完成した。
出版されたとき、レメニーからこの曲集は著作権侵害だと訴えられたというが、結局はブラームスの“編曲”ということで落ち着いた。
全21曲中、第11、第14、第16曲はブラームスの創作、つまりオリジナルと考えられている。
またオーケストラ編曲は(現在ではピアノ連弾としてよりはオーケストラ編曲版で聴かれることの方が多い)、ブラームス自身が行なったのは第1、第3、第10番の3曲だけで、ほかはドヴォルザークなどが行なっている。
ここで紹介するヴェラー指揮ロイヤル・フィルのCDでは、第2番がハレン、第4・8・9番がショルム、第5~7番がシュメリンク、第11~16番がバーロー、第17~21番がドヴォルザークの編曲による版が用いられている。
録音は1982年。デッカ。
でも、廃盤。ごめん。
「何々?ブラームスはジプシーの音楽を編曲しただけ?しかも、それをオーケストレーションしたのはたったの3曲?けしからん。じゃあ、管弦楽版なんて聴きたくない」という方には、連弾によるCDを。
ベロフとコラールの連弾。1973~74年の録音。EMI。
さっ、月曜日だ!
楽しい仕事が始まる。
この文を書いている現在は、2月20日(土曜日)13:01分である。
まだ帰宅してから半日、つまり12時間経っていない。
私が帰宅したのは2月20日(土曜日)午前2時10分だった。
やれやれ。
誕生日を2日前に迎え、もう若くはなくなったのに、この有様である。
金曜日の夜――つまり19日の夜だ――私は取引先の某独身男性と飲んだ。
正直言って、気乗りしていたわけじゃないけど、今回はぜひお礼のしたいからと誘われたので応じたのだ。
こちらは私と、私の課の男の子2人の計3人。
向こうは1人。その名前の暗号をINDとしよう。
私たちは夜が長引かないように、酒席の場をすすきのにはしなかった。
ところが飲み進むうち、最初は「いやぁ、このところ続いてましてね。飲みつかれているんですよ」なんて言ってたIND氏は、どんどん元気になり、スケベな話をしだし、とことん飲みましょうモードに入っていった。
私たち3人はそれに反比例するように、飲酒意欲が失せていった。
IND氏が2軒目に行くと強引に言い張ってきかなくなるだろうことは、塩がしょっぱいというよりも明らかだった。
でも、私たちはこのようなときにどう対処するか、事前に決めていた。ちゃんと危機管理ができているのだ。
それは、私1人だけが彼を引き受ける、というゼロ戦方式作戦であった。
私は彼とタクシーに乗り、すすきのへと向かった。
タクシーの窓からは、課の男の子2人が安堵に満ちた嬉しそうな表情で、道を歩いているのが見えた。
いいなぁ……
2軒目ではIND氏はすっかりいつものIND氏になった。
つまり、やかましくて、やらしい話ばかりし、やたら落ち着きない。
“三大「や」”だ。
「や」三昧だ。
彼は実際にはとても良い人間なのだが(それ以外にフォローの言葉が見つからない)、飲み方が私と根本的に違うのだ。
私は少人数で静かに飲むのが好きだ。あまり夜遅くまで飲むのも嫌だ。
しかし彼は、やたら落ち着かないと書いたように、この場に及んで携帯をかけまくっている。そのときは気づかなかったが、「こっちに来い!」と、疑似的仲間に強引に声をかけていたのだ。
IND氏と2人だから、「このときは少人数だっただろう」と指摘したいかもしれないが、彼といると満席の銀座ライオンの中央席に案内されたような感じになるのだ。
もういい。こんなに遅くなった。十分飲んだ。
そう思っていたら、不幸にもIND氏からの電話を受けて召集されてしまった別な取引先の人がやってきた。
ほら、仕切り直し。
しばらくするとまた1人。
また、仕切り直し。
ということで、あんな時間になってしまったのだ。
そもそも、今回IND氏がこちらを誘った主旨は、氏がわが社に提案した企画を私たちが採用したという、その感謝の意を込めてということであったが、これじゃあ単に氏が酒を飲みたいことに付き合わされてるだけだ。こっちの意向(少しで十分です。早く解散しましょう)なんてまったく無視だ(私は抗議の意味を込めて、ここでの支払いをした。IND氏はそんなことされては困ると言っていたが、私が支払った。けど、なぜ私が払う行為に出たのかは理解されてないみたいだ。ということは、払わなきゃよかった)。
しかも、その商談成立にはもう1社、別な会社が噛んでいるのだが、あとから呼び出された人々はその会社とは関係のない人物であった。
呼ばれた人に、私は何も悪意を持っていない。罪はない。むしろ呼ばれて気の毒だと思っている。この場で呼ぶIND氏が悪い。
彼らとは初めて酒の席で一緒になったが、できればIND氏が介入しない場で話をしてみたかった。今度仕切り直しを提案しよう。
あんな迷惑条例違反者みたいな人間をビバ・トレードに連れていったことを深く反省している。ナタオーシャよ。そしてカトナーリャよ。下品な言葉や失礼な言葉を浴びせられるはめになって、本当に申し訳ない。
カチャカポコナよ。
もし、IND氏が店に来たら、「下品な方お断り」と言って、追い返してくれ。
そのあとは大量の塩を撒いてくれ。
IND氏があの店に頻繁に顔を出すような事態になったなら、残念だが、私はビバ・トレードを卒業することにしよう。
ということで、今朝目を覚ますともう8時を過ぎていた。
でも、全然寝足りなかった。
口の中は枯れ葉の味がした。
妻は異臭を放つカメムシを見るような目つきで私を見た。
今日はブログ記事を4~5本書きためる予定だったのだが、ん~、無理だな……
貴重な土曜日をリハビリに使う羽目になってしまった。
ところで、INDと書くと、インドみたいだ。
インドと言えば象だ。
象と言えば、2月19日の記事にコメントを寄せてくれたMeitneriumさんが、「夢で会いましょう」の象について書いている。
「夢で会いましょう」(講談社文庫)は、村上春樹と糸井重里の短編が収められたもの。共作ではなく、個々の作品が雑多に収められている。
そのなかの、村上春樹が書いた「モーツァルト」という作品。
“僕”はちょっと顔見知りになった象に、野外音楽堂で会う。
「モーツァルトはお好きなんですか?」と“僕”は象にたずねる。
「ええ、大好きなの。モーツァルトをじっと聴いてると、体が透明になっちゃうような気がするんです」彼女は言ってから少し赤くなる。
そのあと“僕”は自分の席に戻って、1人でビールを飲みながらモーツァルトのト短調のシンフォニーを聴く。そして音楽にあわせて彼女の耳がぱたぱたと揺れている様を想い浮かべる。
ご存じのように、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)には、ト短調の交響曲が2曲ある。
1つは、交響曲第25番ト短調K.183(173dB)(1773)。これは、映画「アマデウス」のオープニングで使われたことで、広く知られるようになった。
もう1曲は、交響曲第40番ト短調K.550(1788)。こちらは、非常に有名な曲である。
ということで、“僕”はこのとき、どちらのト短調交響曲を耳にしていたのかな、という話。
この2曲のCD聴き比べ(といっても、そんなに聴いているわけじゃないが)についての記事は、上の作品名をクリックするとリンクする。
ところで、「夢に会いましょう」には、村上春樹の「パン」という物語も収められている。
先日、氏の短編「パン屋再襲撃」について書いたが、この「パン」は再襲撃の前の最初の襲撃を書いたものである。
INDさん。
お願いですから、私の夢になんて出てこないでくださいね。
いや、「出てくるな!」
「小柳ルミ子はこの曲で踊れるか」ってタイトルで、許光俊は書いている。
彼の編著による「絶対!クラシックのキモ」(青弓社)のなかでのことだ。
で、曲は何かというと、ドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 チェコ)の「スラヴ舞曲集(Slovanske tance)」である。
「スラヴ舞曲」には第1集と第2集(ともに8曲)があるが、今日は第1集Op.46,B.83(1878)について。
この第1集はドヴォルザークの名を世界的に広めた出世作だが、そこにはブラームスの功績がある。
ブラームス(Johannes Brahms 1833-97 ドイツ)はベルリンの出版社ジムロックに、当時まだ無名だったドヴォルザークの「モラヴィア二重唱(Klange aus Mahren)」の出版を薦めた(「モラヴィア二重唱曲」という名の曲は4曲ある。Op.20(1875)、Op.29(1876)、Op.32(1876)、Op.38(1877))。これがきっかけとなって、ドヴォルザークはジムロックから「ブラームスの『ハンガリー舞曲』のような作品を書いて欲しい」と依頼される。
このような経緯から「スラヴ舞曲第1集」が生まれた。
原曲はピアノ連弾用の作品(B.78)だが、すぐに作曲者によって管弦楽編曲されている(連弾曲の方は3月から5月にかけて作曲。オーケストレーションは4月に着手され8月に完成した)。
なお、ブラームスの「ハンガリー舞曲集(Ungarische Tanze)」は、ハンガリー人ではないブラームスが、数曲を除いて既存の楽曲を編曲したものである。21曲から成るが、ハンガリーのジプシーのチェルダーシュの編曲で、第1番から第10番は1869年出版、第11番~21番は1880年出版。このうち第11、14、16番はブラームスの創作と考えられている。
「ハンガリー舞曲集」ももともとはピアノ連弾曲として作曲されている。
これに対し、ドヴォルザークの「スラヴ舞曲第1集」は民謡をそのまま使ったものはなく、すべてがドヴォルザークの創作である。
曲は8曲から成り、渡鏡子による全音楽譜出版社のスコアの楽曲解説では、各曲の舞曲の形式は次のとおりと書かれている。
第1曲 ハ長調。フリアント。
第2曲 ホ短調。ドゥムカ。
第3曲 変イ長調。マテニークに由来すると思われるポルカ風。
第4番 ヘ長調。ポロネーズ風のソウセツカー。
第5番 イ長調。グルタークに似たスコチナー。
第6番 ニ長調。ミネットに似たソウセツカー。
第7番 ハ短調。スコチナー(あるいはテトカ、クヴァピーク)。
第8番 ト短調。フリアント。
いまではコンサートでこの舞曲集の全曲が取り上げられることは少なく、アンコール・ピースとしてこの中の1曲、もしくは数曲が演奏されることが多い。
しかし、私がこの曲を初めて聴いたのは札響の定期演奏会で、このときの常任指揮者ペーター・シュヴァルツの指揮で全8曲が演奏された(最初に前半4曲、間に2曲のコンチェルトをはさんだあと、後半の4曲が演奏された)。
しかしなぜかこの日の演奏の記憶がほとんどない。
不思議なくらい覚えていない。
スラヴ舞曲だけじゃなく、ホルン協奏曲も「なんか退屈だったなぁ」くらいしか印象に残っていない。
ハンス・ピツカってどこの人だったんだろう……
この曲を本格的に聴き、好きになったのは高校を卒業してから。
ドヴォルザークにしか書き得ない音楽。
素朴で親しみやすく優しげな曲。
クーベリック指揮バイエルン放送響の演奏でずいぶんと聴いたものだ。
でも、今日私がお薦めするのは、ルール無法の“虎の穴”出身レスラーと化したマゼールの指揮による盤。これを聴いたらやめられない!
反則ワザ?
大いに結構じゃあないか!
このCDについては、鈴木淳史も「クラシック名盤ほめ殺し」(洋泉社新書)で取り上げている。そこに書かれている内容は、
音楽鑑賞でスラヴ舞曲を、ライナーとマゼールの2種の演奏で聴いた子供。
「ライナーさんのほうはすっきりしてたけど、マゼールさんはどんじゃがうるさくて、びっくりしてしまいました」
隣に座っていたサッちゃんは、第8番(Op.46-8)のコーダのティンパニ乱打に驚いて、「せんせい、これはすこあにないおとだとおもうんですが、なぜこんなにらんぼうにやらなくちゃならないんですか」と尋ねる。
先生は、文明が発達すると野蛮になってしまうから、マゼールさんはそれを表現したかったのね、などと説明するがサッちゃんはその答えに不満……
ってな具合である。
サッちゃんの指摘どおり乱暴なジャイアンの世界!
特に第8曲のティンパニは「オレをこうさせているのは、すべて社会が悪いせいだ!」と、代償的に怒りをぶつけているかのよう(スコアの矢印のところが私にとっていちばんの壺。掲載スコアは全音楽譜出版社のもの)
繰り返しは、繰り返しに非ず。バコバコッと叩いて、リピートはちょいと弱く……この身勝手な彩!
あぁ、ティンパニの暴力的快感。
叩いているのは真澄ちゃんかぁ?
非合法の病的な魅力。
あなたにマゾッ気があるなら、この第8曲で昇天よ!
ってことで、マゼール指揮ベルリン・フィルのCDを(1988年録音。EMI)。
良い子には決して聴かせないように……
音楽の授業で取り上げるなんて、もってのほか!
みんな泣き出すぞ!
ところで、「スラヴ舞曲」って、舞曲とは名がついているけれど、踊れる曲なのだろうか?
本当のところは私は知らないけど、踊れないと思う。
少なくとも私は踊れない。
そもそも踊りなんてフォークダンス以外踊ったことないし……
あくまでも鑑賞のための立派な音楽。
それ以外考えられないんだけど……
なお、「スラヴ舞曲第2集」については、近日投稿予定です!
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