この曲に「天才のイライラとムカムカが聞こえる」と書いていたのは許光俊氏だ。
この曲って何かというと、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)のピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466(1785)だ。
モーツァルトの第41番まである交響曲のうち、短調で書かれたものは第25番と第40番の2曲だけ。いずれもト短調だ。
そしてまた、第27番まであるピアノ協奏曲のうち、短調で書かれたものはやはり2曲。第20番がニ短調で、第24番がハ短調である。つまりは、今日取り上げているピアノ協奏曲第20番が、モーツァルトにとって最初の短調のコンチェルトということになる(なお、弦楽器や管楽器のための協奏曲はすべて長調で書かれている)。
この時代、音楽というのは長調で書かれることが常識で、短調で書くということはよっぽどの理由がなければ行なわれないことだった。しかも協奏曲となれば、それは多くの場合は作曲者自身がソリストを務めるわけで、華麗なるお披露目の音楽会だった。
それなのに、なんで暗い曲を書かねばならないの?ってわけだ。
このピアノ協奏曲も、“予約演奏会”でモーツァルト自身がソリストを務めて初演された。この演奏会には父レオポルトもやって来て、人気絶頂の息子の曲を耳にし、そしてその輝かしい姿を目のあたりにすることができた。
演奏会の翌日には、ハイドンがレオポルトに「私は誠実な人間として神かけて申しますが、あなたの息子さんは私が個人的に、あるいは名前の上だけ知っている作曲家のうちで、もっとも偉大な方です」と言ったそうだが、このときのパパは喜びひとしおだったことだろう。「レオポルト、うれしぃぃぃっ!」って内心叫んだに違いない(息子の作品が革新的すぎると心配していた父レオポルトも、このニ短調の協奏曲は気に入ったらしい。そりゃそうだろう、なんせハイドンが誉めてる作品なんだから)。
ピアノ協奏曲第20番は、モーツァルトの死後にも引き続き演奏された数少ない協奏曲の1曲で、モーツァルトの後継世代の作曲家でこの曲を特に好んだのがベートーヴェンだった。
1795年3月にモーツァルト未亡人のために音楽界が催されたそうだが、そこでベートーヴェンはコンチェルトを弾いている。演奏したのはおそらくこのニ短調協奏曲だと言われている。
また、ベートーヴェンは自分でソリストを務めるときのために、この曲のカデンツァを書き残している。同じようにブラームスも、1856年1月にこの協奏曲を演奏した際に、カデンツァを書いている(モーツァルト自身によるカデンツァは、書簡で言及されているにもかかわらず、両端楽章とも残っていない)。
ベートーヴェンがとても気に入ったというこの協奏曲だが、音楽之友社から出ているベーレンラーター版スコアの解説では、この作品がカール・フィリップ・エマヌエル・バッハが範例を示した手法に負うところが多いと指摘している。
C.P.E.バッハといえば、モーツァルトよりはベートーヴェンへと結びついていく流れである(モーツァルトはヨハン・クリスティアン・バッハの影響をより強く受けている)。
その一例として、第1楽章第34小節の跳躍するフルートの音型(譜例.1。うん、いかにもC.P.E.バッハ的だ)が、第116節ではピアノがこの音型をオーボエとファゴットへの応答として取り上げている(譜例.2)。
そんな難しいこと言わなくても、第3楽章なんて、もうかなりベートーヴェン的な音楽だし(譜例.3)。
私はこのコンチェルト、もうどれだけ聴いてきただろう。
「モーツァルトの短調」という言葉があるが、当時、短調の作品を披露するということは危険な賭けだったかもしれないが、私はモーツァルトの短調に魅せられている1人である(ピアノ協奏曲では、実は第24番の方が好き)。
なお、ちょっぴりほっとさせられる第2楽章は、しばしばCMなんかで使われる。
私が好きな演奏は、アシュケーナージ(おぉ!クラシック音楽界の志茂田景樹←古い!)がソロを務めた、イッセルシュテット指揮ロンドン交響楽団によるもの。激しくて好き。カデンツァは第1楽章がベートーヴェンのもの、第3楽章がアシュケナージ・オリジナルのものを使用している。
1968録音。デッカ。
演奏は旧来型(つまりピリオド的ではない、このころではしごく当然なスタンス)だが、この協奏曲の場合はそれによって、あたかもベートーヴェンのように鳴り響く。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番よりもベートーヴェンっぽい感じだ(ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番が作曲されたのは1798。ちなみに、実は第2番の方が先に作曲されており、1795。モーツァルトの第20番の10年後ってことになる)。
冒頭に引用した許光俊(「絶対!クラシックのキモ」)の文は、このように終わる。
「天才モーツァルトとてそうしばしば書けたわけではない傑作だ。こんなものを書く人間が長生きできるはずがないのです」
私は同意したい。
August 2010
歳をとってくると、いろいろな感性が鈍って来るが、逆に研ぎ澄まされてくる感覚もある。
たとえば、残尿感などは最たるものだ。
でもなぁ、歳をとっても、そのあたりを徘徊して子どもたちに迷惑をかけるような老人にはなりたくないなぁ(子どもたちが、そのときも私に関与してくれているという大前提が必要だが)。
ということで昨日に引き続き、メシアン(Olivier Messiaen 1908-92 フランス)。いや、メシアンが徘徊して歩いたのではない。
彼は1962年に日本を訪れている。
何しに来たのかは私の知るところではないが、日本旅行だ(旅行会社の名前のようだ)。
そのときの日本の印象から作曲したのが「七つの俳諧(Sept haikai)」(1962)である。なお、7歳児がディズニー・ランドで迷子になって泣きながら親を探している状況は「七つの徘徊」という。早く見つけてやれ,親を!
楽器編成はピアノと13の管楽器、木琴、マリンバ、4打楽器、8つのヴァイオリン。
7曲から成り、それは次の通り。
1. 導入部 Introduction
2. 奈良公園と石灯籠 Le parc de Nara et les lanternes de pierre
3. 山中湖カデンツァ Yamanaka-cadenza
4. 雅楽 Gagaku
5. 宮島と海中の鳥居 Miyajima et le torii dans la mer
6. 軽井沢の鳥たち Les oiseaux de Karuizawa
7. コーダ Coda
このなかでは、第2曲の、鹿の糞を踏んで悔しがる感情表現が見事!、って大ウソです。
う~ん、要は日本てわけわからん国なのね、っていう印象を受ける音楽である。
いや、この曲耳にしたガイコク人が、日本をどのようにイメージするかと考えると、どんなもんなんだか想像できない。
いやはや、いささか、あなごくん。
って、交響詩じゃないので、そこは音響的イメージなんだろうけど。
でもさ、日本に来て強烈な印象が、フジヤマとかゲイシャとかテンプラとかじゃないのが不思議。
あと、スキヤキィ、スシィも。
導入部に続いて、この作品は「寿司、偉大なる生モノ」「すき焼き、甘美なる牛」「芸者、食欲を増す舞い」なんて楽章が続くと楽しいのに。
そうそう、けっこう珍しがられるのだが、私はあまりすき焼きが得意ではない。
いや、作るのが下手だっていうんじゃなくて、お好みの食べ物ではないということ。
あの、甘さが苦手なのだ。
そんなことはどうでもいいか……
私が持っているCDは「ミのための詩」のときに紹介したブーレーズ盤だが、これは廃盤……だったはずなのに、「七つの俳諧」で検索したらあったではないか!在庫僅少のようだけど。
オーケストラはクリーヴランド管弦楽団。ピアノはジョエラ・ジョーンズ。
最近の中国からの観光客は、おみやげに育児用粉ミルクをずいぶんと買い込んでいくそうだ。
ニッポンのイメージは「ゲイシャ」から「メイジ・ほほえみ」へ……
口蹄疫の問題で、中国への持ち込みが禁止されたようだが、日本での安全宣言を受け再び持ち込み許可になるだろう。
でも、持って帰るの重いだろうな。
上の写真は、庭で再び咲きはじめたクレマティスのアロマティカっていう品種である。
記事のトップでブーレーズの写真を2日続けて見たくないとは思ったので、載せてみた。
あぁ、「小樽のひとよ」
それは、東京ロマンチカ。
このタイトルを見て、Hなことを考えた人は罪深いと自覚したほうが良い。
こうやって狙って書いている私は、もっと罪深いことを自覚している。
メシアン(Olivier Messiaen 1908-92 フランス)の「ミのための詩(Poemes pour Mi)」(1936)。ソプラノ独唱によって歌われる歌曲で、詞は作曲者による。1937年に管弦楽伴奏用に編曲された。
曲は9曲からなり、各曲は以下の通り。
1. 感謝の行為 Action des graces
2. 風景 Paysage
3. 家 La maison
4. 恐怖を抱く Epouvante
5. 妻 L'epouse
6. おまえの声 Ta voix
7. 2人の戦士 Les deux guerriers
8. 首飾り Le collir
9. かなえられた祈り Priere exaucee
で、Miというのは女性を象徴する言葉で、メシアンが最初の妻クレール・デルボスにつけた愛称である。
こう書くと、きっとこの曲は甘美できらびやかなメシアン・サウンドに溢れていると想像しがちだが、けっこう激しい音楽である。とはいっても、決して聴きずらい曲ではない。メシアンの作品の中では耳になじみやすい部類に入るかもしれない。
私が持っているCDはフランソワーズ・ポレのソプラノ、ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏によるもの。
1994録音。グラモフォン。
しかし、このCDは現在廃盤。
吉松隆(Yoshimatsu Takashi 1953- 東京)の音楽は、とても上品で清楚だ。手のひらに舞い落ちてきた雪片がふぁっと融けてしまうようなはかなさもある。まるで私のように……
かわいらしい女の子、抱きしめたい女の子……作曲家の写真を見ない限り、そういうイメージが強く湧いてくる(失礼!)。
吉松が本格的に認められたのは、1981年に初演された「朱鷺によせる哀歌」Op.12。私はそれに遅れること4年、やはり「朱鷺によせる哀歌」で彼を知った。
そのとき、「朱鷺によせる哀歌」ではそれほど衝撃を受けなかったが、本格的に彼を聴くようになったのは交響曲第2番であった。
吉松は前衛音楽との訣別を表明した作曲家である。無調的な現代音楽は彼にとって“敵”なのでである。
その彼が書いたピアノ協奏曲「メモ・フローラ(Memo Flora)」Op.67(1997)。
吉松はこの作品について、次のように述べている。
「花(フローラ)についての覚え書(メモ)」という名前を持つこのピアノのための協奏曲は、モーツァルトとほぼ同じ編成で書かれ、FLOWER(花)、PETALS(花びら)、BLOOM(花)と題された急・緩・急の3つの楽章から成る。
拙作「プレイアデス舞曲集」のCDで美しい演奏を聴かせてくれた田部京子さんのピアノへの頌歌であるとともに、春の野に花を開き、花びらを震わせ、緑の風の中を軽やかに舞う花たちへの賛歌でもある。
1.FLOWER(花):春の野に静かに花が開き、それを讃えてさまざまな景色が交錯してゆく疑似ソナタ形式のアレグロ。木管楽器による鳥のテクスチュアに寄り添われながら、ピアノは春の嵐をすり抜けて青空を舞い始める。
2.PETALS(花びら):ゆらゆらと水面を漂い揺れる花びらのような淡いアンダンテ。静かな水の流れにのって、かすかな歌が遠い日の夢のように次々と浮かんでは消える。
3.BLOOM(花):いちめんに花が咲き乱れる春の野を風に乗ってただひたすら駆けてゆくフィナーレ。4/8と5/8の繰り返しによるリズムのロンドがどこまでも軽やかに疾走する。
1996年春、「モーツァルトの最後のピアノ協奏曲(第27番)とほぼ同じ編成・同じ3楽章形式・同じ調性(変ロ長調)」という課題の下に構想を始め、翌97年夏から冬にかけて作曲、12月に完成。1998年2月8日、p:田部京子、藤岡幸夫指揮日本フィルハーモニー交響楽団により初演。op.67。タイトルの「メモ・フローラ」は、花壇(楽章)のどの場所にどの花(メロディ)を植えるかという配置図の覚え書(メモ)のこと。
もう、書いてあることがおしゃれだもの……、このぅっっっ!
この曲には(というか、この曲に限らないんだけれども)吉松隆のエッセンスがすべて詰め込まれている感じがする。つーことは、どの曲を聴いても、吉松作品は吉松作品ってこと。
逆に言えば、吉松の音楽は「どれも似たようなもの」とも言えなくもない。ような気がしてるのは気のせいかもしれないけど、もしかしたら気のせいじゃないかもしれない。
少し前までは私もずいぶんと吉松の曲を聴いたし、今でも魅力的だと思うのだが、ワン・パターンという印象は否めない。
最近彼の作品を聴く頻度が減っているのは、決してこの音楽のような純真さを私が失ってすれてしまっているのではなく、甘美な音にちょっぴり飽きがきたせいなのだろう。
よく言うではないか。美女は3日で飽きるけど、ブスはそうではないって。
この説に私は異を唱えたいが(ブスだって3日も一緒にいれば、飽きはしないが絶望的に慣れる)、こと吉松作品については当たっていなくもない。
でも、素敵なんだよな、やっぱり(私が吉松作品に距離を置いたのは、第5交響曲が期待外れだったせいかもしれないし)。
CDは田部京子のピアノ、藤岡幸夫指揮マンチェスター・カメラータの演奏のものを。
1998録音。シャンドス。
他に吉松作品が4作品収録されている。
とか何とか言っても、やっぱり隆ちゃんが好き……
バッハ、ヘンデル、そしてモーツァルトから、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、アイスラー、デッサウ、ヴァイル、シュトックハウゼン、B.A.ツィンマーマン、ヘンツェまでの、ドイツ系の30人を超える作曲家の作品からの素材を組み立てた作品。
シュニトケ(Alfred Schnittke 1934-1998 ソヴィエト→ドイツ)の交響曲第3番(1981)である。
この交響曲も、またまたすばらしい。
どこかで耳にしたようなメロディーが泡のように姿を見せては消えていく。
常に変化していく音の流れの中で、それが何の曲であるかをとらえるのはなかなか難しいが(私にとって未知の曲ももちろんあるし)、これがまたなんとももどかしい。
素っ裸にされたあげく、手足を縛られ、足の裏を羽毛でそっと撫でられるような悶々感(別に素っ裸になる必要はないか)に匹敵する。
でもアタシ、もっともっとしてほしくなったんです(そういえば昔、課の女性社員に「書類の文言をチェックしておいて」と言ったら、「悶々、って……?」って聞きかされたことがあった。あなたの耳が悪いの。セクハラ発言じゃないの!)。
曲の開始の混沌とした世界。遠くからの何かが「形作られる」ことを歓喜するようなトランペットの叫び。
この世界は?そうだ!生物が生まれる前の地球の海の中で、窒素化合物が寄りあって来て、熱や雷の力でアミノ酸が出来て、それが化学反応を起こしタンパク質になって……でも、また何かの力で散り散りにされ……、あぁ、コアセルベートの悲哀!
生命が誕生するときってこんなんじゃなかったのかなぁと、まったく突飛な想像をしてしまう私。
このあたりの雰囲気は、バルトークのバレエ「木製の王子」の始まり(そして終わり)にも似ている。
シュニトケといえば「多様式主義」の作曲家と言われるが、「シュニトケとの対話」(イヴァシキン著:春秋社)のなかで以下のように述べている。
音楽における多様式は、僕が「多様式」という言葉を用い、様式の異なる音楽の素材の相互作用ということを考え始めるずっと前から存在していました。これを20世紀に最初におこなったのはマーラーとアイヴスです。セリーの作曲家たちの中でこれを最初にやった人の一人が、ベルント・アーロイス・ツィンマーマンです。その後、これにすっかり夢中になったのがアンリ・プッスールで、彼の作品では、セリーで構成される全体的な文脈の中で様々な時代の様式が相互作用する完全な体系が出来上がっています。調性音楽の引用は、この調性ではないような音楽の中では、過ぎ去った調性音楽の世界の名残であるかのように響きます。その後、ルチアーノ・ベリオの『交響曲(シンフォニア)』を始め、引用を使った数多くの作品が現われました。
こうした作曲家たちが僕より前にやったことに触発されて、僕は多様式を使うようになりました。当然ながら、僕はそれを無視するわけにはいかなかったのです。……
また、聞き手であるイヴァシキンが、シュニトケの交響曲第1番よりも第3番の方がベリオのシンフォニアに引喩の原則自体が近いように思うと言ったことに対しては、
そうとも言えるし、そうでないとも言えます。ベリオの『交響曲』は、僕の『交響曲第3番』とは異なり、全ての引用が真のもので、作曲家の課題は、膨大な量の引用を、自然に偶然生まれたもののように見えるように一つにまとめることでした。
と、答えている(注:セリーというのは12音音列のことだが、セリー音楽についてはこちらを参照のこと)。
この交響曲、4つの楽章から成っているが、そのせいだけじゃなくシュニトケの交響曲の中でも、交響曲らしい作品。
編成は4管編成基本で、打楽器各種のほか、エレキギター、ベースギター、ピアノ、チェンバロ、チェレスタ、オルガンが加わる。
第1楽章のトランペットのファンファーレ風メロディーが曲尾に回顧されるところは実に感動的!
シュニトケ、漠然とすごく好きだよ!(←「私のどこが好き?」と聞かれて、すぐに特定できない曖昧な恋心のように)
私が聴いているCDはクラス指揮ストックホルム交響楽団の演奏によるもの。
1989録音。BIS。
民主党の議員たちって、かなり変だと思うのは私だけだろうか?
自分たちの身のことしか考えてない。
なんだか昔の過激派組織の内紛みたい……
今回の騒動で鳩山ってお人よしとかお坊ちゃんとか、単に優柔不断なんじゃなくて、すっごく頭がおかしいか、すっごくずるいかのどちらかだと感じたのは、私だけだろうか?
すべては「偽」なり……か?
セイジのことはよくわからなぁい。
征爾さんはどうなったかなぁ。
読者の皆さんは気づきもしなかったろうが、いや正しくは関心を持たなかっただろうが、昨日の私のブログ記事に寄せられたアルフレッド少年(本当は準・おっさん)からのコメントには、重大な事実が記述されていた。
実は私は、今週の月曜日~木曜日まで夏休みをいただかされているのだ。
いただかされていると書いたのは、別に予定も何もないのだが、今月中に休みを消化しなければ人事部隊に折檻されるのだ。だから休みをとった。
消化試合みたいな休みだから、私は家に閉じこもってパソコンと戯れたり、ときにはサウナに入った気分で庭仕事をした。
それはそれで充実した時間ではある。
火曜日の朝はすさまじい雨で目が覚めたが、「このどしゃ降りの中、通勤する人はこの上なく不幸だな」と、特権階級の身分にある喜びに浸った(そのバチか、下水道がキャパオーバーになったのか、トイレが数時間にわたって流れて行かなくなって、悶絶の苦しみを味わうはめになった)。
このとき、不幸中の幸いで、トイレが使用不能ということで、バイトに行く妻は早めに家を出た。
「トイレに早く行ってどこかに寄ろう」と言っていたが、正しくは「早く行ってどこかのトイレに寄ろう」である。彼女も焦っていたに違いない。
夕方に外に出ると、ほぅら、相変わらずカエルくん(こいつは第何号なのだろう)がニュー・アヴェマリアの花の寝台でくつろいでいる。
夜。
ビールを飲む。
1週間ピロリ菌退治の薬を飲んでいるが、この薬は悪酔いすると注意された。
悪酔いはしないが、確かに酔いが早く回る。
ということで、21:30就寝。小学校高学年の良い子よりもさらに上をいく、早寝である。
翌朝。つまり昨日の朝。
開けたままの窓から入って来る風の爽やかさを超えた冷たさに目が覚める。
今日は妻もパートが休みだ。
高校生の息子は学校へ行き、大学生の息子は寝坊。
で、「こんなに毎日家にいて不健康だ」と妻に核心を突く指摘をされたので、出かけることにした。
新千歳空港の近くにあるアウトレット・モール「レラ」に行ってみた。
私には何の目的もない。
私にはブランド物の値段ていうものがちっともわからないが、アウトレットなのにけっこう高い。「レラ」に行くのは初めてではないが、最初に行ったときにもそう感じた。でも、通常品はもっと高いのだろう。妻はコートみたいのを買っていたが、まあまあ安いと言っていた。
私はCASIOの時計を見てみたが、ビックカメラと変わらないなと思った。アウトレット品じゃないのかもしれない。
昼はレラの中のラーメン屋に入った。
何軒かラーメン屋があるが、入った店が悪かった。
注文してから気づいたのだが、その店、ウチの近くのショッピングセンターにも入っているのと同じラーメン店だったのだ。
アホだ。
別な店にすべきだった。
こうして、私のアクティヴな1日は終わった。
帰宅したとき、ニュー・アヴェマリアの昨日とは別な花でカエルくんが休んでいた。
カエルくん自体、同一人物、いや同一蛙物かどうかわからない。
私はカエルくんに向かって「今日はね、いつでも食べられるようなラーメン屋に間違ってはいっちゃったのさ」と教えてあげた。
世の中には巨大ミミズと闘ったカエルくんもいるというのに(村上春樹の小説のこと⇒神の子どもたちはみな踊る。そういえば、昨日の朝刊に村上春樹がノルウェーで講演した記事が載っていた。ふーん。「1Q84」はアメリカ同時テロが契機で執筆したのか。ふ~ん)、ウチのカエルくんは死んだような目で私を見返すだけだった。
話はすっごく変わる。
先日、あるところで札響のCDを買った。
1,000円になっていたのだ。
ベートーヴェンの交響曲第9番。業界専門用語で言うと「第九」である。
指揮は尾高忠明。
2002年12月のコンサートのライヴである。
第九ってしばらく生で聴いてないな。
私が最後に生で聴いたのは、2005年の12月。関西フィルの定期演奏会で、だった。指揮は飯守泰次郎。特別演奏会ではなく定期演奏会だった。
札響の第9は、学生のころは毎年のように聴きに行ったが、最後に行ったのはいつのことか……
で、このCDの演奏。
さっぱりした演奏だ。
変に重々しくなく、好感が持てる。尾高らしいと言っても良い。
ただ、これは好みだが、ズンズン系のベートーヴェンに慣れ親しんでいた私にとっては、ちょいと低音不足な感じもある。
でもクソ暑いさなかに「第九」を聴くなら、このくらいの塩梅(あんばい)が良い気がする。
もっとも、暑いときに無理に「第九」を聴くこともないんだけど……
独唱は、う~ん、あんまりいただけないかな。
でも、1000円だったから、下手なCDを買うよりは良いかも。
在庫があるかどうか、あなたにも1000円で売っていただけるのかどうかは、札響ボランティア「ピリッキー」に問い合わせてみるとわかると思う。
なお、このCDの製造は東芝EMI。
それにしても、このCD写真、心霊写真みたいだな……
非常に低く評価されていたレーガーだったが、彼を礼讃する者もいた。
シェーンベルク(Alnold Schoenberg オーストリア→アメリカ)もその1人である。
またまた、H.C.ショーンバーグの「大作曲家の生涯」(共同通信社)から引用したい。
シェーンベルクと同時代に生まれた数々の作品で、彼を満足させ得たものは(たとえ、あったにせよ)ごく少数だった。彼はストラヴィンスキーの新古典主義を笑い物にし、名指しで彼の作品を風刺した。また、モダンぶって「大食漢のように不協和音を積み重ねながら、そこから何らかの結果を引き出す勇気を欠いている人々」に対しては、軽蔑の念をむき出しにした。シェーンベルクは「似而非(えせ)調性主義者」を嘲笑い、ブゾーニ、ヒンデミットらの新(ネオ)バロック作曲家についても「“しかじかの作曲家への回帰”を呼びかける」愚かな連中だ、とくさした(そのくせ「バッハに帰れ」運動のレーガーを、天才と評価している)。彼の嫌悪感は、バルトークを筆頭とする民謡派にも及んだ。――「彼らは、本来幼稚な大衆音楽のアイディアに、もっと高級なタイプの思想に対してのみ妥当な技術を適用しようと努めている」。最後に、あたかも「おれは誰も見落としていないぞ」と言うかのように、シェーンベルクは「マンネリに陥ったとしか言いようのない、あらゆる“〇〇主義者”」を十把一からげにやっつけている。
あらためて書くと、シェーンベルクは12音音楽の創始者である(余談だが、マーラーこそが12音音楽の精神的始祖であると前衛派の学者が唱えたことも、マーラー人気の要因の1つであるという)。
20歳のころにツェムリンスキーから対位法を学んだ以外は独学で(シェーンベルクは1901年にツェムリンスキーの妹と結婚している)、初期には後期ロマン派の色彩が濃い作品を書いた。しかしながら、やがて調性原理から脱却する以外に過去の音楽を凌駕することはできないと考え、1908年頃から無調を試みた。その最初の作品は弦楽四重奏曲第2番などであるが、無調をさらに発展させた12音音楽への到達は1923年。「5つのピアノ曲」Op.23の第5曲が、完全な意味での12音音楽の最初のものとされる。
シェーンベルクは、終生、自分は伝統主義者だという見解を持ち続けた革命家だった。過去の音楽美学を放棄した事実を認める一方で、彼は「(私の全作品は)ドイツ音楽の伝統そのものから生まれた……。私の師は、まずバッハとモーツァルトであり、次いでベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーである」と言い、また「私は、過激派たることを余儀なくされた保守主義者だ!」と主張した。(出典:同上)
風貌だが、
シェーンベルクは短身で、頭が禿げ、顔つきは狂信者風だった。また、その妥協を知らぬ力強い顔には深いシワが刻まれ、救世主を思わせたし、唇は永遠の不信を湛えるかのように堅くへの字に結ばれていた。大きな両の眼は、眼光鋭く、人を惹きつけるものを持っていた。(出典:同上)
う~ん。
タイプは違うが、「恐ろしく背の高い人で、足は小さく、顔は醜くて子供のようだった」レーガーを擁護する気持ちもわからないでもない。容姿については関係ないだろうけども。
まあいい。
ユダヤ人だったシェーンベルクは1933年にベルリンを脱出、フランスに逃れた。のちにアメリカに渡った。
今日紹介するヴァイオリン協奏曲Op.36(1934-36)とピアノ協奏曲Op.42(1942)は、いずれもカリフォルニアで過ごしていたときに書かれたものである。
ヴァイオリン協奏曲は3つの楽章から成り、この曲を演奏するにあたり、シェーンベルクは「左手に指が6本あるヴァイオリニストが必要だ」と、わけのわかんないことを言っている。そんなんなら、5本指に見合った曲を書けばいいのに……
3つの楽章は、第1楽章冒頭に示される A-B-Es-H-E-Fis-C-Des-G-As-D-Fの基礎音列をもとに展開される。
ピアノ協奏曲は単一楽章だが、シェーンベルクは4つの局面になることをコメントで示している。「人生はたやすいものだった/が、憎むべきことが、突然におきた/状況は深刻になった/だが、人生は続く」。
曲は冒頭の基礎音列、Es-B-D-F-E-C-Fis-As-Des-A-H-Gに基づいて展開される。
どちらの曲も、苛立ちを覚える人が少なくないことは容易に想像できる。
逆に言えば、これぞ現代音楽!
好きなら愛して、嫌いなら無視して……
あっ、ほんの気持ち程度だが、ヴァイオリン協奏曲よりはピアノ協奏曲の方が耳には優しいかも。
私が持っているCDはブーレーズ指揮ロンドン交響楽団による演奏。ヴァイオリンの独奏はP.アモイヤル。ピアノ独奏はP.ゼルキン。
ヴァイオリン・コンチェルトは1984、ピアノ・コンチェルトは1985録音。エラート。
日曜日のことである。
私は10時に予約していた床屋へ行き、パーマをかけた。
2~3カ月に一度は前髪にパーマをかけないと、サランラップでぴっちりと包まれたおにぎりの海苔のようにボリュームも腰も若々しさもないへばりついた髪になってしまうのだ。やれやれ。
家に帰り、繁茂しているミントにどうしようもなく耐えられなくなって(生い茂っていることと自分の髪の毛を対比したわけではない)、クソ暑いにもかかわらずガーデニング作業を行うことにした。
もちろん先日の所ジョージのようにならないように、半袖短パンでの作業だ。
日に焼ける、虫に襲われるといった耐えがたいリスクはあるが、熱中症で倒れるよりはましだ。パーマをかけたその日に死んでしまうなんて、パーマ代がもったいないではないか!
ということで、伸びきって、中には花を咲かせようとしているペパーミントとパイナップルミントをカットした。まさにミントは雑草である。でも、ミントが地面を覆うと他の雑草の生育を邪魔するという話だから、そこそこ大切にしてあげなくてはならない。
そうそう、大学生のときに野幌原始林に植物写真を撮りに行ったときに、野生化したミント(ジャパニーズミント=ハッカ)を発見したことがある。発見というのはオーバーでけっこう自生していたのだが、私たちはそれが何かわからなかった。ちょうど花をつけていたのだが、それ が茎をくるむようについていたので、「エリマキ草」とその場で簡易的に命名した。まったくアホな大学生だった。
それはよいとして、クソ暑くてもミントをカットしていると、その清涼感あふれる香りでちっとも暑く感じない。わけがない。倒れるかと思ったわい。
私の存在をまったく恐れずに、トンボたちが舞っている。私を仲間だと思っているのなら心外だ。
それにしてもトンボはあんな乾燥肌のくせして、よく暑くないものだ。しかも、こんなときに倒立みたいなカッコがよくできるものだなと、感心かつ呆れてしまった。
薄れゆく意識の中、ミントをカットしながら思い出したことがある。
もう10年以上前になるだろうか?
“由仁ガーデン”に家族で行ったときのことだ。
子供たちはまだ小学4年と1年と小さかった。
こんな児童にとってガーデンなんておもしろいはずはないのだが、あの頃はソフトクリームが食べられるぞという誘拐犯の甘い声のような言葉をかけるだけで、魔術にささやかれたように簡単についてきてくれたものだ。
今と比べると隔世の感がある。今ならソフトクリームの器械を買ってやるといってもついてこないだろう。
子供たちにはテキトーに散歩してろと言い渡し、私は庭園内をブラブラしていたら、女性係員が「これからハーブの剪定体験をしま~す!ご希望の方はこちらまでどうぞ!」と手を振りながら、いかにもこれからワクワクできますよというように叫んでいた。
そんな体験が楽しいのだろうか?
そのころからすでに自分の庭で暴れまくるハーブたちに閉口していた私は、こういう体験に喜びを見いだす人々にある種の羨ましささえ感じたものだ。
だいたいにして、これは体験と称した、剪定作業の効率化、人件費削減である。
さて、約束のソフトを食べさせなくては。
長男はすぐに発見できた。
なぜ自分がこんなところにたたずんでいなければならないのだろうという表情で、広大な芝の中央にボーっと立っていた。
ところが次男が見つからない。
しばらく探しまわると、いた。
なんと、ハーブの剪定体験のおばさんたちの一行に混じって、鋏を手にしてレモンタイムをカットしてるではないか!
アホかっ!
どこにハーブの剪定体験をして喜ぶ小1がいる?
だいたい、そんなことしたいなら、家の庭の手伝いをしろ!
私はやり切れない気持ちになった。
実際、由仁町にはヤリキレナイ川というのが流れているし。
話は変わる。
日曜日の夜、テレビからワルトシュタインが流れてきた。
何かと思ったら、「トイレット」という映画の宣伝だった。
なんだか、このベートーヴェンがとっても新鮮に耳に響いた。
映画には興味はないが、きっと「トイレット博士」とは関係ないと思う。
ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のピアノ・ソナタ第21番ハ長調「ワルトシュタイン(Waldstein)」Op.57(1803-04)。
F.v.ワルトシュタイン伯爵に捧げられたためにこの名前がある。
曲の始めから激しい楽想が繰り広げられ、ベートーヴェンの中期の作風の到来を告げる曲とされている。
そしてまた、おちゃめでウキウキするような開始の曲でもある。
私が持っているのはハイドシェックの演奏によるCD。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で1967年から73年にかけて収録されている。EMI。
浦河に住んでいたとき、山の中にハチの巣を取りに行ったことがある。
クラスメートでけっこうワイルドな趣味の奴がいて、そいつと一緒によく学校の裏山に登ったものだが、あるときちょっと林道をから入ると、地面に穴を掘ったような感じのところにハチの巣があるのを発見した。
もちろんそのまま取ることはできない。
そんなこと、すっぱだかで北朝鮮の国境に踏み込むようなものだ。
翌日。
私と彼、梅田君とでよくクジを引きに行っていた駄菓子屋によって、けっこうな量の“煙幕花火”を買い込み、いざ出陣した。
まずは梅田君が虫捕り網で巣の入り口を覆い、中からハチたちが出てこないようにする。
そして私が煙幕花火を焚いて、奴らを窒息死させる。
ところが外から戻ってきたハチたちが私たちを容赦なく襲う。
そこでひるんで虫捕り網がずれる。すると中からゼロ戦特攻隊のごとくハチたちが飛び出してくる。
いやぁ、すごい攻防戦だった。
ついぞ私たちが勝った。
しかし土の中から取り出すときに失敗し、巣は完全な形とはならなかった。
もちろん私も彼もあちこち刺された。
特に私はまぶたの上を刺され、ディカプリオがお岩さんになったような顔になった。
不幸中の幸いだったのは、2人ともハチ毒に対するアレルギーがなかったことだ。
山を下り、さきほどの駄菓子屋による。
おばさんに巣を見せる。
おばさんは「あら、中にハチの子がいるわね」といって、1匹パクッと食べた。
うぎゃあ。ウジを食った!
いや、それよりも「あら、刺されてるわよ」と言っただけで、なんにも同情してくれなかったことの方が驚きだった。
さらに翌日。
学校に巣を持っていく。
さすがにクラスメートたちは、「すげえ」とか「珍しい!」と驚く。私のお岩顔に。
担任の先生がやって来た。
梅田君がすごいでしょとばかり巣を見せる。
すると先生は「懐かしいなぁ。昔良く食べた」とウジをパクッ!
ということで、あんなに苦労した割に誰も羨望のまなざしで見てくれなかった。
梅田君とはヘビを見つけて、彼がヘビをめった打ちしたこともある。
ガラス瓶の破片をメス代わりにしてカエルを解剖したこともある。
いずれも私は傍観者だったが。
梅田君、どうしただろう?
ニコルくんにでもなったのだろうか?
その小学校の遠足で山に行ったときのこと。
けっこう前方で先頭を歩いていたクラスの生徒が十数人、ウギャアともウゲェともヒョエェ~ともつかない悲鳴とともに、狂ったロボタンのように走って戻ってきたことがあった。
誰かがスズメバチの巣に気づかずに触れたらしい。
あれはすごい光景だった。
私たちは無事だったが、いやぁ田舎の山道でのパニックっていうのは、静寂と喧騒が見事に空中分解していて、なかなか不思議なものであった。
先生の1人が「アンモニアがあればなぁ」と言ったのを聞いて、チンチンを出そうとしたのも、もちろん梅田君だった。
ヴォーン=ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams 1872-1958 イギリス)のアリストファネス組曲「すずめばち」(Aristophanic Suite "The Wasps")。
この曲は「すずめばち」(または「むずかし屋」)というアリストファネスの劇の付随音楽(1909)を、5曲から成る組曲に改編したものである。
曲の出だしはR-コルサコフの「熊蜂は飛ぶ」を思い起こさせたりして、やっぱハチとなるとこういうふうになるんだな、なんて思ってしまう。
ヴォーン=ウィリアムズはイギリスの国民主義音楽を代表する作曲家だが、この作品もとてもすがすがしく親しみやすい音楽である。
私が聴いているのは、ボールト指揮ロンドン・フィルによる演奏のCD。
1968録音。EMI。
ヴォーン=ウィリアムズの交響曲全集のなかの1枚である。
遠足のときスズメバチに刺された被害者の1人に、私の担任の娘がいた。
ほらね、父親がハチの子を食べたりするから仕返しされたんだよ、きっと。
あっ、じゃあ私と梅田君は刺し殺されてなきゃならないか……
今朝は早くからカラスの怒号で目が覚めた。
あいつら、へたな暴走族よりうるさい。
皆さんは9歳のとき、何をしていただろうか?
私は平凡な小学生だった。
当時浦河町に住んでいた私は、のび太のようにやりたくもない草野球に駆り出され苦悩したり(なぜやりたくもないのに参加してやっているのに、エラーしたぐらいで罵られなきゃならないのか?)、学校の裏山に登ってウルシにかぶれたり、自転車に乗っていてドブに落ちたり、中田さんの座布団に怯えたりしていた。
だがモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)は違った。
彼は1764年末、つまりまだ8歳か9歳のときに最初の交響曲を書いているのである。
これはすごい。
私は交響曲を書くどころか“薔薇”という漢字すら書けなかったのに、である(今でも書けない)。
モーツァルトは家族とともに1763年の6月から3年半にもわたり、ドイツ各地、ベルギー、フランス、イギリス、オランダ、スイスを旅した。
この旅行によってモーツァルト少年は各地のさまざまな音楽活動に触れ、大きく成長することになるが、交響曲が初めて書かれたのはロンドンにおいてであった。
ここではヨハン・クリスティアン・バッハ、あのJ.S.バッハの末っ子が活躍していた。
モーツァルトはこのJ.C.バッハから大きな影響を受けることとなる。そして、J.C.バッハの交響曲を手本にして自らも交響曲を作曲したのだった。
J.C.バッハの交響曲(シンフォニア)は、イタリア式序曲から発展した形式に従っており、急-緩-急の3つの楽章から成る典型的なイタリア風交響曲。そして、このときにロンドンで作曲されたモーツァルトの交響曲には、この様式が反映されている。
交響曲第1番変ホ長調K.16の、これからの輝かしい人生を予告するかのような明るく健康的な響き!(不健康で若死にしちゃうんだけどさ、結果的には)
同じ年ごろのころ、ジャイアンもどき(中田さんの座布団で私を襲った奴だ)に怯えていた私とはえらい違いだ。
私にはそのころの作文も残っていないし、「よげんのしょ」も書いた記憶がない。
私が持っているCDはリンデン指揮アムステルダム・モーツァルト・アカデミーによる演奏のもの。
2001年録音。ブリリアント・クラシックス。
このCDは現在廃盤。
なお、私がクラシック音楽を聴きはじめるきっかけとなった作品であるモーツァルトのK.107のクラヴィーア協奏曲は、J.C.バッハのクラヴィーア・ソナタを編曲したものである。
昨日の土曜日は仕事でナシニーニ氏と岩見沢に行って来た。
私の食に対する欲望(レーガーの100分の1くらいだが)を満たしてくれるべく、ナシニーニ氏は昼食をとる店を下調べしてくれていた。
行ったのは酔月亭という割烹。
いや厳密には割烹だったと言うべきなのかもしれない。現在は“食事処・酔月亭”となっている。
御覧のようにかなり由緒ある建物。岩見沢消防署はかなり気にかけているかもしれない。もし燃えはじめたら、トムとジェリーの世界のように、あっというまに燃え尽きそうだもの。
岩見沢市は周辺の炭坑によって、そしてそれらの輸送拠点としてかなり栄えた街である。国 鉄の駅はかなり大きかった(貨物(石炭)のターミナル駅で機関区もあった)。その当時、この割烹もすごくにぎわったのだろう。
あっ、ほんのちょっと姿が写っているのがナシニーニ氏である。ナシニーニという名前だと、往々にして常に燕尾服を着ているような印象があるだろうが、このように庶民的な格好をすることもあるわけだ。
この店のランチ・メニューは多岐にわたる。
天丼、天そば、生姜焼きといった定番ものから、チャーハン、天津飯、中華丼といったチャイニーズ、寿司と私の純真無垢な子供心のようなランチ欲求をそそる(別紙で、AIR-G(FM北海道)とコラボしたという、スープカレーもあった)。チャーハンはなんと3種類の味がある。永谷園の素を超えるラインナップだ。
しかしここの名物は「うなまぶし」だという。
「ひつまぶし」なのだが、北海道人になじみやすいよう「うなまぶし」にしたという。
こういうところでウナギを頼むのはかなり勇気がいる。
場合によっては(そうである場合が多いのだが)、クセがあってウェッっとなるような泥臭いウナギが出てくることがあるからだ。
だが今の天皇陛下が皇太子だった頃にここでウナギを食べたという、由緒あるウナギらしい。“天皇が「おいしい」とおっしゃられた”とまでは書いていないところが、また正直で好感が持てる。そのウナギの貼り紙の上に無造作に貼られた「冷やしラーメン」のPOP(?)も素敵だ。
注文する。
「けっこうお時間をいただきます」という。
「じっと待ちます」と答える。
時間がかかるということは、ことウナギに関しては、絶対そうだとは言えないものの、きちんとさばくところから始めて調理しているという期待が持てる。
すぐ出てくるようならスーパーで売っているパックか、紀文の冷凍食品である可能性がある。
本当にけっこう待った。
で、出てきた「うなまぶし」は想像以上に美味しかった。
本当はおひつをかき混ぜる前に、店の人が去ってから写真をとりたかったんだけど、「ちゃんとかき混ぜて食べるってわかってるかしら」みたいな心配そうな目で私を見るので、かき混ぜてしまったのだ。ぐちゃぐちゃでごめん……
岩見沢でこのように美味しいウナギにありつけるなんて思わなかった。
もっともけっこう有名な店らしく、知らないのは私とナシニーニくらいだったのかもしれないけど。
あぁ、チャーハンも食べてみたい。
帰り際に聞いてみた。
「夜はどのようなメニューなんですか?」
「こちらのメニューのようになります」
そこにはいわゆる居酒屋メニューが書かれていた。
「夜にどうしてもチャーハンが食べたいって言ったらどうでしょうか?」
「いいですよぉ!チャーハンでも中華丼でも、スープカレーでも、ウナギでも」
「力強いお言葉ありがとうございます」
「お待ちしてまぁ~す」
私とナシニーニは今度は夜に来ようねって、あまり固くなく誓いあった。
だって岩見沢まで飲みに行くのは……
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