おとといの金曜日。
私はIND氏と酒を飲んだ。
前に書いたように、私はIND氏と酒を飲むのが苦手だ。
IND氏そのものが苦手なのではない。会話を続けるのが快適ではなくなってくる。話が、表現が、下品だからだ。下ネタが多く、純な私は困惑し、赤面し、神に祈りたくなる。
けど、いつまでも誘いを断り続けるわけにもいかない。
ということで、1対1は厳しいものがあるので、仕事で共通する干潟しじみ部長を巻き込み酒を飲んだ。
飲んで行くうちに、IND氏の話に悪酔いしてきて、カラオケで時が過ぎるのをごまかしたらえらく疲れた(なお、この日は「五星戦隊ダイレンジャー」は歌っていない)。
なんだか、ブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴いているような気分になって来た。
つまり、長いなぁ~、って。
村上春樹はエッセー集「シドニ-! 〈ワラビ-熱血篇〉」(文春文庫)で、次のように書いている。
《ここでもう一度最初のテーマに戻ります ― ブラームスのシンフォニーみたいに。》
別に、最初のテーマに戻るのはブラームスのシンフォニーに限ったことじゃないけど、私がこの文を、そしてブラームスのコンチェルトを思い出したのは、ただ単に「会話がつまんねぇな。退屈してきたな」ってことから(なぜか、シンフォニーじゃくて、コンチェルトだけど)。
それで、先日紹介したとおり、年明け1月の札響定期演奏会で、ブラームス(Johannes Brahms 1833-97 ドイツ)のピアノ協奏曲第1番ニ短調Op.15(1854-58)が演奏される。
ソリストの河村尚子さんはかわいくて、なかなか私の好みのお顔をしてるんだけど(見ず知らずのおじさんにこんなこと言われたって迷惑なだけだろうが)、いまひとつ行く踏ん切りがつけない。
これが好きな作品なら、その日は実際に仕事的にも忙しいので行くことがけっこう難しいんだけど、それでもあれやこれや調整して行く算段をするだろう。
でも、そこまでの気持ちになれない。
かの宇野功芳氏も書いている。《若々しい情熱に溢れている反面、ブラームスらしい内面的なロマンや侘しさに溢れ、構成もきわめて複雑で、決して一般受けのする音楽とはいえない》、と。
“溢れ”が重複しているのが気になりだしたら気になってしかたない気になるが、確かになかなか一般受けするコンチェルトとは言い難い。
もう20年くらい前に、生でこの協奏曲を聴いたことがある(札幌にマズアが来たとき)。それが私がこの曲に初めて接する機会だったが、何が何やらわからんかった。とにかく長く感じた。
それでも、おじさんになった今、私も少しはこの曲のなかにすばらしいと感じるところがでてきた。「冒頭なんて、いいじゃないの」、と。
まぁ、褒めてるんだか、近づくなと忠告しているのかよくわからないが、ブラームスらしい曲であることは確かである。
私が持っているCDはレオンスカヤのピアノ、インバル指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏。1990録音。テルデック。
テルデック盤は廃盤となっているが、同じ内容のものがUltimaレーベルから出ている ↓ 。
⇒ Brahms: Piano Concertos Nos.1 & 2 / Leonskaja, Inbal, Masur et al
ちなみに、本日の記事は1,100回目である。
そうそう、あの飲み会で1つ判明したことがある。
干潟しじみ部長はタンメンとタンタンメンの違いを知らなかった……
今日は夕方に東京に向かう。
台風と真っ向勝負にならなくて良かった。
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October 2010
先日変な夢をみた。
私は会社の研修所の2階にいる。
他に数名の人物がいたが、それが誰であったのか思い出せない。象だったのかもしれないし、メダカだったのかもしれない。
研修所は壁全面がガラス張りである。
わが社の実際の研修所とはえらい違いだ。
そして、その窓の下は断崖絶壁になっていて、下は海である。
刑事ドラマで真犯人の未亡人が最後に身を投じるような場所をイメージしていただければおおむね合っている。
私はガラスに近寄り、ここが露天風呂だったなら人気が出るだろうなと思う。
すると、遠くの空にみるみる鉛色の雲が立ち込めて来る。
なぜか館内に竜巻警報が流れる。
その放送を待っていたかのように、竜巻のような柱が遠く、海から空へと立ち上る。うわぁ、恐い。
そう思っていると、竜巻はどんどんこちらへ近寄ってくる。
ほかの人物(もしくは生物)は、私をほったらかしてすでに逃げている。
それなのに、私は「来るぞっ!」と叫んでしまう。誰もいないのに……。あぁ、はかない……
竜巻はどんどん近づいてくる。
稲光がまばゆい。
ゴジラがズドンズドンと歩みながら、電線をひっかけた時よりもすごい。
その直後、私は見た!
竜巻の中で、竜が舞っているのを!
その竜は赤っぽい色をしていて、でもなんとなく動きがぎくしゃくしている。
そして、そいつは窓のすぐ目の前に来た瞬間、右後方へと進路を変えて進んでいった。研修所は無事だった。
と思いきや、今度は竜巻から黄色い巨大なアンコウのようなものが出てきて、宙に浮いたまま、私から見て左方向を凝視している。いや、凝視かどうかはわからない。ただ、その眼は3V仕様の懐中電灯用の豆電球でできていた。
その魚ちゃんは口をあけると、火花を15発出した。遠くへ飛ぶものもあれば、すぐに落下してしまうものもあったが、どっちにしろ何の被害も与えなかった。
いま冷静に思い返すと、あの魚もどきの姿はJAバンクのちょちくちょ金魚に似ていたし、火花は湿気た15連発花火そのものだった。
ちょちくちょ金魚もどきは向きを変え、瞬時に竜巻に吸い込まれた。
そして、竜巻は去って行った。
あとには風で巻き上げられた無数の紙吹雪が舞っていたが、海の断崖絶壁なのになぜ優勝パレードのときのような紙吹雪が舞っていたのか不思議である。
そこで目が覚めた。
なぜ、このような夢を見たのだろうか?
外の強風の音のせいではない。
だって風なんて吹いてなかったもの。
はっ!
あの竜の姿は……そうだ、五星戦隊ダイレンジャーのオープニング画面に出てくる竜そっくりではないか!
なるほど。
私はその数日前、どうしてもカラオケで歌わざるを得ない状況下に追い込まれ、「五星戦隊ダイレンジャー」の歌を、年甲斐もなく、世界中の老若男女の誰が見ても年甲斐もなく歌ってしまったのだ。
そのせいだ。
戦隊シリーズの特撮が好きな子供は多いと思うが、五星戦隊ダイレンジャーを歌える美中年はそうそういないと思う。歌えても歌わないのが大人ってもんだ。でも、私は歌ってしまった。
「転身だぁぁぁぁぁぁぁ~っ!」って。
でも、この曲、半音が多用されていて名曲だと思います。
えっ?でも、なんで、ちょちくちょ金魚なんだって?
しらねえっすよ、そんなこと。
村上春樹のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです ― 村上春樹インタビュ-集1997-2009」(文藝春秋社)のなかから、今日は“文芸界”2003年4月に掲載されたインタビュー「『海辺のカフカ』を中心に」を取り上げてみたい。
聞き手の、“シューベルトのピアノ・ソナタとベートーヴェンの「大公トリオ」の出てき方だと思うんですね。ホシノちゃんみたいな男が「大公トリオ」を聴くという、あるいはそれに引き込まれていくというのは、かなり大胆な発想だけれども、やっぱりあの小説の中の、そこで鳴り響いているんだろうと思うんです”という言葉に、村上春樹は次のように答えている。
どのような人であれ、人には何か特別な感情の入口みたいなものが必ずあると思う。たとえばホシノちゃんみたいに肉体労働に従事している人がベートーヴェンなんか聴くわけないという意見もあるかもしれないけど、そういう入り口は誰によらず必ずどこかにあると思うんですよ。あるときには思いつきもしないような場所に。そして大事なときにはその入口が開くんだと、僕は、そういう風に信じてます、ごく自然に。
特に音楽に関して言えば、何か本当に心が裏返ってしまうような瞬間というのはあるし、そういうものってすごく大事なんですよね、人生にとって。
「ホシノちゃんみたいに肉体労働に従事している人がベートーヴェンなんか聴くわけない」ってことはないと思うし、こういう言い方は肉体労働に従事している人に失礼だと思うが、でも、こういう意見をメールや投書で言って来る人もいるのだろう。
もっとも、村上春樹の言う肉体労働っているのは、たとえば古くは星一徹の世界に象徴される、いわゆる土木作業などだけを指すのではなく、飲食店のマスターも含まれるようだ。
というのも、同書のなかで、「1968年前後のどたばたがあって、学生結婚して、生活費を稼がなくちゃならなくて、それでずっと肉体労働をやってきたのが、ある日突然ポコッと小説を書いちゃって、それが『風の歌を聴け』という作品なんですが、思いもよらず新人賞を取ってしまった」と書いてあるので……(「るつぼぼような小説を書きたい」:「モンキー・ビジネス」2009年春号のインタビュー)。
んー、文化的雪かき?
さて、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1828 ドイツ)の、ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調Op.97「大公(Erzherzog〔独〕/Archduke〔英〕)」(1811)。オーストリアのルドルフ大公に捧げられたために、この通称がある。
「海辺のカフカ」と「大公」については過去2回、’07年11月26日と翌11月27日に書いているが、今回はケンプのピアノ、シェリングのヴァイオリン、フルニエのチェロという、3大テノールなんか怖くない的豪華顔ぶれによる演奏を。
この演奏、最初の音が鳴り出した瞬間からすごく温かみのある幸せな気分になる。
私には、ベートーヴェンの「大公」トリオが彼の作品の中では最高傑作のグループに入るとはあまり思えないのだが(けっこう間延びした部分があるように思う)、それでもこういう演奏を聴くと、この曲はホシノちゃんじゃないけど人を引きつける強い力があるし、精神状況によっては、はまっちゃう曲だと思う。そして、もちろん、長く聴き継がれる価値がある作品だとも。
また、ホシノちゃんがここで引き込まれるのが、ベートーヴェンの交響曲などではなく、ベートーヴェンのこのピアノ・トリオでなきゃならなかった、とも思えてくる。
このCDは1970録音。グラモフォン。
このCDジャケット、なんだかすごい写真だ。
雰囲気が、何というか、何というか、何というか……
昨日はピロリ菌の検査の日であった。
詳しくは過去記事を読んでいただくとわかると思うのだが、十二指腸潰瘍が見つかり、薬を飲み続け、もう一度胃カメラを飲み、潰瘍が消失していたので今度はピロリ菌を退治する薬を7日間飲み、飲み終わったあと1カ月以上あけてから、ピロリ菌が生き残っていないかどうか検査をするという、その最終段階の検査であった。
ピロリ菌死滅のための7日分の抗生物質を飲み終えたあと、1カ月をはるかに超えてしまったのは、私のスケジュールと担当医のスケジュールがなかなか合わなかったためだ。特に非は医者にある。だって、毎週水曜日の午前中しかいないっていうんだもの。こりゃなかなかたいへんだ。
前日の9時から絶食。
朝はいつもの時間に起きたが、ありゃありゃ、外は雪景色。
さまざまな心の葛藤があったものの、どうせ朝ごはんも食べられないのだからと、急きょタイヤ交換をする。この程度の雪ならまだ夏タイヤでも平気なのだが、どうせ土曜日には交換しなければならない。ならいまのうちに、ということで朝から肉体労働。スタッドレスタイヤに交換し、空気圧を点検し、ワイパーを冬用に交換した。
すべて手作業で、年2回行なわれるこの一大作業を40分で成し遂げた私はなかなかすばらしい。
シャワーを浴び(もちろん家の中で)、病院に向かう。
9:10ごろに病院に着いた。
検査は9:30からだ……と思い込んでいたが、予約票をよく見ると、“9:30までにお越しください”と書いてある。
したがって、私め、ご指示のとおりそのまま検査室へと向かう。
教訓:予約票の記述内容はよく読むこと!
検査室に呼ばれる。
鼻から息を吸って5秒間止め、そのあと口から小さなビニール袋のような容器に吹き込むよう指示される。
よかった。
鼻から容器に吹き込むとなったら、けっこう難儀するところだった。
鼻から息を吸う。
1、2、3、4、5。
看護師の真剣な顔に、思わず吹き出しそうになる。
どうもこういうときに真剣みにかけてしまう、私は。
でも、なんとか耐えた。
そのあと、薬を飲むように言われる。
飲んだら、今度は体の左側を下にして5分間ベッドに横になるように言われる。
言われたとおりにする。
5分経つと、看護師が現れ、20分後にもう一度息を採取するので廊下の椅子で待つように指示される。
20分間そのまま寝ていてよいと言われたなら、どんなに幸せだったろう!
地下街から追い出されるホームレスのように、検査室から追い出される。
20分後。
同じように息を容器に入れる。
あとは診察を待つことになる。
診察まで時間がある。
おっ!
地下の食堂があと5分で開くではないか。
昨夜から何にも食べてないから、おなかがペコペコだ。
食堂に行き、今日は親子丼ではなく、どうしても天ぷらそばが食べたかったので食券を買おうとしたら、750円とこのような店にしては随分と高額なので、断念してかしわそばにする。こちらは450円だ。
あぁ、美味しいぃぃぃぃ~。
30分後。
診察室に呼ばれる。
“尿素呼気判定”という紙を見せられる。
「良かったですね!ピロリ菌はすべて退治されました!」
医者に称えてもらえた。
「これで安心です。でも、1年に1度はカメラを飲んだほうがいいでしょうね」
じゃあ“安心”じゃないじゃん、などと思いつつも、まあまた菌が忍び込むこともあるんだろうなと思い、別な質問をすることにした。
「毎年人間ドックでバリウム検査は受けているんですが、それではだめでしょうか?」
「う~ん。だめってことはないけど、バリウムだと見落とすことがありますからね」
確かに。今回の十二指腸潰瘍も、バリウムでは発見できなかった。胃の別な箇所でひっかってカメラを飲んだ結果、潰瘍が発見されたのだった。
ふーっ。
これでまた年中行事が一つ増えた。
でも、とりあえずはピロリ菌がなくなってよかった。
しかし、数少ない親しい友人を失ったような気がしないでもない。
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の「フランスの歌『ああ,私は恋人を失った(泉のほとりで)』の主題による6つの変奏曲(6 Variationen uber die franzosisches Lied "Helas,j'ai perdu mon amaut")」K.360(374b)(1781)。
ヴァイオリンとピアノのための作品である。
まっ、私が失ったのは1人の恋人ではなく、無数のピロリ菌ですけど。
私が持っているCDはBaudatのヴァイオリン、Belderのピアノによる演奏。ブリリアントクラシックスのモーツァルト/ヴァイオリン・ソナタ集のなかに入っている。
2001年録音。
ユキムシが舞っている。
ユキムシって響きだけならなんとなくロマンティックだが、要はアブラムシの結婚飛行である。
写真にあるような(もちろん下の写真である)アブラムシどもが飛び立つと思うと、私は殺戮という心の暗部の欲望を抑えることが難しくなる。あちこちに出発する前に始末すべきではないかと……
そして、朝の通勤時に、飛び立ったこいつらが衣服にへばりつく。
とまる、というよりは、ぶつかってそのまま身動きできなくなるって感じだ。
それほどか弱い。私といいとこ勝負だ。
今朝だって、電車に乗り込んだら頭の上からポロリと落ちてきた。周りの人が、私が頭髪の中でこいつを養育していたと誤解されたら心外である。
このユキムシの名をつけたお菓子が、確かお土産用として売られていたと思うが、どうもいただけないネーミングだと私は思う。アリは好むかもしれないけど。
舞うといえばバレエである。
相当強引だが、そういうことにしてほしい。
月曜日にランチベリー指揮、ヌレエフが王子役を務めたチャイコフスキーの「白鳥の湖」を取り上げたが、私のブログの読者であるLimeGreenさんからコメントをいただいた。
LimeGreenさんはこの演技が「白鳥の湖」の中でも最高であると感想を書いてくれた。
その熱い思いに、私はちょっぴり胸を打たれたほどだ。
すいません。名倉潤なんて言って……
確かにこのジークフリート王子の舞は見事だ。
実は私が好きな「白鳥の湖」のバレエは(ほかにそんなに知らないけど)、ケヴァル指揮ストックホルム・王立歌劇場管弦楽団の2002年5月のストックホルム王立劇場でのライヴDVD。ピーターライト版である。
オデット(&オディール)役はナタリー・ヌードヴィスト、ジークフリート王子役はアンデシュ・ヌードストレム。ロットバルトはクリスチャン・ラムベ。ほか、スウェーデン・ロイヤルバレエ。
この王子、オデット(実はオディール)が舞踏会に姿を現して、うれしくてデヘデヘしている演技がとっても巧い!
でも、踊りそのものについては、ヌレエフとは役者が違う!って感じだ。
この公演、舞台がとても美しい。そして、カメラワークもいい。
オデットを、そしてジークフリートを死に追いやったロットバルトを白鳥たちが取り囲み追い詰めていく最後の場面はとても感動的で、私は美しい涙を浮かべずにはいられない。
いやぁ、ユキムシどころか本物の雪が舞いつつある昨日今日である。
昨日の日曜日は、イベントの手伝いで出勤する予定だったのだが、土曜日に「いいですよ、明日は休みを取ってください」と、課の女性社員が温かい言葉をかけてくれた。
本音は「邪魔だから来ないでください」ということではないだろうか、などといじけた推測もせず、ありがたく休みをとった次第である。
天気も良く、こんな日は庭のバラの冬囲いの準備でもすりゃああとから楽なんだろうが、まだ気候的には早すぎる感じだ(もっとも、今週は雪がちらつくとの予報だが)。と、あたかも前向きちゃんのようなことを言っているが、実際は疲れで体がだるく、全然やる気が起きなかった。
それでも、ベンジャミンと、観葉植物の何とかの鉢の植え替えをした。
瀬戸物の鉢皿がずいぶんと汚れていたので、外で水道を流しながら丹念に洗う。
たわしでごしごし。
水が冷たい。
越冬用の漬物を漬けている老婆の気分だ。
でも、ぴかぴかになった。
どんなもんだい!
その直後、手を滑らせた。
鉢皿は重力の法則に素直に従い、地面へ。
がっしゃぁぁぁ~ん。
私のそれまではなんだったんだろう……
悲しくてオーボエによるメロディーが頭を支配した。
「白鳥の湖」だった。
ちゃー、ちゃらららら、らーららーら、らーろらろろろらぁ~。
チャイコフスキー(Pyotr Iiyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)のバレエ「白鳥の湖(The swan lake/Le lac des cygnes/Der Schwanensee」Op.20(1875-76。1877初演)。
チャイコフスキーにとって最初に書かれたバレエであるが、初演は失敗だった(指揮者にも踊り手にも恵まれなかったためだという)。
悪魔によって白鳥の姿に変えられたオデット姫と侍女たち。彼女たちは夜の間だけ人間の姿に返る。
王子ジークフリートの愛によってオデットは人間の姿に戻るが、舞踏会で悪魔が邪魔しに入り(オデットのふりをした黒鳥オディールに、王子はプロポーズしちゃうのだ)、愛を失ったオデットは湖に戻り、後を追ってきたジークフリートとともに死ぬという筋である。
4幕29曲から成り、台本はV.P.ベギチェフとV.Fゲルツェルだが、そのもとになった話はドイツのムゼウスの童話「奪われたベール」である。
現在では多くの演出家によってつくられた様々な版で上演されるが、版によってストーリーや曲順などが異なる。
今日はランチベリー指揮ウィーン・フィルの演奏によるDVDを紹介する。
オデット(そして、黒鳥であるオディールの2役)はフォンティーン、ジークフリート王子はヌレエフ。ほかはウィーン国立歌劇場バレエ団による。
1966収録。グラモフォン。
いやぁ、問題は王子役のヌレエフである。
初めてこのDVDを見たときには、なんで名倉が?と思ったほどである。
こんなこと言ったらヌレエフに申し訳ないというか、名倉潤に悪いというか……
でも、ヌレエフ(1938-93)はけっこう有名なソヴィエトのダンサーらしい。エイズがもとで亡くなったそうだ。
それはともかく、はっきり言って、まあいわゆる、何て言うか、観ていてゾクゾクする王子だ。
さすがに踊りはすばらしい!
C.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-88 ドイツ)のチェロ協奏曲イ短調Wq.170(1750)。
この作品は、フルート協奏曲イ短調Wq.166(1750)と同一楽想。
フルート協奏曲Wq.166もこのチェロ協奏曲Wq.170も、1750年作曲のチェンバロ協奏曲Wq.26の異稿である。
つまり、1つの作品を3種類の独奏楽器用にそれぞれ書いてくださったわけ(良く解釈すれば)。チェンバロ奏者もチェロ奏者もフルート奏者も、みんな大喜びである(贔屓目に解釈すれば)。
でも、意地悪な人はこう思うだろう。
「なんでぇ、使い回ししやがって」
うん、あなたの気持ちはわかる。
この協奏曲、フルート版で聴くと怒涛のごとく弦楽器が暴れ、「そんなんちっとも関係ないもんね」のごとく、フルートはおすまししているのが、すっごく印象的である。
しかし、チェロのための協奏曲となるとオケ(弦楽)と同じ音色のため、それほどドラマティックな対比効果がないし、チェロの音ではおすましって感じにもならない。ウォーリーを探せ、みたいなものだ(すっごく意味不明)。
ということで、私としてはフルート版の方が断然面白く聴けるんだけど、あるいはそれは聴いているCDの演奏のせいかもしれない。
私が聴いているのはティム・ヒューのチェロ、リチャード・シュトゥット指揮ボーンマス・シンフォニエッタの演奏によるナクソス版。1995録音。
ただ、緩徐楽章である第2楽章はチェロ版の方がいいかも、とも思ってしまう。
いずれにしろ、この曲、当時としてはかなり過激な作品の登場であったに違いない。
そして、名曲である。
市川信一郎氏(音楽評論家なのかな?この人)が言うように、「劇的な冒頭部、テーマの十全な展開、甘美な旋律、論理的で精妙な構成など、モーツァルトを通り越してベートーヴェンさえ予見できる要素を備えている」のである。
先日触れた、札幌交響楽団が来年3月1日にサントリーホールで行う東京公演のチラシをゲット。
このようなことでコンサートが開かれるので、東京の皆様、機会があれば、ぜひ北方サウンドを聴きにきてみてはいかがでしょう。と、繰り返すが、私は札響関係者でも何でもないが、札響ファンとして余計なお節介をする次第である。
さて、今日はマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の、未完で終わった交響曲第10番嬰ヘ短調(1909-10)。ラトル指揮のCDについて。
全14枚から成る交響曲全集のディスクNo.8。クック版(2000年版)による演奏。
第10番といえば、アルマの証言によって、マーラーが苦悩の中で作曲を取り進めていたとされるが(ほかならぬ、アルマの浮気によって)、先日紹介した指揮者の高関健のコラムにもあるように、ちょいと悲痛さが誇張されているのではないかという疑問も残る。
確かに病気は重くなっていたし、美人妻はお痛するしで、精神的には平穏では決してなかったろうが、自らの死を予感しながらこの曲の筆を進めるにしては、マーラーはあまりにも精力的に活動していたのである。
ラトルの演奏は、その点を汲み取っているのかどうかは知らないが、けっこう淡々としている。
悲しんだり叫んだりするのだが、案外とあっさり。
この演奏を聴く限りでは、まぁ美しい、でも怒ったり泣いたりしてるわ、ぐらいの純粋なる大交響曲である。
変に粘っこくない、このくらいがいいのかもしれないなと思ってしまった。
ところで、クックによる全曲完成版だが、これは私の想像の域を超えるくらい大変な研究と作業の産物なのだろうが、それでもマーラーが完成させたらこのようになったのかというと、きっと違う。当たり前の話かもしれないが。
マーラーの音楽にしては、どこか違和感は残る。
もっとも補筆して完成させるっていうのは、あくまで「こうなっちゃたりなんかして」という予測作業なんだから仕方ないけど……
何を言いたいかわからないが、ラトルのサバサバした演奏、悪くない。
オーケストラはベルリン・フィル。
1999年録音。EMI。
ちょいとお仕事が忙しくて土日も返上なので、短いの、文章が。
ごめんね。悪いのはすべて私だよ……
先日のことだ。
朝、ひげを剃ろうとしたら電気シェーバーが動かない。
原始時代の斧の石器のように、そいつは無音かつ不動だった。
兆候はあった。
その少し前から、バッテリー残量ランプが点灯しなくなっていた。
ランプだけかと思ったら、ランプの異常がモーターの異常に伝染したらしい。
私は叩いた。
フニュ、ふにゅ、ふにゅにゅ、ふにゅにゅにゅグォグォ、グググググォォォォ~ンと動き出した。
どれだけ文明が発達しても、調子が悪い電化製品は“叩く”という基礎的な施術によって復活するものなのだ。そういう意味では、打楽器奏者というものはもっと呪術的に崇められてもよいような気がする。
しかし、打撃による刺激もそう長くは神通力を持たなかった。
ということで、新しいシェーバーを買った。
K'sデンキで買った。
最近は街中のビックカメラで電化製品を買うことが、めっきり少なくなった(ちなみに、ビックカメラで電化製品以外、たとえば酒を買ったことはない)。家の近くにK'sがオープンしたということもあるが、ビックカメラの店員の不親切さというか、どこかから漏水のようににじみ出ている体育会系的ないい加減さ、顧客の立場に立っていない態度が気になるようになってからだ。
洗濯機が壊れたときなど、特にそれを感じた。
まあ、それはいいとして、新しいシェーバーである。
日立の製品にした。
これまでも日立のを使っていた。
日立をひいきにしているわけではないが、けっこう保守的な私である。
でも、今回は新たな試みをした。
“往復式”ではなく、“ロータリー式”のものにしたのだ。
私は特にひげが濃いわけではない。
しかし、どちらかというと顔の色が白く、ひげを剃った後も皮膚内のひげの根のせいで、ひげが濃く見える。
その対策として、正しいかどうかは不明だが、なんとなく無理なく深剃りができるタイプがいいような気がする。
カミソリで剃るという手もあるが、ついついやり過ぎて、いつも血だらけになってしまう。血とひげで、これでは赤と黒の世界になってしまうのだ。全然ストーリー的には関連はないけど……
そこでロータリーだ。
冬の北海道、あのたくましいロータリー除雪車を思い出してしまう。
何かやってくれそうだ。
そして、その予想は当たった。 とても剃り心地がいい。
まさに無理なく深剃りができる。
これまではプレシェーブ・ローションを使わないとよく剃れなかったのに、ロータリー式にしてからは、それを使わなくてもきちんと剃れる。
気持ちいいほどだ。
今の悩みは、遠慮を知らない息子たちが、私に無断でそれを使わないよう対策を練ることである。
気持ちと言えば、最近大きな心境の変化、というか、嗜好の変化が私を襲った。
私は辛い物が苦手で(といっても、常識的な範囲内での辛さは平気である。カレーライスはドラえもんカレーしか食べられないとか、そういうことではない。バーモントカレーの辛口でも大丈夫なくらいだ。エヘン!)、キムチも嫌いだった。
ところが先日、昼食を食べに珍しく行ってみた焼肉「徳寿」で出てきたキムチがめっぽう美味しく感じられた。
妊娠したのかしら?
おなかに寄生虫がいるのかしら?
このような急激な嗜好の変化が起こった場合に考えられる原因を、このように検討してみた。
しかし、どちらにも該当していない可能性が高い。
ということは、すべてのキムチが苦手ということではなかったのだ。私は。
そこで近所のスーパーで、一応直輸入物と書かれたキムチを買ってみた。
うん!いける!
ということで、キムチが私の可食漬物シリーズの御ひいき組に追加された。
めでたし、めでたし。
焼肉「徳寿」だが、おそらく新橋の高級焼肉店の「徳寿」とは関係ないと思う。
この店、札幌市内・近郊に何店か出店しているが、高級店と大衆店が見事に分かれている。
ランチで行ったのは高級店の方。
大衆店はといえば、それはホント、あぁチェーン店ってもので、価格設定も低い。
ここのTVコマーシャルが「やきにくぅぅぅぅ~、たべたいぃぃぃぃ~」というふざけた歌が流れるもので、そのメロディーはベートーヴェンの「運命」の冒頭である。
やれやれ……
ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の交響曲第5番ハ短調Op.67(1807-08)、いわゆる「運命」については、過去に書いているのでここであえて取り上げないが、演奏はというと、やはりC.クライバー指揮ウィーン・フィルのものを超える演奏はいまだないと私は思っている。
1974録音。グラモフォン。
以上、酸っぱいキムチはやっぱり大嫌いな私からの報告を終える。
タコ話をそのまま引きずることにしよう。
アルフレッドの苦悩は、昨日の記事に寄せられた彼のコメントでもおかりになるだろう。
そう、タコ好きのアイゼンシュタイン氏は、ここにきて人様にいろんな迷惑をかけているわけだ。
私が最初に買ったLPレコードはショスタコーヴィチ(Dimitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第5番(ニ短調Op.47(1937))、それとラフマニノフのピアノ協奏曲第1番/第2番の2枚であった。
ということで、タコはタコでもショスタコの話である。
話は変わって、るようで、実は変わらないのだが、Meitneiriumさんからコメントが入った。
でも、本人の希望で公開しない。
いわば私への私信だ。うふっ、やらしい……失神しちゃいそう。←冗談ですって!
その内容というのは、フィギュアに関する私の知識のなさに対する憐みについてがまず第1点目。でも、悲しくないもん。興味ないんだもん。
第2点目は私がKitaraで行われたムーティ/ウィーン・フィルの演奏会で1匹のハエに取りつかれた話への共感。
第3点目は、ブログの文章を読んだだけで鋭い洞察によって私が通っていた高校を断定しているところ。見事、正解。
第4点目は、Meitneriumさんの奥さんの実家が西野にあったということで、私の書く西野盛衰記に複雑な思いをしていること。
第5点目は、まぁこの先も更新がんばれや、と叱咤激励していること。
以上である。
で、西野の話。
当時、札幌は西野にあったワクワクするようなショッピング施設“カスタムパルコ”の1階に、コーヨーのレコードショップがあったのだ。
コーヨーというのは光洋無線のことで、なかなか大きな家電チェーンだった。
もう一つ大きかったのがそうご電器だったが、どっちも今は潰れてしまった。
コーヨーにはコロンビアとセラフィムの廉価盤が主として置いてあり、一方、その近くにあった“ぴぴ”というレコードショップにはRCAの廉価盤が置いてあった。
ただし正確に言うと、そのころはまだ“ぴぴ”ではなく、“びび”だった、というのはつまらない大嘘で、“大西商会”という名前だった。
社長の名前が大西ぴぴ……ってわけじゃないけど(たぶん経営が変わったと思う)。
私がレコードを買うようになったころは、それまで1,000円盤と呼ばれていた、つまりは1,000円で買える廉価盤が値上がりして消滅し、セラフィムが1,200円、RCAの方は1,300円になっていた。
なんだかすっごい損した気分になったものだ。
あと5年早く生まれてりゃあ、1,000円でレコードが買えたのに!
そのショスタコーヴィチの交響曲第5番は、1958録音。
オーケストラはニューヨーク・スタジアム交響楽団という、はてさてな団体だが、このオケ、実はニューヨーク・フィルのことである。契約上の問題からこのような団体名で録音したのである(ニューヨーク・フィルはバーンスタインの指揮で、CBSにこの曲を録音したので)。
どんな演奏だったか、あまり細かいことは覚えていないが、悪くない演奏だったと思う。それ以前に、この演奏が私の心の井戸に無意識に刷り込まれているに違いない。
つまり、あの頃の西野は伸び行く街だったわけだ。
私の通っていた中学も、2年生のときには15組まであったくらいだったし。
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