私がドストエフスキー(1821-81)の「カラマーゾフの兄弟」を読んだのは、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(新潮社)を読んだのがきっかけだった。
もちろん僕に特徴がないというわけではない。失業していて、『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部覚えている。でもそんなことはもちろん外見からはわからない。 (第1部p.69)
私が「ねじまき鳥クロニクル」を読んだのは(これが私にとって村上春樹作品との出会いであったが)、2005年のことだったはずだ。
その後、村上春樹にはまった私が、彼の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだのは2006年の夏。
ここでも「カラマーゾフ」が出てきているが、正直なところ、「ねじまき鳥」での一節は忘れていたように思う。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーーランド」では、次のような記述がある。
「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。
「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」
「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
私は二本目のビールを飲み干し、少し迷ってから三本目を開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
「だから人生を限定するの?」
「かもしれない」と私は言った。 (下巻p.326)
さらに、“ハードボイルド・ワンダーランド”側の主人公である私の最期。
この記述は「ねじまき鳥」と非常に似たものだ。
私は目を閉じて『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟の名前を思いだしてみた。ミーチャ、イヴァン、アリョーシャ、それに腹違いのスメルジャコフ。『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前をぜんぶ言える人間がいったい世間に何人いるだろう? (同p.329)
作品の執筆順で言えば、もちろん「世界の終り~」の方が先で、「ねじまき鳥」があと。
私が読んだ順序が逆だったのだが、村上春樹は2つの大作に、同じようなフレーズを主人公に言わせているわけだ。
そして、「世界の終り~」を読み終えてほぼ1ヵ月、私にとっては運の良いことに、光文社の古典新訳文庫のシリーズで「カラマーゾフの兄弟」が刊行されることになった(亀山郁夫 訳)。
買いました。2006年9月17日のことである(9月20日が初版第1刷の発行日ということになっている)。
最初はなかなか読み進めなかった。
慣れない名前に、慣れない時代背景と世界。
その何年か後、たまたま書店で新潮文庫の「カラマーゾフの兄弟」を見かけたとき、中巻の帯に、「上巻読むのに4カ月。3日で一気に中下巻」と書かれていたが、これはすっごく納得のいくコピーだった。
で、私は言えるようになりました。
村上春樹さんのこの文章のおかげで。
長男 ドミートリー・フョードロヴィチ・カラマーゾフ(ミーチャ)
次男 イワン・フョードロヴィチ・カラマーゾフ(イワン)
三男 アリョーシャ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ(アリョーシャ)
ちなみに下男はスメルジャコフ……
新潮文庫と違い、光文社古典新訳文庫の方は全部で5巻。
第1巻が刊行されてから、第5巻が出るまでほぼ1年を要した。
その頃、私はmixiをやっていたのだが、当時、こんなことを書いている。
・う~ん残念。
今月こそ、光文社の古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」第4巻が発売されると思ったのに、お預けだ。ステーキを前に、ご主人さまに「お預け!」と言われ、よだれが瀑布状態の腹ペコ・パブロフ(の犬)状態。
この光文社の文庫はいい。何冊も読んでいるが、まさに古典再発見、という出版社のコンセプトが達成されている。「カラマーゾフ」も、さすがに第1巻は読み進むのが遅かったものの、2巻、3巻はおもしろくて、寝るのも惜しいくらいで、一気に読み進んだ(イメージ表現。実際には通常どおり寝た)。話のおもしろさはもちろんだが、やはり訳に負うところが大きいのだろう。
それにしても、「カラマーゾフ」に限らず、ドストエフスキーの作品の登場人物って、なんであんなに狂気じみてるんだろう。ロシア人ってみんなああなのかいな?(2007年5月13日)
・ようやく、「カラマーゾフの兄弟」の第4巻が出た。
あまりにも続刊を期待している余り、先日なんかはスーパーの魚売り場で「カラマーゾフ」と書かれた魚が売られていて腰が抜けそうになるほど驚いたが、「カラフトマス」を読み間違えただけであった。こんな私もすっかり狂気じみている。
第4巻と第5巻を、13日に札幌で買った。第4巻は厚い。3巻を読んだあと、しばらく時間が経過しているので、登場人物を頭の中で整理するのが大変である。が、すぐに物語りに引き込まれてしまっている。
新潮文庫では3巻構成なのに、光文社のこれは何でこんなにボリュームがあるのだろう?活字の大きさだけでこんなに差がでるものなのだろうか?使われている紙が厚いとも思えないし、不思議である(文句をつけているのではない)。(2007年6月15日)
・「カラマーゾフの兄弟」の第4巻も、半分まで進んだ。相変わらず登場人物たちは気違いじみていて、時としていらだつほど、彼ら彼女らの話はくどい。私の周りにはいて欲しくない。
井伏鱒二氏は、ドストエフスキーの「罪と罰」をロシア人は笑って読む、と言ったそうだが、「罪と罰」に限らず「カラマーゾフ」もそうかも知れないと、少しばかり思うようになってる私である。「病んだロシア人」を極端にデフォルメしているような気がするという意味で。
それはともかく、1巻から5巻まで収納できる「カラマーゾフ化粧箱」プレゼントに応募しなきゃ。(2007年07月20日)
・「カラマーゾフの兄弟」(光文社古典新訳文庫)を読み終えた。う~ん、こういう結末だったのかぁ。なんだか感動。
そして訳者・亀山郁夫氏の詳しい解題に感激。なんと深い物語だったのだろうかと、あまりに「からくり」に気づかない自分が情けなくなるとともに、訳者が述べているようにそのポリフォニー性に、音楽=巨大なシンフォニーとの共通性を感じた。解題を読んだら、また最初から読みたくなってしまった(とりあえず、今は気持ちがたかぶっているから)。
にしても、こういう作品を読むと、私には小説は書けないなと、ため息が出る(書くつもりだったんかい!?)。(2007年07月26日)
てな具合。
それにしても、その後も私の文章能力の発達のないことにけっこう愕然としてしまう。
ところで、「カラマーゾフの兄弟」が単行本として出版されたのは1880年のことである。
この年、ロシアでは短いながらも傑作である交響詩が作曲されている。
ボロディン(Aleksandr Porfir'evich Borodin ロシア)の交響詩「中央アジアの草原にて(Dans les steppe de l'Asie centrale)」である。
この作品については以前に取り上げているので、ここでは詳しくは書かないが、1880年のアレクサンドル2世即位25周年祝賀行事で企画された活人画の伴奏音楽として作曲された。アジアの隊商と護衛するロシア兵の2つの主題が絡み合う見事な描写音楽である。
ここではカラマーゾフ的デザインのCDを(何がカラマーゾフ的なんだろう?)
チェクナヴォリアン指揮アルメニア・フィルによる演奏。1996録音。ブリリアント・クラシックス(ASV,UKとのライセンス)。
カラマーゾフの話はもう少し続く。