大晦日の今日、夜の10:00開演でKitaraにおいて“ジルベスターコンサート”が開かれる。シルベスター・スタローンじゃなくて、ジルベスターコンサートである(似てないようで似てません?)。
終演予定時刻は1月1日の0:15。
こりゃあ聴きに行く人もたいへんだ。
地下鉄やJRは特別ダイヤで初詣運転しているだろうけど、それでも東京のようにはいかない。帰りが大変だ。
このコンサート、ソリストは地元札幌の高校3年生のサックス・プレーヤー寺久保エレナ、ソプラノに田村麻子、ピアノが清水和音。指揮は現田茂夫。オーケストラは札幌交響楽団。
いやはや、札響も大変だ。大晦日まで演奏だなんて(そして奏者以外の関係者の方々も)。
ところでこのコンサート、チラシの下に「北海道の条例により午後11時以降は18歳未満の方は入場できません」とある。で、寺久保エレナは大丈夫なわけ?もう18歳になってるのかしらん。高校3年生だから、まだ誕生日を迎えていない早生まれなら×だということになるな。
それとも、お客さんであろうと、18歳未満でも11時前に入場してしまえばあとは0時を過ぎようが構わないって意味なんだろうか?
はいはい、暮れにまでそんなこと考えなくてもいいですね。早く掃除に取りかかりますです。
チラシには演目があまり詳しく書かれていないが、これを見る限りではヨハン・シュトラウスの曲は入っていない。
うん。なぜニュー・イヤーにヨハン・シュトラウスなのかいつも疑問に思っている私にとっては、ちょっぴり満足、マンゾク。
えっ、私?
いえいえ、私は行きません。このコンサート。ありがたいことに、招待券を下さった方がいるんですが、申し訳ありません。
私、起きてられないし、帰ってくるのが大変なんです。Kitaraのある場所から地下鉄1本で帰って来れない地に住んでいるものですから。
師走といえば気ぜわしいはずなのだが、今年は全然そんな感じがしなかった。特に最後の10日間くらいはかえってまぁ~ったりとした、無気力感覚。アダージョっぽい。雪が異例なほど積もっていなかったので、視覚的にも12月って感じが希薄になったのかもしれない。
そういえば、アダージョ音楽ばかり集めたCDがブームになっていたのは何年前のことだったろう?いや、もう10年以上前のことか?「カラヤン/アダージョ」なんていうのが随分と売れ、さらに二番煎じで似たようなCDがたくさんリリースされたようだが、変だよな、この国。
Adagioっていうのは「遅く」って意味だから、「アダージョ/カラヤン」を日本版にすると、例えば「遅く/尾高」(高関でも小澤でも秋山でもいい)ってことになる。
そもそも、クラシック音楽を苦手をする人って、遅い曲が耐えられないという傾向が強いと思う。退屈だ。眠くなる。足がしびれる。血流が悪くなる、etc.etc……
それなのに、その憎むべきスロー・テンポの曲ばかりを集めてしまったのだ。我慢強さを試すかのような選曲。癒しを通り越すんじゃないのかなぁ。
そりゃ、美しい曲、すばらしい曲も多々あるだろうけど、企画した人は悪意的にすごいなあと思う。
そんなことを書きながらも、1年を締めくくるにあたり、私が聴いたのはマーラーの「アダージョ」。
いいねえ、時節を考えないこの天邪鬼(あまのじゃく)な感じが。おおっぴらに世の中に反抗する勇気はないが、人知れずこっそりと反抗し、自己満足に浸ってるてわけ。
この曲はマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の未完の交響曲、第10番嬰へ短調・嬰ヘ長調(1909-10)の第1楽章で、この楽章だけがほぼ完成に近い形で楽譜が残されていた(他の楽章は大まかなスケッチ)。
彼の交響曲第9番で現れはじめていた、“交響曲”という偉大なる音楽の形式の崩壊が、この「アダージョ」ではさらに明確になってきている。もう分裂症気味。
マーラーは交響曲というものを葬ろうとしているのだ。
この曲、私にはそれまでのマーラーの交響曲(第1~9番、「大地の歌」)に対し、マーラーの作品っぽくない印象があった(それは今も完全には払しょくされてはいないが)。
でも、ちゃんと聴いていると、第9交響曲終楽章の続きのような匂いを醸し出しながら、ここには第5交響曲第2楽章や第6交響曲第1楽章、などのフレーズが見え隠れしている。
マーラーがこの曲を最後の作品になると本当に意識していたかどうかはわからないが、この作品を1つの節目として(第9のジンクスに勝って死の危険は過ぎ去ったのだ)過去の自作品の“宝石”をちりばめたように思える。
だがその宝石たちの輝きは自虐的ともいえるようなものだ。このとき関係が危機的状況にあった妻アルマとの、かつての平和だった日々の回想であるのかもしれない。
今日はテンシュテット指揮によるロンドン・フィルの演奏(1978録音。EMI)。
テンシュテットの指揮は情に溺れることなく音楽を進めていくが、それが逆にこの曲の切なさを自然な形で強調している。そして、1音1音をものすごく大切にしているような演奏だ。
なんだかこの先がよくわからない世の中、こういう曲がますます人気を博すような気がする。
あのころは良かった……と。
さて、今年も今日で終わり(だって大晦日だもん)。
この1年、このブログを読んで下さってくれた皆さんに、心からお礼も椅子あげます。いや、お礼申し上げます。
ということで、みなさん、よい年をお迎えください。
また来年、画面上で会いましょう! ← 十中八九明日です。
December 2010
すでに“ずっと先日”のことになっちゃったけど、札幌ドームで行われた斎藤佑樹の入団会見。
このとき、私はユニホームの右足上部(ベルトの下)に“ニトリ”のロゴ広告がついたのを初めて知った。
いやぁ、なんか変。
足にまでつけるかぁ?
ニトリってことは、お値段以上ってことの暗喩かいな?
噂によると、あの場所にニトリのロゴはすでにけっこう評判が悪いらしい。別にニトリが悪いわけじゃないんだろうけど……
それはともかくとして、今日から正月休暇。
毎年気合を入れるが必ず途中で「まっ、どーでもいいや」と挫折してしまうのがレンジ上の換気扇。わが家のはレンジフード型で、タービン状の金属の羽が入っているわけだが、羽と羽の間隔がちょうど子供用歯ブラシの頭がぎりぎり入らない幅で、非常に精神衛生上良くない。
で、今年もこの担当は私。
いや、誰からかに指名・命令されたわけじゃないのだが、私がやらなきゃという自負心が、なぜか強くある。
でも、面倒だ。
子供たちにやらせるという手もあるが、羽を曲げられたりしたら厄介だし、そもそも命令しても絶対にやらないだろう。
怠け者のおまえらめ!白鳥に変えてしまうぞ!もし、私に魔法の杖があったならの話だが……
ラム(Robert Lamb 1931- アイルランド)の「リールの子供たち(The Children of Lir)」。
いやぁ、Lambって綴り、1年未満で永久門歯がない羊(またはその肉)であるラムとおんなじ綴りだ。メェェェェ~。
この曲は、アイルランドに伝わる物語につけた音楽で子供たちを対象として書かれた。11曲からなる。
その物語というのは、
海の神リールには4人の子供がいたが、妻に先立たれてしまった。リールは妻の妹と再婚。しかしこの後妻はリールが4人の子供たちを溺愛することに嫉妬し、魔法の杖で子供たちを白鳥に変えてしまう。子供たちは魔法が解けるまで、900年間にわたりさまよい続ける。魔法が解けたとき、4人は900歳の老人。もはや誰も知り合いがいないなか息を引き取る。
ラムがこの物語につけた音楽は親しみやすく、ときとして非常に美しい。
英語のナレーションが多いので、しかしながら、じっと鑑賞するにはふさわしくない。というか、なかなかそんなことできない。
CDの帯に「無理に全曲聴き通すことはないのです」と書いてあるが、これはつまり、逆に言えば全曲を聴き通すのはしんどいぞ、ということだろう。英語の勉強にはいいかもしれない。
CDはナクソスから出ている。作曲者自身が指揮するアイルランド国立交響楽団の演奏。ナレーターはフィオナ・ショー(アイルランドの有名女優なんだそうだ)。1996録音。
なお、私は羊肉の臭いが、非常に苦手である。
毎日シバレてる。
それでも、天気予報によれば今週後半は少し暖かくなるらしい。少しってどれくらいかというと、最高気温が2℃とか3℃になるという程度。それでも、「おぉ、あったかくなるわい」と気持ちが前向きになる(ような気がする)。
「しばれる」というのは、北海道人なら至極当然のように使うが方言であることは間違いないらしい。意味は「すっごく寒い」ということで、縄を結ぶそれなりの技術を有しているという意味ではない。
その「しばれる」から語感からも曲調からも思いつくのがシベリウス(Jan Sibelius 1865-1957 フィンランド)の交響曲第1番ホ短調Op.39(1899)。
番号としてはシベリウス最初の交響曲であるが、第1交響曲作曲の前の1891~92年には「クレルヴォ交響曲」が書かれている。
さらに、「クレルヴォ交響曲」のあと、第1交響曲が作曲されるまでに交響曲の作曲構想があったようだが破棄されている。
第1交響曲の着手は、ベルリンでベルリオーズの幻想交響曲を聴いたことがきっかけとなっているという。幻想交響曲を聴いて感動したシベリウスは、すぐに交響曲の作曲にとりかかったのである。
ところでこの曲に関しては印象的な出来事が、私にはある。
1990年。
この年、第1回目のPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)が開催された。
そのなかの、ロンドン交響楽団の演奏会。指揮はバーンスタイン。
メイン・プログラムであるシベリウスの交響曲第1番が始まった。
クラリネットが最初の陰鬱ともいえるメロディーを吹き始める。
そのときである。
ステージ後列の最上段に並んで座っていたホルン奏者のうちの1人が、椅子から転げ落ちるように倒れたのである。
演奏はストップ。
バーンスタインがステージのそでに向かって「Docter!」と叫ぶ。へえ、けっこう低い声だ。そして落ち着いたもんだ。そう思った。
楽団員はいったん引き揚げ、間もなく救急車のサイレンが聞こえ、そして止まった。
外の音がこんなにホールの中まで聞こえるんだ(そのときの会場は北海道厚生年金会館)、と思ったが、考えてみれば、外から中までのドアが開放されていたのだろう。
演奏再開となったとき、別なホルン奏者がいたのか、1人欠けたまま演奏されたのかは記憶が定かでない(でも代わりの奏者が加わったに違いない)。
噂によると、倒れたホルン奏者、大事には至らなかったようである。
交響曲第1番はチャイコフスキーやボロディンなどの影響がみられるというが、ここに流れ出てくる音楽は間違いなくシベリウスでなければ生み出せなかったと言えるものである。冷涼感、閑寂の雰囲気……こういうのが北欧的というのだろう。
4つの楽章からなるが、特に終楽章はドラマティックで感動的である(と私は感じる)。ついでに言うと、第2楽章で弦による切ないメロディーに応えるクラリネットのメロディーを聴くと、私は「どこまーでも行こう」と歌われていた昔のタイヤのCMソングを思い出してしまう。
今日紹介するのはザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団による演奏のCD。
危なげのない安定した演奏。しかし、けっして面白みにかけるというものではない。けっこうな名演。
1976録音。ブリリアント・クラシックス。
昨日の朝、起きた時にはひどく疲れていた。
また、手のひらが妙にかゆかったが、変な体勢で寝ていたので多少しびれがきていたようだ。
つまり、奇妙な夢をみたのだった。
私はなぜか科学特捜隊(ウルトラ警備隊ではない。その前までさかのぼってしまった)の一員であり、女性隊員とともに人間の姿で潜伏している宇宙人を探している。
その女性隊員というのは、高校のときにすっごく好きになった挙句に、すっごく完璧に私がふられてしまった女の子だったのだが、私の夢は正確にその後の年月を加味しており、ちゃんとおばさんになっている。おばさんになってしまっているだけではなく、「えぇ~っこんな顔してたっけ」というぐらい別な顔になっている。こんなんだったら、あんとき振られてよかった。
でも、この女性隊員は本当にあの子と同一人物なんだろうか?彼女こそ実は宇宙人じゃないんだろうかという疑念を抱きつつも、私は任務に就く。
場面は変わり、私たちはなぜか歩道橋の上。
きっと北海道電力のビルの前にある歩道橋だ。そんな気がした。
大通公園にいきなり黄色い塔のようなものがそびえ立った。一瞬の出来事だ。鉄骨と黄色い板がところどころ。こいつが宇宙人の正体だ。便秘のトドのような叫び声をあげている。
でも、これ、とどのつまり明らかに前の日のニュース特集で観た、解体中の中国のにせガンダムの影響を受けているにすぎない。
女性隊員が私に叫ぶ。
「個体発生は系統発生を繰り返すのよっ!」
いきなり“ヘッケルの反復説”を唱えたのである。なんで?
それに私、隣にいるんだから、叫ばなくていいから……
大学受験を控えている諸君。
生物の入試で“ヘッケルの反復説”が出題されるお告げかもしれないよ、これ。
で、なぜ“ヘッケルの反復説”なのか?(一応断っておくが“ヘッケル”であってモーツァルト作品につきものの“ケッヘル”ではない)
実は日曜日の午後、なんとなく背中に鈍い痛みを感じた。
あら、腎臓かしら?
腎臓って外胚葉由来だったっけ、それとも中胚葉だっけと、いまさら日常生活に関係のないことを考えてみたのが、この女性隊員の叫びとして夢に出てきたようだ。
そして、私は腰から電子銃を取り出して、このにせガンダムをモデルとしているとしか思えない異様に背が高くてやせっぽっちの宇宙人に向けて発射。青白い光線が命中。でも、ちっとも苦しがらない。
まずい。
と思ったら、ウルトラマンが現れて、担ぎ上げて、どこかに飛んで行ってしまった。
ここで目が覚めた。
やれやれ……
話は変わる。
この数日間は冷え込みが激しく、その前に溶けた雪が完璧なる氷となってしまった。つまり氷の上を歩かなくてはならない状況だ。フィギュアをTVで観ながら、あら転んだ、なんて言っているものの、氷の上で活動するのは非常に難しいものだ。
日曜日の夕方には、無意味に外出していた次男が歩道で転倒。手の甲に何か所もケガを負い、手が海老蔵状態で帰ってきた。
じゅぅけんせぇいが、すーべった!
こういうとき、路面はツルツルなものの、そのわきの氷は凶器のようにガタガタになっており、切り傷を負いやすいのだ。
月曜日の朝も、ツルツル路面は改善されず、私も慎重に慎重を重ねて駅までの道を歩いた。家にヘルメットがないことが残念に思えたほどだ。
でも、何事も気分を盛り上げたい私は、この駅まで通勤時間にヴォーン・ウィリアムズ( Raiph Vaugham-Williams 1872-1958 イギリス)の「南極交響曲(Sinfonia Antartica)」(交響曲第7番。1949-52)を聴いた。
ペンギンも寒いんだろうなぁ。
滑って転ぶこと、少なからずあるんだろうなぁ……
この曲については、前に取り上げているが、今日はアンドリュー・デイヴィス指揮BBC交響楽団、同合唱団、ソプラノ独唱がロザリオのCDを。
1996録音。テルデック。
現在単売のCDは廃盤。
アンドリュー・デイヴィスってなかなか良い指揮者だと思う。特にイギリスもの。
土曜日のうちに年賀状も書き終え、ひとまずほっとた。
今年は印刷ミスがなく、「完璧ぃぃぃっ!」だと思ったのに、宛名の重複印刷が6件も発生。6枚の年賀はがきを無駄にしちまったい。
今回、新たな別れを迎えなくてはならなくなった。
“どら猫酔狂堂”でわが社を担当しているファルケ氏が転勤になるのだ。
ファルケ氏といえば、すでに会社を辞めたアイゼンシュタイン氏の部下だった人物であり、厄介なアイゼン氏がいなくなったあと、やっと本領発揮できることが期待されていたが、北陸に転勤することになったのである。
現在、単身赴任にするか家族と行くか、連日家族会議が開かれているそうであるが、ファルケ氏はかつて、酔って地下鉄のホームでふらつき動きはじめた回送電車に接触し高価な前歯を折ってしまうという、極めて危険な遊戯を体験した人だ。そう考えると、家族が彼を単身で北陸の地へ送り出すには確かに不安はあるだろうが、私としては北陸のその地には地下鉄がないから、もう地下鉄と相撲を取ろうと思っても取りようがないわけで、さほど心配はいらないと感じている。
さて、そうなると“どら猫酔狂堂”でこのブログをにぎわして、あるいは汚してきた人物4人のうち、アイゼンシュタイン氏とファルケ氏がいなくなり、残るはベリンスキー侯とアルフレッド君の2名ということになる。
そのベリンスキー侯は昨年から単身赴任の身で東京から来ているのだが、今年の(つまり前回の)正月は帰省しなかったのだそうだ。
その理由は、札幌転勤に当たり、奥さんと相談せずに勝手に札幌単身赴任を決めたせいで、奥さんがプリプリプッチンプリンとなってしまい帰省許可が下りなかったことだそうだが、詳しい事情は知らない。詳しくご説明しましょうかと言われたが、詳しく説明しなくていいですと私が答えたからだ。
札幌の地で1人、どのような正月を過ごしたのか興味深いところもあるが、きっとすっごく寂しい話になりそうなので、この際聞かないままで済ませよう。
でも、この正月は帰省するそうだ。何よりである。
会社を辞めて、昼は掃除洗濯をしている(本人談)アイゼンシュタイン氏は、しかしながら現職中に張りめぐらせたクモの網のような細かな糸をたぐって、夜は連日のようにススキノに飲みに出て来ているらしい。
先日、私たちとファルケ、アルフレッド両名との忘年会にアイゼン氏が乱入してきたのはすでに書いたとおりだが(その後、うずらが現われたわけだ)、そのアイゼン氏、これから先何をしようとしているのか?
「これから先、何か仕事をするんですか?」
「いや、まぁ、ふふ、別に決まってないです、ひひ、でも、農業をやってみたいなぁって思ってます。へへっ」
アイゼン氏はマンション暮らしである。
酔っ払って、自分のマンションに辿り着く前に、近くの一軒家の庭に首を突っ込み嘔吐した前科がある、一軒家の住民からは敵視されがちな典型的な集合住宅住まいの人物である。
そのアイゼン氏がどのようにして農業を始められるというのか?
「どこか土地を買うんですか?」
「いえいえ」
「じゃあ、どうやって農業をするのですか?」
「どこか市民農園を借りてやってみようかと」
市民農園を借りて農業で生計を立てているという人を、私はこれまで聞いたことがない。
ありえない。
そもそも市民として認められているのか?
でも成功すれば、私にとっては初めて市民農園を借りて農業で生計を立てている人に、氏はなってしまうわけだ。
「で、どんなものを植えるんですか?」
「野菜とか……」
「とか、ってどういうものですか?」
「キャベツとか」
「キャベツも野菜じゃないんですか?」
「そ、そ、そうでした、ははは」
「でも、キャベツでも何でも、いろいろな品種がありますから、品種選びもしなきゃならないですよ」
「ヒンシュ?」
氏のトロンとした瞳がドロンとなった。
私は家庭菜園レベルながらも、知っていることを教えてあげた。
キュウリにだって、フリーダム、よしなり、さつきみどり、黒さんごといった品種があること。
あとは思い出す限りの品種名をババババと言ってみた
おつな姫(エダマメ)、アイコ(ミニトマト)、おどりこ(トマト)、島娘(ゴーヤー)、愛娘(スイカ)、舞姿(インゲン)、ころ愛(ダイコン)、雪美人(ダイコン)……
例に出した品種名が悪かったのか(実はわざとだけど)、アイゼン氏は恍惚の目で聞き入っていたが、それはよからぬ別なことを妄想していたからに違いない。
そうはいっても、実は私は優しい人間なのだ。
アイゼン氏をいじめているわけではない。
翌日、ネットからサカタのタネにカタログを注文した。送り先はもちろんアイゼンシュタイン氏のマンションだ。読まれないまま古紙に出されないことだけを願う。
ファルケ氏にはシューマン(Robert Schumann 1810-56 ドイツ)の声楽曲「別れに寄せて歌う(Beim Abschied zu singen)」Op.84(1847)を。
この独唱と合唱、オーケストラのための作品は、シューマンの生まれ故郷のツヴィッカウ市に捧げられている。詞はE.v.フォイヒテルスレーベン。
私の持っているCDはホルスト・ノイマン指揮ライプツィヒ放送合唱団、同交響楽団による演奏のもので、シューマンの合唱曲集である。
1978録音。ドイツ・シャルプラッテン。
北陸かぁ。
お米送られてくるかなぁ……。柿の種でもいいけど。
“うずら”さん……本物の“うずら”さんと顔を会わせたのは、12月21日の夜のことであった。
“うずら”は実在していた。
“うずら”は生息していた。
“うずら”は鳥類ではなかった。
“うずら”は本当にメスだった。
以下、とっても面倒くさいので、そのままでは文章の中に埋没してしまいそうな感じはするが、この名前を“”では囲まないし、呼び捨てにもする。
ご存知ない方にかいつまんで説明すると、うずらというのはアイゼンシュタイン氏絡みで私のブログにコンスタントにではなく、けっこうむらっ気でコメントを寄せてきていた女性らしき人物である。
アイゼンシュタイン氏と私が実際に接触があった翌日に限って(そのような場合はたいてい氏がブログ記事の話題にもなっているわけだが)うずらからのコメントが入るので、てっきりアイゼンシュタイン本人が雌雄同体ワザを発揮して、別人格に変身して投稿しているのだと、私は疑ってやまなかった。
しかし、「うずらという人間が本当にいると言い張るんなら、目の前に連れて来ていただきたい。でなきゃ、もう口をきいてやらないよ」、という私の控え目な要求にしたがって、アイゼンシュタインはその夜、カチャカポコナ経営の店ビバ・トレードに、彼女を呼んだのだった。
われわれが入店してほどなく目の前に現れた生命体は、予想していたイメージと違った。
体長は1m以上あり(ウズラの体長はせいぜい20cm程度だ)、間違って足で踏んでしまっても潰れてしまうような大きさではなかった。尾も見当たらなかった(ズボンを履いていたので確認できなかった)。ウズラのようにまん丸い体型でもなく、むしろやせ形で背が高かった。イメージ通りだったのは脚が2本だったということだけだ。
ところでみなさんはウズラと聞いて、鳥の形をしたウズラという生物と鳥であるウズラという生物の卵のどちらを頭に思い浮かべるだろうか?
私は卵である。
でも、それほど食べたことはない。
函館本線長万部駅の“駅弁”にもりそばがある(いまでこそコンビニでは当たり前のように売られているもりそば類だが、昔は珍しさの点で画期的だった)。
このもりそばにはウズラの卵がついている。
私は生卵が苦手だが、あるとき、旅の途中でこれを購入、つゆにウズラの生卵を落として食べてみた。
おお、けっこう美味しいじゃん!
鶏卵だったらつゆが生卵の味でめちゃくちゃになってしまうが(量が多いので)、小さなウズラの卵だとけっこう私の口に合うことがわかった。
いや、ただそれだけの話である。
だからといって、ご家庭でもりそばを食べるときのためにウズラの卵を冷蔵庫に常備しておくわけにはいかない。そうそう家ではもりそばを食べないから。在庫がないわけだから、おのずとウズラの生卵を食べる機会は失われていく。8個くらい使って目玉焼きを作ってみたい欲望にはかられるが……
ウズラの肉も食べたことがある。つくねだ。
でも、なんだか口に合わなかった。
いや、ちっぽけな思い出である。
ということなのだが、カチャカポコナの店に現れたうずらは、人間の女性であり、顔がウズラの卵のようにまだら模様でカモフラージュされているわけでもなく(おそらく無敵なので、カモフラージュする必要がないのだろう)、少なくとも私の6.4倍以上は元気であった。彼女なら1人で“エッシャー”に行ってカレーライスを頬張れると、確かに理解できたような気がする。
アイゼンシュタインとは古くからの仕事仲間らしいが、仕事を辞めたアイゼンシュタインとは今後仕事上の付き合いはなくなるのではないか、ということも考えられなくはない。でも、それは私の知ったこっちゃない。
で、うずらが私に言うには「うずらではなく何か別な名前を付けてください」ということだ。いきなり名前を付けろとは、なかなかいい度胸をしている。ふつうならまずは命名料の相談から始めるところだろうに。まあ、アイゼンシュタインの仲間だからな……
もちろん、その場では私は返答しなかった。
初めて顔を会わせて数分のうちに、そんなことができるわけがない。
要経過観察ってやつだ。
ということで、長々と書いたが、うずらは実在した。
でも、果たしてイエスは実在したのだろうか?(と、強引にクリスマスっぽい話にブリング、ブリング)
新約聖書以前にもイエスに触れている文書がいくつかあるという。
そのなかの1つ、フラヴィス・ヨセフスの「古代ユダヤ史」は、紀元93年の完成。この年はゴルゴダの丘でイエスが処刑されてから60年後にあたる。新約聖書の最古の写本は紀元100以後のものなので、「古代ユダヤ史」に書かれている内容が本当なら、すごい資料となるわけだ。
「古代ユダヤ史」のなかには、「この時期に、賢人イエスが現れた。彼を人と呼べば、の話だが。というのは、彼はさまざまな秘蹟を実現し、真理をよろこびをもって受け入れる人々の主となり、多数のユダヤ人、ギリシア人を導いたのである。この人こそキリストだった。……」と書かれている。
すごいっ!
イエスは実在した!
と言いたいところだが、このあたりの文章は後世に書き加えられたというのが今やほぼ定説。
もっとも、ほぼ間違いなくヨセフスがイエスについて書いたとされている部分もある。それは、
「キリストとあだ名されたイエスの兄弟、ヤコブ……」とだけイエスの名前が出てくる文章。
やれやれ……
つまりは、イエスが実在したかどうかは新約聖書を信じるか信じないかという話に落ち着いてしまうことなる。
新約聖書には4つの福音書がある。
福音書というのはイエスの生涯と死、そして復活を書いたもの。4つとは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、の4書である。
そして、バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)はこの4書すべてについて受難曲を書いている。
とはいえ、「ルカ受難曲(Lukaspassion)」BWV.246(1712)は、バッハの筆写はあるものの、バッハの作ではない。また、「マルコ受難曲(Markuspassion)」BWV.247(1731)は楽譜が紛失されてしまった(1964年に一部復元)。
したがって、バッハの真作で、かつ、きちんと残っている受難曲は、先日取り上げた「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」の2曲である(といっても、楽譜上の問題は残っている)。
今日は「ヨハネ受難曲(Johannespassion)」BWV.245(1722-23)。
「ヨハネ受難曲」はライプツィヒ市の委嘱によって作曲された作品。
初演後も、バッハの生前に3回再演されている。
2部40曲から成るが、歌詞は「ヨハネによる福音書」の第18~19章、コラール、宗教詩から取られており、「マタイ受難曲」がピカンダーの台本によるのに対し、「ヨハネ受難曲」の台本は誰の手によるものなのかがわかっていない。
「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」のどちらが優れているか?
その質問はナンセンスだと思うが、日本ではどちらかというと「マタイ」の方が人気があるようだ。
礒山雅氏は「J・S・バッハ」(講談社現代新書)の中で、「《ヨハネ受難曲》はバッハの大傑作だが、《マタイ受難曲」》はその上をゆく」と書いている。
私は「ヨハネ」の出だしでぐっときてしまうのだが……(同じ受難曲でも「マタイ」と「ヨハネ」は性格、方向性が異なる)。
私が聴いているCDはブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ、オランダ室内合唱団ほかの演奏によるもの。かつてフィリップスからリリースされたときには大いに話題となった緊張感溢れる感動的な名演である。1992録音(ライヴ)。デッカ。
昨日の昼の定食には八宝菜の小皿がついていた。
ウズラの卵の水煮が1個入っていた。
でも、八宝菜や中華丼のウズラって、一連のスムーズな食感の流れを阻害するような気がしてならない。
本日はMSNのHOT mailの私のアドレスに届いたメール。
第1報。
タイトルは、
◎住友信託銀行札幌支店からの振込がありました。1000万を越える金額?
というもの。
本文は、そのままタイトルから続く。せっかちなんだからぁ~。
です。当社の送金システムサーバーを経由し【お客様】の口座へ振り込みが実現されます。所要時間は[ 20秒 ]つまり20秒後にはお客様の口座に1000万の現金が反映されます。 当社の送金システムを中継したことにより、このような高額の振込においても税金がかからないようになっています。全額丸々お受取にされます。この時間から現金を受け取っていただけますか?「はい」と一言いただければすぐに処理いたします。
すでに破綻の兆しが(文章に)。
「札幌支店からの振込」って「からの」の意味が私にはよくわからない。
「現金が反映される」って?ブログのデザイン変更をしてるわけじゃないんだから、反映ってもねぇ。あなたは繁栄します、と書かれた方がワクワクする。
第2報。
タイトルは、
※初回振込金額1000万。住友信託銀行札幌支店から振込あり。?
◎が※に進化(?)している。「振込あり。?」っていうのも変だが、それにしても?を使うのがトレンドのようだ。この会社では。それとも何かの暗号か何かか?
本文は、
送金システムサーバーを経てお客様のご口座へ振込となります。 高額振込をお受取になってください。こちらの送金システムサーバーでは10日間しか預かることが出来ませんので。その期限内に振込を受け取っていただきたいと考えています。 お客様にまず1000万のお受取の準備をしていただきたいのですが、1000万を超えるお受取が可能な口座はお持ちでしょうか?金融機関によって限度額が設定されている場合もございますので気をつけてください。すぐに振込に取り掛かれますが、受け取り準備が出来次第、こちらをクリックして下さい。
入金額の制限ってあるんですか?
私はよく知らないですが。
「取り掛かれます」という感じの使用法に、初期戦後教育の香りを感じる。
第3報。
タイトルは、
■住友信託銀行札幌支店⇒指定口座へ。反映は【約2分】で完了?
◎から※へ。※から■へ。
20秒が2分へ。
変わらないのは本人も疑問をぬぐい切れない不安な気持ちを示す?のみ。
本文は、
となります。 今回の振込金額は非常に大きなものとなったため当社の送金システムサーバーを経由しての振込完了となります。 より確実・迅速に送金を完了できるように当社の送金システムを駆使し、【1000万】を超える振込を受け取ってい下さい。直ぐに送金を行なうことを希望していただけるのでしたら、折り返しの連絡に【システム起動】と記載しお送りいただけますか?
ウルトラ警備隊じゃないんだから、システム起動はないだろ?
第4報。
タイトルは、
住友信託銀行札幌支店からお客様宛の振込を確認。1000万を超えますので?
冒頭に記号を使うのを失念したか?
至急こちらを確認下さい。 私共も、困惑してしまうような大金です。その現金が手元に来るなんて事があれば、天にも舞い上がる気持ちと同時に少し不安な気持ちになられるのではないでしょうか?お客様のご要望は直ぐに実現させます。 住友信託銀行札幌支店経由でお客様の振込が確認されてます。こちらを確認してお受け取りをお願いします。
私も困惑してしまうような大金って、じゃあこういうことは初めてなのか?
それとも、“私”が経験浅い新米なのか?
振込依頼書の書き方知ってるのかなぁ。
でも私、天になんか舞いあがらないから……
第5報。
ほんとに記号を使うことをあきらめたのか、タイトルは、
【住友信託銀行札幌支店】から初回分1000万が振り込まれました。?
というもの。
初出の「初回分」という言葉。
送金システムサーバーを使用することで振込処理の早期確認が可能となり、指定の口座にてすぐに反映されることになります。 現在、現金は送金システムサーバーでお預かりしている状態にあります。8日間以内にお客様からの受取を希望する声がかからなかった場合、現金が【消滅】する恐れがあります。これほどの金額を棒に振るのはあまりにも勿体無い事です。2分以内ですべてを終わらせます。受け取りは下のURLへジャンプ下さい。
だからさぁ、誰が1000万円だか1000万ポイントだか知らないけど、この私に振り込んでくれようとしているわけ?
私、住友信託銀行に口座持ってないし、そもそも今日は祝日(12月23日)で銀行はお休みだし、明日(つまり今日)はクリスマス・イヴなわけだし……
「勿体無い事」っていう文字使いに、蛇使い以上のうさんくささを感じる(「棒に振る」っていうのも、久しぶりに聞いたなぁ)。
親切あり余る第6報。
タイトルは、
住友信託銀行札幌支店より、1000万を超える【巨額】が振り込まれました。
優柔不断な私の態度に待ち切れず、ついに振り込まれてしまったようだ。だって?がついてないもん。
本文は、
8日間以内に現金をお客様の口座へ移動させます。 金額が大き過ぎた為、自動的に分割して振込みを行ないます。初回1000万の振込をお客様のご指定口座へ[複数回に分けて]お振込を行ないます。 当社の送金システムサーバーから最初の振込を行います。心の準備が整いましたら以下の質問にお答下さい ⇒振込を開始して宜しいでしょうか?
って、やっぱりまだだった。
「金額が大き過ぎた為」って、住友信託銀行が1,000万円くらいでうろたえるか?
第7報。
【1000万】口座反映≪100%≫すでに【住友信託銀行札幌支店】から?
再び?復活。
振り込まれた現金は、お客様の指定された口座に反映されています。総額にしますと1000万でも収まらない金額です。最初の振込を1000万とさせて頂きました。今回【住友信託銀行札幌支店】から振込金額が大きすぎるため【1000万】を何度かに分けてお送りすることになります。口座で受け取られる際、受取を確認されるのはお客様ご本人様に間違いはありませんでしょうか?自身の現金をこちらから確認下さい。 ↓↓↓クリック↓↓↓【http://webstarry.com/fp/page.html?spp=■■■■■■■】
分割しなければならない問題は解決したのか?
でも、最初の振込を1,000万と言っておきながら、何度かに分けるとはどういうことなのか?
私は口座を開設していないという根本的な障害は克服できたのか?
あっ、そっか。私は「お客様ご本人様」じゃないんだ。きっと。「受取を確認されるのはお客様ご本人に間違いは」って、すっごく変な文章。
ところで、私の所へは「住友信託銀行札幌支店“から”」であるが、ほかのところに住んでいる方には、その土地の支店“から”振り込まれる内容のお知らせとなっているのだろうか?
全国的な情報があれば、ぜひ知りたいものだ。
それとも、やはりこれは、全国でただ1人、特別に選ばれた私だけへのお知らせなのだろうか?
さて、メリー・クリスマス。
私には毎年のように、イヴの日に聴くCDがある。
King's College Choir(指揮はウィルコックス)の演奏による、クリスマス・キャロル集である。
騒々しくない、しっとりとした選曲。
あぁ、クリスマスって気持ちにどっぷりと浸れる。
今年の場合はさらに1,000万という夢のような大金のことを忘れて、美しい合唱の響きを聴きながら敬虔な気持ちになろう……
私が年に1度聴くこのCDは現在廃盤。
わが家の車の自動車保険が1月末で切れる。
そこで去年も行なったことだが、ネットにいろいろと出ている“自動車保険一括見積”であらためて見積比べをしてみた。
去年はこれで結局三井ダイレクトの保険に加入したのだが、おやおや、今年は一括見積りではどこのサイトでも三井ダイレクトがヒットしなかった。条件は変わっていないのに不思議なことだ。こういった見積比較サイトから三井ダイレクトは脱退したのだろうか?
さて、今回ヒットしたのは6社ほど。
それにしても同じ条件なのに保険会社によってずいぶんと差がある。
一番安いのと一番高いのとでは3万円以上の開きがあった。
それぞれの保険会社によって、微妙に設定されているプランが違うので、このような差が出てくるのだろうが、最高値のチューリヒなんて、ほんとに加入してほしがってるんだろうかと思うほどだ。
こうして、最終的には今年と同じ三井ダイレクトで契約継続することにした。
ここの保険会社は運転者の年齢制限で細かな設定ができるのだ。
ウチには大学生の息子がいる。滅多に運転しないものの保険でやつの分も網羅しておかなくてはならない。
三井ダイレクトでは、まず運転者を家族限定にする。これはどの保険にもある。
さらに、運転者の年齢条件で私と妻をカバーできるようにする。これもどの保険にもある。
三井ダイレクトが違うのは、さらに家族の中で運転する人の最も若い年齢(つまり子供の年齢)を指定できるのである。ほかの保険会社なら、いちばん若い年齢を指定した段階で夫婦で設定した年齢条件(35歳未満不担保)がすべて帳消しになってしまうが、それができる(チェックシート参照)。このため保険料が跳ね上がるのを防ぐことができる。
ということで、三井ダイレクトに落ち着いたわけ。
ここで気づいたことがある。
“車両の使用目的”である。
これまでずっとこの項目では“レジャー等”を選んでいたが、考えてみれば妻がアルバイトに行くのに使っている。よく読むと、週にある日数以上通勤や通学(送り迎えを含む)で利用する場合には、使用目的は“通勤・通学”になるんだそうだ。
そんなこと考えてもみなかった。
週末の買い物とかでの使用しか頭になく、妻のバイトまで頭になかった(自分の行動パターンしか考えていなかった)。
ということで、保険料は上がるが、今回は車両の使用目的を“通勤・通学”にした。もし何かあった時に、保険金支払いのトラブルが起こったらいやだからね。
さて、車と言えば、ガーシュウィン(George Gershwin 1898-1937 アメリカ)の「パリのアメリカ人(An American in Paris)」(1928)。なぜかというと、自動車のクラクションが曲中で用いられているから。
この曲はガーシュウィンがパリに滞在中に作曲したもので、ジャズの手法を用いてパリという活気あふれる街の描写と、作曲者自身であるアメリカ人とを対置している。
曲中に出てくるクラクションは、ステージ上ではゴム球の空気を押し出すことで鳴るラッパが使われるが、これがけっこう音がちゃんと出なかったりして楽しい。
今日紹介するCDはオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏によるもの。1967録音。ソニー・クラシカル。
この演奏が名演とか好演の部類に入るのかどうかはわからないが、まあ、そんな小難しいことをいうような曲じゃないと思う。ただ、アメリカ人指揮者のオーマンディだから(ハンガリー出身だが)、自信をもって演奏しているのは間違いないだろう(録音する曲には、みんな演奏家は自信をもっているんだろうけど)。
私が小学校低学年のとき、自転車に、パフパフッと鳴るこのクラクションのようなラッパをつけていた。ほんとは乾電池式のブザー(なぜスイッチを押すとブザーが鳴るのと同時に本体についたオレンジ色のパイロット・ランプがつくようになっていたのか不思議である。意味がないではないか)をつけたかったのに、親がこの下品なラッパを選んだのだ。
小さな町だったから、あのパフッパフッって音はけっこう町民たちの印象に残り、かつ、迷惑だったろう。ましてや、私は必要以上にパフッパフッって鳴らしていたから。
ごめんなさい……
昨日は“どら猫酔狂堂”のファルケ&アルフレッド(敬称略)の両名と忘年会を催したのだが、そこに特別出演として(間違っても友情出演ではない)アイゼンシュタイン氏(敬称付きサービス実施中。本日限り)が来てしまった。
ご存知のように、アイゼンシュタイン氏は先月末にあらゆる責任(机の中を片付ける、給湯室からこそっと家に持ち帰ったコーヒーの豆を買って返す、など)を放棄して会社を辞めた。あれから20日以上経つが、未だに「その節はお世話になりました」というはがきの1枚も来ないところが不思議である。いや、これからも世話になるつもりでいるために、ここで区切りをつけるもんかという意地なのかもしれない。
でも、もし、私だけにはがきが来ていないとしたら、私は氏に不幸の手紙を送りつけてやる覚悟がある。
さて、人の良い私は3月の札響定期演奏会へアイゼンシュタイン氏をお誘いした。
出し物はマーラーの交響曲第7番である。指揮は高関健。
この演奏会に対し、氏がどのような感度でいるかははっきりしないが、少なくとも表面上は真摯な姿勢は見受けられなかった。
そのマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第7番ホ短調(1904-05。通称「夜の歌」)だが、最近知ったテンシュテット指揮ロンドン・フィルの演奏(1980録音。EMI)にすっかりはまっている。
「なんだよ、またまた、これはすばらしいっ!って話かよ」って思われる方もいるだろうが、そのとおりだ。まただ、又だ、股だ!人類よ、マタを大切にしよう!
まず、最初のテノール・ホルンの音からして独特。ほかのCDでは耳にしたことがないような不気味さをはらんだ音色。この楽器、ちょっとお軽い音の印象があったのだが、こんなに重く威圧的なんだと新発見。挑戦的ですらある。
私にとってのこの曲のスタンダードはショルティ/シカゴ響の演奏。
だが、ショルティがハチのムサシが一直線に太陽に向かっていくかのように音楽を進めていくのに対し(あくまでも想像上の表現である)、テンシュテットはあちらの花へこちらの花へとあちこちの花をじっくりとめぐり回るくまんばち、に姿を変えた悪魔のような演奏だ(あくまでも貧困な発想に由来するイメージ表現である)。
ショルティの演奏が平板だなどと言う気は毛頭ないが(だってこの演奏、私好きなんです)、テンシュテットのこの演奏は3Dのディズニーの絵はがきのような立体感(プーさんの体の一部だけがねじ曲がって浮き出してくるような怪しげな立体感)がある。
また、これは録音の影響だろうが、オケの距離感も自然。長年連れ添ったショルティ様からテン様に心が移りつつある私。
来年はマーラーの没後100年の年。
でも、札響がマーラーを取り上げるのは3月定期の7番のみ。
ちょいと寂しい。
故人に対して失礼だ(?)。
ところで、アイゼンシュタイン氏乱入の忘年会。スーツ姿の参加者の中でただ1人ユニクロのシャツを着ていた氏は、幼児が見ても浮き浮きだったのは明らかだ。
そして、その後2人で行った2次会で、私は“うずら”(敬称略)と顔を合わせることになった……。その話は……
そんなの自業自得だと言われるのはわかっているが、連日の忘年会続きで私はちょっぴり以上に疲れている。
疲れはともかく、ブログの記事をゆっくり書けないのが悩みである。
朝、いつものように早く起きられないのだ。
いや、起きることができても、頭が働かない。
幸い今年は朝から大量の雪が積もっていてシベリア流刑地の囚人に課せられた作業のように雪かきをしなくても済んでいるが、この作業が加わったなら、“おまえはもう死んでいる”状態になってしまっているだろう。
そんなこんなだが、昨日は13時すぎに新千歳空港に到着。
乗って来た飛行機はとてもすいていて快適。
私は乗り物の中であまり眠れる方ではないので、マーラーの交響曲第7番のスコアを眺めながら帰ってきたが、解説本と対比しながらオタマジャクシたちを見ていると、「ほほぅ」とけっこう素人ながらも感心でき、時間が経つのも早い。
ところで、もうすぐクリスマス。
もうクリスマスにわくわくする歳でもないし、仮に自分の歳が若くたってわくわくするような出来事もないのだが、それでもクリスマスは正月よりは好きである。
ヴェルディ(Giuseppe Verdi 1813-1901 イタリア)の「レクイエム(Requiem)」(1874)。
クリスマスはイエスの誕生日(ほんとは違うらしいけど)だというのに、レクイエムですいません。
この作品については以前一度取り上げているが、マンゾーニの追悼のために書かれたもの。オペラ作曲家のヴェルディらしく非常にドラマティックな作品である。
前のときはショルティのイケイケ・Go!Go!のアサヒ・スーパードライ的な演奏のCDをご紹介したが、今回はどちらかというとオリオン・ビールっぽい演奏を。
Kuhn指揮Orchester der Tiroler Festspiele、Inntal chorほかの演奏で、2000年のライヴ録音。アルテノヴァ・クラシックス。
この演奏、最初に聴いた時には(特にショルティやムーティの演奏をよく聴いていた耳には)なんとも物足りなく感じたのだが、何度か聴きかえすうちに、この曲のドラマティックななかに潜む優しい美しさが心にしみるようになった。
このCD、残念ながら現在は廃盤。
ちなみに私はビール好き。
飲みに行っても基本は最初から最後までビール。
愛する銘柄はサッポロ黒ラベルである。
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