先日、“どら猫酔狂堂”のアルフレッド氏とムッカマール氏と一緒に、あるホテルで昼食をとった。
ムッカマール氏はアイゼンシュタイン氏の後任者である(本日の私の誕生日を記念し、今回初登場)。
ムッカマールとアルフレッドの両氏が“狩人”のように口を揃えて言うには、「アイゼンシュタイン氏が辞めて2カ月以上経つというのに、誰にも、会社にも、退社の挨拶状が来ない。こういうことはあり得るんだろうか?」ということだった。
もちろん私は答えた。
「ありえません」
考えてみれば私たちのところにも来ていない。
心狭い人ならばお怒りになるかもしれない。「あんなに一緒に仕事をしたのに、挨拶状1枚よこさないのか」と。私は心が広いから怒らない。アイゼンシュタインならば起こりうるだろう、想定の範囲内のことだからだ。
挨拶状は来てないが、秘密のメールやらないしょの手紙は来ているのかというと、もちろんない。そんなのが来たら、かえって気持ち悪い。
「まっ、しょうがないんじゃないですか」と私はムッカマール氏に言いながら、にぎり寿司の1貫をアルフレッド氏の皿に移した。いや、正確には押しつけた。だって、魚の皮が付いていて、身が赤っぽくて、私が口にするとウェッという生臭さがいかにも広がりそうなネタがのっていたんだもん。
アルフレッド氏にそのあと聞いたら、けっこう生臭かったです、と答えていたし……
でも、あの魚、何だったんだろう?生ニシンかな?
よくわからなかったな……
よくわからないといえば、バルシャイがクック版をもとに2001年に完成したマーラーの交響曲第10番のCDを購入、聴いてみた。
聴くに当たり、私は闇鍋のフタを開けるときのように楽しみしていた(闇だからフタを開けても見えはしないんだけど)。
でも、私には別に目新しさを感じなかった。
カーペンター版を聴いたときの衝撃はなかった。
村井翔氏は“バルシャイ版”はもはやマーラーのスタイルにはこだわらず、いわば《展覧会の絵》を管弦楽化したラヴェルのように、奔放にオーケストレーションしている”と書いているが、私にはそれほど斬新には聴こえなかった。だから、不快とか違和感を覚えるということも、逆に「これだ!」という悦びもあまりなかった。
もっとも、他にはないポロンポロン、コンコン、コトコト、カンカン、トントンという音が聴こえてきて、それが目新しいと言えば目新しかった。
このCDは、バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニーの演奏。2001録音。ブリリアント・クラシックス。
2011/02
みなさんは、以下の童謡をご存じだろうか?
ナイショ ナイショ
ナイショノ話ハ アノネノネ
ニコニコ ニッコリ ネ、母チャン
オ耳ヘ コッソリ アノネノネ
坊ヤノオネガイ キイテヨネ
この曲のタイトルは「ナイショ話」。
作詞は結城よしを。作曲は山田保治である。
作詞の結城よしをは大正9年生まれ。「ナイショ話」は昭和14年、結城19歳のときに作詞され、キングレコードから発売された。結城はその5年後の昭和19年に24歳で戦死している。
なお、上に載せた歌詞は一番のもので、岩波文庫の「日本童謡集」から転載した(この本には三番の歌詞まで載っている)。
心温まる懐かしい歌だ。
ただ、私はこの歌をいったいどこで知ったのだろう?
まったく記憶にない。
「おかあさんといっしょ」とかで耳にしたのだろうか?学校で歌った記憶もない。幼稚園は中退しているし……。とても不思議だ。でも、なぜかよく知っている。
「話」ではないが、ヤナーチェク(Leos Janacek 1854-1928)の弦楽四重奏曲第2番(1928)のタイトルは「ないしょの手紙(Listy duverne)」である。
ヤナーチャクが老いてから年下の女性に惚れてしまったことについて先日触れたが、まあお盛んというか、これじゃあトルストイの性道徳感に共感しなかったのは無理もない。
この曲のタイトルとして、当初、「恋文」(もう死語か?)という標題が考えられていたという。
手紙の相手はカミラ・シュッテスロヴァー(1892-1935)という女性。
ヤナーチェクがカミラに初めて会ったのは63歳のときだった。彼女は25歳だった。
彼女に触発されヤナーチェクの創作意欲も高まったのだが、その想いは晩年の10年間で最も強くなる。
この10年間に書き送った手紙は700通近くにおよぶという。完全なエロ爺だね、まったく。
弦楽四重奏曲第2番も自分で標題をつけたように、そのラヴレターの内容を音楽化したものだ。ある種の露出狂……
ヤナーチェクはこう語っているという。
「1つ1つの音には愛すべき君がいる。君の体の香り、君のキス――いや、君のではなく私のだったね。私の音符のすべてが君のすべてに口づけしている。君を激しく必要としているのだ――」。
いやいや、やれやれ、にゅるにゅる、にょろにょろ、まんぐぅす……
作品中ではヴィオラが活躍するが、それはカミラの象徴らしい。
ところで、2人の関係はどうだったのか?
結局のところは超エロ爺さんのヤナーチェクの片思いだったようだ。
カミラはヤナーチェクのアプローチをまともにとりあいはしなかった。まあ、そうだろうな。
えっ、私?
私には38歳も年下の女性に恋をするなんてことは考えられない。
せいぜい年の差は20歳までが限度かな……って、誰がじゃ?
何ほざいてるんだか、まったく……
この曲、愛のノロケのような甘ったるいものではない。
手紙に書きつづった激しい恋心を音楽にしているのだ。愛の台風18号……
ヤロスラフ・シェダ(って誰かな)に言わせると、「最初から最後の和音に至るまで、今笑わせたかと思うと、こんどは泣かせるといった呪縛のなかにきき手をひき入れたまま離さない」自由奔放な作品なのである。
CDは弦楽四重奏曲第1番のときにも取り上げたヤナーチェク弦楽四重奏団のものを。
1963録音、スプラフォン。
この録音年に生まれた男が、2001年生まれの女性を好きになるってことだからなぁ……
その一方で24歳で亡くなってしまった作詞家もいるんだけどなぁ。
うん。私も絶倫になってみたいなぁ。なっても、使い道ないんだけどさ(って、いつの間にか「ヤナーチェク=絶倫」という思い込みに話がなぜか変化してしまっている)。
私が午前中に散髪に行った2月11日は、いろんなことが凝縮されたかのように起こった1日 であった。こういう場合、「いろんなこと」というのは、ほぼ「よくないこと」と同義である。
床屋から帰って来て、昼過ぎに次男を車に乗せてニトリへ行くことにした。
ニトリというのは、あの「お・値段以上」と宣伝しているニトリである。今シーズンからファイターズの選手の股間の横にロゴがへばりついている、あのニトリである。
家を出発して5分ほどしたとき、いきなり車が重機みたいな音を発し始めた。
重機が後ろにぴったりついて煽っているのかと思ったほどだ。
だが、ルームミラーを見ても、後ろには象の子一頭いやしない。
車を停め、外から観察。
車の下から音がする。
見ると、マフラーへの排気管が完全に外れている。
やれやれ……
行き先をニトリから急きょスバルへと変更した(これでわかるように私が乗っている車はマセラティではなくスバルなのだ。五反田君よりも“僕”に私は近いのだ)。
スバルへ向かう途中は、自分が意に反して暴走族の仲間に引き込まれたような気になった。
アクセルを踏み込むと、ドドドドドッ!って爆音がする。
水平対向エンジンだからなおさらなのかもしれないが、世間から冷たい目で見られているようでひどく恥かしく、また申し訳なく思う。
スバルに着く。
管が腐食して途中で折れてしまった状態だ。
見積もりで5万円。
やれやれ。
私の気持ちもすっかり折れた。でも、直さないわけにはいかない。
部品は翌日の夕方に届くという。
「じゃあ、あさっての朝に持ち込みますから、今日は乗って帰っていいですか?」
「暴走族と同じなので、警察に見つかるとまずいですけど……」
「でも、これから私はお値段以上のものを買いに行かなくてはならないのです」
そう言って、スバルを後にした。
ドドスコ、ドドスコとブイブイ言わせながらニトリに着く。
次男は4月から東京の大学に行く。
そこでベッドだの何だのを買いに来たのだ。
次男の学生生活なのだ。ニトリでも十分すぎるくらいだが、さすがにベッドはダイソーにはない。そのうち100円ショップでは扱いきれないようなものを扱う、1000円ショップなんかができればいいと思う。
ソファーベッドを買おうとしたが、展示品限りと表示してあった。息子が引っ越すのは3月末だが、そのベッドは「お預かり期間最大1ヵ月」とも書いてある。
そこで店員を呼ぶ。
「来月の末に東京へ配送したいのですが大丈夫ですか?」
「もちろんでございます」
若くて物腰が丁寧過ぎる若い男の店員が答える。ふ~ん、ニトリの接客の雰囲気も昔と変わったものだなぁ。
「ここに、最大1ヵ月までしか預かれないと書いてますが、それを越しちゃうんですけど……」
「大丈夫です。そういうお客様はたくさんいらっしゃいますから。それよりも、迷っているうちにこの最後の1台が売れてしまうかもしれません。このカードを持っておいた方がよろしいですよ」
たいした丁寧だ。なんでも対応いたしますよ、お任せ下さいという感じ。
これが「お・値段以上」の秘密か?
こうして他の家具も何点か見て、サービスカウンターへ行く。
そして、ベッドの商品カードを示して、配送を頼むと、白髪が相当混じったおばさん店員がニコリともせずに言った。
「これは展示品限りですから、海を越えての配送はできません」
「でも、ベッド売り場の店員さんが大丈夫と言ってましたよ」
「いえ、できません」
その女店員の方が正しいのかもしれないが、私たちを騙した男性店員と接触するわけでもなく「できない」の一点張り。そして何より、(他の者が)間違った説明をして申し訳ありませんでしたの一言がまったくない。しかも時折、こちらが言っていることが聞こえないようなそぶりすらみせる。
あれ、怒る客なら相当怒る。私は紳士だから怒らなかったけど。
あの女性店員、かなり不愉快。
お・値段以下どころか、客前に出してはいけない!
そんなこんなで、また暴走音行為を継続しながら家路へ。
途中、K'sデンキに寄って、家電類を買う。
ここの女性店員は実に丁寧。あの煮鶏店員とは偉い違いだ。
あぁ、疲れた1日だった。
13日に再びスバルに行き、修理。
あぁ、この車、こんなに静かだったのねと、ほっとした。
ほっとするといえば、先日ちょっと触れた、エリシュカ/札幌交響楽団によるドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 チェコ)の交響曲第5番ヘ長調Op.76,B.54(1875)は、耳にしていて心が解放されるかのような演奏。ほっとする。
札響もこういう演奏をするようになったのかと思うと、感慨無量である。私がそうなる必要はないんだけど。
その札響も、今年で50歳になる。
2月15日の朝は冷え込んだ。
写真の通り、霧が枝に凍りついている。
やっぱ、春は遠い……
“作曲の日付からすれば、ニ短調交響曲は、シューマンの2番めの交響曲である。4個の曲は、《交響的幻想曲》と題して、1841年12月6日に、ライプツィヒで初演された。しかし、1853年にオーケストレーションし直されたため、この新版が《第4交響曲》とよばれたのである。新版は、この年デュッセルドルフで、低地ライン音楽祭のおりに初演された”
この文は、シューマンの交響曲第4番ニ短調Op.120(1841/改訂'51)のフィルハーモニア版スコアの“はしがき”である(この“はしがき”1853年改訂・初演と書かれているが、井上和男編の「クラシック音楽作品名辞典」では1851年改訂、'52年初演とされている)。
金子建志編の「オーケストラ こだわりの聴き方」によると、1841年のこの曲の初演では聴衆の反応は鈍く、ワーグナーは「退屈な作品」と批判した(この項の執筆は道下京子氏による)。
そこでシューマンは、本来は交響曲第2番となるはずだったこの曲を引っ込め、のちに改訂して第4番として発表することとなった。
先日購入したマズア指揮ロンドン・フィルのCD(シューマンの第1番とのカップリング)では、1841年にライプツィヒで初演された版=ライプツィヒ稿による演奏でこの曲を聴くことができる。
私は初めて耳にしたが、まず最初の1音で、「おやっ、これってシューマンの交響曲第1番とベートーヴェンの交響曲第7番とのカップリングだったっけ?」と思った。それほど最初の音はベト7の出だしにそっくり。つまり、いま聴かれる1851年改訂版のような重さがない。
それでこの驚きを今度、床屋で話題にしようと思うなどとホラを吹いてしまったのだが、そもそもクラシックな床屋なんて私の知る限りは知らないし、同時にそれは椅子も器具もはさみを持ったおっさん(つまり店主)も、みんな老朽化しているという意味以外に考えられない。
そうじゃないとしても、クラシック音楽喫茶じゃあるまいし、クラシック音楽ファンが集う床屋なんて、みんなベートーヴェン・カットかシベリウス・ヘッドにされそうで、ごく一部のマニアしか通わないだろう。それに、客の回転が悪くてたまらんだろうな。刈り終っても居座るみたいに。
でも、床屋ゆえに、いつもバーバーの作品なんかが流れていたりしてると(たとえば悲しみに満ちた「弦楽のためのアダージョ」とか)、けっこう粋なんだけどな(どこが?)。
1841年初稿は、改訂稿に比べると響きが軽く、メロディーラインもはっきりしている。
特に第1楽章と第4楽章は改訂版とかなり異なる。
1841年といえば、交響曲第1番「春」が作曲された年であり、それに通じる幸福感もある。しかし、改訂版になってしまうと、かなり重い病的様相を示す。それは「シューマンは精神病院に入ったほどの人物であるから、その音楽には、詩的で文学的な魅力のある反面、どこか妄想的なところ、支離滅裂なところ、神経質なところがあるのも否めない」と福島章恭氏が書いているとおりである(「クラシックCDの名盤」:文春新書)。
だが、ライプツィヒ稿ではその異様さは希薄なのだ。
この作品の作曲の前年、シューマンはクララと結婚している。すでに病気の兆候があったとしても、まだまだ健康で幸せだったわけで、音楽も健康的だ。
しかし、1842年から翌年にかけては何度もめまいの症状や神経衰弱症が起こった。
'45年には「暗闇の悪魔が私を支配している」と言った。
'46年、聴覚障害が現われる。
'49年、一時的に体調が良くなるが……
といった具合で、改訂版が書きあげられた1851年と、初稿が書かれた'41年とではまったく精神状態が異なっているのである。
ある意味、それが見事に2つの版の違いに表れているとも言える。
なお、ブラームスは初稿の方こそシューマンの持ち味が表れていると考えて出版しようとしたが、クララに猛反対され2人は険悪化、一時は絶好状態になったという。
そういえば、昔、クララってあったな。
細いガラス管に入った、いかにもまずそうな薬。
♪ 痰がからんだらぁ、ク・ラ・ラ!って歌のCMが、“笑点”のときに流れていた。
よかった、当時は子供で痰に悩まされることがなくて……
参考)五島雄一郎「死因を辿る 大作曲家たちの精神病理カルテ」(講談社+α文庫)
連休の初日。
すなわち2月11日、私は床屋に行った。建国記念日だからというのはまったく関係ないけど……
私は床屋でいろいろとしゃべりかけられるのが苦手である。
髪の毛はおとなしく差し出すかわりに、心は静かにしておいてほしいと思っている。
でも、そんなことは言ってられない。
ほとんどの理容師は、会話も散髪料の一部に含まれていると思っているようで、けっこう能動的に話しかけてくる。たまには有用な情報も多いが、たいていはこちらの方が巧みに誘導されていろいろな情報を収集されているような気がする。
このときの話題の中心は、やはり今冬の雪の多さについてであった。
きっと来る客みんなに同じ話をしているのだろうが(小中学生が相手の場合は除く)、そういう意味では理容師側も根気強い。
彼 「雪、ひっどいですねぇ」
私 「ええ」
もしここで私が、「そうですか?ウチの周りはすっかり減りましたよ」なんて嘘をついたら妬みをかって、ひげそりのときに危険を感じることだろう。
彼 「ウチのあたりの町内会の排雪、予定より遅れて17日になったんですよ」
私 「あれ、じゃあウチと同じ日だ」
彼 「えっ?同じ日にはできないでしょう?延期の回覧きてないんですか?」
私 「来てないですけど」
彼 「最初から17日の予定だったんですか?」
私 「そうですけど」
彼 「でも、延期の案内は来てないんですか?」
私 「そうですけど」
彼 「ウチのあたりは延期になったのにですか?」
私 「よくわからないですが、延期の案内はきてません」
このあたりで、私は何一つ悪いことをせず、頭をふらふらもさせず、行儀よく座っているだけなのに、なんとなく悪者扱いされているような気になってきた。
まずいな……
私 「きっと、ウチのあたりもそろそろ延期の回覧がくるんじゃないでしょうか」
彼 「そうだと思いますよ」
彼はやっと平常心に戻ってくれたようだった。
とにかく雪が多いのだ。
なので、排雪に予想以上の時間がかかり、予定がどんどん狂っているらしい。それは新聞でも報道されていた。
なんとか無傷で顔そりも終え帰宅すると、回覧板が……
「町内会の排雪は3月10日に延期となります」
おいおい、床屋に行く前に回して欲しかったなぁ。
そしたら終始なごやかな雰囲気でチョッキンしてもらうことができたのに……
それにしても、3月10日ったら、もう春だよ。
確かにまだそれなりに雪は残っているけど、そんな時期になってから本格的に除排雪するのって意味あるのかなぁ。いっそのこと止めたほうが無駄遣いにならないような気がするけど……
そう、あと1ヵ月ちょっと我慢すれば春になるのだ。
じっと我慢だ。
そう思うと、いきなりシューマンの「春」を聴きたくなった。
シューマン(Robert Schumann 1810-56 ドイツ)の交響曲第1番変ロ長調Op.38「春(Fruhling)」(1841)。
4楽章から成るこの曲はA.ベットガーの「春の詩」に刺激されて書かれたと言われる。当初はそれぞれの楽章に、「春のはじめ」「たそがれ」「楽しい遊び」「春たけなわ」という標題がつけられていた。
私はこの曲、ハイティンク指揮のCDを好んで聴いているのだが、今回はマズア指揮ロンドン・フィルによる演奏を(実はその前日にこのCDを購入したのだった。「いきなり聴きたくなった」っていうのは半分うそです。やや計画的です。すいません)。
この演奏、響きの重心がそれほど低くなく躍動感がある。つまりは、春の喜びを表しているこの曲にふさわしい好演!
実際聴いていて、早く春が訪れてくれないかなぁと、刈り立ての頭をなでながら思った私であった。
このCD、交響曲第4番とのカップリングだが、この4番がまた、床屋で話題にしたら大受けしそうなもの。だから第4番については、次回床屋に行ったあとぐらいにあらためて書く(いろんな意味(床屋で大受け&次回の床屋)で冗談です)。
1990録音(?)。apex(テルデック)。
と言いながらも、今朝も10cm弱ぐらい雪が積もっている。
北国の春は遠い……
「二人が演奏したのはベートーヴェンのクロイツェル・ソナタでした。あの最初のプレストをご存知ですか?ご存知でしょう!?」
これはトルストイの「クロイツェル・ソナタ」のなかで、物語の主人公・ポズヌィシェフが話している言葉である(望月哲男訳:光文社古典新訳文庫)。
この小説は社会的地位がある地主貴族のポズヌィシェフが、嫉妬がもとで妻を刺し殺すというもの。
ある時からポズヌィシェフの家に出入りするようになったヴァイオリンをたしなむトルハチェフスキーと、自分の妻との間を、彼は怪しむようになる。
ある晩さん会の席で妻がピアノの伴奏を務め、トルハチェフスキーが弾いたのが、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調「クロイツェル(Kreutzer)」Op.47だったのだ。
クロイツェルというのは、ベートーヴェンがこのソナタを献呈した人物の名前である。
ヤナーチェク(Leos Janacek 1854-1928 チェコ)の弦楽四重奏曲第1番には、「クロイツェル・ソナタ」というタイトルが付いている。1923年に作曲されたこの作品は、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」に触発されて書かれたもの。
しかし、触発といっても、小説に対する抗議だと言われている。
ヤナーチェクは、この小説のポズヌィシェフが自分の妻を殺すというストーリーに我慢がならなかったという。というのも、ヤナーチェク自身が晩年に若い女性に恋をしていたこともあり、トルストイの結婚や性道徳の考え方に同意できなかったのである(このあたりは、いずれ弦楽四重奏曲第2番について書くときに再び触れることになるだろう)。
したがって、この弦楽四重奏曲はベートーベンのソナタそのものとは直接の関係はない。第3楽章でベートーヴェンのソナタの第1楽章第2主題に由来する主題が出てくるだけである。
なお、ヤナーチェクはトルストイの「クロイツェル・ソナタ」を扱った作品を、それまでも2曲書いている。それはピアノ三重奏曲であるが、紛失してしまったので、現在では「クロイツェル・ソナタ」がらみのヤナーチェクの作品はこの1曲である。
弦楽四重奏曲という既成の概念で接すると、けっこう「おっ!」とサプライズさせられる傑作である。
私が持っているCDはヤナーチェク四重奏団の演奏によるもの。
1963録音。スプラフォン。
休日の前夜の10日は、夕方の6時前からプライベートで軽くビールを飲んだ。
7時前には解散し、「こりゃまだタワレコが開いてるわい」と、久々に寄ってみた。
ちょっぴり酔った勢いもあって(800mlのジョッキで3杯飲んだが、このぐらいが気が大きくなる最も危険な分量だ)、当初の軽い買い物のつもりが、南極探検に行く前のような“しっかり買い物モード”になってしまった。
幸いにも、グルグル店内を回っているうちに急な、かつ強い尿意を催したので、そこそこの数のCDを持ってやや内股気味にレジに行き会計を済ませた後、そのままトイレに行き(会計を済ませる前にトイレに行っては行けないという常識を私は備えている)、幸福なため息をついたが、買い過ぎへの警告ともいえる尿意がなかったら、南極生活でも2週間は退屈しないくらいのCDを買ってしまっていただろう。逆に言えば、タワーレコードにとってみれば、私が大人用ムーニーマンを着用していなかったばっかりに、売り上げが伸び悩んだということになる。
さて、ここで買ったCDから、今日は札響528回定期演奏会のライヴCDを。
指揮はR.エリシュカ。私は2日にわたって開かれたコンサートうちの初日(A日程)の前半を聴いた。
CDには、前半の2曲目に演奏されたヤナーチェクの「シンフォニエッタ」と、メイン・プログラムのドヴォルザークの交響曲第5番が収められている(つまり、私はドヴォルザークの交響曲第5番は聴いていない)
このときの「シンフォニエッタ」についての私の感想は、演奏がコンパクトな感じというものだったが、今回CDであらためて聴くと、コンパクトというよりは上品な演奏だ。響きもとても美しい。
とはいえ、整然とまとめ上げられているわけではなく、そこそこわんぱく。けっこう大胆に音が飛び交っているし、乱れ寸前のところもある。
CDに使われた演奏が、A日程とB日程のどちらのものか、あるいは両日の良いところの組み合わせかはわからないが、「シンフォニエッタ」の第3楽章について言えば、これは私が生で聴いたA日程のものではない。というのもA日程のときは、楽章が始まってほどなくの、コーラングレに続いてオーボエが吹く部分で、当日は音が“つまって”しまったからだ。CDではきちんと奏されている。
この「シンフォニエッタ」の演奏、“レコード芸術”の今年1月号月評で、宇野功芳氏は絶賛、金子建志氏は「苦戦気味」と評している。
札響ファンとして宇野氏がべた褒めしてくれているのは嬉しいが、ちょっと褒めすぎの感があると、個人的には感じている。
それでも、良い演奏であることは間違いない。
ところで、このCDには日本野鳥の、ではなくて、日本ヤナーチェク友の会代表の山根英之氏による解説がついている。
私は知らなかったのだが、それによると、「シンフォニエッタ」の各楽章には当初、次のようなブルノの街にまつわる標題がついていたそうだ。
第1楽章 ファンファーレ
第2楽章 シュピルベルク城
第3楽章 王妃の修道院
第4楽章 街頭
第5楽章 市庁舎
また、札響の演奏では第4楽章で通常用いられる鐘がグロッケンシュピールに変えられている。
コンサートのときに、私はこれに違和感を覚えたが、エリシュカはヤナーチェクの弟子だったバカラから、ヤナーチェクの指示としてグロッケンシュピールを使うようにと指示されたそうである。
今から20年近く前のことだが、同じ課に勤務していた女性社員に札響定期演奏会のチケットを差し上げたことがある。
当時、私は札響の定期会員であったが、仕事の関係で聴きに行けなくなることも多く、そのときはたまたまその女性にあげたのだった。
彼女はクラシック音楽を聴く常習性は全然なかったが、クラシックでも狂言でも演歌の祭典でも、とにかく頂けるものは頂いちゃおうっていうタイプで、そのチケットも喜んで受けとってくれた。
翌日。
「よかったですぅ。あの、何て言うんですか。よかったですぅ」。
このように、当時のタラちゃんのような口ぶりで(現在までもタラオのしゃべりはほとんど進歩していないが……)、彼女は言ったのだった。
このような感じだから、「どういうところが?」などという、ねずみを部屋の角に追い詰めるような質問をするのを、私が差し控えたのは言うまでもない。
さらにその翌日。
彼女は山野楽器の袋を持ってきて、「このあいだのコンサートのお礼です」と私に渡した。
もちろん袋だけではない。そこは彼女もきちんと世の中のしきたりをわきまえていた。
袋の中にはバルトークの弦楽四重奏曲のCDが1枚入っていた。第3番と第5番の弦楽四重奏曲が収められた新品のCDだった。価格は2,800円。
こんな高価なお礼を返したら、ただでもらったチケットなのに割に合わないだろうに……
私は「そんなことして下さらなくても……」とまで言いかけたが、それ以上言うことは(例えば「どんなことがあってもそれを受け取るわけにはいきません」など)できなかった。
だって、そうでしょ?
彼女から受け取らなかった、彼女は彼女でそれをどうしてよいもんだか――彼女が鑑賞するとは思えない――途方に暮れただろうから(いま考えてみれば、店に返品するという手があったな)。
それにしても、そのときから今に至るまで解決しないことがある。
なぜオーケストラ・コンサートのチケットのお礼が、弦楽四重奏曲のCDだったのか、ということ。そして、よりによって、なぜけっこうマニアックなバルトークのものだったのか、ということである。
彼女が退社し、いまやどこでどういう風に生活しているかわからない状況になってしまったので、これは永遠の謎である。もっとも、聞く機会があったとしても、彼女はこのことをきれいさっぱり忘れていると思う。
バルトーク(Bartok Bela 1881-1945 ハンガリー)には第1番から第6番までの6曲の弦楽四重奏曲がある。
この、選択動機不明のCDには1927年作曲の第3番Sz.85と、1934年作曲の第5番Sz.102が収められている。
第3番は単一楽章の作品であるが、2部に分かれている。フィラデルフィア音楽財団に献呈された。
曲の開始は分厚い哲学書を読んでいるタラバガニの表情のような感じである。
ゾクゾクする場面もあるが、あくまでゾクゾクであって、少なくとも私はワクワクはしない。
このCDジャケットに描かれているバルトークの肖像画をそのまま音楽にしたかのようなきびしい表情の作品だ。
第5番は5つの楽章からなる。E.スプラーギュ=クーリッジ夫人に献呈されている。第3番がバルトークの無調への突進時期に書かれたのに対し、第5番は和声への回帰の時期に書かれた。このため、第3番よりもかなり聴きやすい作品となっている。
彼女がお返しとしてくれたCDはリンゼイ弦楽四重奏団の演奏によるもの。1981録音。ASV。
それにしても、曲を聴くと、なぜ彼女がこの曲のCDを選んだのか、なおさら謎は深まるばかりである。
もしかすると、お礼ではなく、私に対して攻撃的な感情を抱いていたのかもしれない。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第8番変ホ長調(1906)、通称「千人の交響曲(Symphonie der Tausend)」は、私にとって彼の交響曲中最も愛着が深くない作品である。
しかしながら、いつまでもそんなことではいけない。
もう私も若くないのだ。
ここいらあたりでこの曲に飛び込んで行ってみようと思い立ち、先日の出張ではスコアを携え、それに優しく指で触れ(ページをめくるのに)、眺め(匂いを嗅ぐことに意味を感じない)、頭のなかで何とかメロディーと図案(楽譜のこと)が一致するように努力し、そこそこまでとは言えないがかなりお近づきになれた。
あんまり好きではないと思っていたわりに、意外とメロディーが頭に入っていることに、私自身驚いた。あったりまえか。なんだかんだ言って、もう自分の人生の半分以上の長きにわたって、ときどきではあるが聴いてきたのだから。
でも、こうやって積極的に取り組むと、この曲のすごさ――マーラーが自身のそれまでの交響曲の集大成と見なしたことが正しいかどうかはわからないが――が、確かに伝わってくる。
第1部は、まあよくこんな絡まってダマになってしまってほぐすのが大変なネックレスのチェーンみたいな複雑な曲を書いたもんだと、畏敬の念を抱かずにはいられなくなる。
第2部は、なんてドラマティックな音楽なんだろうと思う。
この曲の深みにまだまだはまってみようと思う。
いえ、勝手に自分独りやりますからお気遣いなく。放置しておいてください。
出張の際、私はうかつにもウォークマンにこの曲を取り込んで行かなかったわけだが、今はラトル指揮バーミンガム市響ほかによる演奏(2004録音。EMI)を聴きこんでいる。
他のマーラーの交響曲同様、私は多感な青年期に、第8番についてもショルティが指揮する演奏を聴いてきた。とにかくド迫力の演奏だ。第1部の終わりなんかはその大音響で音が歪んでしまっているくらいすごいのだ。これまた、演奏とは別な意味でちょっぴり感動ものだった。
今回ラトル盤を聴いて最初に感じたのは、「迫力ないなぁ」ということ。
しかしこれは、事実上、ショルティ盤しか知らなかったため。見合結婚した乙女のように、世間知らずってものだったのだ(私の訴えたい主旨がわかっていただけるだろうか?)。
千人もいるんだからと、迫力を期待するばかりではいけない。その点、ラトルの見事なバランス感覚にすっかりはまってしまった。
第2部にしても、私にとっては退屈な音楽だったものが、いまや感動的な絵巻として聴こえてくる(マンドリンがこんなに効果的に響いているとは!)。美しく繊細なアプローチだ(注:建物に通じる道のことに非ず)。
唯一の不満は、第1部の終わりに加わる金管のバンダ(別働隊)の音が迫力不足なことか……
【重要弁解事項】
本日のブログ記事には、人妻(?)から私に送られてきたメールが取り上げられておりますが、一部過激な性的記述が含まれております。そのため、将来の日本をしょって立つ未来ある青少年におかれましては、変な気になる恐れもありますので、読まないことも勇気ある行動の1つです(推奨)。
こんなメールが舞い込んできた。
先日ご連絡差し上げた加藤と申します。
資産は複数保有しておりますので、金銭的には不自由しておりません。
しかし、いくらお金があっても孤独にはなかなか耐えられないものです。
話し相手になって頂けませんか?
http://3842.moon15x.com:88/Introduction/*********
こちらでお待ちしていますm(_ _)m
何となく文面から臭い立ってくるのは、“孤独な老婆”って感じだが、そう思う私はすでに固定観念にとらわれている。だって女性とは限らないから。
“老婆”って感じたものの、m(_ _)m なんて顔文字を使っていることから、もしかすると実は若いのかもしれない。このメールを創作している人物は。
それにしても、「金さえあれば何でもできるんじゃないかなぁ」と思うのは、私が貧乏人だからだろうか。お金を持ってさえいれば、夜の街だってどこだって、疑似的人気者になれると思う。孤独から解放されるよ。
ということで、このメール、まったく嘘っぱちだってことが、すぐわかる(資産を保有していて金銭的に不自由していないのが誰なのか、実は主語がない)。
百歩譲って、もしその通りなのだとしたら、お金に不自由はしてないが、人間じゃないってことだ。そういう孤独な宇宙人、いなかったっけ?ウルトラセブンか何かの物語の中で。
そうそう、それから私はきっぱりと言いたい。「先日ご連絡差し上げ」られてないですから、私。
加藤さん、勘違いですよ。
別なメール。
優希です。はじめまして。
すいません。色々忙しくて遅くなりましたが今お返事確認しました。
まず言いたいのは出会いを求めている人ならわかると思いますが、サクラが原因で嫌な思いをしてから私はサイトを利用しています。不安はお互いに絶対あります。でも出会いたいからやっているのもお互いにあると思います。嫌な思いはさせたくないし、したくないので、この時点でサクラと思っているのなら返事もいりませんし、私の事は忘れて下さい。
ここまで言うのはあなたに惹かれたからです。あなたを信じ、思っているからこそのお願いです。私の事を少しでも信じてくれると嬉しいです。http://is.gd/llKi** のHN「YU-KI」検索すると出てきます。サイトには全身の写真、携帯の番号とアドを載せています。写真を見て気に入らなかったらそれはそれで結構です。他に意見、要望等がありましたら携帯に連絡下さい。
平日の日中は電話にも出れます。返事は絶対に携帯の方にお願いします。
本題に入ります。私はSEXのことで悩んでいます。
〇男性経験はあるけどまだ数回しかイッタことがない
〇バイブを使ったりしてみたい
〇潮を噴いたり失神するほどの快感を経験したい
〇主人には言えない変わったHや、したことの無いHを体験したい
〇男性を喜ばすテクニックを覚えたい
こんな願望をもっています。私はイク悦び、Hの楽しさをもっともっと感じたい。イケないと悩んでいる方も多いみたいですけど本当はほとんどの女性はイクことはできると思います。
今までにないHの楽しさや気持ちよさ、イク快楽を感じたいです。正直恥ずかしいですが、女性であれば誰でも想うことかと思います。
以上です。
良い出会いになると信じて、お返事お待ちしております。
私からの反論(もちろん心の中での)。
〇 「お返事確認しました」って、私、返事なんて送ってないです。
〇 知らないのに「忘れてください」って、ずいぶんと自分勝手。
〇 「あなたに惹かれた」「あなたを信じ、思ってる」って、なんら接触したことがないのに(実際「はじめまして」って書いてるのだ)こんなこと書いて、優希さんとやら、頭の調子が悪いんじゃないか?
〇 「他に意見、要望等がありましたら」って、何かの公聴会か?
〇 バイブなんて、自分で勝手に使えばいいじゃん。
〇 主人がいるくせに、「男性経験はあるけど」って、まるで主人は男でないみたい。
〇 まったく、この自称人妻、何考えてるんだか……。「悩んでる」んじゃなくて「物足りない」だけだよな。
そういえば、アンドリュー・クラヴァン(Andrew Klavan)の小説に「妻という名の見知らぬ女」とういうのがある(羽田詩津子訳で角川文庫から出ている)。
このタイトルを見て、見知らぬ女だけどその人の名前は妻という、と考えた人は大きな間違いを犯したと言えよう。“山本 妻”とか“高橋 妻”とかいう名前の女性の話ではない。
原題は“MAN AND WIFE”である。
ストーリーは、
「私はキャル・ブラッドリー、小さな田舎町でクリニックの所長を務める精神科医だ。妻マリーとは結婚して14年、今なお変わらぬ美しさの妻に、私はぞっこんだった。かわいい3人の子供にも恵まれ、私のような風采の上がらない中年男には、これ以上望むべくもないほど幸せで穏やかな人生を手に入れていたはずだった……あの青年が目の前に現れるまでは。
過去、そして現在まで築き上げたものすべてが一瞬にして崩れ落ちていく――男と女、夫と妻のあいだに横たわっているものとは!?嘘と幸福がもつれあう、ひそやかな恐怖と衝撃の物語」
というものだ。
さてどうなるんでしょうね?
それは読んでのお楽しみ!
そうそう、ゼンフル(Ludwig Senfl 1486頃-1552/53 スイス)の作品に、「昔、外出したがる妻がいた」という曲がある(この曲が収められたCDは以前にも紹介しているが、けっこう私のお気に入りのアルバムである)。
なんとも言えぬタイトルの歌ではある。
なんせ、世俗音楽ですから(って、妙なまとめ方だな)。
やれやれ……
まっ、とにかく優希さんは悪徳業者の手下というわけですわい。
MUUSAN
クラシック音楽、バラ、そして60歳代の平凡ながらもちょっぴり刺激的な日々について、「読後充実度 84ppm のお話」と「新・読後充実度 84ppm のお話」の2つのサイトで北海道江別市から発信している日記的ブログ。どの記事も内容の薄さと乏しさという点ではひそかに自信あり。
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