連休の初日の昨日。
天気予報では雨ということだったが(とにかく、どっちにしろ連休の前半はぐずついた天気、という人に気を遣うという配慮が感じられない予報だ)、幸いなことに曇ってはいたものの雨は降っていなかった。
こんな状況なので、私としては、ブログをアップをしたあと、朝食をとり(鮭の切り身を焼き、ベーコンを焼き、長ネギを炒め、豆苗も炒め、残念ながら昆布の佃煮には手を加えるという創作的工夫はせずに食べた)、そのあとは厚着をして外へ出た。なぜ厚着をしたかというと、寒そうだったからだ。
外は寒そうではなく、本当に寒かった。
しかし私は、嫌なことはなるべく先に片付けておく性格なので(日によっては)、芝生の上に無造作に積んであった、壊れた木製アーチの残骸や折れまがった雪囲い用の支柱を、H.ヴァイスの「レクイエム」を聴きながら片付けた。「レクイエム」を選んだことに理由はない。ウォークマンのスイッチを入れたら、そこからスタートしたのだ。この場に実にそぐわない選曲ではある。
実は朝早くから作業に取りかかったのには、理由がある(おっと、書くのを忘れていたが、7:30から作業を開始した)。
この日は“燃やせないゴミの日”だったからだ。
いや、“燃やせないゴミの日”というのは記念日ではない。
誤解を招かないようにくどく書くと、「燃やせないゴミを、ゴミ収集車が市民のために収集しにやって来る日」である。
木製のアーチの残骸がなぜ燃やせないゴミに分類されるのかって?
お役所が、直径2cm以下でない木は燃やせないゴミに認定しているからだ。
ゴミ収集車が来る前にゴミステーションに出しておかなくてはならない。
休日になるとなぜかゴミ収集車は早い時間にやって来る、ということが、私の過去の統計データから明らかになっている。残された時間は少ない。
モノサシで廃材の太さを図りながら選別するのは、根気がいる仕事だ。
2.1cmなら燃やせるごみに分類しなければならない。賢明な私は、この緻密な作業をすばやく行ないきるのは困難だと作業に取りかかる前に判断し、明らかに太いものだけを出すことにした。
ご覧のように芝は日に日に緑色を濃くしている。新しく設置したアーチもご覧のとおりである(もちろん上のではなく、2番目の写真をご覧のこと)。
向かいなど周辺の家は、プライバシーの侵害、個人情報の漏えい、盗撮、のぞき、といったクレームを避けるために、「潜入!歌舞伎町無法カジノ」の建物の映像のように、ボカシを入れさせてもらってた。私の家の周辺が、このようにモヤったデザインの家で景観統一されているわけではない。
おかげさんで(私の)、このように片付いた。本来なら枯れ葉も掃除すると、さらに自信をもって片付いたと言えるのだが、2時間も作業して疲れましたわ、私。だから、枯葉は風でどこかに運ばれていくのをじっと待つことにした。
ここまでで外での労働は終了。
§
昨日書いた、札響の今回のヨーロッパ公演で演奏される曲のうち、武満徹の「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」とショスタコーヴィチの交響曲第5番は、2月の定期演奏会ならびに3月の東京公演でも演奏されたものだ。
そのショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)の、今日はマッケラスがロイヤル・フィルを振った演奏を。
私にとってマッケラスという指揮者(昨年亡くなった)は、これまでいくつもの録音を聴いてきたが、巧いなぁ、器用だなぁ、とは思うことはあっても、いやぁ心にしみるぜって経験はあまりなかった。
ショスタコ/5番のCDもタワレコでたまたま見つけて、安かったから買ったのだが(だって1000円しない)、いやぁ、良い演奏に出会えた。
これ、かなりの名演だと思う。
マッケラスのアプローチは、ソ連の理解不能な国家事情とか、ショスタコが置かれていた厄介な立場は、とりあえずそっちの方に置いといて……、というもの。
ソヴィエトの音楽に影を落としている政治的統制についてはもういいじゃない、純粋な交響曲として演奏してみましょうぜ、という感じだ。
このあたり、先日書いたコフマンの演奏にも通ずるが、コフマンがタフマンを飲んでもう少し演奏にパワーを加えたら、おそらくマッケラスの演奏に近づくのではないかと思う。
迫力があり重心も低いが、けっしてもたつかない。
早足にもならない。が、遅いわけでもない。テンポのコントロールが極めて巧みなんだろう。聴いたあと、元気が残る「革命」だ。
音も良い。
1994録音。ROYAL PHILHAMONIC MASTERWORKS(allegro-music)。
カップリング収録の「祝典序曲」も、まさに祝典気分に満ちた華麗な演奏である。
庭ではスミレがさりげなく小さな花を咲かせていた。
この奥ゆかしい感じは、まるで自分を見るかのようである。
なお、この日、ゴミ収集車は15時にやって来た。
やれやれ。急いで損した気分……
April 2011
あらためて書くが、今年は札幌交響楽団の創立50周年にあたる。
その記念事業のメインとしてヨーロッパ公演がある。
5月22日がミュンヘン、23日がロンドン、25日はサレルノ、26日はミラノ、27日がデュッセルドルフ。指揮は尾高忠明。ヴァイオリンのソリストとして諏訪内晶子が同行する。
プログラムで全公演に共通するのは、武満徹の「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」。コンチェルトはブルッフの1番、またはプロコフィエフの1番。メインはチャイコフスキー/交響曲第6番、またはショスタコーヴィチ/交響曲第5番である。
資料によると、札響の第1回定期演奏会が開かれたのは1961(昭和36)年9月6日(水)。会場は札幌市民会館。指揮は荒谷正雄。
プログラムは、
モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
J.C.バッハ/シンフォニア ニ長調Op.18-4
シューベルト/付随音楽「ロザムンデ」から「間奏曲」と「バレエ」
ベートーヴェン/交響曲第1番ハ長調Op.21
という、なんとなく微笑ましくなるものだ。
1989年3月の節目となる第300回定期演奏会のときには、荒谷正雄も指揮台に立って、第1回でも振ったJ.C.バッハのシンフォニアOp.18-4を“再演”した。
演奏自体の記憶は私には残ってないんだけど……
第1回定期のメインを飾った、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の交響曲第1番ハ長調Op.21(1799-1800)。
ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」などと共に、ベートーヴェンの初期の代表作の1つだが、古典派様式の作品であるため、彼の中・後期の交響曲に比べると人気は低い。しかしながら、ハイドンやモーツァルトにはない、新しい音楽、つまり“ベートーヴェンの交響曲”のオーラが感じられる。
50年前の記念すべき夜に、荒谷は大バッハの末っ子であるJ.C.バッハの“交響曲(シンフォニア)”と、ベートーヴェンの第1作目の交響曲を取り上げているが、ベートーヴェンはJ.C.バッハではなく、次男のC.P.E.バッハの影響を強く受けていると言われる。このあたり、プログラムを組んだ荒谷には、何か意図、計算があったのだろうか?
私がベト1の演奏で好んで聴いているのは、録音は1958年と古いが、とても優しげで温かいクリュイタンス/ベルリン・フィルの演奏(この盤は第3交響曲のときに取り上げている)。
なお、札響はヨーロッパ公演から帰国後の6月4日に、「帰国記念演奏会」をKitaraで行なう。
もちろん、尾高忠明指揮、独奏諏訪内晶子で、ブルッフと「悲愴」の組み合わせのプログラムを演奏する。
きのうの朝は、やはり曇りがちの天気だったもののほとんど風がなく、「いやぁ、やっぱり春は近づいてきていたのね」と、思わず女性言葉で心のなかで呟いてしまった。
そりゃそうだ。
明日から連休に入るのだ。暖かくなってくれなきゃ困る。
過去を振り返ってみれば、この時期までコートを着て通勤したという記憶がない。それほど今年は暖かくならない(歳のせいで寒がりになった、という考え方もできなくはない)。
みなさんは連休をどのように過ごすのであろうか?
私はあさってからイタリアに旅行に出かけるといったこともなく、カレンダーどおりに仕事をする。そう考えると喜び感が薄いので、逆にカレンダーどおり休めるという風に捉えよう。
特に出かける予定はない。
妻の実家に行かなければならないかもしれないが、行ったとしても1泊。
ただ心配なのは、車の調子が良くないということだ。もし峠道でエンストでも起こし、折からの渋滞でJAFの救援車もなかなか来ず、動かなくなったマイカーの横をゆっくりと通り過ぎる車の中から、同情と好奇心が入り混じった視線を延々と浴びる。そのような事態を想像するだけで心が痛む。
そうそう。タイヤ交換をいつするかも大きな課題だ。
いまのスタッドレス・タイヤはもう3シーズン履いたので、履きつぶす気はないものの、しばらくそのままでもいいのだが、雪がなくなれば夏タイヤに換えたいのが人情というもの。でも、峠越えをする前に夏タイヤに交換したのが裏目に出て、まさかの降雪に見舞われ立ち往生したら……。そう想像するだけで胃が痛む。
例年、ゴールデン・ウィークになると待ちきれずに花(宿根草)や野菜の苗を買いに行く。そして、植えつけられた植物は、かわいそうに必ずといっていいほど寒風によって著しく生育が悪くなる。ホーマックの苗は良くないという話もあるが、それだけが原因ではない。植え付けを焦り過ぎるのだ、みんな。
でも、この時期に苗を買わないと売り切れてしまうのではないか?やはり早めに手当てすべきではないか?
そういう風に考えると、おなかの調子が悪くなる。
まあ、そんなこんなだが(なんだか自分で自分を追いつめているような気がしないでもない)、嬉しい季節には違いない。牧歌的な曲を聴こう。
ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams 1872-1958 イギリス)の交響曲第3番「田園交響曲(A pastoral symphony)」(1921/改訂1955)。
4楽章からなるオーケストラとソプラノ(またはテノール)独唱の作品。独唱は歌詞を持たない。
速い楽章はなく、ときに幻想的。神秘的とも言えるかも。
強烈な印象を残す瞬間というのは、この作品にはあまりない。しかし、全体が(いかにもイギリス音楽だというように)ホワァ~ンとした印象を残してくれる。
CDはアンドリュー・デイヴィス指揮BBCsoの演奏によるものを。ソプラノ独唱はパトリシア・ロザリオ。
1996録音。テルデック。
春と言えば、もう少しすると、見てる分にはかわいいが庭にとってはたちの悪い、あのタンポポが咲き始める。
そして、こんなメールが来た。
1通のMessageが届いています!!
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名前:「養護施設たんぽぽ」代表・坂井様
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職業:その他
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初めまして、坂井と申します。
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養護施設の代表者って、職業欄には「その他」って書くもんなんだ。初めて知った。ためになるなぁ。
で、養護施設の代表者のお願いを知るためには、「go love」とか「wife door」という怪しげなキーワードを含むサイトに行かなきゃならないんだ。もしかして「子供達」っていうのも、なにかの隠語なのかなぁ。
そのあとの広告メッセージが、これまた坂井様の文とひどくギャップがあって笑える。
坂井さんとやら、綿毛になってどこかに飛んで行け!
昨日の記事でベートーヴェンのピアノ・ソナタ「悲愴」のことを書いたが、オーケストラ作品好きの私としては、「悲愴」という名を耳にするとほぼ94.287%の確率でチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93)の交響曲第6番「悲愴」を連想してしまう。
先日、その「悲愴」という言葉が頭に一切ない状態だったが、足を踏み入れたタワレコで、偶然にもチャイコフスキーの交響曲全集がセール品になっているのを発見した。
案外、チャイコフスキーの交響曲で、「これだ!」っていう演奏に巡り会えない。そこで、廉価盤だったこともあり、ものは試しで買ってみた。
アバド指揮シカゴ響の演奏である。
ソニークラシカル。6枚組。
しかしなぁ。
タワレコに寄るたびにセール品を見つけてしまい、買ってしまうしかない心理状態に追い込まれて、その心理に素直に従ってしまい、気がつくと黄色い袋をぶら下げている自分がいる。これはまずい。タワレコ出入り禁止令を自らに課さなくてはならないのだろうか。
ソニーの元社長である大賀典雄氏も亡くなったことだし、すでに話の流れも出来上がってしまって来ているので、今日は全集の中から、やっぱり交響曲第6番ロ短調Op.74「悲愴(Pathetique)」(1893)を取り上げるのが自然な流れ。
アバドの演奏はあまり感情に溺れることがない。取り乱したりもしない。非ロシア系演奏のモデルのようなもの。しかし、決して物足りなくはない。
第1楽章の展開部だって、オケはよくコントロールされている。心臓麻痺を誘発しそうな音ではない。
第2楽章のワルツも均整がとれすぎているくらい。第3楽章だってばか騒ぎしない。
こう進んでくると、標題がどうこうではなく、純粋にこのシンフォニーのすばらしさが伝わってくる。
しかし、終楽章。端正な流れの中から、美しい響きの中から、じわじわと悲しみがにじみ出てくる。
私はこの演奏、けっこう気に入った。この月~火の2日間で、すでに4回も聴き通しているくらいだ。
おかげで全身が悲愴なモードになっている。
この「悲愴」の録音は1986年。
§
このブログも結構な回を重ねた。
賛否両論のうち、否の感想ばかり寄せられているにもかかわらず、悲愴感漂わせることなくここまで続いているのも、ひとえに私1人の努力と執着心の賜物である。
ところで、このブログに登場する人物たちの数が徐々に増え、それに比例して、誰が誰だかよくわからなくなっている読者が増えているという(言われたわけではなく、私の推測)。無理もない。私だって忘れてしまいそうなくらいなのだから。
ということで、仮名で登場する人物をここで一度整理してみよう。
今回は「社外編」。
まず、会社名とそれぞれで働く人々。いずれも私の仕事上の取引先の会社であり、わが社を担当している人々である。
① どら猫酔狂堂
ベリンスキー侯 : 同社の札幌の支社長。おとといの午後、札幌地下歩行空間を歩行していたのを私が偶然に目撃した。歩行空間をその名にしたがってまじめに歩行している良識ある人物であるが、真剣に歩いていたので声をかけなかった。
アイゼンシュタイン氏 : かつての担当でリーダー職。昨年末に自主退社。現在プー太郎らしいが実態は不明。
ムッカマール氏 : アイゼンシュタイン氏の後任で、現在リアルタイムで当社を担当。温厚な性格。
アルフレッド氏 : ムッカマール氏の部下。私の札響鑑賞仲間。私のくだらないユーモアにも敏感に反応する、笑いに飢えた人物。趣味は風邪をひくこと。
ファルケ氏 : かつての担当。転勤で東北に行ってしまった。酔うと危険なアクシデントを起こすクセがある。
② デチュ熱風商会
ナシニーニ氏 : わが社を担当する次長。とても誠実である(ような気がする)。私も彼と飲むことは多い。
檜さん : ナシニーニ氏の部下。私にドゥダメルの存在を教えてくれた人物だが、教えてくれただけで、本人はクラシック音楽にまったく興味なし。
関〇さん : かつての担当。その善人風な見かけによらず、「いつもMUUSANのブログを楽しみに読んでます」と、平気でウソがつけるタイプ。
③ 山鳩親子舎
干潟しじみさん : わが社を担当する部長。飲みに行く店の選定を任せると、ほぼ完璧にはずす。
大山のぶ太さん : 干潟部長の部下。新婚のくせに朝食は供されないという、刑務所暮らしよりもつらい日々を送っている。
ピカリング部長 : 干潟部長とは別なセクションの部長。物静か。その身なりはとてもサラリーマンには見えない。
これ以外に、アイゼンシュタイン氏の知り合いである“うずらさん”がいる。
次に飲食店関係。店名と人物名。
① スナック「ルネサンス」
エリザベート : 行動的な人物。ウンコネタなどを平気で口にする。
② バー「ビバ・トレード」
カチャカポコナ : 店長。いつもなぜあんなに元気なのか不明。
カチャカポコチン : カチャカポコナの兄。脱サラして店の経営に加わったが、それに幸せを感じているのかどうかは不明。
ナタオーシャ、カトナーリャ : かつて店に在籍していた女性スタッフ。
そのうち「社内編」もまとめあげたいと思っている。
昨日の午前10時前、私は何気なくテレビを観ていた。
すると、とっても元気そうなスーちゃんが、涼しげなそうめんを前にして健康的な笑顔を振りまいていた。
これは、どう考えても、そうめんのCMである。
いやあ、なんだか笑顔が痛々しくて悲しい気分になってしまったなぁ。
こういうのって、放送を差し止めたりしないのかな……
ところで、なぜ私がそんな時刻にテレビを観ていたか?
代休であった → ×
有給であった → ×
欠勤した → ×
さぼっていた → △
実は、いつも通っている小規模な病院に、薬をもらいに行っていたのである。
だから、それはサボっていることになるとお考えになる方もいらっしゃるだろうし(私とは主義主張を異にするタイプの人だ)、いや日々の業務のために必要な措置を講じているのだとお思いのかたもいるだろう(そういう人に一度出会ってみたいものだ)。だから「さぼっていた」は、最大限に妥協して△にしてみた。
クリニックには金曜日のうちに、「薬だけだして欲しい」と丁重に申し入れていた。
「わかりました。じゃあ、午前中に来てください」と、けっこう冷たく言われたので、従順にそのとおりにしたのだが、いつもはそうは言っても、先生が私の顔を見るのを楽しみにしているせいなのか、部屋に呼び入れられ、血圧を測られ、アッカンベーして瞼の裏側をチェックされ、足首をつかまれむくみを検証し、聴診器をあてながら私は純白の肌をまさぐられるのであった。
しかし、この日は先生が不在で、代役医師が来ていた。
そのせいか、こういったおさわりタイムはなく、本当に薬だけが出された。
これは私が望んでいたとおりの展開だが、これはこれでちょいと寂しく思うのは、私が彼に触られることに喜びを見出してしまったからなのだろうか?
それはともかく、薬だけのくせに(しかも金曜日に予告していたのに)やたら待たされた。やたら待たされたが、TVに元気なスーちゃんが出てきたのはその1回だけで、10時になると私の嫌いな佐藤のりゆき(北海道で偉そうにしているキャスター)の番組が始まってしまった。
そのあと、薬が渡された。
前回に続き、また1カ月分だった。まだ品薄状態が続いているのだろうか?
§
土曜日。「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」が、テレビで放送された。
私は映画館でも観たが、後編の出来はあまり良くないような気がする。
何か、メリハリがないというか、だらーっとしている。
§
で、私が穴をあけ、責任をとって私が補修した床の話である。
使用する器具は、カッター(クレヨンのような補修材を削るのに使う)、ドライヤー(補修材を溶かすのに使う)、アイスクリームの木ベラ(傷に補修材を埋め込むのに最適)である。
まずはクレヨンのようなもの(「かくれん棒」という、考えようによっては卑猥な名前である。「どぉこに隠れてるのかなぁ?」みたいな)をカッターで削る。勘で、複数の色を調合し床の色に合わせる。
それを傷の穴に入れ、カッターの刃で抑え、刃の上からドライヤーの温風で加熱する(カッターの刃で蓋をするように抑えないと、風でかくれん棒の破片が飛び散ってしまう)。
真夏の駄菓子屋の店先に置かれたチョコレートのように柔らかくなったら、アイスクリーム の木べらで穴に丁寧に穴に埋めていくのだが、このあたりは修繕の喜びを感じる瞬間である(オーバーに書いている)。
そして、補修前と補修後はこんな感じである。
どうであろう?。じぃ~っと見なくても跡がはっきりわかるくらいの出来栄えではないか!
§
のだめが園児たちに弾いてあげていたピアノの曲。それはフランス民謡の「アビニョンの橋の上で」であった。
それと、もう1場面あった。
千秋が幼稚園にのだめを迎えに行くところである。
そのときの曲はベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴(Pathetique)」(1797頃-98)の第2楽章(アダージョ・カンタービレ)。
ベートーヴェンは番号付きのピアノ・ソナタを32番まで書いているが、「悲愴」は初期の傑作の1つ。「悲愴」「月光」「熱情」の3曲を彼の3大ピアノ・ソナタと呼ぶことがある。
「悲愴」というタイトルはベートーヴェン自身が付けた。彼が自ら名づけたピアノ・ソナタは、ほかに「告別」のみ。ということは、何か特別な意味があるのかもしれない。
曲は3楽章から成る。
今日紹介するCDはルビンシュタインの演奏のもの(もちろんベートーヴェンのピアノ・ソナタのCDである。残念ながら私は「アビニョンの橋の上で」のディスクを持っていないし、たぶんルビンシュタインも「アビニョンの橋の上で」の録音を残してないだろう)。
「悲愴」のほかに、第14番「月光」、第23番「熱情」、第26番「告別」が収められている。録音は1962-63年と古いが、それよりも私が気に病んでいるのは、そのCDが正規盤ではなくリプリント盤だということ。こんなものに手を出してしまった自分が恥ずかしい。
エコー・インダストリーというところの商品で、一昔前には、スーパーの一角に入っているキヨスクのようなCDショップや本屋、さらにはドラッグストアなんかでずいぶん売られていたものだ。定価は2,000円となっているのに、どこでも1,000円で売っていた。
中古CDショップに行くと、いまでもけっこうな値段で売られている。
リプリント盤のせいか録音が古いせいかわからないが、音場が狭い。
中に入っている解説書の執筆者は、“響野鈴照”なる人物。
誰じゃい、この人?
昨日書いた記事の補足、つぅーか追加。
その記事というのは、おとといの土曜日の私の1日について&ペライアが弾き振りしたバッハのチェンバロ協奏曲についてのものだった。
本日補足するのは当然のことながらバッハのことではなく、私の1日に関することである。
この日は朝から雨が降っていたのでガーデニング作業は中止。クロッカスの花も、か弱い日差しと冷たい雨のせいで開かず、水につかったパラフィン紙のようになっていた。
午前中はあるビデオ・テープを探して時間を費やしてしまった。
間接的にではあるが仕事と関連する内容のテープで、どこかにしまってあったはずなのに、まったく見つからない。本棚の奥やら何やらを懸命に探したが、出てくるのは十数年前に買ったアダルト・ビデオとかだ。こんなん、まだ残ってたんだ。やれやれ。この女優、もうけっこうなおばさんになってるだろうな。結婚したのかな、などと、どーでもいいことを考えながらゴミ袋へ。
そんなことより、なんで目的のテープは見つからないのだろう?
椅子に乗り、本棚の上に置いてある段ボールの中まで調べたが、その中には十数年前に買ったHな雑誌が入ってたりして、こんなもんまだ残ってたんだ。やれやれ。このモデル、もうけっこうなおばさんになってるだろうな。通販専門の「四十路の女」みたいな写真集にでも出てるのかな、等々、やや関心を抱きながら古新聞の束の中間層へ忍ばせた。
悲劇はそこで起こった。
再びその段ボール箱を本棚の上に戻そうとしたときに、やはり本棚の上にあったもう使っていないMOディスクの外付け機を床に落としてしまったのだ。お手玉をするように、懸命にそれを空中でキャッチしようとしたが失敗。そいつは私の右の足の甲に衝突したあと、フローリングの床へ落下。痛みでMO~と叫んだね、私は。床には角から落下したため(こういうときに、なぜフラットな広い面から落ちないのだろう?)、ボッコリと小穴が開いてしまった。
やれやれ。
クレヨンの親戚みたいなやつで、床を補修しなきゃ(私は実はけっこう床の補修が上手なのである。複数の茶のクレヨンみたいなやつを混合して色を床に合わせ、ドライヤーで温めながら軟らかくし、穴に埋め込むのだ。
見よ、私の小道具を!
足に痛い思いをさせ、床に傷をつけてしまったのに、結局ビデオテープは見つからない。
捨ててしまったとは思えないのだが……
もう頭の中はビデオテープのことでいっぱい。クローゼットの奥にあるのではないか?子供部屋のベッドの中にあるのではないか?何年も使っていないキャンプ用品の中に紛れ込んでいるのではないか?
あらゆる可能性を考えてみたが、決定打はない。
こんな不安定で粘着化した状態で、15時に床屋へ。
私は床屋でいろいろと話しかけられるのが苦手である。
昨日もそうであった。ましてやパーマをかけたから、その厄介な時間はとても長い。
最初は原発の話であった。それはまだいい。早く何とかなってほしいという見解で一致したからだ。
そのあとは景気の話である。
その床屋、客は減ってないようだが、問題はそろそろ椅子などの機器を更新しなければならない時期に来ているということらしい。
「メーカーの方がよく来るんですけどね、そうそう投資できませんよ。でも、地方はもっともっと大変らしいですよ。全然オーダーが入らないそうです。器械も傷んでないんだって。客がいなくてあまり使わないから」
私の足は傷んだというのに、どうも不公平だ。しかも、パーマ液をかけてじっとしているときに、ずっと隣に立ったまま話しかけてくるので(座りこまれるよりはましだが)、私は週刊プレイボーイを読むことができなかったではないか!
それにしてもだ。
客がいないって?
いくら田舎だって、散髪需要はあるんじゃないか?
それとも、禿げ人口が急速に増しているのか?
《黒髪豊かな若者も、時が来れば禿げになる》
こう歌われるのは、オルフ(Carl Orff 1895-1982 ドイツ)の「カルミナ・ブラーナ(Carmina Burana)」(1935-36)の第2曲の中である。
「カルミナ・ブラーナ」については、これまでレヴァイン盤、ブロムシュテット盤などを取り上げてきたが、やはりすばらしいのは高関健/札響のライヴ盤だと私は思っている。
しかし、先日買ったスラットキン/セントルイス響他の演奏もなかなかすばらしいかった。
まさに変えられぬ運命に八つ当たりするかのような出だしで、すっかり引き込まれてしまう。発情期的場面の甘さと色っぽさも見事。
聴いていて、ちょいと嬉しくなってしまった(合唱が少し粗い感じがするが、この曲にはむしろ向いているのかもしれない)。
1992録音。ソニー・クラシカル(RCA)。廉価なのが嬉しい。
床屋から帰って来ると、アイリスオーヤマからガーデン・アーチが届いていた。
昨日(日曜日)も朝のうちは雨が降っていたが、昼前に晴れ間が出てきたので組み立てた。いよいよ春だ!って、もうゴールデンウィークだもんな……
そうそう、床屋の奥さん(主として洗髪担当)が福島で誰にも面倒を見てもらえなくなった牛の話題から、こう私に言った。
「牛肉って食べる人の気が知れないです。どうして食べるんでしょうね?」
どうやら牛肉を食べるという習慣がないらしい。
でもね、奥さん、ヒトは牛肉を食べるんです。それもけっこう好きな人が多いようですよ。
昨日は理容室に行ってきた。
たまに顔を見せて元気な姿を確認し合うためにではない。
私の髪の毛が順調に伸びた結果そろそろ適正な長さをオーバーし、両耳周辺でくるりんと丸まり始めたからだ。なんで髪の毛と爪だけは黙々と元気に成長を続けるのだろう。いや、ありがたいことだが。
そして、昨日の理容室訪問が1か月前、2か月前と違った点は、第1にカットだけではなく部分パーマをかけたこと。第2にいつもは朝一番に予約を入れるのに午後3時にしたこと。この2点である。
第1の点については、パーマをかける間がいつもより空いてしまっていただけで、ヴォリュウム感を持たせるためにはそろそろ金を惜しんでられなくなったのである。カットだけでは私の頭部は、けち臭く小さめの海苔が貼られたしっとりおにぎりのようになってしまう。
第2の点については、家の者が夕方まで誰もいないことによる。1人になれる有意義な時間に、わざわざ私まで出かけるなんて、たいへんにもったいない。家族が帰宅するころを見計らって、私は理容室へ退避する。このような見事な計算である。
カットだけの場合は所要1時間だが、パーマをかけると作業は2時間に及ぶ。2時間も椅子に座っているのはとても苦痛だが(尿意の心配もある)、これもおにぎり頭にならないためと思って耐えた(そのかわり汗でパンツがお尻にぺったりモードになった)。
3時から2時間。終わると5時。
ほれ、帰りにスーパーでビールを買って帰るにちょうど良い時間だ。よくあることではあるが、午前中からスーパーでビールを買うのは、気持ちがピアノの私にとって勇気がいる。というのも、アル中だと思われる可能性を捨てきれないからだ。
午前中、出かけたついでにやむを得ずビールを買う時は、これからデイ・焼肉パーティーをするのよ、というような雰囲気を醸し出さなくてはならない(必要のない紙コップや紙皿を一緒に買ったりする)。
ここまでのキーワードはピアノ。
バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)のクラヴィーア作品(クラヴィーアは鍵盤楽器の総称。ドイツ語)を聴くにあたって、断固としてとまでは言わないがかなり執着して、私はピアノではなくチェンバロを用いた演奏を選ぶようにしている。
これは、私の数少ないこだわりの1つである(他にこだわっていることと言えば、天ぷらはエビに限る、といったことくらいだ)。
その理由は、チェンバロの音が好きなこと。
そしてさらにこだわる身勝手な根拠は、バッハがクラヴィーア作品を書いたときには、ピアノではなくチェンバロで演奏することを想定していたはずだから、ということである。
チェンバロは弦を爪で引っかけて音を出す。それに対して、ピアノは弦を叩いて音を出す。その構造から、チェンバロでは音の強弱を自由につけることはできないが、ピアノでは打鍵の力によって強弱を表現できる。
このため早くから弦を叩くことで音を出す楽器を作る試みがなされてきた。
強弱が自由に表現できるから、その名もクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(Clavicembalo col piano e forte)。弱い音と強い音が出るチェンバロという意味だが、いつのまにか“強い音”は省略されて、この楽器、ピアノと呼ばれるようになった。
ピアノを発明したのはイタリア出身のクリストフォリと言われており、1700年には初期型が作られていたそうだ。クリストフォリが作ったピアノは現在3台残っており、製造年は1720年代である。
ということは、バッハが生きていた時代にもピアノはあることはあった。
クリストフォリのピアノをまねて作ったジルバーマンは、1730年にバッハに楽器を見せたものの、バッハは評価しなかったという。
しかし、1747年にフリードリヒ大王の宮廷を訪れたバッハは、そこにあったジルバーマンの改良型ピアノに触れて、今度は評価したという。
ただ、1747年というとバッハの晩年。
と考えると、バッハのクラヴィーア作品はチェンバロで弾くのが“正統的”と思えるのだ。
ただし、ここで時代の、環境の違いの問題がある。
「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」で、千秋がバッハのチェンバロ協奏曲第1番を弾き振りする場面がある。そのとき客席でぼーっとしているのだめに、オクレール氏(のだめのピアノの教師)が、「この会場ではやはりピアノでしょう」といったことを言うが、現代の大ホールでチェンバロ協奏曲を演奏するには音量の面でピアノにせざるを得ない面がある(当然オケの規模も違うので、宮廷で演奏するのとはわけが違う)。
バッハのコンチェルトでも、CDではチェンバロを用いた演奏を選んできた私だが、今回はピアノによるものを買ってみた。
買ったCDはペライアがアカデミー室内管弦楽団を弾き振りしたもの。
3枚組で、チェンバロ協奏曲第1番~第7番ほかが収録されている。2000-01録音。ソニー・クラシカル。
なんとも違和感を覚えるのだが、チェンバロ協奏曲だったという固定観念を心を鬼にして捨てきって聴いてみると、不可思議な音の融合が面白く感じてくる。
この組物CDには、ブランデンブルク協奏曲第5番も収められている。
もちろんチェンバロの代わりにピアノが使われているのだが、これは聞いてはいけない噂を耳にしたかのような、半ばゾクゾク、半ば知らなきゃよかった、みたいな音楽(巷では、けっこう評価は高いらしい。港では話題になっていないらしい)。
このところ、日々刺激がないなぁとお悩みのあなたに、ぜひお薦めしたい。
私がこのCDをタワーレコードで買ったのは20日のこと。
でも、オンライン・ショップでは“廃盤”となっている。私は店頭在庫のみとなっているものを買ったのだ。あぁ、売れ残っていて良かった!
そこで分売で、まだ現役盤である、ブランデンブルク協奏曲第5番他のCDを紹介しておく。
1747年と言えば、フリードリヒ大王が示した主題をもとにバッハが「音楽の捧げ物」を書いた年である。
バッハは、このときにジルバーマンの改良型ピアノに触れたのだろう。
もし「音楽の捧げ物」の「リチェルカーレ」がピアノで弾かれたとしたら……アタイ、悪酔いしちゃうかも。あるいは陶酔しちゃたりして……
ペライアってその昔、札響の定期に来たことがある。ピアノを弾きに。
まだまだ青いリンゴのようだった私には、札幌に来た彼が、こんなにすごいピアニストになるなんて想像もできなかったなぁ。
「ショスタコーヴィチ大研究」(春秋社)には、次のような記述がある。
ヴァイオリン協奏曲は、スターリンの死を待って発表された《第1番》が、このジャンルでは稀に見る重苦しい、聴いていて胃が痛くなるような音楽なのに(特にコーガンやD.オイストラフの残した録音。同じ作品がパールマンやナージャの手にかかると、グラズノフと区別がつかなくなる)、《第2番》は明るい。「生の明るさが光を放っている」と書いた人もいた。
ふ~ん。
でもそっかぁ~?
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)のヴァイオリン協奏曲第1番イ短調Op.77(旧Op.99)(1947-48)は、全体的に見ると、確かに明るくはない。
けど、それはショスタコが残した作品の多くに見られる傾向であって、「胃が痛くなるような」というのは誇大表現、もしくはこの章の筆者が、実は本当に胃潰瘍か何かを患っていたんじゃないかなと心配になってしまう。受け取り方は人それぞれではあるけれど……(そういう私もここ数日胃が痛い)。
このコンチェルトについては、こことあそこに書いてあるが、1948年2月の共産党による作曲家批判があり、すでに仕上がっていたと思われるヴァイオリン協奏曲第1番(スコア完成は'48年3月24日)を、こんな状況のなかで発表するのはまずいと思い(当然だ)、お蔵入りにしたのだった。
初演されたのは1955年になってから。
スコアは翌56年に出版されたが、そのときに出版年代に合わせて作品番号は99とされた。しかし、のちにOp.77に訂正されている(現在Op.99の番号が割り振られているのは、映画「第一梯団」の音楽である)。
このところ特に何度も聴いているが、第2楽章や第4楽章の運動性も備えた重量感や、ずっしりと心にしみわたる第3楽章なんか、エキサイト・シリーズって感じで私には胃が痛くなる暇がない(ここ数日を除く)。それとも、コーガンやオイストラフの演奏を聴いたことがないせいかな。
なおこの曲の第2楽章で初めて「DSCH音型」が現われるというのは、先日書いたとおり。
そして、ヴァイオリン協奏曲第2番嬰ハ短調Op.129(1967)。
先の文では、「《第2番》は明るい。『生の明るさが光を放っている』と書いた人もいた」と書かれているが、誰じゃいそれ?
この作品を、単純に「明るい」と言えるのか?
納得できない、私は。
ホタルイカじゃあるまいし、生の明るさが光を放っているって印象は受けない。受け取り方は人それぞれではあるけれど、again。
ただ、どっちが暗いのかという比較をどうしてもしなければならないとしたら、第1番より第2番の方が暗くない、って判断することになるだろう、私は。両曲を献呈されたD.オイストラフはどう思っていたんだろうな?
第2番はそのオイストラフの60歳を記念して書かれた。しかし、実際に贈られたのはオイストラフがまだ59歳の年。ショスタコは1年間違ってしまったのだった。もしオイストラフがご婦人だったら、ショスタコは「この、タコ野郎!」って張り倒されるところだ。
この曲が書かれたころ、ショスタコは健康を崩しまくっていたが、作品にも作曲者が置かれた状況の陰が投影されているように感じる。
特に第1楽章の、室内楽的で透明な、力なく喜びの表情を見せるようなメロディーと響きに、そう感じる。
私はこの第1楽章を聴いていると、なぜかバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番やヴィオラ協奏曲を思い起こしてしまう。たとえば、スコアを掲載した箇所なんか、たまらなく好きです、私(掲載したスコアは全音楽譜出版社のもの)。
また第2楽章は、別世界へと通じる森の奥深くのけもの道を、不安な気持ちで歩み進んでいる感じ(ぎゃぽぉ~、村上春樹の「海辺のカフカ」の世界!)。
終楽章は、ヴァイオリン協奏曲第1番とはまた違う興奮を引き起こす。
こちらの方は病弱な人たちの宴のような盛り上がり。ひじを強打したときに、すっごく痛いにもかかわらずなぜか笑ってしまう矛盾に満ちた感情表現にも似ている(そうか?)。
今日もヴェンゲーロフのヴァイオリン独奏、ロストロポーヴィチ指揮ロンドン交響楽団による演奏のCDを。
1996録音。apex(テルデック原盤)。
あぁ、ショスタコはいい……
いつもいつも、入れ替わり立ち替わり送ってくださる価値なきメール。
本日はこんなのをご紹介。
■+-+-+-+-+-+-+-+--+■
Hな逆援体験記
(独身OL 3万円編)
■+-+-+-+-+-+-+-+--+■
『寂しさをお金を出して
埋める色白美人OL』
【体験記を読む】
http://10eds.info/********
写メと同じく色白美人の仮名:さやかさん(25)と会いホテルへ、天然系美人というのだろうか。
普段はOLをしていて、彼氏がいないので休日はもっぱら出かけることが少ないと言う。
「3万円編」っていうのが、「高級レース編み」のようでなかなかよろしい。
でも「天然系美人」ってどんなんだ?
体験したというこの人物(文脈からたぶん男。ジャーナリスト風な表現を試みている単なるスケベな悪人)は、これまでに人工系美人に会ったこともあるのだろうか?それはどんなんだったんだろう?なんとかワイフみたいな女性だったんだろうか?
ってことで、つまらんな。
クラシック音楽では、“編”という場合は、誰々が編曲したということである。だいたいは。
例えば「望郷編」だったとしたら、望郷さんが編曲したってことである可能性を含んでいる。
今日はその代表例として、バラキレフ(Mily Alexeyevich Balakirev 1837-1910 ロシア)のピアノ曲「イスラメイ(東洋的幻想曲)(Islamey - Oriental Fantasy)」(1869/1902改訂)を、バラキレフの友人であり弟子だったリャプノフ(Sergey Lyapunov 1859-1924)がオーケストラ用に編曲したものを。……って、ひっどくマイナーな作品で、まったくもって代表例なんかじゃないんだけど。
だいたい、リャプノフなんて名前、ほとんどの人が知らないよな。私はお会いしたことがない。
こういうのの代表例ったら、ムソルグスキーのピアノ曲である「展覧会の絵」を恐ろしく見事に管弦楽編曲したラヴェルを取り上げるべきなんだろう。けど、今回そうしなかったのは、私の大いなる些細な気まぐれである。
イスラメイはカフカス(コーカサス)のカバルディノ地方とアドイゲイ地方のテンポの速い民族舞曲のこと。レズギンカ(急速な6/8拍子か2/4拍子で、同一の旋律を反復する。踊り手は周りからの掛け声手拍子で回転を繰り返す。ハチャトゥリアンのバレエ「ガイーヌ」のなかにある「レズギンカ」は有名)の一種である。
前に書いたように、バラキレフは「ロシア5人組」の指導的立場にあった人物だが、作曲面ではあまり功績を残すことができなかった。そんななかで、この「イスラメイ」は彼の代表作の1つである。
私が持っているCDはサロネン指揮バイエルン放送交響楽団によるもの。
このCDは「ロシア音楽コンサート」というアルバムで、“のだめカンタービレ”でマルレ・オケが復活を予期させる演奏をした、チャイコフスキーの序曲「1812年」も収められている。
とはいえ、私はその“のだめ”関連でこのCDを紹介し、そのときには「1812年」の演奏をけなしている(その気持ちは、いまも変わらず)。
「イスラメイ」の演奏の方はどうかというと、他に比較ができないので言いきれないが、「まあ、いいんでないかい」だ。
この曲、かつてはオリジナルのピアノ版を楽しんでいたが、オーケストラ版の方が面白い。のたぁ~っとしてるけど。
1984録音。フィリップス。
外山雄三(Toyama Yuzo 1931- 東京)の作品で、私が最初に聴いたのは「オーケストラのためのラプソディ」(1960)だった。
あの頃、岩城宏之がよくこの曲を取り上げていたような気がする。
実際、私も岩城の指揮で札響の定期演奏会で聴いたこともある。
「ラプソディ」は、日本人の魂を揺さぶってくれるような、血が騒ぐ曲である。
一時期私もずいぶんと聴きこんだものだ。
私も日本人ってわけさ。
しかし、あるときから全然聴く気がなくなってしまった。
なんというか、この曲、聴いていて妙に恥ずかしくなるようになったのだ。それは、地方のローカルテレビ局で、観たこともないようなへたくそというか、わざとらしいというか、いかにも安上がりなCMを目にしたときのような、恥ずかしさと冷めた笑いが同居する、あの感覚に似ている。
「ラプソディ」は日本の民謡をオーケストレーションしたメドレーだが、元の曲があまりにもそのまま出てくる。それが親しみやすく、大和魂をくすぐりもするのだが、もうそこまでやらないで、って気持ちになってしまったのだ(でも、聴きはじめると血液温度が上昇する)。
私は今になって気づいたが、この曲、まだブログで取り上げたことがないようだ。書かなきゃ……
外山の作品では、代表作とも言える「ラプソディ」に比べ、私はヴァイオリン協奏曲(第1番。1963)方がずっと好きである。
この曲は札響が初めて海外公演に行ったときにも持って行った(独奏は当時のコンサートマスターの佐々木一樹。一樹ちゃんはいまいずこ?)。
§
提示部を終わり、話はいったんエピソード部へと入る。
《偽りの妻であり、かけがえの無い子供の母ですが貴方の女にしてくれませんか?》
こんなタイトルのメールが来た。「かけがいの無い妻であり、偽りの子供の母ですが」じゃないだけ、まだ無視しきれない気がする(半分うそです)。
それにしても、スパムメールでは「あなた」を「貴方」と表記するものが多い。なぜだろう?文章書きの仕事を、高齢者何とか事業団みたいなところに委託しているんだろうか?
このメール。勝手に送りつけときながら、《【重要】yahoo及びybbアドレスを御利用のユーザー様は当メールの後半の案内も必ずご確認下さい》と、受信拒否されないよう手を打っているところが、けっこう丁寧な仕事に思える(最後の方に解除法と、ご親切なことにアドレス変更サポートのサービス案内まである)。
で、本文であるが、
《春になって花は咲いても直ぐに散るし、流行りもそんなに長くは続くものではないし、そういう波に乗って生きていくのも大事かなって思います。でも全員が同じ様な幸せを求めているかと言うとそうでは無いと思いませんか?結婚をしていて子供もいてそれなりに幸せかもしれませんが別の所に生きてるって実感を得る人もいると思うんです。。私みたいに。不謹慎なお願いごとかもしれません。私と不倫関係の割り切りのお付き合いをして頂けませんか?
↓↓続きを見る・返事を出すにはこちら【本文確認&プロフ確認&写真閲覧⇒☆無料》☆】》
……(以下略)ってもの。
句読点けっこうぐちゃぐちゃ。
「直ぐに」、「流行り」など、やっぱ高齢者何とか事業団の疑いは捨てきれない。
で、私が何を言いたいかというと、春になって遅ればせながらウチの庭のクロッカスもようやく咲いたということである。
§
クロッカスとサフランはよく混同される。
そのあたりのことは、前に書いた。違うものだということを。
そして、この文は劇的に展開部みたいな再現部のような輪廻の世界へと入る。
「新川和江の詩による歌曲集(Songs by the Poetry of Kazue Shinkawa)」。
外山雄三が1996年に書いた3曲からなる歌曲である(CDには書かれていないが別の本によると、この作品には「ひといろ足りない虹のように」というタイトルがついていると思われる)。
第1曲は「今はもう」、第2曲は「サフラン」(ほら、来たっ!)、第3曲は「なつのひょうが」となっている。
新川和江は戦争体験を持つ詩人で、その詩には女性の視線からの愛と自立が描かれているという。
第2曲の「サフラン」は、
さびしい人から
さびしさを引いた数だけ
サフランは ひらきます
と始まる。
おかしいな。じゃあ私のサフランは1つも咲かないはずなのに……
あっ、違うのか。
詩の最後は、
たくさんのさびしさよ
サフランとなって 咲きなさい
サフランと咲いて 癒えなさい
とあるから。どうりでたくさん咲いたわけだ。
切ない歌詞だが(良い詩だ)、外山の音楽はほのかな温かさ讃えており(ソフラン仕上げのようだ)、けっこうジーンときたりなんかする。
CDは「外山雄三オーケストラ作品集2」。
オーケストラはNHK響。この歌曲のメゾ・ソプラノ独唱は竹田弥加。
ほかに、交響曲第1番、第2番。チェロ協奏曲が収められている。
2000年のライヴ録音。フォンテック。
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