金曜日の夜は、北海道新聞社と北海道文化放送主催の豊平川花火大会があった。
アイゼンシュタイン氏と飲むために、私はいつもより早く会社を出てJR札幌駅に向かったが、あちこちで浴衣姿の女の子がうろうろしていた。
きっとこれから花火大会に行くのだろう。どう応用力を働かせても、あの格好でこれから大通ビアガーデンのバイトに行くとは思えない。
エスタの地下でモスバーガーを買っている子もいて、あらあら、きれいな浴衣をケチャップで汚してしまわないかしら、と神経質な母親のような気持ちになってしまった。
中には(少なからず)男の子と一緒のカップルもいて、どうして男の方は10人中10人が浴衣でないのかなと、自分だって着っこないくせに疑問に思ったりしたが、お若い方たちは、花火でデートなんて、まあいいですこと。
私はこれから、15分ほどJRに乗って、髭を生やしたプー太郎に会いに行くのだ。
それはそれで、楽しいけど。
私が若い頃は、デートで花火大会に行くなんて発想はなかった。
夕方に、好きな子の家に行き、その子の部屋の窓の下で、セレナードを歌うのが一般的だった。しかし私はそのようなことはしなかった。なぜなら、私には伴奏してくれる有能な友人がいなかったからだ。
あのころ、ギターでもマンドリンでも拍子木でもいいから、伴奏してくれる人がいたなら、私の恋も成就したのではないかと、いまさらながら残念に思う。
あらかじめアルフレッド氏には乗る電車を伝えてあったので、目的地の駅に降り立った時点で会う予定だった。
しかし、私には不安があった。
電車の時刻と行き先を電話で伝えたときに、「あのぅ、缶ビールとか飲みながら行ってもいいんですよね?」と、悪くはないが良いとは言えない考えを発したからだ。
函館とか網走とかに行くわけじゃない。
ごくごくまれに、しかもちょっと遅い時間なら、缶ビールを飲んでいる人もいるが、15分の乗車時間で、まだ17時台の電車である。もろ、通勤通学帰りの客で混み合い、座れる保証もない。そんな車内でビールを飲むなんて、あまりにも大胆すぎる。
そんな旅慣れていない、というか通勤電車慣れしていないアルフレッド氏のことが心配になって、私は電話した。
「いまどこ?」
「改札を通ったところです」
「8番ホームのいちばん後ろの車両に乗っているから、そこに来てくださいね?」
「はぁ~い」
まるで社会見学に行く児童のように嬉しそうな声で氏は答えた。
うれしさが私の携帯のなかから、黄色いゼリー状になって浸み出してくるんじゃないかと思うくらい、楽しそうな声だった。
が、ふつうならその2分後には姿を現すはずなのに、来ない。
もしかしたら、どっちが前でどっちが後ろかわからないんじゃないだろうか?
私はまたまた不安になって、過干渉な母親のような気持ちになった。
が、どうして時間がかかったのかは知らないが、彼はにやにやして現われた。
喜びを隠せないのだ。社会見学の。
自意識過剰のOLが、このときの氏の顔を見たら、きっと痴漢が痴漢行為を行なう前のプランニングをしているうちに想像が膨らみ過ぎて、にやけてるんだと思ったことだろう。
「アイゼンさんには到着時刻を伝えてあるの?」
「はい。先に店で待っていると言ってました」
プューッ!
アルフレッド氏は缶ビールを開けた。ではなく、電車のドアが閉まり、発車した。
目的の駅に着いた。
私たちは、「わざわざここまで来たんだから、アイゼンさんはきっと改札口に迎えに来てるよ」と予想したが、彼の姿は改札口にはまったく認められなかった。
アルフレッド氏は、この日の店の場所を知っていたので、2人で行くことにした。
アイゼンシュタイン氏は店で待っていると言うが、われわれの到着前に1人でビールを飲み始めていたら(大いにあり得ることだ)、ケツをつねってやろうと私は考えた。
店に入る。
数組の客がすでに飲食を楽しんでいた。
見渡す。
アイゼンシュタイン氏の姿はない。
アルフレッド氏が店の隅々まで調査する。
アイゼンシュタイン氏の気配はない。
私は青のリトマス試験紙を取り出す。
アイゼン反応はない。
来ていない……
店員さんが「お待ち合わせですか?」と聞いてくる。
アルフレッド氏は「い、いや、ええと、3人になるんですけど……」と、店員の問いに答えにならない答えを言い、私たちは奥のテーブル席についた。
「とりあえず、生2つ!」
こうして、私とアルフレッド氏の2人宴会スタートの花火が打ち上げられた。
→ 続く……
♪
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791 オーストリア)のセレナード第6番ニ長調「セレナータ・ノットゥルナ」K.239(1776)(Serenata Nr.6 "Serenata notturna")。
この曲については、前にコープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団のCDを取り上げつつ、作品について、および、私とこの曲との秘められた関係について書いたが、今日はテイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏を(1988録音。EMI)。
セレナードというのは「夕べの音楽」の意味で、「夜曲」とか「小夜曲」と訳されるが、夕方に恋人の窓下で歌われる器楽伴奏の情熱的な歌である(これで上に書いたことの意味が目からウロコとなったと予想される)。
また、18世紀後半における多楽章の器楽形式もセレナードといい、モーツァルトのセレナードはこれに属する。
セレナード第6番は、しかしながら楽章数は3つと少ない。
さらに特徴として、2vn、va、cbという独奏群の第1オーケストラと、弦楽とティンパニの第2オーケストラに分かれ、合奏協奏曲のような形をとっていること。管楽器が用いられていないこと。セレナードには珍しくティンパニが加わっていること、が挙げられる。
曲は非常に華やかで喜びに満ちているもの。
テイトの演奏は、コープマンのような鋭角的でアドリブをビンビン効かせたものではないが(コープマンのこの刺激がたまらない!)、こういう優雅な、いかにもモーツァルトでございますっていう演奏も、心を開放して聴ける安心感のようなものがある(退屈と裏腹という危険性も兼ね備えているかも)。
このCDは現在廃盤。
それにしても、「セレナータ・ノットゥルナ」というタイトル。
セレナータだけで「夜曲」なのに、なぜ同じく「夜」の意味のノットゥルナをつけたのか、そのあたりのことは不明である。
また、このタイトルを楽譜に書き込んだのは父のレーオポルトである。
July 2011
私の体重は現在67kgである。身長は174cm。
昨年は175cmだったのに、1cm縮小している。最近は地球の重力が少し強くなったのだろうか?
一方、体重の方は、一昨年は64kgだった。
このあたりがいちばん私には良い値なのだが、どうも腹周りが太くなってきた。
ここ数年で腹周りの引力が増したのだろうか?
メタボ検診ではOKと診断されているものの、多少でも腹が出てくるとズボンがきつくなる。
これはよくない。
ズボンのボタン(チャックの上の)に過度な負担をかけてしまう。
考えてみれば、そのボタン、最近は留めている糸が切れ、ボタンが取れかかるといった事象が増えているような気もする。
そこで私は決意した。
強い決意ではないが、一応願望として、強く抱くことにした。
腹をへこませ、腕に筋肉をつけ、足も丈夫にしよう、と。
一昨日は代休だったので、日中のガラガラのスーパーに行き、さらに店員がどーしよーもなく暇そうにしていた百均に行って来た。
まずはダンベルを見る。
すると0.5kgのしか売っていない。
あとは水を入れると1kgになるという、水を入れるといかにも水が漏れてきそうな商品しか売っていない。これなら、家に2つある1kgのダンベルを使った方がよさそうだ。
ということで、ダンベルは買わなかった。
なぜ家にダンベルがあるのかって?
考えてみれば私も知らない。
誰かが(見当はついている)、私を撃退するときの武器なのかもしれない。
たまたまそこで目についたのが、握力をつけるためのハンドグリップ。
5kg、10kg、15kg、20kg、25kgと売っていたが、どうせなら強いやつの方がいいだろうと、毒蛇のような赤と黒のシマシマグリップの25kgのものにした。問題はいきなり25kgのを握って、その反動で私の手がバラバラに崩壊してしまわないだろうかという点だが、その点は骨を鍛えるためにカルシウム錠を飲めばなんとかなるだろう。
それにしても、このハンドグリップが3個で私の体重より重くなると思うと、不思議な感じがする(真剣にとらえないでください)。
そのあとに、何となく縄跳びを買う。
縄跳びについては自信をもって言える。
絶対やらないだろう、買ったはいいが……
それから、全然トレーニングとは関係ないけど、靴の中敷きを買って帰って来た。
さて、ここで大きな問題が残ってしまった。
肝心の腹をどうするかだ。
腹筋はしたくない。尻が痛くなったら困るし。
楽して腹をへこませる魔法のような秘法はないだろうか?
♪
このところ2回ほど取り上げた、村上春樹の「おおきなかぶ、むずかしいアボガド 村上ラヂオ2」(マガジンハウス)。
そのなかに「『スキタイ組曲』知ってますか?」という章がある。
「スキタイ組曲」についてはこちらをご覧いただきたいが、このエッセイで書かれていることは、
① 村上春樹は古いアナログ・レコードを集めている。
② ある本に「スキタイ組曲」の話が出てくるが、それはマーキュリー・レコードのドラティ指揮ロンドン響の演奏で、録音が素晴らしいことで知られている。
③ 実を言うと、村上春樹もこのLPを持っている。
④ それはそれはぶっ飛びものです。
ということだ(誤解があるといけないので、ちゃんと元の文を読んで下されば助かります)。
マーキュリー・レコードの音は、確かにすごい。時に不自然なところはあるが、野蛮とも言える粗削りな迫力は、聴いていて快感である。
この「スキタイ組曲」は聴いたことはないが、私もCDではあるがマーキュリーのディスクを何枚か持っている。ドラティならば、このブログでも以前に、エネスクのルーマニア狂詩曲第1番を紹介した。
今日はマーキュリーのディスクから、パレー指揮デトロイト交響楽団による、グノー(Charles Francois Gounod 1818-93 フランス)の「操り人形の葬送行進曲(Marche funebre d'une marionnette)」(1873)を。
このディスクは「パレー/フランスの序曲と行進曲集」というタイトルのもので、他にマイアベーアやサン=サーンス、アダンなどの作品が収録されている。
録音は1959年および'60年であるが、今から50年以上前に録音されたものとは思えない生々しさがある。それがマーキュリーの録音のすごさだ(DECCAの音の良さとはまた質が違う)。
グノーの「操り人形のための葬送行進曲」がどのような経緯で作曲されたが私は知らないが、この曲が有名になったのは、アメリカで1955年から放送されたTV番組「Alfred Hitchcock Presents」のテーマ曲に使われてからだという。
この番組、日本では「ヒッチコック劇場」として1957、'63、'85年に放送されたという。
私はそんな有名な曲だとは知らずに、学生の頃に、エアチェックしたフィードラー指揮ボストン・ポップス管弦楽団の演奏を聴きながら「陰鬱ないい曲だなぁ」と、あまり前途ある青年とは言えないような感想を持って親しんでいた。
このような小品は、いざディスクを探すとなるとけっこう面倒で(いまではネットで検索できるが)、フィードラーの演奏が入ったカセットテープがくたびれたワカメのようになって聴けなくなってから、しばらくの間は耳にできないでいた。
その後ゲットしたのが、このパレー盤だった。
曲名はあまりなじみがないかもしれないが、実際のメロディーを聴くと多くの方が知っていると思われる。
恐るべし、ヒッチコック!(って、関係ないか……)
マーキュリーっていうのは水星のことだが、商業・盗賊・雄弁・科学の神の名でもある。
商業ってなると商売っ気丸出しの意味がこもっているようで嫌だが、だからといって盗賊ってことはないだろう。音が良いから雄弁とも考えられるが、同時に科学の結集の音とも解釈できる。
私にとってマーキュリーと言えば、頭に浮かぶのは水銀だ。
マーキュロクロムのマーキュロである。
マーキュロクロムなんて知らないって?
昔はどこの家の救急箱にも入っていた、赤チンのことです。
水銀が含まれているから販売中止になったわけです。
そういえば、最近救急箱って言葉自体、あんまり耳にしないな……
なお、昨夜のアイゼンシュタイン氏との夕食会の模様については、明日のBS……いや、このブログで詳細に報告する予定である。
札幌大通公園のビアガーデンも何日か前にオープンしたが、ご存知だと思うように、私はビアガーデンが苦手だ。
座席も通路もせまっくるしいし、夕方時は陽に当たりながらビールを飲まなくてはならず、涼しくならないどころかかえって汗が出てくるし、かといって雨の日なら最悪だし、それよりなにより、全天候時においてトイレが不便だ。
やはり、適度な室温に保たれた屋根も壁も窓もあるところで、適度な静けさの中、餌のようなものじゃないちゃんとしたおつまみを食べながら飲むのが、オール・シーズンに渡って安全・安心・安定的にビールを味わえる条件である。私には。
村上春樹の「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」(マガジンハウス)の中で、ビール好きの村上さんは、《世界中のあらゆる神様の前で正々堂々と宣誓してもいいけど、ビールは缶で飲むより、瓶で飲んだ方がはるかにおいしいです》と書いている。
これはある意味すっごく正しいが、ある意味間違っている。
村上春樹さんは、《家ではへこっという情けない音を立ててプルリングを開け、缶ビールを飲んでます》と続いて書いているが、ここが重要(余談だけど、私はリングプルとは言うがプルリングという言葉はここで初めて知った。カッコ良いのでどこかで使ってみよう。でも、酔ったときはやめておこう。「プルルン」と言いそうだから)。
なんでかというと、この記述からでは、村上さんはプルリングを引き、へこっとしたあと、缶から直接飲んでいると思われるからだ。
それだと不味い。
缶から直接飲むビールほど不味いものはない。
瓶ビールはほとんどの場合、グラスに注いで飲む。
だから美味い。
というよりも、本来の味が楽しめる。つまり適度に泡立つから。
しかし、缶ビールをそのまま飲むと、泡立たない。
炭酸ガスが過飽和的にビールに溶け込んでいる。だからといって、すっごく炭酸がきついわけでは全然ないが、泡のないビールはとにかく不味い。
缶ビールもちゃんとグラスに注いで飲むと、瓶ビールと同じく美味しいのだ。
私はよほどのことがない限り、必ずグラスやコップにちゃんと注いで缶ビールを飲む。
よほどのことがあった場合は、涙を飲みつつ、缶から直接ビールも飲むが、涙が混じったビールはさらに不味い。というか、よほどのことがあったら飲まなきゃいいのにと我ながら思う。
ただし、1/4ぐらい飲んだあと、缶の底を指で何回かコンコンとはじいてやると、少し泡立つのでいくらか美味しくなる。
缶から直接飲むと、アルミ臭さを感じるのも不味さの1つだろう。
やっぱりグラスに注いで飲みましょう。
逆に、バドワイザーなど瓶から直接飲む飲み方だって、ちょっとおしゃれっぽいが、さして美味しくない。
瓶でも缶でも、とにかく泡立たないとビールはおいしくないのだ。
ところで、ウチの庭には、その花がビールの原料となるホップを1株植えてある。
かなりぞんざいな扱いをしていて、まったく手入れしていないが、かなり強健な植物で毎年ちゃんと実をつける。
まだ時期的に小さいが、今年もこのように苞をつけている。
ホップ(Hop)は和名をセイヨウカラハナソウと言うクワ科の多年草。北海道の山林にも自生している。雌雄異株。
私は園芸店で苗を買ったが、別にビールを作るわけではない。そもそもどうやって作るというのだろう?
新芽は美味しいらしいが、ざらついた茎や葉を食べる気にはなれない。
それはともかく、クラシック音楽の中では“麦酒”という文字がタイトルに含まれている作品ってないんじゃないだろうか?少なくとも私は目にしたことがない。
ブルックナーは大のビール好きだったというが、彼の行ったり来たり、上がったり下がったり、進んでるような停滞しているような、そんなシンフォニーは、ジョッキに注がれたビールの気泡の動きに例えられなくもない感じがする(これ、いまふと思いついただけ。なんら根拠はありません)。
今日は酒の神を讃える作品。
イベール(Jacques Ibert 1890-1962 フランス)の「バッカナール(Bacchanele)」(1956)。
洋酒が入ったチョコレートで“バッカス”という商品があるのをご存知だと思うし、ご存知ないかもしれないが、ススキノにはバッカス・ビルってーのがあるように、バッカス(バッコス)というのは古代ギリシャの酒の神である。
そして、バッカナールというのは、バッカスをまつる放埓な祭りだそうである。
イベールの「バッカナール」は、イギリスBBCの記念事業のために委嘱された作品。
いかにも激しい酒宴という感じの躍動的な音楽。かつ、ある種の厳粛さみたいな表情も持っている。間違いなく言えることは、この音楽は私の酒の飲み方とは違う種類のもの。この破壊的様相は、アイゼンシュタイン氏の飲み方にやや通ずるものがある。
私はこれまで、デュトワ/モントリール響(1992録音。デッカ)と、佐渡裕/ラムルー管弦楽団(1996録音。ナクソス)の2種のCDを聴いてきた。
この2つ、両方ともなかなか良い演奏だが、特にデュトワ盤の方は、新入生歓迎コンパのごとく緊張をはらんだ狂気的酒宴の様相を呈していて、聴いている方も二日酔いになってしまいそうな力演である。
しかし、今の私は先日買った廉価盤に入っている、フレモー指揮バーミンガム市交響楽団の、少し肩の力を抜いた演奏が、“お気に”である。
バッカス様を讃えると言っても結局のところは自分たちがベロベロに酔っ払うという感じではなく、とにかく楽しく飲もうぜって感じがいい。私ももう若くないんだから、デュトワ盤的演奏のような飲み方をしていたら毎朝ゲロゲロ、オエオエしなくてはならないが、フレモーの演奏ならまだ少しは爽快に目覚められそうだ。
って、どーも論点がずれている気もするが、フレモーの演奏は1975録音。EMI。
で、今日の夜は久々にアイゼンシュタイン氏と酒を飲む。
アルフレッド氏立ち会いのもと、アイゼン氏の自宅近くで飲むことになっている。
って、あの辺りに飲むところなんてあったかな?
まさか、自宅で居酒屋(テーブル席1つだけの)を始めたわけじゃないだろうな……
おっ、そうだ!うずらさんの本をアイゼン経由で返さなきゃ……
宮部みゆきの「チヨ子」(光文社文庫。2011年7月20日初版第1刷)。
「個人短編集に未収録の作品ばかりを選りすぐった贅沢な一冊!」というキャッチフレーズ。「いきなり文庫で登場!」という煽り!
当然買いました、私。帯広駅の弘栄堂書店で(ということは、先々週の話だ)。
収められているのは、「雪娘」、「オモチャ」、「チヨ子」、「いしまくら」、「聖痕」の5作。
幽霊だ出たなどの、宮部みゆきが得意とする“超常現象”を絡めた作品群である。
私は、全体に切なさが漂う「雪娘」や、ユニークな視点から書かれた表題作となっている「チヨ子」が特に気に入った。
気になる方は、ぜひお読みください。
私はこれ以上は言えませんです。
幽霊という言葉でふと思い出したのは、私の子供のころにTVで放送されていた「宇宙怪人ゴースト」というアニメ番組。
このアニメを楽しみに観た記憶はまったくない。
そもそも、全然面白いと思わなかったし、ヒーローである“ゴースト”がちっともかっこよくないどころか、気味が悪かった。
だって、宇宙の怪人・ゴーストですよ!
スペースの怪人・幽霊なわけですよ!
ひっどくない?
これは「墓場の骸骨・ゴースト」とか「アンテナの不具合・ゴースト」とか、何でもできそうな安直なネーミングだ。
私は記憶しているのはたぶん再放送のものだったと思うが、歌も変だった。
で、今回ネットで調べてみたら、
ゴースト、ゴースト、ゴーゴー、ゴースト
限りない宇宙に
限りないエネルギー
宇宙怪人ゴースト
戦えば勝つ、必ず
……
ゴーゴーって、幽霊怪人、いや失礼、怪人幽霊をどこに行かせようって言うんだろう?
しかも、必ず勝つんだそうだ。
しっかし、どういう発想で作られたキャラだったんだろう?
さて、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のピアノ三重奏曲第5番ニ長調Op.70-1「幽霊(Geister)」(1808)。
「幽霊」という通称は、この曲の第2楽章の陰鬱な楽想からつけられたというが、そんな震え上がるほど怖い音楽ではない。
というよりも、作品そのものと“幽霊”との間に関係はまったくない。
私が持っているCDは、アルゲリッチ(p)、キャプソン(vn)、マイスキー(vc)による演奏のもの。2007年ライヴ。EMI。
アルゲリッチの室内楽作品集に収められているものである。
釧路に行ったときに思った。
伊福部昭の「釧路湿原」をウォークマンに入れてくればよかったな、と。
関係ないけど、カラスが2羽も道路で轢死していた。
釧路のカラスは鈍いのか?
チヨ子……。ロイズはチョコ。
ごめんなさい。深く反省しています。
おととい。
旭川からの帰りに乗ったスーパーカムイ(789系ではなく785系の車両だった)。
乗車前に中途半端に時間があったので、一緒だった御一行とビールを飲んでしまったが、そのせいで、私は乗車後すぐにトイレへ行かざるを得ない状況になった。
これが、私に重大な仮説を立案するきっかけとなるとは、他の乗客の誰一人として気づかなかったことだろう(関心がない、と言い換えることが可能)。
列車の男用(もちろん小用に限る)トイレに入ると、そこには当然のことながら小便器があり、揺れに備えるために手すりも備え付けられていた。
ほら、ご覧なさい。
これがその写真だ。
なんでこんな写真撮ってくるんだって?
先に書いたように、実はこれが、世の定説を覆す重大な事実を示しているからだ。
かなり前に、どこかの学者が新聞に書いていた、「世の男のほとんどがオシッコをするときには左手を使う」という説を紹介した。しかも、小便小僧なる偶像のほとんどが(全部かもしれない。あいにくわが家にも、わが会社にも小便小僧を飾る余裕がないため、すぐに確かめられない)、左手でチンチンを持っているという。
しかしだ。
私は必ずといっていいほど、右手で持つ。聖なるアレを。
じゃあ、私はあまのじゃくなのか?
あまのじゃくでこんなことしてられない。
ごく自然に右手で構える。
「放水よぉ~し!」
でも、先の説によると、私は異質な存在ということになる。
しかしだ。
この写真を見ていただきたい。
におってくるぐらいまで凝視していただきたい。
手すりがあるのは向かって左側ではないか!
つまり、左手で手すりをもちながら、右手で構えるというのが当たり前として設計されているとしか考えられない。
まさか、左手でチンチンを持ち、右手で手すりを掴むなんていう、クロス技を繰り広げなさいということではあるまい。
ということは、あの学者(だか医者)の説は本当に正しいのか、はなはだ疑問に思えてくる。
これを読んでいる人の中で、JRに勤めている人がいたなら「左側に手すりがあってもまったく役に立たない」という苦情が寄せられているのかどうか、ぜひ教えてほしいものだ。
ということで、「右手の会」に所属する私(会員は会長兼務の私1人)にも、少し勇気がわいてきた。この仮説、なかなかいけるかもしれない。
とくれば、左手にちなんだ音楽である。
ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は、ブロックとアースと、このところ立て続けに書いたので、今日はプロコフィエフ(Sergei Sergeievich Prokofiev 1891-1953)のピアノ協奏曲第4番変ロ長調Op.53(1931)。この協奏曲も「左手のための」作品である(もちろんピアノが)。
プロコフィエフのピアノ協奏曲第4番は、ラヴェルの左手のためのコンチェルトと同じく、第1次世界大戦で右手を失ったオーストリアのピアニスト、ヴィトゲンシュタインの依頼で作曲されたもの。
しかし出来上がったコンチェルトを見たヴィトゲンシュタインは、「この曲は理解不能!」とし、ついぞ演奏しなかった。
結局、初演はプロコフィエフの死後になって、第2次世界大戦で右手を失ったドイツのピアニスト、ジークフリート・ラップによって、1956年に行われた。
ヴィトゲンシュタインは「理解できない」と言い放ったが、でもさ、もしかすると、いや、たぶん、この曲が難しくて弾けなかったんだろうと思う。実のところは。
ラヴェルのときもけっこうメタメタだったらしいし……
曲は4つの楽章から成るが、第1楽章は前奏曲のようなものであり、また第4楽章は第1楽章の凝縮版のような音楽であり、中央の2つの楽章がいわば山場。
私に言わせれば、この協奏曲は「理解微不能」である。というか、どうも親しくなれない。相性が悪いっていうんでしょうか?お互い、理解し合えないとでもいうんでしょうか?心の底から受け入れることができないんです……
私が持っているのは、アシュケーナージのピアノ、プレヴィン指揮ロンドン交響楽団による演奏のCD。1974-75録音。デッカ。
なお、本作品については、私は他の演奏のCDを持っていないし、他の演奏を聴いたこともないが、この演奏、悪くはないと思っている。が、ピアノの音が痩せ気味に録られている。
ところで、世の中に小便小僧があるというのに、なぜ大便小僧とか、さらに概念として広く大小を網羅する概念の“用便小僧”なるものが存在しないのはなぜだろう?
いや、あっても見たくないけど。
先日ツイッターでこんなことが書かれていた。
「今年は特別な年。生まれた西暦年の下2桁と今年の年齢を足すと、必ず111になる」
例えば、1975年生まれの人は今年36歳になるが、75+36=111。
あるいは、1990年生まれの人は今年21歳で、90+21=111。
おぉ、すっげぇ~!不思議ぃ~っ!……って、そんなに驚かないこと。
生まれ歳が遅ければ(つまり下2桁の数字が大きくなれば)、今年の年齢の値は小さくなる。
だから、足すと一定の値(今年の場合は111)になるのは、当たり前。
驚くべき現象と思う必要は、これっぽっちもない。
例えば、去年を考えると、1975年生まれだと35歳で、75+35=110。
1992年生まれだと18歳で、92+18=110。
ということで、必ず110となってしまうという“不思議な結果”となる。
このツイートを最初にした人が誰かはまったく知らないが、どういうところが「特別な年」と思ったのだろう?111というぞろ目だからだろうか?確か、1並びで震災から再スタートの年なんだ(あるいは、今年の1並びは、再スタートが運命づけられていた)、みたいなことを書いていたような気もする(はっきりは覚えていない)。
こういう話題には私は疎いので知らないけど、例えば足して100になった年、2000年にもこういう話がどこかで盛り上がったんだろうか。
2000年なら、1976年生まれの人は24歳で、76+24=100。1965年生まれなら35歳だから、65+35=100。おお、20世紀最後の年にふさわしい、切りのいい数字だわい。
その前年は、1999年で、1978年生まれなら21歳。78+21=99。1954年生まれなら45歳だから、54+45=99。
おお、こちらの方が何か意味ありげな不吉な数字だ。
つーか、この計算は必ず、その年の下2桁と計算結果の下2桁が一致するのだ(2011年なら11、2000年なら00)。
ちなみに、来年2012年の場合、例えば1981年生まれの人は31歳。1987年生まれなら25歳。
それぞれ、81+31=112、87+25=112で、見事なまでに、みんな112となる。
なお、2000年以降に生まれた人は、結果は2桁になる。今年の場合、2000年生まれの人は11歳で0+11=11。2005年生まれの人は6歳で、5+6=11。今年生まれた子は11+0で11。
う~ん、これは再スタートの年だという“おしるし”だと信じ込んでいる人もいるっていうのに、こういうこと書くのって、夢や希望や情緒がなさすぎるかな……。申し訳ないっす。
では、お詫びに、111にちなんで、本日はショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)が1960年にL.O.アルンシタム監督の映画のために書いた作品、「五日五夜(Five days - Five nights)」Op.111。
Op.110の弦楽四重奏曲第8番とOp.112の交響曲第12番に挟まれて作曲されたこの映画音楽、なんとなくショスタコっぽくない響きがする(私が聴いているのは映画音楽から5曲を選んで作られた組曲版)。
いや、この音楽、なかなかの人でないと書けないような音楽だが、しかし、なかなかな人であるショスタコーヴィチの作品にしては、彼独特のスカスカ感がない。皮肉っぽさも薄い。
ソヴィエト軍によってナチスからドレスデンを解放したという内容の映画らしいが、うん、言われてみればドイツ的響きを意識しているようにも思える。
だいたいにして、「歓びの歌」(ベートーヴェンの「第九」の)が、恥ずかしげもなく高らかに響き渡るくらいだし……
聴いてる方が恥ずかしくなる感じ。
にしても、やっぱりショスタコのオーケストラ曲らしくない。響きが。
映画音楽を組曲にしたときのアレンジの問題だろうか?
それだけじゃないな。
また、メロディーの魅力にも欠ける。でも、やっぱり一級の作曲家による作品であることは確かであることは聴いていて、わかる。
たぶん絶対、ショスタコ、何かよからぬことを密かに考えながらこの曲を書いたに違いない。
CDはJudd指揮ベルリン放送交響楽団によるものをご紹介しておく。
1990録音。CAPRICCIO。
カップリングは、けっこう楽しい映画「新しいバビロン」の音楽。
職場の女性社員(という言い方は変だな。職場には通常なら女子高生はいないから)が結婚した。
とてもおめでたいことだ。
ほんの気持ち程度ではあるが(いや、気持ちは大いにあるのだが、現実的基準に甘んじ)、お祝いを包もうと熨斗袋(“のしぶくろ”を漢字で書くと、このように軟体動物の一種のような表記になる)に“御結婚……”と書こうとしたとき、「おやおや、これは無理に誤読すれば“おけっこん”になるな」と気づいた。
“おけっこん”
急いで0.3秒で言えば“おけこん”
カタカナで書けば“オケコン”
“オケコン”と言えば、バルトークの“コンチェルト・フォー・オーケストラ”の、あまり品が良いとは言い難い略した呼び名だ。
”御結婚”を“おけっこん”と読むなんて、あまりに強引で作為的すぎると、私に攻撃的な目を向ける人もいるだろうが、じゃあ“御香典”は“ごこうでん”とは読まないじゃないか!、と私は開き直ることも可能である。
まあ、いい。
むなしい議論はやめようぜ、みんな!
ということで、ラトル指揮バーミンガム市交響楽団による、バルトーク(Bartok Bela 1881-1945 ハンガリー)の「管弦楽のための協奏曲(Concerto for Orchestra)」Sz.116(1943)を聴いてみた。1992録音(ライヴ)。
かっこいい演奏だ。
かっこいいといっても、知的な振る舞いを思わせるカッコよさ。
バルトークという作曲家にふさわしい(なんせ、スコアに演奏時間の指示があるのだ=掲載譜。これは第2楽章の終りの部分。スコアはBOOSEY & HAWKES社のもの)、緻密に計算された感じの演奏。とはいえ、ブーレーズのような、実験中みたいな一歩間違えば面白みがなくなりそうな、そっけなさはない。
知的生物風ラトルの熱い演奏とでも言えようか?熨斗袋的イメージとは違う。
実は私、このCD、あんまり期待しないで聴いてみたのだが、いやぁ、いいもの聴いた!って、まるで秘密の噂話を耳にしたときのような喜びを感じてしまった。
儲けものと言えば失礼になっちゃうが、同じくこのCDに収められている「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽(Music for strings,percussion and celesta)」Sz.106(1937)も良かった。なお、こちらは略して“弦チェレ”という。言葉の響きは“原チャリ”に似ているが、似て非なるものだ。
“弦チェレ”の演奏は、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によるもので、1978録音。
オーマンディというと、レパートリーが広くて、ファミリーレストラン(略せばファミレスだ)のような印象がある。
つまりは、クラブサンドイッチからサーロインステーキ、天丼にビーフカレーに広東麺とレパートリー(メニュー)が豊富で、しかもどれもそこそこの水準を維持しているというもの。
でも、本気でサーロインステーキを食べようと思ったらステーキ屋へ、真剣に広東麺を味わいたければ中華料理屋へ、食べ終わった後に胸焼けしない天丼を食べるには天ぷら屋へ、芸術的なクラブサンドイッチを食べたければクラブサンドイッチ屋(ってあるのかね)に、ビーフカレーを堪能したければリトル・スプーンへ行くように、私にとってオーマンディには決定盤なるもの、つまり「この曲はオーマンディに限る!」っていうのがない。
そういうイメージだったので、この「弦チェレ」はうれしい予想外。
アンサンブルは緻密で美しい。にもかかわらず、こんな厳しい曲なのに聴き手に妙な圧迫感を感じさせない。
それは、この演奏全体に漂う適度な優しさじゃないかと思う。
“弦チェレ”でこういう演奏に出会ったのは初めて。とても好感を持った。
オーマンディのこの演奏が私にとっての「弦チェレ」の決定盤になるかどうかはわからないが、これまで聴いた中では最高位近辺に属する。
このCD、2枚組で(現在は)1,000円しないので、ちょっとそそられた人は騙されたと思って聴いてみて欲しい(騙されたと痛感しても、ワタシハ知ラナイ)。レーベルはEMI。
ところで、クラシック音楽作品の略だが、よく聞くのはメンコン。コンタクトレンズの行き来の多い親戚のような名前だが、これはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(コンチェルト)のこと。
メンデルスゾーンにはピアノ協奏曲もあるが、そちらをメンコンと呼ぶことはない。
チャイコンはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だが、同じく有名なピアノ協奏曲第1番をチャイコンと呼ぶこともある。そのときの空気によって高度な判断が求められる。
オケコン、弦チェレは上に書いたとおりだが、バルトークの「2台のピアノと打楽器、管弦楽のための協奏曲」を“バニコン”と呼ぶことはないし、プロコフィエフの何らかの協奏曲を“プロコン”と、玄人のど根性のように言うこともない。ましてや、ショスタコーヴィチの任意のコンチェルトを“初婚”だなんて言っちゃいけないですのよ。
なお、今回結婚した職場の女性は、もちろん初婚であることを申し添えておく。
タイトルに「おぉ月曜日」と書こうともくろんだが、きっとみんな私のことわかってくれないだろうし、でも“オーマンディ”とそのまま書くのはなんとなく工夫に欠けると思い「おぉマンディ」と、折衷案に甘んじてしまった。
結論を言おう。
「これは失敗だった」
土曜出勤が急に決まった昨日。
朝、どうしてもタプカーラ交響曲が聴きたくなり、朝にふさわしいかどうかはともかくとして、伊福部昭(Ifukube Akira 1914-2006 北海道)の、ちょっぴり切ないこの「タプカーラ交響曲(Sinfonia Tapkaara)」(1955/改訂'79)を聴きながら通勤した。
土曜日の電車はすいていて、少なからずうれしい。
なんだかすっごく気楽になる。乗車時間がもっと長ければ冷凍ミカンでも食べるところだ(My town駅のキヨスクには売ってないのが残念だ。ということにしておこう)。
だからといって、毎週土曜日に出勤したいという意味ではまったくない。
平日の朝もこれぐらいすいていれば、客としては通勤が楽しくなる、っていう起こり得ない想像をしただけ。
この日聴いた「タプカーラ」は、原田幸一郎指揮による新交響楽団のもの。1994年、東京芸術劇場でのライヴ録音。
怒涛のような井上道義盤や、都会的な匂いもちょっとするけど繊細な切なさが漂う芥川盤と比較すると、原田氏の演奏は丁寧だがどこか物足りない。これっていう特徴がないって言うんでしょうか……
♪
村上春樹の新刊「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」(マガジンハウス)を買った。
2009年秋から翌年春までの期間、“anan”(「アナン」じゃなくて「アンアン」。あなたはドラえもんのこと、とっても大好き?)に連載されたものを加筆修正してまとめたものである。
このなかのエッセイの1つに、村上春樹は次のように書いている。
よほどの必要がない限り、自分の書いた本を読み返さない。手にも取らない。なぜかというと恥ずかしいから。……(中略)…… だから自分がどんなことを書いたのか、指の隙間から砂がこぼれ落ちるようにさらさら忘れていく。
それはまあかまわないんだけど、何を書いたか思い出せないために、時として同じことを二度書いてしまったりする。べつに古いネタを使い回しているわけじゃなく、物覚えが悪いだけ。だから「それ、前も読んだよ」ということがあっても、裏山の猿と同じだと思って(これも前に書いたな)笑って赦してやって下さい。
私も過去記事を読み返すことはない。
だから自分で書いたことを、雨水溝に流れ込む雨水のようにドボドボ忘れていく。
過去記事にリンクするために、自分で自分の記事を検索して探しているくらいだ。記事がヒットしたそのときも、内容なんてじっと読み返したりはしない。だって、恥ずかしいから。
しかも、検索してもうまくヒットしないこともある。探し出せないのだ。
だから、前に書いたことが老人の自慢話のように何十回も繰り返し出てきても、庭にやってくるセイヨウマルハナバチと同じだと思って見逃して下さい。
注)セイヨウマルハナバチは外来種で、駆除しないとまずかったような……
いや、繰り返すのならまだマシで、同一曲の同一演奏について、過去には「甘美で夢うつつになるようなソフトタッチの演奏」と書いておきながら、次のときには「感情を極力排した緊迫感に満ちたエネルギッシュなアプローチ」って書いてしまうことがあるかもしれない。
これは、どちらかが正しいとか、どちらかがうそつきだという問題ではなく、自己成長と人は言う(か?)。
まっ、あまり警戒しないで下さい。そこまで極端なことはないから(たぶん)。
それにしても、天下の村上春樹さまが「時として同じことを二度書いてしまったりする」と宣言してくれているのだ。
死ぬ前日のカゲロウのような、超弱小かつ病弱な私にとって、なんて心強い言葉だろう。
で、「タプカーラ交響曲」のあとに、久々に「オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』(LAUDA CONCERTATA per Orchestra e Marimba)」(1979)を聴いた。
「ラウダ・コンチェルタータ」は私が伊福部昭に熱狂するきっかけとなった作品。
今回聴いたのは安倍圭子のマリンバ、石井眞木指揮新交響楽団による1993年のベルリンでのライヴ。
で、なんで私がわざわざ村上春樹氏の文を持ち出したかというと、このCDのことを書いたかどうか追跡しきれなかったから。
まぁ、実際のところは過去記事を検索して探すのが面倒になっただけなんだけど、発想を転換して、「書いたかどうか本人が覚えてないんだから、読んだ人も99%覚えていないに決まってる」と断定することにした。
「ラウダ・コンチェルタータ」の演奏では、LP時代から出ていた初演時のライヴがすごいが、これはちょっとマリンバの力が入り過ぎというのと、マリンバの音が悲劇的に悪い。どちらも録音のせいだと思う。
その点、このベルリンライヴは、マリンバの演奏も情感豊かで、さらにオーケストラの音も柔らか。録音も良い。
ということは初演ライヴに比べると、当然のことながら少しお上品ってことになるが、どっちが好きかはもう好みの問題。音楽性が高いのはベルリンライヴの方、熱気と迫力なら初演時ライヴだ。
さてと、今日は旭川に日帰り出張である。
昨日予告したように、昨日は代休で休みだった←書いてることは間違っていないが、異様にくどい!
朝起きて、朝ごはんを食べ、そのあと着替えて、「よし、11時までに庭の枕木にクレオソートを塗ろう」と決意した。
晴れてはいたが、まだ8時前のせいか、カンカン照りではなく、しかも、適度に風が吹いていて、独特な刺激臭のあるクレオソートを塗るには、適した天気だと思った。← 、が多い!
ご覧いただきたい。
わが庭では花壇、というか栽培エリアは枕木を埋めて仕切っている。もちろんこのような作業を非力な私ができるわけがない。10年ほど前にガーデニング業者に注文したものだ。
で、何をご覧いただきたいかというと、先日も訴えたように、クレオソートが発売中止となったあと、枕木は、投げやりになった私によって、枕木らしい色に塗られることなく、あまり人の来ない自然公園の遊歩道の柵のような色になってしまっていた。
上の写真がその悲しげなBeforeの状態である。
成分を見直した安全度の高いクレオソートがあることは知っていたが、ホーマックで現物を発見したときの私の喜びは、皆さんにはわからないだろうと思う。
小学校のときの初恋の相手に再会したような気持ちになった、というのはうそだが、にわかにガーデニング魂・枕木部門が揺さぶられた。
それほど、同じ効果があるというケミソートには期待を裏切られたのだ。色が出ないし、クレオソートのような全幅の信頼を置けるような匂いもしないから。
私は長袖、長ズボン、帽子、ゴム手袋といういでたちで、作業に取りかかった。
ただひたすら塗るのはさすがにしんどい。だから、音楽を聴きながら、書道甲子園のように刷毛を操った。
何を聴いたかって?
もうタイトルに書いちゃったけど、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第2番ハ短調「復活(Auferstehung)」(1887-94/改訂1903)。
もちろん、枕木の外観の色と防虫効果が復活することを願っての選曲だ。私は案外、こういうどーしよーもなく単純でかわいらしい発想をしてしまう。
こうして過激な成分を抑えた新クレオソートを塗ったところ、ほうら、なんということでしょう!、疲れ果てた枕木は本来の輝きを取り戻し、わがもの顔で闊歩していたアリたちは大慌てで退散していったではありませんか!これなら、万が一、庭に砂糖をこぼしても安心に過ごせます、ってな具合になった。
こうして、Afterは2番目の写真のようになった。
ほぼ枕木全体に塗ることができたが(3番目の写真から勝手に想像して欲しい)、最後はクレオソートが足りなくなってしまった。
う~ん、また買わないと……
で、今回聴いたマーラー/第2交響曲は、テンシュテット指揮ロンドン・フィル、マティス(S)、ゾッフェル(Ms)、ロンドン・フィルハーモニック合唱団の演奏によるもの(1981録音。EMI)。
この演奏に関しては、以前ライムンドさんがブログで感想を書いてたが、私もライムンドさんと同じような感想をもった(私、決して手を抜いているわけじゃありません)。
テンシュテットの演奏は、どこかの箇所で「んっ?これは斬新!」とか「刺激的!」と感じるところはあまりない。
どこかのフレーズで風邪のひき始めのように急にゾクゾクするわけでもない。
いわば“ふつう”に流れていく。なのに、なんとも言えぬ大きな感動を与えてくれる。
そう、大きいのだ。
その全体の渦が私を覆う。
ひとつ不思議なのは、他の演奏を聴いているときにはそんなことはないのだが、テンシュテットのこの演奏の第3楽章になると、ベリオの「シンフォニア」の第3楽章が頭の中でかぶってくる。
ベリオのこの音楽は、マーラーの第2交響曲第3楽章を下敷きにしたコラージュだが、マーラーのオリジナルを聴いているときに、ベリオが施した音響、特にヴォーカルが逆流のようによみがえって来る経験は、ほかの演奏ではない。
なぜだろう?
そんなこと聞かれてもわかりませんよね?ごめんなさい、変なこと聞いちゃって。あなたを困らせる気はなかったんだけど……
テンシュテットのマーラー交響曲全集は、ここに載せた10枚組セットは取扱終了。しかし、これらの演奏に他のライヴも加えた16枚組のセットが出ている。しかも、3000円ほど。
まいるなぁ~。重複するから買うのはしゃくに障る。けど、3000円だからなぁ。
さて、クレオソートを塗り終え(というよりも、買ってあった1缶分のクレオソートがなくなり)、今度はバラの剪定。
庭のバラはシーズン最初の開花ピークを終えた。
まだ、少し残っている花のあちこちに、食われた痕が……
そう、にっくきコガネムシである。
バラの花を食うコガネムシ……
バラの葉を食うコガネムシ……
バラの花の中で馬乗りになって交尾しているコガネムシ……
コガネムシの飛来を予防することは難しい。
薬を散布しても、奴らはやって来る。
私は見つけ次第アースジェットを吹きかける。
奴らはスプレーガスに驚き、後ろ脚をピョンを上げるが、やがて静かに苦しみ出し、死ぬ。
ゴキブリ専用のスプレーだったら即効なのだが、北海道ではコックローチなどのゴキブリ用殺虫剤はほとんど売っていない。北海道では、ゴキブリは特殊な場所にしか生息していないという、北海道の特殊事情によるためだ。←ごめん。特殊な書き方して……
それで困っていたのだが、アースジェットの缶をよく見ると、効能として「ハエ、蚊」と書かれた後に、「ゴキブリ」と小さな文字で書いてあった。おそらく、すっごく効くわけじゃないが効果はあるということだろう。ゴキブリに効果があるのならコガネムシにも効くはずだ。
それで試したら、うん、大丈夫。コガネムシにはちゃんと効く。
さきほど書いたように、コックローチのように瞬間死ではないが、わずかでも直接噴霧すると、奴らはどこかへ逃げ去る力もなくお亡くなりになる。
1匹ずつシュッシュッするなんて、暇人だと思われるかもしれないが、そしてコガネムシを退 治するとコガネ持ちになれないと忠告したいかもしれないが、私はにっくきコガネムシを見過ごすわけにはいかない。
殺りく行為を終え家に入ろうとしたら、玄関ポーチ横の“アンジェラ”(つるバラである)を誘引しているラティス・パネルの上に、カエル君が2匹、縦列休憩していた。
縦列といっても、適度な距離を置いてあり、その様子は、自動制御によって適度な距離を置いて走行している名護パイナップル・パークのパイナップル号を思い出させた。
あんまりかわいいのでいろんな角度から写真を撮ってしまった。
この2匹、夕方になっても同じ場所にいた。
喉というかあごというか、そのあたりがピクピクしているので生きていることは間違いない。いや、きっと元気なぐらいだろう。おとなしくじっとしている様子は、スーパーで「アイスを買ってぇ~」と絶叫している幼児よりも、知的に見えた。
そうそう、昼に車検のために車を取りに来てもらった。
エンジン音が大きいことについて伝えたが、調べてもらって夕方きた電話では「まあ、年数が経ったための摩擦音です。すぐどうにかってことはないと思います」ということだった。
歳をとるに従ってうるさくなるなんて、どこかのばあさんに共通するところがある。
もう古い話になってしまうが、“なでしこジャパン”がアメリカに勝った日のこと。
昼過ぎに、自宅の廊下で、妻が突然大きな声を出した。
何が起こったのか?
とらとら?
いや、どらどらと、恐るおそる様子を見に行くと、トイレの入り口で右足のつま先を押さえてうずくまりながら、苦痛の泣き笑い状態だ。
どうやら足を強打したらしい。
どこに?
ドアを開けトイレに入ろうとしたときに、何を思ったのか(いや何も思ってないから)ドアのところの柱を不用意に、しかも思いっきり蹴る形になったようだ。目測を誤ってガラスに激突したスズメのようなミスだ。
決して“なでしこジャパン”に対抗しようとしたわけじゃないらしい。
にしても、人間てすっごく痛いときにどうして笑いが出てくるのだろう?
不思議だね、先生(←NHK教育TVの理科教室の先生に問うている。もう、あの番組やってないのでしょうか?)。
で、右足を痛めたそんな妻の話は終わりにして、戦争で右手を失ったピアニストのための作品。
ここで、ピンッ!ときた人はなかなか感度が良いと思う。
あるいは、上の写真ですでに読みを働かせていた人は、なかなか目ざといと言える。
先日も取り上げた、ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937 フランス)の「左手のためのピアノ協奏曲(Concerto pour la main gauche)」(1929-30)。
今日はフランスの女性ピアニスト、モニク・アースのソロによる演奏。
モニク・アース(Monique Haas )は1909年生まれ。
1987年に亡くなっているが、このCDのオリジナルは1965年にリリースされたもの。
そのわりに録音は良く、レンジは広く音場も自然。
惜しいのは曲尾のカデンツァの最後の方で、急に音場がモノラル的に狭くなること。
それが再びもとの広がりに戻るところは、飛行機を降りた後に大あくびをし、自分では耳が気圧で遠くなっていたことに気づかなかったにもかかわらず、不意に感度良好、すっごく鮮明に聞こえてくるのと同じ爽快感はあるが、でもなぜここだけ音がモノラル的になるのか?かなり相当しごくすっごく、残念無念である。
アースのピアノは感情に流されないシャープさがあるが、音楽の流れは実に自然。女性とは思えないパワーもあり、この18分弱という短いコンチェルトがより短く感じられる。
パレー指揮のパリ国立管弦楽団の演奏も見事だ。
カップリングはピアノ協奏曲ト長調(1965録音)で、こちらも流麗かつリズミカルな演奏。
両協奏曲の歴史的名盤と言えるだろう。
ほかのカップリング曲は、「ソナチネ」と「高雅で感傷的なワルツ」。この2曲は1956年ころの録音でモノラル。レーベルはグラモフォン。
さて、今日は何の日かご存知だろうか?
全日本的には「ナッツの日」らしい。
理由は知らんけど……
さらに、私の身辺では本日、検査がある。
マイカーを車検に出すのだ。「My車検の日」。
“未病の不調”のような症状をときどき表わす、わがレガシー。
車検はいいが、修理すべきところがたくさん見つかって、えらい金額がかかりそうなら、車検そのものを中止することも視野に入れなくてはならないが、きっと今は中古車も値上がりしてるんだろうしな……
あと、もう1つある。
今日は、私は「代休の日」。
天気が良いぞ、今日は。
クレオソートの香りに包まれるぞ!
熱中症とクレオ吸引に注意しなきゃ……
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