読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

September 2011

神秘的ではなく神学的なのだ。メシアン/キリストの昇天

484794d1.jpg  私がラファエロの“キリストの変容”(写真上)を初めて目にしたのは、購入したLPレコードのジャケットによってであった。
 RCAビクターから発売されていた、廉価盤(いわゆる1000円盤と呼ばれていたものだが、私がLPを買い始めたころには値上がりして1300円になっていた)のシリーズのジャケットには名画が印刷されていたのである。

 ラファエロの絵が載っていたのはミュンシュ指揮のサン=サーンスの交響曲第3番のレコード。今でも名演と言われている演奏である。
 なぜ、サン=サーンスの交響曲に「キリストの変容」なのか?何か意味があるのだろうか?それとも特にないのだろうか?
 なんとなく後者のような気がするが、オルガンが入るということでは、イメージ的にあながち遠くはなかったのかもしれない。

 そのLPレコードは処分してしまっていて現物はないが、同じシリーズのLPがまだ残っているので載せておこう(写真2枚目)。このように世界の名画が使われていたわけだ。
 このレコードはライナー指揮によるマーラーの「大地の歌」
 ジャケット裏面の下に小さく“表紙絵・セザンヌ”と書かれている。

2d74a012.jpg  私は“世界の名画”と書いたが、はっきり言って、この絵が名画ということは知らなかった。もしこの絵を、近所に住む絵が上手なおじさんが描いたものだと言われて見せられても何の疑問も抱かないだろう。

 しかし、あのラファエロの絵を見たときには美しくて神秘的だなと、けっこう魅せられてしまった。
 サン=サーンスのLPは上に書いたようにとっくに処分してしまっていたので、その絵についてもその雰囲気しか覚えていなかった。しかし、何年か経って再び絵を見る機会があったときに思ったのは、キリストってこんなに肉付き良かったかってこと。よく宙に浮いたなって、ばかみたいなことを思ったものだ。顔ももっとほっそりしていたイメージだったのに。

 先日鳴門市の大塚国際美術館に行ったときも、当然のごとくこの絵も展示されていた。
 それは想像するよリも大きかった。
105c7547.jpg  だから宙に浮いているキリストが、さらにふくよかに見えた。

 ということで、メシアン(Olivier Messiaen 1908-92 フランス)の「キリストの昇天(L'Ascension)」(1932-33)。
 4つの楽章からなる管弦楽曲である(1934にオルガン編曲)。

 各楽章のタイトルは、

 1. 自らの栄光を父なる神に求めるキリストの威厳
   Majeste du Christ demandant sa gloire a son Pere
 2. 天国を希求する魂の清らかなアレルヤ
   Alleluias sereins d'une ame qui desire le ciel
 3. トランペットによるアレルヤ、シンバルによるアレルヤ
   Alleluia sur la trompette,alleluia sur la cymbale
 4. 父のみもとへ帰るキリストの祈り
   Priere du Christ montant vers son Pere

 なんかどれもすごいタイトルで、聴いていて、「なるほどタイトルのとおりだ」と感じるような全然感じ6371eafd.jpg ないような音楽である。しかし、厳粛さと美しい響きはメシアンならでは。特に不協和音の美しさを堪能できる。

 ロバート.P.モーガン編(長木誠司監訳)の「音楽の新しい地平」(音楽之友社)のなかでは、この曲について次のように書かれている。

 初期のオーケストラ作品「キリストの昇天」では、思う存分鑑賞にひたった調性的半音階主義と、強い神秘的香気が目を引く。その神秘性はスクリャビンのソナタと同様の大量の記述的な表情指示とテンポ表示によっていっそう強められている。しかしながらメシアンは、自分の音楽がねらっているのは神秘的なものではなく神学的なものだと断言している。

 今日紹介するのは、チョン・ミュンフン指揮パリ・バスティーユ管弦楽団の演奏。
 1991録音。グラモフォン。
 カップリング曲は、偶然(?)にもサン=サーンスの交響曲第3番。
 現行盤(在庫わずかとのこと)は、掲載したものとジャケットデザインが異なる。
 にしても、私が持っているこのCDのジャケット。下部の“The Meiban”ってなんだか笑える。

 なお、アレルヤというのはハレルヤと同じで、「主をほめたたえよ」の意味である。

 私は今朝を仙台で迎えた。
 昨日は夕方に千歳を出発するANA便で仙台空港へ。
 幸い、おそらく、奇抜な飛行もせず無事定刻に到着。
 下調べが不足していて、空港から仙台駅までのJRがまだ全面開通していないことを知らなかった。
 バスで仙台駅前まで移動したが、高速道路の料金所がやたら混んでいた。料金免除対象の車もあるので、そのチェックに時間がかかるそうだ。
 それでも55分で到着。
 バスを降りるや否や(おお、as soon as 構文だ)、携帯電話がけたたましく鳴った。マナーモードなのに鳴った。ほとんど聞いたことのない着信音、イルミネーションは赤。私だけでなく、歩いている人たちの多くの体から音が発せられていた。“エリアメール 緊急地震速報”だった。

 幸いそのあと強い揺れは来なかったが、変な話、この不安を煽る音を耳にし、この街は大きな被害を受けたんだったとあらためて気づかされた。

美しく精緻。でも、どこか満たされないケントのマラ3

c0697db3.jpg  私は身長が174cm、で体重が67.7kgである。
 そして、この2か月間で200g増量した。

 先日健康雑誌を立ち読みしていたら、中性脂肪を下げる方法が載っていた。

 まず食べ物だが、キムチ、ゴマと納豆、焼き梅干し、シイタケ茶、ラッキョウなんかが良いらしい。

 キムチはその辛さで代謝を促進するのだろう。それはわかる。
 でも、毎日キムチを食べていたら体からキムチ臭が放出され、通勤電車の中で私を中心とした半径1m以内には誰もいない-たとえどんなに混んでいようと-ってことになるんじゃないかと心配で実行に移せない。ただでさえ酒臭いはずだから。

 ゴマと納豆だが、納豆にゴマを入れるんだったか、ゴマに納豆を入れるんだったか忘れてしまった。なんせ立ち読みである。細かいところは覚えていない。そもそもそんなことが書かれていたのかも自信が持てなくなってきた。

 焼き梅干し。
 確か梅干を焼いて食べるといいようなことが書いてあった。が、いちいち梅干を焼くのが面倒だ。だいいち私は梅干が得意ではない。そもそも化学的にどうして焼けばよくなるのかわからない。

 シイタケ茶。
 これなら毎日続けられそうだ。が、まだ実行に移していない。ただ「毎日シイタケ茶。これが私の健康法です」ってのは、すっごく年寄りじみている気がする。

 ラッキョウ。
 私はラッキョウをボリボリ何個も食べるタイプの人間ではない。でも、カレーライスとともにラッキョウをちょいと食べるのは大好きだ。しかし毎日カレーライスを食べるとかえって体に悪いような気がする。血液的にも、胃の調子にも。

 じゃあ運動はどうか?
 同じ本に血中の中性脂肪を下げるという運動が、しかも気軽にできるというものが紹介されていた。
 本質とは関係ないが、こういう運動の写真のモデルになっているお姉さんの「仕事だからしょうがない」みたいな笑顔を見るのは嫌いではない。
 3つの運動を一生懸命脳に覚え込ませ、家に帰ってから実践してみた(まさかその場ではできますまい)。

 で、そのなかにあった“内臓やわらか体操”。
 床に座って両膝を両腕で抱え込む。お尻を支点にしてだるまのように前後にゆらゆらと上半身を動かす。
 こうすると硬くなった内臓がほぐされ代謝が盛んになるという。だらっとした自分の腹の外観からすると、内臓だって常に緊張感なくほぐれているようで、この謳い文句がどうも眉唾っぽく思えるのだが、一応はやってみた。
 まずは体を後ろに振ってみた。
 私は、壊れただるまのように、そのまま後ろにひっくり返った。いくら体を揺さぶって起き上がろうとしても無駄だった。もう二度と起き上がれないだろうと観念した。
 こんな体勢で衰弱し死ぬのかもしれない。が、腕をほどくとふつうに起き上がれることを発見した。めでたし、めでたし……
 いずれにしろ、運動の効果があるなし以前に、私は自分が起き上がれない“起き上がりこぼし”であることを身をもって理解した。

 次に紹介されていた運動は“腕だけ走り”。
 要は、その場で腕だけを走ったときのように振るのだ(ご丁寧にも、座って行なう場合は足を持ち上げる、という注意書きがある)。
 これは簡単だ。
 でも、誰も見ていなくても、こういうのって相当恥ずかしい感じがする。ましてや、それではぁはぁとなったら、それは運動効果があるという証拠だとしても、なんだかおバカなことをしている気分になった。

 3つ目は“脂肪つまみだし体操”。
 腹のたるんでいる部分をつまんで、その逆側に体を反るというものだ。
 例えば、右腹のだぶついた肉を右手でつまみ、左側に体を反らす。そのときのポイントはつまんだ肉に憎しみを持つことなんだそうだ。
 これまたなんか恥ずかし。
 しかも手の摩擦力が不足しているのか、あるいは握力が乏しいのか、もしくは腹が脂ぎっているのか、体を反るときにすぐに肉がつるりと手からはずれてしまう。だから手に力を入れてしまう。
 やめた。
 これじゃ肉が無くなる前に皮膚が内出血を起こす。

 このように問題意識を持って前向きに取り組んでいるのに、楽して改善できる方法に出会えないのは不幸なことだ。  

 出会い……

 この流れは、そう、スパムメールご紹介パターン。

 タイトルは、

 くコ: 彡横なイカ

 なるほど。横になっているイカに見える。これが何を意味するのかはさっぱりわからないが……

 本文は、

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 「ココも」って、上のURLとまったく一緒じゃないか。
 そんで腹立つのは、私がモテないと決めつけていること。当たってるだけに一層腹立たしい。

 ついでにもう1通。

 タイトル

 【確認事項】至急ご連絡下さい

 本文

 只今、一部のお客様の地域管理システムに障害が生じ、バグがでております。
 お手数では御座いますがお客様のお住まいの【都道府県名】を下記サポートセンターまでご連絡くださいませ。


 だから何なんだよ、“地域管理システム”って?
 「障害が生じ、バグがでております」てぇのもおかしくないか?エラーとかなんとか言うんじゃないのか?いや、それもおかしいか……「エラーが生じ、障害がでております」だろうな、正しくは。

 先日購入したケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団によるマーラーの交響曲第3番のCD。ウォークマンで聴くためにパソコンで取り込もうとしたら、あらあら、終楽章がエラー発生で読み込めなかった。

 ところでケント・ナガノは、実は“ながのけんと”という名前、ではなくて、Kent Nagano。日系アメリカ人4世である。Kentoではない。いちろうがイチローと呼ばれているのとはちと事情が異なる。 
 
 さて、このマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第3番ニ短調(1893-96/改訂1902)の演奏だが、とても丁寧な音作りであると思う。響きも美しい。が、根元にピンホールがあるタバコを吸った時のような、「やられた!」って感覚が残る。来るべきものが予想通りに来ないような。

 響きは豊かなのだが、全体的にコンパクトなオーケストラであるかのよう。厚みもあるのだが、どこかずっしりとこない。
 マーラーの交響曲の中では、自然讃美ということもあって明るい傾向の作品ではあるが、それでもこの演奏は、マーラーが笑顔で全快祝いを配っているような感じがして、どこかしっくりと来ない。しかし逆に言えば、第2楽章や第3楽章には合ってなくもない(第5楽章の児童合唱は清らかで美しい。が、貧弱)。
 終楽章については、上記の事情によりまだ未聴。据置型オーディオ装置(って変な言い方かな)で近いうちに聴いてみるが、この楽章がすっばらしい演奏だったなら、風評被害防止のために、再度取り上げたいと思う。

 このCDの録音は1999年。ライヴ。apex(原盤テルデック)。
 メゾ・ソプラノ独唱はペツコヴァ。合唱はベルリン放送女声合唱団、ハノーヴァー児童合唱団。

四国のお遍路。イタリアでの遍歴

1e134e39.jpg  ということで、おなかも満たされたし、鳴門海峡のうず潮を観ることにした。

 橋の上から観るという方法もあるようだったが、途中から道路が渋滞(駐車場待ち)。そんなの待ってられないので船に乗ることにした。

 最初に行ったのは“うずしお汽船”の乗り場。高速船なんだそうだ。
 が、船を見ると意外と小さい。

 私は泳げないし、日ごろの酒酔いのことを考えると、経験はないが船酔いする自信もある。
 だから、この船は勘弁してほしいと同行メンバーに命乞いをし、“うずしお観潮船”乗り場へ。
 こちらの、その名も“わんだーなると号”(驚くべき巨大なると巻みたいなのを連想させる名だ)は400名ほどが乗れる大型船である。
634ee2fb.jpg  これなら私としてもなんとなく安心だ。

 うず潮は潮の満干によって見頃の時間があるんだそうだ。
 この日の最高の見頃の時間は15:50。その前後1時間半は観潮に最適なんだそうだ。
 私たちが乗った船の出発は14:20。なんとか見頃タイムに収まっている。

 で、驚いたのは大鳴門橋の下に船がさしかかると、それまで穏やかだったのにいきなり波が荒くなること。だからこそ渦が発生するんだろうけど。

 結論を言うと、すっごい渦には遭遇しなかったが、それなりの渦が見れて満足。
366d342b.jpg  それと、やっぱ“うずしお汽船”に乗らなくてよかった。
 私たちが乗った“わんだーなると号”に接近してきたが、なんだかどっかの国からの不法侵入船みたいだ。スリルを味わうにはもってこいなのかもしれないが、やっぱ私はダメだな。
 それにしても淡路島ってすぐそこなのね。

 こうして1日の業務を終え、ホテルへ。
 このとき気づいたのだが、ロビーには“お遍路さん宿泊割引”って紙が貼ってある。
 へえ、お遍路さんもこういうところに泊まるんだ。って、お遍路さんがどういうところに泊まるかなんて考えたこともなかった。

b2c72188.jpg  遍路というのは辞書で調べると、「祈願のため、四国や小豆島の弘法大師の霊場をめぐること、またその人」とある。あと、もう1つの意味は、ずばり「遍歴」。
 遍歴というのはあちこちをめぐり歩くことだ。

 で、先日書いたように、バイロンの長編詩「チャイルド・ハロルドの遍歴」の主人公に自分を託して交響曲に仕立て上げたのがベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)である。

 イタリア留学中に婚約者に裏切られ、そのやるせない思いの日々を交響曲「イタリアのハロルド(Harold en Italie - Symphonie pour orchestre et alto principal)」Op.16(1834)という標題音楽にしたのだ。

dbf5fad2.jpg  曲は以下の4つの楽章から成る。

 1. 山の中のハロルド、憂愁と幸福と歓喜の情景
    Harold aux montagnes; Scenes de melancolie,de bonheur et de joie
 2. 夕べの祈りを歌う巡礼の行進
    Marche de pelerins,chantant la priere du soir
 3. アブルッチの山人が、愛人に寄せるセレナード
    Serenade d'un montagnard des Abbruzes a sa maitresse
 4. 山賊の饗宴、前景の回想
    Orgie de brigands,souvenirs de scenes precedentes

 各楽章のタイトルを見ただけでも、いかにも空想(妄想)豊かなベルリオーズらしいものである。音楽も旋律が豊かで美しい。反面、幻想交響曲のような刺激性には欠けるが、それが幻想交響曲ほどはこの曲が演奏されない理由なのだろう。
 しかし、メロディーの点では幻想交響曲をしのぐ部分があると個人的には思っている。
 終楽章の激しさは幻想に負けず劣らずである。

114c9364.jpg  この曲の演奏では過去にバーンスタイン/フランス国立管弦楽団やC.デイヴィス/ロンドン交響楽団のCDを、あるいはロンバールのLPを紹介してきたが、今日はマゼール指揮クリーヴランド管弦楽団(ヴィオラ独奏:ヴァーノン)による演奏を。
 先日紹介した「ロメオとジュリエット」とカップリングになっているものである。

 マゼールの演奏は、マゼールらしいと言えばマゼールらしいんだけど(鋭いアタックなんかが)、裏切られた恋への苦しみみたいな深刻さが感じられない。あまり感情的にならずに演奏を進めていっちゃう。
 純音楽的アプローチというのだろうか?
 悪く言えばちょいと気合不足って感じもする。
 もちろんこれはこれで悪い演奏では決してないんだけど……
 1977録音。デッカ。

 昔あった“うずしお”って、ナショナルの洗濯機の名前だったっけか?

 さて、うず潮の話はこのへんにして、夜は居酒屋へ。
 まあ普通の居酒屋だったが、赤足エビのフライというのがとっても美味しかった。

 で帰りにコンビニに寄って、ミネラルウォーターと翌朝のおにぎりを買ったのだが、なんとなく食べたりない気がしてサンドイッチと缶ビール、さらに何をトチ狂ったのかあんドーナツを買ってしまった。
 さらに、その夜のうちに、サンドイッチをつまみながらビールを飲み(これは計算済みの行為)、しょーもないことにあんドーナツまで食べてしまった。

 このとき私は悟った。
 もうおなかがいっぱいだと苦しみながらも充実していても、あんドーナツはさらに食べられるものだ、と。
 翌朝、なんとなく胃が重かったのは言うまでもない。
 しっかしね、金曜日の昼はダイエットだなんて思っておにぎり1個で我慢したのに、こういうのを水泡に帰すって言うんだろうな。
 えっ?最初っからたいした努力してないじゃないかって?
 あのね、あまりに本当のことを指摘しないでいただけます?私、繊細なんですから。

 で、帰りも運命的に羽田で乗り継ぐしかないのだが、徳島で搭乗する前に買った週刊文春を機内で読んでいたら、カツカレーのことを書いた記事が載っていた。
 こうなったら、どうしようもなくカツカレーが食べたくなる、欲望を抑えきれない私。

 いろいろと考えた。
 家に帰る前にスーパーによって、レトルトカレー(もちろん徳島の思い出のためにボンカレーだ)と惣菜の厚着のカツを買って帰り、夕食に簡易的カツカレーを食べようか、と。

 しかし驚くべき素敵なプランがわき上がった。
 なんのことはない。羽田空港でカツカレーを食べればいいのだ。
 57ゲートと58ゲートの間にカレーショップがある。
 私はシウマイ弁当のことばかり考えすぎていたのだ。視野が狭かった。
 今日はシウマイ弁当ではなくカツカレーにするべきなのだ。そう、事態はそこまで深刻化しているのだから。

 羽田について、Mr.鉋が「昼はどうしましょうか?」と聞いてきたので、私は今思いついたというふりをして「カレーでも食べようか」と提案し受理された。
 もしここで彼に「えっ?カレーですかぁ?」なんて否定的ニュアンスの返事をされたら、悲しみのあまり動く歩道を逆走しちゃったかもしれない。

 こうして私の望みはかなえられた。

 帰宅後、その日の夕食がカレーじゃなくて、さらに深い満足感を味わった。
 でも、こんなんじゃ絶対体重は落とせないな……

中世ヨーロッパ最大の賢女が書いた究極の癒し音楽

c3be4052.jpg  徳島空港に着いたのは金曜日の17時過ぎであった。

 私たち(Mr.鉋と私)は羽田で乗り継いだが、私の昼食は札幌駅のキオスクで買った日糧製パンの“ザンギ入りおにぎり”1個であった。
 なんとなく少食にして自分をいじめてみたかったのだ。200gも太ったことだし……

 この日は夕食が遅くなるのがわかっていたので、千歳便が羽田に着いてからの14時過ぎにこのひもじい昼食をとった。でも何度、崎陽軒のシウマイ弁当を買って食べちゃおうかなと思ったことか!よく我慢した、うん、私立派だ(学校じゃあるまいし、私立・派ではなく、わたしりっぱ、と読むこと)。

 ところでもう全国的に知られているのかもしれないが、ザンギというのは北海道語であり、鶏の唐揚のことだ。私は骨なしの唐揚のことをザンギと呼ぶのかと思っていたが、“骨なしザンギ”と言うこともあるので、単に“鶏の唐揚”なんだろう。
 北海道では、スーパーの惣菜コーナーではほぼ100%、“ザンギ”の表示でパックが並んでいるし、ザンギ弁当というのも定番である。芸能人なんかが食べる、銀座の有名店で作ったロケ弁のことではない。あっ、それを言うならザギンか……

81e96c3a.jpg  私が食べたザンギおにぎりは、まさしく具が小さめのサイズのザンギで、ご飯は醤油で味付けられていた。初めて食べたがなかなか秀逸な一品であった。
 ちなみにMr.鉋は千歳で昼を済ませてきたとのことであった。

 乗り継ぎの徳島便は使用機到着遅れで出発も遅れた。
 でも、しょうがない。
 それにしても、千歳⇔羽田便も、羽田⇔徳島便も混んでいたなぁ。連休初日だったせいだろうか?

 徳島空港で、先にJAL便で到着していた東京支社の人間3人と合流。
 その足でまずは一仕事。
 この日はこの用務1つだけだったが、終わって夕食を食べ始めたのは20:30。
 昼のザンギが跡形もなく消化され、病的なまでに空腹となっていた私は、行った洋風居酒屋(Buonoという名だった)で、いきなりボロネーゼを頼んだが、飲みに来ていきなりパスタかよって顔をしていた東京組の1人だってピザを頼んだ。
 みんな腹が減っていたのだ。
201e6828.jpg  ボロネーゼは塩加減も含め、なかなか上品で美味しかった。ピザも美味しかったし、ほかのどの料理もハイレベルだった。

 翌朝。
 ホテルを9時に出発。
 今日の最初のお仕事を1つ終え、その足で鳴門にある大塚国際美術館へ。大塚っていうのは、そうあの大塚製薬をはじめとする大塚グループのこと。行く前はあんまり頭になかったが、鳴門の街はいたるところに大塚の施設が。すごいなぁ。

 この山をくり抜いたような美術館、地下3階地上2階建て。写真の正面入り口から長いエスカレーターに乗って上に上がると、そこが地下3階。

 このエスカレーターで上に着き、目の前に最初に現れる部屋が、システィーナ礼拝堂天井画と壁画。環境展示といって、教会などの環境空間をそのまま再現しているのだが、最初っからノックアウトされた。

 もちろんこれら、この美術館に展示されている作品は複製だが、ただの複製ではない(いや、売ってるわけでもない)。
 fb469fc7.jpg 陶板にオリジナル作品とほぼ同じ大きさで描かれている。その技術は大塚オーミ陶業(株)のものだそうで、2000年以上にわたってその色が残るんだそうだ。こうしてよみがえった、そして未来に渡ってその姿を維持できるようにされた名画が1000点以上展示されている。これ、建設設計構想にすっごく時間をかけたんだろうな。

 そうそう。私は観光でこの美術館を訪れたのではありません。直接ではないが、自分の仕事に多少関係するので、訪れたのです(誤解のないように付け加えておくが、私は美術関係者ではない。小学校のときは絵を描くたびに先生に「芸術的に下手だ」と言われていた札付きの人間だ。美術館を建てるというような会社に勤めているわけでもない。すっごく担当業務とは遠いんだけど、良い絵画を見て今後の業務の糧とするぐらいのことととらえて欲しい。とにかく、かなり強引な理由ながらも、遊びではないことは信じなさい!)。

 最初に圧倒された後も、ずっと圧倒されっぱなし。チケットを買うときには、入館料3000いくらは高いんじゃねっ?と思ったが、これなら安いくらいだ。

 古代から中世の展示では、“最後の晩餐”という絵が何点か展示されていたが、私はレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な作品以前にも、そういう絵があるとはちっとも知らんかった。
 無垢なだけでなく、無知ですまん。

cea16bb9.jpg  写真を載せたこの絵では、食卓に魚が載っている。パンとブドウ酒ではない。
 魚はキリストを象徴するものだ。
 中世では、最後の晩餐はこのように描かれていたことは興味深い(が、これ以上個人的に深追いするつもりはない。が、聖餐式で聖別されたパンとブドウ酒がキリストの身体と血になるという説(化体説)は、1200年ころにインノケンティウス3世によってローマ・カトリック教会公認の教理になった、ということは一応付け加えておこう)。

 このような絵画を見ていると、そしてなによりも古代遺跡や教会などを再現したいくつもの環境展示の中にたたずんでいると、大昔の宗教音楽が頭の中に流れてくる。

 そこで今日は、ビンゲン(Hildegard von Bingen ユリウス暦1098-1179 ドイツ)の聖歌集「天の啓示による調和のシンフォニア(Symphonia harmoniae celestium revelationum)」を。

 ビンゲンは神秘家であり、作曲家であり、中世ドイツのベネディクト会系の女子修道院長を務めた女性預言者。医学と薬草学にも詳しかった。

 彼女は5歳ころから幻視体験をしていたというが、そのことが広く知られるようになったのは1153年出版の著「道を知れ」に書かれてからである。幻視の内容はほとんどがキリスト教に関することだったという。

 作曲面では、1150年ころにつくられた道徳劇「諸徳目の秩序」と、1140年頃から書きはじめられた宗教曲の聖歌集「天の啓示による調和のシンフォニア」(77曲が現存)があるという(Wikipediaによる)が、私は詳しくは知らない。

 今日紹介するCDはバルダッツィ指揮アンサンブル・サン・フェリーチェ、ソプラノ独唱ザニチェッリによる演奏。トラック数は12。

 ビンゲンの曲は近年、グレゴリオ聖歌(8~9世紀ごろに完成)と並びヒーリング・ミュージックとして録音されることが多いようだが、耳にしているとまったく別な世界へ連れて行かれたような感覚になる。その響きは、現在のどの音楽にも分類できないようなものだ。
 あなたも異界へトリップしてみませんか!?
 
 2007録音。ブリリアント・クラシックス。本編CDとテキストが収録されたCD-ROMのセット。

  美術館では、ツッタカタッタカと駆け足で見たにもかかわらず約2時間を要した。
 館内にはいくつものカフェやレストランもあり、空腹傾向にあった私は他の同行メンバーに隠れて何か食べちゃおうかなと誘惑にも駆られたが、いかんいかん、今日の昼は明確な目的があるのだ。
 ということで、がまん。

 鳴門駅の方まで戻り昼食。
 徳島ラーメンである。
 連れて行ってもらった店は“いのたに”という、けっこう有名だという店。
 のれんには“徳島ラーメン”じゃなく、“中華そば”と書かれている。

 肉入りそばの“中”と、めし(つまりライス)の“小”を頼む。
 出てきたラーメンは、ガイドブックの写真で見る徳島ラーメンと同じく濃い茶色のスープ。そのスープを覆い隠すように肉が何枚も載っている。煮込んだだけではない、焼いたような触感と香りの肉だ。豚の焼肉が載ってるのかと思ったが、食べてみると焼いただけではない。
 麺はストレートな細麺。札幌ラーメンに慣れている人には好みが分かれるだろうが、私の場合は札幌エスタの“四川飯店”の担々麺(ストレート麺なのだ)も好物なので、抵抗感は少なかった。味は濃くて、ご飯があってちょうどバランスがとれる。
 美味しくて満足したが、そのあと喉が渇いて閉口した(スープはほとんど飲んでないんだけど)。

 さて、業務を2つこなしたし、名物も食した。
 次は……、次は…………
 せっかくだから渦を見に行こう。……続く。

 そういえば徳島ラーメンっていうのに、なぜナルトはトッピングされてないんだろう?
 徳島とは関係ないのか、なると巻?

心癒されるマンドリンのコンチェルト

9cf8e4cb.jpg  金曜日から日曜日にかけての出張復命を早急にするべきなのだろうが(すばやい復命を行なうことは“できるサラリーマン”の条件に違いない)、その前にくだらない話題について片付けておくほうがいいだろう。
 このようにいくつもある課題に適切な優先順位をつけることも、“できるサラリーマン”の必須条件の1つである。

 重要かつ緊急を要する仕事
 重要だが緊急を要しない仕事
 重要ではないが緊急を要する仕事
 重要ではなく、かつ緊急を要しない仕事

 このなかで最も優先順位が高いのはどれか?
 そんなことは明らかで、重要かつ緊急を要する仕事である。
 このなかで最も優先順位が低いのはどれか?
 このことも乳児でもわかるほど明らかで、重要ではなく、かつ緊急を要しない仕事である。

 では、重要だが緊急を要しない仕事と、重要ではないが緊急を要する仕事ならどちらの優先順位が高いのか?
 緊急を要する方を先に片付けるべきなのだろうか?だって急いでるんだもん……

 私がある研修で某教育コンサルタントに教えられたのは、重要だが緊急を要しない仕事の方を優先するということだった。というのも、それは突然緊急を要する案件に変わってしまった場合、“重要かつ緊急を要する仕事”に変貌してしまうからなんだそうだ。重要ではないが緊急を要する仕事は、(部下がいる場合には)部下に任せること、つまり自分で処理しようとせず誰かに振ること、というのが彼の教えであった。

 じゃあ、いま私が先に片付けてしまおうとしている件、つまり昨日の話の続き、要するにアイゼンシュタイン氏の話は出張復命より優先順位が高いのか?
 いや、高くない。重要ではなく、かつ緊急を要さず、あるいは忘れ去っても良いような話だ。
 しかし、そんな話ではあるが、私たちが生きていくうえで、いろいろな教えがある。反面教師として。だから、まあ説得力はないが、私は今日のところは、昨日の続きを書くことにする。

 昨日列挙した点のうちの②。
 いよいよ本格的に仕事を始めることを氏は匂わしていた。これまで以上に強烈に。
 最初のうちは私たちも、「そこまで言うなら、他には言わないから教えてよ」と口々に言っていたのだが、あんまりのらりくらりとしているので、そのうちこの件にはわざと触れないようにした。ということで、相変わらず真偽のほどは不明である。

 ③の株投資の話。
 前回話をしたときに、氏は株の恐ろしさ、株に手を出した己の愚かしさを嘆き、その日以降は株取引をやめると言っていた。なのに、どうもその後も続けていることが判明した。
 この日も、最初はもうやめたようなことを言っていたが、ウソをつくと目が泳ぐからすぐわかるのだ。そのうち、投資している銘柄は10を超え、かなりの穴を開けていることが判明した。
 そして、「本当に明日でやめます」と言っていたが、その真剣な表情を見て私は“狼少年”の話を思い出していた。

 今年の3月の札響定期で演奏されたマーラーの交響曲第7番のときにマンドリンを弾いていた奏者が、大変申し訳ないけど、遠目からはアイゼンシュタイン氏に似ていた。そのことを思い出してしまったので、今日はマンドリンの作品を。

 ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741 イタリア)のマンドリン協奏曲集。最近私がひいきにしている、廉価なapexの1枚。

 このCDには以下の4曲が収録されている(RV.はリオムによる整理番号。P.はパンシェル番号)。

 ・ 2つのマンドリンの協奏曲ト長調P.133,RV.532
 ・ マンドリン協奏曲ハ長調P.134,RV.425
 ・ 2つのフルート、2つのテオルボ、2つのマンドリン、2つのシャリュモー、トロンバ・マリーナ風に奏する2つのヴァイオリンとチェロの協奏曲ハ長調P.16,RV.558
 ・ マンドリン協奏曲ニ長調P.209,RV.93(リュート協奏曲)

 どの曲もとてもさわやかで汚れなどまったく知らない健康的な少女のような、つまりはアイゼンシュタイン氏のイメージとは正反対の音楽世界が繰り広げられる。
 最初の1曲目から、「うぁ、あまりにも純情無垢すぎる」と困ってしまうような響きが、耳をクリーニングしてくれるかのように鳴り渡る。

 ちなみに1曲目は曲名のとおり2台のソロのマンドリンが登場するが、左右に分かれたかけあいは、ステレオ的にもやや快感。
 最初は向かって左、それに呼応するのが向かって右であるが、もしあなたがこのCDを聴いて逆に聴こえたらなら、結線が間違っているか、朝起きたときに左右の耳を反対に装着してしまったという原因が考えられるので、すぐに付け直した方がいいだろう。

 にしても、マンドリン奏者がアイゼンに似ていたのを思い出した→よしマンドリンの曲を取り上げることにしよう→ヴィヴァルディのコンチェルトの、しかもこんなに美しい演奏を選んでしまった。
 このことに私は、肉じゃがを作るときに砂糖と塩を間違えて入れてしまったかのような、取り返しのつかない過ちを犯したような気がして、にわかに反省しているところだ。が、今さら書き直せないもんね。

 演奏は、マンドリン独奏がOrlandiとFrati(RV.532&RV.558)、シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティ他。
 1983録音。apex(原盤エラート)

 アタイはヴィヴァルディはさほど好きじゃないが、これは一家に1枚あってもよいと思えるCDだ。

 

メッタメタに傷ついた悲劇の豪の女。そして、メータのマラ6

2f47364c.jpg  何日か前に受信ボックスに入っていたDMメールは、「人間ドック、受診者の9割超が『異常あり』、過去最低更新」というものだった。

 なんでも、2010年に全国の医療機関で人間ドックを受診した約308万人の検査状況について日本人間ドック学会が発表した内容が、「検査成績の総合的な判定で『異常なし』だった人が全体に占める割合は8.4パーセントで過去最低を更新した」というのだ。

 良かった。
 私は圧倒的多数派の一員だったのだ。
 殺伐としていると言われるこの世の中で、私は91.6%のなかに所属させていただけていたのだ。もし、これが8.4%の側に入っていたら、私は落ちこぼれだと認めざるを得ず、深い挫折感に襲われ、やけっぱちになっていただろう。

 このメールを読み、久しぶりに親交を深めようと、翌日私はかかりつけの病院に行った。理由はもう1つあった。そろそろ薬が切れるという切迫した状況だったのである。

 朝いちばんで採血に行く。
 その前に自動血圧計で血圧を測ったが(自動血圧計では残念ながら体重は測れないのだ)、朝早いせいかこのテルモちゃんの機嫌がよろしくなく、高めに出た。
 こそこそと3回も測りなおして、何とか見栄えがする値が印字された2番目の結果レシートを提出した。

 処置室に呼ばれ、体重を測る。
 うぎゃぴー。豚肉ローススライス1パック分ほどの約200gの増加。
 胸ポケットに携帯電話を入れっぱなしだったこと、ならびに、いつもより小銭入れに10円硬貨の玉数が多かったことが敗因だ、ということにしておきたい。

 私は血管が細いらしく、注射針を刺す場所がすぐに見つかるということがない。今回も「なかなか見つかりませんね」と女性針刺し人に言われたが、こんなささいな一言でも世の中の温かみを感じる。と、その直後にチクッと刺された。
 でも、こんな痛み、遠足でスズメバチに襲われた小学生の痛みに比べればぜんぜん平気だ。

 午後。
 結果を聞きに行く。
 中性脂肪の値はかなり落ちた。が、まだ異常値内だったので医者はほめてくれなかった。
 けど、いつもよりは優しい感じがした。これも私が実は世の中の多数派の1人であるということの恩恵かもしれない。

 で、夜。
 この日は“札響友の会”の会合があった。
 この会合は、私とともに札響の演奏会に行っているメンバーによるもので、原則としてコンサート終了後に厳粛に執り行なわれるはずべきのものだが、9月以降の札響定期はベートーヴェン・チクルスで、少なくとも私の興味をあまりそそらず、行く意欲があまりない。

 ならば、会合だけを単独で行なってはどうかということになったのだ。

 21日にそれは行なわれたのだが、要点だけを列記すると、

 ① 当日、アルフレッド氏は風邪気味だった。
 ② アイゼンシュタイン氏はまだ仕事に就いていない。
 ③ アイゼンシュタイン氏はまだ株と縁を切っていない。
 ④ アイゼンシュタイン氏はその昔、オーストラリア人の女性と結婚の約束までしたのに、結婚準備のために帰国した彼女を迎えに行くことなく、別な国産女性と結婚した。
 ⑤ アイゼンシュタイン氏の母は、最近息子であるアイゼンシュタイン氏にサイダーのみならず、デカビタも買い与えるようになった。

ということが明るみになった。

 ①のアルフレッド氏に関してだが、ひどく鼻水を垂らしていて、象の水子の霊にでも祟られたのかと思ったが、ホントに風邪で翌日は会社を休んでいた。そんなにひどいんなら、そんなにひどいと言ってくれなきゃ、困る。私としてはうつされないよう、半径4m以内には近づかないという措置をとれたのだ、それなら。

 そもそもこの会は当初、22日に行なわれる予定だった。
 が、アルフレッド氏が「22日の夜はどうしても避けられない仕事があるのです」と言うので、21日に変更した経緯にある。なのに、休んでやんの……

 で、今日のところは④について。

 信じられないが、アイゼンシュタイン氏は若いころに北海道の某地方都市の酒場で飲んでいて、英会話教師をしているというオーストラリア人女性をひっかけ、結婚の約束までしたというのだ。

 「すぐにオーストラリアに迎えに行くよ」
 「Matteruwa」
 そんな会話の後、彼女は帰国。
 しかし、その間にアイゼン氏は別な人ととっとと結婚してしまったのだ。
 決断力があるのか優柔不断なのかわからないが、ひどい男であることは確かだ。

 それにしても、そのオースト女性が気の毒だ。

 彼女のために、「悲劇的」。
 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)」(1903-05。その後もたびたび変更)のことである。

 本日はメータ指揮イスラエル・フィルの演奏を。

 とても知的に音楽が作り上げられている。その一方で、メータ、そしてイスラエル・フィルの「わが同胞が書いた曲」といったような、ユダヤ教徒・マーラーに対する深い敬意と思い入れ、そしていつくしみが伝わってくる演奏だ。

 一見(一聴)オーソドックスにも聴こえるが、第1楽章を閉じるときにテンポを落としたり、終楽章の最後、消え入るような音のあとの衝撃の一打も、多くの演奏が心臓が口から飛び出すくらいの強打であることが多いのに、メータはそこまではやっていない。ということは、心臓が弱い人には優しい配慮と言えるだろう。
 この一打のあとも、ゆっくりと崩れ落ちるような引きずり方はせず、速いテンポのまま曲を閉じる。巨人ロボットがまず地面に右ひざを着き、その次に左ひざを着き、そして倒れるというイメージではなく、「やられちゃったもんねぇ~」って感じだ。

 終楽章のハンマーは2回。第2楽章はスケルツォ、第3楽章にアンダンテの配置。
 1995録音。apex(原盤テルデック)。
 録音も優秀で、特に打楽器の音が非常にリアル。

 オーストラリアに婚約者がいながら、彼女の帰国中に北海道の女性とあっさり結婚してしまったアイゼン氏。
 「まるで別な人種のような気がして」と言っていたが、間違いなく別な人種ですから!

大仰な曲にマゼールの本領発揮。Berliozのロメジュリ

0559aea4.jpg  ベルリオーズが書いた幻想交響曲Op.14(1830/改訂'31)は、交響曲の流れの中に突如現れたさまざまな点で意表を突く画期的な標題交響曲だった。
 その次に書かれた交響曲が「イタリアのハロルド(Harold en Italie)」Op.16(1834)である(吹奏楽によるOp.15の「葬送と勝利の大交響曲」は1840年の作である)。

 この交響曲はヴィオラの独奏を伴う作品だが、ここでベルリオーズはヴィオラを1人の人物、つまりハロルドとして扱っている。
 「イタリアのハロルド」はバイロンの詩「チャイルド・ハロルドの遍歴」によるが、主人公ハロルドを表す固定楽想が4つのすべての楽章に登場することや、ハロルドが実は作曲者自身を表していることが幻想交響曲との共通点と言える。
 そしてなにより、この曲のテーマもまたベルリオーズの失恋がテーマとなっている。まったくやれやれな男である。
 そうそう。やれやれな男といえば、分野は違うがアイゼンシュタイン氏である……(文末参照)

 ローマ大賞を受賞しイタリアに留学していたベルリオーズだったが、故郷には婚約者のマリー・モークを残してきた。異常なまでにお熱をあげたシェイクスピア劇の女優スミスソンに相手にされなかったあと、ベルリオーズはマリーと婚約したのだ。ところが、留守中にマリーの母親は彼女を別な男へ嫁がせてしまった(それに従ったマリーもマリーだが)。
 その裏切られた体験を、ベルリオーズはハロルドに重ねて音楽にしたのである。
 なお、ベルリオーズはモーク母娘を殺したあと自殺しようと計画したが、ローマからパリに向かうどの途中で気が変わって計画は取りやめた。この母娘殺しは女装して行なうつもりだったという。
 
 パガニーニの依頼で作曲されたこの曲は、しかし、第1楽章が出来上がった時点でヴィオラが協奏曲のように華やかで技巧的に扱われてはいないことにパガニーニが不満を持った。
 そのためベルリオーズは、以降は自由な標題交響曲として筆を進め完成させたが、ヴィオラという特定楽器にハロルドという特定人物の役割を与えているところは、幻想交響曲よりも踏み込んだ技法だと言える(後年に書かれたR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」(チェロ独奏がドン・キホーテ、ヴィオラ独奏がサンチョ・パンサ)などの先がけだろう)。

 さらにOp.17の「ロメオとジュリエット(Romeo et Juliette)」(1839)は、先日書いたように“劇的交響曲”というワケのわからない“肩書き”が与えられ、ドラマという面をはっきりとさせるべく声楽を取り入れた。演技こそ伴わないが、この曲は音楽劇なのだ。そして、この作品によってベルリオーズは交響曲という分野から離れることになる(交響曲という名がつく作品は以後書いていない)。

 この2曲、すなわち「イタリアのハロルド」と「ロメオとジュリエット」が収められた2枚組CDを今日はご紹介。
 マゼールが指揮した演奏である。

 「ロメオとジュリエット」の方のオーケストラはウィーン・フィル。合唱はウィーン国立歌劇場合唱団。独唱陣は、ルートヴィヒ(A)、セネシャル(T)、ギャウロフ(Bs)。

 劇的な要素だけではなくオーケストラの響きそのものにたくさんの聴きどころがあるこの曲を、マゼールはたっぷりと歌い回し、感情表現豊かに仕上げている。
 やっぱ、マゼールさんはこういうヘンタイチックな曲をやらせると、とりわけやったらすごい。
 ドラマティックさとシンフォニックさを両刀使いのようにモノにしちゃってる。
 合唱の遠近感にちょっとやりすぎの感があるところがあるが、さすがデッカ。録音も優秀だ。
 1972録音。

「イタリアのハロルド」については、また別稿にて。

 実は私がベルリオーズの「ロメオとジュリエット」を初めて聴いた時の演奏も、マゼールの指揮によるものだった。オケはフランス国立管弦楽団。1978年12月のことで、NHK-FMの特別番組。ライヴだったと思う。
 私、自分が思っている以上にマゼールさんとは縁深いのかもしれない。

ドヴォルザークのアメリカ・シリーズ、傑作第2弾!

3b564f6b.jpg  今週は月曜日が敬老の日、そして今日が秋分の日ということで、土曜日も休みの人は、火・水・木と3日間だけ出勤すればよいということになる(だからシルバー・ウィークというのか?もしかして。週の頭が敬老の日だからシルバーって言うのかと思っていた)。

 でも、私は今日から飛行機を乗り継いで、遠くまで出張しなければならない。

 ということで、ドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 チェコ)の弦楽四重奏曲第12番ヘ長調Op.96,B.179「アメリカ(America)」(1893)。 

 ドヴォルザークは1891年の春にニューヨーク・ナショナル音楽院院長への就任依頼を受け取った。
 最初は辞退することを申し出たドヴォルザークだったが、同音楽院の創立者でドヴォルザークに就任を依頼したジャネット・サーバー夫人のねちっこい、いや、熱心な説得と高い年棒によって、その年の末に受諾した。

 ニューヨークに到着したのは'92年9月。
 その翌年、年明け早々から着手したのが交響曲第9番「新世界より」で、今さら言うまでもないが言わせてもらうと、“新世界”とはこのアメリカのことである。
 同じ年、'93年の6月にドヴォルザークはアイオワ州の小さな町スピルヴィルのチェコ人移民集団の土地を訪問した。
 弦楽四重奏曲第12番はこのときに作曲された。

 つまりこの曲は、交響曲第9番とチェロ協奏曲ロ短調Op.104(1894-95)とともに、ドヴォルザークのアメリカ滞在中に作曲された3つの傑作の1つである。
 なお、ドヴォルザークはチェロ協奏曲完成後、ホームシックと給料の支払い遅延がもとでアメリカを去っている。

 この曲も、どこも退屈するところがないと言ってもいいくらいの傑作。
 健康的で親しみやすいメロディーは聴いていて幸せな気分になるし、第2楽章のように郷愁を呼ぶメロディーもまた、穏やかな温もりを感じさせる。

 私にとってはまた、この作品は初めて“ステレオ効果”に衝撃を受けたものでもある。

 わが家にはSONY製の古いトランジスタラジオがあったが、なぜかFM放送でステレオ波を受信すると赤いパイロットランプが点灯するようになっていた。ラジオ本体はスピーカーが1つしかなくモノラル再生しかできないのに、である。

 ラジオの右下に、穴が2つ並んでいる。
 実はこれ、エア式のイヤフォンというのだろうか、一昔前の飛行機のオーディオのようにチューブ式のイヤフォンを接続する穴だったのだ。2つの穴の奥に振動板があり、それによって空気で音が耳に届くというしくみだ。
 なぜか捨てられずに残っていた付属のチューブ式イヤフォンを接続し聴いてみると、そのとき放送されていた「アメリカ」のが実に美しく広がりをもって左右の耳の間に音空間を形作った。

 正直言って、びっくりした。
 “ステレオ”の音ってこんなに凄いんだ!
 そのころからである。私はいつか自分でステレオを持ちたいと、大いなる夢を抱きながらカタログ集めを始めたのは……

 なんとなくノスタルジーを感じつつ、今日紹介するのは1966年という古い録音のもの。
 演奏はスメタナ弦楽四重奏団。
 さらには、リプリント盤。
 写真をご覧のように、ジャケットは写真のみで文字が何も書かれていない。
 どこで買ったのかも覚えていない。
 発売元はピジョン・グループとなっている。
 おしゃぶりと同じ会社じゃ、もちろんないだろう……

 えっ?パスポート持ったかって?

 心配していただきありがとうございます。 
 でも、私の出張の行き先は四国です。
 ニッポンのシコクです。
 ひとっ言もアメリカ出張だなんて言ってませんです。

はげでスカッとしようぜ!

  自分の知らないところで私はすごいことになっているらしい。
 申請もしていないのに国家認定を受けているところから、派遣審査通過しているという連絡が来たのだ。

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 “国家認定高収入プラン専門部MNA”っていうのが、さっぱりわけがわからんが、すごさは感じさせる。
 でも、仰々しいわりには月収100万かい、って思ってしまうのは、これまでに2億円譲渡とかいう申し出をいただいたことがあるせいでしょうか。私、100万くらいならワクワクしないお汚い人間になってしまったのかも。

 それにしても“「派遣」審査通過”っていうのが心に引っかかります。1度しか出てこない“派遣”という語句に、なんだかイライラします。
 あと、テンポイント様って誰ですか?競馬とかと関係あるんでしょうか?モヤモヤします。

 イライラしたときには、モヤモヤしちゃったときには、スカッとした曲を聴きましょう。

e223709c.jpg  一生独身だったがホモ説には裏付けがとれないムソルグスキー(Modest Mussorgsky 1839-1881 ロシア)の、「禿山の一夜(A night on the bare mountain)」(1881-83)。すいません、ムソルグスキーの印象を悪くするような余計なことを書いちゃって。

 この曲は、ムソルグスキーの死後にリムスキー=コルサコフが、「禿山のヨハネ祭の夜」(1867)という作品の最終稿と思われる歌劇「ソロチンスクの定期市」のなかの「若者の夢」と、さらにその前の稿に当たるオペラ・バレエ「ムラダ」のなかの曲を生かす形で管弦楽編曲したものである。

 ということは、「禿山の一夜」の楽想はまぎれもなくムソルグスキーによるものだが、現在私たちが耳にしているオーケストラの響きはR=コルサコフのものに他ならないのだ。

 R=コルサコフが、この曲や、あるいはボロディンの作品の補筆完成やオーケストレーションを行ない後世まで伝えてくれた功績は、実はけっこう大きい。地味ながらいい仕事してる。

 今日はチェクナヴォリアンがアルメニア・フィルを振った演奏を。
 チェクナヴォリアンと言えば、一昔前(ふた昔になるのかな)、ボロディンやハチャトゥリアンなど次々と録音していて、ディスクが出るたびに、すっごい迫力があるなぁと思ったものだ。最近あまり名前を聞かないけど、お元気でしょうか?
 「禿山の一夜」の演奏も、おどろおどろしい重厚な音が繰り広げられ、またやや早めのテンポが不気味さを煽る。録音もリアル。

 1994もしくは'96の録音。ブリリアント・クラシックス(Licensed from ASV)。

 この曲は、聖ヨハネ祭前夜に禿山で幽霊たちが乱痴気騒ぎをするが夜明けとともに消え去るというロシア民話に基づくが、禿けた山で騒いでいたらふもとから徹夜組の人間たちに丸見えじゃないのかなと、私は素朴に疑問に思ってしまう。

ショスタコのバレエ組曲3題

8df5384c.jpg  先日「ロシアとキルギスの民謡による序曲」の話のときに紹介した、クチャル指揮ウクライナ国立響による「ショスタコーヴィチ ジャズ&バレエ組曲・映画音楽集」。

 この3枚組のCDのうち、2枚目は3つのバレエ組曲が収められている。
 それは、
 ・ 「ボルト(The Bolt)」組曲Op.27a(1931)
 ・ 「明るい小川(The limpid stream)」組曲Op.39a(?。原曲のバレエは1934)
 ・ 「黄金時代(The golden age)」組曲Op.22a(1929-30)である。

 ショスタコに限ったことじゃなく、作曲家が自作のバレエを演奏会用に組曲化している例は多い(他者の手によることもある)。
 チャイコフスキーの3大バレエにも組曲はあるし、ハチャトゥリアンの「ガヤネー(ガイーヌ)」には3つの管弦楽組曲がある。ほかにもいろいろ……

 “演奏会用”というのはうまくできたもので、現代風に言うなら“CD鑑賞用”であり、とてもありがたい。
 オリジナルのバレエ音楽は、さすがに音楽を聴くだけの状況では退屈な部分も多いので、このように良いとこどりをしてくれると、鑑賞に耐えうるものになる。
 ショスタコのこの3つの組曲も、どれも親しみやすく、また若い頃に書かれたこともあって、後年の作とはまた違ったおマセとも言うべきメロディーと響きが楽しめる。

 ただ1つ、僭越ながら申し上げたいのは、もしその組曲が気に入ったなら、ぜひともバレエ音楽の全曲を聴いてみてほしい、ということ。
 主要曲以外にも、あなたの琴線に触れる素敵な曲が、組曲になるときに漏れているかもしれないからだ。

 バレエ「ボルト」(1930-31。台本はスミルノフ)については、以前全曲を取り上げた。が、ショスタコ好きの私としてもそうしょっちゅう全曲を聴くのはきつい。舞台なくして音だけに集中するには間延びしてしまう。
 バレエの筋は〈大酒飲みのグーリパは工場から解雇を言い渡されるが、その復讐のために工場の機械の中にボルトを入れて壊そうとする。でも、その企てはばれ、グーリパは逮捕される〉という、なんともやれやれなもの。でも、実はソヴィエトの工業化政策推進に絡んだ官僚主義の俗物を風刺しているのである。
 組曲は8曲から成る。

 バレエ「明るい小川(または、明るい川)」(1934。台本はロプホフとピョトロフスキー)については、以前抜粋盤を取り上げた
 このバレエがきっかけで、1936年にショスタコーヴィチは「バレエの調子はずれ」というプラウダ紙上に発表された論文で共産党から批判されることとなる。
 このバレエは、クバン地方を訪れた芸術家と民衆との交流を面白おかしく描いたものだが、音楽にリアリティがないとして批判されたのであった。
 5曲から成るこの組曲がいつ作られたのかは、私の調べではよくわからなかった。作曲家自身の手によるものではないのかもしれない。ただし、ショスタコーヴィチ自身はその後、「明るい小川」の楽想をいくつかの作品に転用している。
 組曲では魅力的な序曲が割愛されているのが残念である(だから全曲を聴くことも大切だって私はしつこく言ってるわけだ)。 

 バレエ「黄金時代」(1929-30。台本はイヴァノフスキー)は、ある資本主義国の大都市で開催されている“黄金時代”という名の博覧会におけるソヴィエトのフットボール・チームを題材にしたもの。その競技が行なわれていく過程を通じて資本主義社会の堕落を風刺している。
 組曲は4曲から成り、組曲の方がバレエに先だって初演されている。

 このCDはブリリアント・クラシックスから出ているが、前に書いたように録音年は不明。でもDDDであり、録音は良い。

 何となく自宅のパソコンのハードディスク作動音がグチャラグチャラしている気がして、日曜日に“診断”を行なってみた。
 診断結果は“ハードディスク 機械的トラブル の可能性”。

 私の耳もたいしたもんだ。
 じゃなくって、やれやれぇ~。
 いつ発作が起こってもおかしくないって状況か?
 ハードの修理となると4万ぐらいするそうだしな……
 放っておくしかないな。救心を挿入するスロットもないし。
 ストレスを感じるな、私。

 そして、わが家の車・レガシーも、気温の低下のせいかエンジン・ルームからのポコポコ音が大きくなった。まるでヘリコプターが追いかけてきているかのような音だ。
 8月に車検を受けたばかりで、そのときは音はするが走行には支障ないということだったが、世の中っていうのはどんなときだって誤診とか、検査での見落としや過小評価ってことはある。

 セントラル・ヒーティングのボイラーも14年が経ち、例年夏前に来る「定期点検のお知らせ」も今年は来なくなった。もう新しいのに買い換えなさいっていう無言の忠告なんだろう。

 キッチンのIHヒーターだって、同じだけ経年しているわけで、怪しい。

 こうやって、次から次へと示し合わせたように不調を訴えてくる。
 私の気持ちも不調になりそうだ。

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