R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949 ドイツ)には2つのホルン協奏曲がある。
第1番変ホ長調Op.11は1882年~83年にかけて作曲された。このときR.シュトラウスは19歳。
一方、第2番変ホ長調の方は第1番よりずっとあとの1942年に作曲されている。晩年の作だ。
R.シュトラスの父フランツはホルンの名手であった。
ワーグナーはフランツの腕を高く評価し、バイロイトでの楽劇上演にはオーケストラの一員として必ず彼を呼んでいたが、演奏以外のときにはワーグナーは彼を「我慢ならない男」と嫌っていたという。保守的なフランツはワーグナーの作品のホルン・パートを演奏するのを好んでいなかったためだ。
リヒャルトが書いたホルン協奏曲第1番は、名ホルン奏者だった父に献呈されている。ソリストの華麗な技巧を十分に披露できるように作られたカッコイイ曲だ。ホルンという楽器を良く知っていたからこその作だろう。
一方、第2番は技巧的ではあるが、おだやかで田園的な雰囲気を持つ作品だ。そのどこか郷愁を誘う味わいは独特のものだ。
私は第2番の方が好きだったが、このところ第1番の方を聴くことが多い。
若返ったのかしら?
趣味の悪い冗談はさておき、今回のプライベートな東京への旅行は、一度息子の暮らしぶりを見てみようというのが1つの目的であった。
といっても、私にはそんなことさして関心はないのだが、母親というのは概して心配性であり、妻の休暇があるのなら行ってみようという圧力から行くことになったのだ。
その次男坊。
中学、高校と吹奏楽部でホルンを吹いていた。
ソロ・コンにも出たことがあるが、そのときに吹いた曲がR.シュトラウスの第1協奏曲だった(もちろんピアノ伴奏の抜粋版)。
にしても、自分の息子がステージ上で吹いているのを聴くのは精神衛生上極めて良くない。音がひっくり返ったらなどと想像すると、演奏を聴くどころではない。ただただ、何カ所間違えたか、何回音がひっくり返ったかを意地の悪い姑のごとく数えたものだ。
その息子も大学に入ってからは演奏をやめている。
部活をするにもけっこうな金がかかるからだそうだ。
親ばかかもしれないが、もったいない気はするのだが……
楽器は持って行っているが、部活をしてないと練習する場所もないし、あとは腕も楽器もさびつくだけか?楽器高かったのに……
その第1協奏曲だが、今日はクレヴェンジャーの独奏、バレンボイム指揮シカゴ交響楽団の演奏を。
クレヴェンジャーの、気分がスカッとするぐらいの抜けが良い伸びやかな音が快感だ。
1998録音。apex(原盤テルデック)。
他にオーボエ協奏曲などが収録されている。
October 2011
おととい、ヴァシリー・ペトレンコ(余談だが、単に“ペトレンコ”で検索するとフィギュア・スケート選手が最初にヒットする)が指揮したショスタコーヴィチの交響曲第5番のCDを紹介した。
私としてはこの演奏にけっこう満足したが、そうなるとほかの曲も聴きたくなるのが人情というもの。
ところでの若手指揮者でショスタコと聞くと、私の頭に浮かんだのは、今年のPMFでショスタコの10番を振ったポーランドの新鋭ウルバンスキである。
PMFでの演奏はなかなか良かったものの、まだオケが訓練されていなくてウルバンスキの力量が発揮されたとは言えなかったのではないかと思う。実際、事前の新聞記事の期待する内容からすると、どうも消化不良に終わったのではないか?
原発事故で急に来なくなった指揮者の代役として来てくれたのに、なんだか申し訳ない気持ちになる。
別に意地悪く比較しようという気持ちからではないが、ペトレンコの2枚目として私はそのショスタコーヴィチ (Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第10番ホ短調Op.93(1953)を聴いてみた。2009録音。ナクソス(写真上はスリーヴのもの)。
で、これまた小馬鹿にする気はないのだが、なかなか面白いのでCDの帯に書かれている文句をご紹介すると、「全てが爆発する瞬間を待つ楽しみ 彼はまた、新たな世界を見せつけた」ってもの。なんか、岡本太郎みたい。
細かな文字では「ムラヴィンスキーが初演して以来、多くの指揮者たちがこの曲の本質を描きだすべく願っていますが、ペトレンコの演奏は、また新たな一石を投じることになるでしょう。第4楽章、燃えます。ペトレンコは完全にショスタコーヴィチを手中に収めました!」と書かれている。
そうなの?多くの指揮者たちが願っていたの?
どういうふうに一石を投じたの?
燃えちゃったの?延焼はしなかった?大丈夫?
というような、愚かな独り芝居はやめて、さっさと聴いてみた。
す、す、すごい!
最初の音から引き込まれた。
張りつめる緊張感と密度の高さ……
ショスタコの交響曲って同じ楽譜を演奏しているはずなのに、「なんで?」と思うくらいスカスカな響きの演奏に出会うことがある。第10番だって例外ではない。
しかし、ペトレンコの演奏はこんなに厚みのある作品だったのかと思うほどの響き。
鳴るところ、ひそひそするところ、悲しむところ、から騒ぎするところ、そのどれもが必然的に鳴り響く。
「第4楽章、燃えます」ではない。
「全曲、萌えます!」。
これまで聴いてきた第10番の演奏の私のベスト!
ほんと、いい!
これは絶対聴いて損をしない演奏だ。
ある期間中は何度も何度も繰り返し聴いていたのに、いまとなってはまったく聴くことのない曲というのがある。
嫌いになったわけではない。
生で聴いて気に入って、たまたまFMですぐにエアチェックでき、それを何度も聴いていたものの、カセットテープを聴く物理的手段がなくなり、では新たにCDを購入したはいいが、それが全然気に入らない演奏で、かといって別なCDを買うまでもないか、というような具合で、かわいそうに私に見向きがされなくなった不幸なケースである。
そんな曲の1つにシャブリエ(Emmanuel Alexis Chabrier 1841-94 フランス)の狂詩曲「スペイン(Espana)」(1880)がある。
シャブリエは少年のころからピアノと作曲を学んだものの、父親の意向で1861年から80年まで内務省の官吏を務めた。しかし、ドイツでワーグナーの音楽に接し大きなショックを受け、役所を辞めて音楽に専念するようになった。
彼は1882年にスペインに旅行したが、そこで受けた強烈な印象をピアノ曲「スペイン」にした。その後、指揮者のラムルーが管弦楽編曲することをシャブリエに強く勧め、シャブリエの作品中もっとも有名なこの狂詩曲「スペイン」が完成したのだった。
私が初めてこの曲を聴いたのは1980年の札響の定期演奏会でだった。
指揮はジャン・バティストゥ・マリ(彼はしばしば札響に客演してくれていた)。
明るくて親しみやすくて、そして鳴るところはしっかりと鳴り響くこの小品に私はすっかり魅せられてしまった。全面的に良い意味で言うが、この曲は人々に広く親しまれる名曲としての通俗的魅力に満ち溢れているのである。
その後、エアチェックした演奏で親しんだが(フィードラー/ボストン・ポップス響の演奏)、その後はCDを購入。しかし、フルネ指揮都響のこのオムニバス盤(DENON)、音は悪くないのだが音楽としては全然輝いてこないもので(明らかに録音のせい)、すっかりこの曲から遠ざかってしまった。
最近になってapexの廉価盤を見つけたので買ってみた。
ジョルダン指揮フランス国立管弦楽団によるシャブリエの管弦楽作品集だ。
うん!やっぱりこの曲楽しい!
満足!
昔の親友に久しぶりに出会ったような気持ちになれた(昔の親友なんて私にはいないので、どんな気持ちかは想像ベース)。
このCD、他に収められている曲は、んー、でも今一つ退屈。
あのラヴェルまでもがシャブリエを評価していたというのに……
1982録音。apex(原盤エラート)。
私はスペインに行けないし、行きたいとも思わないので、昨日からプライベートで東京に来ている。今日は鎌倉に行ってみる。
私に顕在的音楽的才能があったなら狂詩曲「カマクラ」を書くところだが、一生潜在したままで終わりそうなので無理である。
そうそう、おととい(木曜日)のお留守番中には「近くにできた焼肉屋のもので~す。ご挨拶に参りました。玄関開けてくれます?」という訪問者があった。
開けません!
近くに焼肉屋なんてできてないもの。
近ごろこういう嘘を言って玄関ドアを開けさせようとする奴が多いらしい。実態は何か知らんが、妻によると2週間ほど前には「近くにオープンするイタリア・レストランの者です」というのもあったそうだ。
もちろん2週間経った今も、近所には宅配ピザ屋1軒さえオープンしていない。
だいたい、ドアを開けてもらえなかったとしてもチラシぐらい入れておくはずだ。本物なら。それがイタリアンでも焼肉屋でもなかった。
うそつきは泥棒の始まり、ではなく詐欺の始まり……
![824ceb7f.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/rose_music_etc-old/imgs/s/h/shostakosym5petrenko1.jpg)
ペトレンコは1976年生まれ。
CDの帯によると「最近注目の若手指揮者の中でも、とりわけ有望株の1人」なんだそうだ。
ナクソスから出ているのだが、ご丁寧に紙のスリーヴに入っている。
スリーヴの中の通常のジャケットはショスタコの姿。いかにも神経質そうだ。でも、良い写真だ。
じゃあ、そのペトレンコのショスタコ5番の演奏がどういうものなのかというと、同じくCDの帯に書かれているのを読むと、「ショスタコって、確かに昔は泥臭いイメージがありました。しかし、今はモデルチェンジしたかのようにスタイリッシュです」とある。
昔は泥臭かった?
そうだろうか?
私はショスタコの作品に泥臭さを感じたことはあまりない。
ロシア5人組のような民族楽派はとにかく泥臭い、というか土臭い。あれはあれでロシアの大地を思わせてすごくいい。
しかし、チャイコフスキーとなるとその土臭さはだいぶ影をひそめる(カリンニコフはもうちょっと土臭くて、チャイコフスキーほどヨーロッパっぽくない。私好きですけど)。そして、ショスタコやプロコフィエフになると、そりゃロシアの血は受け継いでいるものの、昔も今も土(泥)臭いというものとは違う。
特に第5番なんかは、なかなか泥臭く演奏できないんじゃないかと思うのだが……
そういう意味では、このセールス・トーク、かなり微妙。いい加減さを感じる。
しかし、「へぇ、じゃあどんなもんだか聴いてやろうじゃん」と私は購入してしまった。そういう意味では、このセールス・トーク、かなり巧妙。
どれどれ。
さっそく聴いてみた。
第1楽章。冒頭から堂々とした響き。しかしあまり重苦しさはない。響きに透明感がある。一歩一歩踏みしめるようにして曲は進む。展開部に入ってもあまり感情を露わにせず、音量はあるがオケが暴走するようなことはない。再現部もとても美しい。が、スタイリッシュっていう言葉は当てはまらない。このあたりはとても情感豊かだ。
第2楽章。この楽章もじゅうぶんに諧謔的。スタイリッシュという言葉は、この演奏には逆に失礼な例えと思えるぐらい。
第3楽章。この楽章の魅力を十分に引き出している美しい演奏。オケも巧い。
第4楽章。緊迫した開始。テンポはノーマル。その後ややアクセルを踏む。第1楽章同様堂々としていて響きの厚みもある。アンサンブルは決して破綻しない。曲尾はスロー・テンポ。このテンポは私の好みではない。
トータルでみると見事な演奏。ショスタコの5番に新たな名演が加わったと言えよう。
しかし、モデルチェンジとか、スタイリッシュとは思えない。いたって正統的な、でもすばらしい演奏だと思う。
2008録音。ナクソス。
あれ?泥臭いって、もしかすると演奏そのものじゃなくて、スヴェトラーノフみたいな指揮者のイメージのことを言ってるのかな?
休暇2日目の昨日(10月26日・水曜日)。
雨が降った形跡があったが、朝食後にさっそうと外に出て脚立に登り、プルーンの太い枝の伐採作業。
「しょっちゅうプルーンの枝を切っているのではないか?いったい何本あるんだ?」と思われるかもしれないが、1本である。
ただ私の場合、1つの作業を一度に完遂するという根性に欠けているため、何度かに分けて作業しているのだ。車の運転だって適度に休むことが推奨されている。ましてや剪定ばさみやのこぎりといった凶器を使った作業に無理は禁物と言えるだろう。
前に、脚立ごと地面に叩きつけられた経験があるので作業は慎重に行なわれた。そして、昨日で作業は完璧に終わった。
今回は何本かの太い枝をのこぎりで切る作業だったので、けっこうしんどかった。「トムとジェリー」で、スパイクがドルーピーを下敷きにしてやろうと木を切る光景を思い浮かべながら(「倒れるぞぉ~!」)作業に集中した。 プルーンの木の下にあるブルーベリーもここにきてやっと食べごろに熟したので収穫(どアップで写真を撮ると不気味だ)。こういうことなので、今のところわかさ生活の通販にお世話になる必要もない。
これらの作業は1時間ほどで終わったが、寒空の下での働きでかなり体力を消耗(なんせ日中の最高気温が11度!)。すっかり1日分老化したような気持ちになってしまった。
こんな寒いのにまだ名も知らぬ虫がちょろちょろしている。
「アリとキリギリス」の話だったら、もうアリは巣の中で落ち着いた暮らしをしているのだろう。実際、アリの姿はまったく見かけなくなった。また、アカトンボの死骸が物悲しく地面のあちこちに散らばっていた。
「イソップ寓話集」の中でも1、2を争うほど有名な「アリとキリギリス」の話だが、岩波文庫ではキリギリスではなく甲虫ということになっている(原作に近いのはセミだともいう)。
先日、岩波文庫の「完訳 クルイロフ寓話集」(内海周平訳)を読んだ。
クルイロフ(1769-1844)は帝政ロシアの世をこの寓話で批判したが、203篇の寓話の中にはイソップやラ・フォンテーヌの寓話から題材を得ているものもある。
このクルイロフの寓話をテキストにして曲を書いたのがショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975 ソヴィエト)。「クルイロフによる2つの寓話(2 Fables after Ivan Krylov)」Op.4(1922)がそれである。 この曲については過去にほんの触り程度に書いているが、2曲から成り、第1曲は「こおろぎとあり」、第2曲は「ろばとナイチンゲール」である。
「こおろぎとあり」は岩波文庫では「とんぼと蟻」になっており、“この寓話はイソップの「蝉と蟻たち」、ラ・フォンテーヌの「蝉と蟻」から題材を得ている”との注釈がある。もちろん、内容は「アリとキリギリス」と共通する教訓が書かれている。
「ろばとナイチンゲール」は、文庫では「驢馬と鶯」。驢馬が歌が上手いと言われている鶯にどれほど上手いか聞かせてくれとお願いする。鶯は見事な歌を披露するが、それを聞いた驢馬に「確かに上手いけど、ウチの雄鶏から学んだらもっと上手くなるよ」と言われる話。こんな審判者はまっぴらだという風刺である。
私が持っているCDは以前にも取り上げたものの1種類だけ。
ボリサヴァのソプラノ(第1曲)、モスクワ・コンセルヴァトリー室内合唱団(第2曲)、ロジェストヴェンスキー指揮USSR文化省交響楽団の演奏。
1979録音。メロディア。
若きショスタコーヴィチがなぜこの寓話を用いようと思ったのか私は知らないが、ルビンシテイン(Anton Grigor'evich Rubinshtein 1829-94 ロシア。「5つの寓話」Op.64)などもクルイロフの寓話に基づく作品を残している。
休みで家にいると、いろんなことがあるものだ。
昨日の昼過ぎにピンポォ~ンと玄関のインターフォンが鳴った。
「はい」と出ると、異様にハイ・テンションな語り部が!
「こんにちはぁ!お忙しいところすみません!このたびこのあたりをご挨拶に回っている者でぇす」
回っていると主張しているわりに、モニターに映っている画像では回転しながら話している様子はない。
瞬間的にうさん臭いことがわかるので、わざと意地悪に問う。
「で、何がでしょうか?」
「いや、はい、新しい商品のご案内で。開けていただけますでしょうか?」
「新しい商品って何?」
「はい、当社の新しい建材でして」
「建材に今のところ関心はありませんので」
「あぁっ、そうですか……」
と思ったら、今度は電話。
「〇〇様のお宅でしょうか。このたび、会員様にセキュリティを守るための電話の暗証番号サービスのご案内です」
電話会社だ。
「うち、あんまり電話使いません」
「とは、いいましても通販などで電話番号を先方に伝えることも多かろうと思いますが」
「通販あんまり利用しないです」
「一度詳しいご説明のパンフレットをお送りいたしたいと思いますが」
「そちらのホームページに載ってるんですよね?」
「はい」
「じゃあ、そっちを見てみます」
「そうですか。またお電話いたします」
ガチャン。
これはうさん臭いところからの電話ではなかったが、でもねぇ……
まっ、いいや。今度電話が来る時は、私は家にいないときだろうから。
昨日から私は、会社からのちょっとしたご褒美で休暇に入ったが(つまり「来なくていい」と言われたわけではないのだ)、昨日起きた時刻は6:30。
いつもより遅くはあるけれど、せっかくの休みなのになぜ早くに目が覚めてしまったのだろう?
答えは、おしっこがしたくなったのと、おなかがすいたから。
なんと片ひじの張らない自然体な生き方なのだろう!
で、食事をしたあともうひと眠りした。
再び目覚めたのは10:30。
なんとなく背中から腰にかけてだるさと若干の痛みがあった。
風呂に入り、新聞を読み、そのうち昼になり、なんとなくラーメンが食べたくなったので最近オープンしたラーメン屋に行き、醤油ラーメンと小ライスを食べ、会計の時に「ランチタイムのときは小ライスはサービスです」と言われ、庶民ならではのプチ・ハピネスを感じ、そのあとホーマックに行った。
その目的は、車のストップランプの電球が片方切れているのにおととい気づいたからで、その電球を買ったとたんに、今度はさっき食べたラーメンが私にはちょっとコッテリしてたなと感じるようになってきたので、店内のドラッグ・コーナーでザッツ21を買い、その場でこの胃薬を会計しようとしたら「そちらのお品物もここでご一緒にお会計できますよ」と言われ、どうも丁寧語が無茶苦茶だなと思ったものの、薬のコーナーで車の電球も一緒に会計してくれるなんてとっても便利ぃ~と、庶民ならではの続・プチ・ハピネスを感じ、家に帰った。
家に帰ると電球を取り換え、ストップ・ランプが本来の機能を果たすことを確認し、私は有能な自動車工になった気がした。
そんなとき、かねてから「自分の部屋のTVを買いたい。来年の春からはどうせ独り暮らしになるんだから今から買っておきたい」と言っていた長男が、いよいよそろそろTVを買うと言い放ったので付き合いで電器屋に行った。
32型でハードディスク内蔵のものが59,800円とお買い得で、たいした良い買い物をしたと、庶民ならではの続々・プチ・ハピネスを感じて家に帰ると、タイミング悪くその電器屋からダイレクト・メールが届いていて、それには3日後から会員様限定でオール10%オフということが書かれていて、私は小さく書かれていた「一部除外品があります」という文字に希望を託したものの、でも多分あのTVだって来週買えば10%オフになったんじゃないかという疑念は払い切れず、庶民ならではのノーマル・アンハピネスの気分を味わった。
そのあと床屋に行き、久しぶりに前髪にパーマをかけ、髪にコシが出た頭にちょっと嬉しくなった。こうして1日が終わったが、要約すると、ラーメンを食べて、息子のTV購入に付き合い、床屋に行った、という実に過疎的1日だった。
問題は背中~腰の痛みで、もしかするとありがたいことにもう10年以上発症していない尿管結石の痛みが、長い沈黙を破って大発症ではないかと不安になったが、その後痛みが強くならなかったということは結石ではなく、単に先週1週間、ちょいと慣れない仕事をしたせいだという結論に至らせた。
私が結石の痛みにもんどり打った記録は、いまからほぼちょうど3年前に当ブログで「私が育んだ石」のタイトルでけっこう長々と何回にもわたって書いている。結石初心者の方にとってはけっこう参考になる内容だと自負している。さらに不安を煽るという点で。
とにかく尿路結石(腎臓結石、尿管結石、膀胱結石)の痛みは尋常じゃない。どんな体勢をとっても痛みは和らがない。どんなにHなことを想像しても苦痛はまったく緩和されない。
結石を題材にした音楽作品がある。クラシック音楽というのはまったくもって侮れない。それはマレ(Marin Marais 1656-1728 フランス)の「膀胱結石切開手術の図(Le tableau de l'operation de la taille)」である。
いや、正確にはこれは結石の苦痛を描いたものではない。タイトルにあるように、膀胱結石の手術のこの上ない苦痛を描いたものだ。
当時の手術は衛生的に問題があり多くの人が手術によって亡くなったという。しかも麻酔もなかった。
そんな命に関わる手術を音楽にしてしまう、ましてやこの曲では手術は成功するという内容は、手術失敗者多数の当時おいてはけっこう大胆な行為である。
「膀胱結石切開手術の図(または、膀胱結石手術図)」は「ヴィオール曲集第5巻」(1725刊)の中の1曲。膀胱結石切開手術の図~快癒~その続き、という3部分に分かれており、語りが入る。
第1部の語りの内容は次の通り(下で紹介するCDの解説書より転載)。
手術台の様子
それを見て震える
手術台に登ろうと決心する
手術台の上まで行き
降りてくる
真剣に反省
腕と足の間に
絹糸が巻きつけられる
いよいよ切開
鉗子を挿入する
石が取り出される
声も出ない
血が流れる
絹糸がはずされる
寝台に移される
とにかく、絶望的な語りとパニック、それを煽るような暗く悲しげな音楽が、命を賭けた極限の状況に置かれている患者の心情を見事に描いている。
そのあとはいきなり快方。すっきりハッピー!
申し訳ないが、はっきり言って笑ってしまいそうになる。
樋口裕一が書いた「笑えるクラシック」(幻冬舎新書)という浅くてつまらない内容の本があった。私は僭越にもどうしようもないと酷評したが、こういう作品こそ取り上げるべきじゃないですかね。そういう深みがあるなら私だって尊敬します。
今日紹介するのはアーノンクールのヴィオラ・ダ・ガンバによるCD(語りはアーノンクールの弟のフランツ・アーノンクール)。CDタイトルは「バロック期の標題音楽集」。1969録音。テルデック(タワーレコードDetour Collection)。
なお、鈴木淳史は「背徳のクラシック・ガイド」(洋泉社新書)の中で、アーノンクール盤よりもパオロ・パンドルフォ盤の表現力を推している(私は未聴。現在入手困難)。
優子さんから、ぜひとも私にお金をもらってほしいというお願いが来た。
優子@お金貰ってさんからのメッセージ。
*件名*
おめでとう御座います☆掲示板で目についた方に無差別でメールを送っています。先着順で【欲しい額】無償配布中です☆即決下さい
*本文*
自宅、家具・家電類、美術品、車、私の持っている全ての『財産』を売却し、現金に変えました。
総額で3億4200万円、このうち『9000万』だけを残して全て慈善団体の寄付しました。残り『9000万』このお金を?欲しい?と連絡をくれた方に、【無償】でお好きな額を差し上げています。
大体30人~50人ぐらいの方に声をかけてゆく予定ですので、お早めに連絡を頂ければ貴方の【希望額】が手に入ると思います。
今回このような行為に及んだのは、私は温室育ちの令嬢じゃない!という事を見せ付けたいと思ったからです。
私はお金持ちの家に生まれ、何不自由せずに暮らし、何事も無いまま今までの人生を生きて参りました。
そんな苦労もしてない私に≪人間としての魅力が無い≫とこのサイトの男性にメールで去年言われ、それをずっと引き摺って今も苦しんでいます。
そこで私も普通な人生を過ごしてみたいと思い、来月からはアパートを借りて、一人暮らしをする事にしました。
このメールは嘘や冗談でも悪戯なんかでもありません!本気です。
希望額を仰って頂ければ、数時間後には貴方のお手元にお金がゆくよう手配します。
貴方はいくら、貰ってくれますか?…
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しっかしさぁ、こういうことすること自体が温室育ちなんだよ!って、ちと違うか?
こんな金をもらったら、悪魔に魂を売ったのと同じくらいひどい目に遭うぞ!まあ、どうせ嘘八百の話に間違いないんだけどさ。
そこで悪魔に魂を奪われた男の物語。
ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971 ソヴィエト→アメリカ)の「兵士の物語(Histoire du soldat)」(1918)。フランス語による2部から成る舞台作品である。
この作品が書かれたのは第1次世界大戦末期であり、当時の経済情勢を反映して、編成は各奏者1人のクラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーン、ヴァイオリン、コントラバス、打楽器という小規模なものになっている。
台本はC.F.ラミューズ。元の物語はアファナシエフのロシア民話「脱走兵と悪魔」である。
物語の筋は、
1人の兵士が故郷へ帰る道の途中で悪魔に出会い、そそのかされて自分のヴァイオリンと悪魔が持っていた「金儲けができる」という本を交換する。
字が読めない兵士は3日間悪魔の家で本の読み方を教わったあと、故郷へ戻る。
しかし、かつての婚約者には夫と子供がいて、3日間が3年だったことがわかる。
その後兵士は本のおかげで金儲けができたが、心は満たされないまま。そこに変装した悪魔が現れ、あのヴァイオリンを兵士に売りつける。兵士は言い値で買ったものの、ヴァイオリンは鳴らず、ヴァイオリンを投げつけ本も破り捨てる(以上第1部)。
あてのない旅に出た兵士。
あるところで、国王の娘が原因不明の病に侵され、その病気を治した者は王女と結婚できるという話を耳にする。
兵士は城へ向かうが、城の控えの間にヴァイオリンを持った悪魔が現れる。悪魔と賭けトランプをして負けた兵士は、金を返したということによって悪魔を倒してしまう。そしてヴァイオリンを持って王女の部屋に行き、弾く。
すると王女は起き上がり、踊りはじめる。
こうして兵士と王女は結ばれるが、悪魔は2人が国境を越えることがあれば自分の手に落ちると言い放つ。
兵士は自分の故郷に戻りたい気持ちを抑えきれず、王女を連れて国境を越えてしまう。
その瞬間、兵士は待ち伏せした悪魔に連れ去られる(以上第2部)。
「兵士の物語」は、ストラヴィンスキーの新古典主義への移行を示す作品として重要な位置づけにある。あの「春の祭典」を書いた“恐るべき子供”が大方向転換したのだった。
H.C.ショーンバーグは「大作曲家の生涯」(共同通信社)のなかで、次のように書いている。
兵士と悪魔をめぐるロシアのおとぎ話に基づいた『兵士の物語』は、さまざまな音楽形式を全く異なったリズムと組織に編成し直して、様式的に扱うといった、全く新しい方向を指向している。ミニチュアのワルツにタンゴ、ミニチュアの合唱曲に行進曲と、万事が小作りである。
ジャズも一役買っている。ストラヴィンスキーは1962年に、こう書いた。
「ジャスに関する私の知識は、全く楽譜から得たものだった。ジャズ演奏を実際に聴いたことは一度もなかったので、そのリズム様式は演奏されたものでなく、書かれたものとして借用した。しかし私は、ジャズの音を想像することができたと思いたい。いずれにせよ、ジャズは私の音楽中の全く新しい音を意味し、『兵士の物語』は、私がそのなかではぐくまれたロシアの管弦楽法から、ついにたもとを分かったことを示す里程標である」
『春の祭典』の複雑さに文句を言う者でも、音が明確で手法がつつましい『兵士の物語』にはあまり異議を唱えることができなかったであろう。この作品と『管楽器のための交響曲』の次に発表されたのは、1923年の『八重奏曲』だったが、ストラヴィンスキーは『交響曲変ホ長調』以来初めて、このなかでソナタ形式を使用した。こうして、ストラヴィンスキーの新古典主義が開始された。つまり歴史的様式を現代の言葉で表現する手法である。
「ミニチュアの合唱曲」というのがよくわからないけど……
以前、この作品ではブーレーズの指揮によるCDを紹介した。
ブーレーズ盤は洗練された演奏で、とてもすばらしいものだが、今日はちょっとタイプが違う演奏を。
コクトーが編集した台本による演奏で、Wikipediaによると初演時のラミューズ版と以下の点が異なる。
1. 第1部と第2部の区別がない。
2. 各登場人物の発言をそれぞれの役(語り手、兵士、悪魔、王女)に割り振っている。そのため、本来はパントマイムだけでせりふがない王女にもわずかだがせりふがある。
3. 台本では“ト書き”になっている部分を、語り手が読み上げている。
ブーレーズ盤はよどみなく進んでいくのに対し、こちらはちょっと泥臭く、いかにも“劇”といったせりふ回しが楽しい。名演技だ。
また、電話のベルなどの効果音も随所に使われており、舞台を観ているかのようとまでは言わないが、けっこうなリアル感がある。退屈しないという点では、ブーレーズ盤よりもこちらの演奏だ。ただ、ブーレーズ盤の方が好き嫌いの大きな差は出ないだろう。
マルケヴィチ指揮アンサンブル・ド・ソリスト、コクトー(語り)、ユスティノフ(悪魔)、フェルテ(兵士)、トニエッティ(王女)。1962録音、フィリップス。
フランス語と言えば、昔アラン・ドロンが出ていたダーバンのCF。
終わりにアラン・ドロンが「ダーバン、セデデゴンステァンマディアン」みたいな決め言葉を言っていた。私はそのマネが比較的上手だった。
なんだかすごい仰々しいメールが来た。
皆様、はじめまして。
私、特別情報取扱最高責任者の池上と申します。
おそらく、皆様にこのように直接メールをお送りするのは初めてでしょう。
かつては、私も現地情報収集部の部長という立場で、様々な現場の情報を取り扱っておりましたが、今週から弊社の特別情報が新しくなるという事で、長年現場の情報に携わっていた私が一番その経験を活かせる職務という事から白羽の矢が立ちまして、今週から特別情報の取扱・管理を担当する最高責任者という役職を任される事となり、大変責任を感じておる次第です。
今回のプラチナクラス役員認定情報の取り扱いも、この私が担当をさせて頂いております。
かつて、直接現場に携わっていた事から、今回のこの情報については、本当に相当な精度を誇っているものと自分自身でも驚いているほどです。
まさか、自分が特別情報取扱最高責任者という役職に就任した初めの週に、これほどの素晴らしい情報をご提供出来る事となり、情報担当者冥利につきるというものです。
そこで、確実に皆様に高額回収を果たして頂こうと一切の不備も許さぬよう、私も提供元の方に出向いておりました。
本日の15時まで皆様にご案内をさせて頂いておりました、今週の情報の件につきまして、先ほど提供元と会議を開いておりまして、提供の内容について話し合いを行っており、そこで、急遽新たな展開がございました。
この事例は、まだ現段階では提供元から正式に承諾がおりておりませんので、今はお伝えする事は出来かねますが、もう間もなく詳細の方がおりてくる事と思います。
今週から社をあげて、リニューアルを成し遂げた特別情報の第1弾、プラチナクラス役員認定情報。
もし、このプラチナクラス役員認定情報に、ご参加を少しでも考えてはいましたが、それでも何らかの諸事情でご参加に至らなかった方。
なぜ、私がここまで強くご案内をさせて頂いているのか。
それは、本当に今回の情報には自信と確信があるからでございます。
もう間もなく新たなご案内が出来ると思いますので、もう少々お待ち頂ければと思います。
クロカゲ
特別情報取扱最高責任者
池上
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なんだ、競馬かい……
しっかし、なにが“現地情報収集部部長”だの“情報担当者冥利につきる”なんだか……
滑稽だね。
笑っちゃうね。
ということで、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949 ドイツ)の「ブルレスク(Burleske) ニ短調」(1885)。ピアノとオーケストラの協奏的作品である。
なぜ今日、ブルレスクなのか?
ブルレスク(ブルレスカ)というのは、“ふざけた”という意味だからだ。
このスパム・メールを読んで、「ふざけてんな、まったく!」と思わない人が、果たしているだろうか?まあ、いるんでしょうけど……
ブルレスクは、クラシック音楽においてはふざけた性格の楽曲に名づけられる。
R.シュトラウスの「ブルレスク」は、しかしながら聴いていてもけっしておちゃらけた感じの曲ではなく、なかなかシビアで堂々としたカッコいい音楽。
単一楽章の作品だが、大きさを感じさせる。
私はこの曲をアンネ・ローゼンシュミットの独奏、チェッカート指揮NHK交響楽団の演奏で知った。エアチェックしたものを何度も聴いたが、カセット時代が終焉した後は、ディスクを買うこともなく過ごしていた。
先日、最近“お気に”のapexレーベルのラインナップのなかにこの曲のCDを発見。久しぶりに聴いたみたが、なかなか良い曲なのになんでもっと聴かれないのかなと、素朴に疑問に思ってしまった。という私もずっと聴いていなかったわけだけど……
ぜひ聴いてみてください。知らない方は。
さて、apex盤の演奏はグリモーのピアノ独奏、ジンマン指揮ベルリン・ドイツ交響楽団。1995録音。
カップリングはブラームスのピアノ協奏曲第1番だが、続けて聴くとR.シュトラウスの「ブルレスク」がブラームスの影響を受けていることがわかる。
おとといのことだ。
いけない私は勤務時間中であるにもかかわらず、何か仕事のヒントになることがそこいらへんに転がっているかもしれないと自分に暗示をかけ、そこらへんをタウン・ウォッチングしようと決意した。
近くの百貨店で物産展をやっていたので覗いてみることにした。
その会場を紳士的にうろついていたら、そこそこな年齢の女性と、そこそこ以上の年齢の女性の2人連れに声をかけられた。
スーツ姿で、しかも名札(身分証)をぶら下げてていたので応援販売員に間違えられたのだろう(少なくとも相手は僧侶に声をかけようとしたつもりがないことは、その表情から見て取れた)。
「ラッキョウはどこですか?」
そこそこな年齢の女性が私に放った言葉はこれであった。そして瞬時に頭に浮かんだのは湯気がたっているカレーライスの映像だった。
私は、「はぁ……、良く存じませんが地下の食品売場なら間違いはないかと……」と答えた。
すると女性は私の名札をじっと眺め、社名をチェックし、そこに書かれてある私の名前(もちろん本名だ)を口に出して読み上げた。
「ム……、ムタ……、ムタクチ……、ムタクチジクロロフェニルベンゼン……、えっ?、ムタクチジクロロフェニルベンゼン?ムタクチジクロロフェニルベンゼンって、あの手稲東小にいたムタクチジクロロフェニルベンゼン?〇〇に勤めているとは噂で聞いていたけど……」
このように、彼女は私のフルネームを噛みしめるように、ただし呼び捨てで読み上げた(言っておくが、ここではブログ上の仮名を使っている。戸籍上の名前ではないことをぜひとも誤解しないでいただきたい)
この突然の出来事に、私は彼女が架空請求者の使者かとも思ったが正直に答えることにした。
「はい。担任は宮川先生でした」
「お母さん、やっぱりそのムタクチジクロロフェニルベンゼンさんよ!」
どうやらこのそこそこな年齢の女性の横にいる、そこそこ以上の年齢の女性は、そこそこな年齢の女性の母親のようだ(そして、やっと“さん付け”にしてもらい、ラッキョウ漬けと同格にしていただけた)。
「伊東です。私、伊東ユキコです!覚えてます?」
ここで、「いいえ」とは言えない。
少し考えた
おぉ!確かにその名前の同級生はいた。
そこそこな年齢の女性は、実は私と同い年だったのだ。つーことは、私は他人から見ればそこそこな年齢の青年に見えるということなのだろう。
彼女の顔を見ると、確かに当時の片鱗があるような、ないような……
隣のそこそこ以上の年齢の女性=母親の顔も、かつて授業参観日か何かで見たことがあるような気にすらなってきた。
しかし、困ったことに、私の頭にはなぜか伊東ゆかりの顔が思い浮かんで消えなくなってしまっていた。
小学生の時の伊東ユキコちゃんが、当時すでに大人だった歌手の伊東ゆかりのような地味な顔をしていたわけがないのだが、すっかりごっちゃになってしまった。
私の脳みそは、そこそこの年齢のせいでシルヴェストロフの音楽のようにフワフワになってしまったのだろうか?
シルヴェストロフ(Valentin Silvestrov 1937- ウクライナ)という作曲家を知ったのはごく最近のことだ。
メユールとともに、タワレコのapexのセールで新規作曲家開拓の一環でCDを購入したのだった。
CDに収められているのは独奏ヴァイオリンと管弦楽のための交響曲「献呈(Dedication/Widmung)」(1990/91)と、独奏ヴァイオリンとピアノのための「ポスト・スクリプツム(Post scriptum)」(1990/1991)。
この2曲を聴くと、とにかくフワフワとした音楽。浮遊感絶頂!
「献呈」は3つの楽章から成るが、冒頭こそ激しい衝撃音で始まるが、とろけるように甘く懐かしさを感じさせるメロディーが姿を現しては消え、また現れるもの。同時代のシュニトケの作品のような毒もない。
一度飲み始めたらなかなかやめられない美酒のような味わいで、実際音楽に酔ってしまいそうになる(悪酔いではない)。
3楽章から成るソナタの「ポスト・スクリプツム」はCD表記では1991年版となっており、もともとはヴァイオリンとオーケストラの作品だったようだ。吉松隆のプレイアデス舞曲などと共通する味わいを持つ。
この作曲家について、私は今のところWikipediaに記述されている内容しか知らない。
手元にある資料では、ロバート・P.モーガン編「西洋の音楽と社会11 現代Ⅱ 世界音楽の時代」(長木誠司監訳:音楽之友社)のなかで、次のように書かれているだけであった。
1990年代初頭の創作の多くは、ルーツを探すことに心を奪われている。ロシアの作曲家ディミトリ・シルヴェストロフは、自分は「文化という遺伝学的な源から聞えたものを書き下ろしているだけ」だと考えており、これは、おそらく世界中の多くの作曲家たちによって同意される――あるいは少なくともあこがれとされる――アプローチである。
「献呈」の演奏は、ショスタコーヴィチの交響曲全集で私に衝撃を与えたコフマンがタクトを振っている。オーケストラはミュヘン・フィル。独奏はクレーメル。1995ライヴ。
ソナタの方は、クレーメルのヴァイオリン、Sacharovのピアノ。1995録音。
原盤はテルデック。
いずれにせよ、私にとってはカーニスを初めて耳にしたときと同じような心への“浸み方”を感じた作曲家である。
逆に、シルヴェストロフやカーニスを聴くと、今の音楽の傾向はこっちの方向になっているのだという、典型例だという気もしてくる。
で、伊東ユキコさんとその母だが、私としても積もる話はないわけだし、再度「この会場になくても、地下にはラッキョウがあると思います」とお教えして別れた。
でも、なんでわざわざ百貨店でラッキョウを買わなきゃならないんだろう?
そして、あの母娘はラッキョウをゲットできたのだろうか?
村上春樹と私の、酒に関する共通点について書いたのはおとといのことだ。
その共通点というのは、
① 若いときに日本酒で痛い目に遭っている。
② 歳とともにビールを飲む量が減る。
というものだ。
けど、これってかなりの人に当てはまるような気がする。占い師が客に対してさも「あなたのことよ」と個人的事象のように語ることが、実は一般論である内容のように……
けど、同じエッセイのなかで村上春樹氏はこう書いている。
ウイスキーはわりに高いものが好きで、……
これは私とは異なる点だ。
私は家ではブラックニッカClearというのを飲んでいる。
実に庶民的な商品なのだ。
これをハイボールにしたものは、“クリア・ハイボール”と称されることになっているようだ。
たまに背伸びしてグレードアップしたとしても、ニッカのモルトクラブである。これも庶民的な商品である。
あれ?
そっか。私は現実的事情から低価格路線のウイスキーを買っているだけであって、好きなのは?と言われると、やっぱり高い銘柄だ。
ということは、春樹さんと共通していることになるじゃん。
ところで、ビールの量を減らし(というよりは、早くにビールから切り替えて)ウイスキーのハイボールを飲むようになったのは、単純にハイボールって飲みやすくて美味しいと思ったからだ。
私の場合は必ずレモンを搾って入れる(自宅に置いてはポッカレモンを入れる)。
美味しいだけではない。
ウイスキーの方がビールより安くつくし(炭酸水を買ったとしても)、以下のような計算から肝臓や膵臓に対する負荷も低いという結論に達したのだ。
私が家でもビールなら2000ml飲んでしまうことは白状したとおりだ。
それを見て私の妻は、友だちの〇〇さんの旦那さんのことを例にあげてこう言ったものだ。
「〇〇さんの旦那さんは、350mlの缶ビールを1本飲んで、『はぁ~、美味しかった』で終わるんだって」。
この話を私は467万回は聞かされた。そのたびに私は「だから?」と心の中でつぶやいたものだ。
で、ビールのアルコール度数は5.5%である。
厳密に言えば重量パーセントと容量パーセントの違いがあるのだが、ざっと計算すると、ビール100ml当たりのアルコール量は5.5gということになる。
それを2000ml飲むということは、5.5g×20=110g。私は110gものアルコールを摂取していることになる。ビールはアルコール度数が低いから大丈夫と思っていたのに、こんなことになっていたのだ。
仮に1本減らして、泣く泣く500ml缶3本にしたとしても82.5gのアルコールを摂取することになってしまうのだ。
これは、あの超音波内視鏡好きの医者が去年言った「1日80g以上だと危険だ」という話をクリアしない。しないどころか退場ものである。しかもあの医者、今年は「1日70g以上だと危険だ」と、ご親切にも私に対してハードルを下げやがった。
そこで、私は考えた。
よし、350缶2本にしよう。
2本なら38.5gである。
そしてウイスキー。
私が愛飲しているブラックニッカclearのアルコール度数は37%。100ml当たりのアルコール含有量は37gである。
これをハイボールにして飲む。となると、1杯当たりグラスに入れるウイスキーの量は25mlぐらいだ。となると、そのアルコール量は9.25g。
これを3杯飲めば27.75g。
先のビールの38.5gと合わせると66.25g。
おお!格段の進歩ではないか!
しかし、ハイボール3杯というのは大きな課題を残した。炭酸水が使いきれないのだ。もうちょっと飲まないともったいない、エコじゃない、二酸化炭素の放出問題になる。
そこでさらに考えた。
しかし幸運が!
最近知った“金のオフ”。発泡酒だがなかなかいけるこのアルコール度数は4%。
“金のオフ”350ml2本のアルコール含有量は28g。
これにハイボール4杯で37g。
合わせて65g。
す、すばらしい!
炭酸水を使い残すことなく、しかも“金のオフ”は糖質もプリン体もオフ。
すっげ、体に優しそう!
ということなわけ。
如何? ←スパムメール風文字使い。
そこでハチャトゥリアン(Aram Ilyich Khachaturian 1903-)の組曲「仮面舞踏会(Masquerade Suite)」(1941)。
この曲は、かつて浅田真央がフィギュアの舞で使ったおかげでプチ・ブーム的に有名になった。このブログでもその当時取り上げている。
そのブームもどうやら覚めてしまったようで、ちょいとハチャトゥリアンがかわいそうではある。
今日の記事の内容から、なぜ「仮面舞踏会」なのか?
ブラック・ニッカと書いていて、スタンリー・ブラックという指揮者の名前を思い出したからに他ならない。
ブラック指揮ロンドン交響楽団による「仮面舞踏会」は1977年録音。DECCA。
前に交響曲第2番のときに紹介した2枚組CDに収められている。
「仮面舞踏会」の演奏では古い録音だが、私はコンドラシン盤が決定盤だと思っている。しかし、このブラックさんの演奏、ロシア、ロシアした「もうちょっと、重苦しさを排除してくれると、気の弱い私にはありがたいんだけど」というものとはちょっと違う。
ロシア人ではない演奏者の組み合わせによるこの演奏は、ハチャトゥリアンのもつ陰鬱さを適度に抑え、通勤時なんかに聴くにはちょうどいいものに仕上がっている。少なくとも「やっぱ、今日は会社行きたくなくなった」となるほどまでには気持ちが沈まないで済む。
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