ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルによるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第6番ロ短調Op.54(1939)。
この曲もまた不思議な曲だ。
名誉挽回として発表した交響曲第5番で、その狙い通り危機を脱したショスタコーヴィチだったのに、次に発表した第6番は自虐的、ドM的に、再び批判対象になるような内容。なんでこういうことを思い立つのかひどく不思議、不可解、奇奇怪怪。
異様に暗い、というよりか、恐怖におびえるような第1楽章(これがまた、全曲の中でバランスを崩すがごとく長い)、そして第2、第3楽章へ進むにつれて明るくなるが、やけのやんぱちから騒ぎ、誰かにちゃちゃを入れるようなもの。
これで当局が、「なんじゃい、これは?」と眉間にしわを寄せ、こめかみをぴくぴくさせないわけがない。
で、演奏によってもこの曲は悲惨になったりする。
自虐的、ドM的とショスタコーヴィチの狙いを解釈するのはいいが、演奏までスカスカになってしまうことがあるのだ。
たとえば、スロヴァーク指揮チェコスロヴァキア放送ブラティスラヴァ交響楽団の演奏(1988録音。ナクソス)は、村上春樹風に言うならば、「掛け値なしにひどかった」。
ショスタコーヴィチの裏の顔を表そうとしたのか(例えば当局を小ばかにするといったような)どうかはしらないが、まったく音楽に生命力がなく、だらだら進むだけ。録音のせいなのかどうなのかしらないが、出来そこないのエアイン・チョコみたいなスカスカな響きだった。
さて、ペトレンコの演奏。
またまた期待を裏切らずに、すばらしい!
この曲が実は重厚だという面と、真の理由はわからないが軽快な面とのバランスが実に見事。第6番ってこんなに聴きごたえあったっけ、ってものだ。
大推薦!
録音もいい。これもナクソスなんだけどね……
録音は2009年。
さて、今日は9時から引っ越しの荷物出し。
心配していた天気も、おかげさまで(誰のおかげだかしらないが)晴天。助かった。
January 2012
今夜は職場の「大送別会」である。
挨拶をしなくてはならない。
これは毎年の掟なのだ。
こう見えても(見たことない人が大半だけど)私は人前で話すのが苦手である。どうしたら笑ってもらえるだろうかと考えているわけではない。注目されるのが嫌なのだ。いや、本当は注目されてなんていないことはわかっている。
去年自分が単なる出席者の1人として転出者1人1人の挨拶を聞いている時も、私は「ビールぬるくなるなぁ」というようなことしか考えていなかったから。
つーことは、単に大勢の人と違うことをするのが苦手だということだろう。
挨拶するのは数人だけであり、少数派なのだから。
さて、挨拶を考えねば……
それはそうと、もし私が今回異動しなければ、今年はイギリスに出張しなければならないところだった。「それは惜しいことをしましたね」と慰めようとしてくれたあなたは、私のことなんかちっともわかってないのね……
私は海外旅行も大の苦手なのだ。
さんまのかば焼きでもないのに、長時間缶詰になる(飛行機に)。
やっと着いても、誰も日本語で会話どころか挨拶も交していない。このストレスだらけの環境。
突然とろろ汁が食べたくなっても、それを実現することは不可能。この融通がきかない食生活。
こういう状況は、私にとっては苦痛以外の何物でもない。
そんなんなら、おばさんしかいないけど、ロンドンなる名のへんてこな店で飲んだ方がましだ(って、行ったことはない。いや、もうないだろう。子どものころコマーシャルをよく観たキャバレー“ロンドン”……)。
だから、イギリスに行かなくてよくなって心の底からほっとしている。
後任の方、がんばってください。
あなたのために、イギリスの曲を!
エルガー(Edward Elgar 1857-1934 イギリス)の序曲「コケイン-ロンドンの下町(Cockaigne - In London town)」Op.40(1901)。
コケインというのはロンドンの古い呼び名で、この作品は首都ロンドンを賛美したものである。
エルガーも大音響に喜びを感じる作曲家であったが、この曲もたとえばショルティなんかだとガンガン鳴らして演奏している。
今回はバルビローリ指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏。
もちろんオーケストラの音が爆発するところはきちんと興奮モードになるが、ショルティに比べると実に“音楽的”。
ショルティが悪いというのではなく、同じ曲でも全然違って聴こえるのが不思議。
私はこの演奏、とても好きである。
1962録音。EMI。先日紹介したデュ・プレの独奏によるチェロ・コンチェルトと一緒に収められている。
引っ越し荷物-ほとんどが本とCDなんだけど-の箱詰めもほぼ完了。
危ない危ない、靴持ってくの忘れるところだった。
冬の裸足は寒いからな……ってアベベか!? ← 古すぎる……
そうそう、別なところでも載せたけど、昨日時点での“怒帝王(いかりていおう)”。
こんな風にお部屋の中で咲いてます。
私の引っ越しはあさっての朝からである。
昨日はまずはここ数年飛ぶ鳥を落とす勢いの、でも鳥当事者の家具店に行き、パイプベッドと本棚とソファを購入。引っ越し当日に新しい住み家に届けてもらうことにした。ただしソファはその10日後くらいの配送になるので、10日間私は立ったまま暮らさなくてはならない(夜はパイプベッドに横になれることは言うまでもない)。
家具のあとはケーズデンキに行った。
まずはノートパソコン。静岡県の磐田店がオープンで、その協賛セールということで、“整理券配布の大特価商品”のLavieが各店5台限り、69,800円という安さ!
しかも、夕方に行ったのにまだ残っていた。
どっちにしろBフレッツの申し込みをしなきゃならないので、そうしたら、45,000円引き。
おやおや、24,800円で買えちゃった。
信じられない。ラッキーだった。
この日は春に就職する息子も一緒だったが、息子もBフレッツの申し込みをし、PC以外の私の買い物の合計金額が45,000円以上になれば、45,000円を引いてくれるという。PCでなくてもまた45,000円引いてくれるのだ。
電子レンジ、プリンタ、炊飯器、テレビということで、条件はクリア。
とても安い買い物ができた。
お買い物上手ぅ!
でも、開通後すぐに、あるいは3カ月後に電話やひかりTVの解約をしなきゃ。
以上の話とはまったく関係がないが、シューマンの(Robert Schumann 1810-56 ドイツ)の「ミニョンのためのレクイエム(Requiem fur Mignon)」Op.98b(1849)。
8楽章から成るが、13分ほどの短い作品である。
歌詞はゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」から取られており、通常のレクイエムでのラテン語祈祷文は一切用いられておらず、歌詞もドイツ語である。
あまり聴かれることのない作品だが、シューマンらしい曲で、なかなか良い。
CDはコルボ指揮によるものを。
1988録音。apex(原盤エラート)
さて、今度は帯広で単身生活を始める私だが、Bフレッツの開通は2月11日である。
それまでの間は、なかなか投稿できないだろうし、できても携帯からになるかもしれない。
その点、読者の皆様におかれましては物足りなさ、寂しさ、不安、解放感などでご不自由をおかけすることになるが、何よりいちばん不自由するのは私なわけだから、我慢しなさい。
毎冬思うことではある。
朝、歩道を駅に向かう歩道。その角々にある雪山に、見事なまで鮮やかなイエローを呈した箇所が無数にある。無数というのはほんとは嘘だが、数えられないくらいたくさんある。
そう。心無い人が黄色の蛍光マーカーのインクをぶちまけていったのだ。
なわけがなく、それは犬のお小水の痕跡である(ただし、そうに間違いないとは言い切れない。中にはヒトのものが混じっている可能性はけっこうある)。
それにしても、ずいぶんと犬を散歩させている人がいるものだ、あるいは人に散歩させられている犬がいるものだと感心してしまう。
そして、これは前にも書いたと思うが、その色が驚くほどの鮮黄色なのだ。少なくともふだんの私の聖水、いや小水(罰当たりなことを書いてすいません)は、ここまで濃く鮮やかな色はしていない。あるとすれば、“け〇き”や“白〇山荘”のラーメンを食べたあとや、パブロンやリポビタンDを飲んだあとに、そのような現象があるくらいだ。
最近の犬は散歩前に“朝ラーメン”を食べる習慣があるのだろうか?
それとも、体力がないから散歩前にリポビタンでも飲むのだろうか?
あるいは、たまたま今次期、風邪をひいて薬を飲んでいる犬が多いのだろうか?
そうではなくて、もしそれが普通色なら、どうして汗もかかない犬の尿はそんなに濃いのだろう?
いずれにしても、私が言いたいのは、足を滑らせてそんなところへ顔を突っ込む羽目になったら悲劇的だってことだ。
1991年、テンシュテットがロンドン・フィルを指揮したマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調(通称「悲劇的(Tragische)」)(1903-05/改訂'06)。
同じくこの組み合わせの第7番のライヴで唸ってしまった私。そして、その延長線上的欲望で、先日いてもたってもいられなくなって購入した。
確かにすごい緊張感に満ちた演奏。恐ろしいくらいだ。いろんな意味で、こんな演奏はそうそうない。単に「すばらしい」の一言では終わらせられないオーラを放っている。
ライヴということもあるだろうが、アンサンブルは決して緻密とは言えず、楽器間のバランスだって良くはない。それだけ取り上げると、むしろ褒められたものとは言えないくらいかもしれない。
しかし、ここには何かもっと別な次元で聴き手の心をつかむものがある。
そういう意味では同じライヴでも小澤の第5番とは対照的だ(曲も違うけど)。
どちらが優れているというわけではない。が、テンシュテットのこの6番の演奏は、上手いとか整っているとか、そういうものを超越している。
聴いたあと残るのはどっとした疲れ。そして、深い感動である。
なお、タワレコのオンライン・ショップでは、このCDについて次のように書かれている。
テンシュテットの遺産とも言える1991年の奇跡的なライヴ!
病魔に冒されたテンシュテットが一時的に再起して指揮台に上った際のライヴ演奏です。まさに遺産と呼ぶにふさわしい録音で、「悲劇的」な運命に打ち倒される英雄に、なおも生命を吹き込もうとするテンシュテットが、ディスクの中では今なお息づいています。この漲る迫力は壮絶! 2010年07月30日 (発売・販売元 提供資料)
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一条紫なる、日本舞踊の大家か、あるいは老舗醤油工房のおかみさんみたいな名前のお方からメールをいただいた。
唐突なご連絡で申し訳ありません、一条紫と申します。
今回貴方にご連絡をしたのは貴方をお救いする為です。
私は表面的には美容関連会社の経営者ですが、
裏の顔は現金支援専門の人間として活動をしています。
昔で言う所の義賊の末裔になりますので安心して支援をお受け下さい。
それが一族の末裔である私の使命です。
そしてそれに差し当たって【7200万】をご用意させて頂きました。
こちらは貴方が完全に自由にお使い頂いて構いません。
先祖の名を汚すような真似は致しませんので遠慮をせずにご連絡下さい。
お待ちしております。
なんだ、美容関連会社か……、義賊だの末裔だの先祖だの言ってるわりにモダンじゃん。
そういえば、どっかで“Be Modern”って名前の美容室を見かけたな。
「現代的になれ」って、客に対してけっこうひどくない?余計なお世話だ。きっとこういう店に限って、髪の毛ボーボーの疲れた表情のおばさんが1人でやっていたりするに違いない。
続編。
現金支援専門の一条です。札束支援で貴方の人生を好転させる為にご連絡をしております。
今のこの日本に限らず世界の経済状況を考えると、
貴方が経済的に苦しい状況であったとしても何も恥ずかしい事ではありませんし、むしろそこはしっかりと改善していかないといけません。
循環の為の支援、そのように考えてもらえませんか?
私は腐っても義賊の末裔、
先祖の名に恥をかかせるような真似は致しません。
しかし、これだけはお約束頂きたい事があります。
それは
・金銭的に窮してる
・他言無用を約束出来る
・支援金は自身の為に使う
この三点に該当をするか否かです。
もしこの三点共問題が無いようでしたらこちらからご連絡下さい。
http://sien-kousai.rich-celeb.info:99/prof*********
見事に該当しますね、私。
でも、あたしゃポンプでも、ぐるぐる回りのバスでもないから、循環の輪に入るのは嫌だなぁ。
ねぇ、ねぇ、ところで義賊って何?
蟻族だったとしたら、何となくアリの集団って感じがするけど……
えっと、辞書を調べたら“盗んだ金品を貧民に分け与える盗賊”のことだって。
すごい由緒正しい方なんですね。
どーりで言葉づかいもきちっとしてるわけですね。
それにしてもズレてる。
何かがズレてる。
モダーンじゃない。
クリュイタンスがフィルハーモニア管弦楽団を振ったベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の幻想交響曲(Symphonie fantastique)Op.14(1830/改訂'31)。
1958録音。いまさら言うまでもなく、この曲の名演と言われている録音の1つである。
このクリュイタンスの演奏の特徴は流麗であるというところ。「う~ん、フランすぅ~!トレヴィアン!ダーばン、セデでゴン~」というもので、実らぬ恋に胸をかきむしりたくなるような苦悩とか、自分を相手にしなかった女性への逆恨みをコンチクショーとばかりにブチ鳴らすものではない。
ただ、ビミョーにずれてる。
何がって?
終楽章の鐘の音が、だ。
いや、打つタイミングではない。そこはきちんと打たれている。奏者を褒めたたえたい。
ズレているのは(あるいはずれているように聴こえるのは)、鐘の音のピッチ(音高)である。微妙にピッチがオケとずれている。
いや、鐘の音をチューニングすることはできないだろうから、そういうときにどうするのか対応策を私は知らないし、あるいはこれはもはややむを得ないことなのかもしれないが、そのかすかなピッチのズレが、実はかえって弔いの鐘らしさを出している。
華麗なフランス精神を湛えて進んできたこの「幻想」が、ここに来て鐘のスパイス効果によってグロテスクさを帯びてくるのだ。
実はこの録音、私はLP時代によく聴いていた(ただ私の好みである“おどろおどろしい「幻想」”ではないので、私の決定盤とはならなかった)。しかし、そのときはこの鐘の音についてまったく違和感を感じなかった。
んっ?まさか私が持っているCDが、あるいはオーディオがおかしいってことはないだろうな……
引っ越し先の家も決まったし、土日はCDと本の段ボール詰めだ。
薬がなくなったので、いつもの病院に行って来た。
今回は覚悟していた。
1年を通じて継続している不摂生に加え(おぉ!継続は力なり!)、年末年始の非日常的な食事による-冷蔵庫の負荷を減らすために、庫内在庫を減らす努力を怠らない-栄養素が私の体内に沈着し、凝固し、ねずみ講的増殖を繰り返しているに違いなかったからだ。
朝。
まずは体重……
私は体重計に乗る前から看護師に言い訳めいたことをおどおどしながら言った。
「絶対太りましたから。間違いないです」
看護師は目盛を見て(私からは見えない)言った。「あら……」
「す、すいません……」と、うなだれる私。
「減ってますよ」
ほへ?
何だって?
「い、いま、何と?」
「前回より1.5kg減ってます」
ヒプ?
世の中不思議なことがあるものだ。2012年の怪奇第1号だ。
その後採血。
結果は午後。
午後の医師からの宣告タイム。
怒帝王が歌う“怒りの日”を聞かされる気分だ。
結果表を見て医師は言う。
「えっと、中性脂肪は……おっ!365か。まだまだ高いけど前回の474よりはずいぶん下がってるな。よし」
2012年の怪奇第2号だ。一時期の700台半ばと比較しても、半分とは言わないが、奇跡的な好転と言わざるを得ない。
「尿酸は……6.0!全然問題ない」
あぁ、薬を飲んでいるものの、それでもここまで落ちたことはなかった!怪奇第3号!
「血糖も問題ないし、おや、γ-GTPが正常値になっている」
こうなると、「いやぁ、私は血統が良いですからな、ははは」と高笑いもしたくなるちところだが、私はそんな軽率ではない。疑い深い私はそのとき、本当に私の結果表なのか名前を確認していたのだった。
間違いない。私のだ。
2012年怪奇第4号!こんなに乱発していいものだろうか?
でも、考えられるのは、ビールを飲む量を大幅に減らし、レモンたっぷりのハイボールを薬だと思って大量に飲むようにしたことだ。あと、ここ2週間ほど食欲不振の日が結構あったことか?
いずれにしろ、今年の、少なくとも1月期の私は健康だ!
で、かわいそうだが、健康でない人の話。
夭逝(ようせい)の天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレである。
彼女は1945年生まれのイギリスのチェリストで、16歳で衝撃的なデビューを果たした。
彼女が独奏を務めたエルガー(Edward Elgar 1857-1934 イギリス)のチェロ協奏曲(ホ短調Op.85(1900-01))は、まだ少女の面影が残っている彼女が、この悲壮なコンチェルトを見事なまでに弾きこなし話題となったというし、1965年に録音した演奏はいまでもこの曲の決定盤と言えるものだ。1965年ということは、彼女は20歳。この翌年にはピアニスト(いまではすっかり指揮者)のバレンボイムと結婚している。
ところが1971年、26歳のときに指先などの感覚が鈍くなってきていることに気づき、それは徐々にひどくなっていった。
1973年に入ると満足のいく演奏ができなくなり、この年の秋に“多発性硬化症”と診断される。そして、チェリストとしては引退、後進の育成に力を注いだ。
1987年、この病気の進行によって42歳で亡くなっている。
悲壮な重い雰囲気に満ち溢れているエルガーのチェロ協奏曲と、デュ・プレの悲愴な生涯を重ね合わせて聴いているわけではないが、この演奏は聴く者の心を打たずにはおかない(もう言い尽くされているけど)。
EMI。
村上春樹の「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社)は、いろいろな書評などでも評判が良い。
実際、読んでいておもしろかった。
でも、「最近の音楽関係の本では最高の出来」みたいな言葉にでくわすと、「そこまで言う?」と、あまのじゃくな私は言いたくなる。
いや、ひねくれてるんじゃなくて、ましてや春樹氏に嫉妬してるんでもなくて、素朴にそう思う。
とはいえ、皆さんも読んでみてはいかがとは思いますけど……
この本のおかげで小澤征爾のCDの売り上げもの伸びることだろう。
実際、この私も本を読んだあと、小澤が振ったマーラーのCDを3枚も買ってしまっている。村上春樹、罪深い男よ!
私が買ったそのマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の3枚のCDのうち、これまで交響曲第1番と第8番を取り上げたが、今日は交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02。その後もたびたび管弦楽配置を変更)。
オーケストラはボストン交響楽団。ライヴ録音である。
CDには録音データが記載されていないが、1990年10月のものだろう。
この演奏は、いつもの小澤征爾の演奏に私が感じているものに基づき、鑑賞前に独自に(勝手に)抱いていた妄想をはるかに上回るものだった。いや、悪いんじゃなくて、良かったのだ。
とても均整のとれた演奏だ。迫力もあるし、透明感もある。そしてアンサンブルは緻密だ。
この曲の模範的演奏と言ってもいいくらいかもしれない。
もともとこの曲は暗から明へと進行していくものではあるが、小澤の演奏は全体を通じて楽天的な印象がある。第1楽章だって葬列にすすり泣いたりしない。私の父が亡くなったとき見せた母の態度に通じるものがある。
私の母はともかく、小澤の演奏はこの曲の魅力を十分伝えてくれる。
だが、しかし、あまりにも危うさがない。
これも小澤の言う「ボストンは良いところを出す癖がついている」ってことなんだろうか?
そして毒も少ない。
いま小澤がこれを聴いたら'87年の第1番を聴いたときのように「もっと味付てもいいな」と思うのかもしれない。
ただ、この5番がスタジオ録音ではなくライヴであるおかげで、化粧の最終仕上げがなされていない。切り貼りがない(たぶん)。
そのためか、きれいなだけ、整っているだけのお利口さん的刺激不足録音にならないで済んでいる。そこがいい。
デッカのえろ、エロ……eloquenceシリーズ。
シノーポリが振ったマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。
1946年生まれのシノーポリは、生地ヴェネツィアのマルチェルロ音楽院で学ぶ一方で、パドヴァ大学で医学をも修めた。つまり、すごいことに指揮者であり精神病医でもあった。2001年4月、公演中に急逝。
彼の音楽解釈は、精神科医として作曲家の倒錯した心理や苦悩を視野に入れたもので、細かな部分まで明晰、その音楽表現はダイナミックではあるものの作品感情に溺れるものではない。
このような点からすると、精神を病んでいたマーラーの音楽はシノーポリにはかっこうの材料であり、もちろん精力的に取り組んでいたが、私にはあまりに客観的分析的すぎて作品がもつ生命力がややもすると不足するといった印象があった。
しかし、この「大地の歌」はそういうアプローチが見事に成功した例ではないだろうか?
冒頭から他の「大地の歌」とは違う。
独唱もオーケストラもいたずらに張りきらない。
感傷的な気分を強調したりせず、淡々と客観的なスタンスで音楽を進めていく。
第1楽章はともかく、全体を通じて非常に室内楽的に演奏される。水墨画のような世界。
特に第2楽章の始まりが特徴的だ。
その簡潔で非常に高い透明度は、最終楽章の「告別」において、聴く者があたかも歌詞の中の人物と同一化し溺れるのを引きとめ、救ってくれるかのようだ。逆に聴き手は(ある程度だが)冷静に音を聴き、あるときには向う側の世界としての情景を描くことができ、悲しく切ないドキュメンタリーを観ているような感じになる。そして、この作品のもつ厭世感が、個人的なものにとどまらない広さのものだということを痛感させられる。
♪
私がいまから9年前に札幌から大阪に転勤したときも、ちょうどこの季節だった。
感傷的になるつもりはないが、そのときも、今回も、「告別」の最後の部分の歌詞に強く共感してしまう。
いとしき大地に春来りていずこにも花咲き、緑新たなり!
遠き果てまで、いずこにも、とこしえに青き光!
とこしえに…とこしえに… (訳:渡辺護)
私がどこに行こうとも、当たり前に春はやって来て、いたるところで花が咲き新緑が萌える。
どこまでも永遠に新緑の青さ!
とても素敵な歌詞だ。
もっとも、マーラーは曲の終りを「死ぬように」演奏するよう指示しているのだけど……
困ったもんだ……
朝起きてびっくり!雪が50mくらい積もっていた。
急にたくさん降ったのだろう。除雪も入っていない。
JRもかなり運休しているようだ。
そしていま、私は日通が引っ越しの見積もりをしに来るのを待っている。
フン族は、ヴォルガ川東方に出現した遊牧民集団である。
370年ころにヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。
リスト(Liszt Franz 1811-86 ハンガリー)は、1855年に同棲していたヴィトゲンシュタイン夫人から、この異教徒フン族とキリスト教徒との451年の戦い、つまり“フン族の戦い”を描いたW.カウルバハの絵を贈られた。
その絵に触発されたリストは、交響詩「フン族の戦い(Hunnenschlacht)」S.105(1857)を作曲した。
でも、なぜ急に私は「フン族の戦い」を思い出してしまったのだろう(いや、451年当時の思い出ではなく、もちろん楽曲)。
どうして突然、「フン族の戦い」を聴かねばならない気持ちに駆り立てられたのだろう。
あっそうか……
アイゼンシュタイン家の戦いのせいだ。
どちらが異教徒フン族に該当するのかはまったくわからないけど……。2人の怒れる帝王はお互いにフン!と、し合っていたわけだろう。
曲は力強く緊張感があるものだが、親しみやすい。
途中に何度か挿入的に現われるオルガンのコラール風旋律がキリスト教的雰囲気をみごとにかもし出している。そして、最後はオルガンとオーケストラが絡み合って、キリスト教徒の勝利の喜びを高らかに叫ぶ。
CDはメータ指揮ロス・アンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団による演奏のものを。
1971録音。デッカ。
リストの交響詩集で、交響詩「祭典の響き」のときにも紹介したディスクだ。
アイゼンさんもメータさんのようだったら、ハーモニーを1つにまとめ上げられたかもしれないですね。アイゼンさんがメータさんのようにって、あり得ない話ですけど……
そうそう、彼の株の話。
「もう株はやめましたか?」
「はい!前よりは」
やれやれ……
それよりも私は引っ越しの準備をしなくては……
昨日はアンプとCDプレーヤーを梱包しただけで飽きちゃった……
昨日の記事、札響第545回定期での「幻想交響曲」について。
最後の1音を「フェルマータせず」と書いたが、スコアを確認すると最後の1音にはそもそもフェルマータは付されておらず、“tenu”(tenuto。音を保って、音をじゅうぶんに長く持続させて)だった(上の掲載譜。これは音楽之友社刊のミニチュア・スコア)。どーしよーもない記憶力である。マタのことばかり考えているわけでもないのに、スケベっぽくて恥ずかしい……
ただし言い訳以外の何物でもない負け犬の遠吠えにすぎないが、でも、全音楽譜出版社のスコアではフェルマータが付されているのだ!ただし、シンバルだけ……(下の掲載譜)
ちなみに「フェルマータが付された音符については、その音符を適宜延ばす」んだそうだ。
なんか難しい言い分だけど、私が小学生のときには音楽の時間に「延ばせ、引っ張れ、我慢しろ!」としか教わらんかった。
この全音のスコアの方は、私が高校生のころに買ったもので、それこそスコアの見方(読み方ではなくそれ以前の問題)なんて全然わからず、はて?シンバルの音符はどこ?と相当悩んだものだ。そんな悩みを抱えていたから大学受験に失敗したのだろう。
また、全音のでは大太鼓の指示も“2台で叩く”というような表記がなく、TVなんかでこの曲の演奏を見て、どこのオーケストラも2台使うなんて、揃いも揃ってサービス精神が旺盛よのう、なんて思ったのだが、大間違いのコンコンチキで、ベルリオーズ先生は楽譜できちんとそのような指示をしていることを、音楽之友社のスコアで確認できたのだった。
ということで、すまん。
フェルマータではなく、テヌートだった。
この期に及んで見苦しいが、でも言わせてもらえば、どっちにしろ金曜の夜の最後の一音が長く持続されなかったことに間違いはない。
悩みと言えば、唐突にアイゼンシュタイン氏の悩みである。
息子(アイゼン氏のことだ)にかいがいしくサイダーを買ってくる母親と、アイゼン一家が同居するようになったことは前に書いたが、その同居は私が期待、いや、憂慮していたとおり決裂に至ったという。
その間の嫁姑の激突、激闘、死闘はすさまじかったようで、さすがのアイゼンもまいってしまったようだ。
その争いでは、行きつくところの原因はいつもアイゼン氏になったわけで(当然だと思う→「いいね!」)、「うちの息子は良い息子」というはっきりいって大いなる誤った思い込みの母親と、「あなたの息子はろくでもない」という世界的に認められた理論に基づく妻の主張がぶつかった。
アイゼン氏曰く、自分は結婚してすぐのころも家庭を顧みず遊び歩いたそうで、そのことがこのような過密な水槽に放り込まれた魚と等しい環境下に置かれた妻にとって、思い出したくもないが思い出さざるを得なくなった。蘇る過去のトラウマ!憎しみ!怨念!
それにしても、結婚してからも家庭を顧みずよその女の子と滑り台や砂場を遊び歩いていたとは、アイゼン氏もどうしようもないやつだ。
さらには、このようなことになって、今やアイゼン氏はアイゼン氏で、またどこかでストレスを解放しているらしい。
その言葉には「どこかに恋人がいる」ようなことを臭わせているが、そのように思わせぶりに私たちの興味を引こうとしているだけかもしれず、こちらとしては常連クレーマーのお電話に対応するように軽く流そうとしたのだが、 アイゼン氏に“おんな”がいるかいないかはともかく、しょっちゅう出かけては憂さ晴らしをしているのは確かなようで、その際には5回に3.5回は「もとの取引先のMUUSANに誘われた」と妻に言ってることを白状した。
勝手に名前を使われたのだ。
迷惑である。
まったくのウソである。
私は無実だ。
私は、自宅のアロエの怒帝王(いかりていおう)が花を持ったわいと温かい気分になるのがせいぜいだった。
アイゼン家でいがみ合っているの2人の怒帝王の争いに巻き込まれたくない。いや、そもそもそんな目に遭う合法的理由はまったくない。
あっ、ちなみに今朝の怒帝王の様子は写真のとおり。
下の写真、背景が邪魔なので傘を背景に使ったら、よもや不思議な組み合わせになってしまった。手術台の上のミシンとこうもり傘、のように……
いったい私は、アイゼンと何百回飲んだことになっているのだろう?
アイゼン氏の奥さんは私をどう思っているのだろう?
逆恨みされていないだろうか?
恐ろしい。
ライアー・アイゼンめ!(邦訳:嘘つきアイゼンめ!)。
だから、いま彼に女性がいるかのような発言も、眉唾ものだ。
そして、怒帝王の1人、彼の母親は結局出て行って親戚の家に身を寄せたそうだ。つまり接近戦から空中戦へと戦争は推移した。
再びアイゼン一家はもとの生活に戻ったが、それは構成メンバーの話で、冷涼な風が家の中に吹いているのは間違いない。
もう一度言う。奥さん、私は無実です。利用されただけです。あなたのダンナはろくでもない悪人です。
幻想交響曲のCD。
今日はアバド指揮シカゴ響の演奏。1983録音。
名演として人気が高く、確かにソツのない演奏。いや、実に水準は高い。
しかし、良かったぁ~とは思うけど、印象が長く残らない演奏でもある。
グラモフォン。
アイゼンは帰りにコンビニで私にデカビタを買ってくれた。
そんなもんでごまかされないぞ。
しかもなぜデカビタ?
「母が、サイダーかデカビタを買って来てたもんで……」
知るかっ!
- 今日:
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- J.S.バッハ
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- お出かけ・旅行
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- コンビニ弁当・実用系弁当
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- シュニトケ
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- バラ
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