読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

January 2012

札響第545回定期演奏会(A日程)を聴いて

50530c35.jpg  昨日1月20日、19:00~。Kitara

 私にとっては札響定期に足を運ぶのは8月の定期以来。
 、いつもオーディオからの音ばかりを耳にし、コンサートで長らく聴かずにいると、ともすれば生の音が遠くて物足りなく感じてしまうことがあるが(ボリュームを上げたくなる)、幸いこの日はそういういけない感覚には襲われなかった。

 指揮はサッシャ・ゲッツェル、ヴァイオリン独奏は神尾真由子。

 プログラムはハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲とベルリオーズの幻想交響曲。
 どちらも私のお好みの曲。

 ハチャトゥリアンのコンチェルトは、最初にヴァイオリンが低い音で登場するその力強い音が、粗いというか汚く、これは何か変だと、この先どうなるのかと焦った(私が焦ることはないんだけど)。その後もソロ・ヴァイオリンの音程は安定しなかったが、第1楽章のカデンツァからそれまでがまるでウソのように安定し、見事な技術と音楽性が披露された。第2楽章などの超弱音も実に美しかった。
 オーケストラもすばらしい演奏。

 休憩をはさんで「幻想交響曲」。

 ゲッツェルの演奏はどこの部分でもねっとりと引きずるようなことはなく、キビキビと進んでいく。それは小気味よいが、場面によってはもう少し歌い回して欲しいと思うところもあった。
 なお、第1楽章の提示部は反復したが、最近の録音で多くなってきた第2楽章のコルネットの助奏や第4楽章のリピートはなし。
 楽器の配置では、第3楽章冒頭のイングリッシュホルンとオーボエの掛け合いで、オーボエを2階の客席に配置し、また同じく第3楽章終わりの雷鳴を表わすティンパニ(4奏者による)のうちの2台(2奏者)を舞台の上手と下手に置いて、距離感を出していたが、これはうまい方法だと思った。
 その配置とは直接関係ないが、私がこれまで聴いてきたどの幻想交響曲の演奏より、第3楽章終わりのこのティンパニが“遠くからの雷鳴”らしく聴こえた。

 鐘の入りも完璧。そして全体を通じてオケも高い水準の演奏を聴かせてくれた。
 意外だったのは、曲の閉じ方。最後の一音はフェルマータせず、つまり音を伸ばさないで閉じられた。これは慣れてないこともあって、尻切れトンボのように感じた(あくまで私個人の慣れの問題。それがおかしいとか悪いという意味ではない)。 
 
d0b4dd61.jpg  ところで、ハチャトゥリアンヴァイオリン協奏曲
 今日はシェリングの独奏、ドラティ指揮ロンドン交響楽団のCDをご紹介。

 実はこの演奏こそ、学生のときに彼女に傷つけられたLPの演奏なのである。

 ねちっこく表現過多にロシアロシアと歌い回すのではなく、直球の多い配球。ところが、これがまったく非ロシア的なんかではなく、かえってロシア的。メソメソなんてしていない、毅然たる演奏。喜びも哀しみも雄大なる露西亜よ!
 この曲の歴史的名盤と言ってもよいだろう。

 いまこれを聴くと、LPに傷をつけられて心の中でメソメソした自分が恥ずかしい。いや、でもあのときはホントに心も傷ついたからな……

 1964録音。タワーレコード・ヴィンテージコレクションの1枚。原盤はマーキュリー

 さて、わたくしごとだが(ここでわたくしごと以外のことを書いたことはないと思うけど)、このたび転勤することになった。

 このブログを始めたころは東京にいた。
 その半年後に現在の札幌勤務となり、長いことに4年間も居座ってしまった。
 今度の勤務地は豚丼の街である。

 これまで楽しいことをしてくれて記事をにぎわしてくれた仕事関係の方々、また飲食店業界の人々とは少し物理的距離が開いてしまい、登場回数も減ることだろう。
 でも、キーワードは「伴」。いや違った「絆」。
 今後ともよろしくお願いいたします。コメントの投稿も手を抜かずにお願いしますね!

 もともと物理的距離がある読者の方々も、引き続きよろしくお願いいたします。

 引っ越しなどでバタバタするので、当面は内容の薄い記事になるかもしれませんが(当初から薄いという説もある)、ピザだって生地は薄い方が美味しいぐらいだから(個人的な好みですが)、そこはお許し願いたいもんです。

 あと、昨日判明したアイゼン氏の苦悩と、私の名をしょっちゅう悪用していることが判明した事実についても、後日取り上げなくてはならない。

青いヴォルガ川のような青い斧。DSch/ステパン・ラージン

b672ebe0.jpg  前にも書いたことがあると思うが、私は雪かきをしているとき、ときどきソルジェニーツィンの小説「イワン・デニーソヴィチの一日」の内容を思い出す。

 極寒の刑務所に収容されているイワン・デニーソヴィチの1日を描いたものだが(タイトル以上の説明にまったくなっていなくて、申し訳ない)、冷たい長靴や凍りついた手袋、それを身につけての外での労働……それが雪かき作業と重なるのだ。全然レベルは違うけど……(なお、ここ数日はほとんど雪が降らず、雪かき作業から解放されている)。

 そんなわけで、ソヴィエトもの。

 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)のバラード「ステパン・ラージンの処刑(The Execution of Stepan Razin)」Op.119(1964)。オーケストラと合唱、バス独唱のための作品で、詞はエフトゥシェンコ。

 ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」のなかで、ショスタコはこう話している(ことになっている)。

 (ムソルグスキイの)「ホヴァンシチナ」からは、交響曲第13番と「ステパン・ラージンの処刑」になにかが受け継がれている。

 交響曲第13番「バービ・ヤール」(1962)の詞もエフトゥシェンコによるもので、ショスタコの「ステパン・ラージンの処刑」は第13番のあとに書かれた。
 音楽も交響曲第13番と同じ雰囲気のもので、第13交響曲が兄だとしたら、これは弟みたいな存在と言える。バービの弟はステパン……
 
 ステパン・ラージン(1630-1671)は、貴族たちに対する農民たちの抵抗運動を指揮した人物。モスクワに連行されたあと、赤の広場で処刑された。
 彼の名前は、ロシア民謡の「ステンカ・ラージン」でご存知の方も多いだろう(ステンカはステパンの愛称・卑称だそうだ)。

60b3fdc9.jpg  民謡の「ステンカ・ラージン」は楽譜を載せた曲だが(これは北川剛編「ロシヤ民謡アルバム 」(音楽之友社)より転載)、ショスタコのバラードの方の歌詞は、バイカル湖の西部ブラーツクに建設された巨大な水力発電所の完成のときにエフトゥシェンコが書いた長編叙事詩「ブラーツク水力発電所」の一章「ステパン・ラージンの処刑」からとられており、体制批判の内容となっている(今日のブログタイトルは歌詞の一節)。

 しかし、交響曲第13番が初演後すぐに当局からの圧力で歌詞改編がなされたのに対し、こちらの方はそういったことは起こらなかった。とはいえ、当時かなり睨まれたことは容易に推察できる。

 CDはケーゲル指揮、ライプツィヒ放送交響楽団、ライプツィヒ放送合唱団、バス独唱フォーゲルのものを。1967年録音(原盤フィリップス)。

 そうそうCDが手に入る曲ではないが、うれしいことにタワーレコードのヴィンテージ・コレクションの1枚としてリリースされた。

19bf0cfe.jpg  また、このCDにはドゥリアン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による交響曲第12番も収められている(こちらは原盤デッカ)。
 ドゥリアンという指揮者について、私は初めて名前を知ったが、1922年エルサレム生まれで、2011年に亡くなったという。

 ドゥリアンの第12番の演奏は、力で強引に押してくる類のものではなく、かといって腑抜けた感じでも斜に構えた感じのものでもなく、作品に真摯に向かった中庸的もの。
 しかし、全編にわたってほんわかとした温かみが感じられる。

 上にあげたCDの写真は、実は解説の裏表紙にのもの。
 実際には下のがメインのジャケット写真である。

  Oh!エイドリァ~ン!(独り言です)

雪に対して温かい気持ちになる?ZehetmairのWAM/vn協

1b9af647.jpg  今年に入ってから、すでに何度も雪かきのことを書いている。

 あらためて言うまでもないが、雪かきは心がワクワクするような作業では全然ない。「よぉ~しっ、今日はすっかりきれいにしてみせるぞ!」なんて意気込みが自然発生してくることはまったくない。人為的に発生してくることもない。そこには無抵抗な無の境地しかない。

 それでも、ウォークマンで音楽を聴きながら雪かきをするようになって、この苦痛で孤独な作業時間が心なしか短く感じるようにはなった。
 もっとも、マーラーの交響曲第3番を最初から最後まですっかり聴きとおしても、まだ作業が終わってないときなんか、全身が氷柱になってしまいそうな気になってしまうけど。

 先日、無駄な抵抗よろしくベートーヴェンの「運命」と「田園」を聴きながら雪かきをしてみたが、「運命」は演奏の好き嫌いに関わらず、やっぱり雪かき中には合わないし、「田園」ときた日にゃ、「この試練を幸運だと思いなさい」と言われているぐらい納得できなかった。

 ということで、このあいだはあまり頭であれこれ考えずに純粋に音楽に浸れるものにしてみた。
 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)のヴァイオリン協奏曲である。
 演奏はツェートマイヤーの弾き振り(もちろんヴァイオリンと指揮ということ)、オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団。第1番から第5番、そして第7番が収録されている。
 録音は1990~91。apex(原盤テルデック)。

 ところでモーツァルトには「ヴァイオリン協奏曲」として以下の作品がある。

 第1番変ロ長調K.207(1773)
 第2番ニ長調K.211(1775)
 第3番ト長調K.216(1775)
 第4番ニ長調K.218(1775)
 第5番イ長調K.219(1775)
 第6番変ホ長調K.268(C14.04)(1780頃)
 第7番ニ長調K.271a(271i)(1777)

 第1番から第5番は「ザルツブルク協奏曲」と総称されることがあり、モーツァルト自身あるいはザルツブルクの宮廷礼拝堂楽団の首席奏者を務めていたブルネッティのために作曲された。
 第6番はモーツァルトの作かどうか疑問であり、少なくとも大部分のオーケストレーションは他人の手による。
 第7番は1907年に楽譜が発見されたものだが、後世のさまざまな加筆があり、モーツァルトの原曲とは言い難いものである。

 このような状況から、一般的にはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲は5曲とみなされているが、そのなかでも第3番から第5番までの3曲は複雑さが増し、芸術的な価値も高まり、現在でも演奏機会が多い。

 第1番と第2番に比べ第3番以降の協奏曲の構成が大きく変わっているわけではないのだが、さまざまな面において大きく発展したと言え、聴いていても急に格が上がったという印象を受ける。

 とはいえ、第2番の第3楽章にはのちのトルコ行進曲(ピアノ・ソナタ第11番の第3楽章)を予感させるフレーズが出てきて「うぉっ!」と思ってしまう(「うぉっ!」って思う必要はないんだけど)。

02987687.jpg  ツェートマイヤーのこの演奏は、音が実にのびやかで透明感がある。
 聴いていてすがすがしい気分になる。
 だから、聴きながら雪かきをしていると、雪に対してとっても優しい気持ちになれる。←相当ウソですけど。

 最後に収められている第7番だが、これは明らかに第1~5番までとは別もの。
 モーツァルトの作品だと、私は言いたくない。

  昨日載せた“怒帝王(いかりていおう)”の花。
 もう少し寄ると、こんな感じ。
 この花、夜間は閉じるようだ。
 

私には懐かしく、また共感できるジュリーニのモツレク

4a26948f.jpg  例えば居酒屋でもつ煮込みと鶏の脚の炭火焼を頼んだとしよう。

 この2つを合わせてモツレッグ……モツレクと言うだろうか?

 言うわけないじゃんねぇ……

 まったくもってすまないが、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の「レクイエム ニ短調」K.626(1791)。未完に終わった作品だが、ジュスマイヤーが補筆完成している。

 私はLP時代、ジュリーニ盤を愛聴していた。
 それと同じ演奏がCDで出ているのを発見。当然買った。

 不思議なことに、どこがどうと特定の箇所を覚えてはいないのだが、聴いたらとても懐かしい気がした。
e97701ad.jpg  オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団。合唱はフィルハーモニア合唱団。
 独唱はルードヴィヒ(Ms)他。
 1978録音。EMI。

 ジュリーニの演奏は、いわゆる一昔前のモーツァルトの演奏スタイル。ピリオド奏法のような過激さはない。
 でも、個人的な懐かしさということだけではなく、この演奏には聴き手の心を揺さぶる何かがある。私はジュリーニのモツレクに共感を覚えずにはいられない。
 
 なお、ジュリーニのモツレクでは1989年に録音したものも名盤と言われている(オーケストラは同じくフィルハーモニア管。ソニー・クラシカル)。

 ところで、蕾を持っていたアロエの“怒帝王(いかりていおう)”。
 昨日の朝、最初の一輪が開いた。
 アロエ属に典型的な形の花だ。
 でも、かわいい。

あのホルンは一聴の価値あり。Klempererのドイツ・レクイエム

8d9c0fa7.jpg  EMIの超特価シリーズ。

 今回は変態オヤジとして知られたクレンペラー(1885-1973)が指揮するブラームス(Johannes Brahms 1833-97 ドイツ)の「ドイツ・レクイエム(Ein deutsches Requiem)」Op.45(1857-68)。

 この曲の作曲動機はR.シューマンの追悼だと言われている。
 曲名がなぜドイツのレクイエムなのかというのは、テキストとなっているのがM.ルターのドイツ語訳の聖書だからである。

 ルター……懐かしい響きだ。
 社会の、歴史の授業を思い出す。
 あのころはルターが私の人生にその後関与することなんてありっこないと思ったが、こういうところでつながってしまう。
 にしても、中学の時の社会の教師も変わり者だったな。手稲東だったんだけどさ。

 さて、クレンペラーのこの演奏は1961年の録音。
 オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団、合唱はフィルハーモニア合唱団。ソプラノ独唱はシュヴァルツコップ、バリトン独唱はフィッシャー=ディースカウである。

 録音はさすがに古さを感じさせるし、ステレオの左右の分離もよくないが、鑑賞にはまったく支障がない。

 それにしても“締まった”演奏だ。
 緊張感が途切れることがない。
 特筆すべきは第2楽章のホルン!地の底から咆哮しているような強い吹き方がすっごくいい。
 こういう演奏を聴かされると、やっぱ巨匠だねぇと感心してしまう。

 ところで、クレンペラーってどうして変態オヤジと言われるのか?

 例えば、

 リハーサルのときにクレンペラーの“社会の窓”が開いていた。それをごくごく控えめに教えてくれた女性奏者に、意外そうに尋ねた。
 「そのこととベートーヴェンの音楽との間に一体どういう関係があるんだね?」

 例えば、

 ある友人がクレンペラーの部屋を訪ねると、全裸のクレンペラーがバッハの「ミサ曲」のスコアをじっと見つめながら、「不可能だ、このパッセージは決して演奏できない。不可能だ」と独りごち、その後2人は長い間バッハの音楽について語り合ったが、クレンペラーは再会の挨拶も別れの挨拶もしなかった。

 例えば、

 クレンペラーは友人のアーノルト・メンデルスゾーン(作曲家のメンデルスゾーンではもちろんない)をレコード屋に連れて行き、店で「クレンペラーの振ったベートーヴェンの『田園』をくれたまえ」と言った。ところがあいにく彼のレコードはなく、店員はフルトヴェングラーやカラヤン、ワルターなどのレコードを勧めた。
 業を煮やしたクレンペラーは、「どうしてほかのものばかり持ってくるんだ。クレンペラーのものを持ってこい」と興奮して言った。
 狼狽した店員が「どういうことでしょう?」と尋ねると、「わからんのかね、わしがクレンペラーなんだ、クレンペラーなんだよ」と答えた。
 なんとか場をなごまそうと店員が「では、お連れ様はきっとベートヴェン様でしょうね」といってしまったがために、クレンペラーの怒りは頂点に達し、「わしの連れはメンデルスゾーンだ、正真正銘のメンデルスゾーンなのだ!」と叫んだ。

 あるいは、

 ハンブルク歌劇場で、オペラ終演後、まだ拍手が鳴り続く舞台からお気に入りの女性歌手を連れ出し、不倫の数日を過ごしたあと歌劇場に戻ったが、そこで歌手の亭主にボコボコにされた。包帯姿で指揮台に登場したクレンペラーは、十分すぎるくらいスキャンダルを知っていた聴衆から盛大なブーイングを浴びせられたが、それに対して「俺の音楽を聴きたくない奴はここから直ちに出て行け」と豪語した。

 以上は、宮下誠著「カラヤンがクラシックを殺した」(光文社新書)を参考にさせていただいたが、鈴木淳史著「クラシック悪魔の辞典(完全版)」(洋泉社新書)にも、指揮台から転げ落ちて大けがをしたとか、黛敏郎をインド人と呼んだといったことが書かれている。

 ドイツ・レクイエムを聴く限り、そんな人物が演奏しているなんてとても思えない。
 作品へアプローチは冷めたもので、そのアンチ・熱血漢であるところは人によって好き嫌いが分かれるところだろうが、すごい指揮者ではあったのだ。

これを何とかできちゃうとは、やっぱすごい。小澤のマラ8

9b02f692.jpg  マーラーの交響曲の難しさについて、小澤征爾が次のように語っているくだりがある。
 あの村上春樹との対談集「小澤征爾さんと、音楽について話をする 」(新潮社)の中でである。

 とくにね、7番と3番がそうだな。このふたつはね、やっていてもね、相当集中してしっかりやらないと、途中で溺れちゃいます。1番はよし、2番もよし、4番もよし、5番もよし。6番がね、ちょっとあやしい。でもまあこれもいい。ところが7番がね、これ問題です。3番もあやしい。8番になると、あれはもう巨大だから、なんとかなる

 そうか、なんとかなるのか……
 素人が思うに、巨大だからなんとかならないような気がするが……

 その小澤征爾が振ったマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第8番変ホ長調(1906)。オーケストラはボストン交響楽団。1980年の録音だが、その録音期間は10月13日から11月4日と長きにわたっている。

 ご存知のように、マーラーの第8交響曲は「千人の交響曲(Symphonie der Tausend)」と呼ばれる。それぐらいの演奏者が必要だからだが、あらためて書くと、独唱陣はソプラノ3、アルト2、テノールとバリトンとバスが各1。合唱は2群の合唱と児童合唱。
 また、通常のオーケストラの編成では使われないオルガンとハーモニウム、複数のマンドリン、ピアノも加わる。

 この曲で私が最初に聴いたのはショルティ/シカゴ響のレコード。
 あの有名なすさまじい迫力の録音である。優秀なデッカの録音といえども第1部の終りであまりの大音響で音が割れるなど、とにかく「音の嵐」というイメージを強烈に抱かせられた。
 逆に、そのあとの第2部は第1部に比べるとちょっと退屈だなという印象を持っていた。

 しかしその後、私の頭に刷り込まれたショルティの演奏以外のものも多く聴くようになり、そしてまた自分も少しは大人の感性が身についたのか、交響曲第8番の神髄は第2部にあると確信するようになった。私にとって、ショルティ盤ではそれは気づけなかったことである。

 そして小澤の演奏。
 彼の特徴であるあっさりめの、例えて言うなら“和風ノンオイル・ドレッシング(青じそ)”テイストみたいな演奏である。意地悪な言い方をすれば、物足りない。
 が、不思議なことに、それが第2部においては透明美が私の心に、あたかも疲れ目のときに目薬をさしたときのようにしみてくる。はったりのない宗教的な神秘の世界が描かれる。
 これはなかなか感動的だ。
 
 マーラーの交響曲はどれも大きなオーケストラ編成が必要だが、実は各交響曲を見渡してみると、大音響というよりも室内楽的に鳴る部分が非常に多い。
 よく考えれば第8番だってそうなのだ。「千人」という言葉に惑わされて最初から最後まで大きな音だというイメージが知らず知らずのうちに植えつけられていた。これまで何回も何十回も聴いているのにも関わらず。
 小澤の演奏は、ラトルの演奏に私が感じたものに似ている。
 美しく物語が進行していくのだ。

 にしても、ホントになんとかなるんですか?

 昨日のN響アワーでこの曲をやってましたけど、楽員の方々は大変って言ってましたし、デュトワも平気だとは言っていませんでしたが……

雪かきするのが私の運命?……ラトルのLvB/Sym5

8a4656ba.jpg  土日は雪が降らないように願っていたが、だいたいにして私は、天をはじめとするあらゆるものに意地悪をされる運命にあるのか、はい、吹雪始めました。

 ところが情報によると、札幌でも中心部から南側の方は晴天だったようで(西側のことは知らないけど)、不公平にも私が住んでいる北東方面が朝のうちはけっこうな吹雪だったわけだ。一時的に止むことはあったが、基本的には涙がにじんでくるような悲しい天気だった。

 この日私は10時に近所の床屋に予約を入れていたのだが、床屋へ向かうこのときばかりは自然も私にほほ笑んでくれたようで雪が止んでくれた。が、帰りにはまた降っていて、床屋でおめかししてきたんだか、嫌がらせを受けてきたんだかわからないような頭で帰宅した。
 ほら、ラトルさんだって私に憐みの視線を投げかけてくれているかのようじゃないか!

 昼からは重い腰を上げ、ベランダにたまった雪を地面へと投げ落とし(今年3回目にもなる)、地面にたまったその雪を裏の空き地に運んだのだが、2階から投げ落とされた雪は地面に叩きつけられてけっこう硬くなっていて、スノークーペですくいあげるのも難儀。なんで私はこんな目にあわなきゃならないんだろうと心で嘆きながら黙々と作業を続けた。
 村上春樹のある小説に出てくる“ぼく”は“文化的雪かき”を仕事しているが、私は“リアル雪かき”を本業ではないのもかかわらず、強いられているわけだ。

a12eda61.jpg  しかも裏の空き地は、写真では分かりにくいだろうが、スロープを延ばすと空き地の隣の家に迷惑をかけそうな状態になっていて、もうこれ以上はだめだわいということになってしまった。この雪山の高さだって、私の身長以上の高さになっているのだ。いや、私の身長が76cmとかいう話ではない。私だって174cmはあるのだ。

 昨年の春、雪解けとともに庭のアーチが無残にも崩壊したことは報告したし、その写真を見た多くの人が心を痛めたと思うが、新たに購入したアーチも今や、かなりの部分が雪に埋まってしまった。壊れることはないと思うが、それでも日々私は不安な気持ちになる。

45d98f87.jpg  さらにコニファー。株元の枝の付け根に雪がはさまって悪さをしているのか、地際から伸びている枝が主幹から離れて広がってきている。しかも枯れた葉が目立つ。枯れてしまったらどうしようと思うが、自然に逆らうことができない(って、実はもうだいぶ大きくなったので、今年はコニファーの冬囲いを怠ったのだ)。

 こういう縁起でもないものを目にしながら雪かきをするのだ。
 明るい気持ちになれるわけがない。

 そこで今回の雪かきのときはけっこう自虐的に、ベートーヴェンの「運命」と「田園」を聴きながら作業した。

 雪かきをしなければならない運命……
 そして一面冬景色なのにに田園……

 演奏は、この間タワレコのピヴォ店で買ったラトル指揮ウィーン・フィルのもの。このシリーズ590円とバカみたく安い。

 考えてみれば私はあまりベートーヴェンのCDって買わないほうだ。
 モーツァルトなんかだったら一応棚は必ずチェックするんだけど、ベートーヴェンって積極的に買うことが少ない。きっと「いま持っているCDでもういいや」って気持ちがどこかにあるのと、そもそもすっごく好きな作曲家ではないのかもしれない。

5be92cac.jpg  で、ラトルによるベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の交響曲第5番ハ短調Op.67(1807-08)(「運命(Schicksal)」は通称)と第6番ヘ長調Op.68「田園(Pastorale)」(1808)。安かったから買ってみたのだ。

 第5番といえば、私はC.クライバーの演奏があれば他はなくてもいいんじゃないかと思っているのだが、あの演奏は男くさいというか非常に暑苦しい名演で、何年かに1度聴けば十分って感じ。つまり、第5番そのものも何年かに1回でいいやってことになる(とはいえ、他のも聴くけど)。

 今回ラトルのを聴いて思ったのは、男くさくない、重くないってこと。でも、軽いのではない。スケール感は十分。これなら、「ちょいと今日は『運命』でもきいてみましょうかね」と、気負わないで聴ける。
 なんというか、ベートーヴェンの交響曲そのものを純粋に味わえる感じだ。

 ベートーヴェンはこの曲で交響曲史上初めてピッコロを用いたが(ほかにトロンボーンとコントラファゴットも)、この演奏ではピッコロの効果が実によくわかる。たぶん、使っている楽譜は今や主流のベーレンライターのもの。ベーレンライター版による演奏は他にも聴いたことがあcd58abad.jpgるが、こんなにピッコロが効果的に感じたことはなかった。
 また第3楽章の、ベルリオーズが「象のダンス」と形容したあの非常に速い低弦のトリオも実に軽快に聴こえる。

 第6番の演奏も名演。非常に水準が高い。
 が、第5番が良すぎる。
 2002録音。EMI。


 
 夕方になって青空になった。
 どうして私が作業しているときに限って雪が横殴りで降ってくるのだろう。
 誰かリモコンで操作してないか?

 今朝の“怒帝王”は、夜のうちにさらに花茎を伸ばしておりました。

棒踊りって……いやぁん、エッチぃ~。Bartok/Sz.56

 はっきり言ってそろそろ限界である。

a24a00d3.jpg  いや、野田内閣とかコダックとかの先行きの話ではなくて、私自身のことである。
 昨日の朝は雪かきをせずに済んだが、除雪に伴う不眠、神経衰弱、ばば抜きなどが複合的に私の心身を蝕み、眠気と疲れがとれない。仕事のやる気も起きないが、これは年がら年中のことだから、降雪とは関係ない。

 とにかく、バルバロならぬバラバラになりそうだ。身体が。
 腰がちょっと痛くてとても腰帯踊りなんて踊れないし、アイスバーン化した地面はちょっと気を緩めるだけで滑って転びそうになるから足踏み踊りもできない。雪かきの柄を持って棒踊りをするのも気が狂ったと思われそうだ。

 で、代償的にその(何が「その」なんだか……)バルトーク(Bartok Bela 1881-1945 ハンガリー)の「ルーマニア民族(民俗)舞曲(Roman nepi tancok)」Sz.56(1915)。6曲の小品から成るピアノ用の組曲である。
 なお、本日の“怒れる帝王”は写真のとおりである。

 各曲は以下のとおり。

 1. 棒踊り
 2. 腰帯踊り
 3. 足踏み踊り
 4. ブチュム人の踊り(ホーンパイプ踊り)
 5. ルーマニア風ポルカ
 6. 速い踊り

 当時はまだハンガリーの一部だったルーマニアの、各地の民謡を題材にして書かれている。民謡が題材ということもあって旋律は親しみやすく、またバルトークによって生き生きとした命が吹きこまれている。

a3bf2bec.jpg  ここでは先日「アレグロ・バルバロ」で紹介したコチシュが1975年に録音した演奏を。
 DENON。

 そうそう。当たり前といえば当たり前だが、携帯電話のメールアドレスを変えたらピタッと迷惑メールが来なくなった。
 意地悪い顔つきで「これでブログのネタがなくなるんじゃないですかぁ」と私に嫌味を言って下さる方もいたが、ご心配なく。PCのメールには相変わらずたくさん来ておりますので……。昨日だって、ほら、知美さんという方から、こんなのが……


 こんな私でも相手にしてくれますか?
 人には言えない性癖なので、普段出来ない変わったプレイがしたいですね。
 こんな性癖だからって言われればどんないやらしい事でもしちゃいますよ(笑)
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 あなたの誰にも言えない秘密の性癖私に教えてね♪


 私のですか?
 とりあえずは「棒踊り」ってことで……

 にしても、スパムメールが携帯電話にまったく来なくなったのは実に爽快な気分の反面、ちょいと寂しい気がしないでもない。

一歩一歩登っていくのだ。Clementi/パルナッスム山

8ba2df1a.jpg  11日の夜から12日未明にかけては、願っても祈ってもいないのにまた雪が降り(どうして願っていないことが実現するのだろう?)、朝見ると10cmほど積もっていた。

 にもかかわらず、除雪は入っていなかった。

 12日の朝はちょいと用事を足してから出勤するつもりで、同じ課の鉋さんには事前に(といっても、11日の21時ころ、酒を飲みながらだが)遅刻することを堂々と予告してあったので、私はちょいとお寝坊さんをした。

 お寝坊といっても起きたのは6:30だから、全然お寝坊さんなんかじゃないと思う人も多いだろう。私もそういう体になりたい。が、もしこの日の未明にも除雪車が入っていたら、まだ酒気帯び状態にもかかわらず私は4時に飛び起きていたことだろう。
 除雪車が出動しなかったことが困ったことなのか、感謝すべきことなのか、判断が微妙なところではある。

 そして起きて外を見て、愕然としたわけだ。
 すっげぇ雪が積もっている……

 遅刻するのだから時間はある。
 でも、遅刻する朝ぐらいゆっくりしたかった。
 そんなことは許されなくなった。

 こうして、私はスノークーペ(まっ、“ママさんダンプ”と同じものだが、“ママさんダンプ”は新潟のメーカーの登録商標だそうだ。ウチのはセキスイ製でスノークーペと書いたシールが貼ってある)を押しながら、裏の空き地へ雪を運んでは戻り、戻っては運んだ。

 もう雪捨て場の山もかなり高くなっていて、そのスロープでときどき足を滑らす。
 重いクーペを押しながら坂を上って行く。一歩一歩……

 グラドゥス・アド・パルナッスムのようだ。
 グラナドゥス・アド・パルナッスムというのは、パルナッスム(パルナッソス)山へのはしご段(階段)という意味で、このパルナッスム山というのは芸術や学問の聖地。
 裏に私が作り上げた雪山は何の聖地でもないし、はしご段でなくて坂だけど、一歩一歩地道に進んでいくことに違いはない。

 そこで、クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832 イタリア)の「グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッスム山への階段。Gradus ad Parnassum)」Op.44。

 ピアノ奏法の古典的教則本で、初歩のものから高度なテクニックを要するものまで網羅された学習用練習曲集である。
 1817年、'19年、'26年と3回にわたって出版されたが、指を鍛えるための練習曲があまりなかった当時はずいぶんと使われたらしい。

 ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918 フランス)の「子供の領分(Children's corner)」(1906-08)の第1曲は「グラドゥス・アドパルナッスム博士」という名の曲だが、娘がクレメンティのこの練習曲を弾いている様子を描いている。指の練習には良いものの、音楽としてはつまらないという皮肉を込めて。

 聴いていると確かに機械的でテクニカルというよりはメカニカルな曲調だ。しかし、時々「おっ!やるじゃんクレちゃん」と思わせるメロディーもある。

 今日は全3巻のうち第1巻が収められているCDをご紹介。
 マラゴーニのピアノ独奏のもの。2009録音。ナクソス。
 まらごぉに……

 先日、自宅の和室の窓辺に置いてあるアロエ属の「怒帝王(Aloe humills var. echirata)」が3faf0d38.jpg 蕾を持っていることを報告したが、いつも私のブログを読んでくれている2名の方からこのアロエについてのコメントをいただいた。この日の記事の内容は小澤征爾が1977年に録音したマーラー/交響曲第1番(「花の章」付き)についてだったが、こちらに関してコメントを寄せてくれた方は、やはり常連の方の1名。
 つまり2対1で、小澤は怒帝王に負けたわけだ。なんたって帝王だからね。

 そこで、その後の怒れる帝王ちゃん。
 少し花茎が伸びて来た。
 若干赤みを帯びてきた。
 どれぐらい伸びるのだろうか?
 ちなみにアロエ属はユリ科に属する。
 でも、アロエはユリのような大輪は咲かせない。
 それはわかっている。
 どれくらい伸びるかが楽しみ……

あなたのおもちゃ箱には何が入ってる?Debussy/joujoux

53202760.jpg  昨日の朝は珍しくドビュッシーの作品を聴きながら駅まで歩いた。

 すでに車道との間には雪山が自分の背丈ぐらいまで積み上がっていて、歩行者は車から保護されているかのようだ。が、雪の壁があろうと、ぜーんぜんロマンティックな風情はない。私はただただ、氷で滑る歩道を転ばないようにヒヨコのようにピョコピョコと超かわいらしく歩いたのだが、それでもできるだけ速く進もうとしていると、いかにドビュッシーの曲がこの状況にマッチしないかがわかる。
 ドビュッシーと雪、というか雪道はけっこう合わない。

 ピョコピョコしながらドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918 フランス)の何の曲を聴いていたかというと、バレエ「おもちゃ箱(La boite a joujoux)」(1913)。子どものためのバレエで、ドビュッシーの作品としてはあまり聴かれることがないものだ。

 ドビュッシーと親交のあった挿絵画家のエレ(Andre Helle 1871-1935)の台本によるこのバレエは、ピアノ連弾譜のみが残され、作曲者の死によってオーケストレーションは未完のままに終わった。そのオーケストレーションを補筆完成させたのはカプレ(Andre Caplet 1878-1925)である。

 バレエは4場から成り、最初と最後に前奏曲(プロローグ)とエピローグがついている。演奏時間は30分ほど。

 私が持っているのはマルティノン指揮フランス国立放送管弦楽団によるもの。このCDには他に「小組曲」(ビュッセル編)、「子供の領分」(カプレ編)、「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」が収められており、過去にも取り上げたことがある。1973録音。EMI。

 ところでなぜ私は、あまり有名でない、そしてあまり聴いていてもときめかない「おもちゃ箱」を朝っぱらから、しかも転倒の危険にさらされながら聴こうと思い立ったのか。

 それは1通のメールに触発されたからだった。

 【タイトル】
 玩具って持ってますか?

 【本文】
 使ってもらって良いですよ!
 相当、欲求不満状態なんです…
 エッチ目的で問題ありませんのでご連絡いただけますか?
 http://cfadwpofa.info/m/recive.php?dis=********


 
えっ?玩具ですか?
 家にないことはないです。子どもが使っていたダイヤブロックとかなら持ってるというか、まだ中途半端な数が残ってると思いますけど。
 
 放っておいたら、翌日に第2通が来た。

 【タイトル】
 玩具って気持ち良いんですか?

 【本文】
 持ってるなら使ってくれますか?
 相当、欲求不満状態なんです…エッチ目的で問題ありませんので
 ご連絡いただけますか?


 いや、ブロックを踏んだらけっこう痛いですよ。

 ということで、いよいよもってメールアドレスを変更した私であった。

 関係ないが、職場でお客さんからいただき物のカステラがみんなに配られた。
 約1名、下に貼りついている紙まで口に入れていた。
 山羊か!?
 はがせ!

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