「春がやって来た!」と、喜びあふれんばかりの言葉で始まるソネットが付された曲。
それは、ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741 イタリア)のヴァイオリン協奏曲集「四季(Le quattro stagioni)」の「春」だ(このソネットはヴィヴァりディによるものではなく、作者不明だという)。
そう、春なんです。
屋根からは雪解け水がドボドボ落ちてくる春なんです。
屋根からの落雪で、ときどきその下敷きになって不幸にも亡くなる方がでる春なんです。
万象が息づく春なんです。
そりゃ、私だって楽しみです。
庭では新緑が萌え萌えになり、お花が咲き、来なくてもいい虫たちが集うから。
でも、辛いこともあるんです。
去年の春。
雪に埋もれていたバラのアーチがその重みで無残にも崩壊したことを、みなさん覚えてらっしゃるだろうか?
覚えてない?
しょうがないなぁ。
そして、私は新しいアーチを購入せざるを得なくなったわけだが、新しいアーチが届いた日のことは、崩壊の悲劇を忘れたとしても、さすがに皆さんたちの記憶にまだ新しいことだろう。
新しくない?
悲しいなぁ。 ところがである、まだ1歳にもならないこのアーチ。
今や、上の写真のような状態になっているのである。
わざと傾けて撮ったのではない。どう自分の心に楽観的に解釈しよう言い聞かせても、明らかに歪んでる、曲がってる、傾いている。
真実は1つ!ふつうじゃない!
やれやれ……。完全に雪が融けてしまい、下半身、いや下半分が赤裸々になるのを見るのが怖い……
さらにである。
ブルーヘブンという名のコニファー。
本来なら円錐形のカッコよく締まった樹形を保つはずなのだが、一部の枝が大きく主幹から傾き、離れている。まゆ玉でも飾りたくなる気分だ。
しかも、これから新緑の春!、という感じでは全然なく、かなり褐色化している。よい焚き木になりそうだ。枯れるんだろうか?
やれやれ……
おそらく枝の付け根が雪の重みで股裂き状態になったのではないか?
完全に雪が融けてしまい、股の姿が赤裸々になるのを見るのが怖い……
そして、すでに早くに地面が見えたところで、私はまたまたショックを受ける。
ボッサノヴァというバラ。 これが戦争の悲劇を思い起こさせるくらい、悲惨に破壊されているのである。雪に。
これは果たして芽を出してくれるのだろうか?
それとも、見た目のとおり、根元からやられてしまったのだろうか?
この品種、なかなか見つからなくて苦労したというのに……
私は悔しくてボサノヴァを歌いたくなったが、幸いボサノヴァがどんな歌か知らないので、代償として「四季」を口ずさんだ。
悲しき春……
にしても、庭のあらゆるものが傾いている。
物置まで傾いている。
ひどいもんだ。
じゃあ、何となく明るい気分になれないけど、こういうときは頭をカラにしたほうがいい。だからヴィヴァルディの「四季」。
今日はクレーメルの独奏、アバド指揮ロンドン交響楽団という、意表をついたメンバーによる演奏を。 何が意表をついてるかって?
イ・ムジチとか、そういう室内合奏団による演奏でなくて、ロンドン響だから。
この演奏、タワーレコードのオンライン・ショップでは次のように紹介されている。
ヴァイオリンの鬼才クレーメルをソリストに迎えての、アバドとロンドン交響楽団によるヴィヴァルディの《四季》です。クレーメルは透明で輝かしい音色を駆使して幅の広い表現でこの名作に果敢に挑戦、その鋭い感性によってあまりにも有名なこの作品への深い切り込みを行っています。アバドの指揮するロンドン交響楽団も名技性を存分に発揮してそれに応え、緊密感に溢れる秀逸な演奏を繰り広げています。
確かに他とはひと味違う演奏。
私は好きだ。もう、ノーテンキな「四季」は聴きたくないし。
1980録音。グラモフォン。
March 2012
出張ついでに(といっても今回の出張ではなく、少し前の話)時間の合間をみて、札幌市内の富士メガネの某店舗にメガネの調整をしてもらおうと立ち寄った。
だいたいにして、富士メガネは社員教育が行き届いていると、私はいつも感心している。
が、そこは数のうち。なかには「おやっ?」と思う人もいる。これは人間集団に不変の法則。
大通りよりもやや南側、ポンポコ通りにあるこの店舗(そうだ、小学生の時にここの店舗でおじいちゃんに天体望遠鏡を買ってもらったんだった)。対応したのはけっこう年配の男性。
私が「年配の」って言うってことは、少なくとも外見は私よりもけっこう年配に見えるってことだ。
このおやじ、最初からどことなく態度が悪い。投げやりだ。不良店員だ。
「調整をお願いします」と言うと、ふつうなら「はい。ちょっと見させていただきます」と答えるのが富士メガネではふつう。
しかし、このおやじ、そういうフツーの態度をとらなかった。
「どこか不都合でも?」
おまえが不都合なんだよ!って言いたくなったが、「少しずり落ちるので、きつくしてください」と紳士的かつ遠慮がちに申し出てみた。
するとこのおやじ、「十分、きついですけどねェ」ときたもんだ……
もうあとは、私はつつかれた二枚貝のように固く口を閉ざし、あんたの好きなようにしてくれやって思った。
最後も「どうですか?」とかけ具合を聞くことももなく、「終わりました!」だってさ。
この店、もう2度と行かない(前に来た時にはすっごく対応が良かったのに……)
突然天体望遠鏡が欲しくなっても、にわかに顕微鏡を購入したくなっても、切羽詰まって補聴器が必要になったとしても、ここでは買わない。
1人の不良店員は9人の優良店員の努力を一瞬にしてぶち壊しにする……
そしてまた、単に嫌な思いをしただけではなく、私にとって小学生の時に、安い商品だったにせよ、ウキウキした気分で天体望遠鏡を選び、買ってもらったこの店舗での幸せな思い出が、偶然当たってしまった顔一面から不満を発している1人おっさんのせいで台無しにされもしたのだ。
望遠鏡を買ったメガネ店とは舞台がちと違うが、「幼いころに行ったおもちゃ屋での幸福な気分を思い出したような感じ……」。
作曲者・ショスタコーヴィチがそう述べたのは交響曲第15番の第1楽章だ。それは物悲しくも聴こえるが、それは2度と取り戻すことのできない時間への憧憬だからだ。 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)にとって最後の交響曲となった交響曲第15番イ長調Op.141(1971)。
この曲は、ショスタコの交響曲でも私がとりわけ好んでいる1曲。過去にも何度も取り上げさせてもらっている。
その第1楽章にはロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲の行進曲の断片が5回にわたって引用される。
ショスタコの息子マキシムは「これは、父が幼少のころ、最初に好きになったメロディーで、おもちゃ屋で遊ぶ楽しさを描いている」と述べている。またショスタコ自身も、夜中のおもちゃ屋さんの中を想定して書いた、といったことを述べている。
たぶん、これまでここで取り上げてきたのは、コフマン、ザンデルリンク(クリーヴランド管弦楽団)、ムラヴィンスキー、ヤンソンス、そして室内楽版のクレーメル他による演奏。ところが、インバルの演奏は取り上げていなかった。今日はインバル指揮ウィーン交響楽団の演奏を。
インバルの演奏は、マーラーのときでもそうだが、余分な贅肉のないすっきりとした演奏。
すっきりと言っても、この曲の持つ陰鬱な陰はしっかりと表現されている。これまた名演だ。
にしても、このレーベル全般に言えることだが、なぜにこんなに録音レベルが低いのだろう?ボリュームをぐっと上げなくてはならない。
1992録音。DENON。
私がクラシック音楽を聴くきっかけになったのは、たまたま耳にしたモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91)の曲にビビビンッ!と来たからだった。
そのため、最初のころはモーツァルトの曲をいろいろと聴きたくて、FMの番組表をずいぶんとチェックした。 前にも書いたが、その記念すべき曲は「3つのピアノ協奏曲」K.107の第1番第1楽章。
モーツァルトの曲だということはアナウンスでわかったのだが、曲名がわからない。それで、この曲を探し始めたのだが、そうしているうちにおのずと鑑賞レパートリーが広がっていった。
当時の私はもちろん知らなかったが、K.107のコンチェルトはJ.C.バッハ(J.S.バッハの末っ子)のクラヴィーア・ソナタを協奏曲に編曲した、いわば習作。このマイナーな作品にそうそうすぐに出会えるわけもなく、2年半ほどして再び耳にできた時の喜びといったら、そりゃ半端なもんじゃなかった。
その間にとりわけよく耳にしたモーツァルトの作品の中の1つが、フルート協奏曲第2番ニ長調K.314(285d)(1778)だった。
N響の演奏がFMで放送されたのを録音し何度も聴いたし、あのころ札響でもずいぶんと取り上げられていた。その独奏はいつも、当時の札響首席の細川順三だった。
だからこの曲にはずいぶんと親しみがあったが、一方でフルート協奏曲第1番の方は、あまり耳にすることがなかった。持っていたLPのA面は第1番、B面は第2番だったが、いつもB面ばかりかけていた。
しかし、ここ何年かで、第1番の方がテクニック的に難しそうで、音楽的にも深いと感じるようになってきた。
そのフルート協奏曲第1番ト長調K.313(285c)(1778)。
K.299のコンチェルトで先日紹介したエマニュエル・パユのフルート独奏、アバド指揮ベルリン・フィルの演奏を。
この演奏について、石原俊氏は「クラシックCDガイド―現代の名演奏を聴く」(岩波アクティブ新書)のなかで次のように書いている。
うまい!このCDを聴くたびに、そんな感嘆符が頭のまわりを飛び交う。この曲は腕に覚えのあるハイアマチュアならかなりの演奏ができるし、プロと名のつく演奏家なら完璧に吹きこなせなければならない。だが、パユの演奏を聴いていると、完璧を通り越した何物かに接したような法悦感を味わうことができる。
法悦感を味わえるかどうかとともかく、テクニックが完璧なだけでなく、音楽性もとても豊かな名演だ。
1996録音。EMI。
昨日の記事ではコープランドの「静かな都会」を取り上げた。
おっと、いま、ふと頭に浮かんだのだが、のび太がしずかちゃんと結婚したとして、朝ごはんのときに「しずか、納豆かい?」ってのび太が言ったら、それはそれで「静かな都会」に似てる。
Shizuka, Natto kai?
Shizukana,tokai……
いえ、すいません。何でもありません。静かにします。
なぜ、「静かな都会」という曲が頭に浮かんだのかというと、最近読み終えた宮部みゆきの小説に、この曲のことを思い出させる一節(ひとふしとは読まぬこと)があったからだとも書いた。
私は昨日、「先日読み終えた宮部みゆきの小説の中で、日中は騒々しいこの街も夜になると思った以上に静かになる、というような一節があったのが心に残っていたからだ」と書いたが、それはウソ、というか、勘違いだった。
実際の文を確認すると、「そろそろ寝支度にかかっている静かな町のなかで……」という、ごくごく短いフレーズだった。勝手に創作してすまない。いや、あるいはその前に読んだ「今夜は眠れない」の方に、そのような一節があったのかもしれない。
まっ、細かいことは言わんでくれ。
でもって、その本は「心とろかすような」(創元推理文庫)。
「パーフェクト・ブルー」の続編にあたるもので、連作短編集である。
その一節があった小説は「マサ、留守番する」という作品のなかにあり、これが本書に収められている5作のうち、私がいちばん面白く思った物語でもある。
マサというのは主人公の犬の名前であり、警察犬だったが現役を終え今は探偵事務所に飼われている。
「マサ、留守番する」は、過去に街の小学校で飼育されていたウサギが虐殺された事件に絡んで物語が進んでいくが、それをやった真犯人とは……。
読者の思い込みを見事に裏返す展開は見事だ。
また、ここには飼い主に虐待されている犬の話も出てくる。悲しいことだが、現実にはこういうこともあるのだろう。犬を、いやペットを飼っている人すべてが、必ずしも動物好きとは言い切れないやるせない現実がある……
私が小学5年の冬。
ふらりと家に寄りついてきた犬をそのまま飼うことにした。
首輪をしていなかったのでどこかで飼われていたわけではなく、当時はまだ珍しくなかった野良犬だったと思うが(あるいは首輪がすっぽ抜けて逃げてきたか迷い込んできたのかもしれないけど……)、それにしてもどこで生まれ、どうしてやって来たのか見当もつかなかった。
アイヌ犬の雑種と思われるその犬は(アイヌ犬は舌に黒い斑紋があるのが特徴で、それがこいつにもあった)、私が高校3年のときまで飼っていたが、苦渋の別れをした。
というのも、最後はフィラリア症にかかってしまい、安楽死させたのだった。
フィラリアというのは寄生虫である。
胸のあたりがだんだんと膨らんできて、腹水のせいで犬のくせに鳩胸のようになってきたのだが、気づいたときはすでに遅し。いまは良い薬があるとも聞いているが(ただし初期)、わが愛犬は心臓手術をするしか方法はなく、それもかなり成功率は低いと言われ、私は安楽死を選択した。
症状が重くなってからは、元気をつけるためにと生の牛肉などを食べさせたが、牛肉を与えたときの食欲は旺盛で、それまで汁かけごはんのようなものばかり与えて申し訳なかったと思ったものだ。言い訳させてもらうが、昔はペットフードを日常的に与える方がレアなケースだったのだ。
でも、こんなことならもっと早くから、たくさん食べさせてあげたかったと思ったものだ(高くて現実的にはできなかっただろうけど)。
そして、私は高校では理系コース(生物&化学)だったので、「よし、獣医を目指そう!」と安易に思ったのだが、やめてよかった……。いや、そう簡単に受かるわけじゃないのもわかっているが、のちに入学した農学部での生物学実験で、食用ガエルの解剖でぶっ倒れそうになったからだ。あれ以上大きな生き物は、ムリです、アタシ。 さて、伊福部昭(Ifukube Akira 1914-2006 北海道)の「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌」(1956)。
伊福部昭が残した歌曲集のうち、「ギリヤーク族の古き吟誦歌」(1946)、「サハリン島土民の3つの揺籃歌」(1949)、そしてこの「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌」が3部作として位置付けることができる。
歌はソプラノ独唱で歌われるが、ユニークなのは伴奏が4つのティンパニであることだ。
ティンパニは、木製やフェルトのスティック、手や爪、マラカスを使って奏され、また打つ膜の場所を変えていろいろな音色の変化を出すのである。
曲は次の3つから成り、歌詞はいずれも伝承詩による。
第1曲「或る古老の唄った歌」
第2曲「北の海に死ぬ鳥の歌」
第3曲「阿姑子(あこし)と山姥(やまんば)の踊り歌」
私が持っているCDは、藍川由美のソプラノ、山口恭範のティンパニによる演奏のもの。
“日本の声楽・コンポーザーシリーズ3 「芥川也寸志・伊福部昭」。
上に書いた、伊福部の3部作のほか、芥川也寸志の「車塵集」「パプア島土蛮の歌」が収録されている。
「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌」の録音は1987。
ビクター。
なお、藍川由美は伊福部の歌曲をすべて録音している。
そうそう、「マサ、留守番する」には、アインシュタインという名のカラスも出てくる。
たまにアイゼンシュタイン氏の様子をうかがってみようか……
土曜日曜と冬に逆戻りしたような天気で、春を待つ私の心の中のフキノトウはすっかり萎えてしまったが、昨日は晴天で、それなりに寒かったものの、よほど日当たりの悪い道路以外はすっかりアスファルトが出てきて、フキノトウも膨らんじゃうぞ!って感じになった。
なお、この一文で変なことを想像した人は、心が汚れていると思ったほうが妥当だろう。
しかし、この時期は非常に歩道も道路も、あらゆる地面も汚い。そして空気はほこりっぽい。
雪解け水がはねて、うっかり八兵衛のようにうっかりして歩道を歩いていると、車に泥はねされる恐れがあるし、車は車で、ちょっと走るとすぐに泥だらけになってしまう。
乾いたら乾いたで、土ぼこりが舞い上がる。
スパイクタイヤ時代には、春ののほこりがひどかった。土ぼこりというよりは粉塵である。スパイクピンがアスファルトを削るからだが、いまやスタッドレスタイヤで当たり前のように冬道を走っているのが不思議でもある。だって、特殊なゴム、考え抜かれた溝といえども、しょせんゴム。そのゴムだけのタイヤで圧雪路も凍結路も走り、そして止まるわけだから。
車社会になる前には、粉塵ならぬ馬糞が舞ったそうだ。
馬糞が舞うと言っても、馬の糞の塊が空中に舞うわけではない。そんなんだったら怪奇現象だ。
馬車を引く馬が道路に落とした糞が乾燥し、パウダーとなり、春先に風に乗って舞い上がるのだ。それが“馬糞風”と呼ばれたもの。
アスファルトの粉塵は明らかに体に悪そうだが、馬糞だって体に良くはないだろう。
それはそうと、アスファルトが、そして土が見えてくると、どんなに空気が汚くても、やっぱりが春が来て嬉しいと感じる。
コープランド(Aaron Copland 1900-1990 アメリカ)の「アパラチアの春」なんかを聴きたくなる。
だから聴いた。私は欲求を我慢しないタイプなのだ。
が、今日は前に取り上げたことがある「アパラチアの春」についてではなく、同じくコープランドの「静かな都会(Quiet City)」(1941)を。
「静かな都会」は、ニューヨークの作家アーウィン・ショウが、大都会に暮らすさまざまな人たちの夜の思いを描いた戯曲「静かな都会」のために、1939年に作曲した劇音楽。
この劇付随音楽の編成はクラリネット、サックス、トランペット、ピアノだが、1941年に演奏会用に独奏トランペットと独奏コーラングレ(イングリッシュホルン)、弦楽オーケストラのために書き直された。
劇ではユダヤ人の少年がトランペットを吹くが、この曲でもソロのトランペットが都会の夜の静けさと孤独感を訴える。曲の開始がトランペットで始まるとともに、トランペットによって曲は閉じられる。
またコーラングレのソロは、劇の登場人物のホームレスを表す。コーラングレの持つ哀愁ある響きが、これまた寂しさを醸し出している。
弦の乱れた音型が聴かれるが、コープランドはこれを「ホームレスの男のとぼとぼした足取りを表わす」と述べている。
ところで、今日「静かな都会」を取り上げたのは、“春”→“フキノトウ”→“馬糞”→“アパラチアの春”→“コープランド”という単純な連鎖によるものではなく、先日読み終えた宮部みゆきの小説の中で、日中は騒々しいこの街も夜になると思った以上に静かになる、というような一節があったのが心に残っていたからだ(やっぱり複雑ではない連鎖だな)。
その小説については、明日にでも取り上げたいと思う。
CDはオルフェス室内管弦楽団によるものを。
コープランドの作品集で、「アパラチアの春」も収められている。
1988録音。ブリリアント・クラシックス(原盤グラモフォン)。
先週は出張で横浜、そして大阪、神戸に行ってきたが、久々に飛行機に乗るもんだから、行きの搭乗に際しましては、胸ポケットに携帯電話を入れたまま保安検査のゲートをくぐってしまい、ビーって鳴ってしまって恥ずかしかった。
幸い、係員がすぐに「あっ、携帯電話ですね」って気づいてくれて、携帯をポッケから出してもう一度くぐるとセーフだったが、そうでなければあのお兄さん保安官に全身をまさぐられるとこだったわい。
で、帰りは朝の便だったのだが、朝から「夜の歌」を聴いた。
そして、朝聴いてもよかった。ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団の演奏によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第7番ホ短調「夜の歌(Lied der Nacht)」(1904-06。その後たびたび管弦楽配置を変更)である。
ギーレンのマーラーは、学生時代にFMで流れていたライヴ録音のものをよく聴いた。私は当時、マーラーと言えばショルティ、というややかたくなな男だったが、そのころからギーレン、そしてやはりFMで海外のコンサートの様子が伝えられていたインバルもなかなかだなと思うようになっていた。
この第7番も、ギーレンがオーストリア放送交響楽団を振った演奏をけっこう好んで聴いたものだ(1980年9月25日録音という記録が残っている)。
今回紹介する、ギーレン/南西ドイツ放送響(SWR響)の演奏について、鈴木淳史氏は「クラシックCD名盤バトル 許光俊vs鈴木淳史」(洋泉社新書)のなかで、
ロスバウト、ギーレン、ツェンダーなど、現代作品を指揮し続けた人は、やはりこの作品をも得意にしていて、いずれも細かくマニアックな演奏を聴かせる。ただ-(中略)-ギーレンは録音の時期が悪かった(今ならもとすごい演奏ができるのに!!)
と書いている。この本は2002年初版発行である。
しかし、2007年初版発行の同氏の「愛と妄想のクラシック 」(洋泉社新書)では、この演奏について以下のように書いている。
ギーレンが南西ドイツ放送交響楽団(SWR交響楽団)と演奏したものは、完璧すぎるほど、マーラー的なのだ。
ギーレンは、ガチガチに理性主義ながら、奥底にロマンティシズムを秘めた「ツンデレ」指揮者。マーラーを演奏するときも、マニアックなまでの構造意識を冷ややかに提示する。そして、その厳しさのなかからひょっこりと顔を出す、何者にも媚びない叙情性。あるいは、ギシギシと理性を推し進めていった先に出現する生々しい感情。その感情が狂気へと変貌する瞬間。マーラーの作品の持つ大いなる矛盾をこれほどまでに描き切った演奏はないと思うのだ。
彼のマーラーの交響曲は、近年になって全曲がディスク化され、愛聴盤になっているのだけれど、一つだけ気になっていたことがあった。
第7番だけが、どうもいけ好かないのである。さすが細部の面白さはあるけれど、全体的に覇気もなければ、かといって極度のシニカルさに走ることもない。中途半端な印象が否めなかったのだ。-(後略)- その後、著者はギーレン指揮のコンサートでこの7番を聴くことになるのだが、その印象はCDと同じく「煮えきらぬ」演奏だったという。しかし、その「煮え切らぬ」と思っていた解釈が、まったく理に適ったものと得心したという。そのとき鈴木氏の脳裏を駆け巡ったのは、マーラーの交響曲第7番は「墓」なのだということだった。交響曲という様式の墓。
私はこの演奏、とてもバランスが良いと思っている。煮えきらないとも感じない。
ギーレンだから毒気もある。でも、それがわざとらしくならない。
いつもいつも連発して悪いが、この演奏は良い!この大曲をあたりまえのようにふつうに聴かせちゃうんだからすごい!
ところで、第3楽章が始まってすぐ、26小節目のクラリネットの下降音(掲載譜。このスコアは音楽之友社のもの)に驚かされてしまった。キュゥゥンッ!って鋭い回転鋸のように鳴り響く。ここだけでも一聴の価値ありだ。
1993録音。ヘンスラー・クラシック。
昨日何回も流れていた、大飯原発のストレステストについて見解を発表した原子力安全委員会のニュース映像。
私が、その見解を妥当と思うのか、好きだと感じるのか、そういうことはともかく、すごく違和感を覚えた。それはこの見解に対し反対を叫び詰め寄る“住民”の姿に対してである。
というのも、よく見ると、大騒ぎしているのは2人か3人なのだ。あるいは私が間違っているのかもしれないが、特殊な部隊だけが反対を叫んでいるように思えてくる。ニュースを見ていると、すごく多くの人が大反対で大騒ぎしているように印象付けられるが、よく見ると(どの局も同じような映像で、同じ人を映している)騒いでいるのは若干名なのだ。映像以外のことは知る由もないので真実はよくわからないけど。
この話は、これで終わり。
宮部みゆきの「今夜は眠れない」(角川文庫)。
主人公は中学1年生の少年。平和な彼の家に巻き起こった騒動は、母親に昔知り合いだったという人物から、5億円が遺贈されるというもの。なぜ、その人物は母に大金を残したのか?突然5億円を手にした家庭が受けた世間からの視線、そして父の家出……
宮部みゆきが得意とする、“子供”が主人公となっている作品だが、彼女はなぜこうも子供を主役に、あるいは子供をキーマンにするのか?気にしなくてもよいことかもしれないが、でも私は疑問に感じていた。なんでだろ、って。みゆきさんはほっといてくれ、と思うんだろうけど。
でも、「ステップファザー・ステップ」の巻末にちょっとだけ載っていた、あるインタビューに対する次のような答えで、ちょっとわかったような気がした。
男性や少年が主人公だと、ある程度“こうあってほしい”というのが素直に出て、理想化できるんです。
多分、私の中に子どもの部分があって、それがうまく出ると、いいキャラクターが書けるんだろうと思うんです。だから、今どきの子どもを書いているんじゃなくて、自分の子ども時代を振り返って書いている。多分、今の子どもに比べると、同じ年齢でも少し幼いと思います。
そうなのか。わかった気がしますよ。ちょっとだけだけど……
宮部みゆきってちびまる子と同じ世代だな。あんな感じの子供時代を過ごしたのかな?
さて、「今夜は眠れない」だが、もちろん宮部作品なので、単なる騒動で物語が終わるはずがなく、ストーリーはいくつもの出来事が絡み合うことになる。ただし、彼女のほかの作品に比べるとポリフォニック度は低く、それであまり頭を深刻に悩ますことなく楽しめるともいえる。
って、生意気なことを書いてるけど、私ならばこんなふうにストーリーを構成することなんて土台無理。やっぱりすごい。あまりポリフォニック的じゃないなんて生意気なことを書いてすまぬ。
ストーリーの中で、主人公の“僕”(といっても、村上春樹の小説にでてくる“僕”と違って、すぐに女の子とねんごろになったりしない、とっても良い子)が、“こっくりさん”に参加させられる場面がある。
“こっくりさん”。
懐かしいねぇ。
いまの子供たちも“こっくりさん”ってやるんだろうか?
小説での“こっくりさん”は割り箸を使って行なっているが、私は10円玉を使ってしかやったことがない。確か最初に「向こう河原の大明神様」とかと唱えたように思う。
私はそのころ(小学校高学年から中学前半)から、心霊現象というものについて、怖いがゆえになんとか科学的に納得(つまりは否定)できないかと思っていて、「恐怖の心霊写真集」を買ったり、この“こっくりさん”についても、あのころこの道では第一人者だった中岡俊哉氏が書いた「狐狗狸さんの秘密」って本も買って読んだ(写真集も中岡俊哉氏による)。心霊現象を科学的に帰納法で証明しようと試みたのだ(なわけがない)。
で、結局のところは「心霊現象はない。すべて科学的あるいは医学的に説明できる」という私にとってはありがたい説明に出会うことができず、より恐怖が高まっただけだった。
そりゃそうだ。
心霊研究家の中岡氏が「心霊現象なんてありません」って書くわけがない。おまんま食い上げになっちゃうもん。にしても、「恐怖の心霊写真集」なんて、“続”も“続々”も買ってしまった。そのせいで背筋がゾクゾクしちまった。アホだねぇ。
“こっくりさん”は、確かそのころ「うしろの百太郎」という漫画でも題材になっていて(「恐怖新聞」だったかもしれない)、こっくりさんの途中で指を離してしまい祟られるような、それはそれは純粋な少年の心を恐怖のどん底に落とすには十分な内容だった。私も最中に(って書くと、やらしっぽい?)指を離してしまい、毎夜、天井に狐の影が映るのではないかとそりゃ怯えたものだ。しかし、飼い犬が騒がないから大丈夫か、と案外幼稚に納得したりもしていた。
なぜ、“こっくりさん”の10円玉は動くのだろう?
無理な指の姿勢と緊張感から微振動で動くというのが科学的解釈だが、それだけでは説得力に欠ける。もちろんこっくり様が降りてきているというのはもっと説得力に欠ける(ような気がする)。それに、「MUUSANの好きな女の子は誰ですか?」と質問し、それで「と…め…こ…」と10円玉が動いたなら、絶対誰かがわざと誘導しているなってギャグ的に解釈できるが(全国のトメコさんすいません。悪意はありません。とめ子は当時まだご存命でありました私の祖母の名であります)、それが、少なくとも今のコックリ・メンバーは知らないはずなのに、図星である「じ…ゃ…っ…く…り…ぃ…ん…」とご丁寧に7文字をわたり動いたあげくに鳥居の絵のところまで戻ってしまった暁には、そりゃ驚くし畏怖の念を抱かずにはいられない。
全校生徒が体育館に椅子持込みで集まって生徒会の集会だかなんだかがあったときのこと。生徒会行事なので先生たちもうるさくなかったし、あんまり退屈なので前後にいた川島君と会田君と“こっくりさん”をやったことがある。
誰がなぜにこっくりさんの用紙を持っていたのかきわめて疑問だが、とにかくやった。
川島君が「志望校に入れますか」と聞くと、10円玉は「い…い…え…」と文字をなぞった。会田君はそれで大笑いをし、こともあろうことか指を話してしまった。
その瞬間、見事なまでに偶然のタイミングで停電となり、体育館の天井の水銀灯が消えた(宮部ワールドなら、実は会田君は友人の久森君に頼んでその瞬間にスイッチを切るようにしていた、ってこともありうる)。停電は1分ほどで収まったが、水銀灯だからすぐにはフル発光しない。薄暗い中での川島君のデカ顔なのに目にはうっすらと涙、という光景はいまでもちょっとだけ覚えている。
川島君は高校受験に失敗したし……
こんなことを書いていても、なんら解決はしないのでは話を変えよう。
じゃあ、今日のキーワードは「ぽ…り…ふ…ぉ…に…ぃ…」。だから、ポリフォニーのことだ。
ポリフォニー(polyphony)というのは“多声音楽”のこと。“多くの声”を意味するギリシア語の“ポリュフォーニア”が語源だという。
ポリフォニーは「複数の声部が、それぞれの独立性を保持しつつ動向する様態」を意味している。こうなってくると、いくつかの声部(パート。この場合は「オーケストラのオーボエのパート」という意味ではなく、独立性を保った各旋律線の意味)を絡み合わせちゃえって考えが生まれてくるが、その技法が“対位法”である。 掲載した楽譜は音楽之友社刊のJ.S.バッハの「音楽の捧げ物」BWV.1079の「3声のリチェルカーレ」だが(チェンバロ(1奏者)で演奏される場合が多い)、第1の声部で始まり、10小節目(楽譜2段目)に第2の声部が加わり、23小節目(楽譜4段目の3小節目)に第3の声部が加わる。この3つの声部が以降、複雑に絡み合っていく。
にしても、独立した3つのパートを1人で弾くなんて(それは珍しいことではないんだけど)、なんつーこったろう!
ルネサンス期やバロック時代の作品には作品名に「〇〇声部の」とついているものが少なくない。
今日は、トレルリ(トレッリ。Giuseppe Torelli 1658-1709 イタリア)の「トランペット,弦楽と通奏低音のための5声のソナタ(協奏曲)第1番」ニ長調G.1(G.はギーグリング(Fr.Giegling)の作品目録による番号)。
実はこの作品、私がクラシック音楽を聴き始めたかなり初期段階に聴いて萌えて以来、ずっとCDを探していたのだが、先日CD発見!
とはいえ、曲は間違いなくこれなのだが、詳しい作品名がこれで本当に正しいのか確証はない。昔の自分の録音帳にはこの作品名が書いてあるのだが、購入したCDには詳しく曲名が書かれていないし、「クラシック音楽作品名辞典」にも載っていない。 まあ、この作品名だと信じておくことにしよう。いつかはっきりすることもあるだろう。
さて、ここでいう5声部というのは、しかし、独立した旋律線の意味ではない。
2つのヴァイオリン、トランペット、ヴィオラ、バスの5つの声部による作品ということだ。これに通奏低音(チェンバロ)が加わるが、通奏低音は声部の数には含めない。通奏する低音だもの……
Hungerのトランペット、シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティの演奏。
1966録音。ソニークラシカル。
バロック~古典派のトランペット協奏曲集のなかの1曲。
さて、ポリフォニーに対する概念はホモフォニーである。
各旋律線を独立したものとする、つまり水平的な書法が主眼となるポリフォニーに対し、ホモフォニーは縦の響きの規整に重点を置く。しかし、この相対する概念は、実際には作品のなかでは共存することが多い。
先日購入した、ワルターのマーラー交響曲集には2つの交響曲第1番の演奏が収められている。
1つは前に取り上げたコロンビア交響楽団との演奏。歴史的名盤と言われているものである(1961録音)。
もう1つはニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏で、1954録音。この年の録音だから当然モノラル。
ワルター指揮の「大地の歌」のときにちょっと触れたように、私はモノラル録音の演奏を聴こうとは、まったくと言っていいほど思わない。
が、今回はこの第1番を聴いてみた。
演奏はなんというか、ごく普通。悪くはないが、すっごく良いとも思わない。つまり、あえてこのモノラル録音の演奏を何回も聴こうとは思わなかった。
この演奏をウォークマンで聴き終えた後、次に耳に入ってきたのはステレオ録音のある曲。
あぁ、なんて広がりがあるのだろう!
行きたくもないスキー学習に駆り出され、やりたくもないボーゲンを滑らされ、言われたくもない指導を受け、やれやれやっと終わりだわいと、帰りのバスに乗る前にスノトレに履き替えるためにスキー靴を脱いだ時の、あの瞬間のように開放的な広がりがある。
話をずらすが、そもそも私はスキーがほとんど滑れない。
小学校5年生の秋まで日高の浦河町に住んでいたが、そこは雪が少なく、冬の体育の授業はスケート。校庭に作られたリンクでスケート学習だった。
しかし早とちりするなかれ。
だからといってスケートがうまいかというと、全然そうじゃない。
スケートを滑っていていちばん印象に残っている記憶は、リンクでひざまずくように転び、そのせいで履いていたスピードスケートの刃の後端が自分の肛門を直撃したときの痛みだ。あれは痛かった。それにしても、よくズボンが破れなかったものだ。切れ痔にもならなかったものだ。
その後札幌の学校に転校したわけだが、こちらは冬はスキー学習。
初めてスキーをすることも大変だが、親が私に買い与えたスキーはどれだけ安物を見つけてきたのか知らないが、歩くだけで金具から靴が外れてしまう代物。スポーツ店でどれだけ調整してもダメ。ちょいと動けば、すぐに外れる。これですっかり嫌になってしまった。
つまり、私の生い立ちが訴えていることは、どっちも中途半端なんだよ、ってことだ。 ということで、スキー関連で、今日はプロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953 ソヴィエト)のカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー(Alexander Nevsky)」Op.78(1938-39)。
この曲は同名の映画音楽から改編したもので、7曲から成る。詞はV.ルゴフスコイとプロコフィエフ自身による。なお、映画(1938年12月封切り。監督はS.M.エイゼンシテイン)の音楽は21曲から成る。
アレクサンダー・ネフスキー(1220-63)はウラジミール公国時代の人物で、当時のロシアは東からモンゴルが襲来しており、また西からはスウェーデンやドイツが侵入しようとしていた。
アレクサンドル・ネフスキーは1240年にネヴァ河のほとりでスウェーデンの大軍を迎え討って撃破、次いで1242年には凍結したチュドスコエ湖上の戦いでドイツ騎士団を壊滅させロシアの危機を救った。
この史実に基づいて映画が制作されたのだったが、1938年という年はナチス・ドイツのオーストリア併合など、ナチスの侵略的意図があらわになった時期と重なる。したがって、この作品ではファシズムへの憎悪の表現も意図している。
1. 「モンゴル治下のロシア」
オーケストラのみによる序奏的音楽。大部分の国土をモンゴルに支配されたロシアの荒廃した様子が描かれる。
2. 「アレクサンドル・ネフスキーの歌」
ネヴァ河のほとりでスウェーデン軍を破った時のアレクサンドルを讃える曲。
3. 「プスコフの十字軍」
ここでの十字軍とはドイツ騎士団のこと。ドイツ騎士団に押さえつけられるプスコフの民衆の苦悩を描く。
4. 「起て、ロシアの人々よ」
侵略者に対するロシア人民の奮起を呼びかける曲。
5. 氷上の激戦
全曲中最も有名な曲。ドイツ軍の進撃とチュドスコエ湖上でこれを迎え討つロシア軍との戦いの模様を描く。
6. 「死人の野」
プスコフの乙女たちが、ロシアのために勇敢に戦って死んだ人々に捧げる哀悼の歌。
7.「アレクサンドルのプスコフ入城」
勝利したアレクサンドルの軍勢をプスコフの城に迎える讃歌。
ここではアバド指揮ロンドン交響楽団、同合唱団、オブラスツォア(S)の演奏をご紹介。
ロシア的パワーのようなものは強くないが、全体的なバランスがとても良い好演だと思う。
1979録音。グラモフォン。
今朝を私は神戸で迎えた。
相変わらず人が多い。
相変わらず赤信号で横断する人が多い。
北海道の凍結路面でだったら、確実に車にはねられているだろうな。
今月の10日、萬歳由理香さんなる、不運とも幸運とも、かつ常識ではすぐに納得できない境遇の女性が、3000万を差し上げますと、ちょっぴり憂いをもった瞳で訴えかける写真付きで私をはじめとする不特定多数の方々に申し出ている件について取り上げた。
その画面はJA IP バンクという、これまた、あわて者が読めば「ジャイプバンクって何さ?」みたいな名称の銀行のサイトで、明らかにJAバンクと勘違いしてくれないかなっていうを装いだった。
ある町のJAバンクに勤めている友人がいるので、私は彼にメールした。
「3000万ほしいんだけど、このまま手続きして大丈夫かな」と心にもないことを書いて、このURLも添えた。
彼はすばやかった。
すぐに上司に報告し、上司はすぐに本部に連絡したそうだ。
数日後、萬歳さんの写真とクドクドとしたメッセージが乗っていた“銀行画面”は消滅し、このメールを送りつけていた正体の出会い系サイトのトップ画面に飛ぶようになっていた。
ただ、話をよく聞くと、友人がアクションを起こしたせいで消えたとは、必ずしも言えないようだ。
この手のサイト、そして誘導っていうのはけっこうあって、本部でもいくつも把握しているんだそうだ。萬歳画面もすでに対処進行中だったのかもしれない。
ということで、萬歳の茶番劇は終わった。
オルフ(Carl Orff 1895-1982 ドイツ)の「時の終わりのコメディア(De temporum fine comoedia)」(1971)。演技者と合唱、オーケストラのための作品である。
私がこの曲を聴くのは初めて。
参考となる解説はほとんどない(CDのライナーノーツは、内容がわかりにくい)。
そこで鈴木淳史が「背徳のクラシック・ガイド」(洋泉社新書)で書いている内容を転載させていただく。
《時の終わりの劇》は、黙示録のカタストロフをテーマにした世紀末的大作。やはり、聴き手を悩殺せんばかりの激烈なリズムが特徴だ。オルフ晩年の集大成でもある。
演奏はカラヤン盤。というより、この作品の初演者である彼の演奏が唯一の録音なのだ-(中略)-。
バーバリズム全開の曲ゆえ、レガートで音楽をメロメロにしちまうカラヤン美学は封印されたままだが、クールに整理されたバランスとリズムが、この作品の強烈さを逆に引き立てる。原始時代の祭祀を思わせるウボバウボバと合唱が連呼する様子は、鮮烈極まりない。
曲は3部18曲から成る。
第1部「シュビラ(Die Sibyllen)」(5曲)
シュビラは古代の巫女で、オルフは世界の終りの予言と救世主の登場についての14の本に書かれたシュビラによる神託をもとにしたという。シュビラは最後の審判を予言する。
第2部「隠者(Die Anachoreten)」(6曲)
隠者とは隠遁生活を送っていた世捨て人。彼らは、初期キリスト教時代、自らの信仰の中で終末の預言が成就するという信念をもって、禁欲生活を送っていた。キリスト教の終末論は最後の日を待ち望むことに向けられた。第1部とは別な形での世の終わりの捉え方である。
第3部「その日(Dies Illa)」(7曲)
そして、世界の破局が訪れる。
カラヤン指揮ケルン放送交響楽団、同合唱団、RIAS室内合唱団、テルツ少年合唱団の演奏。
1973録音。TOWER RECORDS VINTAGE COLLECTION Vol.2(原盤:ドイツ・グラモフォン)
昨日は横浜で用務を済ませ、神戸へ。
今日まだ寒さ厳しき地へと戻る。
私がこの地で単身赴任生活を始めて、もうすぐ2か月となる。
長男は先日大学の卒業式を終え、4月からは就職。勤め先は北海道内の別な都市で、そこに住む。おぉ!独り立ち!
また、次男は、東京の大学の2年生。夏休みや冬休みのときに帰省する程度だ。飛行機代がバカにならないし……
となると、家には妻一人が残ることになる。
最近になって妻が抱いた疑問は、「この家に1人で住んでいる合理的理由が果たしてあるのだろうか?単に留守番をおっつけられているような気がする」という、素朴だが的を得たものだった。
私としては、それなりに出張もあって家に帰る機会も多いので、孤独状態に追い込んでいるわけではないし、家を管理して、というと大げさだが、要は家を守っていて欲しいという思い、さらにもしできればでいいのだが、庭の芝刈りや雑草抜きなんかをしてくれると助かるのだが、という控えめな願望をを抱いていたに過ぎないのだが、こう疑問を持たれると私の考えもやや説得力に欠けてくる、自分で考えても。
ということで、マイホームを空けるわけではないが、妻はこちらとあちらを行き来して、こちらでも比較的長期的に、つまりは欧米人のバカンス感覚でこちらにも滞在する方向性を打ち出した。
もう1つ、けっこう身に迫った問題もある。 実は4月から我が家は町内会の役員に当たることになっていたのだが、やはり妻1人ではこなせない。
「主人が転勤になりまして、戻ってくるまで順番を後回しにしていただけませんか?」という申し出に、現役員は深い理解を示し了解してくれたが、それでも、たとえ妻だけとはいえ、いつも人が住んでいるとなると、「役員もできたんじゃないのか?」と言い出す心の狭い人が出てくるかもしれない。
そういうことも勘案すると、誰かが家に常駐していることは都合も印象も悪い。自分の家に住むことで後ろめたい気持ちになるとは奇妙なことだが。
また、妻は、「私1人だけがこの家に住んでるなんて心配じゃないの?」と聞いてきたが、それについては「心配じゃない」ときっぱりと答え、ひんしゅくを買ってしまった。
いずれにしろ、留守がち以上に留守がちにするとなると、節約のためにいろいろな手続きが必要になる。
とはいえ、私もしょっちゅう帰るから、ライフラインを止めるわけにはいかない。
電気:現状のまま継続
水道:現状のまま継続
NHK:止める。ただし、必ず「どちらへ行かれるんですか」と食いついて来るだろうから、もしうまく答えられなかったら(たとえば「テレビが壊れました。でも買いなおす気もお金もありません。だから今後テレビは観られないので、ご協力したい気持ちはやまやまですが払いません」と毅然として言えなかったなど)、こちらの住所を言うこともやむを得ないという外交カードを、秘密裏に準備している。
新聞:購読中止
で、問題はNTTだった。
まず固定電話。休止状態にして電話番号をそのまま継続できないかと思ったが、それはできないとのこと。まっ、当たり前だわな。ということで、契約継続。
ひかりTV:解約
さて、フレッツ光。
留守宅でネットをする時間は大幅に減るので(帰った時しか使わないわけだから)、フレッツ光ライトへの変更を申し込んだ。
このプランは基本料が月2940円(利用料200MBまで。現状のフレッツ光の契約は使い放題で月5460円)。200MBを超えると利用料に応じて加算され、1000MBになった時点で現状と同じ5460円に達する。それを超えるとさらに加算されるわけだが、上限は6090円でそれ以上は加算されない。
これが妥当だと判断した。私や子供が帰った時にかなりPCを使うだろうが、それでも上限が決まっているので大丈夫だろう。
NTTのオペレーターとお話ししたが、「このプランでは動画を観たり、音楽や画像をダウンロードしたり、そういうのを添付したメールを送受信するとアッという間に上限に達してしまいますよ」、という。
この言葉でひるんだ。月に何度か私が帰った時に使うだけで6090円に達してしまうかもしれない。それも毎月。
しかも、このプランではひかりTVは視聴できないし(とりあえず解約するからいいんだけど)、ルーターを交換する必要があるという。いや、交換どころか工事も発生し、それは早くても4月中旬以降になるという(ルーター交換に伴い、LANカードの交換も必要になるようだ)。
留守がちになるっていうのに、工事に立ち会うことは極めて難しい。
私は、チケットホルダーにチケットをはさんだままにして電車を降り、その電車に走り去られ、改札口で茫然とする老女のように困惑した。
「じ、じゃあ、アタシはどうすればよいのでしょうか」と、考えてもいなかった展開に思考断続停止状態だ。
オペレーターの女性は、丁寧ながらも事務的な話し方だったが、私は勇気を奮って「何かいい方法はないでしょうか?」とすがってみた。
彼女は「2年割というのがあります」と言った。私は、その存在は知っていたが、「な、な、なんですってぇ!?」と、オーバーに驚いて説明を賜った。
2年割というのは、今後2年間解約しないという条件で現契約よりも月735円安い4725円になるというもの。もちろん使い放題の定額(だったら今のだってずっと使ってるんだから、そういうふうにしてくれればいいのに)。
フレッツ光ライトの2520円減には及ばないが、工事やルーター交換は発生せず、今のままでいい。そして、ひかりTVなどのオプション・サービスも現契約と同じで利用できる。
工事が発生しないというだけで、私の心の中では関取と幼稚園児がシーソーに乗ったらどっちが地に着くか明白なごとく、ほとんど2年割にする方向に傾いていたが、一応オペレーターの女性に最後のとどめを求めた。
「どちらがおすすめですか?」(当然、料金が高い方をすすめるだろうが)
「やはり、ライトの方は使った時間や量が気になりますからあずましくないですよねぇ。初心者の方ならお試しでライトということもありますが、これまでもネットを使ってきている方には2年割がおすすめだと、私は思いますよ、ええ」
決めた!
「あずましくない」という言い方に人間味を、そして嘘のなさを感じた。
「あずましい」というのは北海道弁で「すごく落ち着く」という意味。だから「あずましくない」は「とっても落ち着かない」ってことだ。このコールセンター、どこに位置してるんだろ?
いずれにしろ、本宅での生活の復活を願いたいところだ。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第2番ハ短調「復活(Auferstehung)」(1887-94/改訂1903)。
ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団(WDR)、同合唱団、南ドイツ放送合唱団、ラキ(S)、クイヴァー(Ms)による演奏を。
ベルティーニのマーラーは総じて評価が高い。その一方で、迫力に欠ける、スケール感に乏しい、という声もある。
しかし、この第2番を聴くと、その自然体な音楽に心打たれる。
とても美しく精緻で、ハッタリなんてまったくない。それが、興奮にごまかされない感動を与えてくれる。
「復活」は大げさすぎて、わざとらしくて苦手という人でも、ベルティーニの演奏なら受容できるという人もいるのではないか?
マーラー好きの私も、「復活」は長らく苦手な方の作品だったが、ここにきてまた心にしっくりする演奏に出会った。なんていうのか、まあ、あずましいのだ。
1991録音。EMI。
ところで、ここでケルン放送響の名称について、念のためのご説明。
ケルン放送交響楽団は、1947年の北西ドイツ放送協会(NWDR)のケルン放送局の開局とともに発足した。
'56年、NWDRはハンブルクを拠点とする北ドイツ放送協会(NDR)と、ケルンを拠点とする西ドイツ放送協会(WDR)に分割されたが、ケルン放送交響楽団はWDRの管轄となった(なお、このときハンブルクの北西ドイツ放送交響楽団は、北ドイツ放送響となった)。
ベルティーニが第5代首席指揮者に就任したのは1983年(第4代は若杉弘)、WDRの協力のもとでEMIにマーラーの交響曲の録音を開始した。
1999年に母体であるWDRの名をオーケストラ名とし、ケルン放送交響楽団からWDR交響楽団となった。
さて、私としては日本放送協会(NHK)の手続きの問題がある。
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