先週、東京は赤坂のある居酒屋で8人ほどで会食していたときのことである。
敢えて「飲んでいた」ではなく「会食していた」と書いたのは、終始きちんと仕事の話をしていたからである。
仕事の話と言っても、もちろん上司の悪口とか、部下が言うことをきいてくれないという嘆きではなく、もっと前向きな話であったことを申し添えておく。
そこは座敷の個室であったが、広い座敷をパーティションでいくつかに分けることができるようになっており、ふすまのような薄い扉の壁によって仕切られていた。店にとっては非常に効率的に部屋を使えるわけだが、こういうのって隣の声がけっこう聞こえるし、逆にこっちの声も聞こえるわけで、ちょいと気を遣う。
その貧弱軟弱虚弱なパーティションを見て私は非常に嫌なことを思い出した。
大阪にいたときのことである。
10人ほどで飲んでいたが、そこは同じようにふすまのような扉で隣の部屋と仕切られていた。しかもその空間は非常にせまく、ちょっと動いただけでもその扉状の仕切りに触れるほど。さらに、その扉はがっちりとしたものではなく、いまにもはずれそうだった。
たまたま私がトイレに行くために立ち上がったとき、横に座っていた人が体をひねり背中の後ろを通るよう隙間をあけてくれた。が、そのとき彼は扉にひじをぶつけた。
その直後である。扉はゆったりと上の敷居からはずれ、隣の部屋の方へと倒れかけた。こんなことではずれてしまうのだから、どっちにしろ時間の問題だったとも言える。
立っていた私がそのとき隙間から見たのは、隣は女性たちが集い、笑顔で鍋物をつついている状況だった。
この扉が倒れると、鍋を直撃し大やけどとなる。
私は必死に扉を押さえた。押さえたといっても、向こう側へ倒れかけているのである。しかも指をかける凹凸もない。何枚かのパーティションの中央付近の1枚がはずれたわけで、手を向こう側に入れるほどの隙間もない。
私は扉のヘリを指先の摩擦力にだけ頼って、なんとか倒れるのを阻止した。
ひじをぶつけた当人も、他の人も、私に加勢しようとせまい中で動けば、さらに扉を押してしまうことになる。私は必死に耐えながらかすかな隙間から、言葉にならない声をかけて、やっと隣も気づき向こう側から押してくれて惨劇を防ぐことができた。
時間にすれは10秒程度のことだったろうが、あれほど指先に力を入れたことは後にも先にもない。いやぁ、焦った、あのときは。目の前が一瞬真っ暗になった……
山田耕筰(Yamada Kosaku 1886-1965 東京)の交響詩「暗い扉(The Dark Gate)」(1913)。
山田は日本での西洋音楽に努めた作曲家・指揮者。
多くの人が知っている歌曲に「この道」、「からたちの花」がある。また、童謡も多く残しており、「赤とんぼ」「兎のダンス」などはどなたも歌った経験があるだろう、きっと。有名な「ペチカ」「待ちぼうけ」も山田の作曲による。
交響詩「暗い扉」は三木露風(1889-1964)の同名の詩に基づいたもの(三木は童謡「赤とんぼ」の作詞者でもある)。
片山杜秀によるCDの解説書によると、その内容は「部屋に大勢の目が不自由な人々が居て、その前に大きな暗い扉が立ち塞がっている。彼らは不安にかられ、扉を激しく叩く。しかし扉は微動だにしない。彼らのひとりが死ぬんじゃないかと呟く。皆、押し黙り、あたりは沈黙に包まれる。そのうち彼らは泣き出す。扉はしまったままである」というもの。また、片山は扉を叩く騒音と人々の押し黙る無音の対象が音楽の素材に適切だと作曲家は感じた、と書いている。
オーケストラの編成は大きく、4管編成。最後は絶望するが如く弱音で閉じられる。
CDはナクソス盤で、湯浅卓雄指揮アルスター管弦楽団による演奏。
2000年録音。
暗かろうが明るかろうが、あのときのパーティションが微動だにしないほど丈夫だったらどんなによかったことか……。作業性は落ちるだろうが、安全のためにそれぐらいの頑丈さは必要だ、絶対に!
January 2013
東京出張から帰った先週末は自宅に立ち寄ったが、そのときに私は深く憂い哀しむのに十分な事象を目の当たりにした。しかも2つも!
その1。
カーポートが明らかに傾いている。
正面から見て右側に傾いている。
凍結による地盤の変化も考えられなくはないが、間違いないのは屋根の積雪のせいだ。
もしこのまま倒れるようなことがあったら、隣の家の敷地にってことになる。
私は全然やる気は起きなかったけれど、やらざるを得ないので、屋根に上って雪下ろしをすることにした。でも、傾いているのだ。私が屋根に乗った瞬間に耐荷重の限界を超え、そのまま倒れるかもしれない。最初はスローモーションのように、そのあとは急速に。
屋根の雪下ろし中に転落という事故はよく聞くが、屋根ごと転落というのは聞いたことがない。恰好の新聞ネタになるかもしれない。
いや、そんな余計なこと考えてる場合じゃない。
幸い私が乗っても、傾きが増すことはなかった。
なぜかイナバ物置のコマーシャルが頭に浮かぶ。
雪は確かにけっこう積もっていた。しかも寒暖を幾度も経ているので、かなり固い。
一生懸命落とす。
雪下ろしで厄介なのは、雪を下すことではない。下ろした雪を捨てに行く方が比較にならないくらい大変だ。
だから、雪運びをしなくて済むよう、スコップですくった雪を庭めがけてできるだけ遠くへ投げ飛ばす。でも、腰がねじり煎餅のようになりそうだったので、すぐに断念する。
そんなこんなで吐き気をもよおすほど過酷な雪下ろしは終了。
かといって、もちろん傾きが直るわけではない。
春になったら戻るのだろうか?もし、積雪というよりも基礎部分の地面がたまたま凍結でおかしくなったのならそれも考えられる。が、無理だろう。
傾き補正工事(ピサの斜塔だって傾き補正できたのだ)か、建て替えか……
いや、春までにさらに傾いたらどうしよう……
私は哀しみ、憂う。
その2。
カーポートの雪下ろしを終え家に入ろうとしたとき、何気なく玄関ポーチの天井を見ると、なんと一部がはがれかけているではないか!
天井の裏側から氷が出ている。
どんなに楽観的に考えても、玄関ポーチ上に積もった雪が解けた際に、どこからか内部浸透し、それがまた凍って天井板を押し下げたってことだ。
すぐにハウスメーカーに電話をかける。
担当者(といっても初顔合わせ)が1時間ほどしてやってくる。
結論。
やはり玄関ポーチの屋根のコーキングがどこか劣化し、その隙間から雪解け水が浸透、そいつが中で凍ったということ。ただし、いまも雪が積もっていて破損個所は今回確認できる状態ではない。
今後どのようにするか、追って連絡をもらうことになった。
でもさ、去年の秋に全体を点検してもらって、玄関ポーチに関しては異常なしって言われてるんだけど……
だからね頼むよ、なんとかして下さいよ……
私は憂い、哀しむ。
吉松隆(Yoshimatsu Takashi 1953- 東京)の「傾いた哀歌(Inclined Elegy)」。
「プレイアデス舞曲集第5集(Pleiades Dances Ⅴ)」Op.51(1992)の中の1曲である。
ちなみに第5集に含まれる7曲のそれぞれのタイトルは、
1. 前奏曲の映像
2. 暗い朝のパヴァーヌ
3. 午後の舞曲
4. 傾いた哀歌
5. 夕暮れのアラベスク
6. 真夜中のノエル
7. ロンドの風景
である。
「プレイアデス舞曲集」については以前取り上げているので、詳しくはそちらをご参照願えればと思うが、いずれにしろ今の私にピッタリなのは「悲しき哀歌」ってことなのである。
田部京子のピアノによるCDは1996録音。DENON。
昨日は貴志祐介の「クリムゾンの迷宮」を取り上げた。
そして、その暴力性、血なまぐささから連想した音楽、「春の祭典」を紹介した。
しかし、そのときにもう1曲頭に浮かんだものがある。
伊福部昭(Ifukube Akira 1914-2006 北海道)の「奇巌城(きがんじょう)の冒険」である。
つまり、“クリムゾンの迷宮には奇岩が連なっている”と書かれていたから……。そんだけ……
ちなみに、巌というのは山腹のごつごつした崖のことで、クリムゾンの迷宮にある奇岩とは実はちと違う。
「奇巌城の冒険」は1966年公開の東宝・三船プロ制作の特撮映画。伊福部が音楽を担当している。
映画の内容は、シルクロードを旅する三船敏郎演じる大角が、日本に仏教を広めるため仏舎利を求めて旅する僧侶に出会う。大角は僧侶の手助けをするものの、奇巌城で捕えられる。大角は火あぶりの刑を言い渡されるが、僧侶が身代わりとなり、その間に大角は仏舎利を都に届ける。僧侶が火あぶりになる直前に大角が戻って来て、めでたしめでたし、ってもの。
「奇巌城の冒険」の音楽は1983年に書かれた伊福部の「交響ファンタジー第2番」の冒頭でも使われている。
サウンドトラック盤をどうぞ。
Vapの「東宝ミュージック・ファイル」というアルバムに収められている。
話は変わるが、香川照之が出ている龍角散ののどすっきり飴のCMで流れている曲。オリジナルだって話ではあるが、どっかで聴いたことがある気がしてならない。
クラシック音楽じゃないの?
「新世界より」で、私になんとも奇妙な読後感を残してくれた貴志祐介。
はっきり言って他の作品も読んでみたいという誘惑に勝てず、買ってしもうた(いま流行っている「悪の教典」は敢えてパス)。
「クリムゾンの迷宮」(角川ホラー文庫)である。
表4に書かれているあらすじは、
藤木芳彦は、この世のものとは思えない異様な光景のなかで目覚めた。視界一面を、深紅色に濡れ光る奇岩の連なりが覆っている。ここはどこなんだ?傍らに置かれた携帯用ゲーム機が、メッセージを映し出す。「火星の迷宮へようこそ。ゲームは開始された……」。それは、血で血を洗う凄惨なゼロサム・ゲームの始まりだった。……
というもの。
ホラー文庫っていうシリーズの1冊なわけだから、これはホラー小説なんだろうけど、自分がホラー小説を読むことになるとは思わなかった。だって、怖いじゃない?
でも、ホラーってジャンル、実はよく知らなかった。エクソシストとかこっくりさんとかお岩さんみたいなのがホラーと思っていたから。
この小説は面白かった。
今回は出張で公共交通機関に乗ることが多く、おまけに帰りの飛行機は新千歳空港が雪のため青森でグルグル旋回して降りるのを待ったため、酋長期間中、おっとどっこい、出張期間中に「ウツボカズラの夢」とこの小説の2冊を読んだが、ただ単に時間があっただけではなく、とにかく「クリムゾンの迷宮」は先を読みたくてどんどん進まざるを得なかった。
文庫の初版が平成11年だから、もう出版されてずいぶん経つ。だから、すっかり有名な作品なんだろうし、読んだ方も多いだろう(私が買ったのは昨年11月発行の33刷だし)。でも、まったく知らなかったわけです、アタシは。
こんなことは現実にはあり得ないと思いながらも、「うゎっ、危ない!」とか「おぉ、まずいぞ!」「そっちじゃない!」などとハラハラドキドキしながら、一気に読んでしまった。
この小説を読みながら、頭の中を流れていたのはストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971 ロシア→アメリカ)のバレエ「春の祭典(Le sacre du printemps)」(1911-13/47改訂)だった。
暴力性、原始性……。あの音楽が、小説のなかの状況にぴったりだ。
今日はラトル指揮バーミンガム市交響楽団の演奏を。
この演奏もすごい。ラトルならではの緻密さと正確さがあるのに、曲の持つパワーと土臭さはまったく失われていない。すごくエネルギッシュだ。
そしてまたラトルは他ではあまり経験しないような箇所を強調したりする。それがまた面白い。
近ごろの私がいちばんお気にのハルサイである。
1987録音。EMI
中学生のころ、私が観葉植物や多肉植物、サボテンの栽培に興味を持ったため、“別冊スクリーン・ヨーロッパ・ポルノ編”などに興味を示すといういかにも若者らしい生活をしていた同級生らにじじい呼ばわりされていたことは前に書いたことがあるような気がするが、私も若者らしく、食虫植物にも興味を持った。
日本語として成立していないかもしれないが、そこはたいした問題ではないので、先に向け読み進んでいただきたい。
つまり、観葉植物なんかを育てていれば、食虫植物を育ててたくなるっていうのが人情ってもんだ。
どこの会社かまったく覚えていないが、私も通信販売でそれらを買った。
モウセンゴケとハエトリグサとサラセニアとウツボカズラである。
植物だから受身であるのは共通だが、モウセンゴケとハエトリグサは動的である。
モウセンゴケは昆虫などがべとべとした粘毛っていうのに触れるとニュニュニュと巻きつけて養分を吸う。ハエトリグサは、二枚貝のように開いた葉の間を虫が通るとパクッと閉じて養分を吸う。
一方、サラセニアとウツボカズラはただボーっとそこにあるだけだ。
サラセニアは筒状の葉が地上から出ていて、そこに虫などが落ちると養分を吸う。ウツボカズラはつる状の植物で、そこにぶら下がったつぼの中に虫が落ちると養分を吸うわけだ。
ただ、温室も何にもないところで育てるのは難しく、私が買った食虫植物はどれもすぐにダメになった。湿度が足りなかったわけで、決して餓死させたわけではない。
乃南アサの「ウツボカズラの夢」(双葉文庫)を読んだ。
文庫本の表4(裏表紙)に書かれている文は、以下のとおり。
高校を卒業した未芙由は上京し、親戚の鹿島田家で暮らすようになるが、家族がどうも変なのだ。顔を合わせることもなく、皆、てんでばらばら。しかし、お互いを嫌悪しているわけでゃない。ではこの妙な違和感は何なのか?やがて未芙由はその正体に気付く。それは、彼らの平穏な日常を変容させるものだった。……
このメッセージそのものがちょっとオーバーな気もするが、ここに出てくる家庭は確かに変である。子供が大きくなると多少バラバラになるのは当然だが、ここまでくると家族でいる意味があまりない。というか成立しない。
田舎者の未芙由はこの家族に一生懸命尽くす。尽くすのはいいが……
ってことで、ウツボカズラなわけである。
でもね、ウツボカズラのツボの中って、養分を失った虫の残骸が残っていて汚らしい。
そう、汚らしいのだ。
いやね、いろいろ書きたいんだけど、ネタバレしちゃまずいし……。
この作家、私は初めて読んだ。
そこそこ飽きずに読んだけど、いまのところすっごい面白いとは思わなかった。なんというか、ストーリーの先が見えてきて、あまりワクワク、ドキドキ、キャッキャッしない。
ということで、今日のところはドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918 フランス)の「前奏曲集第2巻(Prelude 2)」(1912-13)。
なぜかというと、12曲から成るこの曲集の第10曲が「カノープ(Canope)」だから。
カノープとは、エジプトの壺のことなわけ。
「だから」とか「わけ」とか言いながらも、いま私が非常に苦しい境地に追い込まれていることは間違いない。お察しいただき、同情し、許していただきたい。ツボに関連するタイトルの音楽作品って、予想通りあまりないんだもの。
ちなみに、ドビュッシーの「前奏曲集第2巻」の各曲は、霧/枯葉/ヴィーノの門/妖精はよい踊り子/ヒースの茂る荒地/風変わりなラヴィーヌ将軍/月の光がふりそそぐテラス/水の精/ピックウィック卿をたたえて/カノープ/交代する3度/花火、である。
さらに、私は「前奏曲集」のCDを1種類しか持っていない。
前にも紹介したハースのピアノによるものだ。1961-63録音。フィリップス。
この演奏が素晴らしいと言う気もない(あまりいろんな演奏を聴いてはいないのでわからない)。
バーンスタインがフランス国立管弦楽団を振ったベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の「幻想交響曲(Symphonie fantastique)」Op.14(1830/改訂'31)。
実は私、この歳になるまでバーンスタインの「幻想」を聴いたことがなかった。たぶん。だって記憶にないもの……。
なんか「幻想」って、バーンスタインにすっごく合いそうな気がするのに、それを探し、選択し、聴いてみるという視野が完全に欠落していた。
同じベルリオーズでも「イタリアのハロルド」の方は、バーンスタインの2種の演奏を聴いてきているのに、なんで幻想のことに注意が行かなかったのだろう。不思議だ、私って。
で、フランス国立管との演奏は1976年録音(EMI)。
いろいろと調べてみると、この演奏、評判も悪くない。なんか、これまでの人生、少し損した感じ。まぁ、私の人生ってこういう回り道が多いんだけど(他に思う浮かばないが)。
バーンスタインの、ちょいとデフォルメを効かせたような演奏のイメージを持って気負って聴くと、あ~ら肩すかし。
すっごく普通の“交響曲”の演奏。でも、この“普通”っていうのが大切。実はありそうでない、すばらしき偉大なる普通さ。
第1楽章呈示部の“恋人の主題”のリピートなし。
第2楽章のコルネットの助奏なし。
第4楽章でのリピートもなし。
どれもこれも、これらの扱いはひと昔前の当たり前のやりかた。
が、そういうことじゃなく、バーンスタインらしからぬアクも暴走もない演奏。それが私の言う“普通”って意味(“普通”のリピートが多いでしょうか?)。
第5楽章の鐘の音は、高いが薄っぺらではないもの(札響が所有している幻想専用の鐘の音に近い)。これがまた、私にはしっくりくる。
このCD、幻想交響曲の他にに収められているのが、キタエンコのけっこう意外に素敵なフランス物数曲である。
昨日は、新千歳空港が雪のため、羽田からの飛行機が引き返すかもしれないという条件付きの飛行。
なんだかんだで、1時間遅れで到着したが、引き返したり欠航されることを思えば、無事飛んでくれたことに感謝!
日々、普通に運航することって、すごいことなのね。
数日前の朝、ご飯を食べているときに私は自分でも信じられないことをしてしまった。
箸でつまんだおかずを口に運び噛んだとき、箸も一緒にガギッと噛んでしまったのだ。
いやぁ、箸も歯も折れてしまったかと思った。
でも、両者痛み分け、判定はイーヴン!
箸の方はその後涼しい顔をしていたが、私といえば、数日間は下の前歯(の歯ぐき)に痛みが残った。
事件当日の昼は会議で弁当が出たが、こういう時に限って弁当にありがちではない正統派のザンギ(鶏のから揚げ)が2つも入っていて、噛むと痛くて、しかももし歯が抜けたらどうしようと心配になって、「おばあさん、ポリデント!」と叫ぶおじいさんのように、柔らかい玉子焼きとかで我慢した。
膀胱結石だけじゃなく、歴史があって豊富なラインナップが自慢のクラシック音楽の世界には歯痛に関する曲もある。
ギロ・ド・ボルネーユ(または、ギラウト・デ・ボルネーユ。Giraut de Bornelth 1138頃-1215 フランス)はプロヴァンスの詩人=トゥルバドゥールだった人。詩人ながらも音楽作品も何曲か残されているようだ。
その彼の「歯の痛みを抑えられない(No puesc sofrir qu'a la dolor)」。
その歌詞は(英訳だけど)、こんな風に始まる。
I cannot prevent with pain in a tooth my tongue returning to it.
まぁ、いいんだけどね。
子供のとき奥歯のむし歯の穴に、その時食べたkissチョコの粒がはまり込んだときは痛かったなぁ。痛みが脳天を貫いたなぁ。
以前取り上げたナクソスの「トゥルバドゥールの音楽」というCDに収められているが、現在は↓のように入手するのがなかなか難しい様子。
話は変わるが、いま百田尚樹の「永遠の0(ゼロ)」を読んでいる。
たいそう売れているという話だったし、新たな作家開拓ということで買ってみたのだった。
まだ前半1/3までしか読んでいないが、そこそこ興味をそそるがなかなかどんどんと読み進めないでいる。
そんなこと知ったこっちゃないって?
ごもっともです。
大阪の桜宮高校の生徒が記者会見を開いたことに、いろんな意見があるようだが、私はその勇気ある行動を評価したいと思う。というか、市長の言ってる事はあまりに感情的である。これから受験する生徒たちは途方にくれているはずだ。
それはともかく、生徒による記者会見というのを知り、私は宮部みゆきの「ソロモンの偽証」の法廷を連想した。
誤って毒キノコを食べてしまいあの世に行ってしまった作曲家はショーベルト(Johann Schobert 1735頃-67 ドイツ→フランス)だが、少年モーツァルトに影響を与えたこの人のクラヴサン協奏曲第4番は、クラシック音楽を聴き始めたころの少年MUUSANにも大きな影響を与えた。
それから時がたち、この少年が壮年になったころ、ようやくCD化されたこの録音を手にすることができたが、それにはサン=ジョルジュ(Joseph Boulogne Saint-Georges 1739-99 フランス)の「2つのヴァイオリンと管弦楽のための協奏交響曲ト長調(Symphonie concertante pour 2 violins et orchestre)」Op.13(1782刊)と、あの「ガヴォット」で名前が知られているゴセック(Francois-Joseph Gossec 1734-1829 ベルギー→フランス)の「2つのハープと管弦楽のための協奏交響曲ニ長調(Symphonie concertante du ballet de Mirza)」(1779?)が収められていて、その2曲も、私の心に無抵抗でしみ込むほどお好みの音楽だった。
このCD(下の写真)のタイトルは「ヴェルサイユ宮殿、小トリアノン宮における王妃マリー・アントワネットのための音楽会」という、まるで2時間サスペンスドラマのようなものであるが、要するにこの時代に流行っていた協奏交響曲を集めているということだ(ショーベルトのは協奏曲だが、この時代に書かれたコンチェルトとしては演奏時間が非常に長い)。音楽史でいえば、バロックから古典派への移行時期となる。C.P.E.バッハの音楽が好きな私は、同じようなこういう過渡期モノにひかれるのかもしれない。
ゴセックの協奏交響曲はバレエ「ミルザ」の序曲である。ちなみに「ガヴォット」-私にとっては小学校の音楽の時間、ソプラノリコーダーで初めて習った曲だ-は、歌劇「ロジーヌ」のなかの1曲である。
今日はサン=ジョルジュの別な作品を。
上に載せたCDジャケットを見て気づいた方もいらっしゃるだろうが、サン=ジョルジュはブーローニュ伯爵と黒人との間に生まれた人である。ヴァイオリニストとして活躍したほか、指揮者も務めた。作曲家としては多くの協奏交響曲とヴァイオリン協奏曲を残している。
上のCDには、ヴァイオリン協奏曲集Op.5(2曲。ハ長調/イ長調。1775刊)とヴァイオリン協奏曲ト長調Op.8(1777刊)の3曲が収められている。
明るく流麗な音楽はBGMにぴったりだが、正面きって向き合って聴くと、ちょっと他のことがしたくなる欲求にかられるかも……
西崎崇子のヴァイオリン、ミュラー=ブリュール指揮ケルン室内管弦楽団の演奏。
2000録音。ナクソス。
ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971 ロシア→アメリカ)の「管楽器のためのシンフォニーズ(Symphonie d'instruments a vents)」(1918-20/改訂1945-47)。副題として「ドビュッシーの思い出のため(Memoriam A.-CDebussy)」とある。
単一楽章の作品で、以下にも触れられているが、ここでの“シンフォニー”とは交響曲ではなく、バロック時代の器楽合奏(シンフォニア)の意味で用いられている。
H.C.ショーンバークは「大作曲家の生涯」(共同通信社)のなかでこう書いている。
早くも1921年に、ストラヴィンスキーは『管楽器のための交響曲』(「交響曲」という言葉は、幾つかの楽器の音が一緒に聞こえるという意味で用いられており、ソナタ形式とは関係がない)によって、自分が初期のバレエ曲ほどの人気を得ない種類の音楽に着手したことを、予告した。
彼は自叙伝(1935年)のなかで、この『管楽器のための交響曲』について、次のように述べている。
「この曲は間違いなく一般大衆に受ける要素や、聴衆がなれ親しんでいる要素を全く欠いている。情熱的な衝動や、ダイナミックな輝きをこの曲のなかに求めようとしても無益である。……この音楽は聴衆を“喜ばせ”たり、聴衆の情熱をかき立てる意図のもとで書いたものではない。にもかかわらず、感傷的な願望を満足させたいという欲求よりも、純粋に音楽を受け入れたいという願いの方が大きい人たちは、この音楽が気に入るだろうと私は期待した」
以上の字句は、ストラヴィンスキーの『春の祭典』以後のすべての音楽の意味を要約したもの、といえよう。聴衆がこのように反ロマン的で反センチメンタルな手法に共鳴するのは紺なんだろう、という彼の予感は正しかった。彼の崇拝者の多くは当惑した。
曲は無機質な響きではあるが、強烈な印象を与えるもの。
確かに情熱的な衝動はないが、すでに20世紀後半から現在に至るまでの間のいわゆる“ゲンダイオンガク”も経験している私たちにとっては、もはやさほど驚くべきものではない。
ただ、ストラヴィンスキー自身が述べている「純粋に音楽を受け入れたいという願いの方が大きい人たち」に気に入られたかどうかはともかく、この曲はストラヴィンスキーでなければ書けない強烈な個性が表れている。
ラトル指揮ベルリン・フィルによる演奏を。改訂版ではなく、1920年版を用いた演奏。
2007録音。EMI。
このCDには、ストラヴィンスキーの別な“交響曲”も収められている。
「3楽章の交響曲(Symphony in 3 movements)」(1942-45)である。
「3楽章の交響曲」はストラヴィンスキーの新古典主義の末期の作品。こちらも交響曲とは言っても、その様式には則しておらず、ジャズの要素も取り入れられている。
こちらの演奏のオーケストラはバーミンガム市交響楽団。2007録音。
さらに言うと、このCD(4枚組ボックスの1枚だが)にはバレエ「ペトルーシュカ(Petrouchka)」も収められている(1947年版)。
近年のニッポンでは“のだめ”の影響で、このバレエ音楽そのものよりも、ピアノ用に編曲された「ペトルーシュカからの3楽章」の方が有名になっている懸念があるが、この輝かしい響きのオーケストラ作品はぜひとも聴いてほしいものだ。
ラトル/バーミンガム市交響楽団の演奏(1986録音)は、複雑で絢爛豪華なこの曲を、精緻に安定して鳴り渡らせる。なのに、機械的にならず、チャーミングでさえある。
CDというのは物によってはかなり過剰包装だ。
なかには透明のフィルム3枚にくるまれているのがある。外袋、中袋。中袋には帯があって、内袋はぴったりとCDケースを覆っている(輸入盤の場合)。
そうでなくても、このフィルムを開けるときの開封口がわかりにくい。わかっても、何回も爪で引っかけても開封テープというのか、あのひも状の部分がうまくはがれない。キャラメルのように開けやすくできないものだろうか。
先日もあるCDのケースの背の部分を、一生懸命爪で引っかけようとしたが、全然ダメ。まったく猫の手も借りたい気分だったが、ネズミが出たわけじゃないので、自分一人でがんばった。
が、結局そのCDの外装フィルムには開封口がないことがわかった。
やれやれである。
そのCDは、ジンマンが指揮したマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第9番ニ長調(1909-10)であった。
この演奏、終楽章がとにかくすばらしい!
第1楽章の冒頭から切ないが温もりがある。しかし、スケール感は抑制されており起伏も乏しく、例えばバーンスタインなどの“劇的表現”の反対をいくもの。
第2楽章、第3楽章となると、その姿勢がとても物足りなく感じてくる。
ところが、第4楽章になると、哀しみと諦めと無力さの混合剤を欠陥注射されたかのようになる。ジンマンのアプローチは-それは前3楽章同様、温かみをもった優しげ美しいものだが-ここで、みごとにハマる。
1つ1つのフレーズを大切に、でもしなやかに歌い上げるが、それはこの世に対する諦めの微笑みのようだ。
心静かにしてそのときを待つ……「大地の歌」のコンセプトを続けて引き継いでいるレクイエムである。
この曲の決定的なお薦め盤とは言えないが、ちょっと異色の名演奏。終楽章だけでも聴く価値多大!
深い深い感動にしばらく身動きできなくなること間違いなし!(←あくまで個人的体験談です。聴き終えた後の状態には個人差があります)
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