生物は親がなくとも物質から生まれることがあるという“自然発生説”を唱えたのは、確かアリストテレスだ。
「モノから生き物が生まれるわけないじゃん。アホか?まったくぅ~」とばかり、自然発生説を否定したのがパスツール。1861年のことであるらしい。
これは画期的な新学説だった。だって、いまだって床下に置き忘れたイモが腐ってショウジョウバエがウガァーっと飛び回るのを見ると(過去1度しか経験はないが)、ショウジョウバエって自然に生まれいずるんじゃないかと一瞬思ってしまうもの。
パスツールが行なった実験として、理科の教科書で首がフンニャっと伸びて曲がったフラスコの絵を見たことがある人も多いだろう。あれは“白鳥の首フラスコ”というらしいが、この妙なる形状の首によって外から雑菌などが入り込めないようにすると、フラスコのなかにレバ刺しを入れようと大トロの刺身を入れようと(もちろんそれらの試料は滅菌されていなければならない)、微生物が発生して腐ることはないのだ。どうやって入れるのか問題だが。
つまりパスツールは、自然に生物は発生しないということを証明したのだった。
が、私の部屋でパスツールの説を覆すようなことが起こった。
どう考えても自然発生である。
鉢に植えてあるバラの“夢紫”。
日照不足ぎみではあるものの、きちんと葉を繁らせてくれている。関係ないが、私の母方の今は亡き祖父の名前は繁蔵であった。
昨年末に通販で届き、鉢に植え、そのあと葉が出てきて現在に至る。
しかし、な、な、なんと、そこにハダニが発生したのだ。
マンションの9階にある、地震が来たら揺れが激しいこの部屋に……
冬なので窓を開けることもない。
ドナルド、いや、となると、ハダニは何もないところから自然にわき出すように発生したと考えざるを得ない。
なに?私の体内から放出されたんじゃないかって?
いったいどこから出たって言うんじゃい?
ほかの鉢植えから移り住んできたんじゃないかって?
ベンジャミンにもパパイヤにも異変はない。
にしても、ダニにかまれてウィルスで死んでしまったという事例が報告されている物騒な昨今なのに、私は同じ室内で暮らしていたことになる。
あれはマダニか……。ハとマの一文字が違うだけでずいぶんと危険性は低下するものだ。
よかった……
じゃなかった。バラにとってハダニは大害虫だ。
チビのくせに、いっちょまえにクモのマネして網まで張りやがって……
私は鉢を廊下に持ち出し、殺虫剤のスプレーを構えた。
なんだか、妙にテンションがあがって、これからの殺戮に奮い立つような喜びを感じるのが、自分でも怖い……
「イゴーリ公」序曲の、金管群のエコーが鳴り渡るような高揚感。
シーズンオフでのプチ・ガーデニング作業に心が躍っているのだ。
攻撃開始!
シュッ、シュッ、シュラシュシュシュッ!
噴霧終了。
すでにハダニに汁を吸いつくされた葉は、振動でボロボロと落ちる。
感心にも、私はそれをきちんと拾い集め、私は再び部屋に入り、まだ湿ったままの彼女を窓際に置く。
すべて終了。
真冬のガーデニング作業って初体験。わずかな作業ながら、ちょいと春の気分を味わった。
ボロディン(Alexander Borodin 1833-87 ロシア)の歌劇「イーゴリ公(Prince Igor)」(1890初演)の序曲。
このオペラについてはここで書いているので、本日は何も書かない(手抜きしているわけじゃない)。
ボロディンの最高傑作はといえば、私は交響曲第2番を挙げるし、「イーゴリ公」の中では「ダッタン人の踊り」がこれまた有名かつ傑作だ。
が、この序曲を忘れてはならない。絶対に。
海外旅行に行くときのパスポート並みに忘れてはいけない。
この短い序曲の中にボロディンの魅力-うっとりするようなメロディー。荒々しいアタック。2つの旋律が絶妙に絡む体位信仰、おっともとい、対位進行。管楽器によるリレーやエコーの掛け合い-がすべて凝縮されていると言っても過言ではない。
いいですか!
くり返します。
決して忘れてはいけない価値ある曲です。
今日はあまり土臭くないA.ディヴィス指揮トロント交響楽団の演奏で。
1976録音。newton。
このCD、前にも書いた通り、ゲットするのに焦った思いをした、個人的にかなり価値あるものだ。
さて、じゃあハダニはどこからやって来たのか?
たぶん、もともと届いたときから枝かどこかに卵が付いていたと考えるのが妥当だろう。
ハダニに体をもてあそばれ、いや、蝕まれているにもかかわらず、“夢紫”は蕾を持った。
まだ株自体がしっかりしていないので、本来なら蕾を摘んで体力をつけさせるべきだが、私は彼女に咲いてもらうことを依頼した。
楽しみである。
February 2013
先日の朝。
塩サバをおかずに朝ご飯を食べていたら、ニュースでサヴァリッシュが22日に亡くなったことが報じられた。
私がクラシック音楽を聴き始めたころ。
サヴァリッシュ指揮によるNHK交響楽団の演奏がテレビやラジオでよく放送されていたが、それを聴いて知った曲が私には数多くある。
そういう意味では、私はサヴァリッシュ氏にとても感謝している。
が、いま自分の持っているCDを調べてみると、サヴァリッシュの演奏によるCDは-指揮者としてもピアニストとしても-驚くほど少なかった。
若いころお世話になったのは確かだが(ちょっとHっぽい表現かい?)、あまり自分の肌に合う人じゃなかったのかもしれない(やっぱりHっぽい言い方かい?)。
だからCDを求めることも自然となかったのだろう。
そんな数少ないサヴァリッシュ演奏のCDのなかから、ドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 チェコ)の交響曲第9番ホ短調Op.95,B.178「新世界より(From The New World)」(1893)。
このCDは同じドヴォルザークの交響曲第8番とのカップリングで、8番の方は以前取り上げ、賞賛したことがある。
では第9番は、というと、これまた破たんはないがつまらないというものではなく、“秘めた闘志”ならぬ“秘めた熱意”が感じられる演奏。
サヴァリッシュという指揮者は、生真面目でそつなくこなすが、面白みに欠ける印象がある。実際、そういう演奏傾向にあった記憶が私の心に根づいている。
が、この「新世界」では、「このおっさん、なかなかやるわい!」と思わせるダイナミックさを見せる。情感豊かなたっぷりとした節回しが随所にあり、うん、悪くない!
オーケストラはフィラデルフィア管弦楽団。
1988録音。
にしても、歳をとるということは、知っている人たちが死んでいくことなんだなぁ。
私が使っているスピーカーはインフィニティのKAPPA80である。
このスピーカーにはゴム製の脚が3つついていて、それはスパイク・ピンと交換することができる。
購入したときにスパイク・ピンに交換しようとしたが、運んできた大阪屋(という店が札幌にある)の店員さんが作業に失敗して、ねじ穴をバカにしてしまった。
粗相をしてしまった店員さんはその代償として、後日タオックのピン・プレートインシュレーターをサービスしてくれた。
気の毒だがしょうがない。だって、配送した直後に壊しちゃったわけだもの……
それからというもの、このインシュレーターをスピーカーの脚として使ってきたわけだが、今月2日の地震の時に、左側のスピーカーが倒れてしまった。
そのあとしばらくの間はインシュレーターをはさまずに、スピーカーを床に置いてみた。つまりゴム足のままでの設置である。
この状態で聴くのは、過去の札幌、大阪、東京時代のいずれにおいてもなく、てっとり早く表現するならば、今回が初めてである。
脚がゴムだからっていうイメージだけじゃなく、音が間違いなく甘く締まりがなくなった。
これはだめだわい。
ということで、再びインシュレーターをはさむ。
ピシっと来た。
こうじゃなきゃ。
でも、いままでも感じていたことではあるが、低音がやや不足気味だ。
ということで、これまたこれまでしたことがないイケナイことをする決意をした。
トーン・コントロールつまみを回すという禁断の行為である。
私はこれまでトーン・コントロールつまみで音質をいじったことがなかった。トーン・コントロールを経由しないように、アンプの設定を“Line Straight”モードにしていたくらいだ。
平林直哉著の「クラシック100バカ」(青弓社)のなかに、「アンプ類で音質補正をしないバカ」っていうのがある。つまり、アンプで音質補正をしないのは、100人のうちのバカの1人だというわけだ。
たいていのアンプにはトレブル、バスのツマミがあって、そこを調節して好きな音質に変えるものなのだが、これを使おうとしない人はけっこう多い。……
悪かったね、ふん!
まぁ、そのあとに続く文にはたいしたことが書いてなくて、このばーか!と、畏れ多くもこっそり言いたくなるんだけど、私もこれまでトーン・コントロールは使うべきではないと漠然と思っていた。
そういう記述にいろいろな場面で出くわしていたからだ。そのくせカー・オーディオとかウォークマンでは活用してたりして、ちょいと一貫性がないのも事実。
今回勇気を奮って、バスをちょっと上げてみた。時計の短針で言えば、12時から1時半くらいのところまで。
うん、低音が適度にふくよかになった!……気がする。
高域の伸びもスッキリして良くなった。……感じがしないでもない。
当面、これで過ごしてみよう。
今回、コントロールの際に使った曲はC.P.E.バッハ(Carl philipp Emanuel Bach 1714-88 ドイツ)の「シンフォニア ニ長調」Wq.176,H.651(1755)。
何度も書いているが、C.P.E.バッハは大バッハ(J.S.バッハ)の次男。
Wq.176のシンフォニアはトランペットも加わる華やかな曲。C.P.E.バッハの特徴である“渋さ”はあまり強調されない。それにしても、モーツァルトが生まれる前年に、もうこんな“アクティブ”で“新しさを湛えた”音楽が書かれていたことに驚かされる。
あぁ、なんて興奮させられる曲だろう!
そのモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の、交響曲第18番ヘ長調K.130(1772)の終楽章のフルートの音色を聴くと、Wq.176でフルートが奏でる響き、というか雰囲気にとても良く似ていて、驚いてしまう(ちょっとオーバーか?)
ということで、なんの解決もないまま終わることとする。
Wq.176のシンフォニアはホグウッド指揮アンシェント・オブ・アカデミー・ミュージックの演奏がお薦め。
1977録音。
でも、現在は入手困難なよう。
モーツァルトの交響曲第18番は、第17番のときに取り上げたコープマン盤を。
今週の末はもう3月だ。
待ちに待った春は、カレンダー上では確実に近づいてきているわけだが、実感としては着実に近づいてきているようには思えない今日この頃である。
朝晩は相変わらず寒い。
昨日の当地の最低気温は-16度、最高気温は-4度だった。
せめてもの救いは、両方とも私の好きな偶数だったことぐらいだ。
そんなことで、待ち遠しい春を、気持ちの上だけでも味わおうと、今日はグラズノフ(Alexsander Glazunov 1865-1936 ロシア)の交響曲第7番ヘ長調Op.77「田園(Pastoral)」(1902)。
ほれ。7が3つ並んで、なんとなくハッピーな気分にもなれそうだ。
グラズノフはベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を意識しながらこの曲を書いたという。
4つの楽章から成り、第1楽章の冒頭から鳥や小動物、私の嫌いな虫たちが喜び勇んで活動を開始するような感じだ。
途中で現れるメロディーは伊福部昭(Ifukube Akira 1914-2006 北海道)が書いた、映画「地球防衛軍」(1957)の音楽のなかの「ミステリアン攻撃準備」にちょっと似ている。まったくの偶然だろうけど……
いちばん派手に盛り上がるのは第4楽章。第1楽章の主題が回顧されてけっこう感動ものだが、ちょいとバカ騒ぎし過ぎというか、オーバー。
グラズノフの他の交響曲全体に残念ながら共通してしまうのだが、この曲もなんというか、締まりというか厳格さに乏しい。“匿名的”ということではないが、「これはグラズノフの特徴だ」という個性的なものが不足している。ぼやんとしてるのが個性とも言えるが……。交響曲においては、グラズノフは(ロシア+ヨーロッパ)÷2という折衷的なスタイルを、チャイコフスキーのようにうまく表現するに至らなかったとも言える。部分部分でははっとするようなきらめきがあるのだが……
とにかく、まあ春を待ちましょう。
セレブリエール指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏で。
2006録音。ワーナー・クラシックス。
また、伊福部の「ミステリアン攻撃準備」は、「東宝特撮未使用フィルム大全集サウンドトラック OSTINATO」という、長いタイトルのCDに収められている。
オリジナル・サウンドトラックで指揮は熊谷弘。オケのメンバーは不明。
伊福部昭自身がこの録音のために、各曲の編曲を手がけた。
1986録音。キング。
この1週間を振り返ってみよう。誰にも尋ねられてはいないけど……
テュラテュラテュララ~
月曜日。札幌で会議。
前日の夜に移動した私は、この日の朝から雪かきをこなし(もちろん自宅の敷地のである。誰がコンビニの駐車場の雪かきをするというのか?)、そのあとはさっそうとしたスーツ姿で会議へと向かったが、途中かかりつけの病院に行った。
今回は血液検査はパス。というのも、結果を聞きに行く時間がないことと、4月にドックを受けるためで、繊細な左腕の皮膚に穴を開けることを免除してもらった。
血圧は正常値だし体重も増えていなかったことから、「何か心がけていることあるの?」と医者に優しく言われ、「ワンワン、ずっとカツカレーはがまんしているワン!」と答えたかったが、「食べすぎないように、日々細心の注意を払っています」とアダルトな返事をするにとどめた。
なお、体重が増えていなかったことについては、計測前にポケットから小銭入れと携帯電話とキーホルダーを出したことも寄与しているふだろう。
にしても、ズボンのすそを上げて足にむくみがないか診られたときには恥ずかしかった。
毎度調べられるのに、うかつだった。
この日私は、黒タイツを着用していたのだ。もちろん防寒のためであって、夜になって女装して徘徊するための準備ではない。
恥ずかしかった。少なくともひざぐらいまでたくし上げておけばよかった。
そのあと、あのラーメン屋に行く。なぜなら11:40になっていたからだ。
「醤油ラーメンに小ライス」という豪華定番メニューを威勢よく注文したかったが、「おっ、体重も維持してるな、よしよし」と褒めてくれた医者の笑顔がまぶたに浮かび(このとき瞬きしたのが失敗だった)、味噌ラーメン単品の注文に甘んじることにする。
一番好きな醤油味じゃなくて2番目に好きな味噌にしたのは、かつての経験からして、味噌の方がややボリュームがあったからだ。
ところが、出て来た味噌ラーメンは一目瞭然であのころのような盛りではなく、お子様ラーメンかと思うほど麺の量が少なかった。疑いたくはないが、明らかに減麺していると察せられる。というのも、丼がサイズアップした形跡はなかったから……
しかも、実際に箸を突っ込んでみると、支那竹(最近は死語らしいが、つまりはメンマである)が以前より多く感じられた。麺と思っていたものの数パーセントは竹だったわけで、つまり、その分さらに減麺されている。
まいったなぁ。
すっごく損した気分で昼食を終える。
そのあと会議。
夜は、私とこちらの地元から会議に出席した数名と食事。
おぉ、排雪のおかげで、月明かりに照らされた道路が広くなっとるわい。
翌日。
この日も会議。
前日よりも参加人数が多い。
総勢100名ほどだが、そのなかで女性はたった1人。
いやだろうなぁ。オッサン99人のなかにたった1人なんて。これが逆の立場だったら、私なら耐えられない。ハーレムとかいう状況ではない。女の人っていろんなところで大変だ。いや、別になんとも思ってないのかもしれないけど……
翌日は昼前のJRで帰るつもりだったが、なんだか天気が悪くなりそうなので朝8時台の列車に変更することを決意。会議のあと、札幌駅のみどりの窓口へ行く。
私が希望を伝えるや否や、あっという間に新たな切符が発券された。
は、速い!速いを超えて、すばやい!
私がよく使うO駅とかの2倍とは言わないが、1.7倍くらい速い。
端末機のスピードが違うのか?うんにゃ、手際の良さだろう。
この日もけっこうじっくりと飲んだ。
翌朝。
眠かったが、あまり車内では眠れなかった。
なぜなら本を読んだから。本を開きながら眠ることはできるが、さすがの私も本を読みながら眠ることはできない。
本は貴志祐介の「悪の教典」(文春文庫)。
ミーハー的だからこれは読まないと言っていたのに、なんて誘惑に負けやすいボクちん……。やれやれ……
「悪の教典」とも、味噌ラーメンのボリュームの無さとも、99人のオッサンたちとも関係ないが、強いて言えば1.7倍ということにちょっとかする程度の関連で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の交響曲第17番ト長調K.129(1772)。
この曲が完成されたのは1772年5月であるものの、プラートやタイソンの研究から、作曲にとりかかったのはもっと前のことで、何らかの事情から作業はいったん中断され、このときに完成をみたと考えられている。
交響曲第16番と18番も、同じ1772年5月の日付が楽譜に書かれているが、それは完成日付であって、その1カ月間に3曲すべてを作曲したわけではない。
編成は、オーボエとホルンが各2と弦楽5部。
3つの楽章から成り、第1楽章ではロンバルディア・リズム(あるいはスコッチ・スナップ)と呼ばれるリズムが特徴的とされる。
第2楽章はいかにもモーツァルトらしい甘美さと親しみやすさを備えたアンダンテ。このシンフォニー自体はそれほどメジャーではないのに、このメロディーをどこかでよく耳にしたことがあるような気になるのは、かつてCMかなんかで使われていたのだろうか?
第3楽章は狩猟ラッパのようなホルンが印象的なもの。
コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団の演奏で。
1991録音。エラート。
先日「排雪が終わったら大雪が降ることがある」と書いたが、ほぅらやっぱり、20日の晩から翌日にかけて大雪になった。
札幌を中心に大雪警報が発表されて、冗談抜きで大量に降り、そして積もった。
21日午前7:18現在のJRの状況。
20日 旭川22:00発 札幌行き スーパーカムイ48号 岩見沢駅で停車中。
20日 札幌23:05発 旭川行き スーパーカムイ47号 江別駅で停車中。
20日 小樽21:38発 滝川行き 普通列車 幌向駅で停車中。
20日 小樽22:00発 岩見沢行き 普通列車 江別駅で停車中。
20日 札幌23:22発 岩見沢行き 普通列車 野幌駅で停車中。
20日 札幌23:40発 江別行き 普通列車 厚別駅で停車中。
20日 札幌23:37発 石狩当別行き 普通列車 あいの里公園で停車中。
すごいね。札幌から江別までは約20kmほど。そこで8時間も立ち往生中。
これだったら札幌に引き返してくれって思う人もいただろう。でも、反面、そろそろ動いてくれるかっていう思いもあって、そういうはかない期待を抱いているうちに一夜あけちゃったのね。
一方、旭川から岩見沢までたどり着いた上りのsカムイ48号の乗客にしてみれば、あと40kmくらいで札幌なのにと、なんとか発車してくれと祈るような思いだったに違いない。祈りは通じなかったけど。
こんなとき、羽があって飛べればいいのにね。
ヘンゼルト(Adolf von Henselt 1814-89 ドイツ)の「もしも私が小鳥なら、あなたのところへんで行きたい(Si oiseau j'etais a toi je volerais)」。
彼の「演奏会用の12の性格的練習曲(12 Etudes caracteristiques de concert)」Op.2(1837出版)の第6曲である。
ヘンゼルトはフンメルに学んだピアニストで、1838年からロシアに定住し、ピアノ教師と演奏家として活躍、ロシア音楽の発展に貢献した。作曲家としてはロマン派様式のピアノ曲を残している。
この曲も甘くロマンティックなメロディーが印象的。ヘンゼルトの作品中でもとりわけ有名なのも納得がいく。
レーンのピアノによる演奏を。
2004録音。Hyperion。
でも、あんな大雪なら鳥だって飛べないな。きっと。
ウチのカーポート、ほんと、大丈夫だろうか……
月曜日の朝、つまり個人的には自分の誕生日の朝だったわけだが、会員登録しているPotoraというポイント・サイトから祝福するメールが届いた。
こんにちは。Potora事務局の〇〇ほのかです。
お誕生日おめでとうございます。新しい年齢を迎えた、今のご気分はいかがですか?ご縁あって Potora からお祝いのメッセージをお届けできること を、スタッフ一同とても嬉しく思っています。
誕生日が楽しみだった方も、あるいはちょっぴり憂鬱だった方も、今日は間 違いなく、あなたが主役の記念日です。一年間ずっと頑張って生きてきた、あなたの大切な記念日。ゆっくり深呼吸して、これからの未来に思いをめぐらせてみませんか?
ドイツの思想家フリードリヒ・シラーという人がこう言ったそうです。
「時」の歩みは三重である。未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように速く飛び去り、過去は永久に静かに立っている。
人生が「旅」だとしたら、列車の車窓からの眺めに似ているかもしれません。
進行方向の「未来」はもうすぐ着きそうに見えてなかなか近づいてきません。
早く着かないかなあ..と思えば思うほど、列車はまるで焦らすようにゆっくり走っていくよう。
そして後ろに流れていく「過去」という景色は、真横に見えた「現在」と同じものなのに、ゆっくりゆっくり地平線の彼方に消えていきます。
私たちを運んでいくのは「運命」と言う名の列車かもしれませんね。
楽しい景色も悲しい景色も、私たちはそれをずっと見ていることはできなくて、列車はどんどん未来に向かって走っていきます。楽しい時が永遠に続かない代わり、どんなに辛い試練も終わる日が必ず来るんですよね。
あっという間に過ぎ去ってしまう景色がどこまでもたくさん繋がって、人生という旅が続いていく。そう考えたら、自分の人生が何か少しロマンチックに思えてきたりして。..
今日、あなたはおいくつになりましたか? 明日からまた新しい1年が始まります。新しい出会いや出来事、あなたを待つ人生の景色はどんなものでしょうね。あなたが創る人生の旅のアルバムが充実したものであることを、心からお祈りしています。
ありがとうございます。
でも、ほのかさん、ちょっと硬い、かつ、暗い、おまけに重いです。話が……
ほのかさんこそ何か悩みを抱えているんじゃないかと思ってしまった私は、考えすぎでしょうか?
なんというか、シラーまで持ち出されてしまうと“歓喜に寄す”かなって「第九」を思い起こしたりもしたのですが、それも束の間、全体に横たわる哲学的というかお説教されているような雰囲気に、私の頭にはチャイコフスキーの交響曲第5番の冒頭のおっも~いメロディーが流れてきたりしました。私の表情もこのCDジャケットのチャイコフスキーのようになってしまっていたんではないでしょうか?
ええ、悪意なくお祝いされているのはわかるんですが、ちょっとシュンとした気分になったのです。
みなさんのなかにも、私のこの気持ち、そしてチャイ5の冒頭の襲来をわかっていただける方がいらっしゃると信じていると、思えてきたりして。..
私がおいくつになったかは重大な個人情報なのでちょっと秘密ですが、いずれにせよ、自分の幸せは“ほのか”な気がしてきました。
でも、くり返しますが、ありがとうございます。
チャイコフスキー(Pytr Il'ich Tchaikovsky 1840-93)の交響曲第5番ホ短調Op.64(1888)。
冒頭に表れる“運命の主題”が、各楽章に現れて全曲を支配する。まぁ、曲についての詳し意話はここのリンクを読んでいただければこれ幸い。
今日は比較的あっさりめの、良く言えば洗練された、意地悪な言い方をすれば重量感不足のロジェストヴェンスキー指揮ロンドン交響楽団の演奏を。
録音年不明。ブリリアント・クラシックス。
近ごろ、私の気持ちを明るくさせる唯一のことは、日の出が早くなったことである。
ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971 ロシア→アメリカ)のバレエ「プルチネッラ(プルチネルラ。Pulcinella)」(1919-20/改訂1947)。
1幕物のバレエ・パントマイムのための音楽である。
H.C.ショーンバーグは「大作曲家の生涯」(共同通信社)のなかで、次のように書いている。
ストラヴィンスキーが他の作曲家の音楽を編曲した例もある。ペルゴレージの作品をバレエ「プルチネルラ」に変え、チャイコフスキーの音楽をバレエ「妖精のくちづけ」に変えたのが、それであった。音楽のソースがなんであったにせよ、いずれも典型的なやせた音、特有のオーケストラの間、尖鋭的な不協和音、そして、イーゴル・ストラヴィンスキーを表す不均衡なリズム、を備えていた。
「プルチネッラ」はディアギレフ率いるロシア・バレエ団の委嘱により作曲された。
そしてまた、これはストラヴィンスキーが新古典主義を明確にした最初の作品とされる。
「プルチネッラ」の素材になっているのはペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi 1710-36 イタリア)のチェンバロ曲。
ただし、これまではすべてがペルゴレージの曲に基づくとされていたが、その後の研究で他の人による作品も含まれていることがわかった。
ディアギレフがストラヴィンスキーに望んだのは、大編成の管弦楽による音楽だった。
しかしストラヴィンスキーはその意向を無視して、小編成のオーケストラのための作品とした。
編成は、フルート、オーボエ、ファゴット、ホルン各2(クラリネットは用いられていない)。トランペットとトロンボーン各1。独奏弦5部として、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス各1。弦5部として、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが各4、ヴィオラ3、チェロ3、コントラバス3。このほかに、ソプラノとテノール、バスの独唱が加わる。
結果的に(いや、ストラヴィンスキーの狙い通りということなんだが)、小編成にしたことでペルゴレージ(など)の原曲の味わいを残したまま、かつ、ショーンバーグの言うような、ほかにはない“やせた音”の独特の世界が繰り広げられることとなった。
バレエの物語は、ナポリの民衆劇からとったもの。色男のプルチネッラは女性たちにもてすぎるので周りの男たちに妬まれ殺されそうになるが、身代わりを仕立てて難を逃れる。そして美しいピンピネッラという娘と結婚する、というもので、「あっ、そう!よかったこと」と言い放ってやりたくなる。なんか腹立たしい。まったく殺されかけるのも納得いくわい。
腹立たしいと言えば、1週間ほど前に紹介した今年の“怒帝王”。その後、こんなふうに花茎が伸びた。なんだかアスパラガスみたい。思わずベーコンを巻きたくなったわい。
この曲については前に('10/10/10!)取り上げているが、今回はラトルの上品で巧みな紡ぎ物のような演奏を(全曲盤)。
管弦楽はノーザン・シンフォニア管弦楽団。独唱はスミス(S)、フライアット(T)、キング(Bs)。
1977-78録音。EMI。
今回の札幌での会議には、私の勤務地での取引先の方々も何人か出席したが、そのうちの1人は狩猟を趣味としている。つまり狩りである。ハンターである。
獲物は鹿。
今度食べにおいでと、私を誘ってくれる。ありがたいお話だ。
そういえば、10年ほど前にドイツに出張したとき、訪問した先の方が近くのレストランで昼食をごちそうしてくれた。
シカ肉料理とイノシシ肉料理のどちらがいいか尋ねられ、私はイノシシを選んだ。われら一行の1人がシカを頼むときに、シカを英語で何というか一瞬わからなくなり、「バンビ!」と答えてドイツ人たちに大笑いされた。
以上、思い出話を終わる。
L.モーツァルト(Leopold Mozart 1719-87 オーストリア)の「シンフォニア・ダ・カッチャ(Sinfonia da caccia)」ト長調(1755)。cacciaというのは狩りのことで、つまりは「狩りの交響曲」ということになる。
レオポルト・モーツァルトはヴォルフガングの父親。
ザルツブルクの大司教の宮廷楽団でヴァイオリニスト、作曲家、副楽長を歴任した。前古典派の様式の多くの作品を残しており、シンフォニアも69曲残している。
レオポルトは一族の中で最初の音楽家だが、実は聖職者になるべくイエズス会系のギムナジウム・聖ザルヴァートル幼稚園→同ギムナジウム→リュケ-ウムと進んだ。ところが17歳のときにリュケーウムでの残り2年の在学期間を残して退学する。その退学の理由はわかっていない。
その後レオポルトはベネディクト派の大学であるベネディクティーナ大学に入っている。ところがここも退学してしまう。出席日数が足りなく退学処分となったらしい。これを機に聖職者への道を捨て音楽家を目指すが、聖職者になりたくないがために退学になるように企てたとも考えられる。
1739年に大司教のもとでのヴァイオリン奏者として迎えられ、頭角を現していった。結婚は1747年。1756年にはウォルフガングの父としてでなく彼の名を残すことになった「ヴァイオリン奏法」を出版した。
1756年にウォルフガングが生まれるが、その3年後、息子の才能に気づいたレオポルトは自らのキャリアを捨てて息子の教育と売り込みにすべてを注ぐことになる。息子には学校に通わせることなく、彼が音楽だけでなくあらゆることを教えた。
が、息子のための道を選んだものの、やがて息子は父から離れてゆくことになる。
レオポルトが残した多くのシンフォニアのなかでも「シンフォニア・ダ・カッチャ」は代表作と言えるもの。
第1楽章で4本のホルンが狩りの際のファンファーレを思わせることからこの名がある。編成は4本のホルン、弦楽、ティンパニ、通奏低音で、3つの楽章から成る。
ヴァイナル指揮カペラ・イストロポリターナの演奏を。
なかなか躍動的でキレのいい楽しい演奏。これが格安で買えちゃうんだから、まったくもって世の中捨てたもんじゃない。
1989録音。avex。
ちなみに、レオポルトのシンフォニアには「新ランバッハ交響曲」というのがある。
この曲は一時期ウォルウガング・アマデウス・モーツァルトの作とする説があったが、現在は父であるレオポルトの作であると断定されている。
さて、貴志祐介の「青の炎」(角川文庫)を読み終えた。列車で移動中に多くを読めたとはいえ、私としては異例の速さ。ストーリーも面白かったし、読みやすい小説だった。
あらすじは、
櫛森秀一は、湘南の高校に通う17歳。女手一つで家計を担う母と素直で明るい妹との三人暮らし。その平和な家庭を踏みにじる闖入者現れた。母が10年前、再婚しすぐに別れた曾根だった。曾根は秀一の家に居座り、母の体のみならず妹にまで手を出そうとしていた。警察も法律も家族の幸せを取り戻してはくれないことを知った秀一は決意する。自らの手で曾根を葬り去ることを……。日本ミステリー史に残る感動の名作。
というものである。
この小説は“倒叙推理小説”に分類されるもの。倒叙推理小説が何かは、この文庫の解説をご覧あそばせ。
にしても、私は秀一の考えに共感した。秀一のような勇気はまったく持ち合わせていないけど……
今ではもう名前も思い出せないガキ大将は、冷蔵庫のドアを開けて、誰かに中に入るように言った。誰もが尻込みした。
貴志祐介の「十三番目の人格 ISOLA」のなかの一節である。
私も子供のとき同じような経験をしたことがある。
もちろん私のように知的で繊細で優美な人間がガキ大将であるはずがなく、冷蔵庫に入る側の立場だ。
4歳ぐらいのころ、私は札幌の創生川沿いに住んでいた。川向こうには藤女子高があった。
いまのように広い創生川通りという道路がのちにできるなんて、まったく想像もできないようなのどかな街だった。だいたいにして、年に2回ほどだったと思うが、近くのホシ・スーパーだかで何百円以上買うたびに、景品としてヒヨコがもらえた時代だ。いまどきスーパーで、1000円お買い上げごとにヒヨコ1羽プレゼントなんてやったら、ほぼ全員が喜ばないだろう。
河原に小さめの冷蔵庫が捨てられていた。
中はからっぽ。
そこに入れと言われた。すぐに開けてやるからと。
私は入った。ドアを締められると真っ暗で、とても怖くて私は叫んだ。
幸い、約束通りすぐに戸は開けられたが、当時、このように不法に(いや法律なんてなかったのかもしれない)捨てられた冷蔵庫に入って閉じ込められ、窒息死するという子供の事故がしばしばあったようだ。
ということで、私は暗闇から復活した。
さて、「十三番目の人格」は貴志の処女作である。
私は彼の最近の作からさかのぼる形でこの小説に行きついたが、処女作からしてすごいね。さすがだ。
そして、終わり方が、とても意表をついていた。こういう終わりは予想していなかった。
ところで、こういう一節もある。
バーのピアニストが、アンドリュー・ロイド・ウェバーの曲を弾き始めた。『オペラ座の怪人』の中の『ミュージック・オブ・ザ・ナイト』だ。
ロイド=ウェッバー(私はウェッバーと表記したい)の名は、「天使の囁き」にも出てきた。
たぶん、作者はロイド=ウェッバーが、あるいはイギリスのミュージカルのファンなのだろう。
ミュージカルとは、アメリカで発展し完成された音楽劇のことで、ヨーロッパのオペレッタ(喜歌劇)がルーツである。
なのに、どれに“・ソー”がつくと、つまりミュージカル・ソーになるとまったく違うものになる。
ミュージカル・ソー(musical saw)というのは“音楽のこぎり”。西洋のこぎりの反り具合を加減して音程を変える“楽器”で、ヴァイオリンの弓で弾く。
そんな珍しい“楽器”を使った曲を。
実は前にも取り上げたことがあるが、黛敏郎(Mayuzumi Toshiro 1929-97 神奈川)の「トーンプレロマス55(Tonepleromas 55)」(1955)。ウィンド・オーケストラのための作品である。
トーンプレロマスというのはヴァレーズが作った言葉で、トーンクラスターのこと。
黛は、「人間の息を利用する管楽器と、手によるアタックを生命とする打楽器のアンサンブルが発する音のエネルギーの集積は、〈トーンプレロマス〉という言葉にいちばん相応し、効果をあげてくれることだろう」と述べている。
ミュージカル・ソーの妖艶な響きと炸裂する打楽器、管楽器の叫びとそれに混じるサイレンの音……そして変形された「マンボ5」の登場……
いやぁ、おもしろいです。
CDは岩城宏之指揮東京佼成ウィンドオーケストラの演奏のものが出ている。ミュージカル・ソーは萩原誠。
1998録音。佼成出版社。
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