あのそば屋が昼も営業していたなんて知らなかった。
思い込みで、夜だけの営業と思っていたのだ。
昨年紹介した、“すたみな”そばがある店のことだ。
そば粉がどうだのとか、手打ちであーだのという威圧的な能書きが一切ない、そして値段もバカ高くない、ごくフツーのそば屋だが、このフツーのそばって突然食べたい衝動に駆られるものだ。だから、こういうそば屋って、貴重だ。そばは庶民の食べ物であるはずだもん。
すっごくこだわっていて、味もすばらしいとなればそりゃ魅力だけど、ざるそばで1000円近くもして、量も少ないとなれば、年に数回しか食べられない。庶民の味方じゃない。
だから、こういうそば屋さんにがんばってもらわねば。
この店は会社から歩いて5~6分のところにある。
“すたみな”がどれほど豪華なそばだったかは、はっきり覚えていない。目撃したときは酔っていたし、時も経過してしまった。去るそばは日々に疎し。
でも、あのとき私は確かに「すごい!」とおったまげた。
この店のメニューにある品のありとあらゆる具材がトッピングされていたような記憶がある。
そしてまた、それにふさわしく、価格も最高峰に位置している(でも1100円)。
そばはカロリーが少なくてヘルシーということで、私を含むおっさんがたに人気があるが、この“すたみな”はその名の通りスタミナがつくに違いない。つまりヘルシーではない。
ということで、スメタナ。なんかスタミナと似てるから。
スメタナ(Bedrich Smetana 1824-84 ボヘミア)の6曲からなる連作交響詩「わが祖国(Ma vlast)」(1872-79)。
この曲の演奏で定番というか定評のある盤となると、ノイマンとかアンチェルってことになるのだろう。いわゆるお国ものの演奏。
が、そういう演奏ばかりだと印象が偏ってしまう。いえ、偏っても全然いいんですけど。
ここでは、ドラティ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団というハンガリー&オランダ勢による演奏をご紹介。
第1曲「ヴィシェフラド(高い城)」の冒頭。
ここはハープのソロで始まるが、その音が非常に美しい。私のように美しすぎる。そう、この演奏、しょっぱなのハープで私をとろけさせる。
もう数秒で「参りました!」。
全曲を通して響きが清く透明。
郷土愛はこの曲の命。が、そこを控え目にしたスッキリしたこの演奏は、スメタナの曲ってこんなに美しかったんだぁ、とあらためて認識させてくれる。
1986録音。デッカ。
昨日のドヴォルザークに続き、チェコの作品をチェコっぽくなく演奏しているCDを紹介してしまったが、ここ数日チェコに嫌な印象を持ったとか、千恵子に意地悪されたとかいうのではない。偶然である。千恵子って誰か知らないけど……
で、あのそば屋に昼に行ってみた。ヤマダ課長と。
私はかしわそばを頼んだ。600円。
ふつうに美味しかった。
かしわそばといえば、小学校3年生のとき、私は夕食を1人で食べなければならないことがあった。ママは夕方からお出かけだったのだ。弟を連れて。
出かける前に母親は私に、近くの“更科”というそば屋に行って食べるようお金を置いて行った。かしわそば代120円である。
くどくど書く必要はないだろうが、当時かしわそばは、少なくとも“更科”では120円だったのだ。
“更科”へは何度か親と行ったことがあったし、出前をとることもあった。
だからそこのおばさんのことは知っていたし、おばさんもかわいらしい私のことを知っていた。
その日の夕方、私はのれんをくぐり引き戸を開け、店の中に入った。
客は他に誰もいなかった。
「かしわそばクダサイ」と私はおばさんに行った。
そのあと、ポケットに入っている有り金全部をテーブルに出した。10円玉12枚。……のはずが、11枚しかない。どうしてだろう?どれだけポケットの中で手を動かしても、残りの玉の感触はない。それ以上やると、別の玉をまさぐってしまいそうだったので、あきらめる。
メニューを見る。
110円で食べられるのは月見だ。
「す、すいません。やっぱり月見にしてください」
おばさんは、実は私がかしわ好きなのを知っていた。そして、「どうしたの?」と言いながら、テーブルの上の小銭を見た。そして11枚しかないのを知った。
「いいよいいよ。かしわを作ってあげる」
こんなに優しくされて、もし私が成人男性だったなら「お、おくさんっ!」って抱きついたかもしれない。
おばさんは奥へ引っ込み、やがてかしわそばを持ってきた。
感動のあまり泣いてしまった、というのはウソだけど、いまでも忘れない私の“一杯のかしわそば”物語である。
でも、考えてみれば、110円あるからといって110円の月見に変更した私も愚かだった。だって、生卵は苦手だから。
そういう意味では、おばさんには二重に感謝だ。
May 2013
あるお取引先と会合で同じテーブルになり、お話をしたときのこと(って、会合っていう言い方がおっさんくさいな)。
先方の口から、何度も「おやじ業者」という言葉が出てきて、この人の父親が何かの業者をやっているのかなと勝手に解釈していたが、どう愛想笑いでごまかそうとしても話が理解できないし、やがて相手も私を不審な目で見はじめた。「こいつ真剣に聞いてないな」みたいに……
そっか、私が大いに間違っていた。
「おやじ業者」というのは彼の父親がやっている業者を指しているのではなく、メンバーにはオヤジしかいない、例えばシルバー人材を活用した業者なのだ。と、わかったふりをしながら熱心に話にうなずいていたが、その斬新な発想をもってしてもどうも話がつながらない。
で、相当話が進んだときに、ようやっとわかった。“親事業者”だった。
よかった。知ったかぶりして「そのおやじ業者の社員の平均年齢は、やはり60は超えてるんですか?」なんて聞かないで。
みなさんもオヤジには気をつけた方がいい。
にしても、親事業者と親爺業者、実によく似ている(いや、音としてはまったく同じなんだけど)。
似てるといえば、第2次性徴期の前半期あたりからこれまでずっと聴いていたのに、最近になってようやっと気づいたことが私にはある。
ベートーヴェンの第九、つまり交響曲第9番の第2楽章「スケルツォ」の開始部と、ドヴォルザークの交響曲第9番の第3楽章「スケルツォ」の開始部が似ているということだ。
だぶんどちらの曲もこれまで何百回、はオーバーだとしても、100回以上は聴いてきていると思うが、これまで全然意識したことがなかった&気づかんかった。
なんてこったい。
私の耳はもしかして音楽を聴くのに向いてないのかもしれない。
それが鼻歌でドヴォルザークの方のスケルツォ楽章を歌う機会があって(って勝手に歌ったのだが)、すぐにベートーヴェンのものに取って代わられてしまった。というか、化けてしまった(鼻歌にはありがちなことだ)。
そこで初めて、「おや?似てる」と気づいたのであった。
ごめんね、ぼく、おくてで。
一応スコアを載せておくが、上がベートーヴェンで下がドヴォルザーク。眺め的には私にはよくわからないといえばわからないが……
なお、ベトのは音楽之友社の昔のスコア。ドヴォのは全音スコア。
そのドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 ボヘミア)の交響曲第9番ホ短調Op.95,B.178「新世界より(From the New World)」(1893)。
いまさら私がうんだらかんだら言うまでもなく、超有名曲である。
超有名曲で、個人的には若き日のころずいぶんと聴いたせいもあり、今やひざを正して聴く機会はそんなにない。いや、めったない。ある程度のクラシック音楽鑑賞歴がある人ならば、大なり小なり同じような境遇、いや、状況でないだろうか?
名曲であることは間違いないし、どのフレーズをとっても魅力的だ。
でも、ちょっと田舎臭くて野暮ったいし、なんかもう新鮮味がないんだよなぁ……って感じなのである。決して、通俗曲だと軽視するつもりはないんだけど……
ところが、アーノンクール指揮のものはちょいと違う。
これはかなり知的な感じがする演奏で、スタイリッシュで洗練されたフォルム……っていう、車か何かの宣伝文句が当てはまるようなもの。
こういう「新世界より」もあるんだなぁ。田舎から東京の大学に入学して出て行ったお姉ちゃんが、夏休みに故郷に帰って来て、すっかり綺麗になって、おんやまぁ~びっくり、って感じか。
この曲、「おぉ、故郷よ!」という人間臭い進め方の演奏が多いし、そしてまた、それがまたグッとくるのも事実なのだが-だって、ホームシックにかかってまいちゃったよぅ、っていうお便りなのだ-、アーノンクールの冷静な施術により、この曲、こんなに美しかったんだと驚かされるものになっている。
もちろん、お姉ちゃんのケースとは異なり、本来そういう美しさを備えていたということだ。んっ?綺麗になったお姉ちゃんの場合も本来は美を備えていたということか……
サウンドも透明。「新世界」でこういうのも他にはあまりない。インバルだってもう少しドスコイしている。
例えばエリシュカ/札響の演奏などとは対極のものだが、う~ん、どっちもいいな。
多くの人はエリシュカのような演奏の方がなじめるんだろうけど(エリシュカの演奏は、そっち側の解釈としてはかなりの名演)。素朴で笑顔がかわいいお姉ちゃんも好きだが、都会的で美しいお姉ちゃんも好き!
オーケストラはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(旧アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)。
1999年ライヴ。テルデック。
ところで、音楽之友社のものはミニチュア・スコアといい、全音楽譜出版社のものはポケット・スコアという。
ポケット・スコアといっても、ワイシャツの胸ポケットはもちろんのこと、スーツの内ポケットにも入らないサイズなので注意が必要である。出版社はどのようなポケットを想定しているのだろう?
あるいは、ミニチュア・スコアといっても、トミカのように小さくはないので、これまた注意が必要だ。
購買意欲をそそる、とは到底思えない(私としては)広告メールが届いた。
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このメール、どこの国から送られてきているのか知らないが、中国っぽいな。誤解だったらすまんけど。
チェレプニン(Alexander Nikolayevich Tcherepnin 1899-1977 ロシア→アメリカ)の交響曲第3番嬰へ長調Op.83(1952)。「中国交響曲(Chinese symphony)」と呼ばれることがある作品だ。
チェレプニンは伊福部昭の師として名が知られている(伊福部昭のファンには)が、1934年から'37年に日本や中国を訪問、若手作曲家の指導を行なった。日本では伊福部のほか、早坂文雄などが師事した。
またチェレプニン賞という作曲における賞を創設、伊福部昭の「日本狂詩曲」がこれを受賞した。チェレプニン自身、民謡に目を向け民族主義的作品を書いたのだが、日本の民族主義的音楽の発展にも大きな影響を与えた。
チェレプニンの父・ニコライはリムスキー=コルサコフに師事した作曲家であり、またディアギレフ率いるロシア・バレエ団の指揮者を務めた人物。作曲面ではいくつかのバレエ音楽を残している。
ロシア革命後、チェレプニン(息子の方)はチェレプニン(父親の方)に連れられグルジア経由でパリに亡命、第2次大戦後はアメリカへ渡り市民権を得た。
彼の作風は象さんワォ~ン、いや失礼、増3和音を組み合わせた9音音階や東洋音階などを用いた現代的なものである(と言われる)。
さて、この交響曲第3番。4つの楽章から成るが、交響曲というよりはバレエ音楽のような感じがする作品だ。
バルトークっぽく開始。でも、ほう、確かにそこには中国を思わせるメロディーが。
第2楽章は、なんか嫌なことあったの?ってくらい力がこもっている。
第3楽章は中国の水墨画が目に浮かぶような感じ。
終楽章もやはり中国的というか東洋的だが、終わりは尻切れトンボのよう。
結局、なんだか散漫なまま、うやむやに終わってしまった感はぬぐえない。
風変わりなところに喜びを見いだせないこともないではないが……
ラン・シュイ指揮シンガポール交響楽団による演奏で。
現在は、私が持っている分売の形ではなく、4枚セットの交響曲&ピアノ協奏曲全集として出ている。
ということで、いつまでも睨み合っている日本と中国の関係に、一市民ながら憂慮している昨今である。
ところで、アボガドのタネの水栽培を始めたことを前に書いた。
タネはパックリ割れ芽らしきものが形作られている。そして、ようやっと根が出て来た。
衝撃的な音が響き渡ったのは日曜日の午後10時ころだった。
音楽を聴きながら、しかし日中の疲れで少しウトウトしかかっていた私は、そのガッシャーンっというガラスが割れる音でハッと覚醒した。
音は近くから聞こえたのは間違いなかった。
いったいどこでガラスが割れたのだろう?
音の源はすぐにわかった。意外なほど近かった。
それはこの部屋で起こったことだった。
それも私の足元で。
そのとき私はハイボールの飲みながら音楽を聴いていた。が、手にしていたそのグラスをウトウトして床に落としてしまったのだった。
アホだね。
まるでマンガの世界だね。
ニッカの髭おじさんが描かれたおまけでもらったグラスは単に落下しただけとは思えないくらいに割れ、床には残ったハイボールと氷、そしてグラスの破片が散乱した。
こうなるとウトウトを吹っ切らざるを得ず、キリッとした態度で私は後始末をした。
そのときかかっていたCDはジンマンが指揮するマーラーの「悲劇的」の終楽章だった。
まったくウソみたいに出来すぎ。
曲のなかでは悲劇はハンマーが打ち鳴らされるが、アタシの場合はグラスが割れる音。
自分で起こした悲劇。まったくおバカもいいところだ。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)」(1903-05/改訂1906)。
ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による演奏。
2007録音。
中間の2つの演奏順序は、アンダンテ→スケルツォ。
第4楽章のハンマーは2回。
ジンマンのマーラーでは、最近の記事で取り上げた第4番、第5番については私にとってあまり魅力的なものではなかった。が、この6番はいい。アプローチとしてはどれも同じなのだが、なぜか4番5番はペケなのに、6番ははまってる。私の好みとしては、だが。
だから聴きながらウトウトしてしまったのは演奏が退屈だったわけではなく、疲れてたのといいだけ酔っぱらっていたため。ジンマンに罪はない。
この6番においてもジンマンの演奏はスッキリしている。
深刻度は強くなく、重たさもない。かといってサクサク、袋開けたてのマリービスケットって感じでもない。オケは存分に鳴っているし、メリハリもある。
しかし、情感がうまい具合に-過剰にも淡泊にもならず-コントロールされ、悲しげなことは伝わるが、聴き手を溺れさせない。そのため、この曲の美しさをたっぷり堪能できる。
一方で、ねっちこさやドロドロ感がないため、「もっと刺激が欲しーの」と感じる人もいるだろう(私もどちらかというと、そのタイプ)。うん、どこか表情がよそよそしいのかな?
とはいえ、ジンマンの手腕は見事。
巨大で複雑なこの曲を、一流だが健康志向のシェフがつくる料理のように上品に仕上げている(←主張がよくわからないので、読み流してよろしい)
人の不幸に共感しやすくて困っちゃう人は、この「悲劇的」が向いているだろう。聴いたあと、やるせない重い気分にならないで済む。むしろ、純粋に音楽に感動できる。
まとめると、クセのない名演だということ。
で、なぜグラスを割るくらい疲れていたのかって?
すでにご報告したように、土曜日は4時間ほどではあったが、庭仕事に集中しすぎた。
むかし崩壊したアーチの残骸を柱にしてクレマチス用のラティスパネルを立てた。
その柱を中型の木製ハンマーで地面に打つ(おぉ、無意識ですでに近いうちにマーラーの第6交響曲を聴く準備をしていたかのようだ)。
そのあとは雑草取り。中腰の連続。
そんなこんなで、その夜は震えに襲われたわけだ。
翌日曜日の朝はすでにあちこちが痛む。
が、帰らねばならない。
まずは週末に自宅に帰って来ていた長男を送って行ったが、その途中で高速道路が故障車のため通行止め、とラジオで言っていた。
どうせ今すぐに向かってもどうせ通行止めだ。ということで、その街で醤油ラーメンを食べる。
美味しいラーメンだった。ついでに、なんでこんなところでと言えなくもないが、この街のサツドラで炭酸水を1ケース買う(500ml×24本)。1本当たり58円。前は(別のブランドだったが)55円だったのに……
さて、いよいよ帰ることにしようとしたところで、通行止め解除の情報が入った。
ラーメンを食べることによって、効率よく時間を使えたわけだ。
1時間ほどで夕張インターに着き、そこから高速に入る。
しばらく走ると今度は“占冠⇔十勝清水 事故のため2km渋滞”という表示が。しかし、これも占冠に着くころには解消されているだろうと高をくくる。
むかわ穂別インターを通過するときに、渋滞情報は3kmになっていた。
そっか、事故処理が終わったあとの渋滞ではなく、事故が起こりたての渋滞だったのかとここで気づく。ということは、もっと渋滞は長くなる可能性がある。
ならば占冠SAでトイレに寄っておこうと決心する。
……が、占冠SAにたどり着く直前の占冠ICで“事故のため通行止め”“ここで下りよ”と下りるよう命じられる。
日勝峠越えということだ。
占冠から国道274号まで行くなんて、ひどく無駄なことをしてしまった感じがする。それなら夕張で高速に乗らないでそのまま国道(その国道こそ274号線だ)を走ればよかったのだ。
日高町まで南に下がり、274号線に入る。
日勝峠を越え、十勝清水から再び高速に乗り、芽室帯広ICで下りる。
途中十勝平原SAでトイレ休憩。長く座っていたせいか、車を降りると内腿の痛みが増していて、まるで内腿に激痛が走る人のような歩き方になってしまった。
歳をとると、痛みがピークになるにも時間がかかるのだ。
そんなわけで、ガーデニングと予期しなかった回り道によって疲れがたまったわけだ。
おまけに月曜の朝起きると、今度は右手の痛みがピークになっていた。
やれやれである。
日勝峠付近では山々にまだ雪が残っており、道のすぐそばでは鹿が何かを食べていた。ネズミにやられた私のかわいいバラのことを思い出してしまった。
ちょっと前の話だが、芸能情報にはとんと疎い私は、ネットで“カエラ妊娠”というタイトルを観て、なんのこっちゃ?どこぞの有名なカエルが妊娠したんかい?と不思議に思ったのだが、不思議なのは、もっとはっきり言えば変なのは、この私であった。
自分のなかで解決できて幸いなり、であった。
不思議といえば、米澤穂信の「ボトルネック」(新潮文庫)は不思議な話だ。
亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した……はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。
SF小説チックにストーリーが進み始める。
面白いかといえばそうでもないし、じゃあつまらないとも言い切れない。
青春ミステリと書かれているが、ミステリーの様相は強くない。
ボトルネック……タイトルが示しているのは、主人公の少年がネックになっているということで、それはちょいとかわいそう。
私としては、なぜ別世界に行ってしまったのか、そしてまた帰ってこれたのかどうももやもやしたままだし、2つの世界の対比が意味があるようなないような……。なんか納得いかないんだけど、作り話に目くじらたてるここともないのかな。
内容深き小説かっていうと、ハテナだった。
この小説に漂う厭世観は、しかし、「大地の歌」の世界を思わせる。
小説の主人公の少年は、絶望的に暗いけど。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。
今日はライナー/シカゴ響の演奏。
ライナーといっても、よく知られている1959録音のもの-この録音は私にとっても非常に大きな影響を与えられた演奏-ではなく、あまり知られていない1958年2月のライヴ。
1959年録音でのメゾ・ソプラノ独唱はフォレスターだが、58年ライヴではルートヴィッヒがアルト独唱を務めている。テノールは両方ともルイス。
モノラル録音で、まぁこんなものだろうという音質だが、演奏自体はなかなかよい。
こういう場を経て59年の録音がなされたわけで、アプローチは同じだ。
ということは、59年盤があればわざわざモノラル録音の58年盤を買うこともないってことになるんだけど……(モノラル録音の貧乏ったらしい音を聴いてると、厭世観が強まる感じはするが)。
あらためて書くと、ルートヴィッヒのアルト、ルイスのテノール、ライナー指揮シカゴ交響楽団。
ARCHIPEL。
上に書いたようにライナーの「大地の歌」(59年録音)は、忘れることのできない1枚。
近くあらためて取り上げる。
話は全然替わるが、私は肉体的に疲れたとき、というか、筋肉痛のようなものが起こっている状態のとき、何かの拍子で異様な震えに襲われることがある。
土曜日の日中、庭仕事をした。主に雑草取りである。
夕方には股関節、ふくらはぎ、背中から腰が痛くなった。中腰でいる時間が長かったからだ。同時に、草取りでカニ用フォークを大きくしたような道具をずっと使っていたため、右の手のひらも、手首も、腕も痛くなった。
そんなとき、ちょっと用があって外に出た。
そんなに寒かったわけではなかったが、風がふゅーと吹いた瞬間、猛烈な震え-悪寒-に襲われた。全身ガタガタ。歯もガチガチ。人が見たら志村けん演じるばあさんの真似をしてふざけていると思うかもしれないくらいだ。
厚着をして-服を重ね着するのも難儀するくらいの震えなのだ-30分ほどで治まったが、これって何なんだろう?
筋肉中に乳酸過多?
で、これが日曜日時点でのシダレザクラの状態である。
クモは嫌いである。
雲じゃなく蜘蛛のことだ。
漢字だと虫へんだが、昆虫ではない。昆虫でさえ苦手なのに、昆虫もどきなのだ。苦手どころの騒ぎではない。
貴志祐介の「狐火の家」を取り上げたときにそのことを書いた。
だからバラいじりをはじめとする、ガーデニング作業では、私はかなりの緊張を強いられる。
ただ、その記事のときは黙っていたが、「狐火の家」の文庫本に収められている「黒い牙」は、読んでいて背中が氷河期になるほど私にはぞっとする描写と内容だった。
と書くと、まだお読みになっていない人は、「もしかして『黒い牙』ってクモが絡む内容なの?」と気づかれてしまうかもしれない。そうなんです。くもの、クモの、蜘蛛の話なんです。だから私は苦も感じたわけ。うん、つまんないな。
ごめんね、書いちゃって。弁護士の青砥純子は依頼人のペットの話を聞きながら、猫のことだと思っていたのだが、ペットちゃんは蜘蛛だったのである。
クラシック音楽作品にもクモが主役の曲がある。
ルーセル(Albert Roussel 1869-1937 フランス)のバレエ「蜘蛛の饗宴(Le festin de l'araignee)」Op.17(1912)。
ルーセルは25歳まで海軍の軍人だったが、その後作曲を学んだ。当初の作風は印象主義の影響を受けていたが、ストラヴィンスキーのバーバリズム(原始主義)を経たあと、新古典主義に達した作曲家。
「蜘蛛の饗宴」はルーセルの作曲家としての名声を確立した作品。台本はヴォアザンで、ファーブルの「昆虫記」を基にしている。
バレエのあらすじは、庭の片隅で大きな蜘蛛が網を張って獲物を待ち構えている。そこへ蝶がやって来て捕えられる。蜘蛛は喜びのダンスを踊る。そんなとき木の上からリンゴが落ちてくる。2匹のイモムシとカマキリがこのリンゴの争奪戦を繰り広げるが、蜘蛛は今度は争奪戦に夢中になっているこいつらを一気に捕え、饗宴の準備を始める。ところがその準備で目を離したすきに、カマキリは甲虫に助けられ、蜘蛛を逆襲し殺してしまう。庭には平和が訪れ、その出来事の間に一生を終えたカゲロウの葬式が行なわれる、というもの。
いやだね。
蜘蛛の饗宴というよりは蜘蛛の虐殺って感じだが、いずれにせよ、虫および虫もどき嫌いの私としてはぞっとする。
が、音楽は印象主義の響きで、美しくかつ濃厚なもの。
でも、かつてLP時代に出ていたマルティノン盤は、ジャケットに蜘蛛の写真が載っていて、そりゃあ気色が悪かったものだ。なんでそんなデザインにするんだよっ!
このバレエ、主役(?)の蜘蛛に選ばれたダンサーは心中複雑だろうな。
ルーセルは12曲から成るこのバレエ音楽を、7曲から成る演奏会用組曲に編曲した(ルーセルは“交響的断章”と呼んだ)が、今回は勇気を奮って全曲盤を。
ドヌーヴ指揮ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏で。
2010録音。ナクソス。
ところで、たぶん多くの皆さんは、間違って触れてしまったら不快きわまりなく、そしてクモが体にへばりついてないかとパニックに襲われる、あの網を“クモの巣”と称しているだろう。私もそうだ。
が、「いや、あれは蜘蛛の網だ。クモの“巣”ではない」という奴がいた。
高校のときの生物部にいた男だ。
どーでもいいじゃん。あいつ、めんどくさい奴だったな。
北海道には野生のカマキリはいない。
いや、いるという人もいるが、少なくとも私は見たことがない。
大阪支社勤務のときは、出張で何度か広島に行った。
支社の担当エリアには広島県も含まれていた。
真夏のくそ暑い日、広島市郊外の自然豊かな場所にある取引先に向かって歩いていたら、歩道横の草むらからいきなりカマキリが飛び出してきた。
初めてではないが、ナマのカマキリを見ることなんてほとんど経験がなかった。
が、暑すぎて私には驚く気力もなかった。
あのときの生カマキリが、生の五月みどりだったとしたら……まったくときめきなんかなかったろうな。年上という概念を超越するくらい年上だもん。
あぁ、かまきり夫人……
金曜日の夜に自宅に戻り、土曜日の朝は冷たい風が吹いていて、お空もご機嫌斜め。
「あぁ、またがぁでにんぐができない」と思ったが、10時ころから暖かくなり、11時から庭に出動。
ノネズミにかじられたと思わるバラたちもなんとか芽吹き(写真はコンパッションというバラだが、けなげに新芽が1つだけ株元から出てきた)、残念ながらお亡くなりになった株は2つにとどまった。シダレザクラもつぼみをもっている(まだ咲いていない。もう6月になろうとしてるのに)。
それでもご覧のように、ようやっと春らしい色合いになってきた。
今日の昼すぎに、再び赴任地に向け3時間のドライブだ。
取引先某社の梶谷主任。年齢は30歳を過ぎている。そして、独身である。
独身であることに別に何ら問題はないし、私としてもケチをつける気も、権利もない。おせっかいをする気もまったくない。
自分の人生だ。自分で好きなようにすればいい。実際、独身を謳歌しているようだし。
梶谷主任は、なかなかノリがいい。
なかなか善き人なのだ。
そこで、なんとなく「調子の良い鍛冶屋」。
ヘンデル(Georg Friedrich Handel 1685-1759 ドイツ→イギリス)の「ハープシコード組曲第1巻」(全8曲。1720出版)の第5番ホ長調HWV.430(全4楽章)の終曲「エアと変奏」につけられたニックネームで、そのメロディーをどこかで耳にしている方も多いだろう。
「調子の良い鍛冶屋」という言葉からは、2つの鍛冶屋像が浮かんでくる。
1つは、「なんでも切れる刀を作りまっせ!」みたいに嘘くさい、つまりはお調子者の鍛冶屋というものである。
もう1つは、「今日は仕事がはかどるなぁ」とばかりに気力体力充実っていう調子の良さを表わすもので、朝から快食快便、筋肉痛ゼロ、お肌の調子もバッチリ、リンゴをかじっても歯ぐきから血が出ないといった具合に、心身の調子が良い状態の鍛冶屋である。。
って、私はたいしたことないことを、なぜこんなにムキになって説明しているのだろう?
再び梶谷主任のことだが、飲み屋街の一角にある居酒屋のカウンターで、日々独り、焼き魚定食を食べてから帰ることが多いそうだ。そんな生活はいつまで続くのだろう?
「あそこの店、ニシンが美味いんすよ!」なんて言ってるうちに、♂としてニンシンさせる能力が衰えてしまうのではないのだろうか?余計なお世話だけど、余計な心配をちょっとだけしてしまう。
ところで「エアと変奏」の楽章がなぜ「調子の良い鍛冶屋(The Harmonious Blacksmith)」と呼ばれるようになったのか?
これには諸説あり、ウィキペディアに詳しく書かれているが、いずれの説も決定的とはなっていない。
ボルグスターデのチェンバロによる演奏を。
先日紹介した、ヘンデルの「ハープシコード組曲」全集。
2008録音。ブリリアント・クラシックス。
なお、鍛冶屋の名がついたクラシック音楽の作品としては、有名なミヒャエリスの「森の鍛冶屋」がある。またホルストは「鍛冶屋」という吹奏楽曲(Op.52)を、シューマンは「鍛冶屋」という歌曲を残している(「ロマンスとバラード」第3集Op.145の第1曲)。
私が小学校入学前の年から5年生の半ばまで過ごした町-浦河町-では、通学路の途中に鍛冶屋はなかったものの豆腐屋があった(全然関連性がなくて申し訳ない)。
家ではピョン子という名のウサギを飼っていたので、よくそこにオカラを買いに行った。
それにしても、ピョン子は果たしてメスだったのだろうか?
マゼールが若いころに録音したチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第1~3番の演奏は、いずれも(私には)ややワイルドに作った鍋物のように多少のアクがあって、興奮ものの名演だ。でも、鍋物の場合はきちんとアクを取りたいものだ。
アクって感じで書くと灰汁になる。
小学校のときに愛読していた学研の図鑑には、「灰汁はアルカリ性です。リトマス紙で調べてみよう」なんて書いてあったが、灰汁なんてかえって準備するのがたいへんなんじゃないかと思った。
当時はまだたき火とか平気でできたからまだ準備可能だっただろう。でも、今じゃ灰を探すのがたいへんだ。
で、鍋物の表面に浮かぶアクが灰の汁っていうのも、ちょっとヤだ。
今じゃ、でこの際言わせてもらうが、「今でしょ?」っている言葉が流行ってる理由が私にはちっともわからん。
で、このたび同じく彼が30代のころに録音したウィーン・フィルとの後期交響曲のCDを購入してみた。前期の演奏を気に入っていたのに、後期を買うことをこれまでまったく思いつかなかった私は、自分で相当間抜けだと思う。
期待をもって交響曲第4番ヘ短調Op.36(1877-78)。
チャイコフスキーの4番といえば、それを初めて生で聴いたのは、フベール・スダン-現在はユベール・スダーンと呼ばれているが、当時はこう表記されていた-札響を指揮したものだった。楽壇にデビューした新人のスダンが、(たぶん)今後日本でも稼げるようにと、わざわざ札幌まで来たのだった(無料コンサートである“ほくでんファミリーコンサート”でも指揮をした)。
このときは、クラスメートの河野君と一緒にコンサートに行ったのだが、河野君はコンサートに先立ちどうしても花園だんごだか新倉屋のだんごだかを食べたいと駄々をこねたので、しかたなくオーロラタウンにあるだんご屋に寄って、それぞれ1本ずつ買い、その場で食べた。
私は醤油味で、河野君はゴマ味だった。
で、河野君はすっかり満足して「おいしいね!」とニッコリ笑ったのだが、歯がゴマで真っ黒で、歴史上かつて存在したと言われるお歯黒おばさんみたいで、私はすっかり食欲が失せてしまった記憶がある。
でも、そのときの第4番はすごかった。黒い歯以上に。
とにかく迫力に圧倒された。熱い演奏に大興奮。
しかし、あの歳でゴマだんごなんて、渋いよな。
マゼールのCDを聴いて、その夜のことが思い出された。
鳴り切っているオーケストラ。
若々しく圧倒的で、迷いなきような演奏。
ロシアっぽさに乏しいんじゃないか、とか、ストレート過ぎるんじゃないかと思う向きもあるだろうが、なかなか感動的な演奏。
運命の重いファンファーレが鳴り渡り激情のうちに閉じられる第1楽章、物寂しげな第2楽章。かと思うと、後半に入り第3楽章は元気に跳ね回るようなピッツィカートだし、終楽章は歓喜の叫び。この作品はそういう、お心のあちこちにひびが入り崩れそうな交響曲なわけで、マゼールのように変態っぽくやるのがふさわしい(ような気がする)。
あっ、マゼールは変態じゃなくてスケベ野郎だったっけか……。
どっちにしろ、ムッツリしてなくて聴いていてスカッとする。
録音も優秀で、低音ズンズン。左右の音場の広がりも、分離も良い。
演奏、録音の両面で優れモノ。
て、書いているこの私が分裂気味……
そうそう、河野君は中学2年生のとき、同じクラスの女子と恋に落ちた。
休み時間のたびに、机をはさんで2人は見つめあっていた。
見てて、こっちが恥ずかしくなるような光景だった。
そしてまた、全然羨ましくなかった。
だって、その女の子と言ったら、……、いや酢豚とか関係ないんだけど。
いずれにせよ、あの恋も長くは続かなかった。
驚いたことに河野君の方がふられたらしい。
まさかデートしててゴマだんご食べたんじゃないだろうな。
先週だったか先々週だったか、すでにはっきりした記憶がないが、いずれにしろ、今月のどこかの金曜日の朝。
私はミシっという音で目が覚めた。
ぼんやりした頭の中で「地震がきちゃうかも」と芹菜みたいな声の囁きが聞こえた。
その直後、一度だけだがぐらっときた。
それをきっかけに起床。
この日は5:00まで寝ていようかと思ったのに、4:20だった。
すぐにTVをつける。
どこか-震源地近く-は大地震だったかもしれないからだ。
数分後に地震速報テロップが流れる。
いちばん揺れたところで震度3。わがエリアは震度1だった。
ブログをアップしたり、いまこんなことをしなくてもいいのにと思いつつも小物入れの中の整理をしたあと、1Fに新聞を取りに行く。
新聞を開いていくと、ふだんはパスするのだが、読者の投稿欄に目が釘付けになった。
あっ、わが家で購読しているのはご存じの通り北海道新聞で、読者投稿欄は“読者の声”という。
私の目がとまったのは、本編ではなく、横の方にあった“テーマコーナー”の投稿だ。テーマは傘。タイトルは「イケメンさんとしばし恋人気分」。
う~ん、なんて微笑ましい話なんだろう。下品にも私は忌々しく舌打ちしてしまったほどだ。
とにかく、私は望んでもいないのにこの女性のうきうきした気分に飲み込まれ、それにふさわしいメロディーが頭蓋骨の中でウキウキと浮遊した。
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)のピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482(1785)である。
この協奏曲は、モーツァルトのピアノ・コンチェルトの中でも人気の高い第21番と、古典派時代のピアノ・コンチェルトの最高傑作の1つといわれる第23番の間に挟まれてしまっていて、ちょっと目立たない。
しかも、“ここには格別新しい試みや大胆な冒険があるわけではなく、むしろ、この時までに鍛え上げ、わがものとしていた技法を余裕をもって使いこなし、無難にまとめあげた感もなくはない”と書かれてもいる(※)。
じゃあ「つまんないの」ってものなのかというと、もちろん、聴いていてつまんないわけでは決してない。だって、鍛え上げた成果の披露なんだから。
堂々とした祝祭的気分に満ちた出だしや、各楽器の掛け合いは実に心地良い。
この投稿した女性の気分はまさに、この作品の両端楽章(あんまり関係ないけど、形式は第1楽章がソナタ形式、第3楽章はロンド形式)のようだったに違いない(第3楽章は映画「アマデウス」でも使われている)。
一方で、邪魔くさくにひょいと-しかも気味の悪いことに、いたずらっぽく-前に立ちはだかれたり、勝手に傘の下に侵入されたり、どっから来たかいきなり尋問されたりした男性にとっては、憂鬱な思いに浸るような変奏曲形式の第2楽章の気分になっただろう。
なお、冒頭の開始は交響曲第19番変ホ長調K.132(1772)の冒頭(そして、疑作とされている協奏交響曲K.297bの冒頭)と似ているが、この音型はモーツァルトが好んだパターンの1つ。
交響曲第19番は、ハイドン兄弟やJ.C.バッハの影響が強いと言われる作品で、4つの楽章から成るが、第2楽章には異稿も存在している。
私はこの曲の第4楽章に、「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」っぽいものを感じる。
コンチェルトのCDは、さんざん私がお薦めしている、ソフロニツキのフォルテピアノ、カロラク指揮ムジケ・アンティケ・コレギウム・ヴァルソヴィエンセの演奏で。
ちょっとおもちゃのピアノの響きっぽいフォルテピアノの音が、実に生き生きとした響きを放つ。モーツァルトのクラヴィア作品はフォルテピアノに限る、と言う気はない。しかし、グランドピアノではなんだか優雅すぎて退屈になることがあるのに、“その楽器用”に書かれたものを“その楽器”で弾くと、特別な生命力のようなものを感じる。
オーケストラも鋭く音をぶつけてきたり、あるいはふくよかに聴く者を包む。
それらの対比、そして融合がまたすばらしい。
2005-06録音。PRO MUSICA CAMERATA。
ところで、もしこの79歳の女性が私の前にヒョイといたずらっぽく一歩前に出て来たとしたら、私は「いったいなんですか?すみやかにどけてください」と言ってしまうかもしれない。いや、無言で場所をずらすだろう。
要するに、一見ほのぼのしている話のようだし、若々しくて茶目っ気たっぷりで元気な女性のように読めるが、ところがどっこい、けっこう危ない人だということ。
ストーカー予備軍だ。
ということで、本音を言うと、私はこれを読んだ後、無性に腹がたった。
この言い回しも、私をイラだたせるに十分だ。
達者でな!
※ 「作曲家別名曲解説ライブラリー13 モーツァルトⅠ」:音楽之友社
第1夜 取引先との会食。
居酒屋で、最初に刺身、次にあんかけ焼きそばが出てくるという信じられない順序のコース(そのあとは鶏の唐揚げとか……)。
先方のお偉いさんに燗酒を勧められ、顔で感謝し内心やれやれでそれを飲む。あんかけ焼きそばをつまみに燗酒なんて初めての経験だったが、それで胃を少しは満たしたために空酒にならないで済んだ。
そしてまた、この店でいちばんまともな料理があんかけ焼きそばだった。中華料理店じゃないのに……
第2夜 社内某課との会食。
居酒屋。“本日の〆”というのがメニューにあったので、最初に今日のは何かと聞くとミニサイズのうどんだと言う。そこで、最後に頼むからねと、意思表示をした。ところが、あとで人数分頼んだら、「すいません。あと1つしかないんです」だって。
「一杯のかけそばみたいだ!」って皮肉っぽく言ったら、その店員「なっつかしいですねぇ~!」って笑ってた。笑ってる問題じゃないだろっ!
第3夜 取引先との会食。
やや高級な和食の店。有名ガイドブックでも紹介されたところで、確かに味は良い。が、料理や酒が上座下座関係なく出される。その店員(たぶんアルバイト)への教育がなっていないのだろうが、いくら味が良くても、これは接待に使えない。
さらにこの店、座敷が掘りごたつじゃないので、けっこうつらい。
第4夜 本社から出張してきた人と軽く食事。
市内のレストラン。ソーセージやハムを頼む。メニューには“ソーセジ”と書いてあり、その通り頑張って読むと、店員にふざけてると思われた節がある。書いてあるのが間違っていることに気づいてないようだ。
これが先週の月曜日から木曜日までの、私の夜の食事内容である。
異例とも言える連日の会食は疲れたが、いずれも仕事の延長上のこと。これは言い訳でも合理化でもない。簡単には信じてくれないだろうけど。
ところで、今年2013年はブリテンの生誕100年に当たるわけだが、ワーグナーの生誕200年でもある。
先日の北海道新聞には“ワーグナー生誕200年”“反ユダヤ主義でも愛せるか?”“記念行事控えドイツで議論再燃”という見出しの記事が載っていた。
まぁ、私はワーグナーを愛してるわけじゃないのでどうでもいいっちゃいいんだけど、確かに手放しで祝賀ムードってのは難しいのかもしれない。
ワーグナー(Richard Wagner 1813-83 ドイツ)の歌劇や楽劇を、残念なことに私は1曲も全曲通しで聴いたことがない。
だからこそ、ワグネリアンがトロンとしちゃうワーグナーの魅力ってものをいまだに知らないのかもしれないが、でも、チャレンジする気力ももはやない。村上春樹の小説にあるが、もし私がパン屋だったらワグネリアンになっていたかもしれないけど、なってないだろうな、やっぱり。
というのは、彼の生き方ていうか、性格、振る舞い、態度が好きになれない。「大作曲家の生涯」なんかを読んで、人間として嫌いになってしまった。まぁ、少なからずの作曲家は、だいたいそういうものではあるんだけど……
だが、彼の音楽のエキスだけは知っておきたい。
そんな私にうってつけの曲がある。そしてこの曲は、私のワーグナー・レパートリーの重要な曲の1つである。
楽劇「神々のたそがれ」をマタチッチが組曲にしたものだ。
「神々のたそがれ」は4部作の楽劇「ニーベルングの指輪(Der Ring des Nibelungen)
」の最終日に上演される作品(指輪は“指環”と表記することもある)。
「ニーベルングの指輪」を構成する4つの楽劇とは、
序 夜 「ラインの黄金(Das Rheingold)」
第1夜 「ワルキューレ(Die Walkure)」
第2夜 「ジークフリート(Siegfried)」
第3夜 「神々のたそがれ(Gotterdammerung)」。
このように4つの作品を4日かけて上演するわけだ。4連続の会食に疲れたなんて言ってるのとはワケが違う。
各作品の上演時間は順に、おおよそ2時間半、4時間、4時間、4時間半。痔になっちゃうね……
私がマタチッチ編による組曲「神々のたそがれ」を知ったのは、1976年のこと。
マタチッチ(Lovro von Matacic 1899-1985)は1967年にN響の名誉指揮者となり、それ以降もたびたび来日していたが、いつのときのライヴか知らないが、N響を振ったこの曲の演奏がFMで流され、それをエアチャックしたのだった。
ショスタコーヴィチの交響曲第15番の終楽章は「ニーベルングの指輪」の「運命の動機」の引用で始まるが、それを私が確認したのも、ワーグナーの原曲ではなくこの組曲による。
カセットテープを処分してからもう20年ほど経つが、その間、私はこの組曲「神々のたそがれ」を聴く機会がなかった。
CDが出ているのは知っていたが、収録時間がとってもお得ではないので、買わずにいた。
しかし今年は生誕200年。
クラシック音楽ふぁんとしては、無視するわけにはいかない。多少でも祝ってあげなくては。ゆえに、ついに買った。
組曲「神々のたそがれ」の他、序曲と前奏曲が3曲。トータル収録時間は55分。
ねっ?お得感、低いでしょ?でも、前に出てたときは、もっと収録曲が少なかった記憶がある(オケもN響だったような)。
で、聴いてみたが、とにかく懐かしかった。
マタチッチ指揮チェコ・フィルによるこの演奏の録音は1968年。
また他の3曲はコンヴィチュニーの指揮で、1960録音。
スプラフォン。
で、私には第5夜、つまり金曜日の夜は何もなかったのかって?
あった。
濃厚にあった。
釧路に行ったから、その地で……
しかも18:30から24:00まで。
「神々のたそがれ」の上演時間ぐらい(休憩時間を含めるとそれに近いものになるだろう)に及んでしまった。
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