金曜日の夜、仕事が終わったあとに妻と2人で車で自宅に戻った。
主(ここでは“しゅ”とか“ぬし”ではなく“あるじ”と読むことを推奨)がいない家の中で、アリがわがもの顔で隊列行進の練習ならびに本番をしていたらどうしたものだろうかとか、あの虚弱なくせにすばしっこくてグロテスクなゲジが壁面でくつろいでいたらどうしようかと不安で不安でしょうがなかったが、昨冬の雪の重みでかなり傾いてしまったカーポートに車を入れて降りた瞬間に、アリとかゲジ以前のこととして、クモの網に引っ掛かり、「ひぇぇぇぇ~っ!」となってしまった。
人質犯が立てこもっている中へ突入する機動部隊のごとく、の心構えで、家の中に入ったが、アリンコ1匹いなかった。
これは良きことである。
って、すまして書いているけど、ほんとほっとした。
翌日は起床してまずはブログをアップし、セイコーマートに朝刊と100円総菜を買いに行き-さんまの塩焼きときんぴらごぼうを買った-、家に戻って朝食をとり、そのあとお外へ。
例年だと、バラが咲き始めるのはこの時期なものの、たいていはオールド・ブラッシュ・チャイナが先行開花で、ほかの品種は7月に入ってからのような気がする。
ところが今年は、雪が多くて溶けるのが遅く、また4月は低温だったのに、もう何種類ものバラが咲いている。
宿根草も、雑草も、そしてバラもけっこう伸びて、庭の状態は1~2枚目の写真のような状 態。
これをなんとかするのが私のお仕事。
3枚目の写真は“オールド・ブラッシュ・チャイナ”、4枚目は“メニー・ハッピー・リターンズ”、5枚目は“ウィンチェスター・キャセドラル”である。
繁茂したオダマキやサルビアなどを少し整理し、バラの枝も少し整理し、伸びた枝を誘引。
そうこうしているうちに、あっという間に9時になってしまった。
作業を中断し、シャワーを浴び、お出かけ。
10時に床屋を予約していたのだ。
いまの若いモンは“床屋”とは言わないのかもしれない。そもそもあらためて眺めるに、床屋って変な文字だ。ベッド販売店を和訳したかのようじゃないか。あっ、ふとんでも構わないですけど。
が、じゃあほかになんていうのだろう?「理容室に行って来る」とでも言うのだろうか?
ウチの子どもがどうだったか考えてみると、理容室の店名を言っていたような気がする。「明日“髪切虫”に行くから、金ちょうーだい」みたいに。
そういえば大阪にいたときは、私が床屋に行くと、課の女性が「散髪行きはったんですか?」と聞いてきたりした。散髪っていうのも不思議な言葉だ。髪を散らす……歌舞伎役者が頭をぐるぐる回すみたいじゃないか。
それにしても10時に床屋に行くのは、私としては不本意だった。
いつも朝イチ、つまり9時を目指しているからだ。しかし、今回は3日も前に電話したのに、 すでに9時からの予約はとれなかった。誰かが私の邪魔をしている……
10時前に行くと、店内の2つの椅子に2人が座っていた。いや、重なっていたのではなく、それぞれの椅子に1人ずつ座り、1人は洗髪中、1人は最終仕上げ中だった。
9時からはすでに埋まっているという店主の言葉はウソでなかったようだ。ウソをつかれていなかったことに、なんだかほっとする。
予定より5分遅れで私の頭髪は処理され始め、その間の退屈で苦痛な時間を大過なく過ごしたあと、床屋の横のスーパーに寄り、40リットルのゴミ袋を買い、家に帰る。
庭仕事の続きだ。
それにしても、床屋の椅子に座り、マントを巻きつけられた直後に、なぜ首が痒くなるのだ ろう?あれはけっこう辛い。
雑草抜きや伸びすぎた庭木の枝をはらったりして-途中、昼食のために20分ほど休憩した。昼食は冷食のナポリタンにした-、なんだかんだひと段落したのは15時だった。まだまだ雑草は点在していたが、もう限界だ。これ以上やるとまた震えが来たり、明日歩行困難になる恐れがある。
作業後の庭は6枚目の写真のとおり。
なに?作業前と変わらない?
ふんっ!
冬からやっと来た春。そして曖昧なうちにバラの季節になってしまった。
バラの開花を見ると初夏だなぁと実感する。昨日は寒かったけど。
そりゃそうだ。今日から7月だもの。
四季の国、ニッポン!
ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741 イタリア)のヴァイオリン協奏曲集Op.8-1~4「四季(La quattro stagioni(The Four Seasons))」。厳密に言うと、協奏曲集Op.8「和声と創意への試み(Il cimento dell'armonia e dell'invenzione)」(1724頃出版)の第1~4曲。
第1曲 「春」 変ホ長調RV.269
第2曲 「夏」 ト短調RV.315
第3曲 「秋」 ヘ長調RV.293
第4曲 「冬」 ヘ短調RV.297 (RV.はリオム(P.Ryom)による番号)
ムターのヴァイオリン、カラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏で。1984録音。
なぜカラヤンを好んでいない私がって?
だって3枚組のCDの1枚だったからしょがないじゃん。そう、ついこのあいだ、モーツァルトの協奏交響曲で取り上げたものの1枚。
よくわからないが、「四季」って日本では最もよく知られているクラシック音楽の1つじゃ
ないだろうか?
ムターは子どものころから天才ぶりを発揮し数多くのコンクールにおいて賞に輝いたが、13 歳のときにカラヤンからお声をかけられベルリン・フィルと共演、国際的な地位を確立した。なにせ、少女にしてカラヤンに見染められたのだ。
カラヤンは彼女を存在を広く世界に知らしめ、スターにした人物なわけで、その“豪華な”組み合わせによる「四季」となると、なんだか商業主義的臭いがプンプンする。
「四季」をカラヤンの指揮で、それもオケがウィーン・フィルだなんて、新聞配達するのに高級外車を使ってるような感じではないか。
肝心の演奏だが、まずはオーケストラ。
うん、柔らかで包容力のある響きは、まさしくウィーン・フィルの音だ(と思うような気がする)。心地良い響きだ。でも、これがヴィヴァルディなのかというと、どうなのかな?恰幅の良い赤毛の司祭って感じ。
ムターのソロはというと、もともとこの作品が名人芸披露のコンチェルトではないにしても-むしろ合奏協奏曲的-、それにしても音が前に出てこない。際立たない。線が細すぎる。
乱暴な言い方をすれば、「ムター、ムター」と独奏者名を強調する必要なしって感じだ。あっ、それじゃ売れ行きに影響があるか……
まっ、毛色の違う「四季」なので、イ・ムジチ合奏団の演奏なんかでげっぷが出ている人には新鮮かも。スカッとはしないだろうけど。
さて、傾いたカーポートだが、申請した結果火災保険がおりることになった。
「火事でもないのになぜ火災保険?」と思われるかもしれない。私もまったく知らなかった。
しかし、家を建てたときに-そのときは住宅金融公庫でローンを組んだ-強制的に加入しなければならない火災保険は、家本体だけではなく敷地内の建造物にも適用になるんだそうだ。それも火事じゃなくて、今回のような雪による被害でも。
けっこう知らない人が多いんじゃないかな、この適用範囲。
いちばん下の写真2枚は宿根草の“ゲウム・ミセス・ブラッドショー”。
朱色が鮮やかで庭のアクセントになる。
が、直訳すると“奥さまの血祭りショー”ってことか?(←違うと思う)。
今回は家屋内にアリの侵入はなかったものの、念のために外回りにアリの忌避剤をまいた。が、これ、シナモンも入っているという。
あまりまくと、シナモンが苦手な私も家に近づけなくなる恐れがある。
June 2013
近ごろ読書に関する話がパタッとやんでいたが、それは「審判」に続いて、同じくカフカの「城」を読んでいたからだ。
「城」も学生のときに読んでちんぷんかんぷんだったが、今回当時440円だった文庫本-これがまた文字が小さい-をなんとか読むのに時間がかかった。そして、少なくとも最初に読んだ時よりははるかに物語にのめり込むことができた。
城といってもここに出てくる城は、ヨーロッパの史跡にあるようなものではない。
古い騎士の城でもなければ、新しく建てた豪華な建造物でもなく、広大な施設で、二、三の三階だて建物を中心にして、窮屈にならんだ多くの低い建物から成っていた。これが城だと知らなかったら、田舎町ぐらいにおもえたことであろう。塔がひとつ見えたが、これが住居の一部なのか、それとも、教会の塔であるのかは、よく見わけがつかなかった。鴉(からす)の群れが、塔のまわりをとんでいた。
これが城なんだって。
主人公である測量士のKはこの城に雇われることになって村に到着する。あとから来るはずの助手は来ず、別な2人が助手になる。そしてまた、いつまで経っても城に入ることができない。さらには村人になじむこともできない。
ここには「変身」や「審判」にあるのと共通の孤独感、疎外感が横たわっている。
にしても、カフカが描く不思議な情景-そもそも城の姿が異様である-や妙なストーリー展開は「審判」のときにも感じたように、村上春樹の世界に通じるものがある。村上春樹はかなりカフカを意識しているのではないかと思えてくる。
そしてまた、主人公がすぐに女に手を出すところもそっくりだ。
カフカの小説では村上春樹のようなポルノ小説のような過度なエロい描写はないが、すぐにネンゴロになるところはそっくりだ(ネンゴロって、妙に昔臭い言葉だ)。
これを読むと、ドイツ人ってすぐこんなふうになるのかなと思ってしまうが、多くの国の言葉に翻訳されて世界中で読まれている村上春樹の小説によって、海外の人が日本の男ってすぐ女に手を出し、そしてまた日本の女もすぐに受け入れるなんて思われているとしたら、それは大いなる誤解であり(多分)、個人的には困る必要はないが、日本人としてはそんなことないんですよと、その誤解を解きたい気持ちに駆られる。
イッポリトフ=イヴァノフ(Mikhail Mikhailovich Ippolitov-Ivanov 1859-1935 ロシア)の組曲「カフカスの風景(Esquisses Caucasiennes)」第1番Op.10(1894)。カフカスというのはコーカサスのことである。
いや、カフカだからカフカス……
以前、全曲盤を取り上げたときに曲についての説明もしたので、今日は曲中ダントツに有名な第4曲「酋長の行列(Cortege du Sardar)」だけを、それもバーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックを振った正統的(?)な演奏で。
1965録音。ソニークラシカル。
ところで、カフカの「城」はオペラにもなっている。
ライマン(Aribert Reimann 1936- ドイツ)の歌劇「城(Das Schloss)」である。
初演は1992年。残念ながら、私は聴いたことがないし、録音もないようだ。
さて、「城」のあと、出張の移動中に2冊ほど読んだが-このことはもちろん明日以降に報告する-その次は貴志祐介にするか、それとも別物にするか、ちょっと贅沢な悩み中。
このところプレヴィンがタクトを振ったショスタコーヴィチの交響曲を2つ取り上げたが、私としては、この演奏にもっと早くに出くわしていればよかったと、ちょっと悔しい思いもしている。
すでに紹介した第5番も、そして第8番もすばらしい出来栄えだ。
若々しい印象の強いプレヴィンだが、1929年の巳年生まれだからもう84歳だ。
で、指揮や作曲活動とは関係ないが、プレヴィンは何度も奥さんが変わっている。
奥さんが何回もちょいとおかしな行動をとったというのではなく、結婚と離婚を繰り返しているという意味。
昔売られていた、彼が指揮するLP-確か、曲はブリテンの「青少年のための管弦楽入門」だったように思う-のジャケットに、彼と奥さんと男の子が一緒に写っているものがあった。私はレコード紹介の冊子でみただけで、LPの現物は持ってなかったけど。
家族の団らん写真。曲のイメージに合わせたのか?
あれって何番目の奥さんだったのかな。、ああいうのを世界中の音楽ファンに披露しちゃったなぁっていうのは、離婚したあとどんな気持ちなんだろう?
そんなこと気にするようじゃ、離婚や再婚の1つや2つできないってことなんだろうな。
プレヴィンが2002年再婚した相手は、ヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターである。彼女は1963年生まれだから、単純に引き算すると34歳の差。2002年ってことはプレヴィンは73歳。何考えてんだか-特にムター嬢-、私にはとうてい理解出来ん。
しかも、「仕事で忙しくて会えない」ってことで、2006年に離婚。結婚する前からわかっていそうな理由だけど……
そのムターが独奏を務めた演奏を。いえいえ、プレヴィンは関係ありません。
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の協奏交響曲変ホ長調K.364(320d)(1779)。ヴァイオリンとヴィオラを独奏楽器とする曲だが、オーケストラも伴奏以上の活躍をみせる。
ムターとジュランナ(va)が独奏を務めたマリナー/アカデミー室内管弦楽団の演奏は、ひと言で言えば無難な(逆に言うなら、ソツのない安定した)演奏。この曲にふさわしい穏やかで優しい表現だが、しかしながらジャケットの写真のムターから受ける印象からとは言わないが、がっちりと骨太でもある。
いや、ピリオド演奏に慣れてきてしまっているので、どうしてもやや鈍重に感じちゃうのかもしれない。
良い演奏だ。しかし、気持ちがたかぶったり、メソメソしたり、そんなふうにはならない。
3枚組ながら1000円以下という超廉価盤。
他の収録曲はJ.S.バッハのコンチェルトやヴィヴァルディの「四季」などだが、いくつかの演奏は機会があればまた取り上げたいと思っている。
1991録音。EMI。
昨日の昼は、5分ほど歩いたところにあるそば屋“長寿庵”に行った。なんとなく長寿になりたい気分になったのだ。
角を曲がって店が見えたときに、8名の集団が入るところだった。
まずい。満席か?
ところが、私たちが戸を開けると、その8人以外は客がいなかった。
どうやら表の看板を“準備中”にしたまま気づいてなかったらしく、8人集団の1人が入店の際に、「やってるの?看板が準備中のままだよ」と店の人に言って、“営業中”の面にひっくり返したらしい。
それのおかけで私たちはすぐに席に着くことができたが、「どうりでお客さんが来ないと思った」と、おかみさんがのんきなことを言っていた。
私は、この一週間ほど“将来の夢”として心の中に抱いていた親子ソバを食べ、一緒に行った係長はそば定食を食べた。そば定食はハーフもりそばにハーフたぬきそば、そしてご飯に味付けのりという、炭水化物ファンにはたまらないものだった。私は次回は玉子丼(もちろん、ハーフたぬきそば付)にチャレンジしてみようという新たな目標をたてた。
長寿になりたきゃ長寿庵に行け!
幸せになりたきゃ幸福庵に向かえ!
足腰を鍛えたけりゃ立ち食いそば屋でつま先立て!
そばをすすりながら、そんなことを思った私だった。
おとといは急にけっこう強い雨が降ってきて、傘を持ち合わせていなかった私はとても悲しい気持ちになった。
そう、東京に出張した日のことである。
私は11:00に羽田に着くAIR DO便(ANAの共同運航便)に乗った。飛行機は定刻よりも5分早く到着。到着後私は地下連絡通路を通って第1ターミナルへ移動。30分後に着くJAL便でやって来る後続隊を待った。
JAL便は10分遅れで到着。一行と合流したあと都心へ。
激しい雨が降って来たのはそのあとだった。
びしょ濡れになって大変だったでしょうって?
いや、全然。
なぜなら、すでにそのとき、私は会議に入っていたからだ。
突然の降雨は会議室の窓から見たにすぎない。私は雨に当たったとは一言も書いてないもん。
会議が終わったのは17時過ぎ。
雨は上がっていて、自分としてはそのプチ幸福感が、たまたま機内で聴いたショスタコの8番の終わりの気分とオーバーラップした。
ソスタコーヴィチ、おっと訛っちまった、ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第8番ハ短調Op.65。
この曲はここ数年、私にとってショスタコーヴィチの交響曲の中で最も心震わされるものとなっている。
作品についての能書きはこちらをご覧いただくとして、これまたこの演奏はすばらしいと思っている演奏をご紹介。
プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の演奏である。
第1楽章冒頭の最初の音からしてなみなみならぬ緊張感に満ちていて、それが曲の終わりの最後の1音まで持続するのは見事。弱音は端正な美しさを湛え、強音は十分にパワーがありながらも押しつけがましくなったり断末魔の絶叫にもならない。どこをとっても均整がとれている。
かといって、人間味に乏しいとか教科書的ではなく、優しげでねぎらうように最後の音の響きが消え入ったあと、そこには感動の余韻が残るのである。
この曲が苦手な人にも、何らかの啓示を与えるのではと思える演奏だろう。
1973録音。EMI × TOWER RECORDS Excellent COLLECTION Vol.4
さて、昨日は朝8:30からの打合せが意表を突く速さで終わってしまい、寄り道もせず空港へ(だってCDショップだってまだ開いてない時間だ)。
搭乗する便を早めようにも、なにせその前の便がない。
空港内をできるだけゆっくりと、しかも非効率な動きをし何とか時間を潰し、でも潰しきれないのでかなり早めに保安検査場を通過し、まだ11時だったが昼食にした。
飛行機は12時過ぎの出発で、到着は14時ちょっと前の到着。つまり、しばしば話題にするように昼食をとるには極めて難しい選択を迫られる時間帯だ。乗る前に食べるか、降りたあと食べるか、機内で食べるか……
しかも、私はしばしば食後すぐにおなかがギュルギュルするという、困った発作を持っている。だからこそ、こんなに悩むのだ。排泄注意……
だが、この日はギュルギュルしない予感がした。自分の体のことだから、誰よりもよくわかる(気がする)のだ。
よし!第2ターミナル52番ゲート近くのラーメンにしよう。
そう思ったが、醤油ラーメン800円の文字を見て、すぐに決心はヒュルルルルルとしぼんだ。ラーメン専門店でもないのに(それとも専門店と呼ぶべきか)、そして場所柄とはいえ、800円を投資するには高すぎる。タバコの1.82箱分の値段だもの。
私は隣のANA FESTAで“シウマイ弁当”を買った。750円である。私がちょっと目を離したすきに、750円まで上昇していた。
何?ラーメンと50円しか違わないじゃないかって?
食べたことのないものに800円出すよりは、旧知の傑作弁当を食べるのだ。50円以上の安心感がある。
シウマイ弁当は相変らず美味しかった。
が、満足度はそれほどでもなかった。というのは、この日の朝、朝食付きの宿泊プランだったので、珍しくコンビニおにぎりの朝食ではなく、ホテルのバイキングで少々張り切って食べすぎたからだ。6時のオープンと同時にレストランに行き、まだ混み始める前の好環境のなか満足した朝食を食べたが、11時というと、確かに5時間も経ってはいるものの、それほどおなかは減っていなかった。そんなわけでだが、朝も昼も満足してちゃいけないってことだ。
ちなみに弁当は残した。タケノコの煮物を少々……
こちらについて、空港連絡バスに乗ったが、後ろの席に座った老夫婦-会話の感じから観光客だということと、荷物の置き方についてもめていたことがわかった-の“婦”の方が、街なかに入って“ふう”に対して言った。
「あらまぁ、落雷注意だって!」
「雷?」
「だって、あなた、あそこに書いてあるじゃない」
「あぁ、雷が多いのかね?」
何のことかと視線を広範囲に泳がすと、私も発見した。
道沿いに建っているアパートの壁に、大書きされた看板が張ってあった。
でも違うから。あれ、ラクセツチュウイですから。落雪注意!
雪と雷、漢字は似てなくはないけど……
だいたい、落雷について壁に張らないでしょう?[E:thunder]
帰ったあと、落雷に注意するよう書いた看板が壁に張りつけてあった、なんて言い振り回らなきゃいいが……
話題としてはやや落ち着いたようだが、矢口真理が自宅に男を連れ込んだという事件。家に男連れ込んで、ベッドの上で愛の二重唱ってことだが、あれって、場合によっちゃ帰って来た夫が怒りのあまり2人を殺す、なんてことにもなりかねないくらいの出来事だ。
前にテレビで観た映画「うなぎ」は、釣りから帰って来くると、妻がまさに浮気相手とふとんの上で快楽運動の真っ最中で、夫がそっと忍び寄って相手の男と妻を刺し殺すというものだった。
ひっどいもんだね。
ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の序曲「ローマの謝肉祭(Le carnaval romain)」Op.9(1843)。
この曲は独立した管弦楽として、ベルリオーズの作品のなかでも「幻想交響曲」とならび広く聴かれているが、もともとは歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini)」Op.23の第2幕前奏曲として作曲されたものである。このため、オペラのなかの主題が用いられている。
ふつうオペラでは第1幕の前に置かれる序曲がいちばん大きく、そのあとの幕間の前奏曲は短めである。ところがベルリオーズは-これまた新たな試みとして-このオペラで第2幕の前の前奏曲として、この大きめの作品を書いたのだった。
パリ・オペラ座でのオペラの初演(1838)は不評に終わったし、1853年のイギリスでの上演も不評に終わったが、この第2幕前奏曲は好評で、1844年に「ローマの謝肉祭」として独立して初演されることになったのだった。
「ローマの謝肉祭」は、オペラ第1幕の最後の場面、イタリアの舞踊(サンタレッロ)の主題を中心にして書かれた。
激しい序奏のあとにコーラングレが第1主題を吹くが、これは劇中で歌われるベンヴェヌート・チェッリーニと愛人テレーザ・バルドゥッチによる「愛の二重唱」のメロディーである(おぉ、ようやっと冒頭の話にこじつけることができた)。
その後、第1主題の2つの副主題を経て、オーケストラが爆発、序奏で垣間見えたメロディーが激しく奏されるが、これが第2主題となる。
この曲はソナタ形式を変形した形をとっており、提示部のあとに展開部はなく、再現部に突入する。しかし「愛の二重唱」は現れない。第2主題のサンタレッロが高揚する。
長いコーダ(終結部)に入るとファゴット、そしてトロンボーンが「愛の二重唱」を奏する。絶頂ぅぅぅっ!ってもんだ。
このあとクライマックスに向かってどんどん激化し、輝かしく印象的なトレモロで曲は閉じられる。
ロンバール指揮ストラスブール・フィルの演奏を今回は取り上げる。
この組み合わせとしては、LP時代に「イタリアのハロルド」をよく聴いていた。ずいぶん聴いたのに、どんな演奏だったのかあまり記憶にない。ただ、音場が左右のどちらかに偏り気味で(どっちか覚えてない)、自分のステレオ装置がおかしいのかと悩んでいたら、音楽雑誌に同じようなことが書かれていて、若き私の悩みが1つ解決したことは覚えている。
「イタリアのハロルド」はCD化されていないようで入手困難だが、今回「ローマの謝肉祭」をはじめとする序曲が数曲入ったCDを手にし聴いてみた。
悪い演奏ではない。が、まったくもってパンチに欠ける。ソフラン仕上げのようにソフト。
「ハロルド」もこんなんだったのだろうか?
切れ味が悪く、もたつき気味。
1980録音。apex。原盤エラート。
「葬送と勝利の大交響曲」で先日紹介したのと同じCDである。
ベルリオーズの序曲を取り上げたついでに序曲「宗教裁判官(Les fancsjuges)」Op.3(1826)について(これもこのCDに入っている)。
ベルリオーズがこのオペラを書き始めたのは、まだ音楽院の学生だったころ(台本はH.フェラン)。オペラは結局完成しなかったが、このなかの多くがほかの作品、「幻想交響曲」(第4楽章「断頭台への行進」)や「葬送と勝利の大交響曲」(第2楽章「追悼」)などに流用された。そして序曲だけがそのまま残った。
この曲をベルリオーズは気に入っていたようで、ショパンの勧めで4手ピアノ作品に編曲もしている。
また、この曲には少年時代に書いた五重奏曲のメロディーも使われているという。
そしてまた、この序曲こそが、ベルリオーズが初めて大規模な管弦楽の使用を試みた記念すべき作品なのである。
序曲「宗教裁判官」も、そして「ベンヴェヌート・チェッリーニ」の序曲ほかも、ロンバールのCDに収められている。やっぱりほんわか仕上げだが。
何日か前の新聞に載っていた雑誌-女性セブンだった-の広告に、《家族秘話発掘 櫻井翔 抱き続けた「罪の意識」 官僚・父との確執とかした“家族ゲーム”》という見出しがあった。
いや、わかりませんよ。何のことだか私にはさっぱり……
同じ日の新聞の婦人公論の広告にあった《キンタロー。いじめ体験を克服し、夢だった「お笑い」の道へ》の方なら、何となく内容の想像がつく。つまり、いじめられていたけど、それを克服し、お笑いの道に入った、ってことだろう。個人的にはそのことに大いに興味はないけれど……
しかし、“罪の意識”だとか“家族ゲーム”とかなると、私の変換予測能力を超える。
そもそも“確執とかした”は、“確執と化した”なのか?それとも“確執溶かした”なのか?私には判断できない。
これまた同じ日の週刊文春の広告にある《嵐 櫻井翔 パパを事務次官に候補に押し込んだ大物政治家は誰だ?》というのと関連があるのだろうか?あるんだろうな。
いや、なぜ櫻井翔-そもそも櫻井翔ってどの顔の兄ちゃんだかよくわからない。ダックと仲良しの人?-の名に目が行ったのかというと、その日の朝、次のようなメールが来ていたからだ。
1通目。
謎ディ→ブラックボード→カルテ→家族ゲーム。これ全部櫻井翔の出演作品なんだけど…どれか一つ位みたことある?
いや、すいません。ないです、1つも。
2通目。
櫻井 翔ですってはっきり言えるのは本人だっていう証拠にはならないかな。今夜はもう遅いし…明日にでも話そう♪
つ、つまり、あなたが櫻井翔ってこと?け、けど、今はもう朝ですけど……
櫻井翔です。あっ、アタイも言っちゃった……。誰も本人とは思わないに違いないが。
差出人の名は“YOU&さくらいさん”。
これを本人だと思って騙される人もいるんだろうな。こんなふうに。
最近もAKBかなんかのでニュースになってたもんな。
ちなみに送りつけてきたのは【愛-NAVI】って会社(?)。ご参考まで。
こんなメールも来た。
仕事中の庵です!ホストなんですけどね。あなたとデートしたい!!いろんなサイトで何度も会えるなんて…運命としか思えないですよ!
いや、運命かなんかしらんですけんども、アタシはそういう趣味・志向はないものですから。
何度も会えてませんし。誤解です。
さらには、こういうのも。
世間知らずのペコに色々教えてくれませんか?♪
はいはい。私にじゃなくて、ポコちゃんにお願いしましょうね。
サティ(Erik Satie 1866-1925 フランス)の「官僚的なソナティナ(Sonatine bureaucratique)」(1917)。3楽章から成るが、全曲は約3分である(「官僚的なソナチネ」とも呼ばれる)。
クレメンティの『ソナチネ ハ長調』Op.36-1をパロディ化したもので、ある官僚が朝役所に出勤し夕方に退所する1日の様子が楽譜に記されているという。
クレメンティのOp.36-1ってどんな曲だったけかな。今度あらためて聴き直してみなきゃ。
サティの曲には変わったタイトルが付けられていることが多いが、伊福部昭はその点を次のように簡潔明瞭に書いている。
……他方ロマン過剰に陥り易い美し過ぎる題材に対しエリック・サティは一連の作品に依って之を揶揄した。……が然し此の作家は標題の故に単に珍奇として遇されがちであるが、作品は今尚我々に感銘を与えるのであって、それが故にこそ又此の皮肉も成立するのである。
(「伊福部昭綴る」(出典:「北方文藝」1942年5月号))
珍奇かぁ……
近ごろ耳にしない言葉だな……。赤チンキとか……
今日のところは、ルグランが演奏したCDを挙げておこう。
1993録音。エラート。
子どもの頃、親が観ていた番組に「ありがとう」というのがあった。
チータこと水前寺清子が主役で、今ではどう考えても納得いかないのだが、あのボーイッシュなチータのファンは、男子児童にも少なくなかった。
私は-のちに青年になってからその名を知ったのだが-上村香子さんがとっても好きだった。その想いは、さんづけしていることからもうかがい知ることができるはずだ。
水前寺清子の役柄の姓は-ただし、「ありがとう」にはいくつかのシリーズがあったらしく、私がここで言っているのは看護婦編というやつ-“十”である。これで“つなし”と読む。
なぜ“十”で“つなし”なのか?
そのことを説明していたセリフがなぜかはっきりと頭に残っている(記憶が正しく残っているとは限らない)。
一 ~ ひとつ
二 ~ ふたつ
三 ~ みっつ
四 ~ よっつ
五 ~ いつつ
六 ~ むっつ
七 ~ ななつ
八 ~ やっつ
九 ~ ここのつ
十 ~ ???
ってことで、十は“つ”を付けて言うことができないから、“つ”無しなんだそうだ。
へぇ~って思います?
私は、「しっかしねぇ~っ」て思いである。今は。
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の「19世紀末から20世紀初頭にかけての革命詩人による10の詩」Op.88(1951)。単に「10の詩曲」と称されることもある。
英語訳のタイトルは、“10 Poems on Texts by Revolutionary Poets”、あるいは“10 Poems on Words of Revolutionary Poets”。
各曲独立した無伴奏合唱のための作品で、1951年のスターリン賞第2席を受けている。'49年の「森の歌」の同賞第1席に続いて-1年あいているが-の受賞ということになる。
使われているテキストは、1905年の第1次ロシア革命前後の怒りや苦悩を表わした革命家たちが書いたものだが、全体を通しての曲調は哀愁はあるものの明るめである。
第1曲 「仲間たちよ、さあ行こう」 詞:革命詩人ラージン
第2曲 「自分ひとりではない」 詞:革命家タラーソフ
第3曲 「街へ」 詞:1902年にオデッサの街にまかれたビラの詩。作者不明
第4曲 「とらわれて送られる日に」 詞:労働者詩人グムィリョフ
第5曲 「死刑の戦士」 詞:グムィリョフ
第6曲 「1月9日」 詞:革命詩人ア・ヤコヴレヴィッツ・コーツ
第7曲 「つつ音もはや絶えて」 詞:タラーソフ
第8曲 「力つきて」 詞:グムィリョフ
第9曲 「5月の歌」 詞:コーツ
第10曲 「歌」 詞:ホイットマンの詩の、革命詩人タンボゴラースによるロシア語訳
このうち、第6曲「1月9日」の中のメロディーは、ショスタコの作品2である「5つの前奏曲」の第5曲で早くも現れているし、のちに交響曲第11番でも使われることになる。
私が聴いているCDは、ポポフ指揮モスクワ・アカデミー・オブ・コラール・アートによる演奏。
1998録音。ブリリアント・クラシックス。
このCDには、おそらくこの「革命詩人による10の詩」と関連があると思われる、同じ1951年にショスタコーヴィチが合唱編曲した「10のロシア民謡集」も収められている。演奏は同じメンバーに伴奏のクラフチェンコのピアノが加わる。
この民謡集の10曲は次のとおり。
1. 突然モスクワ近郊で雷が轟いた
2. 山の、丘のかなたで
3. 槍と剣の森の中から
4. 暗い夜、恐ろしい雲
5. カッコウが鳴いている
6. たいまつ
7. 私のモミの木の林よ
8. お父さまの緑の庭で
9. 愛しい人に私は言いました
10. 何とすばらしい歌を
ロシア民謡も、ショスタコが手掛けると、なんだか芸術的って感じになる。
土曜日は用があってちょっと郊外に行って来た。
途中見かけた畑は青々としていてなんかいい感じ。
上はじゃがいも、中の写真は小麦、下は畑のそばに生えていたウドである。
金曜日の朝。
いつものように早起きし、PCを起ち上げ、ブログ記事の最終手直しをしたあとアップ。そのあと登録しているランキングサイトに、これが記事繁栄につながりますようにと記事反映のPing代理送信処理を行なった。
しつこいようだがいつものことで、どの一般的な家庭にもみられるのどかな光景だ。
さらに、これもいつものようにポイントサイトに入って、今日のプレゼントに応募した。
これとて、家族のために洗剤セットを当ててやろうという、ふつうの良心的な世帯主に見られる行為だ。
そのあと新聞を取りに行き、新聞を読み、ひげを剃り、シャワーを浴び、食事をし、歯を磨き、スーツに着替え、さてもう一度PCに向かってシャットダウンしようとしたら、見かけぬものが表示されている。
英語のメッセージが現れたり、ウイルスチェックをしている画面がうるさく、かつせわしなく表示されているのだ。
なんじゃこれ?
変なものをダウンロードしちゃっただろうか?
いや、どう考えても、ブログをアップした後に行なったことはひげを剃ったり、シャワーで肌に磨きをかけたり、目玉焼きを食べたりしただけで、新たなプログラムをダウンロードした記憶はない。一般的には“変な”と言われるサイトを訪問してもいない。
デスクトップには立派と言えば立派、気持ち悪いと言えば気持ち悪いショートカットが作られているし、画面下部のメッセージセンターの旗マークのアイコンには赤い×印が表示され、そこをクリックすると、不正だか危険なプログラムがなんとかいう警告メッセージが私に警告を発していると同時に恐怖感を与える。
やばい。
もしやこれってウイルスか?
ウィルス対策ソフトは機能しなかったのか?(昨日(事件が起こった翌日)になって、このPCに入っているウィルス対策ソフトから新たなウィルス・パターンを更新というメッセージが表示された。こいつにも対処できるようになったのだろうか?)
けっこう動転したし、仕事に出かけるまであと20分しか残っていない。かといって、このままシャットダウンして出かけるのも義理人情に欠ける。
「お客様、落ち着いてください」という、飛行機が操縦不能に陥った時に客室乗務員が発するセリフのことを思い出し(ただしドラマ)、まずは再起動してみる。
同じようにスキャンしている画面。警告メッセージ。
そしてさらに、“このウィルススキャン・ソフトを買え”みたいな画面に切り替わる。お値段99.99ドルのこのソフト。その名もSystem Care Antivirus。
どうやら、このソフトを購入すると、あなたが困惑しているこの現象が治りますよと言いたいらしい。英語はよくわからないが、感情というものはなんとなく通じるものである。
話は一挙に先に飛ぶが、その日の夕方(職場で)ネットで調べたら、ウィルスに感染したと見せかけ、そのソフトを買わせようとするウィルスプログラムらしい。
話を一挙に戻す。
そして画面には他にも英語のメッセージが表示され、×をクリックして消しても次々襲ってくるやぶ蚊のようにすぐに再表示される。
まずはショートカットをゴミ箱に捨てる。もちろんこれでは病状は変わらない。
“すべてのプログラム”を表示させると、System Care Antivurusの名のフォルダが勝手に出来上がっていたので、これも削除する。病状にまったく変化なし。
コントロールパネルを開き、“プログラムの追加と削除”を実行。ところがこの名のプログラムは表示されない。つまりアンインストールのしようがない。
同じくコントロールパネルで“システムとセキュリティ”→“アクションセンター”でセキュリティを調べる。ウィンドウズ・ディフェンダーが無効化されている。が、有効化しようにもいうことをきかない。システムの復元を試みるが、これまた実行できない。
ネットで調べようとするが、インターネット・エクスプローラー(IE)も動かない。
これでは手の施しようがないではないか!
まいった……
ここまで15分ほどだったが、私にはとてもとても長く感じた。
何度も出てくるメッセージやスキャン中の画面を×をクリックして消し、そしてまた現われというまさにイタチごっこをしているとき、時折見かける“このなんたらをマイクロソフトに報告しますか?”という、マイクロソフトのメッセージが表示された。
そこで“送信”をクリックしたら、すぐにこいつらは初めから何もなかったかのように消えた。
早く出てきてよ~
インターネットも使えるようになったし、システムの復元もできるようになった。
そこで3日前の復元ポイントを使ってシステムを復元。
出勤時間ぎりぎりで、厄介者を駆除することができたのだった。
帰宅してからウイルス対策ソフトでスキャン。
果たしてインストールしているソフトがあのSystem Care Antivirusにすでに対応しているかどうかはわからないが、スキャンの結果は問題なし。私の肝臓とは違うものだ。あっ、あれはスキャンじゃなくてエコー検査か……
上のサイトの説明に従ってレジストリを確認したが、これも問題なかった。
それにしても、消しても消しても執拗に表示されるウィルスソフトの画面は、まるでシューマン(Robert Schmann 1810-56 ドイツ)の交響曲第2番ハ長調Op.61(1845-46)の第2楽章のようなしつこさと、また私の焦りとイライラ感も、この曲の第2楽章のような感じであった。
この曲については前に詳しく書いているので内容については触れないが、とにかく私はこの第2楽章を聴いていると居心地が悪くなる。
ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で。
ハイティンクの演奏は、聴き手を高揚させるようなことはしないが、スケール感があって安定している。安心して聴いていられる演奏とでもいうのだろうか?
1984録音。フィリップス。
私の場合は、上記サイトにあるようなセーフモードで起動し処理するという必要はなく終わることができた(そのような事態に陥った場合、まずはショートカットを削除した私の行動は軽率だったことになる)。
が、マイクロソフトに状況を“送信”した直後に、少なくとも見た目には跡形もなくなったのはある意味不思議である。
回復後、あらためてWindows Updateを行なったが、IEのヴァージョンが10に更新された。
すると、今度はこの、ブログの編集画面の表示が微妙に変化した。気に食わないが進歩についていくしかない。
先日の記事で宿根草2種の写真を載せたが、愚かなことに私の頭にはそれらの名が頭に入っていなく、また不幸は重なるもので、残念なことにそのときは草種名を控えたものも手元になかった。
だから今書こう。
上の写真はバーバスカム・ビオレッタ、2枚目の写真はポレモニューム・アプリコット・デイライトである。
写真が下手で本来の美しさを十分に伝えられないのが申し訳ない。が、写真が下手というのは謙遜で、カメラが良くないと私は信じ切っている。これが一眼だったら絞り優先で背景をぼかして、なんてことをするのだが……
美しいといえば、プレヴィンがシカゴ交響楽団を振ったショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)は、音がとても艶やかで美しい。
単に音がクリアというのならば、例えばインバルなんかだってそうだが、プレヴィンの場合は暖色系の色合いで上品。
重量感がもう少しあって欲しいなと思わなくもないが、この水準の演奏でさらに望むのは要求過多というものだろう。クリアで美しく、アンサンブルもぴったり。弱音から強音までまったく破たんしない。
私が初めてプレヴィンを知ったのは、エネスコのルーマニア狂詩曲第1番が入ったLPを買ったことだった。
たまたま札響の定期演奏会でこの曲を聴き、すっかり気に入ってしまい、今でもオーロラタウンにある(はずの)玉光堂に行ったら、このLPが置いてあったのだ。失礼な言い方だが、よくあの規模の店に、このLPがあったものだと思う。
プレヴィンがどうとか関係なく、とにかくルーマニア狂詩曲第1番を聴きたかったので、レギュラー価格だったにもかかわらずこのLPを購入したのだが(他の収録曲は「グリーンスリーヴズによる幻想曲」、チャイコの「ロメオとジュリエット」、「キャンディード」序曲)、それ以降、特にこれでイメージ付けされたわけではないと思うが、プレヴィンの演奏ってソツはないのだが概してスケール感が不足気味のライト系という印象があった。
例えば、プロコフィエフの第5番を聴いたときは、スマートすぎて、なんでもっとガツンとやってくんないのと歯がゆく思ったものだ。
このショスタコの第5番も、先ほど書いたように確かに第1楽章なんかはもっとずっしり感が欲しいが、でも、プレヴィンってこういう演奏してくれるんだと、かなり好印象を持った1枚である。
ということで、これは幅広い層の聴き手に感動を与えるお薦めの演奏だと、私は勝手に結論づける。
EMI × TOWER RECORDS Excellent COLLECTION Vol.4。
1977録音。
しっかし、シカゴ響ってすごいとあらためて思わされた。そういう意味でもお薦め。
昨日の朝、自宅のパソコンがウイルス(もどき?)に感染した。
出勤前の限られた時間、私は時限爆弾の時限装置を取り外す勇敢な素人のように奮闘したが、その話はまた明日。
この季節、聴きたくなる曲の1つにリヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949 ドイツ)のホルン協奏曲第2番変ホ長調AV.132(1942)がある。
AVというのはアソウ(Asow)による「作品番号なしの作品」の目録番号で、アダルトビデオのことかと色めき立ちたい気持ちはわかるけど、そういうことなので発情しないで欲しいし、あるいはおまた、いや、あるいはまた、アソウという名で今の金融担当大臣の顔を思い起こす人もいるかもしれないけど、思い起こすに至ったことについては私の責任ではない(アゾフと呼ぶこともあるらしい。いや、だから大臣じゃなくて、Asowを)。
この曲自体には、特に初夏とか自然讃歌という性質があるわけではないが、ホルンの音色と曲調が、私に今のこの季節、そして田園風景を思い起こさせる。それゆえ、今回紹介するCDのジャケットに描かれている絵は、私のイメージにけっこう合致しちゃう。
R.シュトラウスは晩年になって、このホルン協奏曲第2番のほか、オーボエ協奏曲(1945/48改訂)、二重小協奏曲(1947)という、3曲の古典回帰的な協奏曲を書いている。
歳をとって保守的になったのかしらん?
ホルン協奏曲第2番については、前にバウマンの独奏の演奏を紹介したが、今日はヴラトコヴィチの独奏、テイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏を。
伸びやかでスカッとする演奏。オーケストラと独奏ホルンとの息もぴったりの名演だ。
1988録音。EMI。
さて、水曜日のことだが、午前中の10時台に札幌駅発のJRで戻ってきた。
列車は定刻通り、13時ちょっと前にこの地に着いたが、発車してすぐに車中でいろいろと考えた結果、私は降車後に駅の中にある、すっごく美味いとも、でもやたら不味いとも言われていない、要するに評判にも噂にもなっていない、もっとわかりやすく言えば話題にのぼったのを聞いたことのないある意味立派に平凡さを維持しているそば屋に寄って、そこで昼食をとろうという結論に達したのであった。
さらに、南千歳駅に停車したとき、ホームの駅弁販売コーナーに書かれている“サーモン寿司”の文字を見て、「あぁ、むかし旅行した時に苫小牧駅で買って食べたサーモン寿司はとても美味しかったな。でも、あれっきり買って食べる機会がないまま今日に至ってしまったな」と-新千歳空港で売ってくれればいいのに、南千歳駅と苫小牧駅でしか買えないのだ-悲しく思い、その結果、やっぱりそば屋ではかしわそばにしようと意思を固めたのであった。つまり、サーモンとはまったく関係ないってことだ。
そんなこんなで、線路は続くよどこまでも的に列車はさらに進み、山あいを抜け平野部にでると、そこでは折しも車窓からは羊がのどかに草を食んでいた。と書きたいところだが、羊ではなく、見えたのはモーモーちゃんたちだった。のんびりと草を食む牛たちを見ると、かしわそばを食べようと思っている自分がちっぽけなように思えてきて、よし、親子そばにしようと、あっさりと決意を覆して、玉子分をグレードアップすることにした。
こうして、先ほど書いたように、列車は定刻に到着し、そのまま私はそば屋も入っている駅のショッピング街-と書けばかっこいいが、そんなたいそうなものではない-に向かったのだが、ショッピング街の入り口のガラス戸の前に“本日休館日”と書かれた看板が立っていて、ガラス越しに中でのんびりとおじさんが床のワックスがけをしている光景を見たときには、ひどい脱力感に襲われたのだった。
極めて稀なことにあのそば屋に立ち寄ってみようという気が起きたというのに、なんと私はタイミングが悪いのだろう。
ガラス戸の前で踵を返し、駅構内のコンビニに行き、こうなったらレンジで温めて食べる天そば-とにかくそばを食べてやると意固地になっていたことを告白しよう-を買って、いったん家に帰って食べようと思ったのだが、これまた天そばの姿は棚になく、代わりに肉うどんが置いてあった。
世の中は私に希望通りの昼飯を食べさせまいとしているようだ。が、ここでコンビニ店員に悪態をつくことも、あるいは涙ながらにソバはなぜないんどすか?と泣きつくわけにもいかず、最初からこれを選ぶために来たというような毅然とした態度でレジで会計を済ませ、いったん家に戻り、500W5分の指示通りレンジで加熱し、食べたわけだが、折からの暑さで汗だら男になってしまった。
タイミングといえば、先日、ショスタコーヴィチの「5つの前奏曲」を取り上げた日のこと。
この日のブログ記事ではショスタコの「革命詩人による10の詩」についても触れたが、この作品自体をその数日後に取り上げるつもりでいた。
ところが私と心がつながっているかのように、この日のライムンドさんの記事で取り上げられていたのが、ほかならぬ「革命詩人による10の詩」であった。しかも、紹介されているCDも、私が取り上げようと思っていたものと同じだった。
なんというタイミングだろう!
考えることが似通っているということだろうか……
ともにショスタコを取り上げる機会が多いので、ミシンとコウモリ傘の解剖台のうえでの偶然の出合いのようになってしまったようだ。
というわけで、私のほうは「革命詩人による10の詩」を、もうちょっと時間を置いてから取り上げようと思っている。
- 今日:
- 昨日:
- 累計:
- 12音音楽
- J.S.バッハ
- JR・鉄道
- お出かけ・旅行
- オルガン曲
- オーディオ
- ガーデニング
- コンビニ弁当・実用系弁当
- サボテン・多肉植物・観葉植物
- シュニトケ
- ショスタコーヴィチ
- スパムメール
- セミ・クラシック
- タウンウォッチ
- チェンバロ曲
- チャイコフスキー
- ノスタルジー
- バラ
- バルトーク
- バレエ音楽・劇付随音楽・舞台音楽
- バロック
- パソコン・インターネット
- ピアノ協奏作品
- ピアノ曲
- ブラームス
- プロコフィエフ
- ベルリオーズ
- マスコミ・メディア
- マーラー
- モーツァルト
- ラーメン
- ルネサンス音楽
- ロマン派・ロマン主義
- ヴァイオリン作品
- ヴァイオリン協奏作品
- 三浦綾子
- 世の中の出来事
- 交響詩
- 伊福部昭
- 健康・医療・病気
- 公共交通
- 出張・旅行・お出かけ
- 北海道
- 北海道新聞
- 印象主義
- 原始主義
- 古典派・古典主義
- 合唱曲
- 吉松隆
- 名古屋・東海・中部
- 吹奏楽
- 周りの人々
- 国民楽派・民族主義
- 声楽曲
- 変奏曲
- 多様式主義
- 大阪・関西
- 宗教音楽
- 宣伝・広告
- 室内楽曲
- 害虫・害獣
- 家電製品
- 広告・宣伝
- 弦楽合奏曲
- 手料理
- 料理・飲食・食材・惣菜
- 映画音楽
- 暮しの情景(日常)
- 本・雑誌
- 札幌
- 札幌交響楽団
- 村上春樹
- 歌劇・楽劇
- 歌曲
- 民謡・伝承曲
- 江別
- 浅田次郎
- 演奏会用序曲
- 特撮映画音楽
- 現代音楽・前衛音楽
- 空虚記事(実質休載)
- 組曲
- 編曲作品
- 美しくない日本
- 舞踏音楽(ワルツ他)
- 行進曲
- 西欧派・折衷派
- 邦人作品
- 音楽作品整理番号
- 音楽史
- 駅弁・空弁
© 2007 「読後充実度 84ppm のお話」