北海道のいくつかの町に出店している地場のCDショップに玉光堂というのがある。
札幌市のど真ん中、4丁目交差点の一角にもショップがあるが(四丁目店)、そこでは中古CDも取り扱っている。
正直なところ、私は中古品は好きではない。
それは本でも同じことだ。CDではそんなことはないが、本だとかび臭かったり、書き込みがしてあったりするのが嫌だ。謎のウィルスが付着している可能性だって否定できない。
が、現役盤としてすでに手に入らないものや、正規の価格で買うほどの欲がわかないものなどは中古でもいいかなと、最近思うようになった。どうやら加齢とともに、寛容になったようだ。あるいは、多少ならどうでもいいと思うようになった感じだ。
そんなんで、札幌に出張に出かけた折に時間があるときには、ここに立ち寄る機会が微増した。
先日は、アイヒホルンが指揮したブルックナーの交響曲第6番のCDが“新入荷”していて、買おうかどうか迷った(オーケストラはリンツ・ブルックナー管弦楽団)。
そんなとき、その数日前に送り付けられてきたスパム・メールを思い出した。
内容はこうだ。
私よ!!
何をいつまで迷っているのよ。それが後返しもつかない事になるわよ。今よりもどん底の不幸になるわ。恋愛は愚かお金は一切手にする事はできないわ。私は全てが見えたわ。あなたにとってこれが最後のチャンスになるから教えてあげるわ。よく聞きなさい。…
“私”が誰か知らないし(少なくとも妻ではない)、たかがCDのことで、今後どん底の不幸とやらになるのはオーバーだとは思うが、まあ買わないとずっと気になるような気がしたので、買ってしまった。
ところで「後返し」って、あんまり目にしない言葉だな……
ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第6番イ長調WAB.106(1879-81)は、これまでしつこく訴えているように、ブルックナーの交響曲中でも私が特に好きなものである。それがどうしたと反論されると、再反論する手札を持ち合わせていないが……
交響曲第6番はブルックナーとしては珍しく完成後にほとんど手が加えられず、現在あるハース版とノヴァーク版のどちらの楽譜も、実質的には同じだということである。
なお、この曲の初演は、手を加えられた形ではあったが、マーラー指揮のウィーン・フィルによって行われている。
アイヒホルンのCDについては、過去にブルックナーの交響曲第5番を取り上げたことがあるが、私としてもそれ以外聴いたことがなかった。ブルックナーで良い演奏をするということは知っていたが、国内盤で3000円も出すほどの興味はなかったのである(ついでに言うと、だったら輸入盤を、という発展も心の中には起こらなかった)。
そんなときに中古CDを見つけ、脅しともとれるメールに後押しされて購入したのだった。
この曲、最近、ネゼ=セガン、ケーゲルと取り上げているが、そのように続いているたのは単なる偶然。そしてまた、今日アイヒホルンとなったのも、天使の気まぐれである。
私よ!!天使は。
アイヒホルンの演奏は、ネゼ=セガンのように精緻ではない。だが、“古き良き時代”的な大らかで温かみのある演奏だ。もちろんケーゲルのように殺気立っていない。
アンサンブルの怪しさがどうとか細かいことは言いっこなし。指揮者の作曲家に対する敬愛が伝わってくる。そんなちっぽけなことなど吹っ飛ぶような演奏だ。
アイヒホルンがこれを録音したのは1994年3月のこと。
そして、3か月後の6月に、この指揮者は天のブルックナーのもとへ行った。
レーベルはカメラータ。
July 2013
これまで何度か取り上げ絶賛してきた、V.ソフロニツキのフォルテピアノ(曲によってはチェンバロ)独奏、カロラク指揮ムジケ・アンティケ・コレギウム・ヴァルソヴィエンセの演奏によるモーツァルトの“フォルテピアノ協奏曲全集”。
第1~6番、9番、10番、20番、22~24番、27番、ロンド(ニ長調)をこれまでご紹介したが、これから先、順次残りを紹介しようにも、どうせ「すばらしい!」という言葉に終始してしまいそうだし、順次と言ったところで、高田純次の顔を個人的には思い出してしまうので、今回で一応は一区切りにしようと思う。
このソフロニツキの演奏だが、本当に心から私は皆さんにお薦めしたい。
毎回毎回、いろいろなクラシック音楽作品の、さまざまな演奏を取り上げご紹介しているが-なかなか偏りがあることを、ついでにこの場で謝りはしないが、念を押しておく-、それを聴こうと思うかどうかは読者の皆さんの自己責任で、あまり参考にしてもらえなくてもボクはちっとも悲しくなんかないさ、だが、ただ、この協奏曲全集に関しては、自分自身偶然見つけて-K.107のコンチェルトの新たなCDを手にしようと検索して購入した-あまりにも見事な出来で、私としてはぜひとも強くお薦めしたいものなのだ。
いや、こんなブンブン、ビョンビョンしたピリオド演奏のモーツァルトはいやだ、おもちゃのピアノみたいな音の楽器なんて子育て時代を思い起こすからけっこうです、と思う人もいるだろう。演奏の質が最上級であると思わない人もいるだろう。
けど……、けどね……、私はモーツァルトのクラヴィーア・コンチェルトを新発見したぐらいに斬新に感じたのだった。
今日は第25番ハ長調K.503(1786)と第26番ニ長調「戴冠式(Kronung)」K.537(1788)。
各曲の詳細については過去の記事をご覧いただきたいが、モーツァルトのクラヴィーア(ピアノ)協奏曲が、とくに第20番以降で高度に完成形となったなかでは、第25番はやや魅力に乏しい。
モーツァルトが1784年2月に書き上げたピアノ協奏曲第14番から、1786年12月の第25番までは、彼のピアノ協奏曲の頂点の時期だった。3年弱の間に12曲のピアノ協奏曲が書かれているのである。
そしてまた、1791年の死までの残り5年間では、ピアノ協奏曲は2曲しか書かれていない。
つまり第25番はモーツァルトのピアノ協奏曲の創作活動の実質の“〆”の作品である。そして形式的にも内容的も充実していると言われるものの、残念なことに旋律の魅力には乏しい。
また第26番はその輝かしい“ピアノ協奏曲の期間”のあとのものになるが、この時期にピアノ協奏曲がほとんど書かれなくなったのは、もはやモーツァルト人気が急落し、予約音楽会を開こうにも客が集まらなかったことによる。
まぁいいや。
ソフロニツキ独奏ほかによるこの演奏、空間にビュンビュン、ピロピロリンと音が飛び交う。
このワイルドさが、しみるぅ~。
2005-06録音。PRO MUSICA CAMERATA。
私は通勤のとき、焼け石に水のごとく無駄とわかりながらも、運動のために少し遠回りしている。
もちろん歩いてだ。車に乗って遠回りしても、それは単なる時間の無駄ですもの(と、いきなり尾木ママ風)。
ときには、夜になると繁華街となるエリアを通ることもあるが、朝のそこはカラスが元気に集会を開いていたり、むせかえるようなゴミの臭気が漂っていたり、明るい時に見るとこんなにボロな建物だったのかとびっくりしたりする。
そんな飲み屋街の一角の〇〇横町で、こんな看板を見つけた。
夜なら見過ごしてしまうところだ。いやいや、そもそもこの横町に来たことはない。
ミタス……
ふくごーチョーミりょー……
しかし、何らかの欲望-「味なら」と書かれているので、この場合は食欲と考えるのが妥当そうだが-を“満たす”という意味ではないだろう。
そもそも、どういうところからこんな妙な名前がついたのか?
調べてみると、いまでも健在な商品のようだし。
うま味調味料-むかしは化学調味料と呼ばれた-で、私がまず頭に浮かぶのは味の素である。皆さんもそうなんじゃないだろうか?
考えてみれば、子供のころは、家の食卓にも味の素の小びんが置いてったようがする。
あと、けっこう有名だったのは、いの一番、ミック、フレーブってところか。
いの一番って、考えてみればすごい名前だ。「まっさき」に使えって意味なわけだから。
ミタスの名の由来はわからないけど、きっと“味をたす”ってことなんだろうな。
で、悪い意味じゃなく、良い意味でうまみが詰まってると思われる曲を。
デュカス(Paul Dukas 1865-1935 フランス)の交響曲ハ長調(1895-96)。
デュカスの作品でもっともよく知られているのは、おそらく交響詩「魔法使いの弟子」だろうが、もともとデュカスが残した作品自体が少ないのだ。
デュカスはパリ音楽院で学び、のちにここの教授となったほか、エコール・ノルマル・ド・ミュジクで教鞭をとった。ワーグナーの影響を受けたほか、ドビュッシーとも親交があり、印象主義の手法も採り入れたものの、いずれの派にも属さなかった。弟子にメシアンがいる。
彼の唯一の交響曲である「交響曲ハ長調」は、あまり聴かれることがない作品だが、なかなか美味しいところがたくさんある曲である。
フランクの交響曲ニ短調や、ショーソンの交響曲変ロ長調、ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」などと同じく3楽章構成。
グローフェっぽいアメリカ的なノリがあったり、ブルックナーを思わせる金管の響きが出てきたり、第2楽章はラフマニノフを都会的にした感じだったり、第3楽章もなかなか洒落た歌い回しで、盛り込みすぎで散漫な感もなくはないが、放っておくにはもったいない作品。
なかなかな曲なので、ぜひお聴きあれ。
私はフルネ盤とヴェラー盤を持っているが、ヴェラー盤の方が好きである。また、私は聴いたことはないが、マルティノン盤を推す声も多いようだ。
ヴェラー指揮ロンドン・フィルの演奏は1974録音。デッカ。
さて、月曜日である。
ゴミの臭いを嗅ぎながら出勤しよう…
木~金と札幌出張だったために自宅に帰ったわけだが、バラもいったんピークを終えおり、ちょうど次のつぼみたちが膨らんでいるところだった。うふふ。
つ、ぼ、み、たち……
プクプクと膨らんでおくれ。
余計な期待の言葉はさておき、そんななかでたまたま見ごろ状態になっていたのは、写真の上から順に(言っておくが、もちろんCDの写真を除いて上から順に、である)、コンパッション、グレーシー・アレン、グラハム・トーマス。
おそらく次回帰宅したときには、かなりのバラたちが咲いていることだろう(コガネ野郎が蝕まない限り)。
例の-何が「例の」だか……-ストラボ・バビロンとエリドゥ・バビロンはつぼみを持っている状態で、開花しているものはなし。
また、先日購入したゴールデン・ウィングスを庭に植えた。
気候的には植え替え適期じゃないが、なんとか根付いてくれるものと信じている。
で、バビロンである。
先日バビロン・ローズの話を書いたときに紹介すればよかったのだが、もう紹介済みだと思っていたので、そこでは取り上げなかったのだが、おやおや実はまだ紹介してなかったわいと気づいたので、今日ご紹介したいと思うが、えっ、くどい?。
ですよねーっ。
M.フィッツ=ジェラルド指揮バーゼル・シンフォニエッタによるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の「新バビロン(New babylon)」Op.18(1928-29)。無声映画のための音楽である。
「新バビロン」については過去、ジャッド/ベルリン放送響による全曲版(全8曲)と、私がこの曲を知るきっかけとなったロジェストヴェンスキー/モスクワ・フィルの抜粋版(ロジェストヴェンスキー編。Op.18a)を取り上げているが、F=ジェラルトによる演奏は、曲の終わりが大きく違うのをはじめ、前2者とは姿を異にする。
このCDの帯には、“公開前に検閲に引っ掛かり、映画を編集し直す羽目に陥り、その際音楽も大幅に書き直されました。このアルバムはその最初の「失われた」原稿総譜から、復元出来得る音楽をすべて拾い出しました。最初の編成通り、弦楽器は5人のみで演奏されてい ます”と書かれている。
「新バビロン」はとてもはつらつとした音楽だ。若きショスタコがやりたい放題している。皮肉めいたところは相変わらずだが、後年の音楽のような殻に閉じこもった陰険(?)なひねり、病的な深刻さはない。
それが、このCDでは、映画館の狭い空間に陣取って演奏していた当時の管弦楽編成の再現。
なるほど、無声映画につける音楽ってこういう感じなのかと、ちょっとその雰囲気がわかった気分になれるし、より音楽が生き生きと響き渡る。
国家権力に押しつぶされる前の、ショスタコの本来の姿が垣間見えるような演奏である。
2011録音。ナクソス。
昨日こちらに戻ってくるときの、高速道路を走行中のできごと。
突然、フロント・インパネの中央部付近からカタカタカタカタと金属音が出始めた。
いくら古くなったとはいえ、先日車検に出したばかりであり、悪いところは一応すべて直したはずだ。実際、そのくらいの費用もかかった。
しかし、この音はそれまで耳にしたことがないようなもので、もしかしたらこの高速走行中にあっと驚くようなトラブルが発生する-あの特急列車のようになるとか-かもしれないと不安に襲われるに十分なものだった。
落ち着かなきゃ……
私は少しスピードを落とし、ドリンクホルダーに置いてあった缶コーヒーを手に取って一口飲んだ。
音は止んだ。
缶がホルダーに触れる音だった……やれやれ。
岩波文庫の「カフカ寓話集」(池内紀 編訳)を読んだ。
学生のころカフカの短編集を読んだことがあるが(角川文庫で書名は「ある流刑地の話)、それと重複する話も多い。
この本の最初に収められている「皇帝の使者」も、「皇帝の密書」のタイトルで角川のにも入っていた。
「皇帝の使者(Eine kaiserliche Botschaft)」(1917)は2ページの短い話だが、その終わりは何度読んでももの悲しい気持ちになる。それは実現しないことをひらすら待ち続けている主人公への深い同情の気持ちである。
この話は、死の床で皇帝が、一介の市民、哀れな臣民である〈きみ〉に、伝言をもった使者を送り出したところから始まる。頑健きわまる疲れを知らない使者は〈きみ〉のところに向かうのだが、いつまでたっても部屋が続く。仮にいくつもの部屋を通り抜けたとしても、その次にあるのは果てしない階段。それを走り下らなければならない。下り終えたとしても、今度は幾多の中庭。幾多の中庭の先には第2の王宮。これだけで何千年もかかる。そして、決して起こりえないことではあるが、使者が最後の城門から走り出たとしても、そこには今度は首都がある。ここを駆け抜けることができる者は誰もいない。ましてやとっくに死者となったものの使者なのだ。
が、
「しかし、きみは窓辺にすわり、夕べがくると、使者の到来を夢見ている」
のである。
ここには「審判」や「城」と共通するものがある。
つまり、いくらやっても先へは進まない、事態は好転しない、ということだ。
ところで、この文庫本のカバーに、カフカは「いずれ自分の時代がくると固く心に期していた」と、書かれている。
どこかで目にしたことがあるような言葉だ。
そう。マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)が語ったという言葉、「やがて私の時代が来る」、である。
カフカは1883年に、当時はオーストリア=ハンガリー帝国に属していたボヘミア王国の首都プラハで、ユダヤ人の家庭に生まれた。
一方マーラーは、ボヘミアの小村カリシュトで、やはりユダヤ人の家庭に生まれている。
おそらく、マーラーとカフカに共通するのは“疎外感”である。
そのマーラーの交響曲第7番ホ短調「夜の歌(Lied der Nacht)」(1904-06/その後もたびたび管弦楽配置を変更。初演1908、プラハ)。
この作品については過去に書いているが、「夜の歌」は第4楽章の題名に由来する通称であり、また、第2楽章の題名「夜曲(Nachtmusik)」で呼ばれることもある。
さて、今日取り上げるのはジンマン/チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による演奏。
2008録音。RCA。SACDだが、私の再生環境は通常のCDプレーヤー。
ジンマンのマーラーは、これまで今日の第7番と、第8番以外をこれまで取り上げているが、それらをかいつまんで復讐、おっと、復習してみると次のようになる。
第1番 ビミョー
第2番 終楽章でゾクゾクのピーク。感動的。
第3番 もうちょい味付けを濃くしてほしい。おいら北国の人だから。
第4番 肌に合わない。あたくし、ちょっぴりアトピー体質なもんで。
第5番 心揺さぶられない。僕はけっして冷酷な人間じゃないんだけど。
第6番 悲しみに溺れられない。今の自分には楽しいことなんてないにもかかわらず。
第9番 終楽章がすばらしい!深い感動に包まれる。
第10番 カーペンター版という楽譜のせいか、とっても刺激的。
このように振り返ってみると、私はジンマンのマーラーは評価しているし、立派だと思うし、とやかく言える立場にはもちろんないのだが、なんつーか、感心する演奏だけど、感動する確率は2割5分ってわけだ。
ショーケースの中に収められた装飾品みたいな演奏と表現した人もいるが、なるほどうまいことを言うもんだ。
そんななか、この第7番の演奏はジンマンとしては禁欲度があまり強くなくて、上にあげた8つの交響曲の演奏よりも自由奔放な感じではある。
ただ、すっごく立派だと感心するものの、感動するかというと、うん、しなかった。私は。名演なのは間違いないんだけど。
OCNがたいへんな状況になっている。
昨日の朝の6時過ぎから、OCNのIDを使う各種サービスが利用できなくなっている。6時過ぎということは、私が昨日のブログ記事を投稿した直後のことだ。わぁ~、助かったぁ。
そして、今でも完全復活していないが、ブログに関して言えば、“ブログ人”のユーザー名とパスワードを使ってのログインが可能になっており、今回はそのルートで投稿する。
しばらく利用していなかったので、ユーザー名とパスワードがすぐに思いだせなかったが、必死の努力でログインできた。
なんだか、大きな災害のさなかでも、這ってでもずってでもなんとか出社しなきゃというサラリーマンと同じような心境に、自分自身に苦笑してしまった。
このあいだの日曜日の話である。
前日の夜、妻がたまに豚丼も悪くない、とぼそっと言った。
この日の新聞に載っていた、“ぶた八”という店が土用の丑の日に合わせ、うなぎのかば焼き風の豚丼を出すという記事を読んだからだった。
ケチをつけるわけじゃないが、十勝の豚丼というのはもともとうな重をヒントに作り上げられたものなので、いまさらかば焼き風と言われても奇妙な気がするが、とにかくそういうものを出すということだった。
じゃあどこがふつうの豚丼と違うのかというと、記事によるとウナギのかば焼きのように豚肉を炭火で香ばしく焼き上げたんだそうだ。なるほど!ちっともわからん。
でも、日曜日に“ぶた八”に向かった。
実はそのかば焼き風豚丼は、土用の丑の日である翌22日からのメニューと書いてあったので、はなっからそれは食べられないことはわかっていたのだが、説明になってない新メニューを食べるよりは定番を頼んだ方が無難だと思い、たまにはふつうの豚丼を食べるべく、暑いなか行ってみたのだった。
が、店の前まで行って、私はふとスープカレーが食べたくなった。
妻に提案すると、妻もそっちの方がよいという。
計画はあっさりと変更。
豚問屋ならぬ豚丼屋の前を通り過ぎ、前からチェックしていたスープカレー屋へと向かった。チェックしていたといっても、評判がどうなのかは知らず、そこにスープカレー屋があることを知っていたという程度の話である。
が、である。
店の扉には“人手不足のため本日臨時休業いたします”と書いた張り紙が……
なんてこったい……
人手不足って理由が意表をついている。
休みであることにがっかりするよりも、「たいへんですね……」と同情してしまった。
その足で街中へ戻り、“みすゞ”というなかなか美味しいラーメン屋に入る。
豚丼からスープカレー、そして行き着いた先はラーメン店という、この変遷。われながら感心する。
私はその名も“みすずラーメン”の醤油をを、妻はふつうの“ラーメン”の塩を頼む。
さらに豚丼風握りという、豚丼肉の軍艦巻きを1皿頼む(2貫)。あくまでも豚丼を意識の中から捨てきることはできなかったのだ。
ここに入るのは2回目だが、確かに美味しい。“みすゞラーメン”が680円、ふつうのラーメンが650円と値段も良心的。
が、ラーメンが運ばれてきたあとに、私は悔やんだ。
上の写真が“みすゞラーメン(醤油)”だが、ご覧のようにトッピングは炒めたもやしと青ネギ程度。あと100円出して“こだわりみすゞ”にすれば、チャーシューとメンマものってくるのだ。あぁ、ちゃんとメニューを見るべきだった。
話は変わる。
いま、わが家の庭に、名前がわからない宿根草が花を咲かせている。
おととしに園芸店で買ったものだが、そのときは確かに品種名をどこかに控えた。が、問題は、それがどこか不明なったことだ。
名のわからない植物を育てるのはなんとなく落ち着かない。気ものらない。ポチとかシロとか呼ぶわけにもいくまい。
どなたか、この花の名を知っている人がいたらぜひともお教え願いたい。
そんなこんなで、ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937 フランス)のピアノ小曲「ハイドンの名によるメヌエット(Menuet sur le nom d'Haydn)」(1909)。
ハイドンの没後100年となる1909年に、パリの音楽雑誌“レヴュー・ミュジカル」が6人の作曲家に依頼したピアノ曲の1つ。
ラヴェル以外に依頼されたのは、ドビュッシー、デュカス、アーン、ダンディ、ヴィドール。
作曲に当たっては条件があり、それはHAYDNの5つの文字に対応する音列の動機を用いること。音名はCDEFGAB(H)だが、それをもとにアルファベット全文字の対応表を作り、音列が作られた。その出来上がった音列はBADDGである(このあたりの規則はウィキペディアに書かれている)。
私が持っているCDはアースの演奏によるもの。
1968録音。エラート。
ということで、あの宿根草の名を誰か私に教えておくれ。
じゃないと、ハイドンって呼んじゃうことになりそうだ(花も、ポチと呼ばれるよりは喜んでくれるだろうし)。
先日食事を共にした取引先の部長さん。
奥さんがたいへんなかりんとう好きだと話していた。しかも、黒いやつじゃなきゃダメなんだそうだ。
これだけいろいろなお菓子があるのに、やはり伝統的なお菓子の人気は根強いようだ。他にそういう話を耳にしたことはあまりないけど。
それにしてもカリンニコフ(Vasily Sergeevich Kalinnikov 1866-1901 ロシア)が残した、2つの交響曲はいつ聴いても魅力にあふれ、感動的だ。
彼が若くして病に倒れてしまったことが、ほんとうに残念だ。
夭逝ゆえに残された作品がわずかなこともあり、現在カリンニコフの作品で聴かれるのはもっぱら交響曲第1番と第2番である。それとて、ここ20年ほどのことだ。
スヴェトラーノフは第1番を1975年に、そして第2番は1968年に録音しており、私はその第2番のLPを大学生のときに買ったが、すでにそれは廉価盤となっていた。
耳にした第2番はまさに私好みの曲で、なぜ人気がないのかと思ったものだが、その後火付け役となったのがクチャルが指揮した廉価なナクソス盤だった。1994年の録音である。
クチャルが、そしてナクソスがカリンニコフ再発見・再評価に大きく貢献したわけだが、それでも広く知られた作曲家にはまだまだなっていない。
私は最近、初めて2つの交響曲以外の作品を聴くことができた。
スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団によるカリンニコフ管弦楽作品集の3枚組CDを、ようやっと購入できたのだ。
前に購入を申し込んだときには、1ヵ月ほど待たされたのちに廃盤という連絡が来て、かりんとうをやけ食いしたい気分になったものだが、このたび再発売されたようですぐに届いた。
今日は3枚のなかの2枚目のCDからピックアップ(1枚目は上述した2つのシンフォニーが収録されている)。
CD2に収められているのは、次の6曲。
「間奏曲(Intermezzo)」第1番イ長調(1896)
「間奏曲」第2番ト長調(1897)
「弦楽合奏のためのセレナード」ト短調(1891)
交響的絵画「ニンフ(Nymphs)」(1889)
序曲「ブイリーナ(Bylina)」(1892)
交響的絵画「西洋杉と棕櫚(しゅろ)(The Cedar and the Palm)」(1897-98)
2つの間奏曲の作曲時期は、交響曲第2番(1895-97)のそれと重なる。聴いてみると、この2曲は素材的に交響曲第2番の雰囲気に近く、第3の交響曲という印象さえ受ける(←完全にひいき目の発言)。
いいねぇ~。
「弦楽のためのセレナード」(1891)がまたすっっっっっごくいい!
この、ロシアろしあ露西亜した情感がたまらない。
これ、相当お薦め!埋もれた名曲。
この味わいはカリンニコフじゃなきゃ書けないんじゃない?っていう音楽。
また、序曲「ブイリーナ」は、曲の後半に登場するメロディーが1944年に制定されたアレクサンドル・アレクサンドロフ作曲のソヴィエト連邦国歌にそっくりだという。アレクサンドロフが盗作したのかどうか、それとも奇跡的な偶然なのかどうかは謎。
私はソヴィエト連邦国歌をよく知らないので、それ以上何とも言えないが……
今日話題にした(というほどでもないか)間奏曲2曲、セレナード、「ブイリーナ」はいずれも1989年録音。
メロディア。
さて、本日の記事が第2100回目である。
先日、ある施設を利用することがあったのだが(ニュー花嫁センターではない)、そこではモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の「フルートとハープのための協奏曲」ハ長調K.299(297c)(1778)の第2楽章が流れていた。
この観光物販施設-ということで、ですから、ニュー花嫁センターではない-、ちょっとでも太いダイコンを買おうとするおばちゃんたちがバトルを繰り広げるような喧騒とした場ではなく、ワインだのブランデーなんかを置いているところで、しかも人影まばらに由来する静寂な空間なため、BGMのこの曲が実に「マッチでぇ~すっ」だった。
あえて問題点を指摘するならば、エプロンをつけた売り子のおじさんが商品をちょっと見ただけでもすぐに寄って来てお勧めするってことで、これじゃうかつに品定めできないって感じだった。もっともはなから買う気はなかったけど(トイレを利用するのが主目的)。
だが、問題点はもう一つあった。
その優雅な第2楽章が、突然ブツッっと切れ、今度は同じくモーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ」ニ長調K.448(375a)が冒頭から始まったのだ。
いや、モーツァルトだということは、大変結構。
2台のピアノのためのソナタということも、ちょっとにぎやかだが、大いに結構。
だが、しっかしなんで途中でブツッと切れて、新たな曲がかかるのかって話だ。
ここのBGM放送システムは、いったいどのようなからくりになっているのだろう?
「2台のピアノのためのソナタ」ニ長調は、モーツァルトが完成した唯一の2台用のソナタ。1781年11月に完成し、同月にモーツァルトと、彼の弟子である女性ピアニスト、ヨゼファ・アウエルンハンマーとによって、彼女の家で開かれた演奏会で初演された。
楽譜の草稿に1784年と書かれているためにK.448という番号が付けられたのだったが、モーツァルトが父親に宛てて書いた手紙の内容から、その後、1781年の作と考えられるようになった。そのためケッヘルによる作品目録の第6版では375aの番号が付けられている。
モーツァルトはアウエルンハンマーの才能を高く評価していたものの、女性としては嫌っていたようで、手紙には“デブで、汗っかきで、吐き気をもよおすほど”とまで書いている。それはモーツァルトに好意を寄せた彼女が、しつこく言い寄ったせいもあるようだ。
そしてまた、彼女と弾くために書かれたこの曲を、モーツァルトが連弾(4手)のソナタとせずに2台のピアノ用にしたのは、並んで座って弾くのを避けるためだったのでは、という憶測もある。
なお、この曲は“のだめカンタービレ”の中で千秋とのだめが共演し、有名になった。
オールトとデュチュラーのフォルテピアノによる演奏を。
2001録音。ブリリアント・クラシックス。
また、「フルートとハープのための協奏曲」では、アバドが指揮した演奏を。
アバドがこの曲を振った演奏としては、前に1996年録音のEMI盤を紹介したが、今日はズーンのフルート、ベルモンドのハープ、オケはモーツァルト管弦楽団による2008年のものを。
ただでさえ爽やかなこの曲が、アクアフレッシュのごとく新鮮かつ爽快に奏でられる。
2008録音。グラモフォン。
先日街を歩いていたら、こんな看板を見かけた。
“花嫁センター”である。しかも“ニュー”である。
花嫁が、あるいは花嫁になりたがっている人が集結しているのかと思って窓を何気なくのぞいてみたが、すっかり空き室になっていた。移転したようなことが書かれた張り紙があったが、花嫁集団はどこへ行ったんだろう。花嫁を“卸して”くれるなんて画期的だと思うのに。
……って、信じられちゃ困るから言うけど、たぶんこれ、花嫁衣裳を扱っていたところのようだ。
ところで、花嫁やら彼女を見つけるにあたってのアドバイスが書かれたメールが届いた。
仲良くなったら、立て続けに女性にメールを送れば喜ばれます。
こんにちは。恋愛アドバイザーの加藤です。
女性と仲良くなる前に「嫌われていないだろうか?」とメールを連射すると女性から嫌われます。
しかし・・・一旦仲良くなってしまえば女性はあなたがメールを来るのを、首を長くして待ってしまいます。
http://mjgghm.com/7qn/1f4ag.php?ny=***************
女性なんて、あなたが考えるほど難しい生き物ではありません。実に単純な生き物です。
ただ、ちょっだけ・・・男性と違う部分があります。
そこさえ知れば、女性をメールだけで落とすなんて簡単なんです。
『メールの魔術師』
発行元:若竹俊吾
送信させていただいたメール内容は情報提供企業の広告情報です。
当情報は全ての読者に結果を保証するものではありません。
購入でのトラブル・E-BOOKS 内容についてのサポートは致しかねますのでご了承願います。
今後メールが不要の方は
『配信解除』と本文1行目に書いて返信してください!
“メールの魔術師”ねぇ……。このメールを読む限りでは、たいして魔術的なものは感じられないけど。
で、これらの件と関係あるようでないのだが、スメタナ(Bedrich Smetana 1824-84 チェコ)の歌劇「2人のやもめ(Dve vdovy)」(1873-74/最終版'77。初演1874(最終版'78))。
P.J.F.マルフィーユの喜劇によりE.ツュンゲルが台本を書いた2幕のオペラだが、今日ではほとんど上演されることがないようである。
ここでは、オペラの序曲とポルカを。
「売られた花嫁」ほどではないが、こちらの序曲もなかなか軽快で楽しいもの。ポルカも良い曲だ。
ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団の演奏を。
1994録音。デッカ。
やもめで思い出したが、先日ある店の鮮魚コーナーで“かもめちくわ”を見かけた。
“かもめちくわ”……札幌ドームの外野スタンドのフェンスの広告を目にするまでは、まったく知らなかった商品だ。
それはとっても美味しそうで、とても質が良さそうだった。
でも、ふつうのちくわに比べると少々お高かったので、そのときは涙、いや、唾をのんでガマンした。
お盆までの目標に、「“かもめちくわ”を買って食べる」を掲げることにする。←ちっちゃい男……
先週は月曜日が祝日だったために、出勤しなければならない日は火曜日から金曜日までの4日間だけだった。
なのに、ひどく疲れた。
どうしてなんだろう?
火曜日の昼は担々麺を食べたかったのに店が休みで、別な店でチキンカツ定食を食べる羽目になった。
水曜日の昼は、前日の痛手から外へ出張る意欲がわかず、ビル内の食堂でカレーライスを食べたが、いつになく肉が少なかった。意地悪されたようでちょっと悲しい気分になった。
木曜日の昼はデパ地下で弁当を品定め。その結果「これだ!」とインスピレーションを得て買ったハンバーグ弁当が、味は今一つだし、ご飯がメッコごはんぽくて、それはそれはたいそう胃に悪そうな代物だった。
金曜日は、珍しいことになんとなく朝からおなかがニヤニヤと痛くて、また地下の食堂に行き、かしわそばにした。そばは消化に良くないとはいうが、それはうどんと比較したらということであって、カツカレーよりは消化に良いだろうから、そのような視点からかしわそばにしたのだった。が、週末のせいか、連日煮込まれ繰り越し在庫となっていた鶏肉が、かなり本格的にしょっぱくて、おいおい、これじゃ1月6日ころの雑煮の残り汁の中の鶏肉みたいだわい、と残念に思った。
にしても、腹痛が起こると私は尿路結石ではないかと戦々恐々とする。今回はおなかが下っていたので、「あぁ、よかった。きっと石じゃない」と、不幸の中で幸福を感じた。
そんなストレスが重なって、ひどく長い4日間に感じたのだろう。企業戦士、お疲れモードって感じである。いや、自称です、企業戦士……
だが、貴重でうれしい体験をすることもできた。
木曜日の夕方に、取引先と打合せするために十勝北部のある町に出向いたのだが、先方が「たまには夕食でも」と、街にあるお寿司屋さんに連れて行ってくれたのだ。そのお寿司屋さん、ミシュランガイドの北海道版に載っているお店で、実際、たいへん美味しかった(翌日私が腹痛になったこととは、まったく因果関係はない。同行した他の2人はまったく問題なかったから)。
ここのお店の特徴は、北海道ではあまり供されないコハダなど江戸前寿司のようなネタも加わっていること。ご存知のように、寿司はそこそこ好きだが、刺身は苦手な私。そんな私でも、刺身は美味しくいただいたし、寿司もけっこう頬張った(が、血中尿酸値の上昇を回避するため、これまた珍しいアンキモの握りはパスした。アンキモ、もともとけっこう苦手だし)。あっ、あの原因はもしかして食べ過ぎ……?
他人様が食べる料理の写真なんて見たくないだろうが、ご覧あそばせ。ちなみにこれ、6人前。なぜ6人前かというと、6人で行ったからである。えっ?店の名前?“みどり鮨”である。
さて、先週は車を車検に出した。
平成14年車で、走行距離9万9000km。
予想通りかかった。費用が。
タイミングベルト交換を筆頭に、いくつかのベルト類交換。ブーツ1箇所交換、各種パッキン交換ってことで、
でも、いつタイミングベルトが切れてしまうかという不安から解放されたことは、精神衛生上極めて重要なことだ。
土曜日には大野農園に行ってきた。
今年はぜひとも購入したいと思っていた“レディ・エマ・ハミルトン”は春先に行ったときにはすでに品切れ。
今回は前から気になっていた“ゴールデン・ウィングス”を購入。予想してなかったが、時期的にすでに2割引きになっていて、すっごく儲けた気分になる。
店の人曰く、“レディ・エマ・ハミルトン”は5月の開店早々売り切れたそうだ。理由はわからないが、今年は黄色~オレンジ系のバラが人気だったそう。私は来春の予約をこの場でしてきた。
さて月曜日である。多くの方が先週よりは1日多く働かなければならないだろう。
なんか元気が出そうな曲にしよう。
珍しくワーグナー(Richard Wagner 1813-83 ドイツ)を選択。
楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー(Die Meistersinger von Nurnberg)」(1862-67/1868初演)の第1幕前奏曲。
けっこう有名な曲だ。なんかしらんけど、豪華で威勢が良くて、バブリーさが漂う曲だ。マイスタージンガーは名歌手という意味。
ワーグナーは今年200歳。いや、生誕200年だが、その後世の中はどう今年を祝おうとしているのだろう?
「ニユルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲は、私にとって初ワーグナーとなった曲。
最初に聴いたときからとても気に入ったが、にもかかわらず、私がその後ワーグナーへの道に進まなかったのは、おそらくは鑑賞環境による。
エアチェックでクラシック音楽の鑑賞レパートリーを広げていた私にとって、ワーグナーの長大なオペラや楽劇に親しむということは困難だった。年末のバイロイト音楽祭を録音する気力も、カセットテープを大量に買い込む経済力もなかったし……
コンヴィチュニー/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で。
1960録音。スプラフォン。
古い録音だが、巨匠コンヴィチュニーの演奏はまったく色あせていない。官能的だ。まっ、ワーグナーってもともと官能的な音楽なわけで、そこいらはこの演奏はバッチリ。
1962年に亡くなったコンヴィチュニーのことは、当然私はリアルタイムで知らない指揮者だ。まったく同時代の人ではないが、昔エアチェックしたベートーヴェンの「レオノーレ」の序曲第1番をずいぶん聴き返した経験があって、なんだか身近に感じる指揮者だ。名前だけは。
古き良き時代みたいな雰囲気のある、温かな血が通った音づくりだ(CDジャケットの写真はコンヴィチュニーではなくマタチッチだアッチッチ!)。
ところでお詫びと訂正。
一週間前の7月15日の記事で、私がかつて岩城宏之の指揮でヴェーベルンが編曲したバッハの「6声のリチェルカーレ」を聴いたことがあると書いた。
記憶違いだった。
それはパスカル編の「フーガの技法」だった。
すまない。みなさんには多大なるご迷惑はかけていないだろうが、誠実な私としては一言お詫び申し上げる次第である。
- 今日:
- 昨日:
- 累計:
- 12音音楽
- J.S.バッハ
- JR・鉄道
- お出かけ・旅行
- オルガン曲
- オーディオ
- ガーデニング
- コンビニ弁当・実用系弁当
- サボテン・多肉植物・観葉植物
- シュニトケ
- ショスタコーヴィチ
- スパムメール
- セミ・クラシック
- タウンウォッチ
- チェンバロ曲
- チャイコフスキー
- ノスタルジー
- バラ
- バルトーク
- バレエ音楽・劇付随音楽・舞台音楽
- バロック
- パソコン・インターネット
- ピアノ協奏作品
- ピアノ曲
- ブラームス
- プロコフィエフ
- ベルリオーズ
- マスコミ・メディア
- マーラー
- モーツァルト
- ラーメン
- ルネサンス音楽
- ロマン派・ロマン主義
- ヴァイオリン作品
- ヴァイオリン協奏作品
- 三浦綾子
- 世の中の出来事
- 交響詩
- 伊福部昭
- 健康・医療・病気
- 公共交通
- 出張・旅行・お出かけ
- 北海道
- 北海道新聞
- 印象主義
- 原始主義
- 古典派・古典主義
- 合唱曲
- 吉松隆
- 名古屋・東海・中部
- 吹奏楽
- 周りの人々
- 国民楽派・民族主義
- 声楽曲
- 変奏曲
- 多様式主義
- 大阪・関西
- 宗教音楽
- 宣伝・広告
- 室内楽曲
- 害虫・害獣
- 家電製品
- 広告・宣伝
- 弦楽合奏曲
- 手料理
- 料理・飲食・食材・惣菜
- 映画音楽
- 暮しの情景(日常)
- 本・雑誌
- 札幌
- 札幌交響楽団
- 村上春樹
- 歌劇・楽劇
- 歌曲
- 民謡・伝承曲
- 江別
- 浅田次郎
- 演奏会用序曲
- 特撮映画音楽
- 現代音楽・前衛音楽
- 空虚記事(実質休載)
- 組曲
- 編曲作品
- 美しくない日本
- 舞踏音楽(ワルツ他)
- 行進曲
- 西欧派・折衷派
- 邦人作品
- 音楽作品整理番号
- 音楽史
- 駅弁・空弁
© 2007 「読後充実度 84ppm のお話」