読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

September 2013

考えつく場所が同じなのは社の風土?石井眞木/遭遇Ⅱ

cd002541.jpg  先日のこと。
 仕事が終わって帰り支度をしていると、A課の係長がやってきて「今日、夜は何か予定がありますか?よろしかったらちょっと飲みに行きませんか?」と誘ってくれた。

 ありがたい話である。
 夕方にわざわざやって来て「あんたのことなんか嫌いだから、誘ってやんないよ」と言われることを考えたら、私はなんて幸せなんだろうかと思う。

 ところがである。
 あいにくその日私はB課とお酒を飲むことになっていたのである。

 「ありがとう。でもごめん、申し訳ない、ソーリー・マッチ。今日は別件があるんだ。でも、股の機械に、あっ、いやいや、失礼失礼、またの機会にぜひぜひぜひ声をかけていただければジョイフルAK」
 こう私は答えた。

 そのあと私はB課の人びとと某大手居酒屋チェーン店に行ったが、始まって1時間ほどしてお小水のためにトイレに行くと、そこでA課の係長と遭遇した。

 「あれっ?ここでやってたの?」と、すき間なく便器に張り付いて股の機械が粗相をしないように注意しながらも、失礼のないように顔はしっかりと相手に向けて話す私。
 「そうなんです。いやぁ、奇遇ですね」と、彼もまた礼儀正しく、“一歩前へ”の張り紙に忠実に便器に張り付きながらも、首は87度こちらに向けて答える。

 そして、手はつながないまでも、仲良くトイレを出て部屋に戻ろうとすると、なんとB課の部屋は私たちの隣。可動式の壁を取っ払えば合同夕食会ができるという状態だった。

 石井眞木(Ishii Maki 1936-2003)の「遭遇Ⅱ(Sogu Ⅱ)」(1971)。雅楽とオーケストラのための作品である。

 私はそう多くの石井作品を聴いてきたわけではないが、「」や「曙光」(この作品は札響が初演した)など、知っている作品はいずれも印象深い。

 この「遭遇Ⅱ」は1971年に日本フィルの委嘱作品シリーズの第23作目として作曲されたが、この作品自体のスコアは存在しないという。

 というのも、1970年作曲の雅楽のための室内楽曲「紫響(Shikyo)」Op.19aと1971年作曲のオーケストラ曲「ディポール(Dipol)」Op.19b。この2曲を同時に演奏すると「遭遇Ⅱ」になるのである。

 ということは、その遭遇のさせ方は指揮者次第ということになる。
 サイコロステーキやらクリームコロッケなどを食べいたA課。刺身盛り合わせやホッケの開きがテーブルに並んでいたB課。もし、ここでパーテーションをはずすと、あらあら洋と和の遭遇!
 つまりはそういう曲だ。

 真面目な話に戻ると、CDの解説で武田明倫氏は、ここで“遭遇”するのはもちろん東の雅楽と西のオーケストラであることだが、さらに「東西の『音楽時間』であるように思われる。具体的にいえばテンポであり、リズムである。すなわち、定量的で確定的に示される西洋の音楽時間と、そのような伝統は弱く、むしろ『間』とか『呼吸』などと一見あいまいな呼び方をされながら、絶妙な続と律動を生み出す日本の音楽時間」だと書いている。

 渡邉暁雄指揮日本フィルハーモニー交響楽団、東京楽所(雅楽)の演奏で。
 1981録音。ライヴ。タワーレコード ビクター ヘリテージ・コレクション。

 さて、今日は午後に行きつけの病院に行って来る。いつもの検診のほか、先日起こった脈とび現象について切々と訴えてくる。が、こういう時に限っていたって正確な脈打ちになっているようで心配である。

 そうそう、昨日手稲山の平和の滝登山道をクマが横切っているのを登山者が発見。登山道を立入禁止にしたそうだ。
 やっぱりあのとき、一歩間違えば私もクマさんに遭遇し、食料在庫になるところだった。
 怖いわぁ~。

3時のおやつは…本日はそば饅頭♪ボンテンポ/レクイエム

 あなたは“ポルトガル”というと、何を想像するでしょうか?

 ザビエル?
 わかります、わかります。ニッポンでは最も有名なポルトガル人かもしれません。ああいう髪型のおじさんもしばしば街なかで見かけます。彼のファッションが21世紀のおじさんたちにいまだに影響を与え続けていることは驚くべきことです。

 かすていら?
 わかります、わかります。カステラといえば昔は高級菓子でしたね。いえ、いまでも由緒ある店のカステラはお高いです。パン売り場に置かれているフランクフルトを一回り大きくしたようなパサつき感まんてんのものから、ここまで黄色いかというくらいまばゆい色彩を放っている、しかも木箱に入っているものまで、カステラの貧富の差の広さには驚かされます。さすが南蛮菓子をルーツにして器用なニッポン人が生み出しただけあります。

 種子島?
 いえいえ、種子島はニッポンの島です。あなたがおっしゃりたいのは種子島に伝わった鉄砲のことですね。キリスト教もポルトガルから伝わったし、ボタンもそうです。タバコもそうです。
 私もポルトガルの人のおかげで、タバコでストレスを鎮めることができるってわけなんです。

b91cb67b.jpg  でも私はそのどれでもありません。
 “ポルトガル”と聴いて私がすぐに思い浮かべるのはボンテンポです。
 いえ、ウソです。
 そんなに思い浮かびません、この人のことは。

 ♪

 ポルトガルの作曲家ってあまりいないように思うが、ボンテンポ(Joao Domingos Bomtempo 1775-1842)はポルトガルの作曲家。
 「カモンイスを偲ぶレクイエム(Requiem a la memoire de Camoes)」ハ短調Op.23(1819)。

 そもそもこの人、「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)にもその名が載っていない。
 私としても、この人のことはほとんど何も知らないし、カモンイスという、アメリカ人が椅子に向かって命令するかのような語句がどういう意味なのかさっぱりわからない。

 このレクイエムは作曲者がパリ滞在中に書いたという。ちなみに1819年といえば、ベートーヴェンがミサ・ソレムニスに着手した年である。

 特に斬新な特徴がある曲ではないが、けっこう感じの良いメロディーと暖色系の美しい響きが心地よい。

 コルボ指揮グルベンキアン財団管弦楽団、同合唱団ほかの演奏のCDを。
 1994録音。ヴァージン・クラシックス。

 さて、カステラとはまったく関係なく、今日はそば祭りに行って来る。
 午後は札幌へ移動だ。

 結局、バスはキャンセル(午後は上下線とも残数ゼロになっていた。私のキャンセルによって1人救われたことだろう)、JRを信じることにした。

混乱を招いた?ごめん、テキトーに綴って♪WAM/Sym26

69ce410d.jpg  月~火にかけて札幌に出張する。
 が、向こうへの移動は明日の夕方にしようと考えている。

 そこで私は今、悩んでいる。

 JRにするか、バスを使うか、だ。

 両方の予約をしているが、バスはご存知のとおりのJRの一連の事故、不祥事、適当さのために利用者が急増。私がとったバスも現時点での残席が1。

 いくら3列シートとはいえ、満席のバスは窮屈だ。しかもJR所要時間2時間40分に対して3時間30分かかる。バスの良い点は価格が安いことで、JRの通常料金のほぼ半額。特割切符に比べても3000円ほど安い。
 貧乏人ではあるが、でもやっぱりJRの方を選択したい私。トイレにも行きやすいし。

 特別保安検査がこれだけやられている最中に、大きな事故はないと思うが、とはいえ、運行の確実性が相当失われている中、JRを選択するのは一種の賭けだ。
 高くても速いJRを選んできた私としては、今、本当に悩んでいる。

 そのJR、11月のダイヤ改正でスピードダウンによる安全の強化を図るという。札幌⇔釧路で最大で40分遅くなるそうだ。
 安全第一なのは最も重要なことに違いないが、これはひどい後退現象だ。

 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の交響曲第26番変ホ長調K.184(161a)(1773)。
 多くの方がご存知の「小ト短調」と呼ばれる交響曲第25番で、モーツァルトの交響曲は驚くほどの発展と充実ぶりを示したが、26番はまさに後退したかのようだ。

 しかし、実は交響曲第26番は第25番の次に書かれたのではないのだ。これであなたも納得の笑顔!

 1773年にモーツァルトは、なんとまぁ、6曲の交響曲を書いている。その作曲順序ならびに完成時期は、

 第26番変ホ長調K.184(161a) 3月30日
 第27番ト長調K.199(161b) 4月10日~16日
 第22番ハ長調K.162 4月19日?
 第23番ニ長調K.181(162b) 5月19日
 第24番変ロ長調K.182(173dA) 10月3日
 第25番ト短調K.183(173dB) 

である。
 つまりあの孤立した傑作といえる第25番はこれらのグループの最後に書かれているのである。
 なお、第23番と第24番の間の時期に、モーツァルトはウィーン旅行に出ているし、第26番の作曲前の3月13日にイタリア旅行からザルツブルクへ帰って来ている。
 第26番から第23番までがイタリア風序曲によるシンフォニアの影響を引きずっているのはそのためである。

 ところで、なぜ番号付けが実際の作曲順と異なったのか。
 これら6曲と翌年に書かれた3曲(作曲順では第29番、第30番、第28番)の自筆譜が合本として残っているのだが、そのなかの順序が現行の番号付の順序だったのだ。

 ケッヘルもそれが年代順に綴られていると判断し、その順でケッヘル番号を付けたのだが、その後の研究で作曲順が判明し、ケッヘルもカッコ内に示した改訂第6版では作曲順の番号を付け直している。

 交響曲第26番は3つの楽章からなるものの切れ目なく続けて演奏される。
 この曲は、その後プリューミッケという人の戯曲「ラナッサ」の序曲として使われた。モーツァルトの同意のもとと思われる。

 第3楽章の伸びやかさが私には特に印象深いが、モーツァルト研究で有名な音楽学者のA.アインシュタインはこの楽章を“少し軽い”と指摘しているようだ。

 可もなく不可もなくという感じではあるが、マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団の演奏を。
 1987録音。EMI。
 
 このディスクには第24番~27番と第32番が収められているが、特に第25番を聴いていると“可もなく不可もなく”に聴こえてしまうのである。

 映画「アマデウス」の冒頭は交響曲第25番で始まるが、その演奏はマリナーによるもの。映画が作られたのは1984年のことなので、このディスクの演奏はその後に録音したものということになるが、映画の内容のように刺激的に25番をやって欲しかったものだ。
 マリナーの演奏は、その安定感がウリなんだろうけど。

 さて、今回レール幅がきちんと保守されていなかったことが判明したJR北海道。
 運転士だって、まさか自分がいつ脱輪するかわからない股開きのようなレール(プラレールなら絶対そんなことにはならない)の上を走っていたなんて、思ってなかったろう。

 じゃあ、問題が解決したから減速ダイヤは回避できるんじゃないかと一瞬思ったが、そっか、そもそもは火災が起きたのなんだのっていうのが始まりだった。やれやれだ。

 どうでもいいけど、JRの社員にだってドラマ「半沢直樹」を楽しみにしていた人は多いんだろうけど、最終回の時は自分の会社がこんなことになってそれどころじゃなかったろうな。
 金融庁検査ならぬ特別保安監査……

 とにかく、高速かつ安全なダイヤを目指してほしい。

やはりショルティには脱力感など無縁♪DSch/Sym8

67b44ce1.jpg  私がいちばん好きな指揮者はショルティである。たぶん。

 ショルティによってマーラーのすばらしさを知り、またデッカ(当時の日本でのレーベルはLONDON)のすさまじい音に魅了された。だから、可能ならば-経済的に余裕があってそのLPが買えるなら-ショルティのものを選んだものだ。

 が、私はこれまた大好きな作曲家であるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)をショルティが演奏したものはといえば、じぇじぇ、これまで聴いたことがなかった。いやいや、避けていたのではなく、そういうタイミングを失っていただけ。だって、避ける理由なんてないもの。

 そもそもショルティがショスタコを録音し始めたのは1990年に近くなってから。で、LP時代には彼のショスタコは存在していなかったし、CD時代になってもどーもショルティとショスタコが結びつかなかった。
 そんなわけで、運命のいたずらでこれまで疎遠だった。

 最近になってようやっとショスタコ by ショルティを聴いた。

 今日はショルティにとって初のショスタコ録音となった交響曲第8番ハ短調Op.65(1943)。

 さすがショルティ!そしてシカゴ響!加えてデッカ!
 ライヴ録音なのに完璧なまでのアンサンブル。そして、硬質な爆発的演奏だ。
 超名演奏、名録音といって間違いない。

 この曲には2つの演奏パターンがある。
 「ショスタコは深刻な顔とは裏腹に本当は腹の中で下を出してるんだもんね」という脱力タイプ。
 コフマンペトレンコインバルヤンソンスなんかのアプローチがこれ。アシュケナージも多分そう。なんか中途半端だけど。

 その反対は、自虐的爆発タイプ、もしくは純粋炸裂タイプ。
 ムラヴィンスキーヤルヴィプレヴィンなんかがそう。

 もちろんショルティはショスタコが描いたオーケストレーションをめいっぱい鳴り響かせる純粋炸裂タイプ。それでも、ロシアのオーケストラがしばしば陥ってしまうような、混濁した絶叫はない。そこは見事。

 さらに、これまたショルティの良いところでもあるのだが、体操部員を鍛え統率する監督のように実に合理的機能的機械的。監督じゃなくてトレーニング・マシーンそのものかも。
 そこから生み出される機能美!そして音に酔える!

 だからここには皮肉、嘲笑はない。ショスタコのポートレートに見られる、眼鏡の奥から厳しくこちらを見ているAB型人間のまなざしようにクールだ(ショスタコの血液型がなんだったかは知らないけど)。

 いずれにしろこれほどまでの演奏はそうそうないのは間違いない。
 作曲の背景?スターリン?当時の政治の状況?
 そんなのしちめんどくさい。鼓膜がビンビンする大音響から、うぶ毛がかすかに動くほどのフルートのフラッター・タンギングまで堪能したい。そういう方には、この演奏ほどしっくりいくものはないだろう。

 そしてまた、これが感動をもたらすということは、ソヴィエトのめちゃくちゃな時代に翻弄され、そして巧みにそれを欺いたショスタコの姿を知らずとも、つまり純粋な交響曲として聴いてもまったく問題のない傑作であることの証明でもあろう。
 
 1989録音。ライヴ。デッカ(TOWER RECORDS VINTAGE COLLECTION No.10)。

若きペライアの演奏に涙した私♪ペライアのWAM/p協24

50a7e4e4.jpg  ネゼ=セガンの「春の祭典」。
 すっかりとりこになってしまって、飽きもせずここ数日何回も繰り返して聴いてしまった。

 少し心を穏やかにさせなくては。
 となれば、アマデウスだろう。

 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)のピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491(1756)。

 心に平安をってときに、なにもモーツァルトのピアノ・コンチェルトのなかでも最も特異な、息詰まるような作品を聴かなくてもいいだろうに、と思う方も多いだろうが、かといって、ハルサイで高ぶった気持ちのあとにあまりに健康的で天真爛漫な曲を聴いても、しっくりこないものだ。カツカレーを食べた後に、果たしてあなたはチロルチョコを食べたくなるだろうか?えっ?なる?そうですか……、……、……そうですか。

 実は第24番のコンチェルトは、モーツァルトのピアノ協奏曲の中で私がはじめてきちんと知った曲なのだ。中村紘子の独奏によるNHK響の演奏。それをエアチェックしたものを何度も聴いた。

 今日は総じて評価が高いペライアが弾き振りをした演奏を(管弦楽はイギリス室内管弦楽団)。

9094ff27.jpg  ただでさえ渋い曲なのに、このペライアの演奏は激しさに満ちた熱のこもった演奏だ。
 ペライアのモーツァルトは清潔感が漂う、繊細な傾向のあるものだが、この24番はけっこう骨太な面もある。ただ、この曲を優しげにやられると私としてはつまんないわけで、やるせない感情を吐露ようなこの表現は好きである。
 「ぼく、悲しいの、つらいの、めそめそ」というのが好きな人には、ということで、ちょいと不向きかも。「なーに、この子。きっかなくて生意気ねぇ」みたいに。

 私はペライアが札響定期のステージに現われこの曲を弾いたのを聴いている。
 1976年のことだ。
 そのときのプロフィールには、“CBSレコードの専属となり日本でも録音を通してファンが激増。今回が初来日で札響とも初共演である”と書かれている。

 今日紹介している録音は1975年。
 つまり、CBS(ソニー)からのLPが発売され、それを引っさげて来日公演に臨んだわけだ。

 でも、そんなに印象に残っていない。
 演奏中に涙が出たけど、それはあくびのせいだ。
 演奏が良くなかったのか?
 いや、まだ子どもだったのね、ボク。

秋のさなか、超すげー“春”に萌える♪N-セガンの「春の祭典」

3d443684.jpg  とにかくすばらしい「春の祭典」だ。

 “オータム・フェスタ”だの“さんま祭り”などが開催されている今は、もう秋。
 そして、これから厳しい冬を受け入れなきゃならないというのに、私はこの「春の祭典」で萌えに萌えて、燃えてしまっている。

 ネゼ=セガン指揮フィラデルルフィア管弦楽団によるストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882-1971 ロシア→アメリカ)のバレエ「春の祭典(Le sacre du printemps)。1947年版。

 ほら、そこのお嬢さん、プランタン銀座でショッピングする前に、銀座山野楽器に行ってこれを買うべきです。私はそれを損得勘定なしに勧めます。
 プランタン銀座付近に行く用のない方には、損得勘定見え見えで下のリンクからの購入を強力にお勧めします。

 何て言っていいのかわからないくらい、私はこの演奏にすっかり魅了されてしまっている。
 これを聴くと、ラトルやインバルやブーレーズなんかの知的財産的洗練演奏には戻りたくなくなってしまう。

 メロディーの歌いまわし、リズムの取り方、メリハリのつけ方……いちいち私の気に入ってしまう。蛮性と知性の混合割合が絶妙なのだろう。もう、アタシ、生贄になってもいい……

 冒頭の妖艶ともいえるファゴットの音からして、おいおいたまんねぇよ、である。
 野蛮を超えた強烈な差し込むようなリズムにゾクゾク。

 音がまたヤバイほど良くて、大太鼓の部屋を揺るがすような音に、私の心臓も打ち震える。
 先日不整脈っぽい症状が出て、河原で石を積む自分の姿を想像したばかりだが、こんな振動をモロに受けた日にゃ、またまた心臓の鼓動が乱されそうだ。

 いや、ズヴォォォォォォ~ンという大太鼓の音も、ブロック崩しゲームの球のごとく床、壁、天井にぶつかって跳ね返りまくるようなティンパニの音も、ほっぺたの肉をぶるぶるさせるような低弦の響きも(おかげでしわが増えそう)、そしてシンクの中に置かれた皿の中にたまった水に波紋を起こさせる金管の咆哮も(洗い物はためずにすぐ洗おう)、絶叫鳥類のような木管の音も、すべてが私の生体リズムを揺るがす。
 そうだ、心臓に悪いのではなく、これは電気ショック以上の刺激型音楽療法だ。そう考えると不安も和らぐ。

 そして、こんな理屈をこねてる間もなく、いつの間にか私の手足は音楽に合わせてカワウソ踊りしちゃってる。

 ひどく激しいのに、でも「とっても大きな音ですことね。」なんて低次元で終わっていない。ここには高い音楽性がある。交換したてのカッターの刃のような切れ味もある。

 いや、まいったね。
 何度でも聴きたい演奏だ。
 ほんと、まいった。

 いやぁ、もうダメ。
 音圧と共感で息苦しくなってきた。
 だから、あなたも実際に聴いてみて。
 近年まれにみるほどのMUUSAN大推薦盤!
 これはぜひとも、スピーカーから音を出して聴きたいCDだ。近所には迷惑かもしれないが。

 2013録音。グラモフォン。

 カップリングのバッハのオルガン作品をストコフスキーが編曲したものについては、また別な機会に取り上げたいと思う。

 えぇい、チクショー!
 この勢いで冬に立ち向かってやる。
 次の春まで、あとたった半年じゃないか!

これは編曲じゃなく作曲です!でも、今は編曲版のみ♪伊福部/プロメテの火(2p版)

10402bb1.jpg  いやぁ、これは何としてもオリジナルの管弦楽で聴いてみたい……

 伊福部昭(Ifukube Akira 1914-2006 釧路)のバレエ「プロメテの火(Fire of Prometheus)」(1950)のことである。
 2台のピアノのためのリダクション版を耳にするたびにその念を禁じえない。

 ギリシャ神話によるこの作品は、1950年12月11日に帝劇で初演された。上田仁指揮の東響の演奏。バレエの振付は江口隆哉。
 伊福部と江口は「イコザイダー」を皮切りに、この「プロメテの火」、「日本の太鼓」と創作活動を行なった。

 このバレエはかなりの人気を博したようで、川端康成が小説「舞姫」のなかで、このバレエを観る客の会話を書いているという。

 相良侑亮編「伊福部昭の宇宙」(音楽之友社)のなかでは、当時の朝日新聞の天声人語に書かれた文を紹介している。

 プロメテが一茎の枯れアシで太陽の火を盗んで人間に与える。暗黒の中にうごめく人間の群舞は地獄編の場面を思わせたが、火を得た数十人の男女がともしびを明滅させながら歓喜の絶頂へと高潮する群舞には日本の盆踊りの調子を緩急さまざまに採り入れていた。群衆が長い髪の毛をリズミカルに振り回す所作には“鏡獅子”の典型美を群舞に応用して野性の美を表現しようとしていたし、オーケストラの編曲にも日本の村落民謡の味を出していた。松明をかざして踊る江口氏のプロメテのどこかには「能」の舞いにある面(おもて)を切る古典美を生かそうと試みていたのも見逃せなかった。

 ここで大間違いなのは、編曲ではなく“作曲”であるということ。
 にしても“群舞“という言葉が何度も出てくる。ぐんぶときたら、軍部と郡部は思い浮かぶが、群舞はなかなかねぇ。

 2管編成のために書かれたオーケストラ版の楽譜は紛失しており、もはや管弦楽版でこの曲を聴くことは(発見されない限り)不可能。

 この2p版は、オーケストラ版の完成と時を同じくして作られている。オーケストラを用意できない地方でのバレエ公演のためにである。

 この2pリダクション版を聴いていても、すごい曲だ。
 駅歳ちんぐ!
 おや?
 違う。
 エキサイティング!

 ピアノ版でさえこうなら、オケ版はいったいどんなことに?と想像してしまう。

 山田令子とゴードンのピアノ演奏。
 2010録音。RAISON。

「倍返し」と言えない私のじぇじぇ的代替手段♪ネゼ=セガンの「幻想」

6a4bbd6b.jpg  今朝になって、これからの日々、生きて行く希望を見失っている人も多いのではないだろうか?

 ドラマ「半沢直樹」が終わってしまったからだ。

 ふだんテレビドラマなど観ない私も、これは楽しみにしていた。この3話ほど。
 というのも、3話前まで観ていなかったからだ。たまたま3話前に観たら面白かったのでその後観続けてしまった。だから、世界陸上の中継でドラマだ休みになってひんしゅくを買ったなどということは、後から知った。

 「やられたらやり返す。倍返しだ!」なんて、実際の仕事でそんなこと言ったもんならとんでもないことになる。
 そこで私は考えた。自分が社会で実践できることを。

 「倍返しだ!」ではなく、「ババ返しだ!」と言って、トランプのジョーカーを差し出してはいかがだろう?
 憎き相手は「じぇじぇ!」と驚くにちがいない。

 よし、トランプを買ってこよう。
 ジョーカーだけ単品で販売されていないのが残念だ。だから実行に移した際は、その札を回収しなければならないのが、ちょっとカッコ悪い。

 「ババ返しだ!」で本気で相手がむっとしたら、「今度ぜひご一緒にババ抜きをしましょう。私は弱いですよ」とごまかそう。

 そうそう、「あまちゃん」も今週で終りだ。
 両方を観ていた人にとっては痛手が倍だろう。
 心よりご同情申し上げる。

 倍返しどころか、愛が憎しみに変わったために相手の女性を魔女に仕立てて、自分の失恋話を堂々と音楽にしたとんでもない露出狂野郎はベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)。ご存じのとおり、その曲は「幻想交響曲(Symphonie fantastique)」Op.14。

 今日は最近リリースされた、若手のホープであるネゼ=セガンが指揮した演奏を。オーケストラはロッテルダム・フィル。

 ガンガンやってくるかと思ったら、実に精密な演奏。というか、あまり物語(標題)にとらわれず純音楽的なアプローチだ。
 その点では意外に感じる人もいるだろ。私も彼のブルックナーを聴いたときとはちょっと違う印象を受けた。

 ここにあるのは病的で狂信的なベルリオーズの姿ではなく、良い人になってしまったベルリオーズである。その点、第2楽章や第3楽章の方が、私にはうまくいってると感じた。まさにロマン派の交響曲の仕上がり。この曲には珍しく、「あっ、この曲フランスの音楽だったんだ」とも気づかされる雰囲気もたたえている。。
 第4楽章や第5楽章も音量は十分だが、下品にならない。愛が憎しみに変わり彼女を魔女に仕立てたものの、やっぱりそこまでひどくは描けないって感じだ。
 表面的には物足りないような印象だが、聴けば聴くほど味が出るスルメのような深い演奏である。

3e28bffe.jpg  第1楽章と第4楽章のリピートあり。第2楽章のコルネットの助奏なし。

 2010録音。BIS(SACD)。

 さて、この連休は晴れが続いたので、バラの手入れをすることができた。
 特に数か月ぶりに薬を散布できたのは、私には大いなる喜びである。
 実際、葉は病気で汚くなっていたし、オレンジと黒の毛虫や緑色の奇怪なイモムシに食われているものがたくさんあった。
 今回はオルトランとサプロールの混合液を散布。
 もう、咲いている花もまばらだが、今回いちばん華やかだったのはスウィート・メリナだった。

 なお、今年のプルーンの収穫はゼロ(!)。ブルーベリーは4粒と悲惨だった。

 脈については、昨日は異常を感じなかった。

書いていたらちょっぴりピザが食べたい気分に♪ピッツェッティ/レクイエム

dd25d8e9.jpg  前にイングリッシュ・ローズの“ティージング・ジョージア”を移植したことを書いた。

 カーポートの建て替えに伴い、移し替えなければならなくなったのだが、かなり根が深くまで張っていたものの場所的に深く掘り下げることができず、かなり根を切断せざるを得なかった。加えて移植には不向きの時期だった。

 移植後元気がなかったが、やっぱりだめだったようだ。
 残念なことをした。
 そこでレクイエム。

 ピッツェッティピツェッティ。Ildebrando Pizzetti 1880-1968 イタリア)の「レクイエム(Messa di requiem)」(1922)。

 ピッツェッティ(にしても、打ちにくい名前だ)は近代イタリア音楽の復古主義を推進した人で、ルネサンス・バロック音楽の精神に立ち返った作品を残した。中世旋法の使用を特色とするという。

aa239091.jpg  パルマ音楽学校で学んでいたときにグレゴリオ聖歌の奥の深さに魅かれ、またパレストリーナやヴェッキに傾倒した。それによってピッツェッティの作風はポリフォニックなものになり、ギリシア旋法やグレゴリオ旋法の特性を織り込んだものとなっている。
 天野秀延はこれについて、「一見伝統的な和音組成から一歩も出ない彼の音楽が、異常な深さと生鮮な響を生む根元をなしているのである」(新訂「大音楽家の肖像と生涯」:音楽之友社。原文ママ)と指摘している。

 またまた井上太郎著の「レクィエムの歴史」(河出文庫)から引用させていただく。

 ……特に1922年に書かれた無伴奏のレクィエムは真の傑作といえる。
 演奏時間30分ほどのこの曲は「レクィエム(入祭唱とキリエ)」「怒りの日」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」「リベラ・メ」の5楽章よりなる。ソプラノ、アルト、テノール、第1バス、第2バスの5声部で書かれた「入祭唱」ではドリア旋法が、「キリエ」ではフリギア旋法が主として用いられている。全曲の半分近くを占める「怒りの日」は、冒頭からグレゴリオ聖歌の原旋律がアルトとバスのオクターヴのユニゾンで唱われ、それを第2ソプラノと第2テノールが、同じくオクターヴのユニゾンで、中世のシネ・リッテラ(言葉なし)と呼ばれる母音唱法により装飾する。この効果はすばらしい。「哀れなる我何をか言えん?いかなる弁護者に願わんや?」からは8声部となり、グレゴリオ聖歌の原旋律を唱う第2バスの上に見事な対位旋律が展開される。これがスティーレ・アンティーコ(古様式)の巧みな活用にとどまっていないことは「正義により罰し給う審き手よ、我に許しの恩寵を下し給え。応報の日より先に」での盛り上がりが示しており、特にこの章の最後の「慈悲深きイエズスよ、主よ、彼らに安息を与え給え、アーメン」は美しさの極みだ。「サンクトゥス」は女声4声部、男声が8声部に分かれてヘ長調で始まる。前半ではヴェネツィアで16世紀に創始された複合唱様式が回顧されており、後半になるとホモフォニックの部分が多い。次の「アニュス・デイ」は4声部による短いもの。ニ短調で書かれた「リベラ・メ」からは、ヴェルディのレクィエムの遥かな谺が聴き取れよう。


 このように大絶賛ともいえる取り上げ方だが、いやいや、実際なぜ“ヒット”しないのか不思議なほどの名曲なのだ。

 井上氏が「この効果はすばらしい」と書いている、「怒りの日」の原旋律に対する装飾は中世の唱法というが、このヌラヌラ感はむしろ目新しく感じる実に印象深いものだ。一緒に口ずさみたくなる(気色悪いだろうが)。
 また、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」の原旋律は、例えばベルリオーズの「幻想交響曲」やラフマニノフの「パガニーニ・ラプソディ」などで引用を耳にすることができ、むしろ引用によって私たちはその偉大なるメロディーを知っているのだが、グレゴリオ聖歌そのもののメロディーを聴くことは、実際はなかなかない(→例えばここには収録されている)。
 なかなか出会えない「怒りの日」の原旋律が、このようにレクイエム作品の「怒りの日」に用いられているのは珍しい例だろう。

 にしても、まさに敬虔な気持ちになる曲だ。別次元の時の流れの中に放り込まれたかのよう。
 この曲を聴いても純な気持ちにならない人がいるなら見てみたいものだ(いや、名乗りでなくてよろしい)。

 イベント用に書かれた肥大化したレクイエムの対極にあるこの作品は、ピッツェッティの妻の死に捧げられたという。

 井上氏は同書のなかでパルクマン指揮のシャンドス盤を推薦しているが、私は未聴。
 私が聴いているのはカメラータ・ヴォカーレ・フライブルクの演奏によるもの。指揮はToll。
 1999録音。ARS-MUSICI。

 ところで、家に帰って来た金曜日の夜。
 家に着き遅い夕食(もちろん飲酒を伴う)をとっていたら、左胸のあたりが時折ピクッ、ピクッっとする。それだけでなく、そのたびに全身の感覚が変な感じだ。
 手首で脈をとってみる。
 胸がピクっとするときには脈がとぶようだ。
 こんなことは初めてだ。
 が、そのうち年に何度か私を襲う悪寒が。

 ふとんに潜りこむとしばらくして震えは治まったが、相変わらず胸はピクっピクっとする。
 心臓の発作か?
 春に受けたドックでは心電図に異常はなかったのに……
 死の不安が私を襲う。
 いままで害虫を殺したことを反省する。
 明日の朝は迎えられないかもしれない。
 寝付けない。すごい汗をかく。暑い。が、タオルケットをはぐと、寒い。
 汗でびちゃびちゃなのでいったん着替える。が、少し悪寒がぶり返す。
 再びベッドに。
 救急車を呼ぶべきだろうか?でも、なんて言う?胸がピクピクするんですって言って、来てくれるだろうか?救急車が来たら近所の人たちに迷惑だし恥ずかしいな。近くに来たらサイレンを止めてくださいって頼むことはできるんだろうか?

 そんなことを考えながら悶々として……気がつくと朝だった。
 たぶんこの世の朝だ。
 ピクピクは治まっている。
 あれが不整脈というものなのだろうか?
 朝、ネットで調べたら、不整脈には心配しなくてもいいものと、放っておいては大変なものがあるそうだ。だったら、私はどうしたらよいのだ?
 まあ、こんなふうにしてるんだから、心配しなくてもいいものなんだろう。
 今度いつもの主治医のところに行ったときに聞いてみよう。

 昨日の日中は無理は禁物と、雑草抜きもほどほどにした。
 が、反省したことを反省し、また無事に今日の朝を迎えられた私は、朝のうちにバラたちに殺虫剤を散布するつもり。

マモゥのせいらしいが……♪ブルックナー/Sym4

bcfebe04.jpg  D.R.デイヴィスが振ったブルックナーの交響曲第4番の録音は、使用楽譜が初稿だった。
 そのとき書いたように、これは私たちがふだん耳にしている「ロマンティック」とはずいぶんと異なる音楽である。

 そこで平時に戻れ!ではないが、本日はいつものものを。

 ホルスタイン、じゃなかった、ホルスト・シュタインの指揮によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第4番変ホ長調WAB.104である。使用楽譜は1878-80年第2稿のノヴァーク第2版。

 この演奏、最初に聴いたときからなぜかすごく懐かしい気がした。そしてまた、聴いていて温かい風に優しく包みこまれているような感覚になる。
 この曲の王道中の王道と言っても過言ではない演奏だ。
 浪漫だねぇ~。

 オーケストラはバンベルク交響楽団。
 1987録音。RCA。
ad534adb.jpg  なお、私が持っているのは新星堂が企画・販売したCD。

 さて、「日輪の遺産」の次に私が読み始めたのは、「シェエラザード」(講談社文庫)。上下巻に分かれている。
 上巻の裏表紙に書かれているあらすじは以下のとおり。

 昭和20年、嵐の台湾沖で、2300人の命と膨大な量の金塊を積んだまま沈んだ弥勒丸(みろくまる)。その引き揚げ話を持ち込まれた者たちが、次々と不審な死を遂げていく―。いったいこの船の本当の正体は何なのか。それを追及するために喪われた恋人たちの、過去を辿る冒険が始まった。日本人の尊厳を問う感動巨編。

 この私に尊厳を問われても、果たして答えられるだろうか?。。。

 ストップランプの電球を交換したが、車自体が10万kmオーバーのもの。
 長き年月によって接点が摩耗し、接触不良になっている可能性が高いようだ。

 今回は電球を交換して点灯するようになったのでそれだけにしたが、次回またすぐにつかなくなるようなら部品交換ってことになる。

 にしても、昨日自宅に帰って来る時の高速道路(片道1車線)で、私の後ろを車間距離をつめてついて来ていた軽自動車。もし、追突したらどうするんだよ!せっかく交換した電球が割れたらどーすんだよ!
 って、問題じゃないな。
 こういう車に限って、追い越し車線がある区間でも抜かなかったりするから面倒だ。

 さあ、久々の好天だ。
 庭の正雄する、いや、草刈りするぞ!

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