日曜日は午前中(厳密には8:50~12:05)だけで11,043歩歩いた。
遠出したのではない。
カーポートの屋根に上り雪下ろしをし、下ろした雪や、あらかじめ降り積もっていた雪をちょっと離れた空き地に運び続けた結果だ。
この歩数を私は自慢しているのではない。
ただただ「たいへんだったんですねぇ」と同情し、慰めの言葉の1つもかけて欲しいだけだ。それも優しく……
歩数だけならともかく、雪をすくっては体をひねって遠くへ投げる作業(専門用語で投雪という)は腰のみならず、私の肩や腕、太もも、足の裏などに多大な負担をかけた。
カーポートの屋根から下りる時でさえ足元がおぼつかず、梯子ごと放物線を描いて地面に叩きつけられるんじゃないかと思ったほどだ。雪の中に落下するならダメージは少ないだろうって?いやいや、落下エリア、つまり庭には、バラを囲った支柱があちこちに槍のように立っているわけで、非常に危険なのだ。
そして家に入った途端にあちこちは痛いは、全身だるいは、何となく寒気はするはで、もう身も心もボロボロであった。
この悪寒、夏は草取りに専念し過ぎたときなんかに起こるが、きっと筋肉(というのが見栄だと指摘したいなら、ぜい肉と言い代えよう)の中で乳酸か何かが過剰になっているのだろう。どうせなら大腸で過剰になって欲しいものだ。それなら、人には人の乳酸菌ってもんだ。 さて、今年最後の曲は、そんな痛みだるさを吹き飛ばすべく、私の大好物であるボロディン(Alexander Borodin 1883-87 ロシア)の交響曲第2番ロ短調(1869-76/改訂'79)。
本日のCDはオレ・シュミット指揮ロイヤル・フィルによる演奏。
巨匠の、かくあるべきというような大上段に構えた演奏ではなく、ちゃんとしていながらもメロディーをリラックスしながら堪能できる。そしてまた適度にヤンチャしてくれていて、ちょいとワクワクするB級グルメ的演奏。
印象的なのは第1楽章の第1小節、第3小節のフェルマータを股裂きのように思いっきりフェルマータしているところ(掲載譜。このスコアは全音楽譜出版社のもの)。うっちゃりのように長~く延ばしているのだ。そして、続く第2、第4小節は非常に速い。ここまでの対比は他にないのでは?(ただし、この延ばして全力疾走ってというのは冒頭だけで、他での同様の箇所ではノーマル)。
第2楽章の躍動感は十分だし、第3楽章もロマンティックだ。第4楽章は華やかさは十分だが、ちょっと洗練され過ぎているか?
オーケストラの響きはやや軽めだが、聴き終えたあとは、なんだか良いもの聴いちゃったって気分になれる。
1996録音。alto(Licensed from M.A.T)。
昨日は買い物をするために札幌の中心部へ出かけた。
デパートの地下は、おせち用の料理を買い込んでいる人たちでごったがえしていた。中でも異様に元気で目が血走っている老人の姿が目についた。
この様子を見ていると、景気が悪いんだか良いんだかわからなくなってしまう。さらに、みんなは尖閣諸島や竹島の問題、TPP、首相の靖国参拝問題ならびにそれにアメリカが懸念を示したこと。アメリカがプンプンしている中での沖縄基地移設決断はご機嫌取りにも何にもならないのではないかという作戦失敗の懸念といったことについて、どう考えているんだろうかと思ってしまう。
私も何も考えてないけど(ただ、TVで首相の笑顔を見ると真剣にイライラしてしまう今日この頃だ。昨日のTV出演は一体なんだ?善い人ぶりをアピールしている悪人のように見えたな、私には)。
あらら、私らしくなく、よくもわからない政治のことを書いてしまった。それもこれも、激コミのデパ地下が悪い。
あちこちで-デパ地下でも、そば屋の店先でも-年越しそばを売っていた。
北海道はご存知のとおりそばの産地だ。
新得、幌加内、江丹別、鹿追などが有名だが、そのほか各地でそばが栽培されている。
産地はどこかしらないが、韃靼そばも売っていた。
韃靼そばって美味しいのかね?体に有効な成分が多いらしいけど、苦いと聞く。
このシュミットのCDには、歌劇「イーゴリ公」から序曲と「だったん人の踊り」「だったん人の行進」、それと交響詩「中央アジアの草原にて」も収められている。
だったん人というのはタタール人のこと。“だったん”というのは中国での呼び名だという。「だったん人の踊り」などの曲名は、最近はポロヴェツ人と言いかえられてきている。
このCDの演奏では「だったん人の踊り」にも「だったん人の行進」にも合唱は入っておらず、管弦楽のみの演奏。オーケストラに合わせて1人高らかに歌いたい人にとっては貴重なのヴァージョンだろう。
で、そばの話だが、私はすでに十勝千年の森にあるそば屋“ほおの木”の乾麺を購入済みだったので、ふだんそばなんて食べなさそうなバイトの姉ちゃんが叫んでる特設売り場はすべて素通り。音威子府のそばは美味しそうで、ちょっと手に取ってみたけれど……
ところで、北海道では大晦日から寿司やらおせちを食べる家が多いが、東京とかでは何も食べないって本当だろうか?
いや、断食するという意味ではなく、年越しそば程度で済ませるって聞いたことがあるんですけど、それホント?ウソですよね?
当地では、冬眠前のヒグマの最後の晩餐のごとくいろいろ食べ、仕上げに(伝統行事に従って半ば無理やり)そばを食べるのだが……
東京の人だって、アメ横で買ったカニとか、築地で買ったマグロとか食べるんですよね?今日の夕食で。違いまふか?
いずれにしろ、今年も当ブログでも私の勝手な言い分を読んでいただきありがとうございました。
みなさんにとって、そして私にとっても、新しい年が一層すばらしい1年になることを、心から心から心から心から心から願っています。
よいお年をお迎えください。
ということで、じゃ、また明日の朝に。
2013/12
土曜日は11時ころに家を出発した。
というのも、午前中は札幌など石狩地方の天気が悪く、午後は道東方面が悪くなるという予報だったからだ。
つまり、私が道東を出発するときはこちらの天気は良くて札幌は悪く、私が到着するころには札幌は好天になっているが出発地は暗黒の空になっているという計算だ。
途中で悪天と鉢合わせする可能性はあるが、そのときはきっとトンネルの中さっていう楽天的発想である。
そして私の計算通り、というよりも気象予報士の予言どおり、高速道路での走行にはほとんど問題がなかった(凍結している箇所はわずかで、路面が出ていた)。
問題は高速道路を下りたあと。
物理的なことだけでなく、経済的な事情も相まって、私は夕張インターで下りたのだが、そこから長沼町までが、吹雪とまではいかないが視界がかなり悪くなる意地悪な雪。道路は圧雪アイスバーン。
長沼に入ったとき、時刻は13:15。
「よし!ジンギスカンにしよう」と、天候や路面には直接関係ないが、昼ご飯はジンギスカンにすることと決意した。
長沼はジンギスカンが有名だ。
カネヒロ・ジンギスカン、タンネトウ・ジンギスカンなどなど。
今回立ち寄ったのは国道274号線沿いの「レストラン・カネヒロ」。
その名の通り、カネヒロ・ジンギスカンを食べさせてくれるところだ。
カレーライスやラーメンというメニューに浮気しそうになったが、ラム・ジンギスカン定食(1人前1,000円)を頼む。
ご存知のように(たぶん)、私は羊の肉が苦手である。臭いがだめである。
その苦手な羊の料理の中で、私が食べることができる、いや、むしろ年に数回無性に食べたくなるのがジンギスカンだ。それも、カネヒロやタンネトウ、松尾ジンギスカン(マツジン)のようなタレに漬け込んだものである。
ジンギスカンといえばビールがつきものだが、今回は運転しているわけで当然無理。だが、ビールに勝るとも劣らないほどジンギスカンに相性がいいのは、実はご飯だ。
たくさんご飯も食べた(だって盛りがいいんですもん)。たっぷりの野菜にみそ汁もついて1000円は安い。東京で1000円といったら、天ぷらそばも食べられないだろう。
食べ終えて、おじさんくさく爪楊枝をシーハーしていたら、なんとお天道様が顔を出した。
ほぅれ!こちらはこれから天気がよくなる運命にあるのだ。
再び自宅に向け車を走らせる。
と、また急に雲は厚くなり、雪が……
やれやれ。
自宅に着くと、淡い期待むなしく、たっぷり雪が積もっていた。
どうしようか?ちゃんと雪かきしようか?
それとも明日にしちゃおうか?
そう悩んでいるうちに眠くなり、昼寝というか夕寝を小一時間ほどしちゃったら外は真っ暗、あらもう夜。冬は暗くなるのが早くていやになる。冬至後は着実に日が長くなっているはずなのだが……
悔しいからベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の歌曲集「夏の夜(Les nuits d'ete)」Op.7。
この作品は、T.ゴーティエの詞による6曲からなるもので、各曲は以下のとおりである。
1. ヴィラネル(Villanelle)
2. ばらの精(Le Spectre de la rose)
3. 入り江のほとり(Sur les lagunes)
4. 君なくて(Absence)
5. 墓地にて(Au cimetiere)
6. 知られざる島(L'ile inconnue)
以前、ミントンとバロウズの独唱によるブーレーズ盤を取り上げたが、今日はフォン・オッターのメゾ・ソプラノ、ミンコフスキー指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル・グルノーブル(ルーヴル宮音楽隊)による演奏を。
このオーケストラの演奏は「幻想交響曲」やメユールの交響曲で取り上げているが、ピリオド演奏のオケだ。
最初の1音から「おっ!」と引き付けられるが、オケは全体を通じて感情抑制型。出しゃばらずに独唱を支えている(これはピリオドってこととは関係ないだろうけど)。独唱も深遠な感じの歌いっぷりで、じっくりとこの曲を味わわせてくれる。
2011録音。naive。
そして、昨日の日曜日。
体がぼろぼろになった。
その報告は、大晦日に。
先日喫茶店で昼ご飯を食べたとき、私はちょっぴりかわいらしくオムライスを注文したが、阿古屋係長はもっとかわいらしくドリアを頼んだ(なお、この店のフードメニューはオムライスとドリアと、サンドイッチしかなかった)。
ドリアが運ばれてきたとき、ちょっと恥ずかしかったけど、私は「えぇ、ドリア~ん」とおちゃらけて言ってみた。
係長は、「はははっ、はぁ~?」と言った。つまり一瞬にして面白くないことを見抜いたわけだ。いや、そもそもあのボクシング映画“ロッキー”のことをほとんど知らない世代だった。
だからロッキーの恋人がエイドリアンという名前だったことも知らないのだ。
にしても、ほんの一瞬でも、笑おうと努力してくれたことに感謝いたしたい。
ディーリアンという人種がいる。
ディーリアンとは、ディーリアス(Frederick Delius 1862-1934 イギリス)の熱狂的ファン、心酔者のこと。ワーグナーならワグネリアン、モーツァルトならモーツァルティアンと同列の言葉。ベートーヴェンならベト餡(とは言わないな)。ポコチならポコチン(そんな作曲家いないし)。
ご存じのようにディーリアスの音楽は、穏やかさ安らぎをもたらす性格のもの。ジーンと来る。これはたぶん日本人好みである。日本人である私が言うのだから、ケニアの外務大臣が言うよりは正しいのではないか?
したがって、案外とこの国にはディーリアンが多くいる可能性がある。
私はディーリアスの音楽は好きだが、かといってディーリアンというほどではない。もちろんエイリアンでもない(たぶん)。
そのディーリアスの歌劇「村のロメオとジュリエット(A village Romeo and Juliet)」(1899-01/1907初演)。
G.ケラーの原作、C.F.キアリーの台本による。
プロローグと3幕からなる、悲しくも純な愛の物語。
登場人物にはロメオもジュリエットもいない。
サーリがロメオに、ヴレンチェンがジュリエットにあたる。
舞台となっているのはスイスにある小さな村。
サーリとヴレンチェンは幼なじみだが、成長してからは愛し合うようになる。ところが2人の親同士は土地の所有権をめぐって争いあっている。
愛し合っているのに結婚できない2人は心中する。
全曲を耳にする機会はなかなかないが、第3幕の間奏曲をビーチャムが編曲した「楽園への道」は、単独で演奏されることが少なくない。
「楽園への道」は、2人が心中する前に行った居酒屋の名前(Paradise Garden)である。
にしても、もし“楽園”とか“天国”、“極楽浄土”って名の居酒屋があったとしたら、うん、私は行きたくないです。
“パラダイス”だったら、冥途、いや、メイド喫茶とかにありそうな名だな。“楽園”も田舎町のスナックなんかにありそうではある。
今日は全曲盤をご紹介。
マッケラス指揮オーストリア放送交響楽団、A.シェーンベルク合唱団ほかの演奏で。
1989録音。デッカ。
繊細で美しいメロディーの数々は、ときに退屈する場面もあるが、羽生弓弦のコスチュームの胸に縫い付けられた色とりどりのガラス玉のように輝いている(う~ん、ちと違うか……)。
今日は雪かきしなきゃ。
今日はこのあと車で自宅に帰る。
あいにく天気は悪そうだ。こちらは晴れているが札幌圏は、暴風雪のピークは過ぎたとは言うものの、まだ荒れていそうだ。
運転する身としてはハツラツとした気分になれないが、かといって気持ちが萎えているわけでもない。
車に積むクーラーボックスの中には、カチンコチンに凍ったタコの足が入っている。
正月に食べる刺身の1アイテムだ。
なにもわざわざこちらで買わなくてもいいようなものだが、妻が言うには、年末ぎりぎりになると値段が上がるのだそうだ。
そういう理屈で、マグロの刺身もカチンコチンの状態で冬眠している。マグロだと言われなければ冷凍したういろうと思っちゃうかもしれない。タコだって、タコに似せたキャンドルを凍らせたようだ。キャンドルを凍らせる人はいないだろうけど……
そういえば、水曜日の会議で出された昼のお弁当に刺身が入っていた。が、サーモンとタコのタコモン・ペアで、マグロは入っていなかった。
昨日の夜の忘年会では、タコのカルパッチョがあった。厚切りで食べにくかったが……
そこであまり関係ないが、ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)のピアノ協奏曲第1番ハ短調Op.35(1933)。さらに年末大盤振る舞いで、ピアノ協奏曲第2番ヘ長調Op.102(1957)。
ピアノ協奏曲第1番(ピアノと独奏トランペットと弦楽という編成)は、冗談なのか皮肉なのか、あるいは敬意を表しているのかそこは曖昧模糊としているが、パロディ要素満載の曲である。
ウィキペディアには次のように書かれている。
自作や他人の作品からの引用が全曲に散りばめられていることが、このピアノ協奏曲を特徴づけている。特に『24の前奏曲』との類似性はテーマ的、または手法や性格的な面で明らかである。この他、劇付随音楽『ハムレット』作品32(1931-32)やサーカス・ショウの劇付随音楽『条件付きの死者(または『殺されたはず』)』作品31(1931)、そして終楽章でのトランペットが奏する独奏部は、E.ドレッセルのオペラ『あわれなコロンブス』への序曲(作品23の1)といった未出版の作品からの引用もあるという。
他の作曲家の作品もほとんどパロディ化させて登場している。第1楽章の第1主題はベートーヴェンの『熱情ソナタ』の引用と、ギャロップのフィナーレを支配するのは『失われた小銭への怒り』のモティーフである。これらはピアノのカデンツァで明確に正体を表してくる。更にコミカルな性格を持っているハイドンの『ピアノ・ソナタ ニ長調 Hob.XVI-37』からの引用句(またはモティーフ)も絡み付いている。そしてオーストリアで広く歌われている民謡『愛しいアウグスティン』とイギリスの民謡『泣きじゃくるジェニー』として知られた歌も引用している。
正直言って、私はこういうの全然意識しないでこの曲を聴いてきた。
知らんかったわ。
作曲年からもわかるように、このコンチェルトも若きショスタコーヴィチの奔放さにあふれた曲。
一方、それから24年後に書かれたピアノ協奏曲第2番は、さすがに干支も回りしただけあって、第1番のような鋭さはないが、これはこれで愛らしい活発ある曲。息子・マキシムのために書かれたが、マキシムに対する父の愛情が感じられる。
なお、こちらのコンチェルトでも自作をパロッてるようなフレーズが出てくるほか、第3楽章ではハノンの練習曲が引用されている。
ハツラツとしていて毒を含んだ第1番、やさしい気分と温かさに満ちた第2番。
どちらも20世紀に書かれたピアノ・コンチェルトの傑作だ。
ただ、第1番に比べ第2番がコンサート・プログラムに載ることがほとんどないのが残念である。
今日はレオンスカヤのピアノ、指揮者界の千代の富士!……いえ、すいません。おだってしまいました。ウルフ指揮セントポール室内管弦楽団の演奏で。
第1番のソロ・トランペットはボードーナー。
レオンスカヤの演奏は誠実さが感じられるもの。遊び心、無邪気さはあまりないが、彼女のイメージ以上にパワフル。
他にピアノ・ソナタ第2番ロ短調Op.61(1942)も収録されている。
1991録音。apex(原盤テルデック)。
今日で仕事納めというサラリーマンの方も多いんじゃないだろうか?
私もサラリーマンの1人として、今日を1年の勤労奉仕の納め日とする。
今日の夜は、今年最後の忘年会がある。でも紳士的な態度で静かにお酒を飲み、そして、明日の午前中に自宅へと向かう予定だ。冬道を運転するのはヤだけど、きっと路面は概ね乾いているだろうと淡い期待を持つことにしよう。
あさってからここのマンションの新聞を止める手配もした。
これで、忠実な新聞配達員さんが「何日分もたまっていて、もう郵便受けに入らないよぅ」と、年末に嘆かずにすむことだろう。少なくとも私の部屋のポストに関しては。
そして、この人は良い人だと思ってもらえることだろう。
大晦日のお寿司の出前も頼んだ。
実は、いつも-といっても年に2~3回-使っていたおいしいお寿司屋さんの電話が「使われてません」という女性の明るい声に阻まれたのだ。あれは確か去年の暮れことだった。 私に何も匂わせることなく、どうやら店をたたんだようだ。
今回、一応密かに、でももしかしたらという一縷の希望を持って電話したが、女性の明るい声は変わらなかった。
今となっては、そこの名が入った湯飲み茶わんが実に貴重なものとなってしまった。
新たな寿司屋を検索し、妻が自宅周辺の友人から集めた評判も加味し、これまで頼んだことも行ったこともないお寿司屋さんに電話をした。
この時期だから、そして新規申込者なので、「ムリです」と、にべもなく断られるかと思ったが、ちゃんと大晦日に出前配達してくれることになった。
私はこれからもこのお寿司屋さんに頼もうと、心に誓った。まだ食べていないけど、こういう親切に弱いのである。
11月22日夜半からこのブログへ大量に送り付けられた-その数は15,000を超えた-スパム・コメントも、1ヵ月経ってサーバー側で自動で一括削除された。1ヵ月ぶりに足の指の間を洗ったような爽快感だ。
これまで使っていた紫根の石鹸が無くなって、先日東急ハンズに行ってみると、“藍せっけん”というのが在庫処分で安くなっていた。定価税込1,575円もするものだ。それが税込300円だ。驚くべきことに81%引きだ。こんな、まるで在庫処分セールのような価格だったから、私は残っていた3個をすべて買い占め、ご丁寧にPOPもレジに持って行き「これで終わりです」と、店員の回収の手間をはぶいてあげた。
この“藍せっけん”-プレミアム藍ソープとも書かれている-が私にどういう幸せをもたらすのかは不明だが、成分を読むと、オリーブ油、アンズ核油、チャ葉エキス、黒砂糖エキス、ヒアルロン酸、ハトムギエキスなどなど、私の肌に、老人性イボになんとなく良さそうだ(Made in KOREAっちゅーのが、引っかからなくもないが。イボに。いや、心に)。
私がこれを、惜しげもなく全身に使うのは言うまでもあるまい。
石鹸といえば、アレッポの石鹸のようなオリーブオイル石鹸が良さそうだし、実際何度か使ってみたが、あの臭いはちょっとなぁ、である。あれで体を洗ったら、「おじさん、油臭いよ!」と、単刀直入な通りすがりの少年に指摘されそうだ。
こうして今、私はちょっとばかり穏やかで、表面上は深遠な気分なのだ。
ブルックナーの交響曲第7番の第2楽章のように。 ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第7番ホ長調WAB.107。
この曲の第2楽章はワーグナーのための葬送音楽なのだが、それはともかく私の今の、とりあえずの落ち着いた気分にぴったり。
そして、マゼール指揮ベルリン・フィルの演奏は、とにかく美しい、深い、上出来!
まったくもって真っ当なアプローチ(なんだろうと思う)。
大きな大きな演奏。
「チェリビダッケの遅いテンポのモノマネ」という酷評もあるようだが、たとえモノマネに聴こえようともここまでがっちりやってくれたら、そこはオリジナル。
私はとっても好きである。
1988録音。EMI(Tower Records EMI Classical Treasures)。
なお使用楽譜は、1881-83年第1稿ノヴァーク版。
このころマゼールは、カラヤンの後任として自分がベルリン・フィルの音楽監督になると信じ切っていた。
が、1990年に選ばれた音楽監督はアバドだった。
かわいそうなマゼールさん……
いやなことはすっかり洗い流せたかしら?
今日までだと言っていた。
そのように、あまり気負わずに訴えていた。
何か?
先日、この街のショッピングセンターの前にいた救世軍のおじさんのことである。
黒い制服(ドラマなんかで見る、昔の警官のような格好だった)を着た、やや小太りのおじいさんとやはり白髪のおばあさん。
といっても、すごく老いているわけじゃない。
救世鍋は26日までやってますと言っていたのだ。
この風景、最近どこかで読んだと、そのとき思った。
どこだったっけかなぁ。
しばらく悩んだ末、それが浅田次郎の「シェエラザード」(講談社文庫)だということを思い出した。いやぁ、10分近くも脳にストレスをかけてしまったわい。
上巻に次のような一節がある。
ふいに、甲高いラッパの音に背を叩かれて律子は振り返った。
「大震災被害者に、愛を贈りましょう。人はみな神の子、みな兄弟。ささやかな愛がひとつになれば、大いなる真心になるのです―」
救世軍の紺色の制服を着た初老の女が、そう言って讃美歌を唄い始めた。かたわらでは、腰の曲がりかけた老人が、頼りない息を継ぎながらトランペットを吹いていた。
愕いたあとで、律子は悲しい気持ちになった。老人と老女は夫婦なのだろうか。日曜の朝の街路で突然と慈悲活動を始めた二人の救世軍士官には、互いの老いをいたわり合うようないじらしさがあった。
私は2人にいじらしさを感じも悲しい気持ちにもならなかったが、温かい気持ちにもならず、何ともいえない違和感。これが善いものかどうかの判断はつかないが-救世軍はプロテスタント教会の一派だというし、社会的活動を積極的に担うというから、きっと善いものだろう-時代錯誤に感じる。
周りの人も、すぐそばのお買いもの抽選会にしか興味がなさそうだったし。
戦争とは関係ないが軍という名が、あの格好が、そして、いまかなり独善的に偏った考えを打ち出している首相がもしかすると目指しているかもしれないものとがオーバーラップしてのだろうか。なんだか嫌な気持ちになった。
いや、あの老いたアベック(古い!)には罪はない。
でも、悲しいラッパの音色だったな。なんの曲吹いてんだか判別不能だったし。
ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937 フランス)の「夢幻劇の序曲『シェエラザード』(Ouverture de feerie 'Sheherazade')」(1898)。
ラヴェルは「千一夜物語」に基づく童話劇の音楽を作曲しようとしたが、この序曲だけが完成した。
1899年に完成した序曲の初演が行われたが酷評され、ラヴェルもリムスキー=コルサコフやドビュッシーの影響を受けていることからイヤになり、劇音楽としての完成はなされなかったのである。
確かにあんまり面白い作品ではないが、若いときのものとはいえ、管弦楽の色彩の豊かさをすでに聴くことができる。
マルティノン指揮パリ管弦楽団の演奏を。
1974録音。EMI。
♪ クリスマスも近いが あの子は嫁にゆく
金につられてゆくな ロクな目にはあえぬ
ロシア民謡「トロイカ」の第4番の歌詞である。この詞は東大の合唱団による訳のようだ。
先日大型ショッピングセンターで写真のような光景を目にした。
「クリスマスも近いがあの店いっちゃった~」ってものだ。
衣料品のテナントだったようだが、この横がおもちゃ売り場でにぎわっているだけに、そしてなんでまたこの時期にと思うまでもなく、実に悲愴感が漂うスポットである。
にしても、“倒産のため”としっかり書いているところはなかなか立派だ。
今日はトロイカはトロイカでも、プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev 1891-1953 ソヴィエト)が書いたものを。
組曲「キージェ中尉(Lieutenant Kije)」Op.60(1934)。
1933年に作曲したA.ファインツィンメル監督の映画「キージェ中尉」のための音楽(16曲)を改編したもので、以下の5曲から成る(物語の原作はトゥイニャーノフだにゃあ)。
1. キージェの誕生
2. ロマンス
3. キージェの結婚
4. トロイカ
5. キージェの葬送 映画の筋は、帝政ロシアの貴族社会の無知無能をを風刺したもの。
やや精神を病んでいる皇帝ニコライ1世は、ある日の昼寝中に女官の悲鳴を耳にする。皇帝は見回りの責任者は誰だと侍従に尋ねるが、あいにく名簿には“中尉”と書かれているだけで名前はない。侍従が口ごもって「中尉……ですが(ポルーチキ・ジェ)」と報告すると、皇帝はそれを“キージェ中尉(ポルーチク・キージェ)”と聞き間違え、架空の人物キージェ中尉が生まれることとなる。
キージェ中尉は逮捕されシベリア送り。しかし、さらにおつむの調子が悪くなった皇帝は、あれはわが身を守るために騒ぎを起こして目を覚めさせたのだとキージェを呼び戻す。彼にはべっぴんの女官が妻として与えられ、実在しない人物と女官の結婚式があげられッ挙行される。
その後も続く珍奇な騒動。
嫌気がさした侍従たちはキージェが死んだことにし、葬式をあげる。架空の人物とは知らない皇帝は、キージェの葬列を見送りながら冥福を祈る。
ソヴィエト政権に嫌気をさしたプロコフィエフは1918年にアメリカに渡り、その後ドイツ、パリで暮らした。
1932年にソヴィエトに戻った彼の、最初の成功作がこの「キージェ中尉」だった。
組曲の5つの音楽も、それぞれの場面が伝わってくるわかりやすい音楽となっている。
アバド指揮シカゴ交響楽団による演奏を。
1977録音。グラモフォン。
ところで、握り寿司ではトロとイカのどちらがお好きですか?
今日は休み明けの重~い日であると同時に楽し~いクリスマス・イヴ。
AV女優のハシリとも言うべきイヴちゃんという人がいたが、それはいまふと思い出しただけで、今日は正統的にクリスマス・イヴにちなんだ作品(もちろんAVじゃなく音楽)をご紹介。
コレルリ、またはコレッリ、あるいはコレリ(Arcangelo Corelli 1653-1713 イタリア)の合奏協奏曲第8番ト短調「クリスマス(La notte di Natale)」Op.6-8(1714出版)。
Op.6は12の合奏協奏曲集だが、そのなかで、そしてコレッリの作品の中でも最も有名なのがこの「クリスマス協奏曲」である。
なお、12曲のうち第1~8曲は教会コンチェルト形式で、第9~12曲は室内コンチェルト形式(舞曲の連曲)で書かれている。
コレッリはストラデッラが開発した形式を発展させ、合奏協奏曲(concerto grosso)という形式にした。25歳下のヴィヴァルディもコレッリから強い影響を受けた。
合奏協奏曲第8番は6つの楽章から成るが、終楽章の「パストラール」にコレッリが「キリスト降誕の夜のために」と書き記している。つまり、クリスマスの雰囲気があるのでこう呼ばれる、みたいな曲そのものとは関係のない通称ではなく、コレッリの厚い信仰に基づいた曲なのである。
ところで「パストラール」は田園風の曲という意味だが、キリスト降誕のときには羊飼いたちが笛を吹いたという聖書の記述から、この名の曲が置かれている。
そのため、この「パストラール」には、クリスマス・イヴのときだけ演奏するよう“任意(アドリブ)”の指示がある。
しかしこのコンチェルトの目玉であるため、クリスマスではなくても演奏されることが多いようだ。
なお、笛がどうとかいうものの、この曲の編成に管楽器は入っていない。
コペルマン指揮フェレンツ・エルケル室内管弦楽団の演奏を。
1990録音。ナクソス。
小学校の図工の時間。
画用紙に鉛筆で下書きしていた私。自画像だ。
先生が寄って来て、「なかなか上手く描けてるね」と褒めてくれた。
2週間後の同じ時間。
すでにギターペイントを使って色をつけていた私のところに先生が寄って来て、「下書きはよかったのに絵の具を使ったらなんでこんなにひどくの?」と、ダイレクト・モードでけなされた。
これもまた、わが人生脚本のリハーサルで起こった出来事である。
だから私は図工の授業を受ける義務がなくなったなら二度と絵筆は持つまいと、才能のなさに挫折した画家のように、密かに決意したのだった。
が、その後大きな間違いを犯してしまった。
高校に進んだ時、芸術の授業は音楽か美術か書道のどれかを選択することになっていた。最初は音楽を選ぼうとしたのだが、同じ中学から入学した友人が「油絵だったら塗り重ねられるから、そっちにしようよ」と私を誘ったのだった。
そして、これまた断りきれないシナリオを持つ私は美術を選択してしまったのだが、何度書いても、例えば静物でリンゴを書いても、どう見ても球状ではなく、それは日本の国旗の真ん中のように、塗りつぶされた円のままだった。
ところで画家のドイツ語はMalerだ。
マーラーに似ている。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)と結婚したアルマ、あの淫乱女(という表現がまずいなら、男性遍歴魔)のアルマの実父(アルマが13歳のときに亡くなった)は画家だった。
アルマがマーラーに次第にひかれ結婚に至ったのは、Mahlerに対してMalerであった父の姿を潜在意識下で重ね合わせたためだ、と分析する学者もいるという。
学者といっても、もちろん動物学者とかじゃなくて心理学者だと思う。
それは置いといて、そのマーラーの交響曲第9番ニ長調(1908-09)。2000年にスヴェトラーノフがスウェーデン放送交響楽団を指揮したときのライヴで、頭でどうのこうの言ってる場合じゃなく、全身で感動する演奏だ。
CDの帯には深緑色の地に黒文字という、おそろしく目に悪い組み合わせで以下のように書かれている。
スヴェトラーノフが忍び寄る死の影を感じながら2000年1月に紡ぎだした絶美の演奏。第1楽章の深遠な解釈、第4楽章の澄み切った境地は、正に生と死の表裏一体を教えてくれるかのようです。対照的に中間楽章はエネルギッシュそのもので、リズム感の良さを物語ります。スヴェトラーノフのマラ9と言えば、ロシア国立響との1992年のスタジオ録音は恵まれた音質といえなかっただけに、妙技を誇るスウェーデン放送響、名録音を誇るスウェーデン放送による当ライヴは、ファン垂涎のものでしょう。
“スコアをすみずみまで分析した”とか“精緻”といった表現とは逆の、太い筆で描き上げたような演奏。もちろん私の水彩画とはまったく異なり、大雑把という意味ではない。
そしてまた、“忍び寄る死の影を感じながら”というのは、さらにはやはり帯にある“音楽、人生への訣別”というのは、ちと違う感じがする。
知的という印象の演奏ではない。かといって、おバカではもちろんない。本能的というのだろうか?でも。暴走はしない。抑えきれない喜怒哀楽の高まりを爆発させるのではなく、ぎりぎりのところでコントロールしている。よくがまんしたね。だって大人だもん。巨匠だもん。
弛緩するところがまったくない。聴く者はあくび1つできない。
引き締まってはいるものの、マッチョというよりはほどよいふくよかさがある。だから冷徹にならない。後ろ向きななよなとしたところはなく、エネルギッシュに前進するのみである。
この演奏は魂がこもった名演だ。感動で全身がプルプルしちゃう。
あなたの棚に、ぜひ揃えて欲しい1枚だ(2枚組だけど……)。
レーベルはWEITBLICK。
先生は私を傷つけたが、言い方が悪かっただけで、正当な指摘だった。
私が色づけした自画像はおよそ自画の像には見えず、砂利道でつまずき頭から地べたに転んだあとのけが人のように顔が歪み膨れていた。いや、描いた自分だからわかるが、他人が見たら人間にさえ見えなかったかもしれない。
先週の東京出張の報告の続きである。
火曜日の午後からZさんが合流し、われわれの部隊は戦隊レンジャーシリーズのように5名となった。
仕事を終え、その日の夜は赤坂で食事をした。
鶏のもも肉を焼いた料理(といっても、焼き鳥というものとは違う)が美味しかった。なにより、中まできちんと火が通っているのが嬉しい。
翌朝。
私の朝ご飯はファミマで買ったおにぎり2個に豚汁。
我が部隊一行5名は朝からの会議に出席。
昼はわざわざ地下鉄に乗ってうな重を食べに行った。
にしても、ウナギの値段がうなぎ上りだとは聞いていたが、実際にメニューの価格を見ると一瞬立ちくらみがしそうになった。
とはいえ、ここで引き返しては五匹戦隊ウナレンジャーの名に恥じる。
さりげなくのれんをくぐる。
お店の人曰く、いちばん安いうな重は、うなぎ1尾分までないそうだ。
2番目のは1尾。
3番目のは1尾半で、お重のふたを開けると、そこには尾が折り返されたかば焼きが目の前に現れるという。店員さんとしてはお薦めっぽい口ぶりだ。折り返った様子を手首を使ってアクション披露してくれた。
いちばん高いのは2尾。こうなると、隣にある“元祖札幌屋”のラーメンが10杯以上食べられる価格だ。オフシーズンなら東京でもビジネスホテルに素泊まりで1泊できる金額である。
Xさんは3番目を食べたがっていたが、2番目と3番目とでは1500円の開きがある。この開きが半匹分の価格って計算になる。
元祖札幌屋のラーメン3杯分だ。
そんな贅沢は出来ない。
で、緊急のレンジャー会議の結果、理想・希望・欲望は理解できるが、現実的財政事情により投資額を減額せざるを得ないということになり、よって2番目にした。
とはいえ、これだってラーメン6杯分以上の額だ。
十分に贅沢だ。それに、1尾以上食べると痛風発作が起こる恐れだってある。ウナレンジャーのうちの1人は血中の尿酸値が高いのだ。
注文した5つの重は、「もう我慢できない!」と叫びたくなる寸前に悠然と運ばれてきた。
ふたをあけると、一面がウナギで覆われご飯が見えない、というかつての状況ではなかった。
Xさんの「ご飯が見える」という一言が、はかなく卓上にこだました。
前は確かにこうではなかった。同じ1尾でも小ぶりになったのだろう。少なくとも、お重がひと回り大きくなったわけではないだろう。
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の弦楽五重奏曲第4番ト短調K.516(1787)。
モーツァルトが残した室内楽作品のなかでも、弦楽五重奏曲は重要度が高いものである。6曲を作曲しているが、編成としてはいずれもヴィオラが2挺となっている。
6曲のうち頂点となるのは第4番と、同じ年に書かれた第3番。この2つは姉妹曲だが対照的な性格を持つ。
そしてまた、彼の最後の2つの交響曲である第40番がト短調、第41番がハ長調であることから、順序は逆だが、この2つの弦楽五重奏曲の性格の対照性は2つの交響曲のそれと比較される。
“モーツァルトのト短調”と言われるほど、彼が残したト短調の作品は何とも表現しがたい哀しさや憂鬱さをたたえているが、弦楽五重奏曲第4番の嘆き悲しみと美しさには胸がしめつけられる。
うな重のふたを開けた時の、Xさんの、そして2人の社長の、加えてZさんの、さらには私の「あぁ、うなぎが大繁殖して値段が下がらないかなぁ」という嘆き哀しみ、恨みがここにはある。
終楽章(第4楽章)の後半で、それまでの哀しみをやわらげてくれるように愛らしく変わるが、それで少しは救われる気がする。
また、弦楽五重奏曲第3番ハ長調K.515の明るく堂々とした風格は、まさに室内楽の「ジュピター」である。3番と4番の陽と陰、明と暗の違いは、明るい元気印の姉と、美しいがどこか影のある妹のよう。ところでどっちが好きですか?いや、姉と妹じゃなくて、3番と4番のことです。
うれしい表情も悲しい表情も素敵に聴かせてくれるラルキブデッリの演奏で。
1994録音。ソニークラシカル(VIVARTE)。
にしても、さまざまな食品加工技術がこの世にはあるのだ。
ウナギのかば焼きのそっくり商品ってできないものなのだろうか?(さんまのかば焼きは、明らかにさんまの味がするので、代替にはならない。あれはあれで独立した食品である)。
それはともかく、ウナレンジャーは午後の会議に出たが、午後からはSさんが加わった。
そのあとまた夜がやって来たので夕ご飯を食べなきゃならないはめになり、この日の夜は6人で和食。
そして次の日の朝は、私は珍しく洋食。
ファミマで買ったポテトサラダ・サンドとハム・サンド、それと缶コーヒー。
午前中の会議を終え、6人は解散。
私はSさんといっしょに空港へ行き、第2ターミナルの中の中華料理店で担々麺を食べた。ちなみにSさんは五目麺。
こうして会議と食事が繰り返された出張は終わったのだった。
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