読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

January 2014

心理的錯覚…マジックみたいなもんですかね♪JSB/無伴奏vnソナタ

f8e0c39b.jpg  ベートーヴェンで気持ちをリセットした(私は)ので、バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の大作を。

 「6つの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(6 Solo a violino senza basso accompagnato)」BWV.1001-1006(1720)。この曲については2008年2010年というけっこう前に取り上げているが、私にとってはそれだけ畏れ多く、とっつきにくく、多少正直な気持ちを吐露するならば退屈な6曲なのだ。

 構成している6曲は、

 1. 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調BWV.1001(4楽章)
 2. 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番ロ短調BWV.1002(ドゥーブル付の4楽章)
 3. 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調BWV.1003(4楽章)
 4. 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調BWV.1004(5楽章)
 5. 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番ハ長調BWV.1005(4楽章)
 6. 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番ホ長調BWV.1006(7楽章)

で、これらの中には他に編曲、転用されたものもある。
 なおドゥーブルとは、和声進行を変えずに旋律的装飾を加える変奏のことなんだそうだ。

 ソナタとパルティータが各3曲ずつだが、ソナタは教会ソナタの形式で書かれており、またパルティータ(組曲)は当時の室内ソナタであり、全体をソナタと称している。

 先日「6つのヴァイオリン・ソナタ」BWV.1014-1019を取り上げたが、チェンバロを伴うこれらが旋律的なのに対し、同時期に書かれた「無伴奏ソナタ」はビックリ仰天するくらい対位法的に書かれている。
 もちろん、無伴奏のヴァイオリンで完全なポリフォニー音楽を実現することは不可能であり、バッハは音響面と心理面で疑似ポリフォニー音楽の効果を上げているのだ。

 W.フェーリクスは次のように書いている。

 和音でほんとうの多声部を積み重ねていく箇所や、さらにはまた同じくほんとうのポリフォニックな声部進行を実現する箇所などある。かと思うとバッハは、現実には単声部進行である箇所を、一見そこに二声部楽曲が隠されているかのように聞かせる作曲上の工夫をしばしば行っているのだ。

 親しみやすいメロディーの曲もあるが、やはり全体を通じて言えるのはとっつきやすい曲ではないということ。
 が、これが相当崇高な芸術作品であることは誰にでもわかることだろう(おそらく)。

 この曲の自筆譜はそのままでは演奏できない記譜が多く、ヨアヒム=モーザー版など多くの実用版が作られてきた。
 が、今日取り上げるS.クイケンの演奏はクイケンが自筆に基づいて弾いているという。

 これまで聴いたいずれの演奏もなかなかすごいと思うけど、そのなかでもクイケンのは私に妙にしっくりくる。演奏者が作品と格闘しているような圧迫感がないし、変にドロロンえんま君っぽくないのが良い。頑固おやじがふと微笑むような箇所がいくつもある。

 礒山雅氏は「J.S.バッハ」(講談社現代新書)のなかで、クイケンの演奏を「潜在ポリフォニーの効果がよくわかる」、と書いている。

 1999-2000録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。

精神疲労をリズム運動っぽい曲と演奏で吹っ飛ばす♪SoltiのLvB/Sym7

43b8722b.jpg  お気づきのようにこのところバッハづいている私である。

 バカづいてるんだったら、宝くじの1つも当たりそうなものだが、残念ながらそういう予兆すらない。初めて買ってみたロト7で、1つも数字が合致しなかった。これ、ある意味すごいと自虐的に己を賞賛している。
 まぁ、バカな奴につきまとわれてないだけ幸せだと考えよう。

 バッハの音楽は聞き流すのにも向いているが、気持を入れ替えてちゃんと聴きましょうとなると、かなりの集中力が要求される。しかもきちんと鑑賞すると、そのあとしばらくはあの決してウキウキできないメロディーが頭の中で鳴り続ける。このたびは「王の主題」に私の神経系統が支配されてしまった。

 そこで、ちょいと別な音楽で緊張をほぐそうと思うと、それはマーラーやショスタコーヴィチじゃ全然なくて(脳がウニになってしまう!)、古典派とかロマン派(の前期)あたりが候補にあがってくる。

 そんなんで、急に聴きたくなったのがベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の交響曲第7番イ長調Op.92(1811-12)。犬だって胃の調子が悪くなったら草を食べだすように、本能的にこういう曲を欲したのだ。それにベートーヴェンの素行の悪さ、いや、揺るがない強靭な信念は王にも屈しないはずだ。

 第7番は“のだめ”で使われてすっかり日本でも広く浸透したが、メロディーもさることながらリズムが際立つ作品。ワーグナーはこの曲を“舞踏の聖化”と言ったという。
 ところで今の季節、葡萄の正価は高いのだろうか?

 しかも、今回はピリオド演奏じゃなくてモダンのイケイケで力強く、でも爽快な演奏を欲した。
 となれば、ショルティ/シカゴ響のものだ。

 とにかくうっぷんを晴らしてくれる演奏。
 一糸乱れぬアンサンブル、勇壮さ、メタリックではないふくよかな弦の響き。
 気分は、心地よくスポーツをしている、、、人を眺めているよう。
 もっと評価してほしい演奏だ。
 
 ということで、いったんは頭の中からいびつな真珠を追い出して疲れをとった私だが、ワインガルトナーはこの作品について「他のいかなる曲よりも精神的疲労を生じさせる」と語ったという。
 あらまぁ~。

 ショルティのエネルギッシュ・セブンは1974録音。デッカ。

 先週のある日。
 昼は阿古屋係長と2人で道路を渡ったところにある喫茶店へ。
 ハンバーグカレーを食べた。私の舌に、ハンバーグは冷凍食品の、カレーはレトルトの風味を惜しげもなく捧げてくれ、そのアンサンブルは食後すぐに不協和音のようなげっぷへと変化し、私を辟易させた。

 その夜、私たちは中華料理店で食事をした。
 阿古屋係長も一緒だった。私は彼に配慮し、八宝菜は注文からはずした。というのも、昼にハンバーグカレーを食べている私の前で彼が食べていたのは中華丼だったからだ。なんて心配りの出来る人なんだろう!私は。
 そしてまた、私と皆の健康を考えて、なんとか菜の炒め物も頼んだ。すばらしい配慮だ。

 そうそう、なんだかんだ言って、あと2カ月もすると年に一度のドックの季節だ。
 去年、受検者を客とも思わない保健師に腹を立て、1年後は東山のような体になってやると復讐の炎に燃えた私だが、いまだに水枕みたいな腹のままである。
 まいった……

 実は昨日から出張で札幌に来ているのだが、時間の合間を縫って、かかりつけの病院に行く計画だ。
 お薬をもらうためだが、そのためには診察も必至である。
 予約の際に、まだ2カ月もあるのにドックが近いからと偉そうな言い訳をして血液検査はパスしたが、あらかじめ自宅で体重を測ったら69.8kgもあった。
 不思議である。わずかではあるが毎日腹筋運動をしているのに、変化がない。
 もしかして、まだ正月に食べた餅が体内に残っているのだろうか?
 きっと今日もそれぐらいの質量があるだろう。

 今日の夜のJRで帰る。
 駅弁は食べない。がまんする。

弟子に効いたのか?それとも聞いた?♪ペライアのWAM/p協27

ec1b0078.jpg  【わびさび】
  侘寂。
  侘は思いわずらうこと。悲しみなげくこと。閑寂。
  寂は物静かな趣き。枯れた味わい。閑寂。

 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)が死の年に書いた3つの協奏曲のうち、ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595、クラリネット協奏曲イ長調K.622、いずれも「すっかり疲れちまったよ」と、今の自分の置かれている状況を静かに噛みしめるようなワビサビの世界だ(残り1曲のホルン協奏曲第1番ニ長調K.412+K.514については、このような特殊事情がある)。

 ピアノ協奏曲第27番は、モーツァルトがステージに立った最後の演目。
 すっかり聴衆から相手にされなくなり、莫大な借金も抱えていたモーツァルトが、クラリネット奏者ベーアの演奏会に出演させてもらい演奏したものだ。
 
 第26番までのコンチェルトとは趣きを異にする世界。もうウケを狙っている風はない。
 これを聴くと、健康な人は心が洗われるだろうが、悩みがある人はいたたまれなくなる可能性大だろう。

 モーツァルトはこの曲の第3楽章のメロディーを、このあと歌曲「春への憧れ」K.596に転用している。春への憧れ、ですよ!これまた、泣かせるじゃありませんか!

 この作品の枯れた風情をきっちりと味わわせてくれるのがソフロニツキ盤
 今日は一般路線での演奏(?)で、上品で一粒一粒の音が美しいペライアの演奏を。
 オーケストラはイギリス室内管弦楽団で、ペライアの弾き振り。
 1979録音。ソニークラシカル。

 ところで、私のもとにこんなメールが……

 ゲストさんへ
 麻生みゆき【家元】さんからMailが届きました。

 -Mailタイトル-
 「わびさび」の効いた愛人契約希望しております。茶道の家元をしております麻生です。お弟子さんに効いたストレス解消法の1つに愛人契約と言うものがありまして

 -Mail本文-
 http://6r9jjn****.net/read_receivemail.php?id=********
 -ログイン-
 http://6r9jjn****.net/login.php?id=*******&pass=****


 弟子に効いた……ねぇ。
 ある意味、誤字じゃないかも……

凝りに凝った献辞を添えて……♪クイケンのバッハ/音楽の捧げ物

79b1e53c.jpg  その、「音楽の捧げ物(Musikalisches Opfer)」BWV.1079(1747)である。

 J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)が、息子が仕えさせていただいているフリードリヒ大王を訪れたことをきっかけに書かれた作品。

 訪問は1747年5月のことだが、そこでバッハは大王からハ短調のテーマを与えられた。「Thema Regium」と言われるものだが、この主題は実はフリードリヒ大王のオリジナルではないらしい。

 バッハはこの主題をもとに、その場でフォルテピアノによる即興演奏をした。
 ここで言うフォルテピアノというのは“強弱”という意味じゃなく、ピアノの前身(チェンバロの後継)となる楽器のこと。ピアノフォルテとも言う。これが略されて、発達した今の楽器は単にピアノという。カレーライスもライスカレーもカレーと言うのと同じようなものだろう。
 写真はW.フェーリクスの「バッハ 生涯と作品」(講談社学術文庫)に掲載されているものである。

da7b52e8.jpg  バッハはこれらを帰ってから仕上げ、2か月後に「王の命による主題と付属物をカノン様式で解決した(Regis lussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta)」というラテン語の献辞をつけて王に捧げたのだった。
 この語句の各単語の頭文字を並べると、RICERCAREとなる。リチェルカーレである。すごい!やるぅ~っ!

 何がすごいのか理解できずに濃霧の中にたたずんでいるあなた!
 リチェルカーレというのは、フーガへと発展した対位的楽曲で、当時はほぼフーガと同義に使われていたわけ。で、バッハさんはリチェルカーレとなるように工夫された折句を記したのであります。

 曲は、
 1. 3声のリチェルカーレ
 2. 無窮カノン
 3. 各種のカノン
   a) 逆行カノン
   b) 同度カノン
   c) 反行カノン
   d) 反行の拡大カノン
   e) 螺旋カノン
 4. 5度のフーガ・カノニカ
 5. 6声のリチェルカーレ
 6. 2声のカノン
 7. 4声のカノン
 8. トリオ・ソナタ(4楽章)
 9. 無窮カノン

からなる。

46105e07.jpg  使用楽器の指定があるのは、第8曲「トリオ・ソナタ」(fl,vn,cemb)、第9曲(同)、第3曲のb)「同度のカノン」(2vn,vc)だけ。
 「トリオ・ソナタ」でフルート使用の指定があるのは、間違いなくフリードリヒ大王への配慮だろう。

 にしても、最初にこの曲を聴いたときには、「暗ぇー主題!」と思ったものだ。そして暗いままに献呈するバッハにも、すごく凝った作品だということは知ったものの、これが謝意になるのかなと思った。
 まっ、解決したってんだからいいのか……

 今日はクイケン3兄弟とコーエンのチェンバロによる演奏を。
 ということは、ヴァイオリン+ヴィオラ・ダ・ガンバ+フラウト・トラヴェルソ+チェンバロという4人だけの編成。

 楽譜解釈も斬新で、たとえば「6声のリチェルカーレ」は、出版された楽譜では2段の鍵盤書法ではなく各声部が1段ずつ記されているという点から(掲載楽譜。このスコアは音楽之友社刊のもの)、3兄弟の楽器にそれぞれ1声部とチェンバロに3声部を割り当てている。

 暗いトーンのこの作品が、クイケンの演奏ではほのぼのとさえ感じるほどの温かみを放つ。そしてまたこんなに美しい曲だったのかと、あらためて驚かされる。

 これが正統的か正統的でないのかはともかく(私には正統的だと思えてならない)、聴く者はすばらしい捧げ物をいただいた気持ちになるのである。  

 1994録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。

日にちがあいたけど、スペインシリーズ第3弾♪ラヴェル/スペイン狂詩曲

bd28859a.jpg  さて、日にちが空いたが西班牙紀行も最終日(も何もないもんだ)。

 計画も予告もしてなかったし、シリーズ化も考えていなかったが、まぁ、なんとなく最終日。

 グリンカリムスキー=コルサコフとくれば、次はどのロシア人かなって思うでしょうが、ここはそんなことを言ってる場合じゃなくて、有名なラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937 フランス)の「スペイン狂詩曲(Rapsodie espagnole)」(1907-08)。

 ラヴェルにとって、習作と位置づけられる「シェエラザード」を別にすれば、最初の管弦楽曲となるもの。また、1908年に2台のピアノのための編曲版が作られた。

 ラヴェルの父親はスイス人、母親はスペイン出身。その母親が歌うスペイン民謡を子供のころに耳にして育ち、これに影響を受けた。
 そんなわけで、ファリャが言うには、ラヴェルは「スペイン人よりもずっとスペイン的」なんだそうだ。

 曲は「夜への前奏曲」「マラゲーニャ」「ハバネラ」「祭り」の4つからなり、第2曲と第4曲にも第1曲の序奏主題が現われる。 

4c2dd872.jpg  この曲を取り上げるにあたって(どうやら私、「スペイン狂詩曲」についてはこれまで書いてなかったよう)、クリュイタンスやマルティノンの名演、ちょいと変態チックなマゼール(赤いドレスがまばゆい。牛が目にしたらたいへんなことになりそう)なんかを持ち出そうとしたが、急に気が変わってシルヴェストリ指揮ウィーン・フィルのものを。

 たとえば、冒頭。
 クリュイタンスのはとっても官能的だが、シルヴェストリになると妖艶って感じだ。
 またクリュイタンスのは冷めたところがあるが(それがラヴェルの求めるところかもしれないが)、シルヴェストリはラテン系的な、どこか“陽気なかしまし娘”っていうノリを感じる。

 1959録音。EMI。

  昨日は当地も珍しく1日中雪が降り、積もった。
 札幌に比べれば全然たいしたことがないが、除雪車が早朝から出動。先ほどまでガーガーと音がしていた。にしても、なんでこんなにすごい音がするのってくらいやかましいのはどうしてなんだろう。

マラチオンの犯人も逮捕されたし…♪スヴェトラーノフのマラ5

52bd9c76.jpg  「す、すごいわよね、あの小説。女子プロレスラーが相撲取り三人にレイプされるってところ……覚えてますか、荻原さん」
 「は、は、はい……まるで灼熱の鋼のような摩羅ノ海の巨根がズブズブと……ああっ、いやっ。どうしよう!」
 そ、そうよ。必死で抵抗する女を摩羅ノ海はノドワで責めて、両腕をカンヌキに抱え込み……」
 「それを見ていた竿ヶ岳が辛抱たまらず背中に回って送り出し。ああっ!」


 キノコ王国の話の続きではない。

 浅田次郎の「プリズンホテル 4 春」のなかの一節。
 2人の女性が主人公・木戸孝之介の書いた小説について話している場面である。

 一方、摩羅ノ海ならぬマーラーに、“ゴーマンなまでの押しの強さに自ら喜んで寄り切られてしまったアルマ”と書いているのは金聖響。「マーラーの交響曲」(金聖響+玉木正之:講談社現代新書)の交響曲第5番の章でである。
 マーラーがアルマと出会い結婚へと寄り切ったのは交響曲第5番を作曲していたころだった。

4d3ff5b5.jpg  マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02。その後たびたび管弦楽配置を変更)。

 スヴェトラーノフ/ロシア交響楽団による演奏。
 この組み合わせだと力士のような重量感と攻めが期待できそうなものだし、ましてや第5番だから爆演となりそうな感じがする。

 ところが、そんなイメージとは違って意外とノーマル路線。骨太さは全曲を貫いているし、「おっ」というアクセントづけもあるが、私をゾクゾクさせないものだ。
 それは、響きがやや甘ったるいせいもある。録音のせいだろうが。

 1995録音。ハルモニア・ムンディ。

 昨日は暖かかった。
 春が来たかのようだった。
 が、これに騙されてはいけない。
 寒気は緩んでも、タイツを履き忘れないよう気は緩めてはいけない。
 もっとも、タイツを履いてズボンを履き忘れるよりは、タイツを履き忘れてズボンを履いた方が何十万倍もマシだが……

キノコの王様ってだぁれ?♪フリードリヒ2世/フルート・ソナタ

a5d11a7f.jpg  最近やや意識してキノコ類を食べるようにしている。

 “菌活”のテレビCMに刺激されたわけではない。むしろあのCMは心の別なところを刺激する。なかなか面白いが、ユーモアを解さない人々からクレームは来ていないか心配である。

 キノコは体に良いと昔から言われている。
 今も言われている。
 だから、私には科学的なことはわからないが、少なくとも昔から今の時点までは、やっぱり体に良い食べ物なのだろう。

 サルノコシカケがガンに効くという話も、私は、どこで仕入れたか忘れたが子どものころから知っていた。

 私の祖父は会社を定年になり、第2の職場も終わったあと、自宅の庭でシイタケ栽培を始めた。こう書くということは、ホダ木を5~6本軒下に並べるような家庭きのこ園ではなく、ビニールハウスを建てて、かなりのホダ木を積み上げていた。そしてそれをどこかに出荷・販売していた。

 私が浦河から札幌に引っ越してきて祖父母と一緒に住むようになったとき、小学生だった私も小遣い稼ぎで収穫を手伝ったが、記憶では採れても日に2~3箱だったと思う。だからこそバスに乗って出荷先に持って行けてたんだけど。

 それまでシイタケは好きだったが、だんだん嫌になっていった。というのも、ハネ品ばかり食卓に昇るわけで、それは見た目も味も悪かった。そしてまた、湿気の高いハウスの中はワラジムシの天国で、それがまたシイタケには罪はないが、傘の裏のヒダヒダとワラジムシのヒダヒダ模様がオーバーラップしてしまったのだった。あるいは、小さなワラジムシがひだに潜り込んでいることだってあった。

 が、最近は健康のことを考えてキノコを食べるようにしている。
 カレーにキノコを入れるようになったのも、キノコ嫌いの子どもが家にいないせいもあるが、“憎まれっ子世にはばかる”を目指す手段の1つである。

 それでも、シイタケはあまり買わない。悪いイメージがいまだに残っているのと、ほかのキノコに比べお値段が高いからだ。
 なお、先日の函館出張の折には、居酒屋でシイタケ焼きを食べたことをご報告しておく。

 北海道には“きのこ王国”というレストラン併設のお土産屋がいくつかある。
 ということは、キノコ好きが意外と多いということなんだろうが、冷静に考えるとキノコの王国ってなんか変な感じがする。
 王国なんだから、じゃあきっと王様もいるんだろう。
 キノコの王様となると、にわかに卑猥な感じがしてくる。
 まっ、いいんだけど。

 キノコじゃなくてジャガイモの王様はフリードリヒ大王だ。私が勝手にそう言っているだけ(しかもこの場限り)だが、第3代のプロイセン王(在位1740-86)だったフリードリヒ大王(フリードリヒ2世。Friedrich Ⅱ 1712-86 ドイツ)は、ドイツにおけるジャガイモ栽培の奨励者だったのだ。
 一般大衆にあまり見向かれなかったジャガイモは、大王の努力によって栽培が広がりドイツの食料事情の改善に役立った。

 が、私たちがこの大王から恩恵を預かっているのは、音楽愛好家だったということ。
 クヴァンツにフルートを習い演奏会を開くほどの腕前であったが、彼の宮廷に仕えた音楽家にグラウン、ベンダ、C.P.E.バッハなどがいた。

 1747年にJ.S.バッハは次男のC.P.E.バッハが仕えているフリードリヒ大王を訪れたが、そこで王からテーマを与えられ、2か月後に完成させたのが「音楽の捧げ物」である。

 フリードリヒ大王は作曲もしたが(フルート・ソナタだけで121曲あるという)、ここでは「フルート・ソナタ ホ短調」をご紹介しておく。

 華やかさと憂い、素朴さと優雅さといった様々な表情を見せる、なかなかな(失礼!)曲である。
 
 先日話題にした古楽三兄弟=クイケン三兄弟の3番目であるバルトルト・クイケンのフラウト・トラヴェルソ、アスペレンのチェンバロで。

 1995録音。ソニークラシカル(原盤VIVARTE)。

 このCDには大王に関わった音楽家たちの作品も収められている。

ホームの待合室で駅弁を食べるサラリーマン2人♪スクリャービン/Sym4

e54a34b2.jpg  おととい、つまり函館出張から帰ってきた日。

 予定では、飛行機が新千歳空港に着いたあと乗り換えのJRの発車時刻までには1時間あった。
 また、札幌に戻るSFさんも、2時からの会議に間に合えばよいというこおとで、やはり1時間後の列車で間に合う計算だった。

 だから「お昼ご飯は3人仲良く空港の中で食べましょうね」と、乙女のように誓い合い、夢膨らませていた。

 ところが函館空港に着くと、出発遅れの案内。

 私たちが乗るのは新千歳からの折り返し便。その機体が新千歳をまだ離陸していないという。あまりのショックに言い訳を聞きそびれたが、たぶん雪のせいだろう。

 それでも出発の遅れは15分で、まあ余裕はあった。

 それが、ありがちな話どおり、さらに遅れは拡大。

 空港に着いたら駅までダッシュしなきゃ乗り継げないかも、という危機的状況となった。
 遅れ拡大のアナウンスを耳にした私たちは、若くてハンサムな担任の先生がブスで意地悪な養護教諭と恋仲だったことを知ってしまった女学生のように、困惑し悲しんだ。

 結局25分遅れで新千歳空港に着き、SFさんはそのまま札幌に向かった。
 私たちは地下の新千歳空港駅まで走らずに済んだものの、ジンギスカン定食はもちろんのこと、飲食店で食事をする余裕はなく、乗換駅の南千歳のホームで駅弁を買うことにした。

290b71e9.jpg  これは私にとって思いがけない幸運をもたらした。こういうのを怪我の功名って言うのだろうか。

 大学生のとき、私は群馬のK君たちと国鉄の急行に乗ってアポイ岳登山に向かった。
 心優しい私たちは、お花の写真を撮るサークルを作ったが、その撮影旅行である。

 あのとき、“急行えりも”に乗って途中の苫小牧駅に着いたときはちょうど昼どき。

 立ち売りのおじさんと目が合い、窓越しに買った“サーモン寿司”。これが抜群に美味しかった。

 この有名な駅弁は、“まるい弁当”というところが製造販売している。
 一時期新千歳空港駅でも買えたが、今やそこは佐藤水産の弁当にとって代わられ、“サーモン寿司”は苫小牧駅とここ南千歳駅でしか買えない。となると、購入する機会は奪われたようなものだ、私にとっては。

 「生魚が苦手と言ってるわりに、なぜサーモン寿司?幕の内の方がいいんじゃないの?」と私の行動に疑問を持ち、安否を気遣ってくれている読者もいるだろう。ホラ吹き野郎と誤解されている恐れもある。
 しかし、サーモン寿司のサーモンは生じゃない。スモークサーモンなのだ。それを特製のタレで仕込んでいるという。

 確かに幕の内も美味しそうだった。かなり。
 でも、この絶好の機会を逃したら、私は二度とサーモン寿司を口にできないかもしれない。

 「ここで売っているサーモン寿司が美味しいんだ」と、私は何十年も食べてないくせに、さも通のような口ぶりで日向山課長に教えてあげた。
 「そっすか!それは楽しみ」
 課長は大いに喜んだわけじゃないが、そこそこのリアクションをしてくれた。

 昔の公衆電話ボックスを2倍くらいの広さにしたような箱の中で、おばさんが座っていた。
 つまり、そこが駅弁販売所。
 もちろん私はサーモン寿司を買った。700円だ。

 続いて日向山課長が「アタシもサーモン寿司」と言った。

 おばさんは「今ので売り切れです」と申し訳なさそうに答えた。
 私は弁当を持つ手に一層力を入れて言った。「残念だったね。別なのにすれば?」

 「そっすね」と幸い日向山課長はそんなに残念がることはなかった。そして「じゃあ、イクラ弁当!」と言い、1000円札を出した。
 が、それは1100円だった。
 本人は1000円以上するとは予想だにしてなかったのだ。
 私はちょっぴりすまない気もあったので、ポケットから100円を出してそれに足した。日向山課長はとっても恐縮していた。いいの、いいの。イクラを賞味してね。それとイクラ弁当を買う時はいくらか確認してね。

 飛行機が遅れて焦ったわりに、南千歳駅のホームに降り立ったのは乗り換えの特急が来る30分前。
 乗った飛行機がターミナルビル近くに駐機して早く行動できたのが勝因だった(バスでのお迎えなので、遠いところに停められるとやたら時間がかかる)。

 ホームの、やはりガラスで四方を囲まれた新生児室のような待合所で、私たちは弁当を食べた。列車の椅子に座ってからゆっくりと、なんて言ってると、夕飯のときになっても腹がすかないからだ。

 サーモン寿司は冷えて硬くなっていたけれど、でも口に含むと青春の味がした。鮭で青春ってのも妙だが……。
 特製タレ味のサーモンは、私の舌をしびれさせた。あぁ恍惚(エクシタシー)……

 スクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915 ロシア)の交響曲第4番Op.54「法悦の詩(Le Poeme de l'extase/The Poem of Ecstasy)」(1908)。

 この作品についてはここでも書いているが、要はその名のとおりエクスタシーを音楽で表現したものだ。が、それは性的、宗教的な絶頂であり、食べ物のこととは関係ない。

 今日はペシュク/チェコ・フィルの演奏。これ、あまりエロエロしていない。真面目に取り組んでいるのはわかるが、「えっ、なに?ものたりなぁ~い」ってお叱りを受けそう。マゼールとかストコフスキーのような、イヤァ~ン度は低いと言えよう。
 今回のケースに当てはめるなら、ご飯が冷え切っていなかったらもっとス・ゴ・カ・ッ・タのにぃ~、っていう感じだ。
 音はきれいで、大編成のオケの響きもきちんと聴き取れる。

 1985録音。スプラフォン。 



6f289a13.jpg  今回の行き来で浅田次郎の「プリズンホテル」(集英社文庫)の最終巻「4 春」を読み終えた。

 義母の富江は心の底から喜んだ。孝之介が文壇最高の権威「日本文芸大賞」の候補になったというのだ。これでもう思い残すことはない……。忽然と姿を消した富江。その行方を気に病みながらも、孝之介たちは選考結果を待つべく「プリズンホテル」へ。果たして結果はいかに? 懲役五十二年の老博徒や演劇母娘など、珍客揃いの温泉宿で、またしても巻き起こる大騒動。笑って泣ける感動の大団円。

 この小説の初出は1995~96年、“週刊アサヒ芸能”でだが、第4巻に“……見ましたか、『朝までテレビ』の論争でさー、大島ナギサに飛び蹴りくれちゃって、猪瀬ナオキの首しめてよー、しまいにゃ舛添先生にバックドロップ決めちまったでやんの”って下りがある。

 おぉ、イノセナオキ!

 このころ、猪瀬直樹氏は「日本の研究」という本で文藝春秋読者賞を受賞した。だから、小説の主人公・木戸孝之介が賞をとるかどうかっていう場面で、氏の名前が登場したのだろう。

 私はちっとも知らんかったが、いのせなおき氏ってそんな前から有名な人だったんですね。

 そういえば、日向山課長、バクバクとイクラ弁当を食べてたけど、感想は言ってなかったな……。ちゃんと味わわなかったのかな?

コンビがコンビニ店内の雰囲気を老朽化させる?♪Silのフランク/Sym

48337c61.jpg  今回の函館出張は、同じ支社の日向山課長と本社のSFさんと一緒だった。
 “ひなたやま”というのはもちろん仮名だが、ある種の意味を持たせた仮名である。
 一方SFという名には、近未来的とか宇宙人的とかいう皮肉や揶揄をにおわせる意味はまったく込められていない。単にイニシャルを利用しただけだ。

 午後4時ころに函館に着いた私たちはまずはホテルにチェックイン。
 駅前のホテルだったが、フロントがやたら混んでいた。客1人1人への対応にやたら時間がかかっているのだ。やれやれまいったわい。
 そして自分たちの番になったが、そのときに限ってスムーズにチェックインの手続きが終わってしまった(ような気がしたのは)なぜだろう。

 その少しあとに再び1階に行ってみると、フロントは開演後の映画のチケット売り場のように閑散としていた。やれやれ、いちばん悪いタイミングで到着してしまったってわけだ。われわれも、ほかの客たちも。

 そのあとに仕事に出かけ、7時過ぎに駅前に戻る。
 そのときに乗ったタクシーの運転手に、日向山課長が尋ねる。
 「駅前の、〇〇っていう店知ってますか?そこに行きたいんだけど」

 日向山課長は、前に何度か行ったことがあり、ごっこ汁が美味しいというその店で夕食をとることをプランニングしていたのだった。

 運転手は2秒沈黙したあと、答えた。
 「あの店、いまビルごと更地になってますけど……」

 結局、駅近くの居酒屋に入った。
 活イカは「今日は獲れませんでした」ということ。
 そんなわけで、函館らしいものはあまり食べず、ふつうに美味しい居酒屋メニュー(明太子やらしいたけ串やら鶏串とか、活でないふつうのイカ刺しとか)でおなかを満たした。

 帰り道。
 水を買うためにコンビニに寄ったが、2人いた店員がどっちもけっこうな齢のおじさんで、なんだか靴の修理コーナーを思い起こさせた。
 ちょっぴりアン(暗)な気分になった私は、甘いものでも買おうといけないことを考え、でも、あらあらアンパンは200円もして(何にこだわったのだろう?)、だからベルギー・ワッフルを買って、部屋に戻って食べちゃった。

 ところで“ごっこ”というのは魚の名前。正式な和名はホテイウオというらしい。
 季節のもので、ごっこ汁はたいそう美味しいらしい。そのことは耳にしたことはあったが、魚を食べることに興味がない私は、今回口にできなかったことを残念に思うどころか、ちょっとほっとしている。

 今回のホテル予約は日向山課長がしてくれた。朝食付きになっていた。

 翌朝、朝食会場へ開場5分前に行くと、もうあたりにはおっさんたちが10人ほどたむろしていた。まるでエサを待つ老家畜のようだ。
 こんなに早くから食い物のことばかり考えるなよ!と言いたい。そういう私もその1人だが……

db7183cf.jpg  しかし混んだところで一人ぼっちで食事をするのが大の苦手な私。
 気分はニ短調。

 持っていた朝食券を握りしめ、私はさっそうと外へ飛び出し、その足で隣のコンビニ(前の晩とは違う店)に行き、幕の内弁当と、“なめこ汁”と“七種の野菜みそ汁”とどちらにするか悩んだ末、野菜たっぷりみそ汁にし、店内にはほかに客がいなかったので、店員の勧められるがままに弁当を温めてもらった。

 その若き女性店員は、「から揚げはいかがですか?」とセールスしてきたが、さすがに7時前にから揚げは堪忍してぇ~だ。
 売り上げアップに対する積極的な姿勢に、たいした店員だと思ったが、名札をみると店長と書いてあった。なるほど。いずれにしろたいしたものだ。

 部屋に戻り弁当を食べながら目にしていた風景が、上の写真である。
 ご覧のように、隣とはいえ、寒い中コンビニに即断直行した私の、人見知り度がわかるだろう。

 フランク(Cesar Franck 1822-90 ベルギー→フランス)の交響曲ニ短調(1886-88)。
 シルヴェストリ指揮フィル・ハーモニア管弦楽団の、ちょっとマニアックな演奏。
 クレンペラーの演奏もマニアックな感じがするものだが、シルヴェストリの演奏はあそこまで頑固な感じはないし重くもない(むしろオヤッと思わせる、さらっとしたところがある)。
 ただ一筋縄じゃないのは、通常は背景で地味に流れているメロディーが強調されたり、金管がいろんな箇所でアヤをつけたりしているところ。
 特に第1楽章では暗さは増幅され、恐怖映画にそのまま使えそう。これを聴いている人を写真に撮ったら、背後に何かが写りこんでいそうな感じだ。

 1959録音。EMI。

食い気三兄弟!んっ?♪バッハ/vnソナタ

7ec8c679.jpg  いや、すまない。

 食い気三兄弟じゃなくて、クイケン三兄弟のわざとらしい間違いである。

 いちばん上のお兄さんはヴィーラント・クイケン。ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者だ。
 次兄は、先日も名前が出て来た(ラ・プティット・バンドの指揮者でもある)シギルヴァルト・クイケン。バロック・ヴァイオリン奏者である。
 末っ子はバルトルト・クイケン。こちらはリコーダー奏者。
 ベルギーの古楽三兄弟なのである。

 今日はS.クイケン(1944- )のバロック・ヴァイオリン、そしてレオンハルトがチェンバロを務めてるバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「6つのヴァイオリン・ソナタ(6 Sounate a cembalo certato e violino solo, col basso per viola da gamba accompagnato se piace)」BWV.1014-1019(1717-23)。ヴァイオリンとチェンバロのための作品である。

 6つの曲は、

 第1番ロ短調BWV.1014
 第2番イ長調BWV.1015
 第3番ホ長調BWV.1016
 第4番ハ短調BWV.1017
 第5番ヘ短調BWV.1018
 第6番ト長調BWV.1019

である。

 この作品の作曲期間(1720)年に、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」BWV.1001-1006も作曲されているが、“チェンバロとのソナタ”と“無伴奏ソナタとパルティータ”は、ヴァイオリン演奏にも長けていたJ.S.バッハのこの楽器のための双璧である。

 「無伴奏ソナタとパルティータ」に対し、チェンバロを伴うこちらはヴァイオリンのメロディー性が強調されている。と同時に、チェンバロを通奏低音の位置づけから持ち上げ2声を弾かせている。このため、このソナタは3声部の三重奏となるように作られている。
 「無伴奏」は物音1つたててはいけない、ましてやエヘラエヘラしながら聴いてはいけない音楽といった威圧感があるが、こちらはリラックスして耳を傾けることができる。

 各曲とも教会ソナタの4楽章構成だが、第6番だけは5楽章構成で中間の第3楽章はチェンバロ独奏の曲になっている。
 
 S.クイケンのヴァイオリン、レオンハルトのチェンバロによる1973年録音のものは、若きクイケンの録音の代表作。
 クイケンが復活させたバロック奏法とは、解放弦を積極的に用いるもので、バロック弓でバロック仕様のヴァイオリンを顎ではさまない形で弾く。
 そこから姿を現す音楽は、古くて新しい生命力を感じさせる

 数多い同曲の録音の中でもピリオド楽器による随一の名盤です。室内楽的な妙味をあますところなく再現した、S.クイケンとレオンハルトの自在で格調豊かな倍音の多い響き。ここに収められた作品は、バロックの伝統であった数字付通奏低音から脱却し、ヴァイオリンとオブリガート・チェンバロの3声部すべてを楽譜化してソロ・ソナタにおける鍵盤楽器の役割を拡大し、古典派の二重奏を予告するものです。S.クイケンとレオンハルトという名手2人によるこの演奏は、バッハへの深い理解と共感に溢れたもので、数多い同曲の録音の中でも傑出したものです。

 このように発売元も申しております。

 1973録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。

 昼前の飛行機で“はーるばる来たぜ函館ぇぇぇ~っ!”から新千歳空港に飛び、JR新千歳空港から南千歳まで快速エアポートに乗り、南千歳からスーパーとかちに乗り換える。
 なんか旅行者みたいだ。
 問題は、昼はどこで何を食べるかである。

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