ベートーヴェンで気持ちをリセットした(私は)ので、バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の大作を。
「6つの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(6 Solo a violino senza basso accompagnato)」BWV.1001-1006(1720)。この曲については2008年と2010年というけっこう前に取り上げているが、私にとってはそれだけ畏れ多く、とっつきにくく、多少正直な気持ちを吐露するならば退屈な6曲なのだ。
構成している6曲は、
1. 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調BWV.1001(4楽章)
2. 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番ロ短調BWV.1002(ドゥーブル付の4楽章)
3. 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調BWV.1003(4楽章)
4. 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調BWV.1004(5楽章)
5. 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番ハ長調BWV.1005(4楽章)
6. 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番ホ長調BWV.1006(7楽章)
で、これらの中には他に編曲、転用されたものもある。
なおドゥーブルとは、和声進行を変えずに旋律的装飾を加える変奏のことなんだそうだ。
ソナタとパルティータが各3曲ずつだが、ソナタは教会ソナタの形式で書かれており、またパルティータ(組曲)は当時の室内ソナタであり、全体をソナタと称している。
先日「6つのヴァイオリン・ソナタ」BWV.1014-1019を取り上げたが、チェンバロを伴うこれらが旋律的なのに対し、同時期に書かれた「無伴奏ソナタ」はビックリ仰天するくらい対位法的に書かれている。
もちろん、無伴奏のヴァイオリンで完全なポリフォニー音楽を実現することは不可能であり、バッハは音響面と心理面で疑似ポリフォニー音楽の効果を上げているのだ。
W.フェーリクスは次のように書いている。
和音でほんとうの多声部を積み重ねていく箇所や、さらにはまた同じくほんとうのポリフォニックな声部進行を実現する箇所などある。かと思うとバッハは、現実には単声部進行である箇所を、一見そこに二声部楽曲が隠されているかのように聞かせる作曲上の工夫をしばしば行っているのだ。
親しみやすいメロディーの曲もあるが、やはり全体を通じて言えるのはとっつきやすい曲ではないということ。
が、これが相当崇高な芸術作品であることは誰にでもわかることだろう(おそらく)。
この曲の自筆譜はそのままでは演奏できない記譜が多く、ヨアヒム=モーザー版など多くの実用版が作られてきた。
が、今日取り上げるS.クイケンの演奏はクイケンが自筆に基づいて弾いているという。
これまで聴いたいずれの演奏もなかなかすごいと思うけど、そのなかでもクイケンのは私に妙にしっくりくる。演奏者が作品と格闘しているような圧迫感がないし、変にドロロンえんま君っぽくないのが良い。頑固おやじがふと微笑むような箇所がいくつもある。
礒山雅氏は「J.S.バッハ」(講談社現代新書)のなかで、クイケンの演奏を「潜在ポリフォニーの効果がよくわかる」、と書いている。
1999-2000録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。