私だって決して無計画じゃない。
日常生活では計画未達、目標未達が習慣化しているかもかもしれないが、未達になるということは逆に言えば計画も目標もあるということだ。
先日、マンションの郵便受けに1枚のチラシが入っていた。
大きな文字を見た最初は金融会社のものかと思ったが(「ご利用は計画的に!」)、某新興宗教のものだった。
ところで、私が大学時代に所属したゼミの教授は熱心なクリスチャンだった。そしてまた、その下にいた講師はまったくの無宗教者だった。
それは良いとして、その熱心なクリスチャンの教授でも「中学生のころまでは、兄がときどき家に持ち帰ってきたキリスト教関係の雑誌は、暗い感じがして好きになれなかった」と言っていた。
昔、街角で手渡されたイラスト満載の勧誘パンフレット。その宗派が何だったのかは知らないが(なかに“マルモン教会”とか“アホバの証人”とけなすような表記があったので、少なくともモルモン教やエホバの証人以外のものだったのだろう)、あれに載っていたイラストも暗 ~い雰囲気全開だった。でも、大切に保管しときゃよかったと悔やまれる。
そんなこんなで、今日はバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)のコラール。
レオンハルトが1988年に録音したオルガン作品集で、ここには「教理問答書コラール(21のコラール前奏曲。Katechismus Chorale)」BWV.669-689(1739刊)と「27のコラール編曲(27 Choralbearbeitungen)」BWV.714-740(?)から抜粋して収録されている。またほかに、「トッカータ ニ短調」BWV.913(1708以前)と「前奏曲とフーガ ホ短調」BWV.533(1708以前)も収められている。
なんというか、なかなかマニアックな選曲。つまりはバッハ・オルガン名曲集ではない。
が、あまり聴かれないものでも、そして編曲物もあるが、やはりバッハはバッハという荘厳かつ堂々とした音楽が鳴り響く。
ちなみに発売元も、次のように書いている。
バッハが教会オルガニストの地位に就いていた期間は比較的短いものでしたが、生前は作曲家としてよりもオルガンの名手、オルガン鑑定の専門家として広く知られていました。レオンハルトは、チェンバロだけでなくオルガンの超名手でもあり、アムステルダム市のフランス改革派教会付オルガニストを長年務めるほど、バッハのオルガン作品にも精通しています。ここでは大曲・名曲主義に流されないレオンハルト独自の視点から、バッハのあまり知られていない作品が選ばれ、オルガンの銘器を弾いての名演が繰り広げられています。
ものは言いよう、いや、書きようって感じもしないではないが……
ドイツ・ハルモニア・ムンディ。
でも、この手の音楽って「よし、聴いてみるぞ!」っていう能動的な姿勢、つまりはあらかじめ再生計画を立てないと(倒産するみたいね。違うの。playの計画ってこと意味なの)、なかなか思いつきでCDをかけることはない。少なくとも私は。
それだけ気難しく威厳があるってことだが、なんとまぁオルガンの響きが美しいことよ!
February 2014
先日出張に行ったときのこと。
昼は何にしようかと考えた結果、某そば店の本店に行くことにした。
が、着いたら“本日定休日”。
そこで、今度は別なそば屋を目指した。
が、そこも“本日定休日”。
結局は道沿いの中華料理店で担担麺を食べたが、担担麺に肉そぼろと温泉玉子がのった小ライス、ザーサイにウーロン茶がついたセットが900円と、そのお安さに驚いた。
味?
美味しかったですよ。けど、細めの麺は私の好みとはビミョーに違っていた。
その日の夜。
現地の方々の話によると、最初に向かった某そば店の本店はあまり美味しくないということだった。二流の味だと酷評する人もいた。
でも、その人たちが口をそろえて言うには、郊外にある支店は美味しいということだった。
本店と支店でそんなに味が違うものかと不思議な感じもしたが、もしかすると口裏を合わせて私たちを騙そうとしたか、あるいは定休日で食べ損ねてかわいそうだと思って慰めてくれたのかもしれない。
翌日、その支店に行って親子そばを食べたが、ふつうだった(ふつうに美味しかったということ)。
さて、演奏によってはダサい二流作品のように聴こえちゃう。
チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第3番ニ長調「ポーランド(Polish)」Op.29(1875)は、その危険にさらされている作品の1つに思える。ちゃんとしないと(子どもに「ちゃんとしなさい!」と叱るように、けっこう曖昧な感じだが)散漫になってしまう。
前に触れたように「ポーランド」というのは第5楽章(この曲は5つの楽章からなる)に「ポロネーズのテンポで」という指示があることから、イギリスで演奏されたときに付けられた題である。だから音楽そのものにポーランドがどうしたこうしたという意味はない。
ちなみにポロネーズというのはショパンの作品なんかで言葉は有名なので、ボロネーゼのマヨネーズがけと思う人は数人しかいないと思うが、ポーランドの代表的な舞曲である。ただし、民族的なものではなく宮廷の儀式の中で発達したという。
ゲルギエフ/ロンドン交響楽団の演奏は、ハッタリをかましてアドレナリン効果で表面的な興奮をもたらすようなものではなく、豊かな情感でこのシンフォニーの魅力を余すところなく伝えてくれる。
いたずらに重くもなく、かといって軽過ぎず、私としてはとても満たされる演奏だ。とにかく弦の歌い回しが美しい。
2011年ライヴ録音。LSO Live(SACD)。
某そば店の名を知りたいって?
それは書くと本店にご迷惑をおかけしかねないので、遠慮しておく。しかも私自身は本店で食べたことがないのだし……。
ディーリアス(Frederick Delius 1862-1934 イギリス)の「奇想曲と悲歌(Caprice and elegy)」(1930)。独奏チェロとオーケストラのための作品である。
この曲もE.W.フェンビーの助けを借りて完成した曲。
ディーリアスは1888年から8年間をパリで過ごしたが、そのときに梅毒に感染した。そのために最後は体が麻痺し視力も失うことになったが、ディーリアスのファンだった作曲家のフェンビー(1906-1997)が無償の筆記者としてディーリアスの下で5年間働いた。
フェンビーの献身的とも言える助けがなかったなら、私たちのディーリアス・レパートリーは実に寂しいものに終わっていたのだ。
ちなみにフェンビーが亡くなったのは2月18日。私が生まれたのと月日は同じだ。だからどーしたって話だけど。
「奇想曲と悲歌」はディーリアスの作品の中でもそう多く聴く機会があるものではない。3分半と5分ほどの2曲からなるが、心洗われるような(それがディーリアスの特徴だが)音楽だ。
ロイド・ウェッバーのチェロ、マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団の演奏で。
1994録音。デッカ。
ちょいと忙しい日々が続いていて記事が短いけど許していただきたい。
「いえ、大歓迎です」って声が聞こえてきそうだけど……
S.ヴォルコフの(偽書と言われている)「ショスタコーヴィチの証言」(1980:中央公論社)には、以下のような記述がある。
もちろん語っているのは(しつこく断っておくと、偽書と言われているが)ショスタコーヴィチである。なお、ボロジンというのはボロをまとった人のことじゃなく、ボロディンのことである。
ボロジンの音楽を、わたしはおよそのところ、ひじょうに高く評価しているが、それを支えているいわばイデオロギーには、つねに賛同しているわけではない。しかし、いまはイデオロギーなど問題ではない。ボロジンの作曲家としての才能は偉大なものであった。あれほどの才能に恵まれていたなら、西欧の作曲家なら誰でも仕事に打ちこみ、つぎからつぎへと交響曲やオペラを書きあげて、市長のように裕福な生活を送れたことだろう。
だが、ボロジンはどうだったか。彼についての物語は、局外者には現実離れの光景と思われるが、われわれにとっては別に不思議でもなんでもない、ごく普通の、よく見受けられる光景なのである。確かに、音楽のほかに、ボロジンは化学の専門家であり、触媒と沈殿物の分野でなにかを発見して有名になったことは誰でも知っている。わたしの会った化学者たちは、それが本当に重要な発見であると証明していた。
―(中略)―
しかしボロジンには、化学のほかに、「女性解放運動」の問題もあった。―(中略)―彼はまさしく女性の教育の問題に没頭し、年が経つとともに、ますます慈善事業、これもやはりもっぱら女性解放の問題にかかわる事業に専念するようになった。そしてこの事業が、作曲家としてのボロジンを破滅させたのであった。
友人たちの回想は教訓的な光景を描き出している。ボロジンの住居は通り抜けられる廊下に似ていた。婦人や若い娘たちがいつでも好きなときに彼のところにやってきては、朝食や昼食や夕食を中断させる。ボロジンは食事もそこそこに、お茶も飲み終えずに席を立ち、ありとあらゆる依頼や陳情を処理するためにすぐに出かけるのだった。
―(中略)―
ボロジンは合間を見て、少しずつ作曲していた。もちろん、住居のどの部屋にも、どのソファーにも、それこそ床の上にも、客の誰かが眠っていた。彼は言うまでもなく、ピアノの音で眠っている人々の目をさます気はなかった。
リムスキイ=コルサコフがボロジンのもとを訪れ、たずねたことがあった。「なにか書きましたか?」ボロジンは答えて言った。「書きましたとも」。だが、彼が書いたのは、女性の権利を擁護する手紙であった。そしてこれとよく似た冗談は、オペラ「イーゴリ公」のすでに完成した部分をオーケストラに編曲する場合にも起こった。「いくつかの断片をオーケストラ用に書き変え(ペレロジール)ましたか」「置き変え(ペレロジール)ましたとも。ピアノから机の上に置き換えたのですよ」。
キエフが、ウクライナがたいへんな状況になっている。
ボロディン(Alexander Borodin 1833-87 ロシア)の歌劇「イーゴリ公(Prince Igor)」。12世紀のキエフ公国の分裂時代を舞台にしている。
未完に終わったが、リムスキー=コルサコフとグラズノフが完成させた。
特に序曲については、ボロディンが生前にピアノで演奏したものを記憶していたグラズノフが仕上げた。
もっとも、グラズノフは酔っぱらうと、“記憶”にもとづいて作曲したのではなく、ただボロジンのために自分で作曲したのだと白状したと、“証言”には書かれているが……。
でも、グラズノフ自身の作品を聴いている限り、「イーゴリ公」序曲がグラズノフのオリジナルとはとても思えない。やっぱ偽書ってことか?それともグラズノフは酔うとほらを吹く癖(へき)があったのだろうか?
シュミット/ロイヤル・フィルの演奏はスケールが大きくどしっと構えた演奏。ありそでなさそな、堂々たるものだ。
1996録音。alto。
序曲のほかに、「だったん人(ポロヴェツ人)の踊り」(「娘たちの踊り」を含む)、「だったん人の行進」も収められている(合唱は加わっていない)。
なお、我が家にはソファは1つしかないことを申し添えておく。
私が好きな作曲家で不動の地位にあるのは、マーラー、ショスタコーヴィチ、伊福部昭だが、それに加えベルリオーズ、C.P.E.バッハもかっなり好きだ。あと、ボロディンも。
そんでもって今日はC.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-88 ドイツ)のシンフォニア集を。
ツァハリアス指揮ローザンヌ室内管弦楽団による、2013年録音のもの。
収録作品は
シンフォニア ハ長調Wq.174,H.649(1755)
シンフォニア ヘ長調Wq,175,H.650(1755)
シンフォニア ホ短調Wq.178,H.653(1756)
シンフォニア 変ホ長調Wq.179,H.654(1757)
シンフォニア ト長調Wq.180,H.655(1758)
シンフォニア ヘ長調Wq.181,H.656(1762)
の6曲。Wq.177が飛ばされているのは、Wq.177はWq.178の異稿(編成が弦楽合奏)だからだろう。
CDをplayするといきなり爽やかすぎる音楽、演奏が耳に飛び込んでくる。脳が、ノーミソが「潤うぅぅぅ~っ」と喜び、ニューロンたちがヒアルロン酸のさざ波に癒される感じだ。
C.P.E.バッハのシンフォニアとしては、これらは初期のもの。
「6つのシンフォニア(ハンブルク交響曲)」Wq.182(1773)や「4つのシンフォニア」Wq.183(1780刊)に比べると過激度、怒濤度は少ない。いずれもベルリン時代に作曲されているが、この地の保守的な趣味に合わせたらしい(Wq.178はかなり革新的だが)。
音楽が爽やかな上に(作曲家の肖像とこれほどミスマッチな例も少ないのでは)、加えて演奏がみずみずしい。
この6曲のなかでも、とりわけ私が好むのはホ短調Wq.178。過激度も高い。
すがすがしさが、この曲の持ち味を殺しちゃっている。まぁ、半殺しぐらいだけど。低音がズシンと来てほしい。レミー盤のようにホルンがいかれちゃって欲しい。ベルリン古楽アカデミーのように叫んでほしい。
というわけで、Wq.178の演奏には不満が残る。
2013録音。MDG(SACD)。
C.P.E.バッハは本年が生誕300年。
みずがめ座の私は先日誕生日を迎えてしまったばかりだが、生誕300年のエマヌエル氏に比べるとまだまだ小僧だ(ゾウガメかっ!?)。
ちなみにモーツァルトはC.P.E.バッハについて、「彼は父であり、われわれは子供だ」と言ったという。
それはともかくとして、今日は日向山課長たちと道東方面に出張に行って来る。
その日向山課長に、昨日の夕方、スーパー(フクハラ)でばったり会った。
彼の買い物かごには、その時点でタマネギが1個入っていた。
だからなに?って話だが……
私の腹もだらっとしてしばらくなるが、自宅庭のコニファー“ブルーヘヴン”もだらっとしてしまっている。
しかし、ブルーヘヴンの場合は本人が摂生していないとか、運動不足だとか、食べ過ぎ飲みすぎだとか、そういう自己責任の欠如に起因しているのではない。そこが育て主である私と根本的に違う。
金曜日に出張で札幌に来て、そして本日赴任地に戻るが、前回すでに気づいていたものの、このコニファーのことで私は不安を感じ、苦悩を抱えたのだった。
えっ?セイコーマート?
それは関係ない。
ただ昨日の朝、朝刊を買いに行ったのだが、まだ薄暗いなか、燦然と輝くオレンジ色の看板が頼もしかったので写真に撮ってみただけのこと。朝刊だけのつもりだったが、ついでに100円総菜のキムチも買ってしまった。
店に向かう途中、犬を散歩させている人とすれ違ったが、私のように犬もアナコンダも連れずただ1人歩いている姿は不審者に思われるのではないだろうかと、いつもバツの悪い思いをする。今度こういう機会があったら、新聞調達中と書いたはちまきでもして行こうと、心にもないことを思っている。
さて、コニファーのことである。
実は昨冬も同じような状況になったのだが、今年はさらにひどい。
写真のように地表近くの幹の枝分かれ部分に入り込んだ雪のせいで、針葉樹なのにだらしなく横に広がってしまっているのである。
コニファーといったら、すらっとまっすぐに伸びていていなければならない。
それがこの有様だ。
上に書いたように、コニファー自体が悪いのではない。私と違って……
降り積もる雪が、それに加えてそこにベランダからの雪を放り投げる私が、加えて積雪前に枝をロープでまとめなかった私が再三にわたって悪いのだ。
にしても、まっすぐなまともな状態のときは気づかなかったが、こんなに何本もの幹によって 成り立っていたとは。
これは春になれば自然とまとまってくれるのだろうか?
色合いを見ると、おまえはもう死んでいるっぽい気がしないでもないが……。お願いだからヘヴンに行かんでおくれ!
そんななか明るい話題もあった。
去年の秋に妻の実家から一節無断でもぎとってきたクジャクサボテン。
取って来た節そのものはだらしのない昆布のような感じだが、新芽が出てきたのだ。
クジャクサボテンはあまり好きじゃないが、まあ花を咲かせてみるのもいいだろうと、ミリ単位の新芽を見て早くも開花を夢見ている。
ちなみに奥は、同じくもぎとってきたシャコバサボテン。土に置いておいたら細い根がたくさん出ている。たぶんこの子も新しい芽を出してくれるだろう。
右側はあの“怒帝王”の腋芽である。本体はセイコーマートの看板のように変色した揚句にぐにゃらと死んでしまったが、そのとき隔離し土に植えた腋芽(というか株分かれ苗)はまだ生き残っているのだ。トゲがなくて全然“怒帝王”の姿はしていないが……
オリンピックも終わるし、そしてまたコニファーとアングリー・エンペラーの復活を願って、つまりはロシアと復活という強引な出会いということで、リムスキー=コルサコフ(Nikolai Andreevich Rimsky-Korsakov 1844-1908 ロシア)の序曲「ロシアの復活祭(Russian Easter festival overture)」Op.36(1888)。
作品についてはこちらをご覧いただければと思う。
今日は先日ボロディンの交響曲第2番の演奏を取り上げたフェドートフ/サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団の演奏を。
ボロディンでは物足りなさを感じたが、録音の問題は多少あるものの、この「ロシアの復活祭」では色彩豊かで生き生きとした演奏が繰り広げられ、なかなかな盛り上がりを見せる。
録音年不明。Classical Records。
さてと、ロシア産の鮭の切り身でも焼くとするか……
今週の水曜日。
たまたま昼食を日向山課長と一緒に食べた。
@ホームではない。ちゃんと建物の中でだ。
私は上天丼を注文した。日向山課長は牛肉山わさび丼を頼んだ。
上天丼を頼んですぐに、私はやはり海老天丼にすればよかったと心の中で大いに悔やんだ。
そんな私の気持ちなどつゆ知らず、日向山課長は先に出された沢庵を食べていた。
2人の丼が運ばれてきて、私たちはたまたま相席になった見知らぬサラリーマン同士のように黙々と食べた。
とそこで、日向山さんはむせてむせてむせた。咳が止まらなくなったのだ。
遊んでるんじゃないか?悪ふざけしてんじゃないか?というくらいのしつこさだった。
ドビュッシー(Claude-Achille Debussy 1862-1918 フランス)の「遊戯(Jeux)」(1912-13)。
ディアギレフ主宰のロシア・バレエ団のために書かれた1幕ものバレエの音楽で、ドビュッシーが残した最後の管弦楽曲。なお、バレエの台本はV.ニジンスキー。
このJeuxというタイトルは、おふざけという意味では、実はない。playのことだ。
バレエはテニスをする1人の男性と2人の女性の恋の駆け引きという内容で、テニスと恋の駆け引きをJeuxに掛けている。
曲は18分ほどのものだが、万華鏡のように表情が変化するなかなかとらえどころのない、きままな感じのもの。この浮遊感はドビュッシーならでは。そしてまた「法悦の詩」のようなエロティックさある。
マゼール指揮ウィーン・フィルの演奏で。
1999録音。RCA。
で、日向山課長が涙目になってむせたのは、己の注意不足で山わさびを一挙に口に放り込んだからだった。
苦しさはわかる。
でも、その時私はイカ天を噛んでいる最中で、優しい言葉の1つもかけてあげられなかった。
すまんかった。
どこかの保険の窓口の会社のTVコマーシャルで、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828 オーストリア)の「3つの軍隊行進曲(3 Marches militaires)」op.51,D.733(1818頃)の第1曲が使われている。
この曲はとても有名で、多くの人がどこかで耳にしたことがあるはずだ。しかしながら、いざCDを、特に店頭で探すとなるとなかなか見つからず(オムニバス盤に収められていることが多い)、いいやもう、という捨て鉢な気持ちになってしまう(その点、検索できるオンライン・ショップってホント便利だ)。
シューベルトは多くのピアノ連弾曲を残しているが、「軍隊行進曲」もピアノ連弾用の作品である。3曲のうち第1番ニ長調が突出して有名で、ピアノ独奏や管弦楽用にも編曲されている。コマーシャルに使われているのも第1番の管弦楽版だ。
逆に第2番ト長調、第3番変ホ長調はまず聴かれることがない。
なお、作曲されたいきさつはわかっていない。
今日はユニークな作風で知られる(?)フランセ(Jean Francaix 1912-97 フランス)が、1987年にウィンド・アンサンブル(10の楽器)用に編曲したものを。
小編成のせいか、軽いタッチのサウンドに仕上げられている。
原曲の第1番は3番目に置かれている。
アマデ管楽アンサンブルの演奏。
1997録音。wergo。
先日個人携帯を解約しにauショップに行った。
2年間持ったが、個人用の携帯はほとんど使わなかったからだ。今月なら解約手数料がかからない。
auのホームページで、解約には身分を証明するもの、使っている携帯電話、印鑑が必要であることがわかっていたので、それらをそろえて10:10にショップに行った。
いや、10:10っていうのは時計屋じゃあるまいし、それ自体に意味はない(いまではそんなことはないが、昔は時計店に飾ってある非稼働の時計の多くは10時10分を指したまま止まっていた。文字盤のメーカー名が見えやすいから)。つまり、開店直後に行ったというわけだ。
が、すでに先客2名が。
ブースは5つか6つあるのに、対応している店員は2人しかいない。休日だというのにである。
私は10:45まで待たされた。その間も、先客2人の手続きは延々と続いたままだ。
10:45に第3の店員が現われ、やっと私が呼ばれたのだった。出勤時間がシフト制なのかもしれない。
解約すると言ったらもっとあれこれ継続することのメリット(たとえば「継続は力なり」とか)を訴え説得工作に入るのかと思ったが、あっさり受け入れられてしまった。
しかも電話番号を聞かれ、免許書を身分証明書として提出し、サインしただけで終わった。
まるで交通違反してパトカーに乗せられたときのようだ。
印鑑は求められなかったし、携帯電話は見てもくれなかった。
本当に解約手続きが済んだのか、逆に不安になってしまった。
でも、済んだんだろうな。電話はもう死んでいるから。
インバル/東京都交響楽団によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02。その後たびたび管弦楽配置を変更)。
いやぁ、なんといって良いのだろう……
ため息が出るような、安直に使ってはいけないが“完璧”“完全”という言葉がぴったりの演奏だ。
雄弁だが内声が充実している。現代的だが人工的ではない。豊かな響きだがスマートで緻密……
と、レコ芸の批評に出てくる褒め言葉を羅列したくなるほどだ。
とっても立派だ。
聴くたびにため息が出る(今のところ)。
しかし感動する演奏かというと、それは微妙に違う。
感動というよりも、ただただ感心する。京福、いや敬服する。
興奮するタイプのものではない。
知的な心地よさがある。
容姿端麗、才色兼備のすっごい女性を目の前にしているよう。
が、邪魔とは言わないが、「うっ!」とか「ヨッ!」とか「おりゃぁぁぁ~っ!」という(あくまでイメージです)インバルのうめき声も随所に混じる。
そしてまた、整い過ぎているが故か、終楽章は“火力不足”の感は否めない。
でも、この喜びは実際に耳にしないとわからないだろう。
いやぁ、驚いた。
2013年ライヴ。EXTON。
私は聴いてないが、メイン・マイクロフォンによるワンポイント・レコーディング盤も出ている。
オリンピックフィギュア男子。
羽生結弦が金メダルをとったのはご存じのとおりだが、ちゃんとは観てなかったものの銅メダルをとったのはカザフスタンのテン(こう書くと、カザフスタンに生息するイタチ科の動物みたいだが、カザフスタンにテンはいるのだろうか?)。
そのカザフスタンのテンが使っていたのがショスタコーヴィチの曲だった。「ボルト」とか「馬あぶ」のメロディーが聞こえてきたが、その時私は電気カミソリでひげを剃っていたのでよくわからなかった。
話は変わるが、ミネルバ法律事務所のコマーシャル。
前々からうすうす思っていたが、あのMr.ミネルバ氏、歩き方がなんか笑える。
以上。
テンとは関係なく、ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の「ゾーヤ(Zoya)」Op.64(1943-44)。
L.O.アルンシタム監督の映画のための音楽。
ゾーヤというのは人の名前。18歳の党員なんだそうで、映画は彼女の悲劇を描いているそう。詳しいことはわからないので、それがどういったレベルの悲劇なのか見当もつかない。人前でおなかが鳴ってしまったレベルなのか、それとも彼女にふられてしまったのか、はたまた命にかかわることなのか?……
どうやらこういう話らしい(勝手にリンクしてすいません)。
私が持っているCDはムナチャカノフ指揮ベラルーシ放送交響楽団、ミンスク室内合唱団による組曲版Op.64a(6曲)。アトヴミヤン編によるもの。
アトヴミヤンはショスタコの映画音楽を蘇らせるべくいくつもの編曲を手がけてくれている。
が、このCDでは“arraged by Levon Avtomyan”となっている。アトヴミヤンならAtovmyanのはずなんだけど……。表記ミスと考えてよろしゅうございますかね?
合唱が入るのは第1曲のみ。
映画音楽なので明るい曲、哀愁を帯びた曲、悲劇的な曲があるが、皮肉めいたところはまったくない。むしろ、素直に親しみやすさを追求した音楽。逆にいえば深みがないとも言えるのだろうが、私には純粋に楽しめる。
1995録音。DELOS。
「若き親衛隊」とのカップリング。
テンはテンでも、全日展では架空受賞者がいるって問題になってるな。
私には書道は縁のない世界だけど……
そしてまた、どうしてかはわからないけど、昨日の私は昼食後にいきなりおなかがゴロゴロしだして大変だった。さらに夕方ごろからは異常におなかが張ってポンポコ・テンパり状態。ブ
今朝もまだなんか変だ。
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