先週札幌に出張した際、行きつけ、いや、かかりつけの病院に人間ドックの結果報告をかねて診察してもらった。そして隠された真の目的は、薬が底をついてきたのでそれをもらうことだった。
今年の人間ドックでは侮辱的な言葉を浴びせられることもなく、また要再検査の項目もなく(経過観察でとどまった)、かかりつけの医師も「この調子で改善していきましょう」という話で終わるかと思ったが、ヘモグロビンA1cの値が高めで、こいつはきちんと検査した方がいい、と言われてしまった。
「糖尿病になりたくないでしょ?」
「言うまでもありません」
「じゃあ、すぐじゃなくても構わないから、1度ちゃんとした検査をしましょう」
「はい。1度ちゃんとした検査を受けてみます」
診察を終えて待合に出ると、前に私が勤務していた課の近隣にいた人が、喜怒哀楽が不明な表情で椅子に座っていた。
「どうもごぶさたしています」と私。
「あっ、どうも」と、その人。
「どうしたんですか?」
「血糖の検査なんだわ」
と、短い言葉のやりとりで、この人が本日体験していることは、私が1度正面から向き合わねばならない検査と同じものだということがわかった。
ドックでの医師の問診や保健師との対話では、この私は不健康ではあるものの心配を要するものはないという雰囲気だったので、このときもけっこうリラックスしていた。しかも医師と面と向かう前に看護師に測ってもらった血圧は最高が122と、実に優秀なものだった。
油断大敵。良い言葉だ。
診察を終え、私は打ち合わせのため本社に行った。
打ち合わせを終えると、早めの昼食に適した時間だった。
朝の段階では担担麺でも食べようかと思っていたが、もはや血糖値や中性脂肪の値を上げるような食事は極力控えるべきだと、いつまで持続できるかわからない決意をした。
その足ですぐにJR札幌駅の改札に入り、キオスクで幕の内弁当を買い、そして構内のベンチに座って食べた。ご飯を2口分残した。
医師は、「炭水化物を取りすぎないこと。残すことに罪悪感を覚えないこと」といった。
私は罪悪感を覚えたことはない。
が、このときは感じた。もったいないなぁ。まだおなかはこれを要求しているのになぁ、と。
そしてサントリー伊右衛門特茶を飲んだ。
その日の夜も、極力炭水化物は避けた。
翌日の朝はご飯も茶碗1杯にとどめた。
昼は、これまた弁当だったが、ご飯を3口分残した。しかも、弁当のときはこれまで見向きもしなかった藁のようなキャベツの千切りも食べた。
夜はご飯は食べなかった。もちろん、代わりにカップめんとか冷凍ナポリタンを食べるなんていう、おデブちゃん養成行為も慎んだ。
こうして私の従来になかった取り組みが始まった。
もう愚かな行為はしないぞ!今のところ……
愚かな行為といえば、間違ってCDを購入してしまった。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第3番ニ短調(1893-96/改訂1902)の演奏で、私が学生のころお薦め盤といわれていたものに、ホーレンシュタイン指揮ロンドン交響楽団、プロクター(アルト)他による録音があった。
聴いたことのないその演奏のCDを、先日発見。
出だしを聴いてすぐに、これは「やっちまったわい」と認識した。
同じホーレンシュタイン指揮ロンドン交響楽団のものながら、その当時のお薦め盤とは別テイクのものだったのだ。独唱はワッツ。
1961年ライヴである。
それはいい。
それまで聴いたことのないマラ3が聴けるのは大変喜ばしいことである。
が、モノラル録音なのだ。
しかもライヴゆえ、さらに録音状態は悪い。
ステージは望遠鏡を反対側からのぞいたように遠く、向こうで繰り広げられていることがはっきりわからない。
しかし、悪くない演奏だということはわかる。
第1楽章が終わると大拍手が沸き起こる。全曲が終わったときもさらなる喝采が。
きちんと録られていたなら、きっとすごい演奏を満喫できただろうに。
が、今後そうそう聴くことはないだろう。
あえてこれを聴く理由はない。
まいった……。
きちんと確認すべきだった。
うっかり八兵衛だった。
ただ、せめてもの救いは、間違ってホルスタイン物のディスクを注文しなかったことと、ボケのせいで重複購入という愚かさではなかったことだ。
ヒストリカル・ファン向け。ブラームスの第1コンチェルトも収められている(独奏はアラウ。オケはフランス国立放送管弦楽団)。
ARCHIPEL。
にしても、ひどく時代を感じたけど、1961年ってそんなに大昔なのかなぁ……
April 2014
2週間ほど前のことになってしまうが、新聞に別刷りのゴールデンウィーク特集が折りこまれていた。
道内各地の観光スポットを紹介しているものだが、どのページも紙面の下半分は各地の飲食店の広告で埋めつくされていた。
そんななか、私の目が釘付けになったのがこれ。っていうのは、極めて誇張しているが……
あっ、一応申し上げますと、2枚目の写真のことです。
総力を挙げて、私どもはまだこの世に存在しているんだということを猛烈にアピールしている。
焦燥感がひしひしと伝わってくる。
酢にこだわっているという、ユニークな売りがかすんでしまうほどだ(千鳥酢ってすごいんすか?)。
でも、酢ラーメンなんて、食べたことも聞いたこともない。
ただ、ラーメンに酢をぶっかけるだけなのか?
それで美味しくなるのだろうか?さわやか気分になることは、コクを犠牲にしないのか?
食べ続けたらすらっとした男になれるのか?
そこのあなた。旭川に行く機会があったら、試してみてはいかが?私は当面旭川に行く予定はない。あっても普通のラーメンを食べるだろうし。
いずれにしろ、潰れたと思われてさぞつらかったでしょうね……(なのに“大好評”と訴えるしたたかさも兼ね備えているが)。
とりあえず“千鳥”を名に含む曲を私は2つ知っている。近衛秀麿(Konoe,Hidemaro 1898-1973 東京)の「ちんちん千鳥」(1928)と弘田龍太郎(Hirota,Ryutaro 1892-1952 高知)の「浜千鳥」(1920)である。
鮫島有美子のソプラノ、ドイチュのピアノのCDを、私は持っている。いえ、自慢しているわけじゃありません。
潰れてないと絶叫しているラーメン屋のアピールから、なぜラーメンに酢なのかという疑問が生じた上に、そもそも千鳥って何だろうと自分の知識の欠如に気づいてしまったが、この際私はブラームス(Johannes Brahms 1833-97 ドイツ)の「ドイツ・レクイエム(Ein deutsches Requiem)」(1857-68)を取り上げるのが妥当だという結論に至った。
というのも、ほら、舌の根も乾かないぐらい前に、ドイチュってピアニストの名が出てきたから。
deutscheはドイチュと読むわけだ。
なぜドイツ・レクイエムという名なのかというと、歌詞がM.ルターのドイツ語訳聖書によっているから。
今日はガーディナー指揮オルケストル・レヴォリューショネール・エ・ロマンティーク、モンテヴェルディ合唱団、マルジオーノ(ソプラノ)、ジルフリー(バリトン)による演奏を。
1990年に録音されたこの演奏の最大の特徴は、透明度の高さ。これほど美しく響くドイツ・レクイエムはそうそうない。そしてまた、やや明るい雰囲気に満ちている。それは、このジャケットの作曲家の表情が、怪奇現象によって微笑んだ様子を想像していただければ正しくはないがやや近くもない。
ただ、反面、ブラームスらしい骨太感は希薄。美しいことこの上ないが、ブラームスどうしちゃったんだよぉ、と思う人も少なくないはずだ。澄んだ塩ラーメンのつゆみたいなわけで、コッテリ背脂好きには向かない。胃にズシーンと来ない。
そしてまた私は、全編にわたって完成度の高い合唱に感心しながらも、第4楽章の開始早々の歌声には、どうも居心地の悪さを感じる。
デッカ。
群馬県の富岡製糸場が世界文化遺産に登録されそうだ。
片倉工業が経営していたものだが、片倉工業の最後の製糸場となったのは埼玉県熊谷市にあった工場。いまはイオンが建っているその横に記念館がある。
一度そこを訪れたことがあるが、小さな展示施設ではあったものの、とても興味深く見学できた。受付にいたおじさんも、北海道から来たということもあって実に親切だった。
富岡には行ったことはないが、片倉工業の真摯な企業姿勢が認められたんじゃないかと思う。
昨日。
目覚めてしまったのは4:30だった。言うまでもなく、朝のことである。
なんで日曜の朝に、平日よりさらに早く目が覚めてしまうのだ?
やれやれ……
かわいらしくちょいと首をかしげて考えた結果、原因がわかった。
薄く軽い夏掛けに替えたせいだ。掛けぶとんのことである。
私はやや重めのふとんが好きである。
あまりに重いと、胸のあたりで髪の長い老婆にまたがられ、すごい形相で首を絞められる夢を見るので好ましくないが、ある程度の重さがあると寝ている間にふとんがずれることがないので熟睡しやすい。
この日の夜は、はねのけてしまったふとんを求め何度も眠りが浅くなった。
最後のとどめが朝方の紛失と捜索であり、そのまま起きざるを得なかった。
朝から音楽をかけると、隣室で寝ている妻に迷惑をかける。
かといってウォークマンで聴くと、外界の音が遮断される。
マンションのどこかで火災が発生し報知器が鳴っても気づくのが遅れる恐れがある。大きな地震が起こる前の地鳴りに気づかない可能性もある。地鳴りに気づいたからといって、鳥のように逃げられるわけではないが……
TVをつけてみても、通販番組ばかりだ。
こんなのを観てたら、危うく健康器具だの万能おろし金だのを注文してしまいそうだ。
あっ、な~んだ。
小さな音量で聴けばいいんじゃん。それも強弱の振幅が少ない曲を。
そして、すばらしい考えが浮かんだ。
朝といえば、昔NHK-FMの「バロック音楽のたのしみ」という番組があった。
「おはようございます!服部幸三です」とか「おはようございます!皆川達夫です」とアナウンスが入る前に流れた、専門用語でいうところのオープニング・ミュージック。
それを聴こうではないか!
ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741 イタリア)のソナタ集「忠実な羊飼い(Il pastor fido)」Op.13(1737頃刊)。
前に取り上げたように、この作品はヴィヴァルディの作かどうか疑問。というよりも、今ではシェドヴィルの作とされている。
以下の6つの曲からなり、使用する楽器の指定はさまざま。「ミュゼットまたはヴィエール、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、及び通奏低音のためのソナタ」なのである。
第1番 ハ長調RV.54
第2番 ハ長調RV.56
第3番 ト長調RV.57
第4番 イ長調RV.59
第5番 ハ長調RV.55
第6番 ト短調RV.58
「バロック音楽のたのしみ」で使われていたのは第2番の第1楽章。
私もふだんはあまり聴かないが、うん、朝に合いますねぇ。
そして、あのころ私は若かった。
前回同様、ランパルのフルート、ヴェイロン=ラクロワのチェンバロで。
1968録音。エラート。
こうして爽やかな気分でパソコンを起ち上げた私。
ブログを書いている人ならご存知のとおり、管理画面から自分のブログがどのような検索ワードでヒットし読まれたかを知ることができる。
そしてこんなのがあった。
“食欲旺盛 しかし朝食後2時間 急にお腹の下部がえぐられるように痛くなった 便が出て少し和らいだ その原因”
思うに、食べすぎだったんじゃないでしょうか?
素人の考えですいませんが……
でもこれでヒットする記事が、私のものにもあったんですね。
お役にたったでしょうか?
反面、私の爽やか気分はちょっぴり弱まりました。
そういえば、土曜日の晩、久しぶりにジンギスカンを食べたんだった。いま、思い出した。
スーパーで羊買い……
だから羊関連作品を聴きたくなったのかなぁ。
十勝の東側、豊頃という町に廃校を利用したショップがあるというので、このあいだ(といっても少し経ってしまったが)行ってみた。
“とかるね”という名だ。
行ってみて何があったかというと、雑貨屋と女性専用のマッサージサロンとカフェと骨董品屋だった。
雑貨屋にあった木製のまな板に惹かれた。この上でチーズやパンを切ったらなんとなく雰囲気が出そうだ。しかし、価格は3000円もして、これを買ったらチーズやパンを買えなくなるし、なかなかずっしりしていて誤って足に落としたら骨折し、自分が骨董品になってしまっては困る。つまりはそういう逃避的理由づけをして我慢したのだった。
雑貨屋は音楽室を使っていた。
残念ながら大作曲家の肖像画は飾られてなかった。が、もし夜中にここを1人で巡回しろと言われたら、私にはとてもできないと思った。やっぱり学校は怖い。肝を試す前に肝が縮む。実際の私は脂肪肝なわけで、少し縮んだ方がいいんだけど。
骨董屋はいちばん奥にあった。
かなりの数の昔のシャンデリアが天井から吊るしてあった。もちろん売り物である。私が感心したのは、その天井の丈夫さである。
懐かしいものもあったが、私には骨董品を集める習慣がない。
とにかく雑多な部屋だった。
そんなわけで雑多な感じがする曲。
香港生まれの李煥之(ファンジー リー Huan-Zhi Li 1919- 中国)の「春節組曲」(1955-56)から「序曲 ― 大秧歌」。
春節というのは日本の旧正月。中国では最大の祭日。爆竹をバンバン鳴らしたり、とにかく大騒ぎ。
そういうの、ニュースで見たことありますでしょ?
「春節組曲」は4つの楽章からなり、各楽章は「序曲 ― 大秧歌」「情歌」「盤歌」「燈会」。
第1楽章のにある秧歌とは、中国農村部の民間舞踊だそうだが、なんとも激しく派手でにぎやかである。
いかにも中国って感じの音楽だが、最近の中国の態度はこうじゃなくなってきている。日本に対して。
この中華音楽は芥川也寸志指揮新交響楽団の1987年のライヴで聴くことができる。
もう1曲中国の作品が収められている。呉祖強(ウー ツーチャン Wu Tsu-Chiang 1927- 中国)の「二泉映月」である。この曲はもともと1970年代に華彦鈞が作った胡弓曲を原作なんだそう。
胡弓の曲ってオーケストラ用にしてもやっぱり胡弓的なんだなって、聴いていてやや涙目になる(あくびをこらえるので)。
呉祖強の作品では琵琶協奏曲「草原の小姉妹」を取り上げたことがあるが、ああいうこんな曲に心高ぶらせて、ボク良いのでしょうか?みたいな後ろめたい喜びは感じない。
さらに、本来ならこれをメインに紹介すべきなのだろうが、ここにはショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第4番ハ短調Op.43(1943)の日本初演の音源が収録されている。
日本初演は1986年に芥川也寸志の指揮により、アマ・オケの新交響楽団が行なったのである。
よくがんばったねと、褒めてあげたくなる演奏である。
フォンテック。
春節で思い出した。
先日、新聞に折り込まれていたチラシである。
チラシといっても自ら“新聞”と名乗っている。
セツセツ新聞?
違う。
ふしぶし新聞だそうだ。
体の節々が痛む人への朗報が魅惑的に書かれている。
以上である。
といっても、今さら野球チームで目立つ存在になろうという野心を抱いたわけではない。
日向山課長の課で歓送迎会があった。新入社員の歓迎会である。かつ、結婚退社する社員の送別会である。それは、焼き肉屋で催行された。
私の斜め向かいに日向山課長が座った。
「いやぁ、疲れがたまってる」と、彼はだるそうな表情で言った。
仕事が忙しくて疲れ気味なんだそうだが、会うたびにそう言っている気もする。それに私なんか、生まれてこの方エブリディ疲れたままである。
が、疲れていると言いながらも、最近テニスを始めたともいう。
「やっぱり運動しなきゃだめですよ。テニスを始めたんですが、これがいいんですよ」
いいよという“これ”が具体的に何をさしているのか、始めた動機は何か、それでもって活動をしているのか、すごく興味があったわけではないが聞こうと思った。しかし、折悪く、私と彼の間にある炭火焼風コンロの上でホルモンがジュージュー唸り、さらに煙が立ち上ったので、彼の顔は観察しにくくなり、声も遠のいた。
たぶんあちこちのテニス部に道場破りに行っているのではなく、週に1回どこかでテニスをしているようなことを言っていた。燃えていた。ホルモンが。
遠のくといえば、バーンスタイン/イスラエル・フィルによるチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の序曲「1812年」Op.49(1880)。
ご存知の通りこの曲にはカノン砲が加わる。
バーンスタインのこの録音、カノン砲が入るとオーケストラが遠のくように、その音量が下がる。つまり、カノン砲の音を前面に出すためにミキシングの段階でオーケストラの音を絞ったのだ。
これはひどい!
オケに対する冒瀆だ。
どこの世界にこんな操作を喜ぶ人がいるのだろう。いるんだろうけど……
「まぁまぁ、こういう曲なんだからいいじゃないの」という声も、私の小脳の片隅になくはないが、これやっぱり耐えがたいな。熱い演奏には間違いないが。
へんてこ操作以外の部分も、オーケストラの響きにあまり奥行きがない。天下のイエロー・レーベルがこんなことしてちゃダメでしょ。
ただ、カノン砲好きにはたまらない1枚かも。
1984年ライヴ。グラモフォン。
出張で札幌に来たついでに、慌ただしくまだはずせずにいたバラの冬囲いをはずした。
ノネズミの食害は想像以上。軒並みやられていた。
また、積雪量が多かったために、雪の重みで冬囲い自体が崩壊しかかっていたものも少なくなく、重みで多数の枝が折れていた。
樹皮がなくなり、枝が折れまくり。
まるで墓場のようだ。
私の心の中も墓地化している。
が、そんな中、なんとか株元で新たな芽を出そうとしている株もすでにある。
このように復活してくれる株が、このあと「先輩に続け!」とばかり、続いてくれることを切に願っている。
そして、庭の一角に不思議な造作物を発見。
ビニールロープを細かく糸状にして球に仕立てたもの。そしてその周りにはほかの箇所に比べて枯葉が多い。もしかすると、これが雪の下でノネズミが快適に過ごした基地なのではないか?いや、そうに違いない。
あー、腹立つ!
うぅっ、悲しい!
この私のやるせない気持ちはどうしたら収まるのだろう。
カノン砲を打ちたいところだがそれはないし、カノン法は難しくてわからないうえ作曲できないし。
テニスを始めろって?
やなこった!
焼肉とえいえば、キッコーマンの焼肉のたれのCMで「コッペリア」が使われているけど、なかなか合うもんだな、と思ってる。
もうだいぶ前の、4月の頭のことだが、ネットのニュース(毎日新聞)にこんな見出しがあった。
<テコンドー協会>公益認定返上へ 財政基盤なく
私はデンコードーに何が起こったのかと思った。
デンコードーはときおり利用するケーズデンキを経営している会社だからだ。
が、テコンドーだったのね。
話は変わる。
月曜日の昼は、晴れ渡った青空と陽気に誘われて、中が薄暗くて煙たい居酒屋“まま母”に行った。煙たいのはその日の日替わりのメインである糠さんまを焼いていたせいだ。メンバーはいつもの精鋭集団であるヤマダ課長、阿古屋係長、私である。
このところ河西さんは昼どきに出かけていることが多く、3人のことが多い。奇数なのに仲間外れになる人が出ないのは、われわれが大人である証拠だ。もしそのようなことになったら、間違いなく私が外されることになるだろう。
が、私たちはリーズナブルな日替わりを頼まず、豚丼にした。
この“まま母”を1人で切り盛りしているママが「どっちにします?」と尋ねる。
私「ロース」
ヤ&阿「バラ」
やはり(少なくとも私よりは)若いってすばらしい。私もバラを食べてみたい。が、あとが怖い。
そして2人のこのオーダーは、盲腸の手術のあとの最初のおならが示すのと同じように、生レバーをつまみ食いしたことによる腹痛からの全快を宣言したことに等しい。
C.P.E.バッハ(Carl Philipp Bach 1714-88 ドイツ)のオルガン協奏曲ト長調Wq.34,H.444(1755)とオルガン協奏曲変ホ長調Wq.35,H.446(1759)。
この2曲、正確には「オルガン,またはチェンバロの協奏曲」である。
ト長調Wq.34はオルガンと弦楽合奏、変ホ長調はオルガンと弦楽合奏に2つのホルンが編成に加わる。
Wq.34の方は力みなぎるバラ豚丼、Wq.35は上品な味わいのロース豚丼って感じだ。
音楽的には、動きが活発なWq.34の方がワクワクするが、Wq.35は良家のお嬢さんっぽい落ち着きと優雅さをたたえている。私はWq.35の方をずっと早くに知っていたので、Wq,35への愛着が強い。
オスターの独奏と指揮、アンサンブル・パルランドの演奏を。
2002録音。ドイツ・ハルモニアムンディ。
このCDでは2つのオルガン・コンチェルトの間に、シンフォニア ハ長調Wq.182-3,H.659が収録されている。
速めのテンポでとても爽快な仕上がり。
この演奏を聴くと、なぜか連休の庭いじりが待ち遠しくなる。
ところで、“まま母”の豚丼はバラ豚丼もロース豚丼も同じ値段である。しかも4月に入ってからもお値段据え置き。母さんは善人なのだ。きっと。
すでに何回か、クレンペラーが振ったブルックナーのシンフォニーの演奏をこのブログで取り上げているが、ブルックナーっていやぁヨッフムがいたじゃんってことを思い出し、あらためて聴くことにした。
クレンペラーだのヨッフムだの、ここにきて古い指揮者の演奏に個人的リバイバルしているが、なんだか自分が赤ちゃん返りしているような気がしないでもない。
赤ちゃん返りじゃなく、ビッグクランチといえばカッコイイかな?ビッグクランチっていうのはビッグバンの反対の現象のことで、大食いの昼飯のことではない。
それはともかく、ヨッフムのブルックナーといえば、最初の全集も評判が高かった。が、下記の理由から、ドレスデンとのものをきちんと聴く決意を固めた。
記
1. 理由
「クラシックCDの名盤 演奏家篇」(文春新書)で中野雄氏はヨッフムが録音したブルックナーの交響曲全集について、「オーケストラから、作曲者の天職であったオルガンの響きが聴こえる。全集は二種類あるが、録音状態も考慮に入れればドレスデン国立管弦楽団といれたEMI盤か。ヴァントやカラヤンには、この天国的な壮大さと、何よりも宗教的安らぎがない」と書いている。そのため、ドレスデン国立管弦楽団との録音を選定いたしたい。
2. 目的
鑑賞するため
3. その他
(1)個人的にはボックスとスリーヴの色が抹茶のようで好きだが、抹茶自体は特に好きではない。
(2)もう1つの全集は、ベルリン・フィルとバイエルン放送交響楽団を振ったものである。
♪
そのヨッフム/ドレスデン国立管(シュターツカペレ・ドレスデン)によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲全集から、今日は第1番ハ短調WAB.101(1865-66/改訂1890-91)。使用楽譜はリンツ稿ノヴァーク版。
はっきりいって参った。
これまで聴いてきた第1番の演奏の中で、最も興奮させられた。ブルックナーの交響曲の中でも1番は好きな方だが、この曲をこれほどすばらしいと感じたことはなかった。驚いた。
所有しているCDのうち、少なくともあまりお気に召してなかったバレンボイム盤を聴くことはもうないだろう。
とにかく私はべた褒めしたい。ヨッフム、うっふん!って気持ちだ。
あまりにも心奪われ、やや“あばたもえくぼ”状態になっているかもしれないが……
冒頭のズンズンズンズンというリズムに渋く呼応するホルン、盛り上がっていくヴァイオリン。それはヒュルヒュルヒュルヒュル~と越冬ツバメのアクロバット飛行のごとし。
第2楽章のブラックホール的凝縮度。あくびする暇さえ与えてくれない。
第3楽章。この不機嫌なダンスも盛り上がり十分。生意気さ十分。
そして第4楽章の威圧的迫力。最後は激しくも優しい輝きを放つ。
ブルックナーの第1番を聴き終えて、こんなため息をつくことがあるなんて思ってもみなかった私。
あっはぁ~ん……
このところ松山千春の故郷の町に出かけることが多い。
千春の家を見学するためではない。
化石博物館を訪れるためでもない。
それだけは言い訳しておこう。
昨日も行ってきたが、昨日においてはオーダマンボ&アルフレッドも一緒だった。
この組み合わせだとレジャーか?山菜採りか?って誤解されそうだが、違う。ちゃんと仕事をしに行った。
そしてまた、今日の私はといえば、午前中はワイン城とドリカム記念館のある町に出かけ、夕方からは札幌に向かうという行程である。
フックス(Johann Joseph Fux 1660-1741 オーストリア)の「皇帝レクイエム(Kaiser Requiem)」(1740以前)。
井上和男編の「クラシック音楽作品名辞典」には、「フックスはウィーンの聖シュテファン大聖堂および宮廷礼拝堂楽長などを務めた人で、対位法の教本「パルナッソス山への階程(Gradus ad Parnassum)」(1725刊)の著者として特に有名である」と説明されている。
また、井上太郎著「レクィエムの歴史」(河出文庫)には次のように書かれている。
18世紀のウィーンの教会音楽の伝統を築いた人ヨハン・ヨーゼフ・フックスがいる。彼はハプスブルク家の3代の皇帝に仕え、ウィーンの宮廷楽長を務めたばかりでなく、聖シュテファン大聖堂の第一楽長の地位にいた人である。彼はパレストリーナを範とするア・カペッラ様式を尊重したが、それだけに固執することなく、器楽を重視した教会音楽作品をおびただしく書いた。ミサ曲は80曲に上り、レクィエムも3曲あるが、資料が散逸しているために作品の研究は進んでいない。レーオポルト1世の皇太后の葬儀の際に演奏された曲は1720年作曲のものと考えられ、ようやくその一部がクレマンシック・コンソートにより録音された。見事な対位法を駆使した美しい曲だが、同時代のイタリアやフランスのレクィエムに比べると古風な印象を受ける。
―(中略)―モーツァルトもベートーヴェンも、彼が書いた対位法の教科書「パルナッソス山への階梯」(1725年)によって対位法を学んだのである。
和男さんと太郎さんで“カイテイ”の漢字がさりげなく違う。
だからといって目くじらをたててはいけない。
私だって無理を承知で“行程”を“皇帝”にすり替えたのだ。笑顔で肯定していただきたい。
太郎さんが書いているクレマンシック指揮クレマンシック・コンソートのCDには「皇帝レクイエム」のほか、いくつかの作品が収められている。
正直なところ、トラック表記がわかりにくく、収録作品のどこからどこまでが「皇帝レクイエム」なのか私は悩んだ。
そして、いまだに判然としていない。私のなかでは。
和男さんによれば、「皇帝レクイエム」の編成は、ソプラノ2,アルト,テノール,バリトン2,バス,弦楽,トロンボーン2,ポジティヴ・オルガンで、“神聖ローマ皇帝カール6世の葬儀で演奏”との注記がある。
なんだか混乱させられている。私は。
収められている最初の作品では憂いをおびた曲調ながら、ヴァイオリンとチェロの音が伸びやかに耳穴に飛び込んでくる。このとっぱじめでけっこう心を捉えれちゃう。空間に所せましと音が放射される。
オルガンのシャコンヌの最後、バスがブンブン鳴るのは快感。「皇帝レクイエム」の“レクイエム・エテルナム”はグレゴリオ聖歌を思わせるもので、癒される。“ディエス・イレ”はドラマティックだ。ほかの作品も強烈な印象を残すとまではいかないが、なかなか面白い。
太郎さんは「古風な印象を受ける」と書いているが、私もそ異議なーし!もっと前の時代の作のように感じる。
しかしここに収められている作品たちがもつ独特の素朴さは心に訴えてくるものがある。
1991録音。アルテノヴァ・クラシックス。
先週、ヤマダ課長の課に入った新人の歓迎会があったということに、ちらっと触れた。
女性の新入社員である。
まだ18歳である。
食事をしながら誰かが彼女に聞いた。
「好きな食べ物はなぁに?」
「カレーです」
「へぇ~」
「毎日でもいいんです」
「どこか美味しいお店ある?」
「インデアンですっ!」
かわいいではないか!
初々しいではないか!
すると去年の新人、すなわち現在2年目の女子社員が言った。
「私は天ぷらです」
天ぷらとなると初々しいという概念からややはずれるが、和食を食べて「テンプラぁ~、スキヤキぃ~、フジヤマぁ~」と感嘆している欧米人のようで心が温まる。
「太っちゃうって思うんですけど、昨日は天丼食べたんです。とっても美味しかったです」
「へぇ、どこで?」
「コンビニで買いました」
前言をひるがえそう。初々しいではないか。
コンビニの天丼で感動しているなんて、心が温まる。レンジで60秒経過後のように。
そしてコンビニの天丼で胸焼けしないことを、私は羨ましく思う。
あるいは毎日カレーを食べても胸焼けしないことに対しても、私は感心する。
そうか!
若さとは油に強いことなんだ!
それにしても、彼女たちの好物がカレーとか天ぷらでよかった。
レバ刺しとかおじやって言われたら、けっこうリアクションが難しい。
おやじだったら良い子だと思っちゃうかもしれないけど。
こういう話題とは関係ないが、私はこの日悪酔いしてしまった。
どういう事情か知らないが、とにかくハイボールのウイスキーが濃かったのだ(お店の好意ととらえるべきだろうか?)。帰宅した時間は9時過ぎ。しかし、私は死ぬように眠りについてしまった。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第9番ニ長調(1909-10)。
曲の最後にesterbendという指示がある。「死ぬように」もしくは「死に果てるように」、「死に絶えるように」という意味だ。
が、サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏(2009年ライヴ)からは、そのような印象を受けない。
それが悪いと言っているのではない。
この演奏、大げさに叫んだり自己陶酔するようなものではない。
マーラーの曲が持つ聖と俗のバランスがうまくとれていて、決して下品に陥らない。かといって、おすまししててつまらないというものでもない。
特に私は、終楽章の開始に、なんて優しげで柔らかなのだろうと、ソフラン仕上げのタオルに頬ずりしたときのように感心してしまった。
人によってはもうひと押し欲しいと思うかもしれないが、とてもすばらしい演奏であることは間違いない。
signum CLASSICS。
私もサロネンのこの演奏のように、品の良い飲み方、バランスを崩さない酔い方を心がけなければ……
そうそう、ヤマダ課長の調子は戻ったみたいだ。
実は正直に申し上げると、先週のヤマダ課長はなんとなく身体の調子が悪くて、いまひとつ精彩を欠いていた。
もっと正直に言うと、調子が悪いのが身体のどこかというと、それはおなかだった。
先々週の金曜日のことだったそうだ。
ヤマダ課長は阿古屋係長と仕事帰りに焼き肉屋ではないが、肉料理自慢の居酒屋に立ち寄った。その日の私はどうしていたかというと、オーダレッドさんたちと、真の焼き肉屋に行き、窓辺どら猫合唱団の性の叫びを聞いていた。
以下はヤマダ課長の供述である。
レバーがあったんで、おっ、たまにいいなと思って注文したんです。
すると卓上の炭火コンロと、皿に盛った生レバーが運ばれてきたんです。
あまりに艶っぽかったんで、1切れ生で食べたんです。ええ、美味しかったですよ。
私の勇敢な姿を見て、係長も真似たんです。
係長ったら「うまい、うまい、うまいっすね。あっ、ほんとにこれうまいっす、あはははは」と、3切れも食べたんです。いえ、ワライタケじゃなくて、レバーをナマで。
次の日でした。おなかが夢の超特急になったのは。
そして、ずっとなんとなく調子が悪いんです。
焼かなければならないものを生で食べた罰です。
係長?係長もおなかを壊してるって言ってます。でも、私の3倍食べたのに、症状は私の3分の1なんです。
不条理を感じます。係長、丈夫です。
あらら、犯罪ですね。文句のつけ先はもちろんない。
お店には何の落ち度もない。むしろ営業妨害と言われるかも。
でも、食あたりならもっとひどい症状になると思う。寄生虫の心配は牛レバーなら、ゼロではないものの、あまり考えなくていいと思う。
水曜日の夜は、ヤマダ課長の課に今年入った新入社員の歓迎会があり、私も参加した。
そのときの課長は静かにお酒を飲んでいた(係長とは対照的に)。それなりに調子は確かに良くなかったのだ。
しかし、昼は中華ちらしや牛すじカレーを食べて過ごしていたから、深刻なものではないだろう(この点については係長も同じだが、彼の場合は調子が悪いということ自体が思い込みなんじゃないかと、私は思いはじめている)。
先日、むかし私が飼っていたアイヌ犬のことを書いたが、実はこの話、前にも書いている。
そして、今日は伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の「アイヌの叙事詩による依る対話体牧歌(Eclogues after Epos Among Ainu Races)」(1950)。
前に書いたときも同じ展開だったわけで、繰り返しになる。
藍川由美のソプラノ、山口恭範のティンパニによる1987年の録音のディスク。
その解説には次のように書かれている。
……これを歌っている新進ソプラノ藍川由美は……
20数年前は新進だったんだよな。確かに。1956年生れだそうです、彼女。
3曲からなるが、第2曲のメロディーは映画「コタンの口笛」や「釧路湿原」にも使われている。
果たしてヤマダ課長、今日はもう治っているのか?それはこのあと出勤して、会ってみてのお楽しみである。
そうそう、土曜日にスーパーで“レバ刺しコンニャク”なる商品があるのを発見した。
いや、コンニャクである。レバー由来成分は入っていない。
が、レバーそのものという色。形も直方体ではなく、不定形。気持ち悪いほどリアル。
「レバ刺し好きも絶賛」なんだそうだ。
私は絶対食べたくない。
そもそも私はレバ刺し嫌い。ゆえに、代用品も必要ない。
だが、ヤマダ課長にプレゼントしたら喜んでもらえるかも……
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