読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

June 2017

神宮の参道で快楽を求める罪深く汚れた者♪リキエの音楽

01d2ac42.jpg  円山もにぎわっている
 昨日は北海道神宮祭(札幌まつり)の例祭の日だった(今日は渡御で、神輿が神宮を9時に出発する。なお、おとといは宵宮祭)。

 私は過去に一度だけ祭りの日の日中に北海道神宮まで出かけたことがある。

 神宮に至る道の両側に露店があんなに出ているものとは知らなかった(中島公園に集中し、神宮にはちょぼちょぼ程度しか出店されていないと思っていた)。

  保護色で目立たない
 並んだ露店のところどころに、ベンチなどもともと置かれているものがあって、店が出されていない箇所が途中いくつかあったが、ある場所のベンチに見るからに浮浪者とわかるおっさんが体を斜めにして座っていた。

 かなり陽に焼けた&汚れた黒い顔、季節外れの厚手の、これまたうす汚れたシャツ。しみだらけの茶色いズボン。この姿を見て、実はお忍びでやってきている神主だとはどう考えても思えない。

20170616Image しかもそのオヤジ、一見するとズボンの色が保護色になっていてわかりにくいが、股間から茶色い物体を出し、それを手でしごいているではないか!
 しごいているのになぜかどう見てもふにゃふにゃでそびえていない(って、年を重ねた今の私には、その硬度&角度不足を非難する権利はないが)。

 つまり、オンナ子どもが多く行きかっているこの神聖な場所でシコシコしていたのである。

 そのことに気づき、露骨に嫌な顔をする人もいたが、私の知っているかぎり全員が無視して通り過ぎていた。
 私の妻も気づず、通り過ぎた後に教えたところ、見そびれたのが少し残念そうな顔をしていた。

  地に洩らすと殺される
 だがそのオヤジ、目の前を行きかう女性の姿を見てズリズリしているようではなかった。
 生気のない表情で、うつろな瞳の先は人々ではなく、地面だった。
 地面の方をぼんやり見つめながら、手を動かしていたのである。

 これぞオナニーの本道に近いとは言えまいか?

 オナニーの語源はオナンからきている。

 旧約聖書の「創世記」第38章。

 6ユダは長子エルのために、名をタマルという妻を迎えた。 7しかしユダの長子エルは主の前に悪い者であったので、主は彼を殺された。 8そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。 9しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。 10彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。

 兄が死んでしまい、弟のオナンが父の命令で兄嫁としたのだが、中出ししなかったがために殺されてしまったということだ。

 あの汚らしいオヤジがそのあと地に洩らしたかどうかは知らないが、地を見つめながらしていたことは、オナンのことを思い出ささずにはいられなかった。

 漏らす前に通報された可能性もあるが……。帰るときにはもう見かけなかったし。
 あるいは、隣のタコ焼き屋のおやじに、アツアツのタコ焼きを押し付けられて、退散した可能性だってある。

  ギロー・リキエ(ギラウト・リキエル。Guiraut Riquier 1230-1300 プロヴァンス)の「卑しく、罪深い、罪人と悔悟者(Humils forfaitz)」。

 ギロー・リキエは最後のトルバトゥール(12世紀ごろに南フランスで活躍した詩人、作曲家、歌手)の1人と言われている人物である。

 ラフィットのヴォーカル、ポッシュ/アンサンブル・ユニコーンの演奏を。


 1996年録音。ナクソス。


  最初はベジタリアン
 ところで「創世記」といえば、第1章で神は男女を創造する。アダムとイヴ(エバ)である。
 
 神は2人にこう告げる。

 28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 29神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 30また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。


 10年ほど前に書いたことがあるが、この段階で神は、2人に草や実を食べ物として与えている。
 逆に言えば、魚や肉を食べることは禁止している。


 ところが、ノアの方舟が登場する大洪水が終わったあとの第9章になって、神はこう告げる。


 1神はノアとその子らを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。 2地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、 3すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。 4しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。


 魚や肉を食べることが許されたのだ。


 よかった。肉が食べられる世の中になって……
 でも、レアのステーキとか、スッポンの生き血なんかはNGじゃないの?

 *) 緑文字の箇所はすべて日本聖書協会の小型聖書(口語)の旧約聖書(1955年改訳)による。

ぶにゅぶにゅ、たらたら♪WAM/flとhpのための協奏曲

HoshinoGenSeikatsu  私は肛門を応援したい
 星野源のエッセイ集「そして生活はつづく」(文春文庫)。

 妻がおもしろいからと貸してくれたものだ。

 星野源という名はどこかで耳にしたことがある。最近売れっ子の人なのだろう。1981年生まれの音楽家・俳優・文筆家なんだそうだ。
 いちおう顔はネットで確認してみたが、私の知った顔じゃなかったし、この人についてそれ以上のことは何も知らない。

 このエッセイのなかの「はらいたはつづく」。

 なんでも生まれてこのかた、星野さんは-こう書くと、「海辺のカフカ」のホシノ青年を思い出してしまう-ずっとおなかが痛いという生活が続いているという。

 今でも昼間にラーメンを一杯食べただけで、その夜ほぼ確実にトイレに駆け込むハメになるし、アイスなんぞを食べた日にはもう腸と肛門の戦争勃発は必至だ。腸は出したい、肛門は出したくない。どちらも負けられない戦いになってしまうのである。

 これは気の毒だ。私もよくおなかの調子が悪くなるのでよくわかる。
 飛行機に乗る前は食事を控え目に(早朝の便(“べん”じゃなくて“びん”)のときなら、人間ドック同様絶食)するぐらいだ。
 どこか観光地に出かけても、絶対にソフトクリームは食べない。そのあと肛門がぎゅるぎゅると謎のうなり声をあげる腸に負ける恐れがあるからだ。

 そして、ここで紹介されている演出家Sさんの話。


 そのときSさんは駅から自宅に向かってひとりで歩いていたそうだ。
 家まであと半分というくらいの所でおなかが痛くなってきてしまった。しかし昔からの腹痛持ちなので、この腹痛は何レベルなのか、あとどれくらいで限界を迎えるか、彼にはなんとなくわかっていた。
 この程度なら急げば大丈夫だろうと家路を急いだ。あともう少しで家が見える。自然と早歩きになる。ここで走ってしまうと出てしまう可能性があるのであくまでも早歩きだ。家が見えた。なんとか間に合いそうだ。玄関でタイムロスをしないように既に鍵は手に握りしめている。あと十メートル。あと五メートル。よし、何とか着いた。玄関から家に入り、トイレに直行してドアを開ける。見ると、便器のふたが閉まっていた。礼儀正しい妻が閉めてくれていたようだった。
 まずい、もう限界だ。ベルトはもう外している。片手でズボンを下げつつ、座りながら勢いよく便器のふたを開けて座ろうとした。すると、勢いがよすぎてふたが跳ね返ってまた閉じたのである。
 気がつくと彼は便器のふたの上に座り、そのまま出してしまっていたのだ。
 

 ふたからのポタポタについては賛否が分かれるところだろうが(きっと否が多いような気がする)、この切羽詰った状況というのは実に共感できる。これは大のみならず、小のときも同じである。

  翡翠餃子に腸が負け……
 帯広に住んでいたとき、妻と珍宝楼に夕ご飯を食べに行ったある日のこと。

 食事を終え、店を出て、2町角ぐらい歩いたインデアンの前あたりで、にわかに、本当に突然、おなかがぎゅるぎゅる鳴りはじめた。
 鳴ってるだけなら別の問題はないが、腸管の中の物体が-粥状に違いなかった-外の空気を吸いたがっているのは明らか。その勢力は強く、肛門が決壊するのは時間の問題だった。

 辛さで涙がにじみ出てくる。なぜ、店を出る前にトイレに行って排泄しなかったのだろうかと自分を責める(でも、そのとき-つい数分前のことだ-は、ちーっともしたくなかったんだもん。笑顔で会計を終えたくらい元気だったのだ)。

 私は妻に、「先に帰ってる」と言い、マンションに向かって早歩きし、やがてそれは競歩並みの速度まで上がった。妻は何が何だかわからなかっただろう。いや、私の脱肛のような足取りを見てコトを察したに違いない。
 こういうときに限って、途中にある信号はことごとく赤に染まっているし、マンションのエレベーターは最上階で停まっている。

 あんなにつらい思いをしたことは、これまでの人生の中でも38回ぐらいしかない。

  天才はウンコねたが好き?
 ウンコといえば、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791 オーストリア)だ。
 モーツァルトのスカトロジー(糞尿趣味)は有名。

 神童モーツァルトがウンコのことをお下品にあれやこれや手紙にしたためているのを読んで、むかしのお堅い伝記作家は、なんとかそこを避けて通りたいと悩んだことだろうが、いまではすっかり知られている。
 目がキラキラと輝いているマンガのモーツァルトの伝記でも、そこのあたりをしっかりと描いてほしいものである。

 ベーズレという愛称(“従妹”の意)で呼ばれていたマリーア・アンナ・テークラに宛てた手紙(6通残存)には、ダジャレ連発の上に、ウンコ現る!っていうものだ。

 1777年11月5日付の手紙には、次のようなくだりがある(出典:池内紀「モーツァルト考」:講談社学術文庫)。

 ありゃ、お尻(・・)が火のように燃えてきたぞ! こりゃ一体なにごとだ―きっと、ウンコ(・・・)ちゃんのお出ましだな。―そうだ、そうだ、ウンコちゃんだ。ぼくにゃおまえのことはわかってるぞ、見つけたぞ、うん、匂ってくる。

 ちなみに、同じ箇所ながら、吉田秀和編訳の「モーツァルトの手紙」(講談社学術文庫)ではこうなっている。

 あつ、おしりがあつい、燃えてるみたい!これは何の意味かしら?-よごれものが出たいってわけ?-そうとも、汚物め、お前の正体は先刻ご承知、それみろ、口にいれてみろ

 吉田センセは、一生懸命“ウンコ”という表現を避けている。考え抜いたんだろうなぁ。けど、よごれものってなぁ……

 続けて池内氏は、モーツァルトのスカトロジーについて、

 モーツァルトのこういうスカトロジーを、天才のもつ独特の精神構造とか、ある種の幼児性とか、そういうことから語られますね。もっと日常的なレベルで考えたほうがおもしろいんじゃないかと思うんですよね。いちばん近いところにある、いちばん身近なものでしたから。
 もうひとつは、ひり出したあとの爽快さというのか、それを非常によく言うのは、健康の印だったんでしょうね。その色と出ぐあいは重要な問題で、ちょっとでも下痢とか、ある種の変調をきたしたときの危険さということですね。そこで三日後に死んじゃったなんて、よくあるケースでしたから。ウンチというのは、非常に彼らにとって大きな目印だったと思いますね。ですから、それを言うか言わないか、これはたしかに精神構造と関係しているわけだけど、モーツァルトにとっては、そのことが次の自分の仕事に非常に重要だった。だから、思い切りひり出して、「さあ、やるぞ」っていうんで、嬉遊曲書いたりとか。仕事のための、必要なコンディション作りだったんでしょうね。


と書いているが、確かに水下痢だったり、いやふつうの下痢でも、下痢じゃなくて軟便でも、「さあ、やるぞ」とはならない。気持ちがヒュルヒュルヒュルヒュルとしぼんでしまう。
 個人的にはそういう日、少なくないけど。もう数えきれないくらい、3日後には死んじゃっていたかもしれない経験を私はしっかり積んでいる。

MozartFlConBruggen そのモーツァルトの優雅で美しいフルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299(K6.297c)(1778)。

 ウンコちゃんがお出ましする場面を想像しながら、この名曲を聴いてみるといい。
 想像の中で姿を現わすのは、ラメをまとったピンク色の……。いや、心を無にして聴いて下さい。

 ヒュンテラーのフルート、シュトルクのハープ、ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラの演奏を。

 1991年。デッカ(TOWER RECORDS PREMIUM CLASSICS)。

  ですから、私にどうすれと?
 大阪の支社に勤務していたときのこと。当時の上司が、「けさ、電車のなかでこっそりおならをしたら、実も少し出ちゃってさぁ」と、聞いてもいないのに私に教えてくれた。

 正直者だ。言わなくてもいいのに、迷惑なくらい正直だ。
 よい人だったが、こういうことを言うなんて、やはり精神構造に問題が多少あったのか?実際、ちょっと変わったところがあった。
 でも、そのとき私がひたすら考えていたことは1つ。「それ以上近寄るな」だった。

 星野源は別な章でこう書いている。

 中学生の頃、学校に行きたくないあまり、通学の途中でわざと服を着たままうんこをし、それをパンツの中にキープさせたまま家に帰って「うんこもらした」と親にアピールし、そのまま学校を休んだことがあるのも吾輩だ。

 天才の持つ独特の精神構造の成せるわざなのだろうか?

 でも「変わった人だなぁ」と思いつつも、「わかる!わかる!」「そういうこと、ある!ある!」と“クイズ 100人に聞きました”のギャラリーのように共感するところも多く(うんこの話だけのことではない)、楽しめるエッセイだった。

 ところで呼び方だけど、あなたはウンチ派?それともウンコ派?まさか実っこ派ってことはないでしょうね?

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