HoshinoGenSeikatsu  私は肛門を応援したい
 星野源のエッセイ集「そして生活はつづく」(文春文庫)。

 妻がおもしろいからと貸してくれたものだ。

 星野源という名はどこかで耳にしたことがある。最近売れっ子の人なのだろう。1981年生まれの音楽家・俳優・文筆家なんだそうだ。
 いちおう顔はネットで確認してみたが、私の知った顔じゃなかったし、この人についてそれ以上のことは何も知らない。

 このエッセイのなかの「はらいたはつづく」。

 なんでも生まれてこのかた、星野さんは-こう書くと、「海辺のカフカ」のホシノ青年を思い出してしまう-ずっとおなかが痛いという生活が続いているという。

 今でも昼間にラーメンを一杯食べただけで、その夜ほぼ確実にトイレに駆け込むハメになるし、アイスなんぞを食べた日にはもう腸と肛門の戦争勃発は必至だ。腸は出したい、肛門は出したくない。どちらも負けられない戦いになってしまうのである。

 これは気の毒だ。私もよくおなかの調子が悪くなるのでよくわかる。
 飛行機に乗る前は食事を控え目に(早朝の便(“べん”じゃなくて“びん”)のときなら、人間ドック同様絶食)するぐらいだ。
 どこか観光地に出かけても、絶対にソフトクリームは食べない。そのあと肛門がぎゅるぎゅると謎のうなり声をあげる腸に負ける恐れがあるからだ。

 そして、ここで紹介されている演出家Sさんの話。


 そのときSさんは駅から自宅に向かってひとりで歩いていたそうだ。
 家まであと半分というくらいの所でおなかが痛くなってきてしまった。しかし昔からの腹痛持ちなので、この腹痛は何レベルなのか、あとどれくらいで限界を迎えるか、彼にはなんとなくわかっていた。
 この程度なら急げば大丈夫だろうと家路を急いだ。あともう少しで家が見える。自然と早歩きになる。ここで走ってしまうと出てしまう可能性があるのであくまでも早歩きだ。家が見えた。なんとか間に合いそうだ。玄関でタイムロスをしないように既に鍵は手に握りしめている。あと十メートル。あと五メートル。よし、何とか着いた。玄関から家に入り、トイレに直行してドアを開ける。見ると、便器のふたが閉まっていた。礼儀正しい妻が閉めてくれていたようだった。
 まずい、もう限界だ。ベルトはもう外している。片手でズボンを下げつつ、座りながら勢いよく便器のふたを開けて座ろうとした。すると、勢いがよすぎてふたが跳ね返ってまた閉じたのである。
 気がつくと彼は便器のふたの上に座り、そのまま出してしまっていたのだ。
 

 ふたからのポタポタについては賛否が分かれるところだろうが(きっと否が多いような気がする)、この切羽詰った状況というのは実に共感できる。これは大のみならず、小のときも同じである。

  翡翠餃子に腸が負け……
 帯広に住んでいたとき、妻と珍宝楼に夕ご飯を食べに行ったある日のこと。

 食事を終え、店を出て、2町角ぐらい歩いたインデアンの前あたりで、にわかに、本当に突然、おなかがぎゅるぎゅる鳴りはじめた。
 鳴ってるだけなら別の問題はないが、腸管の中の物体が-粥状に違いなかった-外の空気を吸いたがっているのは明らか。その勢力は強く、肛門が決壊するのは時間の問題だった。

 辛さで涙がにじみ出てくる。なぜ、店を出る前にトイレに行って排泄しなかったのだろうかと自分を責める(でも、そのとき-つい数分前のことだ-は、ちーっともしたくなかったんだもん。笑顔で会計を終えたくらい元気だったのだ)。

 私は妻に、「先に帰ってる」と言い、マンションに向かって早歩きし、やがてそれは競歩並みの速度まで上がった。妻は何が何だかわからなかっただろう。いや、私の脱肛のような足取りを見てコトを察したに違いない。
 こういうときに限って、途中にある信号はことごとく赤に染まっているし、マンションのエレベーターは最上階で停まっている。

 あんなにつらい思いをしたことは、これまでの人生の中でも38回ぐらいしかない。

  天才はウンコねたが好き?
 ウンコといえば、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791 オーストリア)だ。
 モーツァルトのスカトロジー(糞尿趣味)は有名。

 神童モーツァルトがウンコのことをお下品にあれやこれや手紙にしたためているのを読んで、むかしのお堅い伝記作家は、なんとかそこを避けて通りたいと悩んだことだろうが、いまではすっかり知られている。
 目がキラキラと輝いているマンガのモーツァルトの伝記でも、そこのあたりをしっかりと描いてほしいものである。

 ベーズレという愛称(“従妹”の意)で呼ばれていたマリーア・アンナ・テークラに宛てた手紙(6通残存)には、ダジャレ連発の上に、ウンコ現る!っていうものだ。

 1777年11月5日付の手紙には、次のようなくだりがある(出典:池内紀「モーツァルト考」:講談社学術文庫)。

 ありゃ、お尻(・・)が火のように燃えてきたぞ! こりゃ一体なにごとだ―きっと、ウンコ(・・・)ちゃんのお出ましだな。―そうだ、そうだ、ウンコちゃんだ。ぼくにゃおまえのことはわかってるぞ、見つけたぞ、うん、匂ってくる。

 ちなみに、同じ箇所ながら、吉田秀和編訳の「モーツァルトの手紙」(講談社学術文庫)ではこうなっている。

 あつ、おしりがあつい、燃えてるみたい!これは何の意味かしら?-よごれものが出たいってわけ?-そうとも、汚物め、お前の正体は先刻ご承知、それみろ、口にいれてみろ

 吉田センセは、一生懸命“ウンコ”という表現を避けている。考え抜いたんだろうなぁ。けど、よごれものってなぁ……

 続けて池内氏は、モーツァルトのスカトロジーについて、

 モーツァルトのこういうスカトロジーを、天才のもつ独特の精神構造とか、ある種の幼児性とか、そういうことから語られますね。もっと日常的なレベルで考えたほうがおもしろいんじゃないかと思うんですよね。いちばん近いところにある、いちばん身近なものでしたから。
 もうひとつは、ひり出したあとの爽快さというのか、それを非常によく言うのは、健康の印だったんでしょうね。その色と出ぐあいは重要な問題で、ちょっとでも下痢とか、ある種の変調をきたしたときの危険さということですね。そこで三日後に死んじゃったなんて、よくあるケースでしたから。ウンチというのは、非常に彼らにとって大きな目印だったと思いますね。ですから、それを言うか言わないか、これはたしかに精神構造と関係しているわけだけど、モーツァルトにとっては、そのことが次の自分の仕事に非常に重要だった。だから、思い切りひり出して、「さあ、やるぞ」っていうんで、嬉遊曲書いたりとか。仕事のための、必要なコンディション作りだったんでしょうね。


と書いているが、確かに水下痢だったり、いやふつうの下痢でも、下痢じゃなくて軟便でも、「さあ、やるぞ」とはならない。気持ちがヒュルヒュルヒュルヒュルとしぼんでしまう。
 個人的にはそういう日、少なくないけど。もう数えきれないくらい、3日後には死んじゃっていたかもしれない経験を私はしっかり積んでいる。

MozartFlConBruggen そのモーツァルトの優雅で美しいフルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299(K6.297c)(1778)。

 ウンコちゃんがお出ましする場面を想像しながら、この名曲を聴いてみるといい。
 想像の中で姿を現わすのは、ラメをまとったピンク色の……。いや、心を無にして聴いて下さい。

 ヒュンテラーのフルート、シュトルクのハープ、ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラの演奏を。

 1991年。デッカ(TOWER RECORDS PREMIUM CLASSICS)。

  ですから、私にどうすれと?
 大阪の支社に勤務していたときのこと。当時の上司が、「けさ、電車のなかでこっそりおならをしたら、実も少し出ちゃってさぁ」と、聞いてもいないのに私に教えてくれた。

 正直者だ。言わなくてもいいのに、迷惑なくらい正直だ。
 よい人だったが、こういうことを言うなんて、やはり精神構造に問題が多少あったのか?実際、ちょっと変わったところがあった。
 でも、そのとき私がひたすら考えていたことは1つ。「それ以上近寄るな」だった。

 星野源は別な章でこう書いている。

 中学生の頃、学校に行きたくないあまり、通学の途中でわざと服を着たままうんこをし、それをパンツの中にキープさせたまま家に帰って「うんこもらした」と親にアピールし、そのまま学校を休んだことがあるのも吾輩だ。

 天才の持つ独特の精神構造の成せるわざなのだろうか?

 でも「変わった人だなぁ」と思いつつも、「わかる!わかる!」「そういうこと、ある!ある!」と“クイズ 100人に聞きました”のギャラリーのように共感するところも多く(うんこの話だけのことではない)、楽しめるエッセイだった。

 ところで呼び方だけど、あなたはウンチ派?それともウンコ派?まさか実っこ派ってことはないでしょうね?