モーツァルトの交響曲第32番は、私にとって懐かしい思いがする曲の一つである。
中学生の頃、NHK第2放送(!!)で初めてこの曲を聴き、同時にテープに録音したのだが、ノイズの合間から曲を聴いているような感じであった。その演奏は、ハンス・スワロフスキ指揮のN響だった。
ところで、私はモーツァルトの曲からクラシック好きになったのが(K.107-1)、それにも関わらずすぐにモーツァルトが退屈極まりなく感じるようになった。恩知らずな奴である。
札幌交響楽団の定期演奏会に通うようになってからも、プログラムにモーツァルトの曲が入っていると、気が重くなったものだ。せいぜい30分の曲が途方もなく長く感じられたのだ。シューベルトの「グレイト」が「天国的な長さ」だと言うなら(私はそうは思わないが)、モーツァルトは読経を聞く忍耐とイコールであった。
ところが、今から10年ほど前くらいからピリオド奏法によるモーツァルトに出会ってからというもの、彼の音楽は全然長く感じなくなった。すべての反復を忠実に実行している演奏でさえも、苦痛に感じなくなった。
モーツァルトの音楽がこんなにも激しく、刺激的だったとは!
私はピリオド奏法を全面的に支持する者ではないが、ことモーツァルトについていえばピリオドでやるべきだと考えている。
新訳によるカフカの「変身」(光文社古典新訳文庫)について先日書いたが、訳者の丘沢静也氏が書いている解説もなかなか面白い。少し長いが引用してみる。
カフカの手稿とモーツァルトの自筆譜には、共通点がある。どちらもきれいで、ほとんど直しがなく、一気に書かれている。さすがだ。
翻訳は演奏に似ている。
クラシックの演奏では現在、ピリオド奏法がじょじょに主流になりつつある。ピリオド奏法の合言葉は、「オリジナルに忠実に」。作品が書かれた時代(ピリオド)の流儀にしたがって演奏しようとする。もちろん楽譜もオリジナル志向。モダン楽器の大オーケストラでなめらかに演奏されるモーツァルトは、ツルツルすべって退屈だ。おお、美しく謳いあげることの、むなしさよ。しかしピリオド楽器・ピリオド奏法でアーノンクールやガーディナーが指揮するモーツァルトは、激しい起伏があり、溌剌としていて、とても魅力的だ。
ピリオド奏法は――どういうものが「オリジナル」なのか、どういうことが「忠実に」なのか、というやっかいな問題もあるけれど――、自分が慣れ親しんできた流儀を押し通すのではなく、相手の流儀をまず尊重する。演奏家の「私」ではなく、作曲家の「私」を優先させるわけだから、ブロートとは姿勢がちがうのだ。
新しいカフカ全集、もっと新しいカフカ全集が登場して、カフカの翻訳にもピリオド奏法の時代がやってきた。
ブロートというのはカフカの友人で、カフカの死後、その作品の大部分を出版した人物である。このブロートが出版したものは(誰もが長い間その版しか知らなかったわけだが)、ブロートによって編集が加えられていたことが解ったのである。
それにしても、この文章はピリオド奏法のことを的確に表わしている。もちろん、氏は翻訳のことを書いているわけだが、モーツァルトのかつての主流だった演奏スタイル――甘く、甘く、甘く!――が退屈とは、まったくの同感である。
さて交響曲第32番であるが、この曲は3つの部分に分かれ ているものの、8分ほどの単一楽章の曲である。一昔前は必ずといっていいほど「イタリア序曲」という タイトルがつけられていた。
私が愛聴しているのはコープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団の演奏(1990録音。エラートWPCS11106。とても溌剌とした歓びに満ちた演奏といえる。
モダンの演奏ではサラステがスコッティッシュ室内管弦楽団を指揮したものが、あまり甘美になりすぎず、また音をいたずらに引っ張らなくてよい(Virgin CLASSICS 7243 5 61451 2 2。輸入盤)。
モーツァルトはピリオド奏法に限ると言っている私であるが、ヘンデルの水上の音楽なんかはモダン演奏でストレス発散的に聴きたくなる、矛盾多き私ではある。