今日紹介する作品は、P.ルジツカ(Peter Ruzicka 1948- 、ドイツ)が1990年に作曲したオーケストラ作品「ヨーゼフ・ハイドンの音響領域による変容」(英名はMetamorphoses on a sound field by Joseph Haydn)。
ヨーゼフ・ハイドンといえば「交響曲の父」と言われている偉い人である。しかし、栄誉ある称号が与えられているにもかかわらず、交響曲をはじめとしてその作品が聴かれることは意外と少ない。彼の交響曲のタイトル(あだ名)には「哲学者」とか「学校の先生」、「火事」、「うっかり者」といった、聴いてみたいという欲望を抑えきれないようなものがあるのに……(にもかかわらず聴こうとしたがらない私は、禁欲主義者なのかも知れない)。
それにしても、なぜ「交響曲の母」はいないのだろう。もし、「交響曲の母」という人物が音楽史上にいたなら、後世のマーラーあたりは「交響曲の非嫡出子」なんて呼ばれたかも知れないのに(深い意味はありません)。
私はハイドンの音楽が苦手である。退屈しちゃうのである。
これは、かつて私がモーツァルトに抱いていた印象と同じである。若い頃は「ハイドンとモーツァルトを好むようになったら、もう私の人生も枯れるときだ」と周囲に言って歩いたものだった(周囲とは、部屋の壁である)。
その後、モーツァルトに対してはピリオド奏法の演奏を知ってから、すっかり好きになってしまった。これは、ピリオド奏法という手助けを借りたものの、明らかに私が精神的に老化したことを意味する。
今後、ハイドンも好むようになったら、間違いなく肉体的に老人となった場合であると想定される。それはいつ来るかわからない。明日かも知れない。ピリオドびんびんハツラツ奏法で演奏されたハイドンを耳にしたら、一挙に全身シワだらけ、恍惚の人になるということだってありうる。
一つだけ白状すると、実はここ数年で私のCDラックにはハイドンのものが増えてきている。それは徐々にではあるものの、あぁ、ヒトは年をとっていくものなのね……
さて、ルジツカの作品であるが「ハイドンの交響領域による変容」というタイトルだけあって、ハイドンが用いた音の領域を巧みに変容している、ということは聴いていてもよく解らない。
しかし、ひじょうに緊迫した雰囲気の音楽である。その緊張感は14分ほどの全曲にわたって持続する。
この曲の元になったのは、というか作曲家がインスピレーションを受けたのは、ハイドンの「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」であるという(ハイドンはこの名の作品を管弦楽曲、弦楽四重奏曲、オラトリオの分野で残している)。
この作品名に引きずられるわけではないが、ルジツカの作品はこれからとてつもなく恐ろしいことが起こりそう、という音楽。嵐の前ぶれ、逃れられない恐怖、諦観、切迫感、あるいは11'30"過ぎに現れるような「あてのないほのかな安堵感」が、透明な音響の中で進行していく(この作品はかつての現代音楽のような“聴きづらい”ものでは決してない)。
CDはWergoレーベルのWER6518-2(輸入盤)。「ヨーゼフ・ハイドンの音響領域による変容」の演奏は作曲家指揮のベルリン放送交響楽団。録音は1993年。カップリング曲はすべてルジツカの作品で、「続けて話される刺激をまず受けるべき……」(1981)、「発露」(1976)、「解体」(1977/78)。
Wergoというレーベルは現代作品を積極的に録音しているレーベルで、ときおり思わぬ掘り出し者(作曲家のこと)に出会う。近々紹介しようと思っているハラルト・ヴァイスをこのレーベルで知ったことは、私にとってひじょうに幸運な出来事であった。
ところで、キリストは十字架上で最後に何を七つ言ったのだろうか?
午後三時ごろ、磔になっていたイエスが大声で叫んだのは「エリ、エリ、サバクタニ」。
これは聖書に記述されている。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」という意味である(神自身である神の子イエスが、神に訴えるというところがキリスト教の矛盾の一つである)。
これは七つの言葉に含まれているのだろうか?
新入社員の頃、“職場の七大用語”というのを研修で覚えさせられたが、ありゃまあ、覚えてない。
「申し訳ございません」しか思い浮かばない。いつも妻に対して言っているからだろう。
1/7しか思い出せないなんて、実は私はすでに心身ともに老いてしまっているのか……