「フニクリ・フニクラ」は、その有名さと親しみやすさからイタリア民謡と思われることが多い。
私なんかは、この旋律を耳にすると、なぜか幼少期のことを思い出してしまう。
記憶から欠落しているが、その昔、イタリアに行ったことがあるのだろうか?
いや、おそらくは、「おかあさんといっしょ」か何かのなかで、歌のお姉さんが歌っていたのを繰り返し耳にしてと刷り込まれたというのが関の山だろう。「アイアイ」を聞くと、お猿さんにフレンドリーな気持ちになるのと同じように……
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949・ドイツ)は「フニクリ・フニクラ」を民謡と勘違いした。
彼が交響的幻想曲「イタリアより」Op.16(1886)を書いたとき、旅行先のイタリアで耳にした「フニクリ・フニクラ」を民謡だと思い、終楽章の「ナポリ人の生活」でその旋律を用いたのであった。
しかしながら、「フニクリ・フニクラ」はイタリアの作曲家ルイジ・デンツァ(1846-1922)が1880年に書いたCM曲である。ヴェスヴィオ火山にフニコラーレ(登山電車)が作られた際に、その宣伝のために、建設したアメリカの会社から依頼されて作曲したのがこの曲というわけである。
ということは、勝手に旋律を使ってしまったR.シュトラウスは、著作権違反かなんかで訴えられなかったのだろうか?
ところでデンツァという人は、実のところ多くの歌曲を書き残しているという。彼は1879年にロンドンに移り、歌唱の教師として知られたというし、作曲家としてはイタリア民謡風の歌曲を600曲ほど残しているという。イタリア民謡風ってことは、まぁ「フニクリ・フニクラ」にしても民謡と間違えられても仕方ないということか。逆を返せば、それだけ民謡風の作曲テクに長けていたということになるのだろう。
さて、R.シュトラウスの交響的幻想曲「イタリアより」――彼にとっては初期の管弦楽作品となる――が1887年に初演されたときには終楽章が聴衆に大きな興奮を呼んだそうだが、それは賛否両方の声であった。「フニクリ・フニクラ」の旋律を使っているという問題ではなく、その大胆な管弦楽法のありかたが問題になったようだ。
曲は、「カンパーニャにて」「ローマの廃墟にて」「ソレントの海岸にて」「ナポリ人の生活」と題された4つの楽章から成っている。
CDの数は多くないが、ジンマンがチューリヒ・トーンハレ 管弦楽団の演奏を、私は聴いている(めったに聴く曲じゃないけど)。
2000年の録音。アルテノヴァ74321 77067 2(輸入盤)。カップリング曲は交響詩「マクベス」Op.23。
さて、同じく「フニクリ・フニクラ」を扱った作品に、イタリアの作曲家アルフレード・カセッラ(1883-1947)の、その名もずばり、狂詩曲「イタリア」(1909)がある。
この曲はシチリアとナポリの民謡を土台としているというが、そのなかに「フニクリ・フニクラ」も含まれている。やっぱり「フニクリ・フニクラ」は民謡化してしまっているということか?この曲では、後半に「フニクリ・フニクラ」が、R.シュトラウスの用い方より原型をとどめた姿で現れる。 こちらの曲で私が聴いているのは、フロンタリーニ指揮モルダヴィアン国立交響楽団(どこにあるのでしょうね)のCD。輸入盤でARTSの47211-2。1995年録音。カップリング曲はレスピーギの「風変わりな店」。実は、「風変わりの店」が聴きたくて買ったCDに、カセッラの曲も入っていたというわけ。
どちらの曲も「フニクリ・フニクラ」の旋律が出てくると、何と言うか、体の力が抜けてどうでもいいやって気分になる。
というのも、自動的に「行こう、行こう、火の山へ!」が頭の中で沸騰するから。
う~ん、イタリアの人ってやっぱり陽気なのね、という感じだ。
恐るべし、デンツァ!
テナー歌手が真剣な笑顔でこの歌を歌っている場面を、いつぞやかTVで観た。「千の風になって」の歌手である。
すまないが、なんか恥かしい気持ちになった。