イギリスの作曲家、B.ブリテン(1913-1976)の「春の交響曲」(1949)。

 それにしてもイギリスの音楽って、全般的に「靄(もや)」がかかったような響きを持っているように思う。ブリテンにしても、ディーリアス(彼はドイツ生まれだが)にしても、ヴォーン=ウィリアムズにしても……。エルガーにだってその傾向がある。
 別に「霧のロンドン」のイメージで、意識がそのように影響されているわけではないのだが(実際に見たこともないし)、グレーが基調の水彩画を思い浮かべてしまう。もっとも私が思い浮かべる水彩画は、小学生のときに使っていた水彩絵の具「ギターペイント」の箱に書かれていた絵ぐらいのものだが……

 12の曲から成る「声楽曲」の「春の交響曲」は、ボストン交響楽団からの委嘱を受けて1948年に作曲にとりかかり49年に完成した、大編成のオーケストラ、混声合唱、少年合唱、ソプラノ独唱、アルト独唱、テノール独唱のための作品。12の曲は4つの部分に分かれており(1-5、6-8、9-11、12)、伝統的な意味での交響曲ではないが、各部が4つの楽章に当たっている。

 この作品のような前例としてはマーラーの「大地の歌」があるし、あとの例としてはショスタコーヴィチの交響曲第14番「死者の歌」がある(ショスタコーヴィチはこの作品をブリテンに献呈している)。

 曲名にあるように、ブリテンは「冬から春への移り変わり」を描5cc71789.jpg こうとしたわけだが、歌詞は16世紀から20世紀にいたるまでのイギリスの詩が選ばれている。また、終曲(この楽章では角笛も用いられる)では、中世イギリスの「夏は来りぬ」という、現存する最古のカノンが引用されている。

 春の到来を待ちわび、春の喜びを歌う曲ではあるが、決して陽気さに満ち満ちているわけではない。そこが「靄のかかったような」と私が感じるところでもあるし、イギリスの気質というのはこういうものなのだろう、とも思う。

 多くのの魅力的な旋律が現れるが、さらに管弦楽のみごとな用法によって美しさ、色彩感が強調される(しかし靄がかっている。あるいはガラス越しに眺める外の風景といった感じか)。
 もっとも陽気さにあふれているのは、少年合唱も加dcf4ceb6.jpgわる第4曲だと思うが、ここでは「あのとき、僕の恋人はこういった、『この季節まで戻ってきてね、そうしないと私は乙女ではいないわ』」と歌われる(スコア写真。スコアはBOOSEY & HAWKES)。こういう詩の歌を少年たちは何を思いながら練習するのだろう、とオジサンは心配してしまう。16300243.jpg
 この作品は、音楽だけよりも歌詞を追いながら聴い た方が ずっと面白い曲だと思う。

 推薦盤はガーディナーがフィルハーモニア管弦楽団、モンテヴェルディ合唱団他を振った演奏(グラモフォンPOCG10042。1995年録音)だが、残念ながら現在は廃盤の様子。そこで、作曲者自身がコヴェントガーデン・ロイヤルオペラハウス管弦楽団、同合唱団他を振ったものを、第2の推薦盤として紹介しておきたい。録音年は1961年と古くなったが、デッカの優れた録音なので不満を感じさせないf846f7b1.jpg。CD番号はデッカのUCCD3629。右のタワーレコードのネット販売で購入できる(960円)。なお、写真は同じ演奏の輸入盤のものである。

 私はこの曲を、岩城宏之がメルボルン響を振った演奏で知った。そのライブ録音がFM放送で流され、私はカセットテープに録音して繰り返し聴いていたが、それは浪人真っ最中のことであった。「私の春よ、来い!」と願ったが、雪解けまでは長かった……。そして、望んだ春も来なかった。めそめそ……

 当時、岩城は札響の音楽監督でもあったから、この曲を札響で演ってくれないかなと思ったのに、それもなかった。しくしく…… 

 そしていまや、「私はもう若くはないわ……」である。