ホルストの「吹奏楽のための組曲」第1番変ホ長調Op.28(1909)って、とてもよい曲だと思う。
私は吹奏楽作品についてほとんど知らないといっていいくらいだが、この曲はけっこう昔から知っていたし、気に入っていた。ところが、いざレコードを探すとなると見つからなくて天を仰いで苦悩したものだ。
やっとフェネル指揮イーストマン・ウィンド・アンサンブルのLP を見つけて聴いていたのだが、これが悪名高き「擬似ステレオ」盤。つまり、モノラル録音のものを電気的にステレオに処理したものなのだが、音の広がり方がひどく不自然で精神衛生上極めてよろしくなかった。演奏はすばらしいという定評があったのだけれど……。でも、他にないから我慢していた。
もしかすると吹奏楽に力を入れ、学校の吹奏楽部指定という栄誉を与えられている楽器店なんかに行けば、誰が演奏しているかは別として、もっとレコードがあったのかもしれない(実際、現在を見るとおびただしい数のCDが出ている)。
その後、探し求めて私が手に入れた「まともなCD」はウィック指揮ロンドン・ウィンドオーケストラのもの。ASVのCD-QS6021である(1978録音。輸入盤)。このCDの演奏はなかなか良い。ただ入手するにはCD番号を伝えて取り寄せしなくてはならないかも知れない。
なお、タワーレコードで検索すると、現在ではこの曲のCDが何種類か出ているようだ。
その「吹奏楽のための組曲」第1番は3つの楽章から成る。
第1楽章は「シャコンヌ」。「シャコンヌ」という過去の遺産的形式を用いているところがオタクっぽい。シャコンヌはバロック時代の変奏曲の形式の一種で、パッサカリアと同じようなものである。細かい違いは自分で音楽辞典で調べなさい!
第2楽章は「間奏曲」だが、「シャコンヌ」の旋律(Aとする)から派生したと思われる軽快な旋律Bで始まるが、さらに同じくAから派生したと思われるCの旋律が現れ、最後にはBとCが濃厚に絡み合う。う~ん、複数の旋律が絡み合う“音楽の濡れ場”である。
第3楽章「行進曲」は新たな旋律Dで始まるが、これもAの血を引いている気がする。中間部では、これまたAから派生したEが登場し、最後はDとAがこれでもかというように同時進行して行く“音楽の修羅場”となる。
結局は、すべてが最初の旋律Aが元になって発展し繰り広げられる“同族の世界”であるが、この対位法(細かく言えば複旋律対位法ということになるんだろう)が実に見事。そして、タネとなっているAの旋律が親しみやすい性格を備えていることも魅力を高めている。
こう言っては全国数万人とも数十万とも数百万とも言われる吹奏楽愛好家に失礼に当たるが、クラシック・ファンの中にはブラス作品を敬遠する向きが少なからずあるように思う。大作曲家が書いたものであっても、それは「教育向け」に書いた作品のように見なされがちであるし、だいたいにして「ブラバンなんて粗野だ」というイメージがある。良い演奏になかなかあたらないという背景もあるだろう。
私にも「吹奏楽かぁ」と思う傾向がある。でも、この曲はすばらしい。
旋律の絡み合いが見通しよく解る作品として、例えばボロディンの「中央アジアの草原にて」があるが、ホルストの組曲はそれに勝るとも劣らないと思う。
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昨日、大手町から東京駅に通じる地下通路を歩いていて気がついたことがある。それは、携帯電話の着信音を大きく設定している人ほど、自分の電話が鳴っていることに気づくのが遅い、ということである。
足音だけがこだまする地下通路で、歩行中の誰かの携帯が鳴る。それがずっと続く。うるさいな、誰だろうと思う。そうすると、一人がカバンやらポケットやらをごそごそし始める(かばんの奥底に突っ込むくらいなら、マナーモードにするか電源を切れよなぁ)。そして悲鳴をあげている携帯が外気にさらされ、その音はイライラするほど高らかに響き渡るのである。そういう人は、その時点で周囲のことを考えずに突然立ち止まって「もしもし……」とやりはじめるし、その声も概してでかい。
こういうことは(立ち止まることはもちろん除いて)電車内などでも見受けられる。そして十中八九、中年の男性である。
この観察結果から解ることは、中年男に電話をかけているほうも、多くの場合気が長いということだ。延々と呼び出し音を聞き続けるわけだから。
また、この観察結果から推測されるのは、
①中年男の多くは、着信音量の設定変更のしかたを知らない可能性が高い。
②中年男の多くは、着信から「電話に出られない」というメッセージが流れるまでの時間の設定のしかたを知らない。
③中年男の多くは、留守番電話サービスを利用していない。
④中年男の多くは、耳が遠い。
⑤中年男の多くは、歩きながら電話で話すことが苦手である。
ということである。
イヤフォンとマイクでハンズフリーで歩きながら携帯で話をしている中年男も時折見かけるが、あれってみっとも良い光景ではない。下手すりゃ、一人で背後霊と話をしながら歩いている「危ない人」に見られてしまう。そんなふうに電話で話そうって思い立つこと自体がすでに「危ない&怪しい人」なんだけど。ポケットに両手を突っ込んでそんなことするなよな。手が空いているんなら携帯を持って話をしろよなぁ。それとも、実は独り芝居で、忙しいポーズを見せている空しい行為だったりして(誰に見せたいのか不明だけど)。
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昨夜は新橋駅近くで会食。
けっこう銀座~新橋界隈は人が出ていた。まだ忘年会シーズンは続いているようだ。
道でオーバー中年男(つまり初老)が若い女性とがっちりと肩を組んでいたが、よくみるとスケベ行為ではなく、自力で立てないほど酔っているようだった。ああいうみっともない姿になるまで酔うのはどうかと思う。その若い女性が逞しい体型でよかったなぁ、とどうでもよい感心をしてしまった。
って、私は昔、すすきののビルの1Fで開脚前転してしまったことがあるけど……。ただそれは、酔っていたせいではなく、雪解け水で滑っただけである。不幸にも私の周りにはあの若い女性のような献身的な人間はおらず、笑いの渦に囲まれただけであった。
そういう性善説的視点に立てば、もしかするとあの初老の男性も酔っ払っていたのではなく、自力で立てないのは痛風発作でも起きたせい、っていうわけはないか。