10月20日の本稿で(「今宵『赤と黒』で……」)、光文社古典新 訳文庫から刊行されたスタンダールの「赤と黒」(上巻)について紹介した。訳は野崎歓氏である。こういう書き方をすると、まるで私が野崎氏のことを良く知っているような感じであるが、全然知らない。私の知り合いに野崎さんという人物が一人いることは事実だが、その人は厄とは縁がありそうだが訳とは無縁と思われる。

 

 12月に入り下巻が刊行され、「上巻を読んだのに下巻を読まずして、それでお前の人生は正しいのか?上巻だけならお前は一生“赤”だ」とわけのわからないことを自問し、その結果として購入した。買った場所は旭屋書店・札幌ステラプレイス店。そんなのはどうでもいいか……。


 上巻について紹介したときに、私はこの訳を「流れるような日本語」と書いた。そして続きだから当たり前なのだろうが、下巻の文章も優雅なリズムで流れていく。とても読みやすい。こういう形で古典作品を紹介してもらえることをありがたく思う。


 ただし、ひとつだけ気になることがある。

 これは単に私の知識不足、ボキャブラリー不足なのかも知れないが(謙虚に書いているが、本心では自分のせいではないと思っている)、この訳では「ひとりごちた」という表現(訳)が何箇所かで出てくる。

 下巻から一箇所ピックアップすると、202pに

 “〈結局のところ、ぼくは連中に一杯食わされずにすんだのだ〉ジュリヤンは出発の準備をしながらひとりごちた”とある。


 この「ひとりごちた」は、ベストセラーとなっている同じ光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」でもでてきた(訳は亀山郁夫)。また、記憶がはっきりしないのだが、このシリーズのほかの本でも出てきたはずだ(クラークの「幼年期の終わり」だったような気もするが、別なものだったかも知れない)。

 でも、いま「ひとりごちた」って言葉を使うのだろうか?威張って言うわけではないが、私はこの言葉を日常会話で使ったことは一度もない(非日常会話でもない)。だいたいにして「ひとりごちた」という言葉を知らなかったのだもん。皆さんはどうだろうか?

 カラマーゾフを読んでいたときに、国語辞典で「ひとりごちた」と調べてみたが載っていない。「ごちる」でも載っていない。当然「ごちた」でも載っていない。「まあ、いいや。たぶん一人でご馳走を食べたぐらいの意味だろう」と思いながら、小説を読み進んだがたいして悪影響はなかった(冗談ですって)。

 今朝、「ひとりごちる」夢をみて(意味が解らないから、どうやってよいかわからずに困っている夢だ)、もう一度国語辞典を調べて見た。

 あった。「ひとりごつ」で載っていた。

 漢字で書けば「独ごつ」、ローマ字で書けば「hitorigotsu」である。

 “古語。「ひとりごと」の動詞化。ひとりごとを言う。”とある。

 なぁ~んだ、よく電車で見かける怪しい人のことだ。朝からひとりごちてる人っていますよね?中にはひとり歌ってる人もいますし(現代文そのままだ……)。

 でも、私にとってはエレベーター・ガールを「エレちゃん」と言うのと同じような感度である(言わないって!)。


 でも不思議である。

 このシリーズのコンセプトは「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」である。なのに、なぜ「ひとりごちた」という、私が思うにすでに窒息している言葉を用いるのだろうか?しかも、複数の訳者の翻訳にわたってである。光文社の編集部の中にひとりごちるのが好きな校正担当者がいるのだろうか?“ジュリヤンは出発の準備をしながら独りごとを言った”とか“ジュリヤンは出発の準備をしながら独りつぶやいた”とかでもいいような(日本語の流れを邪魔しないような)気がするのだが……

 あるいは、私が使っている国語辞典が昭和51年のものだから、その後何らかの奇跡的な事態が起こって、この言葉は現代用語として復権を果たしたのかも知れないが(←しかし、嫌なものの言い方だね)。

 いえいえ、「ひとりごちた」でもいいんだけど、個人的には不思議に思っているということだけです(←さんざん書いといて否定するいやらしさ!)。

 本書に話を戻すと、このシリーズの特長である懇切丁寧な解説と作者の詳しい年譜ももちろん載っている(急にフォローに転じる)。


 この小説の主人公はジュリヤンだけど、昔、マダム・ヤンってありましたよね?即席めん(これも古語)の名前でしたが……

 ということで下巻を読んで“黒”も制覇。上巻の“赤”だけで終わらずによかった(まったくの冗談です。絶対に砂粒ほども納得しないこと)。