先日テレビで放映された映画「大奥」を観た(全部ではないが)。
別に「大奥」のストーリーに興味があるわけではない。最近、なんとなく仲間由紀恵が好きなのだ。顔立ちからすると、私は永作博美とか小西真奈美、古くは市毛良枝なんかが好きなのだが、仲間由紀恵の雰囲気が好きになったのである(結局、芸能人なら誰でもいいということか……。それにしても仲間由紀恵が悪いわけではないが、草野仁と出ているどっかの車のCFは腹立たしいほどくだらない)。
その映画の中に何度か出てくる濡れ場(ベッドシーンと書きたいところだが、江戸時代にはベッドなんてないから、床(とこ)場面と書こうと思ったが、何のことやらさっぱりわからなくなるので、へんてこなトラックバックが食いついてきそうながらも「濡れ場」と書いた)を観ていて、私は思った。1つは、なんてリアル感のない愛の場面の演技だろうということ。幼稚園児のままごと抱擁じゃないんだから……。
もう1つは、「この時代の人って、歯なんて磨いていたのだろうか?こうやって接吻したときに口がひどく臭いということは十分考えられる。それにそのあとに事が及ぶなんて、風呂にも入らないでそれでいいのか?体が汚れていて恥かしくないのか?」と。
そんなことが一度頭に浮かんでしまうと、テレビ番組や映画なんて楽しめたもんじゃないが、そう考えてしまうのだからしかたない。まったく、おバカな私である。
だから村上春樹に関するある本の中で、彼に対して「春樹さんの小説に出てくる男女は、あのときに避妊しているのですか?そのような記述は見当たりませんが、妊娠したらどうするのですか?」と質問を寄せた人の気持ちがわからないでもない。
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こういうことは現代に生きているから思いついてしまう疑問であって、当時としては何の問題もないことだったのかも知れない。それに及ぶときにシャワーを浴びてから、なんてことは当時は絶対にありえないのだから、何の問題もない当たり前のことだったのだろう。
それにしても昔の人は現代人よりも恋というか、男女の秘め事に関してはかえって開放的、奔放ではなかったかと思う。
西欧にいたってはもっとすごかったのだろう。小説なんかでも読み取れるし、歌にも歌われている。
「美徳と悪徳 ドイツ・ルネサンスの世俗曲集」というCDが手 元にある。CD番号はナクソスの8.553352(右のタワーレコードのバナーから購入できる。1,190円)。
このCDには、イザーク(1450頃-1517)、ゼンフル(1486頃-1543)、フィンク(1444/45-1527)といった15~16世紀の音楽家の歌曲が38曲収録されている。
そのタイトルだけでもけっこうワクワクである。「この世での私の唯一の楽しみは」とか「婚約しなければ」、「昔、外出したがる妻がいた」「ある朝、私は人知れぬ所にたたずみ」etc,etc...
実際の歌詞はCDを購入してごらん下さい。ただし、輸入盤のためドイツ語歌詞と、英語の対訳となっておりますが……
私が38曲中いちばん好きなのはゼンフルの「山に登れ」という歌。
歌詞は「山に登れ、そこには背の高い家がある。毎朝、3人の女性が家から出てくる。1人目は私の妹。2人目は私の友人。3人目は名も知らぬ女だが、彼女は私のものになるに違いない」ってもの。歌詞が好きなのではなく、飾り気のない力強い、生命力溢れるっていうか、本能的な音楽そのものが好きなんだけど……。
昔の人ってこういうことにしか興味を持たざるを得なかったのかなぁ。他に何も楽しみがなかっただろうからな。これって、「貧乏子沢山」に通じるんだろうな。