マーラーの「大地の歌」は、彼にとって9番目の交響曲に当たる。
彼は、少なからずの作曲家が交響曲において9という数字に触れたあとこの世を去っていることから、自分の9番目の交響曲には番号を付けなかったのである。
「大地の歌」の完成後、マーラーは危険は過ぎ去ったと考えたのだったが、やはり第10番(実際には11番目)を完成させることなく亡くなってしまった。第9交響曲の中で「大地の歌」のフレーズを登場させたりした祟りだろうか?
フィルハーモニア版のスコア(音楽之友社刊)にある解説では(R.なる人物による)、「交響曲第9番では、《大地の歌》において達成されて個人的告白のために使われた表現の手段が、さらに発展し、われわれ皆が直面しなければならないいろいろな問題との対決において客観化されるのである」と記述されている。「なるほど」と感心してしまうような説得力がある、ような気がするのである、かも知れないのである。
「大地の歌」は、李太白、銭起、孟浩然、王維などの漢詩をドイツ語に訳した「支那の笛」をテキストに用いているが、ハンス・ベードゲなる人物によるその訳自体が原詩には忠実ではなく、文学的には決して一流とは呼べないらしい。それに、作曲家自身がさらに改変を加えている。
それでも聴く者の胸を打つのは、その優れた音楽によるためだろう(先のR.氏によれば「ここでも言葉が音楽を近づきやすいものにしている」というが、それはどうかなぁ)。
なお、最近では“交響曲「大地の歌」”ではなく、単に“大地の歌”と呼ばれることの方が多いようだ。
私はこの曲をライナーが指揮した廉価盤(LP)で知った。
このLPのジャケット裏面には歌詞の訳が載っていたが(対訳ではなく、邦訳のみ)、文語体でなかなか風情があった(もうそのLPは手元にないので、訳者が誰かは解らない)。
そのあとショルティ盤(LP)を買ったのだったが、それは私がショルティのマーラー演奏のファンだったこともあるが、歌詞の原詩である漢詩が解説に載っているという広告文句に踊らされたためである。
結論を言えば、漢字が並んでいるのを見ても別に楽しくなかった。
その原詩はともかく、渡辺謙氏によるこの盤の対訳もひじょうに味がある。
曲の最後の訳は「いとしき大地に春来たりて、いずこにも花咲き、緑新たなり!遠き果てまでいずこにも、とこしえに、とこしえに蒼き光、とこしえに、とこしえに……」というもので、これに慣れてしまうと、現代風の「永遠に新緑の輝き、永遠に、永遠に」にみたいな日本語訳だと軽い感じがしてしまう。
それはともかく、私はいまだにこの曲ではショルティの
CDを聴くことが多い。オーケストラはシカゴ響、ミントンのメゾ・ソプラノイ、コロのテノール(犬みたいね。「コロ!」「わんわん」)。
1972年の録音でCD番号はデッカのUCCD3745.タワーレコードのオンライン・ショップで960円(LPのときは3,000円近くしたような気がする。音盤って本当に安くなったものだ)。
なお、掲載した写真は旧盤(ロンドン・レーベル時代)のもの。CDになってからは原詩の掲載はない(少なくとも私が持っているロンドン盤には)。
なお、多感だったコロの、いや、頃の私が聴いていたライナーの盤(シカゴ響。1959録音)はRCAからSACDで発売されている。
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そういえば、以前私は心理学系の公開ビジネス・セミナーに参加したことがある。自分の行動パターンや性格を知り、組織活動における人間関係の改善に役立てようというようなセミナーである。別に自分が職場で悩みを抱えていたのではなく、仕事の関係上、どういう内容なのか参考にするために参加したのだった。
その最初に、自己紹介で「音楽はマーラーが好きです」と言ったところ、研修の後半で「マーラーが好きだといってましたが、心に何か暗いものを背負っていると思います」と厚化粧の講師のおばちゃんに言われた。
余計なお世話だ!そんなもん背負ってなんかいないわい!
じゃあ何か、「伊福部昭が好きです」って答えたら、「あなたはゴジラ並みの強靭力があります」とでも言うのか?
占いじゃないんだから、厚化粧した顔で適当なこと言うなよな!まったく……
ずっと心の奥にしまって置いたんだけど、あぁ~、せいせいした。
