モーツァルトのピアノ協奏曲第18~19番。
 1784年にモーツァルトは6曲のピアノ協奏曲を完成させている。その最初は1782年から書き始められたとされる第14番変ホ長調K.449であり、最後は12月11日に完成した第19番ヘ長調K.459である。

 1784年はモーツァルトがウィーンに住むようになっcf33a5af.jpg てから3年目であり、すっかり人気者となっていたモーツァルトは、作曲と演奏会で充実した日々を送っていた。
 この年の3月に父に宛てた手紙には、「ほとんど手紙が書けないのをどうかお許し下さい。でも時間がないのです。というのは、今月の17日に始まって四旬節には毎水曜日に3回トラットナーの広間で予約演奏会を開くからです。これにはもう100人の予約者がおり、当日までにはまだ30人は集まるでしょう。(中略)ところで、ぼくがどうしても新作を弾かなければならないのは容易にご想像いただけるでしょう。……だから作曲しなければならないのです」(名曲解説ライブラリー「モーツf985d283.jpgァルト」(音楽之友社)より引用)。
 晩年に生活に窮したモーツァルトであったが、こ の頃はまさに音楽会の寵児だったのだ。
 この年の四旬節には、正味46日のうちに少なくとも23回、モーツァルトのコンサートが開かれたが、彼はこれと平行して作曲も、生徒たちへの指導もしなければならなかったのである。

 1784年に完成した6曲のピアノ協奏曲のうち、第16番からの4曲は、冒頭開始のリズムが同じであるという共通点を示している。この行進曲風の動機は、当時のモーツァルトの他のジャンルの作品でも用いているトレードマーク的なものである。参考までにピアノ協奏曲第18番(変ロ長調K.456)と第19番の冒頭部分のスコアを載せておく(スコアは音楽之友社のもの。写真上が18番、下が19番)。

 モーツァルトは終生を通してピアノ協奏曲と関わっていたが、当時広まりつつあったピアノという新しい楽器を、モーツァルトはもっとも得意とした(すなわち、当時の楽器のありかた、演奏会のありかたは、現代の大ホールを会場にしてグランド・ピアノで演奏するといったものとはまったく違ったことを知っておく必要がある)。
 ピアノ協奏曲は通し番号がついたもので27番まであるが、第18番のコンチェルトあたりからが彼の「円熟した協奏曲」の貫禄を備えるようになったと私は思う。

 第18番は盲目の女性ピアニスト、パラディースの独奏によって1784年秋に初演されたとされている。
 第1楽章は優しげに行進曲風動機が現れ、第2楽章は半音階で満たされた切ない情緒的なメロディーが変奏されていくが、まだそこにはクラリネット協奏曲にあるような諦観はない。輝かしい未来に向かっているなかでの、ちょっとした憂いである。終楽章は「狩のロンド」と言われる、楽しい気分に溢れたなものである。

 第19番は「第2戴冠式協奏曲」と呼ばれることもある作品。その由来は、1790年に行われたオーストリア皇帝レオポルト2世の戴冠式の際に開5558e4b3.jpgかれた演奏会で、第26番K.537「戴冠式」とともにモーツァルトが独奏をしたことによる。なお、この曲の初演については確かな記録がないが、1784年待臨節の予約演奏会の一つで初演されたと推察されている。
 第1楽章は行進曲風動機が、「じっとしていられない」といったように元気いっぱいに奏でられる。この動機は、第1楽章の中で徹底的に活用される。第2楽章は、ほっ とするような優しさに満ちたもの。木管群のソロ的活躍が目立ち、牧歌的。終楽章は踊りのような活気ある曲。オーケストラの響きは交響曲のようでもある。

 さてCDであるが、私はブリリアント・クラシックの廉価盤を聴いている。デレック・ハンの独奏、フリーマン指揮フィルハーモニアo。この演奏がお薦めというわけではなく(悪くはないです。全然)、安かったから買ったのである(ピアノ協奏曲全集。ブリリアント・クラシックスの99720)。

 この幸福感に満ちた19番のあと、85年の2月に完成された第20番の協奏曲は短調の悲劇的なものである。ヴォルフィ、何があったんだ?